2018年9月26日水曜日

西村まさゆき『ふしぎな県境』

横須賀線の西大井駅とその周辺はもともとあった三菱重工の工場跡地を再開発した地域である。その東側にやはり三菱系の日本光学(現ニコン)の工場があり、今では暗渠となっている立会川に沿って大きな工場が並んでいた。
立会川の北側は住所でいうと品川区二葉二丁目、南側は同じく西大井一丁目である(町名が改正される以前の昭和31年の地図によると二葉四丁目、大井森下町となっている)。この境界は古く東京35区時代の品川区と荏原区の区境だった。警察や消防の管轄も北は荏原、南は大井である。
ところが地図をよく見てみると、西大井駅付近のかつて立会川が流れていた流路を越えて、その北側に西大井一丁目が張り出しているところがある。マンションと小さな工場が並んでいるのだが、右と左で町名が変わるのである。
長いこと不思議に思っていた。三菱重工が境界もろとも川を越境して工場の施設をつくったためではないかと想像していたが、そもそもこの工場ができたのが昭和初期。地名はそれよりももっと前からあったはずである。そう考えると立会川の流路が以前は蛇行していたと考える方が妥当か。
こうしたどうでもいいことが気になるようになって、東京23区の区境に興味を持つようになった。それもできれば住居表示板があってひと目でわかる区境に。
もちろん都県境や県境にも興味はある。
この本を読む限り、県境や都県境をめぐるにはそれなりの体力が必要だと思う(青島幸雄的に言うと手間もかかるし元手もいる)。それでいて一枚の写真で境界がわかりにくい。ここから何県、ここから何県という明確でドラマティックな記号がほとんどない。著者は心の眼で見よというが、それは旅する個人で楽しむ分には大いに結構なのだが、ソーシャルネットワークの時代にあってひと目で共有できる楽しみがないというのはいかがなものかと考える。
そういうわけで僕は細々と東京23区区境の旅に勤しんでいるのである。

2018年9月25日火曜日

吉村昭『鯨の絵巻』

南房総に乙浜という集落がある。房総半島最南端の漁港があることで知られている。父が生まれたのは、その乙浜である。
吉村昭の長編小説『ふぉん・しいほるとの娘』に乙浜村が登場する。幕末に近い天保の時代、各地で漂流民となり外国船に助けられた船乗りたちが守谷(今の勝浦市)や乙浜に上陸したという記述が残っているそうだ。
1935(昭和10)年10月30日。乙浜港の氷貯蔵庫で火災が発生する。隣接する七浦村(後の千倉町)の消防団も駆けつけ、出火から一時間半後の21時半ころ下火になる。が、そのとき焼け落ちた倉庫が大爆発を起こす。逃れるすべもなく消防団員他15名が落命する。
七浦村の消防団団長を務めていたのが僕の祖父渡辺福次郎であった。
爆発事故を聞き、必死の思いで走ってきた祖母センは土砂の中から突き出た脚を見つけ、助けを求める。掘り出され、館山の病院に搬送された祖父は一命をとりとめた。
倉庫の中には圧縮酸素とダイナマイトが格納されていた。1907(明治40)年3月。房総沖で座礁した米大型商船ダコタ号の引き上げと解体に使用される資材だったという。
祖父と祖母の五番めの子として母が生まれたのが昭和9年11月。もしこの事故で祖父が殉職していたら、母に続く叔母、叔父はいなかった。
乙浜といえば捕鯨でも知られていた。今でも千倉町の隣、和田町に捕鯨基地があるが、1972(昭和47)年まで乙浜にも捕鯨基地があった。今では跡地にリゾートマンションが建ち、隣接する公園には明治初期に建てられたという鯨塚が遺されている。
南房総はカジキの突棒(つきんぼ)漁がさかんだった。鯨もカジキ漁の延長線上にあったのかもしれない。
第一次産業をあつかった吉村昭の小説は思わず息を呑んでしまう。どんな仕事もいのち懸けにはちがいなだろうが、各編に生命と生命の壮絶な戦いがある。人間だろうと動物だろうと軽んじていい生命はない。

