2010年9月29日水曜日

カーマイン・ガロ『スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン』

“驚異のプレゼン”とはなんともいい響きである。それに引き換え、以前よく仕事であったのが“驚異のオリエン”だ。なんの商品情報もなく、市場動向や消費者インサイトもなく、コミュニケーション課題もなく、ホワイトボードに、A・B・Cとだけ書いて、「まあ、3方向くらいでプレゼンしたいんだよねぇ、よろしく!」で終わる驚異のオリエン。というか脅威のオリエン…。まあいい時代だった。
アップルは製品そのものがプレゼンターだと長いこと思っていた。Macintoshしかり、iPhone、iPod、iPadしかり。だが、そんな具合に技術がすべてを語ってくれる的な発想自体がきわめて日本人的なのかもしれない。ソニーもホンダも世の中にたったひとつしかない製品をその高い技術力でカタチにしてきた。技術力は雄弁に語ることより、寡黙に役立つことを美徳とする。日本的な技術立国とはそうした背景のもと育まれてきたのではないだろうか。
もちろん経済土壌の違いはある(あったというべきか)。独自性を極力黙殺し、横並びの無個性製品を広告やイメージで差別化し、あるいは流通のコネクションで市場をコントロールする旧日本式経済とプロテスタントの自由主義経済とは根本的な差異があって当然である。そのなかで生き残る術として“プレゼン”は存在する。
ジョブズのプレゼンテーションがアップルを支えているのか、アップルのプロダクツの数々がジョブズのプレゼンテーションを支えているのか。その判断は難しいところであるが、アップルという総合エンターテインメント商社の両輪として現在、両者(両車?)はうまく稼動している。
今回、この本を読むにあたって、ユーチューブに投稿されているジョブズのキーノートの数々を見せてもらった。いずれも魅力的なプレゼンテーションだったと思う。英語の勉強にもなった(かもしれない)。
漢字トーク6の時代からはじまってOS8.1までぼくはMacintoshユーザだった。そろそろぼくというMacユーザを再発明してもいいかなと思っている。


2010年9月26日日曜日

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』

ラバーを表ソフトに替えた。
といっても卓球をご存じない諸兄にはなんのことやらわかるまい。卓球のラバーは大きく分けて2種類あって、それが表ソフトラバーと裏ソフトラバーである。人間同様、卓球のラバーも表と裏がある。
表ソフトラバーはイボイボというかツブツブが表面に出ているラバーで(さらにいえばそのツブの高さによってまた性質の異なるラバーのカテゴリーもあるのだがここでは面倒なので割愛する)、裏ソフトラバーは表面がつるんと平らなラバーのこと。小学生の頃は表ソフトラバーを使っていたが、昨今の主流は裏ソフトラバーであるらしく、卓球を再開したここ1年半、すっと裏ソフトを使ってきた。
が、ついこのあいだ、ひょんなことから表ソフトのラケットを借りて打ってみたら、思いのほかしっくりきたので貼り替えてしまったわけだ。
基本的なことをいうと表ソフトはスピードは出るが、スピンがかかりにくい。裏ソフトはスピンがかかりやすく、スピードが出ないということなのだが、昨今はスピンが重視される時代であり、技術的な進歩とともにスピードが出て、スピンのかかる裏ソフトが各メーカーから多数出てきた。世界ランカー、日本ランカーのほとんどが裏ソフトラバーを使用している。
表ソフトの存在価値は相手ボールの回転に影響されにくいということだが、ぼくにとっては今より身長が30センチも低く、軽快に動けた頃の自分を思い出せるというのがいちばんの効果だ。
ジョルジュ・バタイユの名前はある種の思想書に登場するだけでそれ以外に接点はなかったが、光文社の古典新訳シリーズでようやく読むことができた。
ともかくびっくりした。ある意味では赤塚不二夫の漫画よりもすごい。
もちろん、ラバーを替えて、軽快に動けているわけではない。

2010年9月19日日曜日

岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』

高校野球の新人戦がはじまっている。
他道府県はどうかわからないが、東京の場合、新人戦はまったくのガラガラポン。シードなしの抽選による組合せと何十年も昔に聞いたことがある。もちろん秋の大会は会場を提供する当番校があり、その24校は確実に振り分けられるわけだから本大会まで対戦はない。つまり当番校は暫定シード校ということになる。それ以外は純粋に抽選なのだろうが、毎年まずまずうまく振り分けられている。とりわけ昨年から本大会枠を24から48にしたことで強豪同士が予選で激突する確率は減ったといえる。
それでもくじの世界ならではのいたずらが当然ある。たとえば第3ブロックBなどはいきなり一回戦が早実対東亜学園。これで春選抜への道が閉ざされるわけだから、両校にとってはいきなりきびしい戦いになったが、東亜が接戦を制した(これを番狂わせ的な見出しで報道していた新聞もあったが、いかがなものか)。
この対戦に限らず、強豪同士が潰しあうブロックはいくつかあって、12Aの修徳・雪谷、24Bの国士舘・日大鶴ヶ丘あたりは予選ブロック戦のなかでも好カードとなるだろう。
この小説はさすがにドラッカーを扱っているだけに、戦略戦術に長けた一冊だ。かつてスポ根ドラマにはヒーローとライバルと友情が欠かせなかったが、現代に必要なのはマネジメントだぜっていう骨組と青春ドラマのお決まりディテールを巧みにマッチングさせたマーケティング小説といえそうだ。売れるべくして売れたと筆者とそのスタッフたちは思っているに違いない。


