2011年4月30日土曜日

有川浩『阪急電車』


小高い丘の上にある門戸厄神から武庫川や伊丹方向の景色はのどかでいい。
以前同じマンションに住んでいたBさん一家が西宮に引越して、かれこれ10年近くなる。夏休みや春休みにはお互いの家族ぐるみで泊まりに行ったり、来たりしていたものだ。その住まいが門戸厄神駅の近くだった。
阪急梅田で神戸線に乗り、西宮北口で今津線に乗り換える。西宮北口という駅はJRの西宮駅の北口にあるものだとばかり思っていた。今津線はその南の今津と宝塚を結ぶ路線であるが、今津~西宮北口間と西宮北口~宝塚間は線路がつながっていない。不便なことに階段を上って乗り換えなくてはならない。東京の感覚でいえば、東海道新幹線と東北・上越新幹線が“今津線”という名前でどういうわけか東京駅で乗り換えないと新青森から博多まで一本で行けないと思えば、わかりやすい(そんなことないか)。
この沿線は(西宮北口から今津へは行ったことがないが)、大阪や神戸の賑わいに比べて実に落ち着いた風景をもっており、車窓を眺めているだけで心が和む。仁川駅から見える阪神競馬場が宇宙から降ってきた異質な施設のようである。山が見え、川を渡る。鉄道模型マニアであればジオラマのつくり甲斐があるというものだ。
北に向かって終点にあたる宝塚は(この小説では起点の役割を果たしているが)、阪急電鉄が育て上げたミニリゾート地帯である。と同時に住宅地であり、学園町でもある。JRと阪急宝塚線をつなぐターミナルでもある。それらが絶妙なバランスで寄り添っているいい町だと思う。
そのような路線であるので、この小説に描かれたようなドラマがあっても不思議ではない。もちろんそんなドラマなんてなくてもじゅうぶんに楽しく、心あたたまる線区でもある。

2011年4月26日火曜日

井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』


天気のよいとある日に地下鉄東西線に乗って、妙典に行ってみた。
この駅は開業してから10年ちょっと。比較的新しくできた駅で駅舎もきれいだし、駅前にも町らしい町はない。昭和成長期に生まれ育った浦安とか行徳とは異なる新興の駅といった雰囲気である。
駅から歩くとすぐ江戸川に行き当たる。橋がかかっていて、水門がある。江戸川もここまで下流になると、まわりに高い建物の少ないせいもあって、空ともども広い。水上スキーを曳くモーターボートが水しぶきを上げている。川の向こうに見える高層ビルは市川か。
江戸川沿いを歩いて、篠崎に出る。あっというまに江戸川区になった。川沿いをしばらく歩いたが、その先の橋までは相当距離がありそうだったので、引き返して、都営地下鉄の篠崎駅に出ることにした。なんの変哲もない日のなんの変哲もない散歩。
関川夏央によれば、戦前昭和の日本は決して暗いだけの時代ではなく、戦後社会に失われていく「家族」の生活のパターンが生まれ、安定的に成熟していった時代だという(たしかじゃないけどたしかそのようなことを書いていたような気がする)。戦前昭和に対するそんな興味をもって手にした一冊がこの本である。
格差社会であるとか新興宗教の台頭、あるいはカリスマの誕生など、現代日本との対比で昭和戦前を読み解くという試みは興味深いものがあるが、果たしてじゅうぶん解き明かせたかどうか。
篠崎からひと駅乗って、本八幡に出る。京成八幡の駅前で永井荷風が好きだったというかつ丼を食べた。荷風はずいぶん甘いかつ丼が好きだったんだな。