2018年9月8日土曜日

林真理子『西郷どん!』

NHKの大河ドラマはたまにしか視ない。というかほとんど視ていない。
最初に全部視たのは「新・平家物語」だったと思う。次いで「新選組!」、そして「花燃ゆ」と通しで視たのは自慢じゃないがこの三本。
C書房に高校時代の友人がいる。文学少年、文学青年を経て出版社に勤務しているだけあって、「樅の木は残った」も「花神」も視ていたという。1970年といったら「巨人の星」と「あしたのジョー」くらいしか僕はテレビを視ていなかった(少なくとも記憶にあるのはその程度である)というのに恐ろしい友である。
大河ドラマというのは大河ドラマというだけあって、キャストもたいへんである。今回の「西郷どん!」は大河ドラマ初登場の鈴木亮平が西郷吉之助役だが、大久保一蔵役の瑛太は「篤姫」では小松帯刀だった。そのときの西郷は小澤征悦。「花燃ゆ」では宅間孝行。そんなことを言ったら今回の坂本龍馬は小栗旬だが、「龍馬伝」では福山雅治、「篤姫」では玉木宏、古く「竜馬がゆく」では北大路欣也だった。
きりがないのでこの辺でやめる。
小説の世界も似たようなものかもしれない。西郷吉之助を主人公にした作品はこれまでいくつもあった。歴史小説を書き続けてきたわけでもない作者が幕末維新の英雄伝を書くにはそれなりの覚悟もあっただろう。
先述のとおり大河ドラマはほとんど視ていないが、林真理子の本も一冊も読んだことがない。読んでみたいと思う作品は何冊かあったにはあったけれど手にとって目を通すまで至らなかった。今回はじめて読む作家である。
読みにくくないというのが第一印象である。読みやすい作家もいれば読みにくい作家もいる。読みやすい人だとするする読めて、後味がわからないこともある。むしろ読みにくい方がちゃんと読むから少しは何かが残るのだが、やはり読みにくいものは読みにくい。
その点読みにくくない本はありがたい。
ドラマではずいぶん脚色されているが、原作はすっきりしている。それもよかった。

2018年8月27日月曜日

司馬遼太郎『跳ぶが如く』

今年は明治150年という節目の年だ。
幕末から維新にかけての立役者は誰か、となれば意見のわかれるところだろう。坂本龍馬という人もいれば、桂小五郎、勝海舟を推す声もある。教科書どおりにさまざまな見解を集約すればやはり西郷なのだろう。NHKの大河ドラマでは「西郷どん!」が放映されている。それがなによりもの証といえる。ちなみに明治100年にあたる1968年は「竜馬がゆく」だった。
幕末維新は長い日本の歴史の中でも比較的新しい変革の時代であるにもかかわらず、史実だけを追っても解釈することが難しい。創造の手助けが必要になる。教科書では理解できなかった歴史が小説家の視点を通して、鮮明でリアルなものとなる。もちろん事実か否かというのは定かではないけれども、僕たちは厳密な真実だけを追い求めているわけではない、何ごとにおいてもそうだが。
幕末の世に思いを馳せるにあたって、吉村昭の長編小説は大いに力になってくれた。『長英逃亡』、『ふぉん・しいほるとの娘』、『桜田門外ノ変』、『生麦事件』など。忠実に資料をたどる吉村もさることながら(あるいはそう思わせるように書いているだけかもしれないが)、幕末維新の核心となる部分で司馬遼太郎の果たした役割は大きい。司馬にしても創作としての歴史をでっち上げたわけではなく、綿密に資料を読み込み、取材を重ねてドラマのディテールを構築している。遠くから歴史をながめる読者を刺激してやまない。
ご存知のとおり、『跳ぶが如く』は「西郷どん!」の原作ではない。舞台は維新後(征韓論から西南戦争)である。まず読むべきは林真理子の原作『西郷どん!』なのだろうが、司馬遼太郎から読まないとどことなく落ち着かない。というわけでまずはこの本からということになった次第である。
それにしても維新後の西郷吉之助に何が起こったのだろう。大河ドラマの西郷は幕末にあって維新に向かってまっしぐらに突き進んでいる。

2018年8月22日水曜日

坂崎仁紀『うまい!大衆そばの本』

高校野球では公立校を応援している。
公立出身だからといえばそれまでだが、甲子園に出場する都道府県立、市立の高校に肩入れする傾向がある。そういった点からすると今年は都立小山台が東東京大会で決勝進出し、甲子園の選手権大会でも秋田県立金足農が決勝に進んだ。両校とも最後の試合で涙をのんだわけであるが、よくやったと許してしまうのも公立ファンならではかも知れない。所詮は選び抜かれた野球エリートが集まる強豪私立にかなうわけがないのだという甘えがある。そういったゆるさは嫌いじゃない。
個人的に蕎麦屋を三種類にわけている。ひとつは「町蕎麦」と呼んでいる普通の蕎麦屋である。基本出前をしてくれる。その対極にあるのが「老舗蕎麦」であり、かんだやぶや室町砂場を筆頭に昔ながらの名店である。きちんと線引きできるかどうかは実は微妙なところで、たとえば神田のまつやは老舗でありながら、限りなく町蕎麦屋に近いと思っている。
もうひとつが「独立系」で主として老舗系で修業を積んで独立したり、脱サラして夢をかなえた蕎麦屋である。基本的に少しおしゃれで少し値の張る蕎麦屋であることが多い(僕があまり行かない蕎麦屋でもある)。
お昼からちゃんとつまんで、お酒を呑むなら迷わず老舗系を訪ねる。日常的に昼食ということであれば町蕎麦屋に入る。はじめて訪れた町で鄙びた蕎麦屋ののれんをくぐるときのわくわく感は何ものにもたとえようがない。
もうひとつの蕎麦屋を忘れていた。「立ち食い系」である。これまで立ち食いそばは町蕎麦屋の下に位置付けていたきらいがあった。だがここ半年以上、都内の立ち食いそばを食べ歩いてみて、立ち食いそばは町蕎麦の一ジャンルであると認識を改めた。
著者の坂崎仁紀の提唱する「大衆そば」はそれまでの僕の蕎麦に対する考え方に大きな変革をもたらしてくれたのである。
そして今日のお昼も迷うことなく、大衆そばだ。

