2021年12月7日火曜日

吉村昭『海軍乙事件』

子どもの頃、夏休みになると祖父に連れられ、南房総にある父の実家で過ごしたことは何度となく書いてきた。曽祖母が亡くなったのが小学校5年生のときだったから(その頃はほとんど寝たままの状態になっていたが)、記憶には残っている。もっと小さかった頃も寝たり、起きたりの生活だったが、話も普通にできたし、何より楽しみだったのがお小遣いだった。
曽祖母は朝食を終えると僕と姉を呼んで、今日のぶんと言っては小袋のなかから10円玉を取り出しては僕らに与えてくれた。それを手にかき氷やラムネを飲んだり、両親からもらっていたお小遣いと合わせて花火を買ったりした。当時かき氷やラムネがいくらだったかまったく記憶にないが、1日10円あれば、子どもたちはしあわせに暮らせた時代だった。
当時を思い出して、今と圧倒的に異なるのは、子どもの足で行ける範囲にお店があったということだ。10年くらい前までは酒屋や魚屋はあったけれど、父の実家のまわりには今、店らしい店は皆無である。大人だって歩いて行ける店はほとんどない。集落の人びとはクルマでスーパーに買い出しに行く。たいていの家庭では大きな冷蔵庫がある。そんな地方の生活が浸透している。
太平洋戦争当時の史実を題材にした吉村昭の短編集。歴史のなかに埋もれてしまった事件に光をあてる。1941年に起きた山本五十六搭乗機撃墜事件は「海軍甲事件」(これもこの短編集に収められている)と呼ばれている。翌年起きた海軍機密文書紛失事件がそれに対して、表題作である「海軍乙事件」である。
この本は76年に刊行されている。今からくらべるとまだまだ戦後が色濃く残っていた時代だったかもしれないが、どれほどの証言者や資料が吉村昭の執筆を支えただろうか。
父の実家のある南房総の集落は乙浜(おとはま)という。そのいわれは知らない。どこかに甲浜という地名があり、それに対して乙浜なのではないか、などと勝手に思っている。

2021年12月5日日曜日

カート・ヴォネガット『ガラパゴスの箱舟』

仕事の合間に隣駅まで歩く。普通に往復すれば3キロ程度のところを少し贅沢に遠まわりし、4キロを47分。遅くもないが速くもない。
先日もヨドバシカメラまで歩いてみた。電車に乗ればふた駅である。これまでも歩いてみよう気はあったが、ルートが複雑そうに思えて歩いたことはなかった。地図アプリで確認すると案外難しそうでない。
幹線道路をしばらく歩く。途中で少し南側の通りを行く。街灯に女子大通りと記載されている。通りの北側に女子大学があった。その先、南へ向かう通りは美大通りと書かれていた。美大はずいぶん昔に郊外(小平)に移ったと思っていたが、まだこの地にも校舎があるらしい。
1980年代、カート・ヴォネガット(ジュニア)の本をよく読んだ。
以前の投稿を見ると93年に『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』を再読している。7年ぶりに読んだと書いてある。「ヴォネガットの作品でとりわけ好きなのは、『ガラパゴスの箱舟』と『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』の2冊」とも記している。
好きな作品のもう一冊を読む、35年ぶりに。
この本はヴォネガットの代表作と言われている。おもしろさもひとしおだ。20代に読んだものを60を過ぎて読み直し、さらにおもしろいと感じたのだから。
僕のなかで80年代のヴォネガットブームはこの本でひとまず落ち着いた。その後読んだのは『タイムクエイク』、2019年まで新作を読むことはなかったのだ。ヴォネガットはこの本を世に出した10年後、2007年に他界している。そんなことすら知らなかった。ベートーベンの第九交響曲は書けなかったけれど、それに勝るとも劣らない作品を書き続けてきた。
『ガラパゴス』から『タイムクエイク』までのおよそ10年間に書かれた彼の作品をこれからゆっくり読みたいと思う。それで言うのだ、長生きはするものだと。
ヨドバシカメラまでは4.34キロ。44分31秒で歩いた。

2021年11月25日木曜日

吉村昭『炎の中の休暇』

在宅勤務をはじめて1年半以上になる。
月にいちどくらい出社して打合せをしたり、精算したりなどするが、毎日通勤しないのはストレスがなくていい。その反面、天気が悪かったりすると家から一歩も外に出ない日もある。青島幸雄じゃないけれど、「これじゃ身体にいいわきゃないよ」である。犬と散歩するほか、近隣のスーパーに買い物に行くほか、できるだけ歩くようにしている。
地図上でどのルートをどのくらいの速さで歩いたかを記録してくれるアプリがある。記録を残すことでモチベーションが保たれる。何キロくらいをどれくらいの速度で歩くのがいいのかはわからないが、大学で体育を専攻し、スポーツクラブに長年勤務している先輩に聞くと、1キロ10分台で歩くのがいいという。ふつうに歩くとだいたい11分台の後半から12分台である。10分台で歩くには速く歩くことを意識しないと歩けない。それにそんなに速く歩くと周囲の景色などほとんど目に入らず、散歩したのに歩いた気がしないのである。
はじめのうちは2キロ。そのうち3キロ。少しずつ距離をのばす。5キロ歩いてみる。時間にして1時間弱。このくらい歩くと歩いたなという実感が残る。さすがにキロ10分台で歩くのはたいへんであるが。これを隔日とまではいわないまでも、週に2回くらいこなせればいいのだけれど、なかなかそうはいかない。週1回がいいところである。
さて、スマホにインストールしたアプリであるが、1.6キロごとに途中経過をアナウンスしてくれる。中途半端なところで歩行距離、所要時間などが知らされる。メートル法をスタンダードとしていない国で開発されたツールなのだろう。
この本は、戦中戦後を舞台にした短編集である。
東京大空襲のあと、女性のもとに出かけていて安否がわからない父をさがしに主人公が江戸川沿いの集落を歩いて訪ねる話がある。見渡す限りの焼け野原。主人公の歩く速さは如何ばかりかと気になった。

2021年11月22日月曜日

山本周五郎『日日平安』

父が書いた作文を読んだことがある。
子どもの頃は、夏休みになると千葉県安房郡(現南房総市)白浜町にある父の実家で過ごした。祖父が迎えに来て、姉とふたりを連れて両国駅から列車に乗っていったのである。南房総の記憶はほとんど夏休みの記憶といっていい。
8月の旧盆以外だと父はよく正月に帰省していた。まぶしい陽光にさらされることのない冬の白浜町はどこか寂し気に見えた。その年も3が日を過ごしたあと父の運転するクルマで東京に向かう予定だった。帰りがけに父は一軒寄りたいところがあると言って、いつもと違う道を走る。
中村先生の家だった。
中村先生は、父の小学校時代の担任の先生である。すでに教職を辞していたとは思うが、老け込んでいるようすはなく、ひさしぶりに対面した父に酒をすすめる。この時点でこの日じゅうに家に帰ることはないのだと悟った。中村先生と父は何杯も酒を酌み交わし、昔話に興じたり、テレビを視たりしてその夜を過ごした。ちあきなおみの「喝采」や小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」がいくどか画面から流れ、その都度、いい曲だねと中村先生は言っていた。その記憶がたしかならば、その新年は1973年ということになる。
途中席を立った先生が古びた封筒を持って居間に戻ってきた。なかから取り出したのは父の作文だった。小学校の何年生のときだったか、組替えがあった。中村先生を慕っていた父は、担任の先生が代わることがいやで、祈るような気持ちで新学期を迎えた。組替えが発表され、担任は引き続き、中村先生であると知る。そのときのよろこびが記されていた。
人生というものは他人から見ればなんていうこともない事実の積み重ねである。山本周五郎のこの短編集は小さく心を揺さぶる。もういちど読みたい一冊である。
定年退職後、洋蘭の栽培を趣味としていた中村先生の自慢の温室を翌朝、案内してもらった。真冬なのに、そのなかは夏の陽光に満ち溢れていた。

2021年11月14日日曜日

吉村昭『雪の花』

東京にはいくつか「いもあらいざか」と呼ばれる坂がある。芋洗坂とか一口坂と表記される。
「いもあらい」は、疱瘡(天然痘)にかかった患者が水で清めて神仏に祈願することだという。「いもあらいざか」付近には疱瘡神が祀られていたともされている。地名の起源などをたどる本にはだいたいそのようなことが書かれている。どうして一口坂を「いもあらいざか」と読むのか。疱瘡神が祀られていた社の地名が一口町だったなどという説もあるようだ。
疱瘡は恐ろしい伝染病だった。感染を防ぐ方法も治療方法もわからず、人びとはひたすら神仏にすがり、奇妙な伝承を信じた。疱瘡神は赤い色を苦手とするというのもそのひとつで、罹患した子どもの傍らには赤いものを置いたり、未患の子どもらには赤い下着や玩具、置物を与えたという。
天然痘は日本だけでなく、ヨーロッパでもアメリカ大陸でも大流行し、多くの生命を奪っている。それでも昔から頭のいい人がいたのだろう、天然痘に罹った患者の膿やかさぶたを未患者の体内に取り入れることで免疫をつくる予防法(種痘)が行われるようになった。紀元前1000年頃のインドでというから驚きである。種痘(人痘法)はイギリスやアメリカに伝えられたが、予防接種としてはまだリスクの高いものだった。
18世紀半ば、ジェンナーが登場する。天然痘に罹った牛(牛痘)の膿を接種することで天然痘は安全に予防できるようになった。ジェンナーの牛痘法は世界にひろまったが、日本に定着するまでは時間がかかった。ロシアに拉致された中川五郎治が松前で行った記録があるが、これは五郎治がその方法を秘匿したためひろまることはなかった。
越前福井藩の医師笠原良策らの尽力で種痘(牛痘法)はようやく一般に普及する。ジェンナーに遅れること半世紀。日本は疱瘡の脅威から逃れることができた。
いつしか「いもあらいざか」と聞いて、不思議な名前だと思うようになっていた。

2021年11月10日水曜日

吉田勝明『認知症が進まない話し方があった』

昨年から認知症当事者の方をインタビュー取材して、動画にまとめる仕事をしている。認知症と診断された方を患者とは呼ばない。当事者とか本人と呼ぶ。
認知症当事者である丹野智文は、著書のなかで症状があるけれども生き生きと暮らしている人を患者と呼ぶことで重い病気の人というイメージを与えることを懸念している。単に認知症と診断された人が当事者なのではなく、診断された本人が自分の意思で自由に行動したり、要求することが当たり前にできるのだということを社会に発信していく。そんな本人が「当事者」であると丹野はいう。
仕事で担当しているのは、企画と構成である。現場に赴いて直接問いかけることはない。それでも事前の打合せでお話をうかがうこともある。ウェブ会議で、ではあるけれど。
当事者の方に声をかけるのは緊張する。認知症に関して知識があるわけでもなく、身近な当事者を介護した経験ももちろんない。よく言われていることだが、認知症当事者とコミュニケーションするには本人目線がたいせつである。ついつい認知症でない人のスタンダードで話してはいないか、本人を混乱させるような高圧的で一方的な発話をしてはいないか。とにかく緊張する。
認知症は、認知機能が低下したり、損なわれる病である。これもよく言われることだが、認知機能が低下したからといって、脳のはたらきすべてが奪われているわけではない。相手の顔も名前もおぼえられない人でも、子どもの顔と名前すら思い出せない人でもやさしく微笑みかければ、微笑みかえしてくる。「私誰だかわかる?」などと声をかければ、試されていると感じ、不快に思う。人間はどんなに認知機能が低下しても、感情はずっとその人のままなのだ。
先日読んだ『ユマニチュード入門』に人間の尊厳を保つケア=ユマニチュードには4つの柱があり、それは「見る」「話す」「触れる」「立つ」であるという。とりわけ「話す」に特化したのが本書である。

2021年11月8日月曜日

吉村昭『蜜蜂乱舞』

はじめてこの本を読んだのは7年前。養蜂のことなど何も知らなかった。
養蜂には同じ場所でさまざまな花の蜜を採取する定置養蜂と花を探しもとめて日本全国旅を続ける移動養蜂がある。移動養蜂は莫大な労力とコストを必要とする。
特攻隊の基地があった鹿児島県鹿屋市。蜂屋の伊八郎は、毎年の菜の花の季節が終わると新たな花を求めて北へ向かう。巣箱は2台のトラックに載せ、採蜜に必要な道具のほか炊事用具、テントもライトバンに積みこむ。7ヶ月におよぶ旅のはじまりである。
蜜蜂は暑さにも寒さにも弱い。巣箱のなかに熱がこもることで死んでしまう。これは蒸殺と呼ばれ、移動中細心の注意が払われる。気温の下がった夜に移動をはじめ、風を通すために極力停車させない。そして夜明け前に蜂場に到着するよう配慮する。採蜜を続けながら、本州へ。長野、青森を経て、連絡船で北海道十勝へたどり着く。
蜜蜂たちの日々の動きを観察することも欠かせない。分蜂という新たな女王蜂の誕生があり、盗蜂といって自分の巣箱以外の蜜を盗む蜂もあらわれる。経験を積んだ鉢屋は次々に起こる事態を冷静に対処する。
花のある場所付近にスズメバチの巣がないかも確認する。見つかった場合はすみやかに処分する。秋になって食べ物を求めて羆があらわれる。蜂蜜を大好物とする羆は蜂だけでなく、人をも襲う。そのためにライトバンには猟銃も用意されている。いのちがけの仕事なのである。
吉村作品にはマグロを追いかけたり、ハブを生け捕りにする話もある。スケール感や恐怖感では蜜蜂の比ではないかもしれないが、この物語には蜜蜂を見つめるまなざしの深さと家族の秩序を常に考える愛情に満ちた伊八郎の生き方がしっかりつながっている。蒸殺で蜂を失った男、家族を捨て殺人を犯した仲間、轢き逃げで刑務所で暮らす長男の妻の兄。伊八郎一家と隣り合わせているこれらの挫折。こうした緊張感が彼ら家族の絆をいっそう深めている。

