2017年7月10日月曜日

中尾孝年『その企画、もっと面白くできますよ。』

ときどき思い出したように広告クリエイティブの本を読む。
お目にかかったことのある人、いっしょに仕事をしたことのある人より、最近ではほとんど面識のない方の書いた本が増えてきた。時代を引っ張ってきた先達が少しづつ世代交代をくりかえし、業界内での新陳代謝がすすんでいるせいだろう。
中尾孝年は電通入社当初、中部支社クリエーティブ局に配属されたという。21世紀になる少し前のことだ。僕は当時、中部支社のCM企画を年に何本か手伝っていた。エネルギー関連の仕事やコンビニエンスストアのキャンペーンなど。
新幹線で名古屋に行って、夜遅くまで打合せをして、ぎりぎり最終ののぞみ号で帰るか、クリエーティブ局の方々とお酒を飲んで一泊し、翌朝帰京した。いっしょにチームを組んでいるCMプランナーに同世代が多く、仕事が片付いても話は尽きなかった。
当時は(今もそうだけど)仕事をするうえであまり余裕がなく、自分のアイデアを絵コンテに描いて、さらにその案をプレゼンテーションの舞台にのせるだけで精いっぱいだった。誰かが考えたアイデアに自分のアイデアを盛り込んで、ブラッシュアップしたりもした。そうして一年に何本かテレビコマーシャルになってオンエアされた(名古屋地区だけ放映されてできあがりを視ていない仕事も多かった)。
自分なりに「面白い」広告を考えよう、つくろうと努力してきたつもりだけど、今になってみるとさほど面白くはなかった気がする。もっと面白くしようという熱意みたいなものがなかったような気もする。とりあえず面白そうなカタチになればそれでいい。そうしてお酒を飲みに出かけた。
著者の中尾孝年はおそらくその頃の新入社員だったのだろう。
おじさんたちがとっとと仕事を片付けて、栄の街に繰りだしていく頃、クリエーティブ局のフロアでひとり「面白い」企画を追求していたのだろう。そして当時彼を指導した上司にも勝るすぐれた上司になっているにちがいない。

2017年7月4日火曜日

星野博美『戸越銀座でつかまえて』

その昔、高輪あたりが江戸のはずれだった頃、さらに南へ進んだ江戸越えの集落が戸越だという。
明治になって戸越村は周辺のいくつかの村と統合して、平塚村になり、昭和になって東京市に編入され荏原区となる。戦後荏原区は旧品川区と合併し、現在の品川区になった。
僕が生まれ育った町は旧品川区と荏原区の区界に近い。立会川という川が流れていて、橋を渡れば旧品川区だった。三菱重工や日本光学(現ニコン)の工場があり、さらに下流には国鉄大井工場があった。現在ではJR東日本総合車両センターとなっている。旧品川区の大崎地区も工業地帯だった。現在のように再開発がすすめられる以前、大崎駅周辺は武骨な工場が林立していた。
旧品川区にくらべると荏原区は商業がさかんだったイメージが強い。もともと農村地帯だったからさほど歴史は古くはないだろうが、武蔵小山や戸越銀座、中延に大きな商店街を持っているのが特徴的だ。
戸越銀座は関東大震災後の復興にあたり銀座からレンガをもらい受けたことがきかっけで命名された日本初のなんとか銀座であるという。品川区内の商店街としては圧倒的な知名度を持っている。
それでいて個人的に少々距離を感じるのは(たしかになにか買い物をしたという記憶がまったくない)先述したように荏原区のはずれで育ったせいかもしれない。買い物をするにもどこかに出かけるにしても大井町駅を起点としていた。東急大井町線高架下の商店街や阪急百貨店に幼少の記憶が集中している。戸越銀座には無縁だったが、武蔵小山や中延の商店街(当時アーケードが付いているだけでモダンな商店街だった)には思い出がある。中学校の制服を扱う洋品店があったからだ。
というわけでこれまで疎遠にしていた戸越銀座とお近づきになりたく、ときどき散策したり、本書のようなタイトルの本を読んでみたりしているのである。
そういえば僕が通っていた幼稚園は戸越銀座商店街のすぐそばにある。

