2024年3月11日月曜日

北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語 ――映画黄金期に現れた伝説的ドラマ』

1953(昭和28)年にテレビ放送がはじまったが、草創期の映像は残されていない。コンテンツのほとんどが生放送だったからだ。録画して保存するなんて誰ひとりとして思いつかなかったのだろう。
CMはフリップを映すだけであり、海外から提供されたドラマや映画も流された。日本最古のテレビコマーシャルは精工舎の時報CMと言われているが、これも諸説あり、現存する最古のCMということらしい。他にも一番最初のCMはこれだという見解もあるようだが、如何せん実物が残っていないのである。
当時、NHKも日本テレビも独自の電波塔を持っていた。開局申請が増え、東京のテレビ局が共同で使える電波塔が企画された。東京タワーだ。主導したのは産経新聞の前田久吉。かくして1958(昭和33)年、東京タワーは完成した。
この本は東京タワー完成時に放映されたドラマにフォーカスしている。現在のTBSが制作した「マンモスタワー」である。近い将来斜陽産業となるであろう映画と今は未知数だがいずれ大きなメディアになるであろうテレビの世界。来たるべき映像産業の対立を描いている。当時、映画の観客動員数はピークを迎えていた。旧態依然とした映画会社の経営者たちはテレビ恐るるに足らずと豪語していた。ひとりの映画製作者が主人公。映画製作はもっと合理的にしなければならないと主張する。その役が誰もが認める映画スター森雅之だ。ちょっと興味を唆られる。
このドラマは完全な生放送ではなく、当時希少だったVTRも駆使されている。風景などは事前に収録されていたらしい。そんなこともあってか実はこのドラマは保存されている。全てではないかもしれないが、今でも横浜関内の放送ライブラリーという施設で視聴可能だ。放送ライブラリーはずいぶん前に訪ね、昔のCMやニュース、ドラマなどを視た記憶がある。
行ってみようかな、横浜まで。帰りに野毛で餃子とサンマーメンを食べたいし。

2024年3月3日日曜日

今尾恵介『ふらり珍地名の旅』

僕が生まれ育った町は品川区二葉である。若草の二葉が生い茂る地域であった。北隣にあるのは豊町。農業に適した肥沃な大地だった。というのは冗談で地名のいわれはない。
このあたりは荏原郡蛇窪村と呼ばれていた。蛇が多く生息する谷間の湿地帯だったのかもしれないし、近くを流れる立会川が護岸工事される以前は蛇行を繰り返し、蛇のようだったのかもしれない。
蛇窪村はその後、上蛇窪、下蛇窪となり、昭和7年、東京市荏原区に編入されるにあたり、上神明町、下神明町と改称される。商業地域や住宅地の開発を見据えて、蛇窪はないだろうと誰か言ったと思われる。さらに昭和16年、上下神明町を南北に分け、北側を豊町、南側を二葉町とした(二葉町は後に二葉となる)。こうして地名がいわれ(歴史や地形的な特徴、言い伝え)を持たない町が生まれた。自由が丘や光が丘のように。
蛇窪の南側にも小さな集落が多くあった。大井伊藤町、大井金子町、大井出石町、大井原町、大井山中町などなど。今は大井、西大井とひと括りにされているが、そのいくつかは小学校の名にとどめている。
今尾恵介の本はこれまで何冊か読んでいる。地名や駅名に関するものだ。いずれも興味深く読了した記憶がある。今尾恵介は地名会のさかなクンだ。勉強したいことを見つけられることはだいじだと思う。教科としての国語算数理科社会ではなく、学びたいものを自分で見つけること。ふりかえって自分の人生のなかで夢中になれるものはあまりなかった。あっても持続しないことばかりだった。いまさら嘆いても仕方ないのであるが。
珍地名といってもどこからが珍なのかは主観的なところだ。この本で知っていた珍地名は東京都江東区海辺と同じく目黒区油面。個人的には足立区の地名に興味がある。六月とか島根とか宮城とか。
実家の近くに東急大井町線の下神明、戸越公園という駅がある。昭和10年まで下神明駅は戸越駅、戸越公園駅は蛇窪駅だった。

2024年2月25日日曜日

風来堂編、宮台真司他著『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』

もう50年以上も昔のこと。小学生だった僕の住む町に知的障害のある少年がいた。年齢は少し上だったように思う。ごく普通に町を歩いており、時折公園などに姿をあらわし、いっしょに遊びたがっているように見えることがあった。少し年下の低学年の子たちに声をかけていることもあった。
中学生になり、学区域が大きくなったことで行動範囲が広がった。他の小学校の区域にもやはり知的障害のある子どもがいた。昔はどの町にもひとりやふたりはいたのかもしれない。彼らの本当の名前は知らなかったが、それぞれに呼び名を持っていて、町で見かけると声をかけてはいたずらする輩も少なからずいた。当時、特殊学級と呼ばれるクラスのある学校もあった。おそらく彼らはそんな特別な学校に通っていたのだろう。
大人になってからそういった子どもたちを見ることがなくなった。あるいは身近にいるものの気がつかなくなっただけかもしれない。特殊学級はその後特別支援学級と名前を変える。世の移り変わりとともに彼らは保護者や制度によって手厚く守られるようになり、そのために町なかから姿を消したのではないだろうか。
異界とは異人、ストレンジャーたちの界隈。花街や色街、被差別地域など、日常から解き放たれて発散する場所だった。そういった点ではお祭りも異界の一種といえる。異界のルールは「法」ではなく、「掟」であると語るのは宮台真司だ。たしかにジャニーズ事務所や宝塚歌劇団の問題は「法」という視点からとらえられたときにはじめて生じる問題だった。反社会的勢力が世の中で見えにくくなっていることもこうした背景がある。
今はそうした異界が次々と消え去り、異界を知らない世代が異界なき社会をつくろうとしている。この本はかつてこんな異界が日本中にありましたよと言い伝えるガイドブック。すでに跡形もなくなっている異界も多いが、貴重な記録である(記憶している世代がある限りではあるが)。

2024年2月13日火曜日

カート・ヴォネガット『ホーカス・ポーカス』

テレビでデイブ・スペクターを視るたびに、なんでこの人は日本の文化や風土、日本人の感情を日本人以上に理解して日本語を話すのだろうと驚愕する。まるで脳内に人工知能を所有しているように思える。それでいてけっして賢ぶらない。面白くとも何ともない駄洒落やギャグを連発する。「笑点」の大喜利レベルである。それだけ見ているとおバカな外国人だが、彼はそれをねらっているのだ。どれくらいの笑いのレベルが平均的な日本人に受けるのかを知っている。そこがすごい。あの風貌で確実に日本人と同化している。
たぶん(そんなことは決してしないだろうが)本気で日本の政治や文化の劣化をぶった切るような論評をするとしたら、相当ハイレベルな発言をするのではないかと思っている。
もはや彼はアメリカ人ではない。藤田嗣治が日本人ではないように。
翻訳されているカート・ヴォネガットの小説はほとんど読んでいる。何年か前に『タイムクエイク』という大作を読んで、『ガラパゴスの箱舟』『青ひげ』『ジェイル・バード』を再読した。これでひと通り読んだなと思っていたところ、もう一冊未読の小説が見つかった。それがこの本。ホーカス・ポーカスとはどういう意味かよくわからないが、魔法使いが魔法をかけるときに唱える呪文のようなことらしい。だから意味がなくていいのだ。ギャツビーの「オールド・スポート」みたいなものだ。
カート・ヴォネガットの比喩は深い。ちょっとやそっとじゃ理解できない。立ち止まってばかりいる読書。それでもキンドルのおかげで、すべてではないけれど、知らない言葉や出来事は検索してくれる。大いに助かる。
原書でヴォネガットを読むという知人がいる。村上春樹も私的読書案内で推している。英語で読むとさらに面白さが見つかるのだろうか。僕は翻訳を読むので手いっぱいなのだが。
ところでカート・ヴォネガットを読むたびにデイブ・スペクターを思い出すのはどうしてなんだろう。

2024年1月20日土曜日

半村良『戦国自衛隊』

斎藤光正監督「戦国自衛隊」が公開されたのが1979年12月。僕が20歳のときである。文庫本と映画がコラボレーションする、いわゆる角川映画のひとつだった。角川映画は角川書店(現KADOKAWA)が映画をベースにしたメディアミックス展開として知られていた。
第一作は市川崑監督「犬神家の一族」(原作横溝正史)だそうだが、第二作の「人間の証明」(佐藤純彌監督)が話題になった。森村誠一の原作もジョー山中が歌った主題歌もヒットした。1977年。僕は高校三年生だった。
五作目にあたる「戦国自衛隊」に興味はそそられたが、劇場でこの映画は観ていない。当時あまり映画を観る習慣がなかったのである(後にテレビで視たが鮮明な記憶は残っていない)。
年が明けて1980年。読書記録によれば、この年の1月にこの本を読んでいる。映画を観る前に原作を読んでおこうと思ったのか、映画を観るお金がなかったから文庫本だけで済ませようと思ったのか。季節的には学年末の試験やレポートなどに追われていた頃だと思う。あと三カ月で大学三年生になる。今となっては遥か彼方の遠い記憶であるが、学生時代ももうじき折り返しかと思うとちょっと憂鬱な心持になる、そんな時期だった。
半村良という作家は当時も今もくわしくは知らない。『戦国自衛隊』から30年経って、『葛飾物語』を読んだ。葛飾の長屋を舞台に昭和の庶民を描いた素敵な小説だった。その後『小説浅草案内』を読む。ここに登場する粋で素朴な浅草っ子がいい。僕にとって、半村良は決してSF作家ではないが、遠い昔に『戦国自衛隊』との出会いがなければ、半村良の描く東京の東側にはお目にかかれなかったかもしれない。つまり『戦国自衛隊』の半村良という記憶があったから、彼の描く下町に出会えた気がするのである。
そういえばパスティーシュの名手清水義範の師匠が半村良だったっけ。清水義範のSFのなかでは『イマジン』が好きだ。