2021年11月5日金曜日

獅子文六『達磨町七番地』

かんだやぶそばに行った。たいへんひさしぶりに、である。
先月のことだが、昔お世話になった広告会社の方たちにお会いした。そのなかのひとりアートディレクターの松木さんは、8月に手術を受け、その後順調に回復された。蕎麦屋でも行きたいよねなどと話していたが、まだまだ新型コロナ感染者数は増える一方で緊急事態宣言が解除されるのを待っていたのである。
集まったのはクリエーティブディレクターでコピーライターだった内山田さんと山石橋さん。いずれも後期高齢者である。かんだやぶそばでなければいけない理由もなかった。まつやでも室町の砂場でもよかったが、僕が学生時代大晦日のみやげ売り場でアルバイトをしていたことがあり、そんな話をしていたら、かんだやぶそばいいよねってことになった。昼過ぎにお店の前で待ち合わせ。土曜日だったので少し行列ができていた。ビールとぬる燗を飲みながら、板わさ、焼きのり、合焼きなどの定番メニューをつまんで、せいろう蕎麦をたぐった。至福のひとときだった。
獅子文六がパリ遊学を終えて、帰国したのが1925年。戯曲や翻訳の仕事を続けていたが、やがて小説を執筆するようになる。36年には新聞連載された『悦ちゃん』が評判を呼ぶ。この本に収められている小説は36〜38年に新聞や雑誌に掲載された短編である。
軍部の力が増し、暗雲立ち込めている時代ではあったが、後に娯楽小説の大家となるその片鱗がすでに見えている。昭和初期、戦前の、ほんのわずかな幸せな時代が描かれている。パリ時代の経験をもとに書かれた表題作「達磨町七番地」のほか、南州、北州の友情物語「青空部隊」やデパートの店員を主人公にした「青春売場日記」など当時の社会や風俗を知る上でも楽しい作品集だ。
「青空部隊」は後に「青空の仲間」というタイトルで映画化されている。南州は三橋達也、北州は伊藤雄之助だったらしい。観てみたい映画がまた一本増えてしまった。

2021年10月29日金曜日

筧裕介『認知症世界の歩き方』

ソーシャルデザインとは、人間の持つ「創造」の力で、社会が抱える複雑な課題の解決に挑む活動である。コマーシャルではなく、ソーシャル。商売のためではなく社会のためのデザインであると先日読んだ『ソーシャルデザイン実践ガイド』に書いてあった。著者筧裕介はソーシャルデザインを、社会が抱える課題の森をつくり、整理して突破口を見つけ、解決に必要な道を拓く活動としている。そしてその旅の工程は、森を知る、声を聞く、地図を描く、立地を選ぶ、仲間をつくる、道を構想する、道をつくるという7つのステップで構成されるという。
著者が認知症と高齢社会という社会課題に対して試みたソーシャルデザインが『認知症世界の歩き方』である。
認知症にはアルツハイマー型、脳血管性、レビー小体型、前頭側頭型などさまざまな種類があり、その症状も人それぞれ。時間や場所がわからなくなる人もいる。人の顔をおぼえられない人もいる。幻視幻聴に悩まされる人もいる。この本では数多くの当事者を取材し、その声を汲み上げ、認知症本人にしかわからない世界を地図を描くことで、道をつくることで誰にでも理解しやすいようにデザインしている。
認知症になると何もわからなくなる、何もできなくなる、そして最後は寝たきりになってしまうといった誤解や偏見が蔓延している。もちろん症状によってできなくなることはあるけれど、できることをできないことにしてしまったり、役割を取り上げるなどして症状を進行させてしまう周囲にも問題がある。
認知症を正しく理解してもらうために多くの当事者が声を上げている。認知症カフェや講演会などが全国各地で行われている。地道な努力の積み重ねが成果を見せている一方で、多くの人びとにひと目でわかる認知症世界の正しい世界を示すソーシャルデザインの仕事に希望を感じている。
巻頭に認知症世界の地図が描かれている。瞬時にソーシャルデザインの素晴らしさを確信した。

2021年10月26日火曜日

秋山具義『世界はデザインでできている』

先日、世田谷文学館でイラストレーター安西水丸展を観、今月は東京オペラシティアートギャラリーで和田誠展を観た。どちらも全国を巡回する国民的展示である。安西にはイラストレーターという肩書きが付いているが和田にはない。和田誠はアートディレクターであり、装丁家、絵本作家、アニメーション作家、映画監督、作曲家とまさにマルチな分野で活躍してきた。基本はイラストレーターに違いないけれど、彼の活動の数々を規定する言葉は見出しにくかったのだろう。
一線で活躍する以前の少年時代のスケッチや絵日記なども展示されていた。安西水丸もそうだったが、絵を描くことが本当に好きだったんだなということがよくわかる。子どもの頃から似顔絵が得意だったようだ。先生や友だちの似顔絵が多く遺されている。会ったことも人たちばかりなのに、どことなく似ているなと思えてしまう。
和田誠はライトパブリシティ時代の日々を『銀座界隈ドキドキの日々』という本に綴っている。映画を愛する彼は当時新宿にあった日活名画座のポスターを描き続けた(無償で)エピソードをそのなかで紹介している。青年和田誠の仕事が大きなパネル一面に展示されている。圧巻である。
ちくまプリマー新書は若い世代を対象に普遍的でベーシックなテーマを掘り下げるシリーズである(プリマーとは初歩読本、入門書という意味だ)。初学者や若者を対象にしているとはいえ、大人が読んでもためになる本も多い(菅野仁『友だち幻想』などは思わずうなってしまうほどの一冊だった)。
不勉強な僕は秋山具義という名前を知らなかった。知らなかったけれど読んでみるとデザインというひとことで語るには難解なテーマをやさしく説き明かしている。筑摩書房はなかなかいい人選をしたのではないかと思う。
若い人に限らず、たとえば広告やデザインの仕事をはじめたばかりの人たちにも秋山具義はわかりやすく声をかけてくれるに違いない。

2021年10月24日日曜日

井伏鱒二『漂民宇三郎』

8月のお盆はコロナ感染拡大のため例年行っている墓参りをやめた。9月のお彼岸のときでもと思ったが、それも行きそびれて結局10月になってしまった。南房総に向かう高速バスはコロナのせいかずいぶん便が減っている。行きは館山まで高速バス、JR内房線に乗り換えて千倉、千倉駅前から路線バスでと考えていた。高速バスから鉄道に乗り換えるのであれば、平日のほうがいい。休日だとどうしても道が混む。時間どおりに館山に到着できない場合もある。
前日に従兄に電話してあった。千倉駅まで迎えに来てくれるという。15分ほどで千倉町の大川という集落にたどり着く。6月に他界したもうひとりの従兄に線香をあげる(当然のように葬儀には行っていない)。迎えに来てくれた従兄の家に移動して、伯父と伯母に線香をあげ、コーヒーをご馳走になる。隣集落の白間津にも従兄が暮らしている。車で送ってもらう。白間津の従兄の家でも線香をあげて、祖父母が眠る寺に向かう。朝から冷たい雨が降っている。ここまでは母方の親戚。
寺から下りてもう一軒訪ねる。ここは父方の叔母がいる。さらに隣の集落、白浜町乙浜にもうひとり叔母がいる。乙浜の叔母に電話をして迎えに来てもらう。乙浜には父の実家があり、墓もある。父と親戚の墓をまわってひと段落である。順調に墓参りを済ませられると15時過ぎの東京駅行きの高速バスに間に合うはずだったが、その便はなくなっていた。天気がよければ掃除でもして夕方の便で帰るのだが、あいにくの雨である。叔母に千倉駅まで送ってもらい、そのまま2両編成の電車に乗って帰る。途中君津で快速に乗り換え、18時過ぎに帰宅。今年もようやくひと心地着いた。
車中、『漂民宇三郎』を読む。井伏鱒二も漂流ものを書いていたと知ったのは最近のこと。そういえば『ジョン万次郎漂流記』も井伏鱒二だったっけ。吉村昭とちがって、緊迫感があまりない。それはそれで読みやすくていい。

2021年10月19日火曜日

吉村昭『北天の星』

先日、NHKの音楽番組でピアノの歴史を放映していた。
弦を爪に弾くチェンバロにくらべ、ピアノはハンマーで弦を叩くしくみを持つ。音の強弱を鍵盤のタッチで表現できるようになった。18世紀以降急速に普及する。そして最初にピアノを見た日本人は大黒屋光太夫であると伝えていた。
ときどきではあるが、吉村昭を読む。
丹念に資料にあたり、関係者の話を聴く。創作によるところもあるにはあるが、史実に忠実に描いていくその姿勢に感服する。とりわけ感心するのはテーマとなる事件が終わったあと、後日談もしっかりまとめ上げるところだ。作品をドラマティックに終えてもそれはそれでいいと思うのだが、大概の場合、吉村昭は事件後を描く。ふりかえる。
たいした予備知識もなくこの本を読みはじめた。漂流したわけではないが『アメリカ彦蔵』『大黒屋光太夫』のような話なのだろうと思っていた。それにしてもロシアというのはひどい国である。これはあきらかに拉致事件といっていい。当時、日本とロシアは摩擦状態にあったというが、おそろしい話である。
主人公五郎治は二度逃亡を試みる。樺太の500キロ北にあるオホーツクからである。はじめは陸路で、続いて船で。いずれも追手に捕らわれるのであるが、極寒の地で飢えと戦いながらの逃亡劇は『長英逃亡』とはまた違った意味でスリリングだった。
五郎治は5年後、国後島に帰ってくる。大黒屋光太夫は帰国まで10年かかったから、ロシア滞在期間は半分である。光太夫がロシアでピアノをはじめて見たように、五郎治は種痘の現場を目撃する。その方法を詳細に筆記する。参考となる文献も手に入れる。
鎖国政策の時代であるから、海外からの帰国者はきびしい尋問を受け、行動を制限される。監視もされた。それでもようやく日本の土を踏んだ五郎治。まずはめでたしめでたしだった。ところがここから後日談がはじまる。
吉村昭が伝えたかったのは帰国後の五郎治だったのだ。

2021年10月17日日曜日

吉村昭『漂流』

子どもの頃は冒険物語が好きで、ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』や子ども向きに書かれたダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をよく読んだ。漂流してたどり着いた無人島で暮らすことを想像しながら。
大人になってからは無人島にもし一冊だけ本を持っていけるとしたら何?などと友人たちと会話していた。今なら『カラマーゾフの兄弟』と答えるだろう。無人島に一杯だけラーメンを持っていけたら、なんて話もした。
冬型の気圧配置が強まる。荒れた海。航行能力を失った船。北西風に流されて漂流する男たちはアホウドリが繁殖する島に着く。湧き水もない、火もない、岩だらけの島でどうやって行く生きていくのか。島から船影をみることはない。島にやってくるのは同じような漂流者のみ。絶望感の襲われて生命を落とす者もいる。
これまで何冊か吉村昭の小説を読んできたが、人間が生きていくことに関してここまで追い込んだ作品はなかった。軍艦をつくることも、トンネルを掘ることも、まぐろを獲ることも、ハブを捕まえることも、それはそれで大変なことだけれど、何もない、誰もいない、本来ならば生きるすべのない島で生きること、生きて帰ることを吉村昭はテーマに据えた。裏を返せば、人間の無力さとその克服がテーマであると言っていい。
土佐から4人で漂着した主人公長平は仲間を失い、ひとりで生きていく。後からやってくる漂流者から火や道具がもたらされる。人が増えることは知恵も増えることにつながる。長平がつくったのは保存食と防寒具だけだった。やがて彼らは道をつくり、池をつくる。そしてついには流木を集めて船づくりに取り組む。フイゴをつくって釘を鍛造する。それはそれは気の遠くなるような話である。
この小説は、人間という本来無力な存在が生きていく、その歳月の物語といえる。
無人島に一杯だけラーメンを持っていけるのであれば、日本橋たいめいけんのラーメンにしたい。

2021年10月13日水曜日

丹野智文『認知症の私から見える社会』

ついに横綱白鵬が引退の時を迎えた。
入幕したばかりの頃の白鵬をおぼえている。無駄も無理もないしなやか取り口でいずれは名力士になるであろう予感を持った。少年時代に卵焼きと読売巨人軍と並び称される国民的横綱大鵬がいた。若かりし頃の大鵬は知らないが、おそらく大鵬は白鵬のような柔軟な相撲を取っていたのではないかと想像した。
大鵬も白鵬も若くして頂点を極めた力士である。世間の風あたりも強かっただろう。横綱の地位は相撲の強さ以上の強さが求められる。その点、朝青龍も日馬富士も土俵の外で弱かった。横綱という地位はやはりたいへんなのだ。
白鵬は相撲を格闘技ととらえていた。もちろん相撲は格闘技ではあるのだけれど、神事であり、武道である。そのことを忘れて勝ち負けにこだわった相撲人生だった。彼の残した数々の記録がかすんで見える大相撲ファンは僕ひとりではないはずだ。
丹野智文は若くしてアルツハイマー型認知症と診断された。39歳のときだった。若さゆえに当時の絶望感もひとしおだったに違いない。もちろん今だって絶望感に襲われることがあるだろう。それでも彼は多くの認知症当事者に発信を続けている。当事者が暮らしやすい社会に向けて声を発している。自らの経験から得たアイデアを広く伝えている。
忘れることに備える工夫や予定を間違えない工夫、置き忘れをなくす工夫・物をなくさない工夫など、その工夫の数々が素晴らしい。タブレットやスマートフォンを積極的に活用していることも若い当事者ならではだ(高齢者には少しハードルが高いかもしれないけれど)。そしてこの本を執筆する際にもスマートフォンのメモアプリや読み上げ機能を活用したという。
丹野智文の文章や語り口には持ち前の明るさ、素直さが感じられる。そのせいもあって彼は、彼を支援してくれる人びとに恵まれている。
これからも多くの当事者の希望の星になってもらいたいと思う。