2010年9月16日木曜日

オノレ・ドゥ・バルザック『グランド・ブルテーシュ奇譚』

雑誌の表紙をつくる、という課題が出たそうだ。
美術大学に通う娘の話なんだが、そのデータを送るので仕事場のプリンタで出力してほしいとのこと。はいはい、と黙ってプリントしてくればいい父親なのだろうが、つい余計なことをいう。
どれだけのサンプルを見たのか、どんな雑誌にしようと思ってデザインを考えたのか、と。作曲家がどこかで聴いたことのある曲をつくってはいけないように、デザインするものは何かに似たデザインをしないほうがよい。そのためにはできるだけたくさんの雑誌に触れてみる必要がある。
今はインターネットですぐに検索できるから、短時間に膨大なサンプルを眺めることができる。だからといってそこからすぐれたデザインが生まれてくるだろうか。たいせつなのは“たくさん触れてみる”ことではないかと思う。手にとる、ページをめくる、目を通す。外国の雑誌でもなんとなくそのジャンルやテーマはわかる。勘がよければ、若者や初心者をターゲットしているか、そうではない専門性を持ったものかというのもわかる。そうした中身・内容をその表紙のデザインは期待させてくれるだろうか、きちんと語りかけてくれるだろうか。
雑誌の表紙はもちろん、ポスターだって、レコード(CD)ジャケットだって、おそらくこうした想像力のもとにデザインは成り立つものなのではないかと思う。
バルザックといえば、骨太な長編小説を思い浮かべるが、短編もなかなかのものだ。きらりと光るものがある。
で、娘には上記のようなことを言ったつもりだが、酔っ払ってたし、“いつも言ってるみたいなこと”にしか聞こえなかったと思うが、それはそれでいいんじゃないかな。

2010年9月13日月曜日

司馬遼太郎『最後の将軍』

先週の台風通過後、しばらくは「あ、これって大陸の風」と思える空気が日本列島に流れ込んだような気がしたが、また暑くなってきた。とはいえ朝晩はいくらかしのぎやすくなってきてやれやれであるが、考えてもみれば9月の中旬だ。そろそろなんとかしてほしい(誰に何をどうお願いすればいいのか皆目わからぬのだが)。
歴史小説、時代小説のファンがこれほど身のまわりにいるんだと知ったのはつい最近のことで、たまに幕末の話題になったりすると100%ついていけない。山川出版の日本史くらいなら読んではいるが(憶えているかいないかは別にして)、どこまでが徳川幕府の時代でどこからか明治時代なのかすらよくわからないでいる。そんなときはたいてい「サアカスの馬」の主人公のするバスケットボールのように飛んでくるボールをよけながら、ドンマイ、ドンマイと言うがごとくお茶を濁している。世の中のたいていのことは「なるほど」か「ですよね」と応えておけばうまくいく。ただし相手が謙遜しているときは要注意で、ときに「そんなことないでしょう」くらい言えないと気まずくなることがある。
仕事場の後輩の(大学の後輩でもあるのだが)Yが時代物をよく読むと聞いて、取り急ぎ司馬遼太郎にエントリーするなら何を読めばいいのかと訊ねたら、『最後の将軍』っすよ、という。どうやら徳川慶喜の話であるらしい。先日『羆嵐』を紹介してくれたHさんは自他ともに認める“幕末通”であり、そうした諸先輩方と熱く、楽しいひとときを過ごすためにもこれは必読の書であると思った。
正直申し上げると、自分で思っている以上にぼくは日本史の知識がない。漢字が読めない。登場人物の名前が憶えられない。特に苦しんだのが“永井尚志(なおむね)”。ルビのあるページに戻ること数知れず。ようやく記憶にとどまったところで読み終わった。
幕末通への道は遠く険しい。