2023年12月31日日曜日

青柳いづみこ『阿佐ヶ谷アタリデ大ザケノンダ』

この本の著者も言及しているが、アサガヤは地名で阿佐谷、駅名は阿佐ケ谷と表記される。ややこしいが、一般には阿佐ヶ谷が浸透している。
荻窪駅の北側に住むようになって十数年経つ。意外なくらい阿佐ヶ谷とは無縁の生活をしていた。それまでは映画を観に行くか、渋谷方面にバスで行くためくらいしか阿佐ヶ谷まで歩くことはなかった。ここ何年か、コロナ禍で在宅勤務となり、運動不足を補うために歩くようにした。阿佐ヶ谷駅周辺まで行って帰ると四キロほどのウォーキングになる。主に歩くのは松山通り商店街やスターロードである。歩くというのは退屈な行為であるから、道々にある店の看板を見るなどして過ごす。いろんな店があるものだなと思う。そのうち散歩がてら、気になった蕎麦屋やラーメンの店に行く。知らない町に小さな根が生えてくる。
阿佐ケ谷駅の南側にもときどき足を伸ばす。川端通りという商店街がある。ウォーキングをするようになって、日本大学相撲部の位置も知る。この辺りには花籠部屋もあったという(花籠部屋が今の日大相撲部の場所だったか)。
著者青柳いづみこは青柳瑞穂の孫にあたるらしい。青柳瑞穂の名を知ったのは井伏鱒二の『荻窪風土記』だったか。ずいぶん昔にジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』という文庫本を読んだことがある。翻訳したのは青柳瑞穂だったのではないだろうか。いやいや記憶にないとすれば僕が読んだのは岩波文庫版で新潮文庫版ではなかったのではないか。
この本は長女が阿佐谷駅前の、まもなく閉店するという書店に立ち寄って何冊か買ってきたうちの一冊である。ソファの上にほったらかしにされていたので、お先に読ませてもらった。将来、もし仮にであるが、阿佐ヶ谷学なる分野が確立した折には貴重な資料となるに違いない。冗談ではなく、阿佐ヶ谷学はぜひとも確立してもらいたい。ついでに高円寺学、荻窪学、西荻学もできるといい。

2023年12月21日木曜日

ハーマン・メルヴィル『白鯨』

サマセット・モームは1954年に『世界の十大小説』というエッセイを上梓している。
その内訳は、ヘンリー・フィールディング『トム・ジョーンズ』、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、スタンダール『赤と黒』、オノレ・ドゥ・バルザック『ゴリオ爺さん』、チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、ハーマン・メルヴィル『白鯨』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、レフ・トルストイ『戦争と平和』である。
モームのエッセイは、岩波文庫にあるそうだが、この十大小説のうち僕は半分しか読んでいない。
二十代に読んだのはスタンダールとメルヴィル。後は結構大人になってからだ。『カラマーゾフの兄弟』なんて光文社の古典新訳シリーズで刊行されなければおそらく読む機会はなかっただろう。
『デイヴィッド・コパフィールド』は二十代の頃、当時絶版になっていた新潮文庫(記憶違いかもしれないが)を仕事場近くの小さな書店で見つけて、買うだけ買っておいたものをずっと後になって読んだ。もっとはやく読めばよかったと思うが、こんな長編を読む暇はなかった。『赤と黒』は二十代の頃、岩波文庫で読み、五十を過ぎて光文社の古典新訳で読み直した。
小説を読むようになったのは大学2年の終わりごろから。大江健三郎を読んで、開高健を読んで、スタインベック、ノーマン・メイラーと海外の小説を読みはじめるようになった。そしてどういう経緯かは忘れたが、『白鯨』にたどり着く。おそらくこの本がアメリカ文学の最高峰であるとかなんとか吹き込まれたのではないかと思う。モビー・ディックに復讐心をたぎらせるエイハブ船長。一頭の鯨をめぐる心理戦。まるでミステリー小説を読んでいるようなハラハラドキドキ感を(それだけを)今でもおぼえている。もう一度読む機会は果たしてあるだろうか。

2023年12月4日月曜日

ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』

ものみなことごとくはじまりがあって、終わりがある。終わってしまうのは寂しいし哀しい。いつまでも終わりが遠くにある長編小説を読む楽しみとはいつまでたっても終わりがやってこないことではないだろうか。
ときどき果てしなく長い小説を読みたくなる。
最近では浅田次郎の『蒼穹の昴』シリーズ。これはひとつのタイトルではなく、続編の形で進んでいく壮大なドラマであるが。古くはルソーの『新エロイーズ』、ディケンズの『デイヴィット・コパフィールド』、スタインベックの『エデンの東』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』などなど。
1980年11月から12月にかけて、『ジャン・クリストフ』という大河小説をはじめて読んだ。今も岩波文庫にラインナップされているこの名作は、当時8分冊だった。今では4分冊になっている。
まだ若かったのだろう、古くさくて、難解な(といっては名訳を世に遺した豊島与志雄には失礼もはなはだしいが)翻訳をすいすいとではないが、坂道を昇るように読みすすんだ。当時はあまり理解できなくてもずんずん読んでいった。
今回の再読は7月から読みはじめ、5カ月かけてようやく読み終える。
ロマン・ロランはクリストフのモデルはベートーベンではないと明言しているが、僕はいやいやベートーベンでしょうと思って読んでいたように思う。それくらいしか記憶に残っていない。あらためて読んでみると、クリストフの生きた時代背景など気になることが多い。あきらかに18世紀末から19世紀はじめが舞台となっているのだ。そんなことも理解しようともせず、学ぼうともせずに読んでいた自分が恥ずかしい。
1980年にはこのほか、モンテーニュの『エセー』、ルソーの『告白』を読んでいる。それなりに感銘を受けたつもりでいるが、果たしてきちんと理解していたのだろうか。再読してみたいとは思うものの、ちょっと怖い気もする。

2023年11月19日日曜日

フランツ・カフカ『変身』

大学に入学したのは1978年のことである。
そこは教員養成系の大学だった。特段、教員になりたいという希望はなかった。それどころか、将来自分が何になりたいかということをあまり考えていなかった。とりあえず受かりそうな大学を選んで受験し、結果的に教員養成系の大学に合格したのである。
高校時代の成績不振により、理工系を断念。文系学部に志望を変えたのだが、法律や経済はどことなく近寄りがたく、かといって文学部をめざすほどでもない。文学部に憧れはあったものの、もう少しお手軽な学部はないかと模索していたのである。もちろん教育学部がお手軽とは今でも思っていないが。
近所に東京教育大学を卒業し、出版社に勤務している方がいた。学業優秀でたしか中学から国立に通っていたと聞く。文学部に憧れたのもこの人のせいかもしれない。そんなこんなで教育系の大学を受験したのかもしれない。
入学して一、二年は教育学の概論的な本や当時明治図書から出版されていた世界教育学選集(コメニュウス『大教授学』やコンドルセ『公教育の原理』など)を読んでいた。そのうち大江健三郎を読みはじめ、その後小説が多くなる。海外の小説も読みはじめたが、カフカの『変身』は比較的はやい時期だった。そのすぐ後にカミュの『異邦人』を読んでいる。たぶん実存主義とか不条理文学なるものに多少は関心を抱いた頃なのかもしれない。
それにしてもグレゴール・ザムザの、この物語は冒頭のインパクトが強すぎて、その後どうなったのか、最後はどうなったんだっけといった部分の記憶が飛んでいる。朝起きたら虫になっていたってどういうことなんだ、明日もし俺が朝起きて虫になっていたとしたら、俺はどうやって生きていけばいいんだと考えているうちに物語は後半を迎える。もういちど読んでみようかと思うけれど、再読したところでやはり冒頭のインパクトによって後半を忘れてしまいそうなのでよしておく。

2023年10月30日月曜日

大江健三郎『個人的な体験』

昨年夏は3回ほど軽井沢を訪ねたが、今年はコロナウイルス感染症が5類感染症に移行したこともあり、海外からも含め、観光客が一気に増え、宿泊の予約がなかなかとれない。結局今月になって訪れることになった。どうせなら紅葉の季節と思っていたが、10月20日過ぎ頃はまだまだ見頃とはいえない。それでも地元の人に言わせれば日一日と色づいてきているという。さすがに10月の軽井沢は寒い。日中はそうでもないが、日が落ちたとたん冬になる。セーターを持って行ってよかった。
軽井沢に行くとついでに観光する。今回は佐久市内にある旧中込学校を見た。明治8年築の木造校舎で長野県の県宝に指定されている。木の廊下、当時の机やオルガン、教科書などが展示されている。昔の校舎の匂いがする。
帰りに長野に立ち寄って、善光寺にお参りに行った。せっかく信州に来たのだからと、軽井沢で二軒、長野で三軒の蕎麦屋に寄った。食べくらべてみると軽井沢の蕎麦は東京の蕎麦で、長野の蕎麦は信州の蕎麦であることがなんとなくわかる。信州の蕎麦は繊細さより力強さ、質朴さがある。ざるやとろろが主で、つゆも薄く、蕎麦をどっぷり付けて食す田舎風の食べ方をする。信州では蕎麦は生活の一部だったのだと思う。
中学高校時代にほとんど読まなかった本を、大学生になって多少は読まなければと思って、教育学の概論や昭和史、太平洋戦争史などを読んでいた。小説はまったくといってくらい読まなかったが、10代の終わりに突然大江健三郎を読みはじめた。そのきっかけは思い出せない。先輩に読めと言われたのかもしれない。周囲に大江を読む友人はいなかった。
『個人的な体験』は著者自身の体験をベースに書かれている。1963年に大江健三郎の長男が知的障害をもって生まれたことはよく知られている。このブログを書くにあたって、単行本をひさしぶりに開いてみた。そうそう、主人公の名は鳥(バード)だった。