2018年8月20日月曜日

吉村昭『魚影の群れ』

夏のお盆休みを南房総で過ごすようになってもう何年にもなる。
東京がどんなに猛暑でも南房総は朝晩には涼しい風が吹き、しのぎやすい、というのが例年のパターンだったのだが、今年は違う。まるで東京にいるように暑い。夕方陽が翳ってもすぐには涼しくならないし、朝は太陽が昇るとさっそく暑くなりはじめる。ここ何年かの猛暑化傾向は外房の海辺の町にまで押し寄せている。直射の日差しが痛いくらいだ。
昔からエアコンはなかった。あるのは商店くらいで昔ながらのつくりの家でエアコンを付けているところはほとんどない。必要がなかったといえばそれまでだが、最近の住宅は建材や断熱材の関係か熱がこもるらしく、取り付けている家も増えたと聞く。
隣町には母の生家があり、墓地もある。毎年墓参りに訪れる。従兄の家に立ち寄って線香をあげる。さすがに今年は暑いからといってエアコンを取り付けたという(取付工事までしばらく待たされたらしい)。アイスコーヒーをごちそうになり、久しぶりにエアコンの風を浴びた。
『魚影の群れ』は4年前に読んでいる。吉村昭の第一次産業もの(と自分で勝手に分類している)である。おさめられている短編の中では宇和島のネズミ騒動を題材にした「海の鼠」の印象が強かったが、今思い出されるのは表題作である。多分に相米信二監督の映画の影響が大きいかと思う。青森大間のマグロ漁師緒形拳もさることながら、当時新進気鋭の佐藤浩市、本格的な女優になりつつあった夏目雅子が今でも印象に残っている。
南房総で夏を過ごしていると親戚や近所の人からイセエビやアワビ、サザエなどをいただく。千葉のイセエビは豊漁が続いていて、本場三重県よりも漁獲高が高いという年もあるという。10分ほど塩茹でするだけでおいしく食べられる。
イセエビはえび網を仕掛けて獲るという。そこにはマグロを捕らえるのと同じようなドラマがあるのではないかなどと想像をたくましくしてみる。

2018年8月17日金曜日

山本周五郎『正雪記』

新しきは旧きを駆逐する。
映像の世界ではずいぶん前にフィルム(アナログ)がデジタルの波にのまれた。フィルムで撮影した映像にはそこはかとないニュアンスや味わいがあったけれども、今となってはフィルムを用いなくとも同等かそれ以上の質感を醸し出すことができるようになっている。そうこうするうちにフィルムカメラもフィルムを扱う熟練した技術者も、フィルムそのものも現像所の数も少なくなってしまった。
もっと身近なところでいえば、PCなどのデジタル機器がそうだ。いかにすぐれたスペックを持っていようと、5年前、10年前の機種は時代から取り残される。次から次へと生まれる新しい機能に対応できなくなる。
歴史をさかのぼってみても新たな時代のはじまりとともに、旧体制は不要なものとされ、駆逐されてしまう運命にある。明治維新後の士族が不平を膨らませて爆発した。同じようなことはすでに徳川幕府の初期にあり、新しい体制によって仕事を奪われた武士たちの多くが浪人となって、日本中そこかしこにあぶれてしまった。
この本は職を失った武士たちを救済すべく立ち上がった由比正雪の物語である。
いわゆる慶安の変(由比正雪の乱)は1651年のできごとである。同じ山本周五郎の名作『樅の木は残った』で語られる伊達藩取り潰しが画策される時代にほぼ近い。
江戸時代のはじめはまだまだ緊張感のみなぎる時代だった(たいして日本の歴史を勉強してこなかったけれど山本周五郎が素晴らしい小説にしてくれていてたいへん助かる)。新体制に立ち向かう旧体制という図式は(おそらく)今も変わらないだろうが、たいていの場合、旧い方が分が悪いと思う。アナログ陣営が反乱を起こしたって、どう考えてもデジタルには勝てそうにない。10年前のPCが何百台集まったところで最新スペックのデジタルデバイスの方が圧倒的に便利で駆逐されてしまうだろう。
残念なことではあるけれど、それが現実というものだ。