2021年10月10日日曜日

太田省一『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』

緊急事態宣言が解除された。
新型コロナ感染症の新規陽性者が8月下旬ころから減少してきた。なぜ減少してきたのかはいまだ解明されていない(納得いく説明を聞いたことがない)。ともかく昨年の今ごろと同じくらいの数に落ち着いている。
ひさしぶりに飲食店に出かける。30年ほど前に仕事でいっしょになった仲間ふたりとである(うちひとりは海外で仕事をしており、このタイミングで3年ぶりに帰国していた)。外でお酒を飲むのはほぼ一年ぶり。店は空いていて、入口も開けっ放し。極力マスクをするように気をつけていた。こうした飲み方がこれからのスタンダードなのかもしれない。お店の人は何時まででもいいと言ってくれたが、世の中全般ラストオーダー20時、閉店21時となっているので、はやめに解散した。
1980年代初めに漫才ブームが起きる。多くのお笑い芸人がテレビを席巻する。なかでもフジテレビ系の「オレたちひょうきん族」は毎週高視聴率をマークした。その後一時のブームは去ったものの、お笑い界は次から次へと新たな芸人を生んでいる。ここ数年も漫才やコントのコンテスト形式の番組をはじめ、お笑いはテレビの主要コンテンツになっている。
著者はテレビ文化論を専門とする社会学者で、お笑いの変遷を丁寧に調査分析している。説得力がある。現在の芸人たちを「お笑い第7世代」ととらえ、社会の変化とともにお笑いの質がどう変化してきたか語る。「第7世代」の前、80~90年代にかけて活躍した「第3世代」を生む土壌となったのが漫才ブームであり、タモリ、たけし、さんまのビッグ3である。
明石家さんまは毎日放送「ヤングおー!おー!」の頃の記憶はあるが、あまり頻繁に視ていなかった。関西の芸人ということで少し距離があったのかもしれない。タモリとビートたけしは主にラジオの深夜放送で熱心に聴いていた。なつかしい。
外飲みから帰宅して一時間くらいして大きな地震があった。

2021年10月4日月曜日

浅田次郎『長く高い壁 The Great Wall』

大学に進んで、第二外国語としてドイツ語を選択した。1年次に履修する初級(ドイツ語Ⅰ)はなんとかクリアしたものの、中級(ドイツ語Ⅱ)の単位を取得できないまま4年生になっていた。もうこれはなんとしてでも取らなくちゃならないならない。
当時の記憶はほとんどない。とりあえず飛び込んだ教室で履修カードを出した。幸運なことにカフカの短編を読む講義だった。毎週日本語訳をノートに書いて授業にのぞむには難解で手間ではあったが、カフカを読むというのはひとり旅した未知の街で知人に偶然会ったような気持だった。とはいえ文庫本で『変身』『審判』『城』を読んだ程度の付き合いでしかなかったが。
大学生としてのラストシーズンで(追いつめられながら)読んだのは“Beim Bau der Chinesischen Mauer”、直訳すると「万里の長城が築かれたとき」といった感じか。1981年、新潮社から決定版カフカ全集が刊行された年である(知っていれば手に入れていたのだがなあ)。独和辞典と格闘しながら、なんとか読み終えた。学年末の最後のテストもクリアできた。今この歳になってみれば、笑って話せる思い出のひとつだ。
浅田次郎のこの小説は、万里の長城が舞台になっている。
従軍記者として中国戦線に派遣された探偵小説家小柳逸馬が謎の事件の解明のため、現地に派遣される。戦記のようでもあり、推理小説のようでもある。事件に関与したと思われる人物一人ひとりの尋問が積み重ねられ、軍部の不合理もあぶり出され、この戦争の意味も問われる。が、それにもまして印象に残るのは兵士たちがうまそうに食べる中国料理だ。貧しいと思っていた中国の食卓は豊かなものだったと浅田次郎は登場人物の川津中尉に語らせている。
それはともかくとして、万里の長城という謎に包まれた舞台で謎に包まれた事件が起こる。謎に満ちた小説だった。万里の長城の謎を僕はカフカの短編に教えてもらった。

2021年10月2日土曜日

恩蔵茂『「FMステーション」とエアチェックの80年代』

大学生になってアルバイトをはじめて、最初に買ったのはカセットデッキだった。大学の生協で値引きされていた。
当時ウォークマンは発売されていなかったけれど、音楽を楽しむ主要メディアはカセットテープだった。うちにあるのはカセットデッキのみ。友人にレコードからカセットにコピーしてもらい、ヘッドホンで聴いていた。そのうちステレオを買い替えるという友人があらわれ、アンプとチューナーが要らなくなったという。あわせて5,000円で譲るという。10代でステレオを買い替えるというのはどんなお育ちだったのか知らないが、その週にアンプ、その次の週にチューナーを大学で受けとった。秋葉原に行って、小ぶりなスピーカーの箱(エンクロージャと呼ぶにはあまりに安価だった)と直径16センチのフルレンジスピーカーをふたつ買って、アンプにつないだ。ウォークマンが世に出る一年前、なんとか世間の若者並みに音楽を楽しめる環境ができた。もちろんラジカセが一台あれば済んだのだろうが。
レコードプレイヤーがなかったので録音する音楽はもっぱらFM放送だった。テレビやラジオの放送を録音することをエアチェックと呼んでいた。この本のタイトルを見たとき、上記のような昔日の思いがよみがえった。
FM情報誌という雑誌があった。
著者はそのなかの「FMステーション」という隔週刊誌の編集にたずさわっていたという。FM局がまだまだ少なかった時代とはいえ、時間に追われるたいへんな仕事だっただろうと想像する。ましてや先行する三誌「FMファン」「週刊FM」「FMレコパル」に大きく後れをとった新規参入。雑誌そのもののアイデンティティを見いだせないままの行き当たりばったり。70年代後半から80年代にかけて、時代はそんな自由さを許してくれていたのかもしれない。
当時、僕が愛読していたのは「FMレコパル」だった。
著者にはちょっと申し訳ない思いで読み終えた。

2021年9月24日金曜日

岩嵜博諭、佐々木康裕『パーパス 「意義化」する経済とその先』

5月だったか6月だったか、とある企業のパーパスを認知させるための動画を企画した。
パーパスとは存在理由、存在意義のこと。企業が何をしているか、どうしているかではなく、なぜ企業として存在しているかを問うたメッセージである。ミッション(使命)やビジョン(めざす未来の姿)とは少し違う。これまで多くの企業が最上位概念としてビジョンを策定し、そのためのミッションを宣言し、経営計画、事業戦略を練ってきた。パーパスはさらにその上、ピラミッドの頂点に位置する。
そもそも何のためにビジネスを行うのかという視点が生まれた背景には消費者がモノを買うだけの消費者から社会をよりよくするために消費する市民に変化したことがあげられる。こうした変化を支えているのがミレニアル世代(1980~95年生まれ)、Z世代(1996~2015年生まれ)と呼ばれる若い世代である。彼らにとって企業の存在意義は株主価値最大化ではなく、社会をよりよい方向に進化させることであるという。地球環境、消費者の価値観、企業間の競争環境の変化のなかでパーパスは重視されてきている。
社会をよりよくしようという取り組みはすでに進められている。持続可能な資材を使った製品開発、使い捨てをやめて修理再生可能な製品やサービスの確立など、この本には多くの事例が紹介されている(ファッション関連が多い)。またパーパスを起点にして社会的な責任を果たす企業が従来の行政に代わって公的活動を提供することも予見されている。なかなかスケールの大きい話であるが、実現すれば世界は大きく変わっていくような気がする。
さて、パーパス動画の企画であるが、手さぐり状態であれこれ模索し、立案し提案した。残念ながら競合プレゼンテーションに敗れ、不採用だった。もう少し事前にパーパスのことを学んでおけばよかった。あまりにも不勉強であったことは否めない。
終わってみてわかることがよくある。

2021年9月19日日曜日

丹野智文『丹野智文笑顔で生きるー認知症とともにー』

2020年1月。厚生労働省の認知症普及啓発の取り組みとして、認知症になっても希望を持ち、前を向いて暮らしている姿を全国に発信する認知症当事者「希望大使」の任命がはじまった。選ばれた5人のなかでいちばん若い丹野智文は当時46歳。認知症と診断されたのは39歳のときだった。
昨年来、認知症普及啓発の動画制作を手伝っている。その準備のリモート打合せで著者とは何度か同席している(直接会ったことはない)。この人のどこが認知症なのだろう(そういう見方もやはり認知症に対する正しい理解ではないかもしれないが)と思えるくらい、前向きで明るい人である。時間や空間の見当識障害はさほどなく、人の顔と名前がおぼえられないらしい。認知症と診断されたあと、学生時代の部活の仲間で集まったという。帰り際にこんど会ったときには顔を忘れてるけどごめんねと声をかけた。すると仲間たちから君はおぼえてなくても僕たちはおぼえているからだいじょうぶ、と言われたという。
認知症と診断されたときに職場の社長や上司が理解を示してくれた。営業職は難しいから内勤で仕事を用意してくれたという。営業マンとしての丹野は自分も好きなクルマをどう売ろうかと創意工夫を重ねた。それは彼の生きがいでもあった。若年性アルツハイマーの方で仕事を失った人も多いと聞く。そういった点でも丹野智文はいい職場環境と人間関係を持っていた。もちろんそれは彼の持ち前の明るさ、人なつっこさによるかもしれない。それはこの本を読むとよくわかる。
しかしながら生来前向きの著者も苦しいこと辛いことは山ほどあった。それもこの本読んではじめて知った。そして苦しく辛い日々を乗り越えて、いまの丹野智文がいる。彼に励まされ、力を与えられた認知症当事者は数えきれない。まさに「希望大使」を地で行く存在である。
毎年9月は世界アルツハイマー月間。そして21日は世界アルツハイマーデーである。

2021年9月17日金曜日

藤田和子『認知症になってもだいじょうぶ!そんな社会を創っていこうよ』

5月だった、吉岡以介に戸越銀座で会ったのは。
昨年大井町での邂逅もそうだったが、先月五反田で声をかけられたのはびっくりした。おにやんまでうどんを食べ、店を出たところでばったり出くわした。母親が戸越の特別養護老人ホームに入所していることは聞いていた。
母親が熱を出し、大井町の病院に入院していたという。肺炎らしい。2週間ほどで症状は落ち着いて、退院した。病院から施設に送り届けた帰りにうどんを食べたくなったそうだ。
以介がいう。脳疾患で入院して半身が不自由になり、認知機能も低下してきた。人との、社会との接点を失った。俺はその、いちばんだいじなところに気がつかなかった。リハビリすれば少しは回復して、元どおりとはいわないまでも生きるすべが見つかると思っていた。そうじゃないんだ、おふくろにいちばん必要だったのは「役割」だったんだ。こんな姿の自分を人さまには見せたくないと彼女は思うだろう、だから誰にも面会させなかった。そうじゃなかったと今思う。
以介はおにやんまの前で、さほど親しくもない僕の前で泣いた。
若年性アルツハイマー型認知症と診断された著者はもともと前向きな人だったのだろう、PTAの役員として人権教育推進にたずさわってもいた。こうした背景があって、認知症当事者(認知症本人を患者とは呼ばない)として、多くの当事者に声をかけ、仲間を集め、組織をつくり、その声を社会のすみずみに届けようとしている。認知症に対する偏見や誤解をなくし、当事者がよりよい人生を自分らしく生きられるようにと。
巻末第6章にはパートナーたちの言葉が寄せられている。医師、看護や介護、当事者としての活動をサポートする人、そして家族。当事者と彼ら、彼女らは支援される支援する関係ではなく、対等な関係で認知症本人もそうでない人も住みよい社会をつくっていくために活動するパートナーなのだというのが著者の考え方だ。
素敵なことではないか。

2021年9月15日水曜日

浅田次郎『終わらざる夏』

北海道には何度か足を運んでいるが、それより北には行ったことがない。もちろんその先に国境があるためだが、聞けば稚内から樺太(サハリン)の大泊(コルサコフ)へは定期便のフェリーがあるという。千島列島への便はない。ロシア統治下にある樺太と千島列島ははなれているが、同じサハリン州に属している。
以前、仕事で北方領土について調べたことがある。両国の主張、交渉の経緯など知れば知るほど謎だらけだ。ロシアにはロシアの言いぶんがあるのだろうが、主に日本人が暮らしていた島々を武力をもって制圧した彼らは胸を張ってその地を祖国領土と思えるのか。謎である。千島(クリル)列島はカムチャツカ半島の延長上の島々だからロシア領、色丹島、歯舞群島は北海道の延長にあるから、日本領という解釈もあるらしい。だったらとっとと返還すればいい。
毎年8月には戦争関係の本を読もうと思っている。今年はどうしたわけか認知症の本ばかり読んでいた。月末になってようやくこの本を読みはじめた。
千島列島最北の島で終戦直後に戦闘があったことをまったく知らなかった。
アラスカとカムチャツカの中ほどにあるアッツ島を制圧した連合国軍が千島列島を経由して北海道、本州と攻め入ってくるのではないかと推察した日本軍は北方に強力な戦車隊を配備した。ところがこの優秀な部隊はいちども戦闘を交えることなく、終戦を迎えた…。というのが、おおまかなあらすじ。描かれているのは終戦前後のわずかな日々。終戦工作のために応召された3人をはじめとして主役が入れ替わるように物語は少しずつ展開する。
僕は常々、浅田次郎を大人のおとぎ話作家だと思っていたが、この本の中でもファンタジーがある。戦争を題材にした小説には不似合いなのではないかとも思えるが、これも浅田次郎らしさか。
占守島には赤く錆びた帝国陸軍の戦車が遺されているという。なぜソ連は日ソ中立条約を破棄したのか。それもまた謎である。