2017年6月30日金曜日

山本周五郎『つゆのひぬまに』

日本には季節が四つあるが、野球には春夏秋と三つの季節がある。
これは個人的に季節分けをしているだけで世の定めでも自然の摂理でもなんでもない。3月から5月が春、6月から8月が夏、9月から11月が秋。
春。高校野球でいえば、甲子園球場で選抜大会が開催され、春季地区大会の予選がはじまる。大学野球の春季リーグ戦、社会人野球もJABA(日本野球連盟)主催の大会が各地でスタートする。もちろんプロ野球もだ。
高校野球の地区大会が終わり、都市対抗野球の代表が決まって春野球は終わる。
夏野球は大学選手権から。高校野球も選手権大会の予選がはじまる。7月になれば毎日のように甲子園をめざすチームが熱戦を繰りひろげ、社会人は東京ドームで日本一を競う。そして8月には甲子園。
大学選手権は35季ぶり東京六大学春季リーグ戦優勝の立教大が59年ぶり4度目の優勝を飾った。立教は長嶋茂雄がいた昭和32年と翌33年に連覇している。それ以来の優勝ということで決勝戦は多くのOBが神宮球場に集まったという。もちろん長嶋さんも。
主将の熊谷敬宥は仙台育英時代に上林誠知(ソフトバンク)らとともに明治神宮大会で日本一を経験しているが、長嶋茂雄の目の前でインタビューを受け、チームメートに胴上げされるなんて一生の宝物だろう。
山本周五郎の珠玉の短編集を読む。冒頭の「武家草鞋」からすばらしい。「おしゃべり物語」も「妹の縁談」もいい。なんといっても表題作「つゆのひぬま」がいい。この原作をベースに黒澤明が脚本化した「海は見ていた」はその後遺志を継いだ熊井啓が映画化した。遺作「まあだだよ」の後作品化された「海は見ていた」と「雨あがる」の二編は黒澤最晩年期の仕事である。「海は見ていた」はぜひ観てみたい。
6月ももう終わる。来月は都市対抗野球に高校野球選手権大会。大阪や西東京など有力校がそろった地方大会からも目がはなせない。
この夏はどんな野球にお目にかかれることか。

2017年6月27日火曜日

ウィリアム・サマセット・モーム『月と六ペンス』

2009年、国立近代美術館でゴーギャン展を観た。
「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」が日本ではじめて公開された。1897~98年に描かれたこの作品は世界的に高く評価されている。ボストン美術館まで出向かずに観ることができたのはラッキーだった。
ポール・ゴーギャン(ゴーガン)のタヒチでの日々は自伝的回想『ノアノア』に描かれている。
モームの『月と六ペンス』をはじめて読んだのはいつ頃だろうか。新潮文庫で読んだ記憶がある。装幀に特徴があったからだ。いつしか光文社の古典新訳文庫シリーズの一冊として上梓されていた。ゴーギャンをモデルにした小説だったことは憶えてはいたものの、あらためて読み直してみると人の記憶なんてこんなものかと思う。
ゴーギャン(もちろんチャールズ・ストリックランドのことだ)がこの世のものとは思えないくらい最低な人間として描かれている。突如として迸り出た主人公の天才、その深さ奥行を際立たせる演出かも知れないが、あんまりだ。モームが本当に描きたかったのは実はストリックランドと対比される凡庸な人びと(妻を寝とられた友人ストルーヴや突如裕福な生活が舞い込んできた夫人)だったのだろうか。
僕の記憶の中のストリックランドはある日才能にめざめ、タヒチにわたって開花した天才画家というストーリーでしかなかった(世界的に認められたのはその死後であるけれど)。おそらく年月とともに読んだ当時の記憶が薄れ、その後作品を観たり、別の本を読んでいくうちにいやな人ではなくなってしまった。『月と六ペンス』もゴーギャンの伝記的小説でしかなくなってしまった。
それでしばらくぶりに読み直してみたら「あれ、こんなひどい人間だったっけ」となってしまったわけだ。
そういえば昔タヒチを訪れたことがある。ゆるやかな時間が流れていた。
ゴーギャンの時代はマルセイユから2か月かかったという。
きっと心が洗われる旅だったにちがいない。

2017年6月20日火曜日

関川夏央『昭和が明るかった頃』

CM制作会社でアルバイトをはじめて何度目かの撮影現場ではじめて吉永小百合を見た。
ある飲料のお中元用のテレビコマーシャルだった。
映画やテレビ番組などさほど多く出演しておらず、テレビコマーシャルも4~5社と契約していたが、それ以上は出演しないというのが事務所の方針だったと聞いた。
全盛期の吉永小百合を知らない僕たちの世代にとって彼女は圧倒的なスターだった。もちろん全盛期を知る上の世代にとってもこれは同じことだろう。シズル撮影(僕たちはグラスに注ぐ飲料のカットを撮るためにグラスを磨いたり、氷を削ったりしていたのだ)の準備のかたわら、照明機材の隙間から遠く見る吉永小百合は光彩を放っていた。
吉永小百合は何を演じても吉永小百合である。体当たりの演技や汚れ役ができない。そんな批判も一方であったという。関川夏央は吉永小百合の全盛期は1962年春(浦山桐郎監督「キューポラのある街」)から64年秋(清水邦行監督「愛と死をみつめて」)と言い切る。それ以降一本もヒット作がないにもかかわらず神話的な存在でありえたのはその全盛期に団塊の世代とその上の男たちが清純派として冒しがたい空気をまとった吉永小百合像をつくってしまったからだという。
吉永小百合が日活のトップスターになった背景には石原裕次郎が61年スキーで大けがをしたこともある。
関川夏央は吉永小百合と石原裕次郎を対比させながら、戦後激流の時代を読みとる。吉永小百合に関しては当時の社会の変化や日活という環境、そして勤労少女たらざるを得なかった彼女の家庭環境、そして生真面目な性格がキャパシティの小さな女優として早熟な運命を課してしまったのかもしれない。
もちろん作者のめざしたところは娯楽映画の歴史や俳優論ではなく「ある時代の思潮と時代そのものの持つ手ざわり」(文庫版あとがき)である。
関川夏央が愛してやまない戦後昭和の第二期(昭和35年から15年)がそこにある。