2023年10月12日木曜日

凪良ゆう『汝、星のごとく』

10月になって、ようやく暑さがおさまった。
暑さ寒さも彼岸までとよく言われていたが、昨今のお彼岸はまだ暑い。とにかく7月から9月まで30℃を超え、さらに35℃を超える日々が続くのだ。来年もこんな暑い日が続くのかと思うと今から憂鬱になる。
が、急速に涼しく、さわやかな秋の日になった。これも不思議なことで、居座る夏の太平洋高気圧と大陸からやってくる秋の高気圧は秋雨前線をはさんで、勢力争いをする。その間梅雨時のように雨が続く。今年はそんなこともなく、一気に大陸の高気圧が張り出した(もちろん大気の状態が不安定になって雷雨が続く日もあったが)。それでも日中は25℃くらいにはなる。日なたは暑い。それでも湿度は低く、夏の蒸し暑さはない。朝晩はすっかり涼しくなり、寒いくらいの日もある。
新しい小説を最近読んでいなかった。
どうしたわけか家に本屋大賞を受賞したこの本があった。本屋大賞受賞作品は何冊か読んでいる。『舟を編む』以来かもしれない。いやいや『蜜蜂と遠雷』も読んでいるではないか。作者のことはまったく知らないが、今回の受賞は二度目だという。いつだったかラジオで紹介されていたのを思い出し、せっかくなので読んでみた。
最近の小説はすごいなと思った。両親の離婚でヤングケアラーのように母親と向き合う若者が主人公。ジェンダーについても、カルト教団への献金にも触れられている。ネットで炎上もしている。現代の諸課題が取り上げられている。
ちょっとした恋愛小説であるが、登場する人物のことごとくが不器用な生き方をしている。人間が如何に不完全な生き物であるかが前提になっている。矛盾に満ちたそれぞれの人生が率直に描かれている。
北原という化学の先生に興味を持った。北原先生を主人公にしたサイドストーリーがあってもいいんじゃないかと思った。そうしたら三度目の本屋大賞もありなのでは。いずれにしても読み応えじゅうぶんな作品だった。

2023年9月30日土曜日

ジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』

明石町の聖路加タワー最上階のお店で会社の新入社員歓迎会が行われた。新型コロナ感染拡大以降ほぼ全員の社員が集まる会食ははじめてである。コロナ以降入社して、いちどもこうした経験のないまま辞めていった社員もいる。
聖路加国際病院のことをたいていの人は「せいろか」と呼んでいる。僕もそのひとり。正しくは「せいるか」である。「せいろか」というと正露丸と語源が同じか近いのかとも思ってしまう。正露丸は昭和24年まで征露丸だった。勝鬨橋が近いからそんなふうに思ってしまうのかもしれない。というようなつまらないことを考えながら、明石町から西銀座まで歩いて地下鉄に乗って帰った。
大学に入っても一般教養で英語の授業を受けなければならず、億劫に思っていた。それでも小説や戯曲を読む授業をたまたま選んで、よかったと思うこともあった。テネシー・ウィリアムスの『ガラスの動物園』やアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を読む授業もあった。難解だった。
二年生のとき選んだ英語の授業ではスタインベックの「赤い仔馬」を読んだ。ジョディ少年の物語だ。おそらくはスタインベックの自伝的な小説であろう。今でも西部の果てしない農園と牧場が続く景色と赤い仔馬を引く少年の姿が目に浮かぶ。それまで知らなかった作家、スタイベックを俄然好きになってしまった。
それからスタインベックの作品を積極的に読むようになる。最初に読んだのが『真珠』で民話的な物語。次に読んだのがこの『二十日鼠と人間』である。農場で雇用される男たちを見舞う悲劇とでもいおうか。大作『怒りの葡萄』に通じるテーマを感じる。大作といえば『エデンの東』もよかった。
スタインベックを起点として、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナーなども読むようになった。大学生の頃、スタインベックに出会わなければ、アメリカ文学の旅に出ることは、おそらくなかったのではないかと思う。

2023年9月26日火曜日

ジャン=ジャック・ルソー『エミール』

以前、通勤していた頃は行き帰りの電車のなかで本を読む習慣があったから、それほど多くはないけれど月に何冊か本を読むことができた。在宅になってからもなるべく本を読む時間を確保しようと思い、午前中であるとか就寝前とか本を読むようにしている。それにしても読書量は減っている。一日仕事に追われて、まったく読めない日だってある(というほど忙しい日はかなり少ないのだが)。歳相応に小さな字が見づらくなってきたせいもある。
今、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んでいる。岩波文庫で4冊あるが、僕が読んだ1980年当時は8冊だった。翻訳も古いうえ、昔読んだことなんてこれっぽちもおぼえていないのでなかなか読みすすめない。
昔読んだ本をもういちど読みなおそうと思うようになってずいぶん経つ。夏目漱石や太宰治を読みかえしたりしてきた。そしてどういうわけか『ジャン・クリストフ』が読みたくなった。
というわけで最近新しい本を読んでいないので、このブログも開店休業状態である。まったく書かないというのもよくないと思い、「昔読んだ本」というラベルをつくって、思い出話を添えてみることにする。
ルソーの『エミール』は大学一年の終わり頃に読んでいる。
その昔、子どもは「小さな大人」だった。子どもは人間の発達過程で「子ども」という段階を経て、成長していく。そうした子ども時代を発見したのがルソーだといわれている。ルソーの少し前にイギリスのジョン・ロックという人も『教育論』を著している。ルソーにも多大な影響を与えた本だと思われるが、微妙に子ども観が異なる。
『エミール』はその後何度か読みなおしている。卒論のテーマにルソーを選んだからである。なぜルソーを選んだかというと、ルソーに関する著書や論文は多く、うまいこと継ぎ接ぎすれば卒論なんて簡単に書けてしまえそうに思えたからだ。
そんな姑息な学生時代を思い出させてくれる一冊である。

2023年9月8日金曜日

北尾トロ・えのきどいちろう『愛と情熱の山田うどん』

3月のことである。
文化放送大竹まことゴールデンラジオを聴いていた。2時半頃ゲストとして登場したのがコラムニストのえのきどいちろう。この人の本は読んだことがないし、どういう人なのかもよく知らない。番組ではフリーライター北尾トロとの共著であるこの本が紹介された。
えのきども北尾も以前から山田うどんについて熱く語っており、著作もある。この文庫は以前出版された2冊の本を再編集したものだ。
山田うどんは豪族である。決して天下をめざしているわけではなく、地元周辺を中心に出店している。提供するメニューは工場で一括生産し、各店舗に配送される。しかしながら自由度は高く、店ごとで微妙に茹で具合など異なることもあるらしい。都心にも出店していたこともあるが、現在では大きな看板と広い駐車場を持ったロードサイド店に特化している。
残念ながら、僕は山田うどんに行ったことがない。いちばん近い店でも10キロ近く離れている。バス、電車、さらにバスを乗り継いで1時間くらいかかる。都心ではなく、郊外だからついでの用事もほとんどない。エックス(旧ツイッター)では路麺マニアの投稿をよく見る。頻繁に山田うどんに行く人がいて、写真だけはよく見ている。うどん、そば以外にもご飯もののメニューも多い。
一時期、路麺にはまったことがある。秋葉原や入谷、三ノ輪などの立ち食いそばを食べに行ったものである。それでも山田うどんに行きたいとは思わない。クルマのある生活をしていないせいもある。そんな僕が機会があったら行ってみたいなと思うようになった。ふたりの著者に軽く背中を押された感じ。要するにそんな本、山田うどん応援歌的な本だったのだ。
その日、大竹まことのレギュラーパートナー小島慶子はお休みでライターの武田砂鉄が代打パートナーとしてゲストえのきどを迎えた。えのきど、北尾の山田うどん本の編集を担当したのは当時河出書房新社の編集者武田砂鉄だった。

2023年8月20日日曜日

安西水丸『東京ハイキング』

南青山のギャラリー、スペースユイで安西水丸展が開催されていた。以前はクリスマス前とか大型連休明けなど年に何度か行われていたけれど、このところ7月にいちどだけになった。7月は彼の誕生月でもあるしちょうどいいといえばちょうどいい。
今年のテーマは川。個展のタイトルは「The River」だった。安西は安西水丸になる前、電通を辞めてニューヨークに移り住んだ。最初に住んだリバーサイドドライブのアパートはハドソン川に近く、その後イーストリバーに近いアッパーイーストに引越した。1969年のことである。安西の描く川を見て思い出したのはこのふたつ。
安西水丸は何冊か東京散策の本を著している。『青インクの東京地図』『大衆食堂に行こう』『東京美女散歩』などである。東京のあちらこちらをこよなく愛し、歩いている姿が目に浮かぶ。
ふと気づいた。水丸は、兄と五人の姉がいたのにあまりきょうだいのことを語らない。短編集『バードの妹』に登場する男が彼の兄をモデルにしていると誰かに聞いたことがある。五人の姉たちは赤坂の家からどこかに嫁いだに違いない。それぞれの縁のある土地でも訪ねてみてくれたらいいのにと思う。もしかすると東京以外の場所で彼女らは暮らしたのかもしれない。姉たちは東京散策の著作に登場しないが、水丸の叔母(彼の父の一番下の妹)はしばしば登場する。四谷荒木町で三味線の師匠をしていたという。古い著作ではあるが、『青の時代』にも出てきたように記憶する。赤坂に生まれ育った人であれば三味線の嗜みくらいは当然あっただろう。
編集者はあとがきで安西水丸を「生粋の東京人」であると評している。僕は少し違うかなと思う。ものごころついたときから過ごした南房総千倉町こそが彼のふるさとであり、彼にとって東京は憧れの町だったはずだ。それはともかく、訪れた町のイラストレーションに気の利いた俳句が添えられている。なかなか洒落た一冊だ。