2018年7月13日金曜日

吉村昭『暁の旅人』

少し前のことだけれどカタカナ表記、とりわけ外来語の表記は難しいといったことを書いた。それとは別の話になるが、ローマ字というのも厄介なものだ最近(というかずいぶん前から)思っている。
くわしくはわからないがローマ字にはなんとか式といった流派というか宗派みたいなものがあるようだ。いろいろあるようなのでくわしくわかろうとしていない。例えば石原さんという人がいる。名前を裕次郎としよう。
Yujiro Ishiharaと表記することが多いように思う。たいていの人がこれでユウジロウと読んでくれる。だが違った書き方の流派もある。Yuujirouと書いても間違いではない。
アン、ウン、エン、オンが難しいのはフランス語とローマ字であるが、不思議と小泉純一郎をコイズミジュニチローと読んだり、田園調布をデネンチョウフと読む人も少ない。日本人はローマ字に対しても識字率が高い。
ハ行はHaHIFuHeHoになることが多い。フだけが特別扱いされる。タ行もTaChiTsuTeToだったりする。チョがChoだったり、リョがRyoだったりする。めんどくさいが、そうなっているから仕方ない。立教大学はRIKKYOと表記されているが野球部のユニフォームにはRIKKIOと縫い付けられている。
行った先々でルールが生まれる。時代とともに変化する。それはそれでいいことだ。
幕末を舞台にした小説にときどきあらわれる医師松本良順は、長崎でオランダ医学を学び、幕府のお抱え医師として激動の時代を生きた。戊辰戦争では幕府陸軍、奥羽列藩同盟軍の軍医として帯同した。日本史のいちばんおいしいところを目の前で見てきたわけだ。交友関係も近藤勇や榎本武揚などがいる。ちょっと人に自慢したくなるような一生だったにちがいない。
それはともかくとして昔の日本人はどうやって外国語をマスターしたのだろうか。たいへんだったんだろうな。想像しただけで眠くなってくる。

2018年7月9日月曜日

打川和男『図解入門ビジネス最新ISO27001 2013の仕組みがよ~くわかる本 』

今年の夏の高校野球(選手権大会)は100回記念ということで出場校が多い。埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡が2地区にわかれる。
東京でも予選がはじまった。野球部出身ではないが、ほぼ毎年母校の試合を観ている。これはちょっとした癖みたいなもので観ないとどうにも落ち着かない。東東京大会であるが、東京の東西を比較すると球場の数は圧倒的に西東京に多い。東東京で試合会場になるのは、神宮、神宮第二、大田、江戸川、駒沢だが、今年は駒沢球場、大田スタジアムが改修工事となっている。かわって府中市の明大球場が東東京大会一二回戦の会場として割り当てられている。三回戦以降は神宮、神宮第二、江戸川の三球場でまわすようだ。
先月仕事場のプライバシーマーク更新審査を終えて、少しだけ気持ちにゆとりができたのかも知れない、将来的にISMSの認証を取得できたらいいなと思った。そういうときは多少読むのがつらいとしてもこの手の本を読む。そしてたいてい後悔する。
この本も例外ではなかった。そもそも「よ~くわかる」なんていう工夫のかけらもないタイトルの本でよ~くわかるはずはないのである。この本はISMS認証の取得を考えている人に手ほどきしてくれる参考書ではなく、すでに認証を取得しているが2013年の規程の改訂にともなってどう今後対応したらいいかの、いわばチェックリストの域を出ない。プライバシーマーク認証取得のときもこうした書籍に目は通したけれど、これからどうしたらいいのか雲をつかむような読者を想定してわかりやすく次のアクションに導いてくれるものはほとんどない。第三者認証取得物語的な小説で想像力にはたらきかけてくれたらもっとたくさんの人を魅了するだろうにと思う。
明大球場で行われた初戦はみごとなコールド勝ちだった。
今年のチームは何年かぶりに春に都大会まで駒を進めているので、少しだけ期待している。もちろん少しだけである。

2018年7月2日月曜日

林芙美子『戦線』

林芙美子は新聞社の特派員として中国戦争、太平洋戦争に従軍し、提灯記事を書いていた。そのことで軍国主義政府のおかかえ作家と非難を浴びていたという。この本を読むとそのことがよくわかる。
いくら侵略戦争を推し進めることが時代の趨勢だったにせよ、帝国陸軍が中国大陸の奥深くまで進軍し連戦連勝を続ける時代だったにせよ、文筆を生業とする知性の持ち主がここまで戦争を賞賛し美化するだろうか。
今さら林芙美子を擁護しても仕方ないのだが、記者として戦地に赴いたというのは彼女が作家として当時いかに人気があったかの証左でもある。時あたかも朝日新聞・大阪朝日新聞と大阪毎日新聞・東京日日新聞が発行部数においてしのぎを削っていた。武漢作戦に同道し、林芙美子自身が陥落後の漢口に乗り込んだことで朝日陣営がついに逆転に果たす。まさに時代の真ん中にいた作家だからこそなしえた技といえる。
林芙美子の根幹にあるのは貧しい生い立ちである。売文業に活路を見出した彼女にとっては提灯記事を書くこともお抱え小説家と非難されることもまったく苦にならなかったのだろうと思う。お金になるなら、糊口をしのげるならなんだって書く。そのバイタリティが彼女の持ち味だ。そしてもうひとつの持ち味が放浪の作家であることだ。
林芙美子の作品は旅とともにあった。放浪が人生のベースにある。旅先の苦労など厭うことなく旅情をゆさぶる紀行を多く遺した。
ふるさとを持たず、行商が人生だったというようなことを関川夏央が書いていた。自らの立ち位置を定めないところが林芙美子の真骨頂だ。行きたいところへ出かけ、食べたいものを食べ、戦意高揚を歌えと言われたら、どこまでも声高らかに歌い上げる。そこには固執すべき自分はなく、主義も信条もない。彼女の紀行文のすばらしさは旅の空に浮かんでいる浮雲のような彼女自身から生み出される。
「戦線」に比べ、満州を旅した記録「凍れる大地」のなんと素敵なことか。