2017年6月13日火曜日

安西水丸『神が創った楽園』

1992年9月から10月にかけてニューヨークに遊びに行った。
当時のメモにはセントラルパークの回転木馬(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に出てくるあの回転木馬だ)を見ること、安西水丸がニューヨーク滞在中住んでいた家をさがすこと、トイザらスでおもちゃを買うこと、TYMNETという中継サービスを利用してパソコン通信をすることといったささやかな目標が記されている。
安西水丸は1969年3月羽田空港を立ち、ハワイ経由のパンナム機で渡米した。はじめはハドソン川のほとり、リバーサイドドライブにあるアパートに住み、その後アッパーイーストの閑静なアパート(たしか83st.だったと思う)に引っ越している。
1990年、僕はタヒチを訪れている。新婚旅行でだ。
特にどうしても行きたい場所が思いつかなかった。当時は毎日忙しかったから、日常から逃避できる南の島がいいんじゃないかと思った。できればフランス語圏がいい。選択肢は狭まってきて、行き先はタヒチに決まった。予備知識はなにもなかった。パペーテからプロペラ機に乗り換え、海の上の空港に着き、船でボラボラ島へ。ポール・ゴーギャンやサマセット・モームの『月と六ペンス』を思い出したのは到着してしばらくたってからのこと。
安西水丸は2004年にタヒチ・ビバオア島を訪れている。
彼の訪ねた町や通ったバーなど、僕はいつも後を追いかけるように訪問していたが、めずらしいことにタヒチに関しては僕の方が先輩である。とはいえやはり絵を描く人だけあって、ゴーギャンの足跡を追っている。ぼんやり海をながめながらヒナノビールを飲んでばかりいた輩とはちょっとちがう。
そもそも僕は「何もしない」をしに行く旅だったのでパペーテとボラボラ島以外は訪ねていない。複製だらけのゴーギャン美術館に行った気もするが記憶にない。
ちなみに僕はニューヨークに行ったのにストロベリーフィールズを訪ねていない。

2017年6月12日月曜日

一坂太郎『幕末歴史散歩東京篇』

表記といえばやはり外来語の表記は難しい。
以前にも書いたけれど本来日本語ではない言葉を日本語に置き換えるわけだから誤差が生じるのは致し方ない。最近ツイッターやインスタグラムに投稿する際のハッシュタグで迷うことが多い。
たとえば#ラーメンと#らーめん。これはカタカナ表記するかひらがな表記するかだけの違いだからまあどちらでもよい。汁物のラーメンは日本で生まれた文化だかららーめんと書くのも一理ある。もちろん拉麺と表記することもあるだろう。漢字にしておくことで翻訳というワンクッションを避けるねらいもあろう。Babyと書いておけばベイビーでもベイビィでもベイベでもそのニュアンスは読み手にゆだねてしまえる。
焼売はどうだろう。これもシューマイかシュウマイで迷う。携帯電話をケイタイとするかケータイにするかに近い感触をおぼえる。シューマイはどうも軽薄な気がする(実にどうでもいいことであるが)。インスタグラムのハッシュタグで多数派は#シュウマイである。僕もカタカナで書くならシュウマイの方がいいと思っている。ただし、炒飯はチャアハンではなくてチャーハンだろうというご批判もあるだろう。それもよくわかる(わかったところでどうしようもないのだが)。
中公新書の『幕末歴史散歩東京篇』を読む。著者はもともと山口県の学芸員だったそうだ。仕事の合間や出張のついでに訪ね歩いたのだろう。膨大な史跡コレクションには感服する。
落語「居残り佐平治」、川島雄三監督の映画「幕末太陽傳」の舞台となった品川宿の土蔵相模の復刻模型が品川歴史館にあることを知る。東京到る処史跡ありだ。
ところで外来語ではないのだが、冷やし中華は冷し中華か、冷やし中華で悩むことがある。初夏の訪れを告げるいわゆる「はじめました」の貼り紙には冷し中華が多い気がしているが、インスタグラムのハッシュタグでは#冷やし中華の方が多数派である。
ほんとうにどうでもいいことではあるが。

2017年6月6日火曜日

関川夏央『昭和時代回想』

先日ある動画を編集していたときのこと。
何か気になるところはありますかと意見を求められたので、インタビューシーンのテロップ「良かった」は「よかった」の方がいいんじゃないかと言ってみた。ディレクター氏がここのインタビューではひらがなが続くのでここは漢字にしておきたいというのでじゃあそうすればと答えた。ひらがなが線路のようにどこまでも続こうが「良い」は「よい」もしくは「いい」であると個人的には思っている。もちろんこれはあくまで個人的な話なので他人様に強要することではない。
個人的な話を続けると「何々するとき」「なになにしたこと」は「する時」「した事」と表記しない。ひとつに文章が古くさく感じられるせいだが、もちろん個人的な話だ。
長いこと広告制作の仕事にたずさわっていると印刷媒体にくらべると映像媒体の制作者の方が漢字を使いたがる。テレビという限られたスペースで文字数を節約しようとの配慮だったかもしれない。僕が個人的にあまり漢字を多用しないのは漢字をあまり多用した文章を読む機会が極端に少ないからだ。
わざとらしい漢字表記もいかがなものかと思う。「おいしい」を「美味しい」と書くのはちょっと恥ずかしい。「はやり」を「流行り」とするのは何となく気が利いていると思う。
関川夏央がふりかえる昭和が好きだ。昭和をいとおしむ姿勢と視線が好きだ。
これまで読んできた筆者の本にはほとんど言及されていなかった彼自身の昭和も描かれている。僕が生まれ育った時代、その10年前に思いを馳せてみる。昭和は案外いいやつな顔をしてそこにたたずんでいる。
関川によれば戦後昭和は15年刻みでその相を変えているという。終戦から昭和35年までの混乱と復興の時代。35年から50年までの高度経済成長とその挫折の時代。さらに昭和の終焉とバブル景気の時代。非常にわかりやすい分類だ。
あっという間に過ぎ去っていった昭和。今にして思えばなんてもったいないことをしたか。