2023年7月29日土曜日

藤井 淑禎 『「東京文学散歩」を歩く』

文学散歩ではなく、文学散歩を歩くというタイトルに違和感をおぼえたが、どうやらその昔『東京文学散歩』なる作品があり、その散歩道を辿るという趣旨の本であることがわかる。
日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載していたのは主に文芸誌の編集に携わっていた野田宇太郎。この文学散歩は1951年から70年代まで続けられ、単行本や全集など形を変えながら、長い時間をかけて追加され、推敲されてきたようだ。
そもそも首都東京には各地からさまざまな文学者が集まっている。ゆかりの場所を訪ねればキリがない。それでも人は文学の(映画もそうかもしれない)痕迹を追う。どうでもいい人にはどうでもいい散歩には違いない。けれどどうでもよくない人にはどうでもよくない散歩なのであり、僕にとってもどうでもよくはないのである。
明治以降の東京の文学遺跡はほぼ定番化している。柳橋から浅草、向島、玉の井あたりも本郷界隈も麻布もその地名を聞けば、ああ誰それの旧居跡があるところだねと想像がつく。文士村が各地にあるのも東京の特色かもしれない。
以前、大森や蒲田を歩いたことがある。きっかけになったのは高村薫の『レディージョーカー』である。犯行に関わった薬屋の店主はどのあたりに住んでいたのかなどと頼まれもしないのにさがしたものである。奥田英明の『オリンピックの身代金』も多く歩かせてもらった。大田区六郷の火薬店、本郷界隈、江戸川橋、上野、そして千駄ヶ谷。金町にも行ったことがある。たしか『マークスの山』に金町の病院が登場していた。いつしか定番文学散歩には飽き飽きしていた。
読んだ場所を歩いてみたい、その風景を見てみたい。これは人間が生来的に持つ本能なのではないか。そう思うことがときどきある。
神宮外苑が再開発されるという。そもそも再開発されなければならない地域は負け組である。村上春樹の小説に登場した一角獣もやはり伐採されてしまうのだろうか。

2023年7月18日火曜日

小藥元『なまえデザイン 「価値」を一言で伝える』

欧米ではどんな小さな道にも必ず名前が付いていて、その道の何番目かという数字が住所になると聞いたことがある。すべてがそうとは限らないだろうが、なんとかストリート、なんとかアベニューの何番という住所はよく見かける。日本の場合はある一定の区画に町名を付けて、さらに何丁目と区分していることが多い。道が境界線になっている。道一本隔てただけで○○町は、東○○町になったり、本○○町になったりする。
運動不足解消のために時間を見ては近隣を歩く。もっとも気温が40度近くになる猛暑日は避ける。ここ一週間くらいはほとんど歩いていない。道を歩きながら思うのは、その道の名前だ。幹線道路やバス通りでもない限り、普通の道に名前はない。都心に行けば、たとえば番町文人通りとか赤レンガ通りといった名前を持つ道を見かけるようになる。昭和通りと並行する道はいつしか平成通りと呼ばれている。
ウォーキング中はラジオを聴いていることもあるが特にすることもないので今歩いている道はどこにつながっているんだっけなどと地図を頭に描きながら歩く。この先には○○小学校があるから、○○通りと呼ぼうとか、小さな教会があるから教会通りと呼ぼうなどと勝手に命名している。不思議なことに道に名前が付くことで少しあんしんした気分になる。自分がどこを歩いているのかがわかるってだいじなことなんじゃないかと思うのである。
著者は大手広告会社でコピーライタとして経験を積んだ。とりわけネーミングといって名前を付ける仕事を得意としている方らしい。それまでなんでもなかったできごとなどに名前が付けられることで新たな発見が生まれ、人々のかかわり方が変わる。結果として新しい価値を生む。どうやらそういうことがたいせつらしい。
ただ名前を付けるだけじゃなくて、名前を付けることで世界を変えていく一連の仕事を著者は「なまえデザイン」と呼んでいる。なかなか楽しそうな仕事ではないか。

2023年6月30日金曜日

南伸坊『私のイラストレーション史』

南伸坊って不思議な存在だなと思っていた。もちろん彼をくわしく知っているわけではない。著書を多く読んだわけでもない。以前『笑う写真』という本を読んだことがある。内容はほとんどおぼえていない。目立った作品を残しているわけでもない。大きな賞を獲って世間の耳目を集めたという話も聞かない。なんとなくおにぎりみたいな風貌で主張の強くないイラストレーションを描く、親しみやすそうな人といった印象があった。
この本を読んでよかったと思うのは、こうした僕のなかのぼんやりした南伸坊の輪郭が少しだけはっきり見えてきたことだ。
南は絵や図案が好きな少年だった。子どもの頃からデザイナーという職業に憧れていた(その経緯はともかくとして)。そして挫折をくり返した。高校も大学も受験は失敗。無試験で美学校に入り、赤瀬川源平らから教えを受ける。その後ひょんなことから青林堂の編集者になる。転機が訪れたのだ。伝説の月刊漫画誌ガロの編集にたずさわりながら、多くの才能に出会う。そこは彼の、おもしろいものを見つけるための修行の場でもあった。
南は昭和22年生まれ。いわゆる団塊の世代である。数多くの才能が過酷な競争を経て磨かれていった時代だ。僕が二十代なかばで広告制作の世界に飛び込んだとき、団塊の若者たちは勢いのある、ある意味ぎらぎらした若手だった。CMディレクターにせよ、コピーライター、グラフィックデザイナーにせよ。南伸坊はそんな熱さを感じさせない。その世代のなかではきわめて特異な存在だ。受験にこそ恵まれなかったが、実社会のなかで和田誠、安西水丸、湯村輝彦らすぐれた教師に出会ったのだろう。それは東京芸術大学のデザイン科に進むよりも価値があったんじゃないか。
この本には南が模写した絵が多く載っている。きっと子どもの頃からこんなふうに絵を描いて過ごしてきたのだろう。絵が大好きだったことはパラパラとページをめくるだけでわかる。

2023年6月27日火曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

午前中BS放送でMLBを見るのが日課のようになっている。それもエンゼルスのゲームがいい。去年も大谷翔平の出場する試合はときどき見ていたが、今年はワールド・ベースボール・クラシックの余韻もあって、ほぼ欠かさず見ている。もちろん向こうのデーゲームは試合開始が早朝過ぎるので勘弁してもらっている。おそらく僕のような、降ってわいたようなファンは多いのだろう。NHKもエンゼルスを中心に放送している。吉田正尚も鈴木誠也も千賀滉大も活躍はしているものの、「その他の日本メジャーリーガー」扱いされている。
大谷のすごいところは、そろそろ打ちそうだなと思っているとき、かなりの確率でホームランを打つところにある。前の打席は三振だったから、ここまでノーヒットだから、カウントが3ボール1ストライクだから、今度は打つだろうと思っていると打つ。打たないときもある。打たない方が多いとしても、打ったときの印象の方がはるかに強いから、やっぱり期待に応えてくれたと喜びもひとしおなのである。
打撃成績も抜群だが、投手としてもいい。最近の野球は一試合の投球数は百球程度に制限されている。序盤中盤に味方が点をとってくれないと勝利投手になるのは難しい。それでも現時点で6勝。11勝しているピッチャーもいるが、チームではトップの成績だ。なによりも奪三振が多いのがいい。アメリカンリーグではトップクラスである。先発投手として出場した試合はトイレに行く暇もないくらい、テレビの前に釘付けになる。誰もが言うことかもしれないが、こんな選手、今までいたか。
大谷は岩手県水沢市出身。水沢市は合併して今は奥州市になっている。奥州市のすぐ北に北上市があり、さらにその北に花巻市がある。岩手県出身の著名人としては宮沢賢治と千昌夫がいる。千は奥州市の東、陸前高田出身。こぶしの花が咲く春がいいらしい。宮沢賢治は花巻出身。
宮沢賢治を読むのは、子どもの頃以来だ。

2023年6月12日月曜日

浅田次郎『おもかげ』

親戚の通夜に行く11月の寒い日。友人吉岡以介の母親は、駅で電車を待っているとき脳疾患を起こして倒れた。もう4年くらい経つだろうか。以介がいっしょにいたのですぐに救急車を呼んでもらって大事に至らずに済んだという。電車に乗っていたらもっと大変だっただろうとも言っていた。以介の母親はその後区内の特養に移り、昨年は施設で米寿のお祝いをしてもらったそうだ。左半身に麻痺が残り、不自由な生活を余儀なくされているが、よくしゃべり、食欲もあるからあんしんだという。
先日、NHKのドラマを視た。なにかのついでに視ていたせいか、こまかいストーリーはわからなかったが、主人公は中村雅俊だった。番組ホームページを見て、原作は浅田次郎と知る。どうりで東京メトロの新中野駅が登場していたわけだ。著者の作品『地下鉄(メトロ)に乗って』も新中野は主要駅だった。原作が浅田次郎ならば読まないという選択肢はない。さっそく図書館から取り寄せる。
以介も僕も近い将来65歳になる。主人公竹脇正一みたいに地下鉄車内で倒れることもあながちないことではない。ごく普通に生まれて、ごく普通に生きてきた(何をもって普通というかはまた難しい問題であるが)僕には正一のような未知なる過去は(たぶん)ない。竹脇正一は、親の顔も知らなければ、名前さえ持っていなかったのである。世間並みに生きてきた僕は、彼と同様の事態に陥ったとき、どのような生死の境を生きるのだろう。この本を読んでそんなことを思った。
以前児童養護施設ではたらく若者たちを取材して動画にする仕事にたずさわったことがある。施設出身の子どもたちがどんな苦労を背負って生きていくのかは筆舌に尽くしがたい。
竹脇正一は孤独な人生から脱却し、家族を得る。だからといって彼がたどってきた過去を拭い去ることはあるまい。そんな孤独な魂を同じ境遇を生きた数少ない仲間たち救う。
浅田次郎にまたやられてしまった。