2010年9月8日水曜日

長嶋茂雄『野球へのラブレター』

清水義範の短編に「いわゆるひとつのトータル的な長嶋節」という名作があり、それによると長嶋は野球の天才であり、解説者としての彼は「本能的にわかっている非常に高度なことを、なんとか説明しようと最大の努力をする」のだそうだ。それがいわゆるひとつの長嶋節になってしまう。それは長嶋の「言語能力が低いのではなく、伝えたい内容が高すぎる」からであるという。アインシュタインが子どもに相対性理論を教えるようなものらしい。
本書は野球に関する雑話と著者自身述べているように系統的でなかったり、思いつきであったり、いかにも長嶋茂雄らしい一冊だと思う。
長嶋茂雄は現役時代を知るぼくにはスタープレーヤーであったし、自らの引退後低迷する巨人軍の監督でもあった。その後浪人時代は文化人的な活動をしていたが、やはりこの人はユニフォームを着てなんぼの人なのだろう、第2期監督時代が(現役時代を除けば)いちばん輝いていたのではないだろうか。
なによりも長嶋の素晴らしいところは過剰を超えてあふれ出る自意識だ。ゴロのさばき方、ヘルメットの飛ばし方、エラーの演出、胴上げのされ方まできちんと計算しているスターなのである。そして彼の資質の中でさらにすごいのがグラブのように、バットのように、ピッチャー新浦やバッター淡口のように巧みにあやつる“言葉”ではなかろうか。“メークドラマ”、“メークミラクル”、“勝利の方程式”など長嶋茂雄の造語は多い。これらの言葉は意味をもつというより、意図を感じさせる役割を果たしている。天才の思いを共有するためのコミュニケーションツールになっている。
そういった意味からすれば長嶋の“言葉”に接することができたぼくらはなんて幸せなんだろうといわざるを得ない。



2010年9月5日日曜日

藤村和夫『蕎麦屋のしきたり』

今使っているPCがことごとく老朽化している。
自宅のネットブックはほとんど役に立たず、仕事場のノートPCは電源ジャックのあたりの断線か接触不良でバッテリが充電されたり、されなかったり。メーカーに修理を出したらまずメインボードの交換となるだろう。
以前PowerBook100というノート型のMacintoshを使っていたときも似たような症状があった。そのときはメインボードにつけれらた電源ジャックの半田が割れていたので自分で半田付けをしなおした。今回もたぶんそんなことだろうとは思うのだけれど、ノートPCを分解する意欲ももうないし、半田付け程度ですめばいいが、ケーブルの断線だったりしたら手に負えない。秋葉原の修理専門店に持ち込むか、あきらめるかのどちらかだ。自宅のノートPCはCeleronの650MHzくらいだが、仕事場のそれはPentiumIIIの1GHz。メモリも512M挿しているから、どうにかこうにかLinuxのネットブックにはなりそうな気がして、あきらめきれないところがある。
昭和50年当時、東京の蕎麦屋の名前で“藪”とつくのが約300軒、次が“更科”で160軒。以下“長寿”、“大村”、“満留賀”と続き、“砂場”がはやくから登録商標とされていたせいか65軒で11位だったという。
杉浦日向子によれば、そば好きは“蕎麦屋好き”と“そば好き”に大別されるらしいが、ぼくのように両方好きな諸兄も多いはずだ。
この本は元有楽町更科の四代目が書いたとあって、蕎麦屋を外からでなく、内側から見渡せる貴重な文献である。ぼくもかなり以前、老舗蕎麦屋の次男が先輩だった関係で大晦日のみやげ売り場に立ったことがある。いい蕎麦屋は内から見ても外から見てもいい蕎麦屋である。


2010年9月3日金曜日

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

仕事場で使っていたノートPCが起ち上がらなくなったのが去年のこと。
リカバリディスクでなんとか復旧した。ちょうどそのころ自宅で使っていたノートPCも同時多発的に起ち上がらなくなり、こっちのほうはHDDがやられているのか、リカバリもできず、そのままに放置していた。最近になってクロームOSはLinuxベースのOSでどうしたこうしたという記事を見て、LinuxをHDDにインストールすれば、この放置ノートPCもネットブックとしてよみがえるのではないかと思いついた。
ところが昨今、Linuxもコマンドラインからコマンドを入力して、という時代ではなく、GUIが当たり前になっている。先日、Fedora13というRedHat系のディストリビューションをためしにインストールしてみたら、デスクトップ画面が現れない。どうしたものかと調べてみたら、メモリが128MBでは全然非力なんだそうだ。
だからといってメモリを今さら買い足す気にもなれず、さりとて捨ててしまう気にもなれず、何かないかと探していたら、xubuntuという比較的少ないメモリで動くディストリビューションがあるという。
CDにisoイメージを焼いてインストールしてみると、やはりメモリが少ないせいだろう、画面サイズが小さい。800x600モードになっている。それでもFireFoxは起ち上がる。Gmailも見ることができる。ただし日本語入力はできない。これは今勉強中。一応ネットの閲覧だけはできるようになった。ただネットブックと呼ぶにはちょっと動作が鈍い。
話題作や長編ばかりで実はまだ読んでいない村上春樹は意外と多い。
この本もそうだ。”地震”しばりというテーマに対しては少なからず無理はあるものの、楽しく読ませていただいた。今後も読み漏らしている村上春樹を読み潰していきたい。