2017年6月2日金曜日

内田百閒『阿呆の鳥飼』

黒沼真由美というアーティストがいる。
学生時代は油画を専攻していた。大学院修了後テレビCMの制作会社で企画にたずさわりながら、どちらかといえば立体の造形に関心が移っていったようだ。正直に言ってひと目見ただけではよくわからないオブジェをつくっていた。
あるとき目黒寄生虫館を訪れた際、何か閃いたのだろう、レース編みでサナダムシを編み上げた。以後レース編みを駆使してミジンコやらセミやらクラゲなどをつくっている。
もともと生き物が好きだったのだろう。隻眼の猫を飼い、競馬中継を丹念に視聴し、セミの抜け殻を集めていた。疾駆する競走馬の筋肉の動きをスケッチしたりしていた。
普通の人には見えないものが見えている。それが芸術家の芸術家たる所以ともいえるが、そういった資質を彼女は持っていた。動きから構造が見えてくる。その逆もある。しくみから動きが見えてくる。もちろんそんなことは凡人には見えてこない。長いこと同じ職場で仕事をしていたが、幸か不幸かさして影響を受けることもなった。ただひとつ黒沼真由美の影響をあげるとすれば内田百閒を読みはじめたことかもしれない。
『阿房列車』を皮切りに内田百閒との旅がはじまった。
鉄道や列車はもともと好きだったので思いのほか苦も無くこのとっつきにくい先生と親しくなることができた。用もないのに列車に乗りに行くことが正当性のある行為であるということもおしえてもらった。百閒先生は黒澤明監督「まあだだよ」でかつての教え子たちに「せんせい!せんせい!」と呼ばれている。僕もおそらくそのなかのひとりだと思っている。そして先生は鉄道だけでなく、猫だけでなく、小鳥に関しても阿呆だとこの本におそわる。そういえば映画の中で先生は鳥かごをだいじそうに運んでいたっけ。
この本には小鳥に限らず、小動物を愛でる百閒先生の気持ちが随所に描かれている。思わず涙が浮かぶ。笑みがこぼれる。まるで黒沼真由美の毎日を見ているようである。

2017年5月24日水曜日

城山三郎『指揮官たちの特攻』

九段坂上の高校に入学して間もなく、靖国神社を訪ねる機会があった。
当時は遊就館なる展示施設はなかったように記憶しているが、そこで見た人間魚雷には強烈な印象が残っている。誰が何のためにつくったものなのか。しばらく思考回路がはたらかなかった。
人類の歴史は戦争の歴史でもあり、それはすなわち殺戮の歴史だった。さまざまな方法で人は人を大量に殺してきたのだ。ナチスドイツによる大量殺人や中国大陸における日本軍の大虐殺は決して許される行為ではない。戦勝国といわれた連合国側だって無差別爆撃を繰り返したその罪はぬぐいきれるものではない。
特別攻撃隊という組織にとりわけキリスト教の国々は恐怖したという。生身の人間の生命を賭して戦うという倫理観がそもそも受け容れられなかった。今でいう自爆テロだ。
日本には古くから武士道という教えがあった。生きて虜囚の辱を受けずという戦陣訓もあった。しかしそれは生きて戦うことを前提にしている。
かつてこの国でテロリズムの萌芽的思想があったと思うと恐ろしい。この国は人間の国ではなかったのか。神風特別攻撃隊では多くの若者が志願したというが、それは真実ではない。志願せざるを得ない状況に追い込まれた人間が志願したのだ。それは志願とはいえない。
放っておいたら、美化されてしまうかもしれない伝説に危惧の念を抱いた城山三郎は史実を丹念に集めた。特攻の真実を後世に残すことで愚かな戦争の犠牲者となった若者たちへ鎮魂の歌を捧げた。
誰もが特攻の無意味さを知っていた。誰もが生命を犠牲にすることの無意味さを知りながら出撃していった。そして誰もが無念のうちに死んでいった。
日本はテロの国ではなかった。城山三郎はどんなに苛烈な軍国思想の下にあっても日本は人間らしさを失わない国だったと伝えたかったのではなかったか。そうした人間らしさを持った国こそがほんとうの「美しい国」なのではないだろうか。