2023年5月30日火曜日

夏目漱石『草枕』

卓球世界選手権が終わった。日本勢は女子シングルスとダブルスで銅メダル、混合ダブルスで銀メダルと健闘した。
テレビ観戦しながら、ふと混合(ミックス)ダブルスってヘンな呼び方だと思った。男女がいっしょにプレーする競技をあえて規定する時代でもあるまい。アイススケートフィギュアで混合ペアというか?混合アイスダンスというか?男子のダブルスがあって、女子のダブルスがあって、さらに混合があるという発想がどうなんだろう。
卓球王国中国では世界ランカー上位選手たちの厳しい予選によってシングルス、ダブルスの代表を選出する。これはどこの国も同じことだ。中国の場合、選に漏れた実力者が混合ダブルスにまわる。日本にとってはチャンスである。東京五輪で金メダルを獲った水谷隼・伊藤美誠ペアは見事だった。
僕が思うに、これからは団体戦も男女いっしょに国別にすればいい。ダブルスもしかり。混合ダブルスという呼び方はやめて、「ダブルス」と称すべきだ。そのなかで男子だけのダブルスがあり、女子だけのダブルスがある。そんな考え方でいいのではないかと考える。男女でペアを組むダブルス=ダブルスという認識が高まれば、中国だって一線級の選手を送り出してくるだろう。日本をはじめ他の国はこれまでのようにこの種目で金メダルと獲りにくくなるに違いない。しかしそれもレベルアップのためには必要なことだ。
智に働けば角が立つ情に掉させば流されるという書き出しだけを何度も何度も読んできた。その先を読んでみるのははじめてである。
この温泉地はどこだろうと気になった。調べてみると熊本であるという。漱石は熊本の第五高等学校の英語教授として、4年ほど暮らしていたのだそうだ。温泉以外にもかつて住んでいた家や散歩道、茶屋などが漱石ゆかりの場所として観光地になっている。熊本にはいちども行ったことはない。もし訪ねる機会があれば、この温泉は要チェックである。

2023年5月28日日曜日

村上春樹『街とその不確かな壁』

実家から歩いて10分ほどの小さな神社のなかに図書館があった。当時わが家からいちばん近い図書館だった思う。そこからさらに5分ほど歩くと大きな図書館があり、神社のなかの図書館はその分館だった。
こじんまりとした木造二階建ては、当時の小学校の校舎を連想させた。一階は大人向けの本が並び、黒光りした木の階段を昇ると絵本や児童書のコーナーがあったと記憶する。今はもうその場所に図書館はなく、記憶も薄れてきているが、そこは僕が生まれてはじめて訪ねた図書館だった。
図書館にはササキさんという中年の男性がいた。不思議なことにはじめて会ったときから僕と姉のことを知っていた。貸し出しカードの名前を見て、ふたりを知り合いの子だと気づいたのだろう。ササキさんは区役所に勤めていて、その頃この図書館に派遣されていたのだった。父と酒場で知り合ったことはずっと後になってから聞いた。
実家からバス通りを避け、裏道を行く。5分ほど歩くと橋が架かっていた。そう、川が流れていたのだ。西から東へ。昭和40年代に暗渠化されて、今ではバス通りになっている。ほぼ川沿いを歩いて、橋を渡ってたどり着く小さな社のなかにある小さな木造の図書館。今にして思えば、なんと神秘的な場所だったことか。
その後、区内に図書館が増えてきた。大きな図書館が近隣にいくつかできて、いつしか神社のなかの図書館に通うことは少なくなり、そしていつしか図書館もなくなっていた。
村上春樹の6年ぶりとなる新作長編を読む。40年以上前に雑誌に掲載され、その後単行本化されなかった中編の書き直しといわれている。きわめて動きの少ない静かな静かな物語だった。そして昔よく行った図書館を思い出させてくれた。
僕がはじめて通った図書館は本当にもうなくなってしまったのだろうか。どこか知らない街にひっそり佇んでいるのではないだろうか。高く不確かな壁に囲まれて、無数の夢を蔵書として。

2023年5月21日日曜日

東京コピーライターズクラブ、鈴木隆祐『コピーライターほぼ全史』

1980年代にコピーライターブームがあった。僕は当時、小さな出版社にでも潜りこんで編集者になろうと思っていた。
大手広告会社でグラフィックデザイナーを経て、やはり大手の出版社でエディトリアルデザイナーでもあった叔父からコピーライターをめざせとアドバイスをもらった。そこで通いはじめたコピーライター養成講座。思っていたほどコピーは書けなかった。出される課題は橋にも棒にもかからない。唯一、たまに佳作として選ばれるのはラジオCMの原稿だった。話しことばより書き言葉の方が得意だと思っていたのに。
電波媒体の広告制作を仕事とするようになったのにはそんな経緯がある。
かつて広告制作に携わる人はアートディレクターと呼ばれていた。アートもだいじだけど、メッセージもたいせつだよねってことで昭和30年代、それまでの広告文案家はアメリカから輸入されたコピーライターという単語で呼ばれるようになった。コピー十日会を前身とする東京コピーライターズクラブが誕生したのもこの頃である。
この本の最初の方に登場してくる方々は、僕が30歳くらいの頃の上司の上司である(僕の上司もTCCクラブ賞をかつて受賞している)。それから若い世代が台頭してきて、スターがあらわれ、名作コピーの数々が誕生した。商品の差別化が難しくなってきて、広告も少しずつ変わってきた。その変化をいちはやく捉えてヒットCMをつくりだす若きコピーライターまでこの本は網羅している。
磯島拓矢の項に「北海道国際空港(現AIR DO)」とあった。おそらく校正漏れだろう。著者はジャーナリストであるという。致し方ないところであるが、コピーライターなら広告主名はまず間違えることはない。タイトルにある「ほぼ」とは、こうした不完全なところがありますよ、ということか。
まあ、別に目くじら立てて非難するわけではもちろんない。完璧な文章は完璧な絶望と同じくらい存在しないのだから。

2023年5月16日火曜日

宮台真司『14歳からの社会学』

大型連休は特に何をするわけでもなく過ごした。横浜で小津安二郎展でも観ようかとも思ったが、何も混雑する連休に行くこともあるまいと先送りする。
鳴らなかったインターホンを直したり、ベランダの詰まった排水溝をほじくったり、本を読んだり。最後の日曜日を除けば天気もよかったので連日犬たちと散歩もした。それなりに忙しく、充実した日々を過ごした(つもりである)。
この本は3月に区の図書館で予約した。大型連休直前の先月末にようやく用意ができましたとメールが届く。
宮台真司は昨年、八王子の都立大学構内で切りつけられた。衝撃的なニュースだった。社会学者で都立大学教授の宮台真司の名前をこのとき知った人も多いかもしれない。それほどの人なら一冊くらい読んでみよう、ついては難解な著作は避けたい、タイトルを見る限り中学生向けかもしれない、ならば読んでみよう。ということで予約が殺到したのではないかと踏んでいる。かく言う僕もできれば簡単に読める著者の本をさがしていたのである。
宮台真司が難しいとは思っていない。社会学という学問に触れる機会がなかったせいだと思っている。社会科学といわれる学問のなかで法学、経済学にくらべると社会学は(少なくとも僕にとって)歴史の浅い混沌とした分野である。学生時代、一般教養の科目としてあったが、僕は選択していない。いわば食べたことがいちどもない料理みたいなものである。うまいかうまくないかもわからないし、仮にうまかったとしてどこがどううまかったのか理解も説明もしようがない。
著者によれば社会学の巨人は、デュルケム、ウェーバー、ジンメルであるという。なんとなく知っている。本を読んだこともある(もちろん憶えていない)。それはともかく宮台真司の主張はすべて、ではないが、所々納得できる。とりあえず、そういうところだけメモを取ってみる。そのうち全体像が明らかになるかもしれない。ならないかもしれない。

2023年5月9日火曜日

中山淳雄『エンタメビジネス全史 「IP先進国ニッポン」の誕生と構造』

先月、フリーランス新法(特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律案)が成立した。コロナ禍で菅義偉前首相がエンタメ業界はフリーターが多く関与していて、その処遇を改善したいと語っていたことを思い出す。もちろんこれはフリーランスの言い間違いだろう。
今いる会社はテレビCMをはじめとした映像を制作している。ここのところ訳あって、その歴史を調べている。過去を振りかえるといろんな業種で賞を受賞している。CMの世界にはすぐれたCMを評価するコンクールが昔からあったのだ。
入賞作品を見てみると、食品、電機や精密機械のメーカー、男性用かつら、保険・銀行など金融関係、エステティックサロンなど幅広い。小さい会社ながら、かつては自動車でも入賞作品がある。
賞とはあまり縁がないが、ここ20数年でゲームの仕事が増えている。ゲーム好きのプロデューサーがいるせいもあるだろう(どの制作会社にもいるのだろうが)。僕自身はゲームとは無縁の生活を送っているので仕事にかかわることはほとんどない。近年の制作台帳を見てみるとドラゴンクエスト、バイオハザード、モンスターハンターなどゲームのことをまったく知らない僕でも聞いたことのあるタイトルが並ぶ。
少しはエンタメビジネスを知ろうとこの本を手にとってみた。ここで対象となるエンタメは「興行」「映画」「音楽」「出版」「マンガ」「テレビ」「アニメ」「ゲーム」「スポーツ」の9つの分野。大別するとコンテンツ市場、スポーツ市場、ライブ市場に分けられる。とりわけ興味を持って読んだのは「ゲーム」であるが、一時衰退したと思われる「音楽」「映画」「テレビ」などが思いのほか健闘している、成長している。
エンタメ世界はこれからの日本を支えていく産業になるのだろうか。ちなみに世界のゲーム市場は2025年に30兆円規模になると予想されているそうである。ゲームを知らない僕にはまったく想像しがたい。