2018年6月30日土曜日

近藤勝重『13歳から身につける一生ものの文章術』

以前読んだ大野晋の『日本語の教室』(岩波新書)に、本を読ませて感想文を書かせたり、営業上必要な報告論文や商業用の手紙を書かせる研修をある企業で行ったところ業績が格段にアップしたというようなことが書かれていた。社員の知識不足や言語能力の欠乏には言語を中心とした訓練がふさわしいという。
世の中の問題は大概の場合、言葉の問題だ。そのためには読書と作文は欠かすことはできない。反論の余地はない。
でも僕は思うのだ、そうは言っても、と。
たしかに言語の力は何ものにも代えがたいけれど、人間には向き不向きがある。本を読めと言って読める人間とそうでない人間がいる。それも訓練だといえばそれまでだが。作文に関しても同様。絵が描ける人と描けない人がいるように文章が書ける人と書けない人がいる。どちらもまったくかけない人はいないだろうが、大人だってもらったメールに返信をするのが苦痛な人は多いはずだ。
僕はかろうじて本を読む習慣と人並み程度の作文が書ける能力にめぐまれた(ついでに言えばろくでもない絵だって描ける)。そのせいでこれまで本を読めなかったり、作文が書けない人のことを考えたことがなかった。どうしてこの人はものごとを知らないのだろう、口では立派なことをしゃべるのに拙い日本語しか書けないのだろう、そういう人に少なからず出会ってきた。本を読まなくたって、文章が書けなくたって、映画やドラマや演劇を人一倍観て、自身に刺激を与え続けている人もいるし、作文以外にも自分を表現する手段を持っている人もいる。たいせつなのは人それぞれが自分の生き方を持っていることであり、そのことをちゃんと認めてあげることだ。
ときどき日本語に関する本を読む。
13歳はとっくに過ぎてしまったけれど、作文の基礎を教わった。この本で作文が書けるようになっても書けない友だちの気持ちがちゃんとわかる子どもになってくれたらいいと思いながら。

2018年6月20日水曜日

山本周五郎『栄花物語』

ずいぶん昔、ショパンのCDを買った。CD=コンパクトディスクの時代だから、レコードしかなかった学生時代ではない。1980年代の半ば以降だろう。
マット・ディロンがサントリーのテレビコマーシャルに出演していた。シルキーというウイスキーだった。ディロンがウイスキーを飲んでいるとどこからともなくピンクの象がやって来る。
ナレーションは「時代なんか、パッと変わる。サントリーリザーブシルキー、新発売」である。不思議な空気に包まれたCMだったが、とりわけバックに流れる音楽が印象に残った。コピーライターは秋山晶で氏の作品集にクレジットが掲載されている。使用されている楽曲はショパン作曲マズルカ第38番作品番号59-3。
というわけでCDを購入したのである。ピアノはウラディミール・アシュケナージ。マズルカはポーランドの民族舞踏の形式のひとつで基本は4分の3拍子。ということは後日知る。ルービンシュタインの音源もある。これもまたずっと後日に知る。
高校時代の日本史だったか、大学での一般教養の講義だったか思い出せないけれど、江戸時代に田沼意次という政治家がいて、大商人と手を組んだ腐敗政治の人で後に失脚し、松平定信が登場したみたいな話を聞く。当時の若者にわかりやすくたとえると田沼意次が田中角栄で松平定信はその後を受けた“クリーン”三木武夫だということだった。
昭和の成長期を支える多くの立法にたずさわった田中角栄は時代を読み解く知を持ち、民衆の心をよく理解していた(最近田中角栄の本が多く上梓されている)。商業の発展が幕政を圧迫するであろう先々を見越していた田沼意次と重なり合うところがたしかにある。歴史の授業では通り一遍に悪の政治家で終わってしまうことが多いようだが、実は有能でかつ質素な生活をしていた人なのだ。
本当のところはどうだがわからない。が、山本周五郎がそう書いているのだから、おそらく間違いないだろうと思っている。