2017年5月22日月曜日

関川夏央『寝台急行「昭和」行』

毎年、夏になると南房総に出かけた。
両親の実家があって、海辺の町で何日かを過ごす。子どもの頃は祖父が迎えに来て、両国駅の「下の」ホームから千倉駅に向かった。房総方面の列車の始発駅がなぜ両国だったのか、両国駅には総武線が発着する高架のホームの下にどうしてホームがあったのか、そんなことを知る由もなかった昔のことだ。
ものごころつく頃には南房総はちょっとした夏の観光スポットで内房、外房という急行列車に代わってさざなみ、わかしおという特急列車が走るようになった。そして夏の繁忙期には季節列車や臨時列車が増発された。時刻表には夏ダイヤの特設ページが設けられた。そんなわけで少なくとも年に一度は時刻表を購入していた。
時刻表から学んだことは大きい。鹿児島に川内という駅(地名)がある。時刻表をながめる習慣がなければおそらく一生「せんだい」とは読めなかったと思う(その後原子力発電所で全国的に知られるようになったのだけれど)。駅名と数字(発着時刻)の羅列が思わぬ想像力を育んだりする。たとえば日帰りで人はどこまで行って帰って来られるのかなどというシミュレーションは時刻表なしにはできない遊びだ。
鉄道趣味の世界は奥が深い。以前読んだ『汽車旅放浪記』で関川夏央の実力に恐れをなしたが、彼以前には宮脇俊三、内田百閒とそうそうたる名前が連なっている。毎年のように房総半島を列車で往き来してきたのに、小湊鉄道も木原線(いすみ鉄道)も久留里線も乗ったことがない僕なんてまだまだ初心者とも言えない。
それにしても列車に乗るって楽しい。遠くに行くのはたいへんだから、まずは近いところから乗りつぶしていきたいとずいぶん前から思ってきた。それで八高線や相模線、鶴見線、御殿場線、つくばエクスプレスに乗りに出かけた。もちろんただ乗りに行くだけの阿呆列車の旅である。そのうちもう少し足をのばして身延線、両毛線、烏山線あたりを乗りつぶそうと思っている。

2017年5月16日火曜日

佐高信『城山三郎の昭和』

東京六大学野球春季リーグは混戦になった。
第五週を終えたところで東大以外の五校が勝ち点2で横一線に並ぶ。第六週は明治と慶應、立教と早稲田によるサバイバル戦。法政は勝ち点2を上げてはいるものの、すでに4校と対戦を終え、東大戦を残すのみ。この週で勝ち点を3にしたチームに優勝争いは絞られる。
今季投打にバランスのいい慶應がまず抜け出す。一発長打力のある岩見や仙台育英で佐藤世那とバッテリーを組んでいた郡司、センスが光る柳町らが経験の浅い投手陣を盛り立てている。明治に連勝して優勝に望みをつないだ。
早稲田立教は3戦までもつれ込んだ。初戦は投手戦。浦和学院のセンバツ優勝投手小島が完璧な投球で早稲田が先勝。2回戦は両チーム合わせて24安打の打撃戦を立教がサヨナラ勝ちした。
そして3回戦。先発投手は小島、田中誠と1回戦と同じだったが、こんどは立教田中が辛抱強く投げ勝った。早稲田は6回の集中打を食い止められなかったのが痛かった。5回の裏の小島の打席で代打を送るという選択肢もあったかもしれない。
これで次週第七週、立教が勝ち点を上げれば優勝。もし立教が勝ち点を落として、最終週慶應が勝ち点を上げると慶應が優勝となる。
先日読んだ『落日燃ゆ』がおもしろく、それまであまり関心のなかった城山三郎に興味を持つ。
昭和2年生まれという。世代としては僕の父や伯父と変わらない。志願しなければ戦場に送られることのなかった世代だ。ところが城山は帝国海軍に志願入隊する。特攻隊に配属される。経済小説というジャンルを切り拓いた作家としか知らなかった城山三郎に俄然興味がわく。タイトルに魅せられてこの本を手にとってみた。
子どもの頃、僕たちのまわりにいた大人たちはみな戦争を経験していた。それぞれが自らの戦争を語ってきた。
城山三郎の戦争ときちんと向きあいたいと思った。
ところで立教も慶應も勝ち点が取れなかったらどこが優勝するのだろう。

※東京六大学野球連盟のホームページで確認したところ、第六週明治法政ともに2勝0敗、最終週早大2勝1敗で明治法政のよる同点決勝ということがわかりました。お詫びして訂正いたします。