2023年4月30日日曜日

安岡章太郎『犬と歩けば』

大型連休に突入した。
昨日は昭和の日。以前読んだ安岡章太郎の『僕の昭和史』を思い出した。劣等生から見た昭和の日々。おもしろかった。常々思うのだが、劣等生で落第をくりかえした安岡がどうして流暢に日本語を綴れるのか不思議でたまらない。天賦の才に恵まれたとしか思えない。
連休が大型であろうが、小型であろうが、在宅勤務で毎日自宅で過ごしているせいか、あまり外出する気にもなれない。行きたいところはあるにはあるが、わざわざ混んでいる休日に出かけることもなかろう。仕事を自分のペースでやりくりして、空いている平日に行ったほうがいい。いつも10人くらい並んでいるラーメン屋だって休日となると倍以上の人が待っている。
ちょっと前には連休を利用して墓参りに出かけることも多かった。南房総は鉄道旅には不便な場所になっている。東京駅か千葉駅から高速バスに乗る。これが当然のことながら混む。普通なら2、3時間の旅が4時間も5時間もかかる。滞在時間1時間半、バスのなか10時間なんてこともあった。墓参りというよりバスに乗りに出かけたようなものだ。
洋犬を飼っていた安岡章太郎は近藤啓太郎のすすめもあって、紀州犬を飼うことになった。安岡は近藤の一学年下。小中学校(青南小、第一東京市立中学)が同じ幼馴染だそうだ。そのせいか、そのせいでないか、安岡はその犬をコンタと名づけた。
紀州犬という犬を見たことがない。調べてみるとソフトバンクのCMに出てくる白い犬に似ている(この犬は紀州犬ではなく北海道犬らしい)。秋田犬にも柴犬にも似ている。日本の犬という感じがする。
前回読んだ『犬をえらばば』は著者の交遊録の色合いが強いが(その登場人物はいずれも犬と関わりを持っている)、この本は自らの飼い犬を中心に記述されている。犬と暮らすのはすこぶる楽しいことであるが、悲しい日もいずれやってくる。それを思うと楽しい毎日が切なくもなる。

2023年4月27日木曜日

安岡章太郎『犬をえらばば』

犬を飼いはじめて10年以上になる。
義妹が飼っていたチワワが仔犬を産んで、そのうちのオス2匹を引きとることになったのである。兄貴と目される大きい方は妻と娘にゴードンと名づけられ、少し小柄な弟はパパが名前をつけていいというので迷わずヨーゼフとした。TVアニメーション「アルプスの少女ハイジ」でアルムおんじが飼っていたセントバーナードから拝借した。体重3キロに満たない小さなヨーゼフ。
基本的な世話は妻がしている。僕の出番は、留守番のときと日々の散歩である。はじめのうちは土日だけしか連れていかなかった。週末になると人の顔色を伺ってはそわそわしたものだ。コロナ禍で在宅勤務になり、天気がよければ毎日連れていくようになった。犬というのはことばはわからないが、雰囲気でわかるという。餌の時間になるとのそのそハウスから出てきてうろうろしはじめるし、そろそろ散歩の時間じゃないかと思うとこっちを見て、尻尾を激しく振る。
安岡章太郎が犬を飼っていたとは知らなかった。遠藤周作、吉行淳之介なども愛犬家であったと知る(愛犬家かどうかは知らないが、とにかく犬を飼っていた)。昭和の作家たちはずっと家にこもって原稿用紙に向かい、夜は酒場で過ごすわけだから(これも偏見かもしれないが)、犬でも飼って散歩させるくらいのことをしなくては身体によくないだろう。この本に登場する作家以外にも犬を飼っていた文筆家は多いかもしれない。
犬を飼っている人に共通するのはその思考だろう。こいつが人のことばを喋れたらなあ、とか、犬は飼い主に似るものだなどということは誰もが思う。どんなにかわいい犬を見ても自分が飼っている犬がいちばんだと思うなど。そういった意味ではこの本は犬を飼っている読者にとってありきたりの内容である。逆にいえば、犬を飼ったことのない人たちはどう読むのだろう。仮に自分がそんな立場だったら。でもそれはなかなか想像するのが難しい。

2023年4月23日日曜日

持田叙子編『安岡章太郎短編集』

昭和50年に僕は高校に入学し、「靖国神社の隣にあり」「暗く、重苦しく、陰気な感じのする」校舎に通った。この短編集に収められている「サアカスの馬」は中学生時代に教科書に載っていた。まさか自分がその学校の生徒になるとは思いもしなかった。
ライコウという先生がいた。雷公なのか雷光か、どう表記するかは知らないが、その名のとおり発雷確率の高い社会科の教師だった。本当の名前は(記憶がたしかならば)林三郎である。
ライコウはこの学校に奉職して50年を超えているという。ひとつの学校に大正時代からいたなんてにわかに信じられない。昔の学校制度は詳しくないが、仮に17、8で師範学校か中学校を出て教職に就いたとすると、僕の入学時には70歳くらいだったのではなかろうか。どうしてひとつのそんなに長く学校にいたのか、それもわからない。僕の出身校の前身は東京府立の中学校ではなく、東京市のそれであった。府立の学校にくらべて数の少ない市立中学では異動も少なかったのかもしれない。
ライコウの担当教科は政治経済だった。僕たちの時代は三年生で履修した。社会科というとメインは日本史、世界史、地理で政治経済と二年時に履修する倫理社会は地味な科目だった。ライコウの授業はほぼ教科書通りだったと記憶しているが、脱線することも多かった。余計な話といっても、政治談議や景気の動向なんかでは決してなく、この学校の偉大なる卒業生の話ばかりであった。いろんな卒業生の名前が出てきた。当時はノートに書いたりしていたが、ほとんど忘れている(このノートが現存すればなあと思うが、いまさら持っていても、とも思う)。頻繁に話題になったのはロケット工学者の糸川秀夫である。「諸君の先輩、糸川君は…」などとよく話していたものだ。
ライコウの余談のなかに究極の劣等生、安岡章太郎が登場することはいちどもなかった。これだけはたしかである(記憶は甚だ曖昧であるけれど)。

2023年4月17日月曜日

夏目漱石『道草』

最近、夏目漱石を読んでいるのは、Kindleで無料だったりするからである。
そう遠くない将来、僕は年金生活を余儀なくされる。今のうちから倹約できるところは倹約したいと思っているのである。図書館も最近になって利用するようになった。ウォーキングついでに立ち寄れる図書館が近隣に多い。今までは音楽CDばかり借りていたが、読みたい本があれば検索して、予約するようにしている(これがなかなか順番がまわってこないのである)。もちろん仕事で必要な本は、今のところ資料代として精算できる。資料として読む本は味気ないものが多いが、たまにすごくおもしろいものに出会える。また楽しからずや、である。
先日、無料本のなかに『ジャン・クリストフ』があるのを知った。ロマン・ロランの大長編小説である。大学生になったばかりの頃読んだ記憶がある。翻訳もそのとき同じ豊島与志雄である。たしか岩波文庫だったと思う。年金生活後、読む本としてチェックしておく。
『道草』は漱石の自伝的小説といわれている。そういわれても、漱石の生涯なんて、教科書の日本文学史程度の知識しかない(しかもほぼ忘れている)。
ロンドンから帰った主人公健三は駒込に住む。兄は市谷薬王寺町に、姉は津の守坂に住んでいる。案外近い。四谷から牛込、早稲田あたりは当然のことながら、漱石のテリトリーである。この辺りはよく歩いた。知らず知らずのうちに散策していたのだ。
ただでさえめんどくさい人間である健三は、養父のことや細君の父のことでめんどくさい日々を送る。めんどくさい主人公が登場するのは漱石の小説では決して珍しいことではない。この作品が自伝的小説で健三が漱石であるとするならば、胃をやられてしまうのもさもありなんと思う。
四谷の荒木町や市谷台あたりも昔はよく歩いた。余丁町から西向天神も永井荷風の足跡をたどって歩いたものだ。そうした町並みをなつかしく思い浮かべながら読み終えた。

2023年4月7日金曜日

浅田次郎『兵諫』

二・二六事件。最後の現場は荻窪だった。
荻窪駅の西。環状八号線を越えたところに光明院という寺がある。いつ頃できたかは知らないが、境内には鐘つき台が設けられている。除夜の鐘もここから聴こえてくるのだろう。当日近隣に住んでいたとしたら、銃声も響いたに違いない。
陸軍教育総監渡辺錠太郎が暗殺された事件現場はこの寺のちょっと先である。さらに線路沿いを歩いていくと本むら庵といういい蕎麦屋がある。実は本むら庵に行くついでに、ああ、この辺りだったのかと知ったのである。本むら庵に行かなければ、僕と二・二六事件は接点のないままだった。
『蒼穹の昴』シリーズ第六部は『兵諌』である。またしてもタイトルが難解だ。
兵諌とは主君の行いを忠臣が剣を取って諌めた故事に由来しているという。兵を挙げて主君の誤ちを諌めるといった意味だろう。二・二六事件もこの小説では兵諌と位置付けられている。この事件に触発された張学良が蒋介石を軟禁する。いわゆる西安事件である。日中のそれぞれの事件につながりがあると見るのが一般的なのかどうかは歴史に疎い僕にはよくわからない。
なつかしい登場人物がいた。陳一豆である。北京で床屋の見習いだった一豆は北洋軍に召集され、張作霖の司令部付きの当番兵になった。その後、宋教仁や張学良の護衛役としてときどき登場していた。華々しい活躍に無縁だった一豆は最後の最後、一世一代の証言者となって張学良をかばい、死刑となる。仮に映画化、ドラマ化される際にはそれなりのキャスティングが必要だろうなどと考える。
このシリーズ、さらなる続編はあるのだろうか。『天子蒙塵』で満洲に渡った二少年の行く末も気になるところだ。
本むら庵の細打ち蕎麦はうまい。が、僕には華奢すぎる。板わさも焼きかまぼこより蒸しかまぼこが好きである。それでもときどきこの店を訪ねるのは蕎麦屋らしい凛とした雰囲気に浸りたいからなのである。空気は大切だ。