2011年4月23日土曜日

吉村昭『関東大震災』


JR総武線を下底に蔵前橋通りを上底にして、隅田川と清澄通りにはさまれた台形のゾーンには東京の災害の歴史が集約されている。
両国駅の北側には国技館と江戸東京博物館が並び、その図形に安定感を与えている。国技館の先にあるのが旧安田庭園。東側の辺に位置する日大一高と対称をなす。さらに北に行くと安田学園が横網町公園と向かい合っている。
横網町公園には東京復興記念館や東京都慰霊堂があり、関東大震災、東京大空襲による下町の痕跡を現代にとどめている。高校時代になんどか安田学園を訪れたことがあるが、その右手に広がる公園はいつも木々が鬱蒼と生い茂っていて、陰鬱な印象があった。子どもの頃、毎年夏休みを千葉の千倉で過ごしたぼくにとって、両国は東京と田舎の境であり、もとより神秘的な町だったからなおのことだ。
吉村昭でもう一冊。
先の東日本大震災は規模の大きい地震に加えて、津波と原子力発電所の被災が災害を巨大化している。ふりかえって大正12年の関東大震災では火災が大きな要因となった。それもその日の気象状況がかなり影響している。おそらく前線の通過があったのか、ただでさえ燃え広がりやすい東京の下町に大旋風が巻き起こったというのだ。
また今回の震災でも再三取り沙汰されている風評被害であるが、コミュニケーションツールが未発達であった当時も同じようにあって、悲惨な事件の犠牲者が続出した。さらに下町は地盤が弱く、山の手は比較的固いことも含め、当時も今も日本という国も日本人もそう大きく変化を遂げていないことがよくわかる。
地震を科学する試みは古くから積み重ねられている。人類はいつの日か地震を乗り越えることができるのだろうか。

2011年4月20日水曜日

川本三郎『東京の空の下、今日も町歩き』


BSジャパンで水曜日23時から「俺たちの旅」という1970年代半ばに放映されたドラマを再放送している。
中村雅俊、田中健、津坂まさあき(秋野太作)が大学生から社会人になりかけ、やがて今でいうフリーターとして生きていく、団塊世代後の青春物語である。当時高校生だったぼくは、大学生、しかも4年生なんて遥か彼方の遠い世界だと思っていた。その後再放送でもなんども視ているが、その距離感はずっと縮まらないままだった。
昔のドラマや映画を見ていておもしろいのは、なんといってもその当時の町並みだろう。「俺たちの旅」の舞台は吉祥寺、井の頭公園あたりだ。さすがに公園の風景は大きく変わったとは思えないが、近接する住宅地は妙に懐かしい。
町歩きの楽しみはまさにそんなことなのではないかと思う。
町を歩いていて、子どもの頃、あるいは学生時代に普通に眺めていた景色にふとしたきかっけで出会えたりすると得も言われぬ喜びを感じてしまう。そんなときかつて見たこの町をぼくは当時と同じ気持ちで眺めているのだろうかと自問する。ぼくの心は古びたモルタルの木造アパートではなく、どこにでもある無難な鉄筋マンションに変わってしまっているのではないかと。
町歩きを通じて、見出すものは決して、古き良き町並みや建造物だけではない。などと思いつつ、今日も川本三郎とともに町歩きに出かけるのである。
「俺たちの旅」では主人公のカースケ(中村雅俊)が事あるごとに既成社会の大人たちと対立する。昔はそんな彼に感情移入して視ていたものだが、今視ているとどうもその青臭さが鼻につく。いやな大人になったものだとつくづく思う。

2011年4月16日土曜日

吉村昭『三陸海岸大津波』


吉村昭は卓抜した取材力と冷静に綴る文章で史実を克明に記す作家だ。この本は明治29年、昭和8年、昭和35年に三陸海岸を襲った地震を多面的に記録したすぐれた作品である。
ぼくは大津波というものをSF映画的なイメージでしかとらえることができなかった、今まで。それを今回テレビのニュース映像で視ることで、その被害の甚大さをあらためて知ったもののひとりである。そしてこの歴史的な事件をしっかり焼きつけておく必要があると感じた。
先日、仕事仲間との昼食会の折(そこではたいてい食後に最近読んだ本が話題になる)、おいしい鯛茶漬けをつくってくれたSさんがすすめてくれたのがこの本だった。吉村昭は以前、『羆嵐』でドキュメンタリーのすぐれた語り手あることを知っていたので、その帰りに買い求め、一気に読み終えた。