2017年5月9日火曜日

城山三郎『落日燃ゆ』

五月の連休は南房総を訪れる。
墓参りというか草刈り、草むしりのためだ。海水温がまだ高くなく、風が乾いているせいか、この時期空も海も青い。ここは南房総市白浜町の東端の集落乙浜。西に隣接するのが千倉町白間津。白間津には母の実家の墓がある。
この時期なにかとニュースになるのが憲法改正論議。社会科学全般(というより学問全般)が苦手だ。日本国憲法をどうしたらいいかなんて訊かれてもまともな返答ができない。たしかに防災や国防の対応面で現在の憲法では足りないところがあるという見解を否定はしない。将来起こり得る事柄に対して準備できている方がいいに決まっている。現状欠落しているところがあれば修正するべきだろう。
戦前の憲法では統帥権を天皇大権と定めたことが後々の歴史に大きく影響を与えた。拡大解釈された統帥権が軍部の暴走を生んだ。それを止める手立てもなかった。
そんななか、武力衝突より外交でと戦争を避けるべく戦った宰相がいた。広田弘毅である。聡明な外交官であった広田は帝国憲法の弱点をおそれていた。粘り強い交渉を重ねることで諸外国との摩擦を避け、軍国主義に傾斜する流れを食い止めようとした。
結果は見るまでもなく歴史が明らかにするところである。
極東軍事裁判で広田は文官としてただひとり、絞首刑の判決を受ける。
あれほど平和外交を貫いた人物が何故に、と思うのが正直言った気持である。広田はこの(不当とも思える)裁判で沈黙を守り続けた。何かを証言することで自分以外の何者かに害が及ぶのを避けたという。
それは広田の生き方だったから、ここでどうこう言ってみても仕方のないことだが、彼が裁判の場でなにがしかの証言をしていたならば日本は今ここにある国とはちがっていたような気がする。日本人はただただ侵略に明け暮れていたのではなく、国益と平和のための外交手腕を持った民族であるという証を歴史に残せたのではないか。
今さら言っても仕方ないけど、そんな気がする。

2017年4月27日木曜日

平松洋子『ひさしぶりの海苔弁』

高校時代、毎日毎日母はお弁当をつくってくれた。
部活動の仲間と昼休みに練習をする都合上、二時間目と三時間目のあいだにその弁当を食べ終わり、三時間目と四時間目のあいだの休み時間に食堂に走って蕎麦を流し込む。ほぼそんな毎日だった。二段になった海苔弁は母の得意技だった(かどうかはわからないけれど)。
海苔弁がブームになっている(と、テキトーに言っている)。
この本で平松洋子が食した東京駅グランスタ紀ノ国屋の海苔弁は、というより紀ノ国屋がすでにない。代わって海苔弁界のスターに押し上げられているのは福島県郡山駅の駅弁、福豆屋の海苔のりべんであるという。JR東京駅構内のお弁当屋で売られているというが実物を見たことがない。一日何十個だか限定で発売されている上、値段も駅弁としては900円と安く、さらにはテレビ番組で幾度か取り上げられている。平日午前東京駅に着いて、駅弁屋をのぞいてみてもそれらしき弁当はない。これはもしや幻の弁当なのか。あるいは世の中の酸いも甘いも知り尽くした大人にだけ見えて、僕のような少年の心を持った人間には見えないのだろうか。
駅弁などというものは行った旅先で食べるからいいのであって、いくら東京駅に全国の駅弁があるといってもそんなところで買うのはフェアじゃない気もする。どうせ食べるのなら郡山に行こう。とりあえずそう思うことにした。
でもたまたま立ち寄った東京駅でひとつでも残っていたら走り込んで買うだろうわが姿もまったく想像できないわけではない。人間の行いというのものはその場になってみなければわからないものなのである。
先日、銀座にGSIXという新たな商業施設がオープンした。かつて松坂屋というデパートがあった場所だ。そのなかに刷毛じょうゆ海苔弁山登りというテナントが入っている。ちょっと高級そうな海苔弁を売っている(値段は1,080円とそれほどでもないが)。
いややはり郡山の海苔弁を食べてみたい。

2017年4月25日火曜日

獅子文六『コーヒーと恋愛』

昨秋に続いて春季高校野球東京都大会決勝戦は早実対日大三。
4月23日が決勝戦の予定だったから本来ならもう終わっているはずだが、4強にセンバツ出場の両校が進出した時点で日程が変更された。22日に神宮第二球場で予定されていた準決勝2試合を同球場で22日に1試合、23日に1試合とし、決勝戦を27日の18時から神宮球場で行うことになった。狭い神宮第二では観客の収容人数に問題があるし、応援団の入れ替わりだってたいへんだ。しかも早実、日大三はともにかつて新宿区、港区にあった学校であり、夏の大会などで対戦するときは毎度のことながらスタンドが超満員になる。西東京の地元だけが応援する学校ではないのだ。ましてや今春ともにセンバツに出場し、この夏はどちらが甲子園に行くのか今から注目されている。神宮第二での決勝戦をいちはやく諦めたのは無難な選択だったと思う(昨秋の決勝戦では多くのファンがチケットを求めて外苑の銀杏並木まで並んだらしい)。
秋は東京六大学野球終了後、明治神宮大会までのあいだの土日ないしは文化の日に日程を組めば神宮球場で決勝戦ができる。春はそうもいかない。平日昼は学生野球、夜はプロ野球の日程が組まれている。準決勝からできるだけ日程を空けてあげることを考えると27日神宮でのナイター決勝戦は妥当なところか。翌28日はプロ野球が予定されているし、29、30日は東京六大学野球も組まれている。
獅子文六は4冊目。今回もちくま文庫のツイートにまんまと乗せられてしまった。
『てんやわんや』『自由学校』では終戦から復興が背景にある。この本は『七時間半』の少し後に書かれている。高度経済成長=新しいニッポンのはじまりが舞台だ。なんてったってヒロインはテレビタレントだもの。そうした点では著者の晩年の作品といえよう。
それにしても27日の決勝戦が国士館対帝京でなくてよかった(両校を応援していた方々には申し訳ないと思うけど)。