2023年3月27日月曜日

宮本常一『忘れられた日本人』

ものごころついた頃から、夏は南房総で過ごしたと何度となく書いている。
だいたい7月の終わりから8月の中頃まで、祖父母と姉と暮らす日々が続いた。お盆になると両親がやってくる。毎日のように浜へ行って泳ぐのであるが、お盆になると地元の子どもたちは海に入らなくなる。この頃、台風が発生しやすくなり、波が高くなる。年寄りたちはしょうろさま(おしょろさま)に連れて行かれるから浜へ行ってはいけないという。しょうろさまとはお盆で帰ってくる霊の乗りものである。海水浴を楽しむのはよそから来たものたちだけになる。
こうした言い伝えを聞いて育った子どもたちも高齢者の仲間入りをしていることだろう。口承は今でも続いているのだろうか。
記録を遺すということはたいせつなことである。記録を遺さなければならないから、改ざんが行われ、ねつ造がなされるのである。
歴史は、記述された資料に則り、時間軸を再構成した過去である。合理的に考えれば歴史のベースは文字ということである。もちろん文字が失われたから歴史が遺されないということでもない。文字とことばを奪われた南米の帝国や文化は構造物や生活習慣のかたちで今に遺っている。
口承は文字化されているわけではない。語り継がれて生き残った風習である。これらが成立するためには村などの地域が共同体として機能していることが大前提になる。宮本常一が各地で聞き取りを行い、記録に遺したのは昭和の時代。地域も家族もまだ空洞化していなかった。
果たして宮本が行ったようなフィールドワークは今でも可能なのだろうか。都市部では共助という発想が希薄になり、農村部は過疎化がすすんでいる。民間伝承の採集といった仕事はかなりやりにくくなっているのではないだろうか。
かつて日本画家東山魁夷は「古い建物のない町は思い出のない人間と一緒だ」と語ったという。思い出のない町から成る日本は思い出のない国になってしまうんじゃなかろうか。

2023年3月23日木曜日

夏目漱石『二百十日・野分』

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、日本代表は決勝戦でアメリカを降し、2009年以来、三度目の世界一に輝いた。大谷翔平をはじめ、どの選手も一定以上の活躍をした結果である。
鈴木誠也が欠場したのは残念だったが、近藤健介がその穴を埋めた。誠也が出場していたら、それほどまで活躍できなかったかもしれない。村上宗隆も見事に復活し、吉田正尚も岡本和真もコンスタントに働いた。決勝トーナメントで当たりが止まったけれど、ラーズ・ヌートバーは予選突破の立役者になった。それでもいちばんプレッシャーを感じたのは監督の栗山英樹だろう。決勝戦の継投は見事だったが、高橋宏斗や大勢が走者を背負った場面の心境や如何にといったところだ。この試合だけは栗山英樹に大いに感情移入した。
テレビで観た全試合のうち、いちばん印象に残ったのは、準決勝メキシコ戦8回裏に犠牲フライを打って4点目をあげた山川穂高だ。この1点がなければ9回裏の逆転劇は生まれなかったかもしれない。出番は少なかったが、山川はいい仕事をしたと思う。
夏目漱石の初期の中編「二百十日」と「野分」を読む。熊本を舞台にした「二百十日」は戯曲のような会話主体の小説である。あまり多くを読まない僕にはよくわからないが漱石の作品にしてはめずらしいのではないだろうか。
嵐の最中、阿蘇に登るふたり、圭さんと碌さん。圭さんの実家は豆腐屋だという。豆腐屋といえば、中国東北部の馬賊張景恵を思い起こす。最近、浅田次郎の『中原の虹』を読んだばかりだからだ。
漱石の小説にはたびたびめんどくさい人が登場する。『虞美人草』の藤尾、『それから』の代助、『門』の宗助のように。「野分」にも高柳、白井道也と、ふたりもめんどくさい人物が出てくる。あまり人のことは言えないが、めんどくさい人はめんどくさいからきらいだ。
そうそう、果敢に盗塁を成功させた山田哲人も今大会では忘れらない選手のひとりである。

2023年3月20日月曜日

浅田次郎『天子蒙塵』

神保町シアターで芦川いづみが特集されていた。
1962年の作品「しろばんば」(滝沢英輔監督)を観た。井上靖の原作は小学生か中学生の頃に読んでいる。御茶ノ水駅で下車し、ギターやサックスを眺めながら駿河台下に向かう。このあたりの風景はあまり変わっていないが、明治大学が高層ビルになっている。明治大学リバティタワーと言うそうだ。見上げると白雲がなびいている。その向かい、かつてカザルスホールのあった建物は日本大学が入っている。
駿河台下の交差点までたどり着く。三省堂書店は改築中だった。仮店舗が神田小川町にあるという。この交差点に三省堂があるのとないのとでは印象がずいぶん違う。
チケットを購入後、カリーライス専門店エチオピアでカレーライスを食べる。8年前の3月に叔父が他界した。映画とカレーライスをこよなく愛する人だった。そういうわけで毎年3月になると頻繁にカレーライスを食べる。スパイスがよく効いていた。
「蒼穹」「中原」「蒙塵」とこのシリーズは題名だけでも未知の言葉を知ることができる。蒙塵とは、天子様が難を避けて逃げ出すことらしい。ふだんの行幸の際は道をあらかじめ清めて通るのであるが、急を要する場合はそれどころではない。頭から塵をかぶりながら進まなければならない。そういう意味らしい。
『蒼穹の昴』で西太后の全盛期を読んだ後、ベルナルド・ベルトリッチ監督の「ラストエンペラー」をもういちど観たいと思った。このシリーズを読みすすめるうちにとうとうラストエンペラーの都落ちにたどり着いた。蒙塵するのは愛新覚羅溥儀だけではない。国民政府に帰順した後アヘン中毒治療をかねてヨーロッパを歴訪する張学良。この旅も蒙塵のように思える。
梁文秀と李春雲が溥儀の旅の終わり(はじまりか?)に立ち会う。玲玲も含め、皆元気そうでほっとした。軍をはなれた李春雷はもう荒くれ者ではなくなっていた。まったくの好々爺であった。

2023年3月13日月曜日

小幡章『CM制作ハンドブック』

1980年代後半まで、テレビコマーシャルはCFと呼ばれ、文字通りフィルムで撮影され、フィルムで仕上げられていた。その後、撮影はフィルム、編集以降仕上げの工程はビデオで行われるようになる。今ではデジタルカメラで撮影し、デジタルデータを加工するプロセスになっている。フィルムで制作されていた時代はほぼ映画製作の現場と変わらなかったのではないか。
もっと探せばあるのだろうけれど、フィルムでTVCMをつくっていた頃の資料は多くない。制作技法は進歩している。昔の制作方法を記述した書物が有用だとも思えないし、映画関係の文献もテクニカルなことより、コンテンツを主題にした方が断然有意義であるし需要も多いだろう。
そんななかでこの本を見つけた。1990年に発行されている。ちょうどフィルム撮影ビデオ仕上げが一般的になってきた時代である。撮影したフィルムはその日のうちに現像所に運び込まれ、翌日現像し、ポジにプリントされたラッシュを試写する。そんな工程も書かれている。なつかしい。ラッシュはOKカットを選び出した後、「パタパタと通称される」編集機でつながれる。ムビオラ35ミリフィルムビューワーのことだ(僕はムビオラをパタパタと呼んだ記憶はないが)。ムビオラの他にも長編映画の編集で使用されるスタインベックという編集機もあった。
0号チェックにもふれらている。0号チェックとは初号プリントをあげる前の段階として編集されたネガフィルムをそのままポジに焼き付けたプリントをベースに色補正を行う作業である。ねらい通りの色調に仕上がっているか、各カットごとの整合性はとれているかといった視点からカメラマンが中心になって以後プリントする際の注意事項、指示事項を決めていく。初号納品前日の厳かな儀式のようだった。
TVCMの世界にも映画の世界にもこうしたプロセスを記憶する人はやがていなくなることだろう。月日の流れとはそういうことだ。

2023年3月8日水曜日

夏目漱石『虞美人草』

子どもの頃、スポーツで世界に通用する競技がどれほどあっただろうか。
すぐに思い浮かぶのは、男子体操、柔道とレスリング、重量挙げ(当時女子はなかった)、バレーボール。あとはスキージャンプ。競泳で世界と互角に戦える選手もときどきあらわれたが、陸上競技でメダルを獲得したのはメキシコ五輪の君原健二くらいしか思い浮かべることができない。円谷幸吉は実際の記憶に薄いが教科書に載っていたのでよくおぼえている。
この50数年で世界レベルに近づいた競技も多くなった。サッカーやラグビーのワールドカップで強豪国と渡りあうことだってザラである。フィギュアスケートやスピードスケート、バドミントンなど。バスケットボールやバレーボールも国際的な大会では苦戦を強いられているが、若い才能が世界のトップレベルのクラブで活躍している。経済成長の真っ只中、伸び悩んでいた日本のスポーツが課題だらけの少子高齢化の世の中で大きく花開いているのもちょっと皮肉だ。
『虞美人草』は夏目漱石初期の長編。漱石が小説家として活動したのは10年ちょっとだから、初期も後期もないとは思うが。初期のこの作品はさほど深刻なドラマはない。どちらかといえば読みやすい。高慢な女と煮え切らない男。さらにその後の漱石の小説の主役となる神経衰弱の男と実務に長けたリアリストが登場する。
この頃の作品に細かな東京の地名は出てこない。この小説にも出てくるが、東京勧業博覧会が上野で開催されている。場所を特定できるのはこの上野恩賜公園くらいだろう。1907年のことだ。その少し前に東京馬車鉄道が電化され、後に東京市電となるのであるが、この頃はあまり便利な乗りものでもなかったようである。主な移動手段は人力車であることが読んでいてわかる。
もうすぐワールド・ベースボール・クラシック(WBC)がはじまる。ダルビッシュ有、大谷翔平ら世界レベルのプレーが今から楽しみである。