2021年9月9日木曜日

岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説――「俺たちシリーズ」などとTVドラマの黄金時代』

青春ドラマはよく視ていた。
主に日曜夜8時から放映されていたと思うが、ほとんど平日午後4時から再放送で視たと記憶している。平日のそんな時間にテレビを視ていたということは、おそらく高校受験か大学受験の頃に集中的に視ていたのではないか。
初期、夏木陽介の「青春とはなんだ」、竜雷太の「これが青春だ」あたりは小学低学年の頃のドラマだから、記憶に残っているのは中高生になった頃に視たせいだと思う。中学生の頃は村野武範の「飛び出せ!青春」、中村雅俊の「われら青春」、高校生になって「俺たちの旅」を視た。ずいぶん前に村野武範とコマーシャルの撮影をしたことがある。ディレクターのプロフィールを送れというので、(「飛び出せ!青春」の主題歌「太陽がくれた季節」を歌った)青い三角定規の西口久美子は中学の先輩、名古屋章(ドラマに出てくるラーメン店の店主)は高校の先輩にあたります、と、どうでもいいことを書いたおぼえがある。
視聴経験があるくらいの記憶はあるけれど、ひとつひとつの内容まではおぼえていない。数年前だったか、「俺たちの旅」がBSで再放送されていた。不思議なことに、視ればだいたいのストーリーを思い出す。
テレビコマーシャルなどの映像制作に長年携わっているが、ドラマや映画をつくったことはない。いわゆるスポンサー(広告主)にお金を出してもらって、一定以上の効果(CMなら売上げやイメージの向上、ドラマなら視聴率)が求められるというおおまかなしくみは同じだけれど、実際につくってみるとスピード感や精密度など相違点は多いのではないかと考える。撮影の規模も違う。出演者も多く、地方ロケなどその統率がたいへんだろう。
著者は主に日本テレビでドラマを担当していたプロデューサーである。現場のスタッフと異なった視点でドラマ制作を見ていたらしいことは読んでいてよくわかる。
同じような仕事でもいろんな見方があるということだ。

2021年9月1日水曜日

長谷川和夫『よくわかる認知症の教科書』

人の名前が思い出せない。
こうしたことが最近頻繁に起こる。認知症かと疑うが、以前読んだ本に「思い出せない」のはただの老化であり、認知症というのは「おぼえられない」のだと書いてあった。その本の題名は思い出せない。
テレビドラマを視ていて俳優の名前が出てこないことがある。誰それと結婚した某だなど、少しでもヒントがあれば今は便利な世の中で検索すれば出てくる。だがしかし、検索に頼ってばかりいるとそのうち何もかもが思い出せなくなりそうで少し怖くなる。
先日も今読んでいる本の著者の名前が思い出せなくなった。苗字はわかる。浅田である。下の名前が思い出せない。作品は思い出せる『鉄道員(ぽっぽや)』『地下鉄(メトロ)に乗って』の著者である。とっさに浮かぶのは彰(あきら)である。どうしたわけか昔読んで難解さしか残らなかった『構造と力』の著者が思い浮かぶ。
アキラではないが、三文字名前であることには妙に確信が持てる。特にすることもなかったのでアイウエオ順に思いつくだけの三文字名前を思い浮かべることにした。アサト、アツオ、アツシ…、イ…、ウ(これは思い浮かばない)…、エイジ、エイタ…。そうこうするうちにサ行。サトシ、サトル、サキト…、シゲル、シゲオ、シゲキ…。ここでようやく思い出す。そうだジロウだと。番号カギをいじって自転車を盗むような作業だったが、ものの15分で思い出すことができた。
先日読んだ長谷川和夫の本。だいたいこの一冊で認知症に関する基礎知識は得られる。認知症とは何か、から診断のプロセス、薬物療法、非薬物療法といった治療方法(薬の種類やさまざまなリハビリテーションまで)、予防やケアの方法に至るまで懇切丁寧に解説されている。認知症は現時点で根治不可能な病ではあるけれど、つまり全貌は詳らかにされてはいないけれど、今わかっていることがわかりやすく解き明かされている。
まさによくわかる教科書である。

2021年8月27日金曜日

長谷川和夫『ボクはやっと認知症のことがわかった』

認知症の本ばかり読んでいる。
長谷川和夫という名前を知る。この本の著者である。認知症世界のレジェンドである。
杉並の高井戸に浴風会という戦前からある高齢者養護の施設がある。その敷地内に認知症介護研究・研修東京センターがあり、認知症介護の研究と介護の専門家の育成を行っている。長谷川は2005〜09年までセンター長だった(05年当時は高齢者痴呆介護研究・研修センターと呼ばれていた)。現在は名誉センター長であり、長谷川式認知症スケールと呼ばれる簡易的な知能検査を考案者としても知られている。
長年認知症の研究と臨床にたずさわってきた長谷川が認知症と診断される。この本は認知症当事者になった認知症研究者の貴重な記録だ。
多くの認知症当事者と向き合ってきた長谷川は自らが当事者になったことを悲観することなく、むしろ前向きに受け容れる。身をもって認知症を理解することができるというのである。専門家であり、当事者でもある。その強みを活かして、認知症理解の普及啓発に取り組む。
昨年とある認知症当事者の話を聞いたことを思い出した。鳥取に住むその女性は、看護師として医療現場で認知症当事者と多く接してきたという。診断された直後はこれからのことを考えて不安になったり、落胆したそうだが、そのうちに看護師の経験を活かせるかもしれないと思うようになり、認知症カフェなどで積極的に認知症本人の方々とコミュニケーションするようになったという。認知症になっても自分らしく、いきいきと過ごせるのだということを「楽しく認知症」というキーワードを駆使して伝えている。
地方都市に暮らす認知症世界の小さなレジェンドである。
長谷川和夫の息子で同じく精神科医の長谷川洋は新聞社の取材に認知症研究の現場から徐々に離れていった父は、自分が認知症になったことで認知症の研究に新たな視点を持つことができたと答えている。
レジェンドのレジェンドたる所以である。

2021年8月23日月曜日

瀧靖之『脳はあきらめない! 生涯健康脳で生きる 48の習慣』

近ごろの若いもんは、と長年言われ続けているうちにいつしか言う立場になっていた、ということがしばしばある。
映像制作会社の社長である知人が言う。最近の20~30代の社員は広告クリエイティブのことをあまりに知らなさすぎると。レジェンドと呼ばれるコピーライターやアートディレクター、名作とされる広告コピーやテレビコマーシャルに関する知識が皆無であると嘆く。仲畑貴志の話をするのに仲畑貴志とは何者であるかから説明しなければならないという。なかにはそんな知識必要ですかと逆ギレされることもあったらしい。これは映画製作が仕事であるのに、過去の名画や著名な監督をまったく知らないに等しいことで憂えるべき事態ではある。もちろん僕らの世代もその時代なりに不勉強であったことは否めないけれど。
そこで社長は月に何度か社員が集まる全社的な会議で最近の話題作(今広告関係の出版社などが話題のCMを雑誌やウェブで紹介している)を見せて、その制作にまつわるエピソードなどを紹介する勉強会をはじめた。
「演出は○○さん、皆さん知ってますか」
「………」
「この人は他にも□□や△△の仕事もしている有名な方です。おぼえておいてください」
みたいなやりとりをしているようだ。
知識はいずれ役に立つ、という考え方に僕らはずいぶん騙されてきた。そもそもが役に立つ知識なんてそう簡単にはおぼえられない、身につかない。20歳を過ぎた大人は役に立つ知識なんて信じていない。仲畑貴志の名前と仕事を知ったところで彼らの脳内にどれほどのドーパミンが放出されるだろう。若者たちにたいせつなことを知識として吸収してほしいと願う社長の気持ちもわからないではないが、肝心なのはどうやって彼らに好奇心を持たせるかではないか。
知的好奇心のレベルを上げていくことが脳への栄養素となり、ドーパミンが分泌されることによって、記憶力がアップする。そのようなことがこの本に書かれていた。

2021年8月21日土曜日

本田美和子、ロゼット・マレスコッティ、イヴ・ジネスト『ユマニチュード入門』

ラピュタ阿佐ヶ谷で長門裕之の特集が組まれている(長門裕之--Natural Born 銀幕俳優)。
長門裕之と聞くと僕たちの世代では、おしどり夫婦の気のいいおじさん的な印象が強いが、父沢村国太郎、祖父牧野省三、叔父加東大介、叔母沢村貞子、そして弟津川雅彦と演劇・映画一族の血を受け継いでいる。加東大介、沢村貞子が出演している映画は何本か観ているけれど、長門裕之の映画はあまり観ていない。「太陽の季節」「赤ちょうちん」くらいか。そんなわけでラピュタ阿佐ヶ谷まで出かけて、今村昌平監督「豚と軍艦」を観る。
終戦後、朝鮮戦争の時代の横須賀が舞台になっている。空気感としては澁谷實「やっさもっさ」の横須賀版といったところか。おもしろい映画だった。
先日読んだ上田諭『認知症そのままでいい』で「ユマニチュード」というフランスで開発された介護手法があることを知った。以前NHKテレビ「クローズアップ現代」で紹介されて話題になったという。この手法は各地で成果を上げており、「魔法のケア」などとも呼ばれている。
というわけでこの番組放映後に発刊されたこの本を読んでみた。
ユマニチュードという技法は、「人とは何か」「ケアする人とは何か」を問う哲学と、それにもとづく150以上の実践技術から成り立っている。これをつくり出したふたり、イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティはもともと体育学の教師だったという。その後、医療と介護の現場にたずさわるようになる。病院や施設で寝たきりの人や障害のある人でも「人間は死ぬまで立って生きることができる」としてケアの改革に取り組んだ。
難解な本ではない。「見る技術」「触れる技術」「話す技術」「立たせる技術」など基本的なことが書かれている。むしろ拍子抜けするくらい常識的なことだ。
平易にやさしく介護者の背中を押してあげていることが、この技術のいちばんすぐれた点なのだと思う。

2021年8月18日水曜日

上田諭『認知症そのままでいい』

銀座の小さな広告会社に勤めていた当時の上司から手紙をもらった。正直言って突然の手紙におどろいた。何かあったのかとも思うが筆跡は本人のものである(彼とは賀状のやりとりを続けている)。
小さな広告会社といっても親会社は最大手で彼はそこから出向してきた。文面には貴君の仕事にとって貴重な資料を20数年にわたって預かったままになっている、返却したいが、手紙の表書きの住所でいいか、確認のために同封のはがきを返送してほしい、その際近況など記されたくと書かれていた。そのまま黙って送り返してくれればいいものをまわりくどい手続きを踏むのは往年の彼らしい。
昨年認知症啓発の仕事にたずさわったことは以前書いた。そのとき感じたのは制作の過程で多くの協力者と打合せを重ねるのだが、自分があまり認知症のことを理解できていないということである。そういうわけで題名に認知症と書かれている本を時間のあるとき目を通すようになった。
この本は認知症を特別視しないという一貫した考え方に基づいて書かれている。加齢とともにリスクが高まり、根治する手立ては今のところない。予防もできない。早期発見できたところで投薬治療によって進行を遅らせるだけである。もちろん薬物を投与するということは副反応のリスクも負う。
認知症の主症状は認知機能が低下することである。よく認知症になると元気がなくなるとか、暴力をふるうとか、何かを盗まれた、ここは私の家じゃないなどといった被害妄想におそわれるというけれども、これらは認知症の中核症状ではなく、周辺症状=BPSD(行動・心理症状)であるという。これらは案外本人の話に耳を傾けなかったり、本人を人として尊重しなかったりすることで見られる症状である。認知症と認知症本人に対する正しい理解と接し方がいかに重要かがわかる。
数日後元上司からテレビCMを多くつくっていた当時の僕の作品集が送られてきた。VHSのテープで。

2021年8月17日火曜日

永田久美子監修『認知症の人たちの小さくて大きなひと言 〜私の声が見えますか?〜』

毎年8月のお盆時期は南房総の父の実家に出向いていた。掃除をして、迎え火を焚いて、墓参りに行く。隣の集落に住む従兄弟の家を訪ね、線香を上げる。15日に送り火を焚いて、最後の墓参りに行く。
これがそれまでの「日常」だった。
新型コロナウイルス感染拡大にともない、昨年の夏はお盆の中日に日帰りにした。早朝の高速バスで隣集落で下りて、従兄弟の家を先にまわる。母方の墓を訪ね、午後、父の実家に着く。自分の家を皮切りに親戚の墓所をまわる。夕方の高速バスで帰京する。あわただしい一日だった。
感染拡大は止まらない。7月から8月にかけて千葉県でも陽性者が増えている。地元紙のホームページを見ると館山市や南房総市も多くいる。地元に住む叔母と従妹に相談する。おそらくひとりで来て、誰にも会わずに墓参りして帰るだけなら行けないこともなかったかもしれない。それでもお盆時期に混雑する駅や渋滞する高速バスはリスクが高い。
昨年認知症の普及啓発動画を制作した。全国から取材できそうな人を選んで(これには認知症の人と家族の会日本認知症本人ワーキンググループのスタッフ方々の協力をいただいた)、インタビューする。認知症だから何もわからないなんてことはない。デイサービスに通いながら、リーダーシップを発揮する元企業の総務部長がいた。認知症の看護を担当して元看護師は認知症と診断された自分の経験を率先して話してくれる。認知症当事者の声は貴重だ。
この本にはそうした当事者や家族、医療や介護にあたる支援者のさりげないひとことが集められている。誰が書いたというわけでもない。認知症介護研究・研修センターの永田久美子が監修している。あとがきに当事者ひとりひとりが放つ希望のキラーパスを、心を開いて、耳を澄ませて受けとめなければいけないというようなことを書いている。深く心にしみる。
お彼岸には墓参りに行きたいと思っている。日常は戻ってくるのだろうか。