2018年6月10日日曜日

吉村昭『漂流記の魅力』

FacebookやTwitterなど、読書に限ったことではないけれど今では有力な情報源になっている。
ちょっと興味を惹く記事が表示される。読んでみようとタップする。何行かさわりだけ書かれていて、続きを読みたければ「いいね!」してくださいという。この時点で興味が失せる。ニュースの発信元が「いいね」か「いいね」じゃないかなんて読んでみなければわからないじゃないか。
youtubeにアップした動画をシェアしてくれたら、TwitterやInstagramでこのアカウントをフォローしてくれたらプレゼントを差し上げますというのもいかがなものかと思う。フォロワーが増えないとかページビューが稼げないというなら、まず取り組むべき課題は発信する情報そのものを魅力的にしていくことなんじゃないだろうか。SNSをキャンペーンの応募はがき替わりとでも考えているのだろう。これがまたひそかに応援している企業だったりするとかなしい気持ちになってくる。
傍から何か言うのは簡単なことだ。自分が企業のソーシャルメディア担当者だったら、やはりエサでフォロワーやRTを釣るような愚行をきっとするのだろうとも思う。企業やブランドを好きになってもらうSNS施策のハードルは相当高い。
ソーシャルの友だちと本の話で盛り上がることが多いのは司馬遼太郎、山本周五郎、吉村昭、あたりだ。
僕はずいぶん後になってから読みはじめたのでさほど多くの著作に触れたわけではないけれど、これらの本を多少でも読んでみてよかったと思っている。去年も『闇を裂く道』や『高熱隧道』を読んで、やはり吉村昭ファンの友だちと盛り上がった。
吉村作品で好きなのは“歴史もの”、“第一次産業もの”だったが、ついに“トンネルもの”デビューを果たしたのである。あまり読んでいないジャンルに“漂流もの”がある。たしか『アメリカ彦蔵』くらいしか読んでいない。
そこでこの本を手にとってみたのである。

2018年6月8日金曜日

菅野仁『友だち幻想:人と人の“つながり”を考える』

こんなはずじゃなかったと思うことがいくらでもあった。
他人から見れば大人に違いないだろうが、どうしてこんな大人になってしまったんだろうか。少なからず誰しもそう思うときがあるんじゃなかろうか。
人が成長していくなかでなにが難しいかといえば、自分の力の見きわめと人間関係ではないかと思っている。「彼を知り己を知れば」という故事があるが、自分を知るということは人生最大の難問である。たいてい人は自己を過大評価している。できないこともできると思い込んで生きている。それならそれで前向きでけっこうなのだが、同時に過小評価もしている。俺はそこまでの人物ではないと思っている。過大と過小のあいだを行ったり来たりしているだけで最適化された自分を見出すことがない。面倒くさいのだ、人間は。
人間どうしの関係もやっかいなものだ。自分で自分のことすらわからないでいるわけだから、ましてや他人様のことなどわかるわけがない。その他者だって誰ひとりとして自分の理解者であるわけがない(だからごくまれにわかってくれる人と出会うとうれしくてたまらなくなるのだろう)。
何を考えているかわからない人たちのあいだで、誰もわかっちゃくれないんだよなあと思っているうちに人は歳を重ねていくのだ。
10年前に出版された本がまた売れ出しているらしい。もともと売れてはいたそうだが、昨年あたりから3倍くらい売れ出したという。
そういうわけで興味を持った。
著者は宮城教育大副学長だった菅野仁。東北は仙台出身の社会学者である。人間関係、まさに“人のつながり”を長年研究してきた人なのだろう。
想定している読者は高校生くらいか。これから直面するであろう世の中のしくみを丁寧に説いている。もちろん大人が読んでも学ぶべき点が多い。「大人になるためにかならず必要なことなのだけれど、学校では教えないことが二つあります」なんて御意としかこたえようがない。
もっとはやく気づけばよかった。

2018年6月1日金曜日

吉村昭『大本営が震えた日』

2年にいちどのプライバシーマーク更新審査が終わる。
最初に認証を取得したのが2006年だから、今回で7回目の更新になる。3月に申請書を提出し、文書審査を経て、先月現地審査が行われた。不適合と指摘された事項に対し、改善報告書の作成提出、今はひと段落している。
日頃はどうやっておもしろい広告をつくろうかということしか頭にない。規格だ、手順だ、規程書だなどというのはまったくの門外漢である。それにしても見よう見まねでよくここまでやってきたものだ。
審査では毎度のことであるが、映像コンテンツの制作工程とそれにかかわる個人情報の流れを説明する。舞台裏を聞いた審査員は「CMってこうやってつくられるのですね」と感心してくれる。おそらく彼らが審査員になってこの会社を訪ねなければ知りえなかった話に違いない。はじめて映像コンテンツをつくる広告主の担当者のように目を輝かせる。僕たちがコンプライアンスという不慣れな作業に戸惑うように彼らのなかにも今まで知らなかった世界がインプットされる。
広告の仕事をしてきてよかったと思うのはさまざまな業種、商品、サービスに出会えたことだ。あるときはお菓子をつくる人、またあるときは不動産を販売する人と案件ごとにその担当者の立ち位置に身を置いてみる。できるだけ相手の立場でものを見て、考える。これが楽しい。広告屋だから広告のことだけ考えていればいいという考え方もあるだろうが、へんに専門家ぶるのはどうかと思う。
太平洋戦争にいたるまで、幾多の工作があり、漏えいの許されない情報管理があった。現実に危機的状況にもさらされた。そして吉村昭の手によって掘り起こされた。
プライバシーマークの審査の際は審査員の方たちもたいへんだろうなとか、もっとちゃんとした会社のコンプライアンス担当の方はどんな気持ちでこの日を迎えるのだろうなどと想像してみる。もちろんたいしたことを思い描けるわけではない。