2023年2月25日土曜日

宣伝会議編、阿部正吉監修『CM制作の基礎知識 プランニングからオンエアまで』

テレビコマーシャルのプロデューサーというと弁が立って、行動力のある人が多い。僕の周囲にいたプロデューサーだけなのかもしれないが。
広告会社のクリエイティブの方で発想法やヒット広告づくりのヒントになるような本を書く人はいるが、CM制作の現場の人間はなかなか実体験を書いたりしない。TVCM制作の、理論ではなく実際に関する書物が少なかったのはひとつには書き手がいなかったからではないだろうか。
この本が発行されたのは1996年。80年代半ばまでTVCMは35ミリフィルムで撮影され、ラッシュを編集し、オプチカル(光学処理)作業を経て完成し、16ミリフィルムにプリントされていた。そのうちに撮影後現像されたネガフィルムをビデオテープに転写して、編集や録音をするようになる。90年代半ばくらいまではこうした手法でつくられていた。90年代半ばくらいになるとコンピューターが身近なものになる。データ化された映像はハードディスクに記録され、編集も録音もデジタルデータとしてスピーディーに加工されていく。著者がこの本を書いたのはちょうどその頃だ。
以降、TVCM制作はデジタルベースで行われる。デジタル主流ということは日進月歩の波に吞み込まれていくことを意味する。新たな技術が生まれ、定着し、コモディティ化されると次なる技術が定着してくる。HDで収録されていた動画も今では4Kがスタンダードである。4Kの膨大なデータを収録できる大容量のストレージが一般的になったことが背景にある。
近年、現場レベルで描かれたTVCM制作の本がほとんどないのはテクノロジーの進歩と無関係ではないだろう。記録しているうちにそれまでのスタンダードはどんどん刷新されていく。そういった意味からすればこの本は1990年代半ばまでのTVCM制作の実際を記した貴重な資料であると言える。欲を言えば、もう少し丁寧な校正が必要だったとは思うけれど。

※この本は2001年、2003年、2006年に改訂新版が発行されている。

2023年2月23日木曜日

高村薫『照柿』

NHKBSで1996年に放映されたドラマ「照柿」が再放送されていた。
原作は高村薫。最初に読んだのは『レディー・ジョーカー』だった。以前お世話になったアートディレクターからおもしろいから是非と薦められたのである。その後DVDで映画を観てから、『マークスの山』を読み、この本にたどり着いた。
作品の発表順からすると、マークス、照柿、ジョーカーなのだが、3→1→2の順で読んだことになる。読み終えたのは2013年1月。もう10年前のことだ。当然記憶は薄れている。合田雄一郎シリーズはその後読んでいない。高村薫の作品は文庫化されるまでけっこう時間がかかったから。
このなかで最初に映像化されたのは今は亡き崔洋一監督の「マークスの山」で合田雄一郎は中井貴一が演じた。「レディー・ジョーカー」は平山秀幸の手によって2004年に映画化されている。合田は徳重聡だった。この作品は合田というより物井薬局店主の渡哲也のほうが主役という印象が濃い。ドラマの「照柿」では三浦友和が合田雄一郎に扮している。いずれにしてもどんなキャストがベストな合田雄一郎かなんてそう簡単には決められまい。
『レディー・ジョーカー』を読んだあと、最初の犯行現場である大田区山王や物井薬局のある萩中あたりを歩いたのを思い出す。『マークスの山』の読後は足立区小台や葛飾区金町、目黒区八雲などを歩いたっけ。この本を読んだあとは拝島や福生あたりを散策するべきだったのだろうが、残念ながら訪ねていない。都下の、個人的にあまり興味の持てない遠い地域だったせいもあるし、この物語における合田雄一郎がパッとしなかったせいもあるかもしれない。そういった意味ではキャストの三浦友和はベストだったかもしれない。
ドラマを見ながら、記憶の頼りなさを実感した。折あらばまた読んでみよう。熱のこもった工場と狭く薄暗いアパートの一室くらいしか印象に残っていないし。

2023年2月20日月曜日

浅田次郎『マンチュリアン・リポート』

「BSチューナーを買って、アンテナも付けたんだけど、映らないんだよ。こんどの休みの日に見てくれないか」
声をかけてきたのは当時僕が所属していた広告会社の副社長道山さんだった。ロンドンやニューヨークで広告ビジネスの経験を有する道山さんは、朴訥とした日本語からは想像しえないような英語を話した。プレゼンテーションの挨拶ではジョークをまじえてクライアントの重鎮たちを笑わせた。もちろん「聞く力」のない僕にはさっぱりわからなかったが。
当時制作を担当していた僕が作業スペースにあるモニターやビデオデッキ、オーディオアンプなどの配線をしていたとき偶然通りがかった道山さんに声をかけられたのである。1989年か1990年の冬だったと思う。NHKがBSの本放送を開始したのは89年の6月だったから。
結論的にいえば、あの手この手を尽くしたもののBSは映らなかった。チューナーの上面にねじ止めされたふたがあり、ねじがゆるんでいた。開けてみると小さなコイルがいくつか並んでいた。おそらく同調用の微調整コイルだろう。
「道山さん、ここを開けて、ドライバーか何かで中の部品、いじりましたか」
映らない理由がなんとなくわかった。アンテナを設置した業者さんに聞いてみてくださいと告げて作業を終えた。
道山さんのお宅で大きな餃子と奥さんが漬けたピクルスをごちそうになった。餃子は大きく、銀座にある天龍という中華料理店のそれとよく似ていた。ピクルスはニンニクの利いた独特の味がした。
「僕はね、満洲で生まれ育ったんだよね。子どもの頃から食べてきた餃子と僕がロシア人から教わったピクルスを女房に教えたんだ。これと同じものをつくってくれって」
満洲という大地もその時代も知らない僕がはじめて満洲に触れたひとときだった。
その後、BS放送は映るようになって、ロンドンやニューヨークから発信されるニュース番組を道山さんは毎日楽しみにしていたという。

2023年2月17日金曜日

浅田次郎『中原の虹』

肥沃な大地、豊かな鉱物資源。中国東北部、満洲は日清日露戦争後、日本にとって夢のような土地だったに違いない。日本は軍部の独断で侵略を進め、この地に満洲国という傀儡国家をつくる。
終戦(ポツダム宣言受諾)間際に突如として日ソ中立条約を破棄したソ連軍が満洲に侵攻する。とにかく昔から侵攻するのが大好きな国だったのだ。満洲に新天地を求めて移り住んできた日本人の多くがこの侵攻の犠牲になる。楽園の大地は地獄と化した。命からがら、日本にたどり着いた者もいる。家族を失い、孤児となった子どもたちもいる。テレビドラマ化された山崎豊子原作『大地の子』にその悲惨さ、壮絶さが描かれている。作家新田次郎の妻で数学者藤原正彦の母、藤原ていは満洲脱出を記録している。小説『流れる星は生きている』である。終戦後の新京から陸路、朝鮮半島を南下する。映画化した小石栄一監督もその過酷な逃避行を哀しく描いている。満洲は多くの日本人にとってうしろめたく、つらく、かなしい歴史となってしまった。
中原(ちゅうげん)という言葉はこの本に出会うまで知らなかった。黄河の中下流域の平原で中華文明発祥の地であるという。『蒼穹の昴』の主な舞台は中原だったが、この続編の主戦場は東北部になる。
かつて満洲から万里の長城を越えて中原の覇者となった女真族。200年以上続いた大清帝国の末期、中国東北部に張作霖があらわれる。『蒼穹の昴』シリーズに登場する唯一絶対のヒーローだ。かっこいい。かっこよすぎる。
張は清を起こした昔日の女真族のように東北部を平らげ、中原をめざす。時代を隔てたふたつの馬賊の活躍が同時進行的に綴られる。その志「民の平安」はゆるぎない。
『蒼穹の昴』で別れ別れになった者たちが、この物語で再会を果たす。涙を誘うとともに救われた気持ちになる。タイトル『中原の虹』とは生き別れたきょうだいを結ぶ架け橋のことだったのではなかろうか。

2023年2月8日水曜日

安藤英男『近世名力士伝 谷風から玉の海まで』

「東方大関清國。秋田県雄勝郡雄勝町出身伊勢ヶ濱部屋」
テレビを通じて場内アナウンスが流れる。土俵上の清國の一挙手一投足をブラウン管のなかに凝視した。色白で端正な顔つき。大き過ぎず、均整のとれた体格。佇まい、居住まいの美しい力士だった。何よりもその見た目が好きでファンになった。
テレビで大相撲を見るようになったのは小学校の四~五年生くらいだったと思う。玉の海と北の富士が同時昇進で横綱になり、大関には琴櫻と清國。その年に突っ張りの前乃山とうっちゃりの大麒麟が大関に昇進し、三横綱、四大関の時代だった。昭和45年は北の富士が3回、玉の海が2回、大鵬が1回優勝している。翌46年も同様に六場所すべてを横綱が優勝。ただ、大鵬が引退、玉の海が急逝という残念な一年でもあった。
大関清國は僕が相撲を見る以前の昭和44年の名古屋場所で優勝している。思い出すのは昭和47年初場所。横綱北の富士、大関前の山が途中休場、大関大麒麟が全休だった。波乱の場所で千秋楽を10勝で迎えた琴櫻と栃東が優勝争いトップ。9勝の力士も優勝の可能性があった(それでも10勝5敗で優勝だとしたらあまり褒められたものでもない)。
琴櫻が破れた直後の結びの一番は優勝争い単独トップに立った平幕栃東とここまで9勝の清國。清國が勝てば前代未聞の10勝力士7人による優勝決定戦となるはずだったが、清國はあっけなく敗れ、栃東が初優勝。がっくり肩を落としたことを今もおぼえている。
先日ラジオに林家木りんという落語家が出演していた。ラジオなのでわからないが身長193センチ。「世界一背の高い落語家」を自称している。聞けば元伊勢ヶ濱親方のご子息であるという。元大関清國の息子はなんと落語家になっていたのだ。
この本は昭和47年に刊行されている。小学生の頃、何度も何度も読んだ本であり、今も書棚に眠っている。清國の息子の声を聴いて、またページを捲りたくなった。