2021年7月27日火曜日

斎藤三希子『パーパス・ブランディング 「何をやるか?」ではなく「なぜやるか?」から考える』

オリンピックの卓球で金メダルの可能性があるとすれば、混合ダブルスではないかと思っていた。
可能性があるといっても中国ペアの壁は厚くて高い。決勝はこてんぱんにやられるのではないか、0-4でしかもトータルで20得点も取れないのではないか、30分で試合が終わるのではないか、そんな思いで視ていた。
第一ゲーム、第二ゲーム。伊藤美誠が完璧に分析されている。中国選手になんどか勝ったことのある選手は徹底的にマークされる。似たタイプの選手をさがしてきて、いいところわるいところを洗い出し、弱いところを攻める。水谷が序盤つなぐことに徹していたこともあり、とりわけ伊藤を完璧に理解しているリウシーウェンが水谷から返される簡単なボールをとらえ、伊藤の弱点を徹底的に狙いうちした。
第三ゲームから流れが変わる。水谷が修正する。ナックルドライブ(水谷は回転をかけるフォームで回転をかけないボールを得意としている)で中国ペアをゆさぶる。フォアハンドにこだわり、台からはなれて強打をくりだすシュシンの裏をかく。強豪中国に一矢報いる方法論が見つかる。気持ちが前を向く。
これで常勝中国が浮足立てば、ミスも出てくる。案の定、スピード・パワー・回転に勝るシュシンもリウシーウェンも本来の卓球ができなくなっていく。
電通の佐々木康晴がここ数年、表現アイデアやクラフトではなくパーパスの戦いになっていると先月のカンヌライオンズ*のアワードの結果を受けて語っているように、広告クリエイティブの世界はパーパス=企業の存在理由の時代になりつつある。なにをやるか、どうやるかではなく、なぜやるのか?本音と建前が共存する日本でどこまで浸透するかわからないが、とても腑に落ちる考え方だと思う。
それはともかく、2006年の全日本優勝以来10年以上にわたって日本の卓球を支えてきた水谷隼に金メダル。卓球の神様もまだまだ捨てたものじゃないと思った。

*カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル
One Show、Clio Awardsとならぶ世界三大広告賞のひとつ。毎年6月フランスのカンヌで開催される。

2021年7月26日月曜日

筧裕介『ソーシャルデザイン実践ガイド 地域の課題を解決する7つのステップ』

人なみに東京オリンピックの開会式を視た。
開会式といえば、選手入場、開会宣言、最終聖火リレーから点火。これだけあればいい。ずいぶん前からオリンピックの開会式、閉会式は余興に熱心である。企画する人、パフォーマンスを見せる人はたいへんだろうが、視ていてそれほど感情移入できない。
聖火の最終リレーで長嶋茂雄が王貞治、松井秀喜とともに登場した。松井が長嶋をしっかり支えていた。長嶋のまなざしに、彼のスポーツに対する、とりわけオリンピックに対するひたむきな思いが映っていた。今回の開会式でいちばん印象深いシーンだった。
ここから先は勝手な想像である。
その日、長嶋茂雄は長男一茂の運転するクルマで国立競技場入りした。車いすに移乗させ、控室まで連れて行ったのは一茂。先に競技場に入った王と松井が待っていた。
一茂は松井の前で父を抱き起こして直立させる。腰に手をあてがい、歩行の際の注意点を教える。こんどは松井が長嶋を抱え立たせる。一歩二歩と松井に支えられた長嶋は歩いてみせる。
以前『ケアするまちのデザイン』というソーシャルデザインの本を読んだ。
この本はその続編というわけではないけれど、世の中にある社会的課題の解決に人びとを導いてくれる。本の帯にコミュニティデザイナー山崎亮の「こんなにわかりやすい本が出るなんて、これからソーシャルデザインに取り組む人は幸せだなあ。」という推薦文が載せられている。この本を手にとったきっかけでもある。
常日頃ソーシャルデザインの仕事にたずさわっているわけではないが、それに近いことを手伝っている。自分がやっていることが森の中に道をつくる一助になってくれているとうれしい。
聖火リレーは無事終わる。一茂は王と松井に謝意を示し、ふたたび車いすに移乗させる。そしてそのまま報道関係者の目にふれられることなく、国立競技場を後にした。
そんな舞台裏があったのではないかと勝手に思っている。

2021年7月19日月曜日

佐野洋子『そうはいかない』

大相撲名古屋場所。
成績如何では引退を余儀なくされる崖っぷち横綱白鵬、そして3連覇と横綱昇進をかける大関照ノ富士が全勝で千秋楽を迎えた。歴史をひもとくと千秋楽の全勝対決は過去に5回しかないという。直近では2012年の同じく名古屋場所の横綱白鵬と大関日馬富士。このときは日馬富士が勝って全勝優勝した。
14日間の土俵で安定した強さを見せていた照ノ富士が白鵬を圧倒するのではないか、そう思ったのは僕だけではないだろう。今場所の白鵬は横綱という看板だけで相撲をとっていた。威圧的、威嚇的な相撲で内容的には今ひとつだった。結果的には白鵬が勝ち名乗りを受け、全勝優勝を果たしたわけだが、千秋楽の相撲はことさら杜撰だったと言わざるを得ない。肘打ち、張り手、関節技のような強引な小手投げ。勝負にだけこだわった品格のない相撲内容。しかも雄叫びとガッツポーズのはしたないおまけ付き。場所後横綱に昇進するであろう照ノ富士に、横綱という地位は勝つためなら手段を選ばないのだというメッセージだったのか、こんな品位に欠ける相撲をとってはいけないのだというメッセージだったのか。
いずれにしても白鵬の心技体が劣化していることが証明された名古屋場所だった。45回目の優勝。おそらくこれが白鵬最後の優勝になるのではあるまいか。
佐野洋子はこれで何冊目になるだろう。
この本はエッセーのようなフィクションのような不思議な空気をまとっている。おもしろいかおもしろくないかと訊かれれば、間違いなくおもしろい。どこがおもしろいかというのは難しいのだが、吸った息をそのまま吐きだすように綴られた一つひとつの文章がおもしろいのだ。著者の思っていることが嘘いつわりなく書かれているように思えて、読んでいてなぜかうれしくなったりするのである。自然体であるとか力みがないとか、そういう文章技術以前に人間まる出しな感じがなんともいえずいいと思う。

2021年7月18日日曜日

原研哉『デザインのデザイン』

長いこと広告制作の仕事にたずさわっていながら、グラフィックデザインに関しては不勉強なままである。
広告コミュニケーションは人を動かすことがたいせつでその際いちばん重要なのはメッセージなのだとずっと考えてきた。デザインはそのなかの一パート=ビジュアルに過ぎない。そんな誤った歴史認識を持ち続けていた。誤った歴史認識というのは大げさな言い方ではあるが、そもそも広告の原点はデザイン=ノンバーバルなコミュニケーションだった。どのようにして伝わる広告をつくるかといった視点で広告をつくっていたのはグラフィックデザイナーであり、アートディレクターだった。アートディレクターという概念を日本に導入したのは新井静一郎と言われているが、くわしいことは忘れた。たしかに古い広告を見ると制作者は杉浦非水、山名文夫などグラフィックデザイナーである。
コピーライターが存在感を増してくるのは昭和でいえば30年なかばか。花王の上野壮夫、森永製菓の村瀬尚、資生堂の土屋耕一、電通の近藤朔らが東京コピーライターズクラブの前身であるコピー十日会を発足させたあたりである。この頃から広告制作の作家としてのコピーライターが意識されはじめた。
グラフィックデザインの世界では戦後間もない昭和26(1951)年に日本宣伝美術会(日宣美)が設立される。日宣美の作品公募は若いデザイナーたちの登竜門としてすぐれた人材発掘の場となった(残念ながら、20年にも満たないうちに公募は中止され、日宣美も解散してしまったが)。
著者原研哉は1958年生まれ。日宣美の時代のデザイナーではないが、若い頃から多くの巨匠と呼ばれるグラフィックデザイナーたちと同時代を生きてきたことが文章から感じられる。日本のグラフィックデザインの流れのなかにあって、きちんと歴史を見つめてきたグラフィックデザイナーのひとりであることがうかがえる。たいへん勉強になった。

2021年7月6日火曜日

ねじめ正一『落合博満論』

左足を三塁方向に踏み出して、身体は投手とやや正対するような構えで投球を待ち、やわらかく、それでいて鋭くバットを振り抜く。その打ち方は評論家がしばしば言う「身体が開く」打ち方であまり効率的な打法ではない。それでも落合が右に左にセンターにヒットやホームランを量産できたのは右足に体重を残して、スイングの軸にしていたからではないか。身体を開くことで内角も外角もふところを深くして待つことができる。基本はセンター方向に打ち返す。結果、内角に来たボールはレフト方向に、外角のボールはライト方向に素直に打ち返される。
落合博満のバッティングを僕はこのように見ていた。もちろん僕は本格的に野球をやったことはない。あくまでひとりの野球ファンとしての見解である。
小学校の頃、クラスの男子の大半は巨人ファン。なかでも圧倒的な人気を誇ったのが長嶋茂雄である。三塁手で四番打者で背番号3を希望する者が多かった。長嶋のバッティングフォームや守備をまねる者も多かった。1960年代の終わり頃から70年代にかけて、長嶋茂雄は打点王を続け、存在感はあったものの、打率、本塁打では翳りが見えはじめていた。それでも71年に最後の首位打者になったときは、やっぱり長嶋だと熱狂したのをおぼえている。
落合博満も長嶋ファンだったという。60年代の長嶋全盛期を目にしてきたに違いない。華やかな球歴を持ち、常勝チームの一員としてスター街道を歩んできた長嶋と当時の野球文化(あるいは野球部文化といってもいいかもしれない)になじめなかった落合とではその出自は異なるが、野球というスポーツの本質、チームとして勝敗を決する競技であることを十分すぎるほど知っていた。そのことは監督としての落合を見るとよくわかる。長嶋を日本一にした落合は、自らも日本一のチームを率いたいと思ったのだろう。
それにしても落合のバッティングフォームは長嶋のそれによく似ていた。

2021年6月30日水曜日

青木美希『いないことにされる私たち 福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』

行政の仕事はサービスであるといわれているが、あまり効率のいい仕事ではないような気がしている。住民票1枚請求するだけでも、本人が不自由な暮らしをしているとすると代理人が委任状をもっていかなくてはならない。委任状すら書けない人も多いはず。それでも委任状を本人に書いてもらってくださいと窓口は言う。不正をするかもしれないと住民を疑っているのだろう。ここで少し暴れると事情を察してくれる(すごすごと引き返す人は委任状を捏造して、後日窓口にやってくる)。それでいて利用目的があいまいな住民基本台帳の大量閲覧は後を絶たない。
国と自治体との連携もあいまいな部分が多い。新型コロナのワクチンが供給できるという連絡を受け、自治体で予約を行う。ふたを開けるとじゅうぶんなワクチンが確保できていなかったという事例もあるという。何をやっているのか、日本の行政は。
福島の原発事故から避難を余儀なくされた人が、自主的な否かを別にして大勢いるという。県外に避難して、住宅供給の援助を受ける。やがて援助が打ち切られる。彼らはこの時点で避難者としてカウントされなくなる。どう考えても理不尽である。
かつての避難区域も避難指示が解除され、帰還困難区域を残すのみとなっている。多くの避難者が避難区域に戻ってきたかといえば、けっしてそうではない。医療体制の復興が追いついていないというのが現状で懸念をもつ避難者が多いのだという。避難による人口流出で税収も減っているはずだ。医療復興は遠い道のりなのかもしれない。
東京電力が被害者に支払った損害賠償は10兆円を超えている。それも避難指示区域(福島第一原発から30Km圏内)の被災者に限られることで、みにくいやっかみも生まれる。原発の廃炉まで40年かかると言われている。福島の完全な復興まではもっとかかるのではないだろうか。
それにしても長男に自死されたおとうさんは気の毒でならない。