2018年5月29日火曜日

吉村昭『落日の宴』

立ち食いそばではあるのだが(差別する意識はまったく持っていない)、スマートフォンで写真を撮ってソーシャルメディアにアップなどすることがある。
するてえと、やはり立ち食いそば好きな何人かが「いいね」してくれる。では彼らはどんなそばを食べているのだろうとタイムラインを見にいく。そこで今まで知らなかったお店の情報を得ることができる。「#立ち食いそば」とか「#路麺」などというハッシュタグが付けられている。それらを手がかりにまた新しい店を見つける。世の中はすこぶる便利になっている。
昔ながらの立ち食いそばが好きなせいか、茹で麺で汁の濃いそばを食べることが多くなった。真っ黒い汁を路麺ファンは「暗黒汁」などと呼んでいる。末広町や神田須田町などに店を構える六文そば、秋葉原から少し歩いた台東区台東にある野むら、神田岩本町の味じまんなどが茹で麺+暗黒汁の店として知られている。そして彼らが愛好する種物はゲソ天だったりする。今までは立ち食いそばならかき揚げを注文しておけばいいだろうと安易に考えていたが、それは京都に行って寺社仏閣めぐりをしただけで鉄道博物館を訪ねなかったに等しい。
年明けだったか、大衆そばの本を読み、参考にしながら食べ歩いている。まだまだ行ってみたい店も多い上にSNSからおいしい情報が飛び込んでくる。しばらくは立ちそば放浪の旅を楽しもう。
川路聖謨を主人公にしたこの本は3年ほど前に読んだ。プチャーチンが長崎にやってきたとき交渉にあたった人物である。ロシア側の受けもよかったようであるが、さすがに3年も前に読んだ本だとつぶさに思い出すことができない。
吉村昭の著作は一時乱読したことがあり、これまでにも読みっ放しのものが何冊かある。思い出してはここに記しておこうと思うのだけれど、困ったことになかなか思い出せないでいる。
そういえば出久根達郎も川路聖謨の本を書いていた。これも題名を失念している。

2018年5月25日金曜日

安野光雅、藤原正彦『世にも美しい日本語入門』

ハコネノ ヤマハ テンカノケン
カンコクカンモ モノナラズ
小学5年生のときだったか、夏休みの林間学校で訪れた箱根。観光バスに同乗していたタノヨシマサ校長(字は思い出せないが、頭の禿げ上がった筋肉質の先生だったとうっすら記憶している)が「箱根八里」を歌いはじめた。
校長はこの古めかしい歌を歌ったあと、函谷関とは、萬丈の山、千仞の谷とは、羊腸の小径とは、と解説を加えていった。当時わからないこともあっただろうけれど見事に記憶に残っている。
そして皆で歌った。見たことはないけれど往時の武士(もののふ)が脳裏をかすめた。
日本人の教育ってこういうことなんだとこの本を読んで思う。
以前観た篠田正浩監督の「少年時代」では少年たちがガキ大将を先頭に軍歌を歌いながら登校する。歌(歌詞は、あるいは言葉はと言い換えてもいいかもしれない)は日本人に身近だったことがわかる。そして日本語も日本人としての考え方も矜持も植え付けられていく(もちろん軍歌がいいと言っているわけではない)。
『国家の品格』でおなじみの藤原正彦は作家新田次郎のご子息であり、母親は『流れる星は生きている』の藤原ていである。さらには小学校時代の図画工作の先生が安野光雅であったと知って驚いた。
近年、学校でも国語の授業がどんどん減らされているという。美しい日本語との接点が失われていく。戦後、「赤とんぼ」の三番の歌詞が歌われなくなった。民法上婚姻は16歳以上であること、ねえやが職業蔑視という理由からだという。「春の小川」も「さらさらながる」という歌詞が「さらさらいくよ」に「書き換え」が行われている。美しい文語文は路面電車のように忌み嫌われていたのだろうか。
それはともかく、この本で美しい日本語に触れるたびに、日本人に生まれてよかったと思う。どうせならもっとちゃんと勉強しておけばよかった。
あの頃の校長先生のように語り継ぐべき素晴らしい日本語を僕は身につけているだろうか。