2017年4月23日日曜日

平松洋子『ステーキを下町で』

平松洋子というエッセイストがどんな人なのか知らなかった。
日比谷図書文化館の二階をぶらぶらしていたとき『焼き餃子と名画座』という単行本に目がとまった。おそらくその前に月刊誌『散歩の達人』最新号をながめていて、町中華のコーナーでうまそうな餃子の写真を見たせいかもしれない。
サブタイトルには「私の東京味歩き」とある。川本三郎かと思った。
ぱらぱらとページをめくってみるとおもしろそうだ。借りてみようかと思ったけど貸出カードをうちに置き忘れてきている。とりあえず平松洋子という名前だけおぼえて帰ることにした。帰り途、特に読む本もなかったので電子書籍のサイトで検索してみた。『サンドウィッチは銀座で』と『ステーキを下町で』があらわれた。おもしろいそうだからぽちっと買ってしまった。
というわけで平松洋子との付き合いはさほど長くはない。せいぜい半月程度の間柄だ。ついこのあいだ銀座でサンドウィッチを食べ終わった、いや『サンドウィッチは銀座で』を読み終えたばかりだ。あまりよく知らない著者の方からおいしい話ばかり一方的にいただいているのも大人としていかがなものか思い、こんどはグーグルで検索してみた。
電子化されていない書籍もたくさんある。そのなかに『ひさしぶりの海苔弁』という本の装幀が目に飛び込んできた。表紙イラストレーションも挿画も安西水丸。ああ、これなら知ってる、見たことある。
そうか、海苔弁の人だったんだ。
まだ知り合って(知り合ったわけじゃない、こっちが勝手に知っただけだ)、まだ半月しか経っていないというのに俄然親しみがわいてくる(どうでもいいことだけど歳も僕に近い)。なんだはやく言ってくれればいいのに的な錯覚。安西水丸の『a day in the life』の書評を書いている。きっとただならぬ関係だったのだろう。
それはともかく東向島にステーキを食べに行こう。そして6月になったら有楽町であじフライだ。

2017年4月20日木曜日

平松洋子『サンドウィッチは銀座で』

グルメという言葉が一般に使われはじめたのはいつ頃からだろう。
少なくとも学生時代にそんなしゃれた言葉は流通していなかった。バブル経済とかおそらくそんな時代背景の中で使われるようになったんじゃないだろうか。もちろん昔から美食家であるとか、食通と呼ばれる人がいた。おいしいラーメン、蕎麦、寿司、うなぎ、とんかつ、ステーキなどにやたらと詳しい人がいた。
「グルメ」はいわゆるグルメ本とともに普及した。おいしい店は活字になり、写真になり、書店に山積みされた。さらにグルメは映像と音になって電波に乗った。日本全国津々浦々をかけめぐった。温泉とグルメさえおさえておけばそこそこのテレビ番組ができた。
やがてインターネットとソーシャルメディアの時代になる。活字や写植、電波に乗った映像以上の方法量がデータ化されて世界中を飛び回っている。多数決で民主的に決められた最強グルメのお店に連日行列ができる。何時間も並んだ末、スマートフォンやデジタルカメラで撮影されたデータはさらに世界をかけめぐる。
それはそれでいいとして、本当においしいものは食べるその人にとっておいしいものだ。
おいしいものをおいしく食べる人がおいしいものに至るまでの道のり。これこそがソーシャル時代のグルメ情報に著しく欠如している点ではあるまいか。著者が料理を頬張る時空間を共有し、そこに身をゆだねる。そうした追体験を可能にする情報が何よりもおいしい。
昨夜、この本を読み終わって明日(つまり今日)のお昼はサンドウィッチにしようと思った。
仕事場から歩いてすぐに行けるチョウシ屋でダブルコロッケパンとダブルメンチパン。天気もいいことだし、そのまま祝橋公園に腰かけてぺろりと食べてしまった。アツアツのコロッケがうまかった。
やはり東銀座にある映像の編集スタジオに何日もこもって仕事をしていた十数年前を思い出した。
引き続き、『ステーキを下町で』を読みはじめている。