2021年6月29日火曜日

岡本欣也『ステートメント宣言。』

コピーライター岩崎俊一が旅立って、もうすぐ7年になろうとしている。
前に書いたかもしれないが、すぐれた広告表現というものは発明ではなく、発見であると岩崎俊一は言っていた。何度か事務所で打合せをしたことがあるが、氏はひたすら資料を読み、広告会社の営業担当者の話に耳を傾けた。若いCMプランナーが考えたアイデアを吟味した。今回与えられた課題にみんなどう対応しているのかを。その間、鉛筆を手にとることはなかった。とにかく人の話を傾聴していた。
岩崎事務所の打合せスペースの端にデスクが置いてあり、そこには氏の弟子とおぼしき若い男がいつも座っていた。打合せに参加するでもなく、ひたすら何かを書くでもなく、じっと机に向かっていた。彼の書いたものを見たこともなければ、声すら聞いたことがなかった。書生のようでもあった。20年以上昔のことである。
それから何年かして、書生は独立した。日本たばこ産業(JT)のマナー広告「あなたが気づけばマナーは変わる。」が話題を呼ぶ。コピーライターは岩崎事務所の書生、岡本欣也だった。
この本は広告コピーの指南書という体裁をとりながら、著者の岩崎事務所時代が描かれている。彼は岩崎俊一から指導を受けた経験がほとんどないという。長いこと、打合せルームの隅に置かれた机に座り、岩崎俊一の声にじっと耳を傾けていたのだろう。毎日、毎日、岩崎氏のことばが彼の体内にうっすら積もってゆき、分厚い地層をつくった。その地層の下に蓄えられたエネルギーが自然発生的に噴出した。いつしか岩崎俊一同様、言葉を発見する術をおぼえたのだ。まさに「門前の小僧習わぬ経を読む」の世界である。
それにしても岡本欣也の岩崎俊一にそそぐまなざしがいい。もちろん僕はさほど岩崎大先生のことは知らないけれど、非常に難解な人であったことは容易に想像がつく。なにものにも代えがたい経験を積ませてもらった氏への感謝の気持ちにあふれている。

2021年6月28日月曜日

佐野洋子『問題があります』

4月に訪ねた世田谷文学館にもういちど。
安西水丸展に東京ガスの新聞広告が展示されている。1984年頃の制作ではないかと思う。新聞10段のスペースに大きく安西水丸のイラストレーションが描かれている。この新聞広告は準朝日広告賞や毎日広告デザイン賞に入賞している。若い人たちはわからないが、記憶に残っている60代以上の方は多いのではないか。
古い新聞広告を展示会場で見ることはある。たいていは紙焼きされたものかコピーであることが多いのに、この原稿は新聞の切り抜きだ。紙は茶に変色している。うっすら裏面も透けて見える。想像するに誰かが保管していたものに違いない。大きな広告賞をもらった安西水丸が自ら掲載紙を切り抜いて、だいじにファイルしていたのではないか。そんな姿を思い浮かべたりする。
以前、逝去直後に銀座で開催された安西水丸展に南房総千倉町で少年時代を過ごした彼のノートや絵が展示されていた。大学時代の卒業制作、そして電通クリエーティブ局時代にたずさわった雑誌広告も(今回ももちろん展示されている)。きっと本人がだいじにとっておいた愛おしい作品の数々に違いない。
東京ガス新聞広告のアートディレクターを僕は昔から知っている。昔から知っているが、SNSで友だちになったのはつい最近のことだ。もちろん向こうはおぼえていない。30何年も昔のことだから。4月に展示を見たあと、アートディレクター氏に連絡をとると僕もぜひ見にいきたい、付き合ってくれないかと誘われた。それでも二度目の訪館となったのである。アートディレクター氏は「都市ガスってフェミニストね」というキャッチコピーを書いたコピーライター氏にも声をかけた。当時のクリエーティブスタッフと展示を見てまわり、館内のコーヒーショップで長いこと歓談した。
素敵な土曜日だった。
『役に立たない日々』『私はそうは思わない』い続いて三冊目の佐野洋子。天真爛漫なエッセーである。

2021年5月31日月曜日

井伏鱒二『荻窪風土記』(再読)

荻窪駅にはじめて来たのは中学3年生のときだった。北口を出ると迷い込んだら二度と戻って来れないような古い市場があった。
3年後、大学に通うようになって浮間清志と知り合う。浮間は荻窪駅にほど近いアパートに住んでいた。学校の帰りに立ち寄り、なんども泊まったりもした。時間はありあまるほどあった。駅前の市場は大きな商業ビルになっていた。
井伏鱒二が「新潮」に「豊多摩郡井荻村」と題する随筆を連載していたのが昭和56(1981)~7(1982)年(この年、『荻窪風土記』というタイトルで単行本として刊行される)。もしかするとどこかで著者とすれ違っていたかもしれない。
井伏は昭和2年に荻窪に引っ越してきた。1993年、95歳で没するまで60年以上にわたって荻窪で生きてきた。昭和のはじめ、見わたす限り田畑や雑木林が広がる武蔵野の地は急激な変貌を遂げることになる。このあたりが農地だったことは地図を見たり、歩いてみたりするとわかる。まっすぐな道が少なく、枝分かれする道が多い。きちんと直角に交わる交差点に行きつくと、これは区画整理されてできた新しい道ではないかと思う。
文学青年窶(やつ)れの仲間らと井伏鱒二は阿佐谷の中華料理店ピノチオに集まったという。「シナ蕎麦十銭、チャーハン五十銭」と記述されている。ピノチオは、阿佐ヶ谷駅北口の中杉通り沿いにあったと思われるが、井伏の住まいから歩くにはいく通りものルートが考えられる。どの道も近道そうでいてそうでなかったりする。おそらくは桃園川沿いを歩いて行ったのではないかと想像するが、実際のところはわからない。
浮間のアパートのすぐ裏手に春木家という蕎麦屋がある。今でもときどき足を運ぶが、蕎麦と同様、中華そばがうまくて人気だ。近所でありあまる時間を過ごしながら、浮間と春木家で食事したことはなかったなと行くたびに思い出す。ありあまる時間ほど、お金は持っていなかったのである。

2021年5月22日土曜日

伊藤公一『なんだ、けっきょく最後は言葉じゃないか。』

戸越銀座商店街で吉岡以介にまたしてもばったり出くわした。
脳疾患で倒れた母親を郊外の施設に入所させたが、区の施設に空きがあって入所できることになり、その手続きのために戸越銀座に来たという。たいへんだなというと、特養(特別養護老人ホーム)の人たちはみんな親切で、仕事に誇りを持っている。母親も保護者も等しく大切にしてくれる。問題があるとすれば面倒な手続きを強いる行政だという。なにそれ、と訊ねると、実家のある区の施設に入るにあたり、転居届を出すといいと施設に言われて窓口に行ったのだが、本人ではないから委任状が必要だという。委任状が書けるくらいなら窓口まで連れてきますよ、書かせて書けないことはないだろうが何年かかるかわかりません、あなたたちの仕事は行政サービスをすることなんじゃないですか。区民の状況を理解してあげるスタンスはないんですか。
吉岡は窓口で食い下がったという。
向こうも折れて、備考欄に委任状が書けない旨をくわしく書いてくれという。吉岡は、母親の病気に至る経緯や現在の様子など書き連ねたという。で、その書類を渡すと代理人の本人確認が必要だという、免許証を見せる。するとさらに親子関係がわかる書類、たとえば戸籍謄本が必要だという。
吉岡はいつも持ち歩いている母親の医療介護関係の保険証やら銀行の通帳、印鑑を見せたらしい。母の名前のこれだけの書類を持ち歩いていても親子だとわからないんですかと訊く。
戸籍謄本が必要です。それが区役所の答だった。
コピーライティングの指南書は多い。
広告コミュニケーションのしくみを学ぶのであれば、小霜和也谷山雅計の本が役に立つと思う。この本は少し違う。著者の広告コピーに対する考え方、姿勢、哲学が語られている。コピーを書く人のための本ではなく、コピーとどう向き合っていくかを考えさせる高度な内容だ。
ある意味、理論的というより、感覚的な本に思えるのはそのせいかもしれない。

2021年5月14日金曜日

安西カオリ『ブルーインク・ストーリー:父・安西水丸のこと』

実家の近くに大元という中華料理屋(いわゆる町中華である)があって、仕事で遅くなったときなど夜中に訪ねたものだ。
大元のおやじは(今はおそらくご子息が店を切り盛りしていると思う)大の中日ファンで店の壁という壁には東京中日スポーツの記事や中日ドラゴンズの選手の写真やサイン色紙が貼ってあった。実家の隣のツネオさんが太洋(現DeNA)ファン、向いのキヨンドさんが東映(現日本ハム)ファンだったけれど、僕の住んでいた町では巨人以外のファンはまったく奇異な存在だったのだ。
ある晩、野菜炒めをつまみながらコップ酒をすすっていた。少し酔った僕は、僕の叔父も中日ファンなんですよと口ばしってしまった。おやじさんは目を丸くして、「そうなの?叔父さんって、奥さん(僕の母のことを言っている)の弟さん?ああ、そうなんだ」とたいそうよろこんで、一升瓶の栓を開けてもう一杯飲めとすすめる。今年は今ひとつなんだよね、とか新人の誰それがいいとか、監督はいいけどなんとかというコーチがよくないなどと一方的にまくしたてた。
で、おにいさんも中日?と訊ねられて、僕はつい「僕は巨人なんですけど」と答えてしまった。おやじさんの話はここで終わり、おあいそのとき、お酒二杯分がしっかり計上されていた。
安西カオリは2年前に『さざ波の記憶』を上梓している。父・安西水丸のイラストレーションをあしらった画文集である。増刷されなかったのか、今入手するのは困難な本になっている。この本は前作に数編の書き下ろしを加えたもので、特に目新しさは感じないけれど、ニューヨーク時代のこと、カレーライスのこと、中日ドラゴンズのこと、北海道のことなどが新たに語られている。筆者が思う安西水丸が一般のファンの人たちが思い描く安西水丸に少し近づいた印象である。
安西水丸が描いた星野仙一胴上げのイラストレーションが東京中日スポーツに載ったことを思い出した。
1999年だった。

2021年4月30日金曜日

岩下智『「面白い!」のつくり方』

先日購入したラジオはなかなか優秀で海外からの電波もしっかりキャッチしてくれる。
ラジオの優秀さについてはくわしく知らない。通信型受信機だと何マイクロボルト以下などと仕様書に記載されているが、このラジオには数値表示はない。聴きたいと思った放送が聴きたい時間に聴くことができればそれでじゅうぶん優秀なのである。
よく聴くのは台湾国際放送。平日の夜20時から一時間、日本向けの放送がある。もちろん日本語である。このプログラムは翌日の夕17時から周波数を変えて再放送される。アジア諸国の日本向け放送はこのほか、中国国際放送、KBSワールドラジオ(韓国)、ベトナムの声放送、朝鮮の声放送(北朝鮮)、モンゴルの声放送などがある。時間帯が合わなかったりもするので聴いていない放送も多い。
以前に使っていた小型ラジオも短波帯を聴くことができたが、ロッドアンテナをいっぱいに伸ばしても、ちょっと物足りなかった記憶がある。外部アンテナ端子がなかったのでロッドアンテナにビニール線を巻きつけたりなどしたものだ。
台湾国際放送ではニュースや音楽番組などを聴く。新型コロナウイルスの新規感染者が一日にひとりであるとかふたりいたなどと報道されている。みごとに封じ込めた国なのだと思う。音楽番組では日本のヒット曲のカバーがときどき紹介される。中国語で聴く日本の流行歌。味わい深い。
コピーライターの書く広告本をたまに読む。この本の著者はアートディレクターである。若い頃、不勉強だった僕はアートディレクターはビジュアルのことだけを考える人だと思っていた。そもそもクリエイティブディレクターよりアートディレクターの方が歴史がある。
アートディレクターもコピーライターもコミュニケーションのアイデアを生み出すことにおいては同じように悩んでいる。とりわけ著者は「面白さ」というものときちんと向き合っている。真摯な姿勢と粘り強い考察に好感が持てる。

2021年4月29日木曜日

ホイチョイ・プロダクションズ『電通マン36人に教わった36通りの「鬼」気くばり』

中学生の頃、アマチュア無線をはじめた。
当時、ラジオで海外からの日本語放送を聴くようになり、「ラジオの製作」「初歩のラジオ」といった雑誌を読むようになり、その流れでアマチュア無線に興味を持った。流れとしてはそんなところか。
今から50年近く昔、アマチュア無線人口は多かった。50MHz帯という入門者の多いバンド(周波数帯)で電波を出し、交信した。近所には同好の士も多くいた。最近のアマチュア無線については何も知らないので少し聴いてみることにした。アマチュアバンドを聴くことができる受信機を持っていたのだ。たぶん撮影現場でワイヤレスマイクの音を拾えるように買ったものだと思う。
430MHz帯は現在ではもっともポピュラーなバンドで休日はもちろん、平日も電波を出している人が多い。無線機も手頃で、アンテナも小さくてすむということで入門者にうってつけなのだろう。かつての50MHz帯がそうであったように。
電離層の反射で遠くまで電波が届く短波滞と違って、VHF帯、UHF帯は直線的に電波が飛ぶ。見通しのいい高台や高層ビルの上階に行くとおどろくほど遠くの無線局の声が聴こえる。ハンディ機と呼ばれる小型のトランシーバーを持って、山岳移動する人も多いという。
広告制作の世界に限らないが、仕事を受注し、それを継続するための努力は欠かせない。ときに過剰対応や忖度も辞さない思いで営業活動を行っている下請制作会社も多いという。そうした企業の人材育成に必要なのは、広告の知識でもトレンドでもなく、筆者らの掲げる「戦略的おべっか」なのかもしれない。
もちろん本気でそんなことは思っていない。
先日古い荷物を整理していたら、アマチュア無線を趣味としていた頃のQSLカードが出てきた。QSLというのは相手局と交換する、交信したことの証となるカードのことだ。見ると海外のアマチュア無線局と交信していたようだ。ほとんど記憶はないのだが。