2018年5月16日水曜日

新村出『広辞苑先生、語源をさぐる』

自分で書き間違えをするのに自分では気が付かない。だから誤記が多いわけだが、そのくせ人の間違いにはよく気が付く。狭量な人間なんだと思う。
広告の仕事をしている。広告主名や商品・サービス名は絶対に間違ってはいけない。本業である表現のことより、誰かが書いた誤記が気になることもある。キヤノンを平気でキャノンと書く人がいる。キューピーマヨネーズなどと書く人もいる。富士フイルムであり、フィルムではない。ナカグロが入るのか入らないのか気になる社名もある。そんなことは世の中的にはどうでもいいようなことなのだが、広告をつくる人としては気遣いが必要だろうと常日頃思っている。
キヤノンがキャノンにしなかったのはロゴをつくる際、「ャ」が小さいとバランスが悪かったからだ聞いたことがあるが、本当のところは知らない。
ロゴマークと英文表記をごっちゃにしている人も時折見かける。ソニーはSONYと表記してはいけない。Sonyである。ホンダもHondaだ。もちろんこれもまたどうでもいいことかもしれないが、少なくとも広告の仕事をしている人としてはできれば間違えたくないところだ。
かく言う自分ももう30年近く前、広告主であるとあるシャッターメーカーを〇〇シャッターとやってしまったことがある。正しくはシヤッターである。この「ヤ」もキヤノンと同様デザイン的な見地から決められたのだろうか。
新村出といえばおそらく日本人では知らない人はいないであろう広辞苑の著者である。
辞書をつくるというのはどういう仕事なのか。以前読んだ三浦しおんの『舟を編む』以上の想像ができない。
小学校の頃だったか、語源辞典なるものがあってたいそうおもしろいと聞いたことがある。そもそも、「そもそも」はおもしろいと思う。長年言葉の専門家であり続けた新村先生は小難しいことを避ける。さらりと語源に触れ、それにまつわる話を聞かせてくれる。
巨人とはこういう人のことを言うに違いない。

2018年5月13日日曜日

今尾恵介『路面電車』

大都市から路面電車が姿を消した最大の原因はモータリゼーションの進展にあるといわれている。
路面電車という時代遅れの交通システムが都市部の混雑、渋滞を惹き起こしていたというのだ。当時の日本人の考え方からすれば、経済効率と利便性が最優先。本格的に普及していったクルマは最も愛されるべき乗り物だった。
東京をはじめとする大都市では路面電車はこぞって廃止され、バスに代わり、さらに高速交通網として地下鉄道が建設される。クルマが最優先されたのはそこらで見かける歩道橋を見てもわかる。自動車の走行の邪魔にならないよう歩行者を安全に迂回させるルートだ。日本人は誰もが成長していたから、足の不自由な人や小さな子どもを連れたファミリーやお年寄りのことなど考えることもなかったのだろう。「時代の考え」はそうだった。
明治の頃、さかんに鉄道が敷設されていったが、鉄道が通ると農作物が育たないという「時代の考え」があった。鉄道駅から離れたところに市街地をもつ地方都市にはそんな考えが蔓延していたのではないか。
なんでもかんでも新しくすることが日本的なものの考え方ではある。路面電車は古いから新しくする、地下鉄にする。これは日本という国の伝統的美点なのかもしれないが、そうのうちなんとかなるだろうからつくってしまえという発想は戦費もないのにロシアと戦争をはじめた時代から連綿と続いている。
ヨーロッパを旅すると古い建物を多く見る。石造りであったり、レンガ造りであったりする。古い町の景観と同じように路面電車も大切に有効に乗り継がれている。都心部へのクルマを制限して、郊外電車とつなぐという発想が素晴らしい。穴を掘るでもなく、高架線をつくるわけでもないからたいしてお金もかからない。
夢や未来を語るのは自由だけれど、人々にとって必要な交通手段を人間的な視点からきちんと考えて結果を出している。それがLRTという昔からあって新しい乗り物だと思う。

2018年5月7日月曜日

今尾恵介『地図で読む昭和の日本』

実家に古い地図がある。
古いといっても江戸切絵図とか明治時代の古地図ではない。おそらく昭和50年頃の東京23区の区分地図である。昭和時代の地図も1964年のオリンピック大会以前の地図であれば、町名が昔のままだったり、都電が走っていたり、川が流れていたりして、現在と地図と見比べると一目瞭然のおもしろさがある。1970年以降、都電が廃止され、首都高速など現代のベースができあがってからさほど大きな差は見られなくなった。それでも目を凝らしてみると都内各地で再開発が進み、昔あったものがなくなっている。いや、今なくなってしまったものが地図に残っている。
手はじめに新橋あたりを見てみよう。ゆりかもめはまだ走っていない。汐留貨物駅があり、そこから築地市場へ引き込み線が伸びている。新大橋通りに踏切があったのをおぼえている。貨物駅はこのほか、飯田橋貨物駅や小名木貨物駅、隅田川駅があった。今では隅田川駅が半分だけ遺されている。それぞれオフィスビルや商業施設、高層住宅に姿を変えている。
新宿駅西口には京王プラザホテルを筆頭に高層ビルが建ち並ぼうとしている。品川駅の港南口(東口)は今よりずっと東側にあった。大崎駅の周辺は明電舎や日本精工の工場があった。
昔から変わらない町並みや景観もあるだろうが、40年もあればたいがいの町は変り果てる。歳を重ねるとついこないだのように思えるけれど、客観的に見れば町は変貌を遂げて当然なのかもしれない。
この本は地図という尺度をもとに定点観測した町の変わりようを追いかけている。
今あるものが昔からあったわけではなく、今あるからといって未来永劫あるわけでもない。40年前のジャイアンツファンがタイムスリップして今の世の中にやってきたとしても彼は後楽園スタジアムにたどり着けないのである。
おもしろい本だった。町の風景はまるで人生のように無常だ。
おもしろいと同時に、さびしさもおぼえた。