2017年4月19日水曜日

曽根香子『その辺の男には負けないわ』


ずいぶん前の話。民主党の選挙CMのプレゼンテーションをお手伝いした。
CMの提案というのは絵コンテという4コマ漫画のようなボードをつくって完成形をイメージしてもらうのだけれど、そのときイラストレーターに描いてもらった菅直人があまり似ていなかった。鳩山由紀夫はまあまあ似ているのに菅直人が似ていない。時間も限られているのでボードに仕上げて広告会社に確認しに行った。案の定、「菅さんが似てないわよ!」の怒声を浴びた。
プレゼンテーションは翌日。この時点で20時をまわっている。カラーで描いてもらったイラストレーションを修正するのは相当難しい。このあとどう対応しようかと思案している間も「菅さんが似ていない!」と30分に150回ほど浴びせかけられた僕は明日朝まで描き直して来ますと引き下がるしかなかった。イラストレーターに再発注することもできず、僕は夜を徹し、ひとりで描き上げ、着彩した。
「菅さんに似てない」と、月に35日降る屋久島の雨のように浴びせかけた人が曽根香子である。
はじめて会ったのは平河町のおでん屋だった。おしゃべりだけどバイタリティあふれる女性だと思った。酔ってスペイン語を話していた。
それ以降、幾度となく曽根香子の提案の手伝ってきた。
直観に優れている彼女は、本書に書かれているとおり、これと決めたゴールに突き進む。時間もないし、これくらいでいいだろうと思ったのがいけなかった。曽根香子は自分で決めたことに嘘がつけない。志に一途な人なのだ。僕は今でも言い訳めいたことばを繕って逃げようとした自分を恥ずかしく思っている。
これまで曽根香子の友人を何人も紹介してもらった。こういってはなんだが、彼女にはもったいないくらい素敵な人ばかりだった(汗)。
この本には著者にとってばかりではなく、世間一般としてみても素晴らしい人物が何人も登場する。一人ひとりがきっと曽根香子のまっすぐな人がらを愛していたのだろう。

2017年4月14日金曜日

内田百閒『東京焼盡』

僕たちの知らない戦争、その終焉を先人たちはどう迎え、受け容れてきたのか。
両親が戦争の時代を生きた僕ら戦争二世はもっとちゃんと次の世代に語り継いでいかなくてはと常々思う。戦前から戦中、そして終戦を経て戦後。こうした時代を背景にした文学や映画が数多くある。終戦直後に限らない。舞台は何十年も経った日々なのに戦争の影が落ちている、そんな作品も多い。創作だけではなく、その時代を生き抜いた作家がどのように戦争という怪物の臨終を見つめてきたかに興味がある。
安岡章太郎『僕の昭和史』、高見順『敗戦日記』、吉村昭『東京の戦争』…、あげればきりがない。
日本の敗戦をつつみ込む重苦しいにおいをもとめて、これらの本を読んできた。そして内田百閒のこの本も同様の期待感とある種の責任感をもって手にとった。
まるで違う。
百閒先生は時代を達観している。下町が焼け、山の手が焼け、日本中が空襲にさらされていようとどこ吹く風のように淡々と日記をしたためる。米がなくなろうが、酒がなくなろうがあわてふためくこともなく、取り乱すこともない。家が焼け、なにもかもが焼けてしまっても。
先日観た映画、黒澤明監督の遺作「まあだだよ」は松村達夫演じる百閒先生がモデルだった。
5月25日のいわゆる山の手空襲で焼け出されてからは掘っ立て小屋での生活を余儀なくされる。今でいうと千代田区五番町。四谷~市ヶ谷間の土手近くだ。この日記が書かれていたのはこの頃だろう。マッチ箱のようなわずかな空間の中でまるでもうすぐ戦争は終わるであろうと思っていたかどうかわからないが、人生も世の中もすべて見通していたようにさえ思える。
その後番町小学校の北、六番町に居をかまえ、名作を生みだしていく。『ノラや』も『阿房列車』もそこから生まれた。
それにしても内田百閒の中で戦争は呆気なく終わってしまった。先生の心は戦争の終わりよりももっと遠く旅の空の下をさまよっていたのかもしれない。

2017年3月31日金曜日

獅子文六『自由学校』

御茶ノ水駅改良工事が行われている。
地盤強化、耐震補強、バリアフリー化をはかる工事だそうである。御茶ノ水駅といえば足下に神田川が流れているが、この川が江戸時代初期に開削されたことはよく知られている。本郷の台地に無理矢理川を通したものだから、隣の水道橋駅や秋葉原駅のあたりと異なり、御茶ノ水駅は狭隘な地形に位置している。しかも東西を聖橋、お茶の水橋にはさまれている(駅は御茶ノ水だし、橋はお茶の水だし地名の表記は難しい)。工事をするにはやっかいな場所だ。
現在、神田川の上に仮設桟橋を設置している。せまく、急峻な地形のため桟橋をつくって、そこから神田川河岸の耐震補強を行うらしい。聖橋口の駅前広場機能整備まで含めると2020年までかかるというから、かなり大掛かりな工事である。
お茶の水はこの小説ではお金の水と称されている。家を追い出された南村五百助はお金の水橋の袂の土手に住んでいた。今でいうホームレスである。
戦後間もない昭和25年頃、混乱の時代ではあったが、お茶の水の谷間にはのどかな時間が流れていたのではないだろうか。さすがの五百助もこんな工事の最中ではのんびりもできなかったにちがいない。
獅子文六を読むたびに思う、これは映画全盛期の小説だなと。
実際にその作品の多くが映画化されている。澁谷実監督「てんやわんや」、川島雄三監督「特急にっぽん」(原作は『七時間半』)と、これまで読んだ二冊はともに映画になっている(いずれの映画も興味深い)。1950~60年代の映画全盛期は原作に飢えていた時代だったのかもしれない。
『自由学校』にいたってはほぼ同時にふたりの監督が映画化している。吉村公三郎監督(大映配給)と澁谷実監督(松竹配給)。この競作がともに好評を博したというのだから驚きだ。
獅子文六の作品人物はキャラクターがはっきりしているから、活字の世界から実写の世界に飛び出すにはうってつけなのかもしれない。