2021年4月26日月曜日

佐野洋子『私はそうは思わない』

去年の緊急事態宣言で、会社としては4月からテレワークになったが、その前の2月末くらいから自宅で仕事をするようにしている。
動画の構成を書いたり、絵コンテを描いたりするのが主な仕事なので(他にもつまらない仕事があるのだが)通勤する必要はほとんどない。どうしても対面で打合せをしなければならないときと撮影やナレーション収録に立ち会うときは現場に出向く。もう年齢も年齢だし、仕事も以前ほど多くない。のんびり家で考えたり、書いたりするのがちょうどいい。
三度目の緊急事態宣言が発令されて、行政はリモートワークを推進するよう呼びかけている。いわゆる「お願い」だ。お願いして、みんなが言うことを聞いて、この感染症が収束するならそんなにめでたいことはない。もう少し効果的なといおうか、抜本的な解決への糸口はないのだろうか。
リモートワークであるが、導入できる業種とできない業種があることはたしかだ。どうしてもその場にいて、対面で話をし、ハンコを押してもらわなければならない仕事ってきっとある。感染症がひろがるからリモートで仕事してね、はいわかりました、と簡単にはたらき方をシフトできる仕事なんてそう多くない。それでもどうすればリモートで効率よく仕事のできる環境が整えられるかというのは今の経営者に課された課題である。今世の中にどんなツールがあって、どう活かせば、はたらき方を変えられるのか。そんな情報が山のようにある。コロナで経済は停滞しているかもしれないが、世の中は進歩している。
いちばんやっかいなのは、在宅では人ははたらかないという先入観だ。昭和・平成型の経営者に多いと思う。出社していれば仕事をしていることになり、テレワークしているやつらは何をしてるかわかったもんじゃないと思っている人たち。得てしてICTに弱い。
まあ、あまりとやかく言っていると佐野洋子の読み過ぎだと叱られるかもしれないからこの辺でやめておく。

2021年4月24日土曜日

安西水丸『ビックリ漫画館』

1月に続いて、世田谷文学館。本日4月24日から、企画展「イラストレーター安西水丸展」がはじまる。明日(25日)から三度目の緊急事態宣言が発出される。大型連休中は休館になるのではないかと思っていたが、案の定、芦花公園駅駅前の案内板に4月25日から5月11日まで臨時休館という貼り紙があった。
展示はシルクスクリーンや印刷物以外に原画や直筆の原稿など盛りだくさんでひさしぶりに安西水丸を堪能した。生前彼を支えた嵐山光三郎、村上春樹、和田誠とのかかわりなどもくわしく語られていたように思う。なかでも嵐山光三郎との交友による影響は大きく、彼なくして安西水丸は生まれなかったと言ってもいい。
1980年代の中頃だったか、銀座のギャラリーで嵐山光三郎と安西水丸は二人展を開催した。ふたりともすでに平凡社を退社して、それぞれの道にすすんでいた。嵐山は文筆家であるが、原稿用紙に万年筆で描いた落書きのような絵を展示していた(なぜだかそのオープニングパーティーに僕はいた)。
展示室に戻ろう。いつ撮ったのか、若い頃の制作風景も動画で残っていた。カラートーンをカッターで切りとる、その指先が若い。何度も何度もくりかえし見ていたくなる。アトリエの写真をつないだ動画もあった。鎌倉のアトリエの、このソファの上に倒れていたのかな、などと思う。これまで見てきた個展では知り得なかった安西水丸の生涯に触れることができる展示だった。
1977年ブロンズ社から上梓されたこの本は『ガロ』や『ビックリハウス』などに掲載された初期の作品集。平凡社のエディトリアルデザイナーだったこの頃から漫画の連載をこなしていた。おそらくは嵐山光三郎の人脈によるところが大きかったのではないかと思う。
それともうひとり、安西水丸に多大な影響を与えたのは、彼が少年時代に愛読していた漫画雑誌冒険王に連載されていた福井英一の「イガグリくん」であったことはまちがいない。

2021年4月21日水曜日

森山至貴『10代から知っておきたい あなたを閉じ込める「ずるい言葉」』

ラジオを買った。
昔だったらトランジスタラジオなどと言ったのだろうが、今はラジオである。真空管式から半導体へ、当時としては画期的なイノベーションがあったに違いない。ラジオは持ち運びができるようになり、乾電池さえあればどこでも聴くことができる。厳密にいうと電波の届かないところでは聴くことができない。
ふだんは枕元に置いている。寝る前にスマホをいじったり、電子ブックリーダーで読書するのはやめた。寝るときくらいスクリーンから目を離したい。
夜、ラジオ深夜便を聴きながら寝る。朝起きると、平日なら伊集院光の番組を聴く(金曜日は別プログラム)。日曜はイルカの番組を聴きながら二度寝する。昼間も音楽を聴くかわりにラジオを聴くことが多くなった。NHKの音楽番組や大竹まことの番組をである。
最近はスマホやPCでもラジオを聴くことができる。デジタルでライブ配信されているのである。わざわざラジオ(受信機)を買う必要もないのだが、スマホの音とラジオの音は少し違うと(勝手に)思っている。ラジオは音声信号を電波に乗せて、放送局の送信所から送られる。その電波をラジオはキャッチし、微弱な電波を電気信号に変え、増幅し、復調する。復調とは電波に乗った音声信号を取り出す工程のことである。復調された音声信号にはどことなく遠くのアンテナから発射された電波の名残がある。光と同じ速さでどこからか飛んできた音のにおいがする。
もちろんそんなはずはない。スマホで聴いても、ラジオで受信しても音声は音声だ。
この本は青少年向けだろうか。対人関係、人間関係のコミュニケーションで悩む若者をターゲットにしている。とても評判のいい本だということを誰かに聞いて、読んでみた。
とても丁寧に「ずるい言葉」を解説している。僕には少しまどろっこしかったけれど、本にして読ませるより、読んで聞かせてもらったらいいかもしれないと思った。ラジオみたいに。

2021年4月2日金曜日

芝木好子『女の肖像』

杉並に馬橋という町があった。
JR中央線高円寺駅と阿佐ヶ谷駅のまんなかあたり。線路をはさんで南北にひろがる一帯である。今は高円寺北、高円寺南と阿佐谷北、阿佐谷南という町になっている。旧町名をとどめている杉並区立馬橋小学校は高円寺北、馬橋稲荷神社は阿佐谷南にある。小学校に隣接して馬橋公園がある。元は気象庁の気象研究所だった。その前は陸軍気象部だったという(空襲で焼けた)。
芝木好子と聞くと下町の作家というイメージがある。
『隅田川暮色』『葛飾の女』『洲崎パラダイス』といった東京の東側が舞台になった作品が多いせいかもしれない。自身は王子で生まれ、浅草で育ったという。年譜によると昭和17年に結婚し、高円寺に移り住んだ。以後死ぬまで高円寺で暮らした。当時、町の名前は馬橋だったに違いない。
鷹狩りに訪れた徳川家光が高円寺という寺院で休憩したといわれている。寺の名前が知れるようになり、村の名前が高円寺村になったという。江戸時代初期の頃から高円寺は高円寺だったのである。馬橋という地名のいわれは知らないが、家光一行がまたがっていた馬と関係があるのではないかとひそかに思っている。
高円寺には関東大震災後、都心から多くの人が移ってきた。とりわけ深川など下町からの転入者が多かったと何かの本で読んだことがあるが、忘れてしまった。商店街などを歩くとどことなく下町風情を感じるのはそのせいではないかと思っている。出久根達郎の『佃島ふたり書房』も佃から高円寺に移転している(と、うっすら記憶している)。
この町に移り住んだ芝木好子は下町の方角に向かいながら、それらの町を舞台にした創作を綴ったのだろう。この本はたしか画商として自立する女性が主人公だった。銀座の画廊が舞台だった。なにぶん、読み終わってから7~8年は経っているので詳細はおぼえていないのである。
この本はテレビドラマになったという。これもまたおぼえがない。

2021年3月29日月曜日

蟹江憲史『SDGs(持続可能な開発目標)』

食品ロスを減らそう、使い捨てプラスチックを減らそうというテーマで二度ほど動画制作にたずさわった。
一昨年につくったものとくらべると昨年制作した動画では温室効果ガス排出について言及されている。結果的に捨てられてしまう食品をつくって、運んで、調理して…といったあらゆる工程で、使い捨てプラスチックの生産や廃棄などさまざまな局面でエネルギーが使われ、温室効果ガスが排出されるというのだ。ゼロエミッション東京ではないけれど、世界は着実に地球環境に向き合っている。
仕事場では名ばかりであるが、コンプライアンスを担当している。たとえば、個人情報を安全に管理している、みたいなことだ。会社ではなんらかの第三者認証さえ付与されれば、銀行にも受けがいいとかその程度のコンプライアンス意識である。必ずしも組織的な対応にはなっていない。
最近思うのは、企業が大きかろうが小さかろうが、情報セキュリティに高い意識を持って安全管理に取り組むというのは今となっては当たり前のことで、災害時や緊急時に事業継続できる体制づくりはどこでも取り組まれている。それでいて、記録文書を残さなかったり、システムのトラブルをなんどもなんどもくりかえすのは官公庁か大銀行くらいのことだ。それだって大津波のような甚大な災害が起きたら事業継続どころの騒ぎではない。あきらめるしかない。
SNSなど、ネットで炎上という事象が頻繁に起きるようになって、うすうすではあるが、多くの人に情報意識が芽生えてきているように思う。なにも目くじら立てて、情報セキュリティの認証を得る必要もないだろう。私たちは情報を適切に取り扱い、安全管理していますなんて自慢をするよりも一つひとつの企業が、一人ひとりの人間が未来のために取り組むべき課題がある。
それがSDGs、持続可能な開発目標だと思う。難しい課題ではあるけれど、今すぐ取り組まなければならないテーマばかりだ。

2021年3月27日土曜日

横川和夫『その手は命づな ひとりでやらない介護、ひとりでもいい老後』

去年、大井町でばったり会った吉岡以介と連絡を取り合う機会があった。
脳疾患で倒れた母親は退院後、郊外の施設に入所したという。半身が不自由で日常生活のほとんどの場面で介助が必要だという。
「そうするしかなかったんだよ」
それでもリハビリテーションをがんばれば少しはいい方向に向かうだろうと吉岡はリハビリに力を入れている施設を選んだ。自宅からは遠いが、勤務先からは電車で乗り換えなしだという。ところが新型コロナウイルス感染拡大で面会は事前予約したうえで15分のみ。吉岡は在宅勤務となり、母親の入所する施設は遠い場所になってしまった。在宅での仕事も要領を得ず、なかなか面会にも行けないと話す。
著者の河田珪子は義父母の介護にあたり、自分ですべてする必要はないと考えた。手を貸してくれる人がいる、介助が必要な人がいる。世の中はおたがいさまなのだ。「まごころヘルプ」はこうしてスタートした。サービスを利用する利用会員、サービスを提供する提供会員がそれぞれ会費を払って参加する。おたがいにメリットがある。
河田は家庭の事情で祖父母に育てられた。それがすべてではないにしても彼女は年寄りが好きだという。年寄りのためになることをしたいという。その思いは、高齢者だけでなく、妊婦や障がい者、外国人へと裾野を広げていく。まごころヘルプの次の取り組みとして「うちの実家」、そして「実家の茶の間・紫竹」といった居場所づくりへと連なっていく。
河田が考える「居場所」はよくある「通いの場」とは異なる。参加者に何かをさせるのではなく、一人ひとりが好きなことする。プログラムがない(ラジオ体操だけは続けているようであるが)。非行事型の居場所と言われている。
それはともかく、吉岡の母親も施設入所以外に、もっと本人も周囲も気持ちが豊かになれる選択肢があったのではないかという気もする。もちろん本人はそれどころではなかっただろうが。

2021年3月26日金曜日

獅子文六『食味歳時記』

佃に大叔父が住んでいた。母が南房総千倉町から上京したときに頼った人だ。伯父(母の兄)も上京した際には大叔父の世話になったと聞いている。東京で頼れる唯一といっていい親戚だったのだ。
最近になって思い出した。大叔父ともうひとり、東京で暮らしている親戚がいたことを。
くめおばさんという。
くめおばさんは祖父のきょうだいの末で、昭和のはじめに上京し、四谷荒木町にある食用油問屋柏原商店に奉公した。この家で主に家事をまかされただけでなく、ふたりの子ども(一女一男)の世話もした。主人が築地の料亭などに油を卸すかたわら、奥さんは長唄の師匠として多くの弟子に教授していた。とある大学の長唄研究会の顧問も兼ねていて、柏原商店の手狭な座敷には学生も多く集まったという。
柏原家でくめおばさんは、ねえやさんと呼ばれていた。家族からはもちろん、多くの弟子たち、長唄研究会の学生たちからもねえやさんと声をかけられ、そのうち僕ら親戚もねえやさんと呼ぶようになっていた。一生結婚することはなかったが、ねえやさんと呼ばれることで実家の人間ではなくなり、柏原家の人になったのだと思う。
母方の祖父の親戚はたいていおだやかで、どちらかといえばのんびりした性格の人が多い。祖母の親戚にしっかり者が多いのとは対照的である。くめおばさんも人あたりのいいおだやかな人柄だったと、幼少の頃しか知らないけれど記憶している。
文豪と呼ぶにはおだやかで娯楽性の高い作品が多い獅子文六であるが、なかなかの食通だったと聞いている。戦前から戦後にかけて、変わっていった食文化に関してもなるほどと思わせる観察眼を見せている。さすがとしか言いようがない。
くめおばさんに最後に会ったのは東京女子医大病院だった。今にして思うとさほど高齢ではなかったが、ガンにおかされていたのだ。
今、くめおばさんは柏原家の墓に眠っている。茗荷谷の寺だと聞いているが、くわしいことは知らない。

