2021年10月17日日曜日

吉村昭『漂流』

子どもの頃は冒険物語が好きで、ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』や子ども向きに書かれたダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をよく読んだ。漂流してたどり着いた無人島で暮らすことを想像しながら。
大人になってからは無人島にもし一冊だけ本を持っていけるとしたら何?などと友人たちと会話していた。今なら『カラマーゾフの兄弟』と答えるだろう。無人島に一杯だけラーメンを持っていけたら、なんて話もした。
冬型の気圧配置が強まる。荒れた海。航行能力を失った船。北西風に流されて漂流する男たちはアホウドリが繁殖する島に着く。湧き水もない、火もない、岩だらけの島でどうやって行く生きていくのか。島から船影をみることはない。島にやってくるのは同じような漂流者のみ。絶望感の襲われて生命を落とす者もいる。
これまで何冊か吉村昭の小説を読んできたが、人間が生きていくことに関してここまで追い込んだ作品はなかった。軍艦をつくることも、トンネルを掘ることも、まぐろを獲ることも、ハブを捕まえることも、それはそれで大変なことだけれど、何もない、誰もいない、本来ならば生きるすべのない島で生きること、生きて帰ることを吉村昭はテーマに据えた。裏を返せば、人間の無力さとその克服がテーマであると言っていい。
土佐から4人で漂着した主人公長平は仲間を失い、ひとりで生きていく。後からやってくる漂流者から火や道具がもたらされる。人が増えることは知恵も増えることにつながる。長平がつくったのは保存食と防寒具だけだった。やがて彼らは道をつくり、池をつくる。そしてついには流木を集めて船づくりに取り組む。フイゴをつくって釘を鍛造する。それはそれは気の遠くなるような話である。
この小説は、人間という本来無力な存在が生きていく、その歳月の物語といえる。
無人島に一杯だけラーメンを持っていけるのであれば、日本橋たいめいけんのラーメンにしたい。

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