2021年3月25日木曜日

今井むつみ『英語独習法』

スキーマという言葉はなかなか難しい。
この本のはじめのところで「ある事柄についての枠組みとなる知識」、「多くの場合、もっていることを意識することのない」知識のシステムと書かれている。知識を身につけるということは知っているだけではだめで、使えなくは意味がない。身体化された知識が必要になる。これは認知心理学の概念であり、IT用語としてはデータベースの構造を示すという。いずれにしてもわかりにくい。
以下、自分なりの解釈。
小さい子どもは指を使ってものを数える。たいてい10までは簡単に数えられるようになる。たし算だって2+3とか5+4などはそのうち指を使わなくても計算できるようになる。ところが6+7とか8+9となると俄然難しくなる。いわゆる「くり上がり」のある足し算だ。子どもはくり上がりのないたし算を何度も何度もくり返すうちに、5が1+4であったり2+3であったりすることに気がつく。そして10が何+何で成り立っているかも理解する。そして6+7は3+3+7、つまり3+10であるとその計算方法を学ぶ。
スキーマとはこのような知識のシステムを自ら培うことなのではないかと思った(もちろんそんな簡単なことではないが)。だから機械的に答を暗記してしまう勉強法より、考えさせるやり方は大切なのだ。
母語を身につけいくのは非常に複雑なスキーマを育てていくことである。そして日本語を母語とするものは日本語スキーマを持っている。外国語をいくら学んでも外国語のスキーマは持っていないからおいそれとは身につかない。
著者は認知科学、言語心理学、発達心理学が専門であるという。決して言語学者でもなければ英語学者でもない。外国語を身につけるためには何が必要か、どんな勉強をしたらいいのか、今までまったく知らなかったアプローチがあった。目から鱗が落ちるとはこのことである。
ところで目から鱗が落ちるとは英語では何というのだろう。

2021年3月21日日曜日

ウジトモコ『デザインセンスを身につける』

在宅で仕事をするようになって一年。
昼食は自分でつくることが多い。たいていは蕎麦、ラーメンなど麺類を茹でるか、スーパーで安く買えた焼きそばだったり、あまったごはんで炒飯。でも圧倒的に多いのは蕎麦だ。
内田百閒は昼はもりそばと決めていたという。別にそれでもまったく飽きることはないが、市販のめんつゆに少し飽きてきた。そばつゆをつくってみようと思った。
そばつゆといえばかえしである。便利なものでネットで調べるとかえしのつくり方はすぐにわかる。醤油と砂糖、みりんの配合が5:2:1がいいとか、5:1:1がいいとか。手はじめに醤油100cc、みりん40cc、砂糖目分量でやや少なめでつくってみた。おいしくできた(もっと長く寝かせればいいのだろうが、一週間後から使いはじめてすぐに使い切ってしまった)。
二回目はためしに砂糖を多め、みりんを少なめにしてみた。思っていた以上に甘くなってしまった。何度かトライした末、醤油100、砂糖20、みりん20くらいがちょうどいい。砂糖はこれより少なめでもいいかもしれない。
寝かせたかえしをだしで割る。温かい蕎麦ならかえしとだしの割合は1:8、もり汁ならば1:3が程よいという。概ね間違ってはいない。せっかくかえしをつくったのだからとさば節、宗田節などがミックスされた厚削りを買ってみたが、やはりだしをとるのは手間がかかる。かつお風味の顆粒だしでじゅうぶんにおいしいと感じる。そこいらの蕎麦屋より、うまいんじゃないか。
蕎麦は乾麺か、茹で麺(蒸し麺?)。後者は立ち食いそばの店で見かける。生麺にくらべてどうかとも思うが、それはそれでうまいものだ。1分ちょっと湯がくだけいい簡便さも魅力である。
著者ウジトモコの本は二冊目。前回読んだ『これならわかる!人を動かすデザイン22の法則』に比べるとポイントが絞られていて、内容的にもやさしい。若い人たちにすすめるのならこっちかもしれない。

2021年3月4日木曜日

大久保真紀『ルポ児童相談所』

先日、ちょっとしたきっかけで新潟県の児童相談所に勤務する青年と話をした。
もちろんリモート。ウェブ会議システムを使った。
以前から悩みを持つ人にかかわりたいと思っていたという。中学生の頃は教師をめざそうと思ったこともあるそうだ。高校時代は心理学を学ぶことに興味を持ち、大学の先輩で福祉の仕事に就いた人がいて、児童福祉に携わる自分をイメージしたという。
相談の受理業務を担当している。いわゆる初期対応チームということか。短~中期で解決できそうなケースを受け持ち、主に保護者と面接することが多いという。子どもと直接やりとりするのは児童心理司という心理職なのだそうだ。常に複数のケースを抱えていて、優先順位をつけながら、スケジュール管理するのがひと苦労だと話す。
仕事のやりがいを訊いてみた。ひとつとして同じ状況にある家庭はなく、支援の方法も千差万別、通り一遍にはいかないが、何度か面接や支援をくり返していくうちに、光を見出したように保護者の表情が変わってくる。そんな場面に出会えることがうれしいという。子どもの人生にとって重大な局面、問題解決の場面に真摯に向き合う仕事ではあるが、支援する側として客観的に俯瞰して見る姿勢も必要だ。
児童相談所に持ち込まれたケースのうち家庭での養育が難しいとされる子どもはとりあえず一時保護所で保護される。一時保護所にいられる期間は限られているため、その後家庭に戻ることが困難な場合は児童養護施設や里親に託される。施設での生活については同じ著者の『児童養護施設の子どもたち』にくわしい。また一時保護所にフォーカスした児童相談所の仕事については慎泰俊が書いている。
もう少し日常的な児童相談所の仕事を知りたいと思うのだが、デリケートな個人情報にあふれている職場でもあり、おいそれとは見学などさせてもらえない。
この本と実際に勤務している青年の話でずいぶんイメージがひろがった。

2021年2月26日金曜日

原野守弘『ビジネスパーソンのためのクリエイティブ入門』

出社するときはたいてい午後に家を出る。
打合せをして、あるいは事務処理をしてすぐに帰る。メインの仕事場は自宅になっている。どこかでお昼を食べていくこともあれば、お弁当を買っていくこともある。
最寄り駅の近くに崎陽軒の店舗ができた。今日は横濱ピラフを買って行く。ピラフや炒飯は少し小ぶりなのでたいていポケットシウマイをいっしょに購入するのだが、品切れだった。
家にずっといるとなかなか読書がはかどらない。電車に乗るとその往復でけっこう読める。たまには出社するのも悪くない。
タイトルに「ビジネスパーソンのための」とあるが、この本は広告クリエイティブ初学者と広告ビジネスに限らないビジネスパーソンを対象としている。そのスタンスのおかげでわかりやすい入門書となっている。入門書といっても内容はかなり高度だ。
広告クリエイティブの基本は「誰に何をどう伝えるか」を整理することだと教わってきた。「誰に」はターゲットだから、事前の情報でだいたい把握できる。「どう伝えるか」は表現手法だ。ここがクリエイティブの勝負どころだった。肝腎なのが「何を」である。いわゆるファクト。伝えるべき内容(人々を効果的につかまえる「何」)がきちんと決められていないと無限大の「どう伝えるか」に振りまわされてしまう。
とはいうものの、たいていの商品やサービスがどんなにオリジナリティがあったとしても、競合する商品が次から次へと生まれ、せっかくのありがたみが薄れていく。コモディティ化してしまう。あっという間に賞味期限を終える陳腐な新製品、新サービス。PCやスマホなどデジタル製品はまさにそんな環境におかれている。
思えばこれまでずいぶん「何をどう伝えるか」に力を注いできたように思う。
たいせつなのは「なぜ伝えたいのか、伝えなければいけないのか」だとこの本を読んでわかった。そして人を突き動かすのは「好き」の力であることも。
目がさめた気分だ。

2021年2月25日木曜日

山崎亮編『ケアするまちのデザイン 対話で探る超長寿時代のまちづくり』

小さい頃、さほど裕福な暮らしをしていたわけではない。
それでも本が読みたいといえば(よほど高額の書籍でもない限り)買ってもらっていた。毎日のお小遣いの何十倍もの値段のそれをである。もちろん湯水のごとく買い与えられていたわけではない。ときどき折を見ておねだりすると買ってもらえた。その辺のさじ加減は幼い頃からスキーマとして意識下に形成されていたのかもしれない。たいていは買ってもらった一冊(たとえば『宝島』や『十五少年漂流記』とか)を何度もくりかえし読んだ。子ども時代に膨大な数の本を読んだわけではけっしてない。
その後も月に何十冊、年に何百冊も読むような読書家にはなっていない。読みたいときに読みたい本を読む気ままな読書家(それを読書家と呼んでいいとするならば)である。実は両親が買ってくれたのは、何冊かの本でなく、本という紙とインクでできた物質ではなく、なんて言ったらいいのか難しいが、本を読む時間、本に接する環境だったのではないかと思うことがある。今でもこうしてときどきページをめくるのは、子ども時代へのノスタルジーなのではないか。
超長寿時代を迎え、さまざまな地域で課題となっている「地域包括ケア」、この本はその先進事例にもとづいて、地域共生社会を模索している。
先だって読んだ『長生きするまち』では環境づくりが介護予防にとってたいせつだと書かれていた。とはいえ、まちづくりほど一筋縄でいかない課題はないだろう。
誰が町をつくるのか、その主体は誰なのか。住宅を設計するには利用者である依頼者の声に耳を傾ける。町を設計するときは不特定多数の利用者が存在する。彼らのありとあらゆる思いを汲んで、どうまちづくりに取り組めばよいのか。建築家、医師、看護師、福祉施設の経営者らがあらゆる視点からケアするまちをかたちづくっていく。対話しながら。
コミュニティをつくっていくことがこの先たいせつな仕事になると思う。

2021年2月20日土曜日

岩田豊雄『海軍』

南房総の七浦村(現在の南房総市千倉町白間津)で1942(昭和17)年に生まれた叔父は、母と8つ違う。幼少の頃、大きくなったら何になりたいかと訊ねると兵隊さんと元気よく答え、「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨」と歌っていたという。
このあたりは、戦争末期本土防衛の拠点として、特に館山には航空基地や砲台が多かったという。隣集落の白浜にはレーダー基地もあったらしい。そんな環境下で子ども時代を過ごした世代にとって、たとえ東京におけるような頻繁な空襲がなかったとはいえ、戦争は身近なできごとだったに違いない。
先日介護予防の本を読んで、近隣に公園がある地域では運動不足になるお年寄りが比較的少ないという調査があることを知った。環境をつくることがたいせつなのだ。
昭和の初期から、日本は軍部主導の国家になっていく。ナショナリズムに燃えた指導者が強い国づくりをめざし、それに呼応するように世論が後押しをする。当時はあたりまえのことだったかもしれないが、まぎれもない負の連鎖がはじまったのである。
岩田豊雄は、ペンネームではなく本名でこの軍神の物語を書いた(さすがに大衆娯楽作家獅子文六名義では書けなかっただろう)。主人公谷真人は、真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に搭乗し戦死した九軍神のひとり、横山正治がモデルとされている。戦争の時代に生まれ、戦争に染められたまま死んでいった22年の短い生涯だった。
著者岩田豊雄はこの作品で朝日文化賞を受賞したが、終戦後は戦争協力作家として「追放」されかかる。愛媛県の宇和島に疎開したのはこうした圧力から身を隠すためだったという。戦争中ではなく、終戦直後に疎開するというのはおかしな話だが、それなりの理由があったのである。
『てんやわんや』『大番』など宇和島での生活が著者におよぼした影響ははかり知れない。この『海軍』による逃亡が獅子文六の作品にいちだんと磨きをかけたのだろう。

2021年2月15日月曜日

近藤克則『長生きできる町』

「近ごろの若い連中は仕事に前向きでない」などとついこの間まで若かった連中が嘆いていた。
どんな話かというと、たとえば映画製作の会社にいながら、小津安二郎も黒澤明も山田洋次も知らない、作品を見たこともないことが嘆かわしいということだ。あくまでたとえばの話である。
仕事の関係で福祉の本を読んでいる。
日本では人口が減っていく。人は長生きする。医療や介護、福祉に多額の費用が使われる。このままいくと財政が破綻するのでは、などとささやかれてもいる。それとは別にできることなら介護などされたくない、すなわち健康寿命を延ばしていきたいというのが多くの人の本音だろう。そこに介護「予防」というキーワードが浮かんでくる。
厚生労働省でも介護予防の取り組みがすすめられている。地域ボランティアによる集いやサロンの開設、いわゆる通いの場が生まれている。介護施設や病院を新設するより、費用もかからないし、健康的である。
著者は地域ごとの格差、とりわけ健康格差を調査している。
予防には一次予防(健康増進)、二次予防(早期発見、早期治療)、三次予防(再発、悪化予防)があるという。著者が提唱するのは0次予防。「人を変えるのではなく、環境を変えることでその中にいる人たちの行動を変える」という考え方である。たとえば近隣に広い公園がある地域では運動機能が低下している人が少ないという調査がある。公園面積の広い地域の高齢者はスポーツなどの会に参加している割合も多いらしい。なぜ運動をしないのかという原因だけを考えるのではなく、原因の原因を考えることが重要だという。そのなかで運動をしやすい環境をつくることの重要性が見えてきたのだと。
近ごろの若い連中を嘆いている諸氏よ。彼らがなぜ勉強しないのか、なぜ前向きにならないのか、その原因を考えてみよう。そして原因の原因を考えて、彼らをとりまく環境を変えてあげよう。そして行動を促そう。