 海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の
 余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受ける
 のに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条
 件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸
 を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。

吉村昭の予言どおり、津波はやってきた。それも過去の教訓をも突き崩す勢いで。
東日本大震災の被害状況はいまだ把握されていない。いずれ21世紀の吉村昭が今回の津波の被害を克明に記す日が来るだろう。

2011年4月12日火曜日

新潮社編『江戸東京物語下町篇』


いわゆる下町にさほど思い出はない。
月島に母の叔父が住んでいて、子どもの頃はよく遊びに行った。月島に引越す前は佃に住んでいた。その頃の記憶は微かであるが、ぼくは大叔父を“佃のおじちゃん”と呼んでいた。佃のおじちゃんは佃のおばちゃんと長屋に住み、大工をしていた。子どもがいなかったのでおそらく母をかわいがってくれたのだろう。千葉県千倉町出身だったが、当時月島界隈には千葉出身者が多かったように記憶している。
いちど母と千倉からの帰りに両国から月島まで歩いたことがある。なにか届け物を預かるかしたのだろう。夏だったが、比較的風の涼しい午後だった。今でも夕暮れの相生橋を見るとその日のことを思い出す。
東北や北関東からやってきた人たちが赤羽に住みついたように、千葉から来た人たちは清澄通りに沿って、生きる場所をさがしたのかもしれない。
新潮文庫のこのシリーズは残念ながら絶版となっている。
たしかにこの手の東京本は昨今の散歩ブーム(?)の中、競合が激化してきており、生き残りが難しいジャンルなのかもしれない。『都心篇』、『山の手篇』はたまたま古書店で見つけたが、この『下町篇』は区の図書館で予約した。
上野・浅草、本所・両国、向島、深川、芝・新橋と下町を5地区に分けて散策している。両国(今の東日本橋)に生まれ育ち、ほとんど隅田川の向こうに足を運んだことのない小林信彦が巻末解説。この人選は下町を客観視する上で興味深い。その解説の中で地下鉄はもういらないのではないか、ビルが高すぎるのではないかと警鐘を鳴らす小林信彦は「ものごころついた時から、関東大震災の怖さを吹き込まれた身としては、そろそろかな、と思わぬでもないのだが」と締めくくっている。
それはともかく、こんど小名木川沿いをゆっくり歩いてみたいと思っている。

2011年4月9日土曜日

司修『赤羽モンマルトル』


司修といえば、大江健三郎の本の装丁家という印象が強い。
細く繊細な線を駆使しながら、メッセージ性の強い表現を生み出す本格派の画家であるとずっと思っていたが、文章家としても素晴らしい。この本を読んでそんな思いが深くなった。
そもそもこの本を読むきっかけは、ツイッターでコミュニケーションしている知人たちが赤羽探検をしたという話(ぼくは参加していないのだが)を聞いて、ぼくの中で急速に赤羽熱が高まったことにある。この『赤羽モンマルトル』と『赤羽キャバレー物語』は2大赤羽物語といっていい。
子どもの頃の記憶では赤羽駅は2階建ての駅だった。真上真下に2階建てではなく、両国や上野のような段差のある2階建て。京浜東北線のホームから見下ろせたのは東北本線のホームだったか。鉄道が好きだったので、下ばかり見ていた。モンマルトルの丘を眺めたことなどいちどもなかった。
未だ赤羽ビギナーであるぼくはまるます家に行ってもどこかぎこちなくうな丼を食べている。常連と思われる赤羽焼けしたおじさんたちの一挙手一投足を横目で見ながら、なんとか赤羽おやじに近づきたいと思っているのである。
先日、まるます家でうな丼を食べた後、荒川まで歩いてみた。おそらく岩渕水門に出るあたりに巴里館はあったのではないだろうか。荒川はここで隅田川と分かれる。いわば赤羽は下町の源流といえる。
司修の青春はこの本だけではくみとれない深い苦悩があっただろう。彼はそのほんの一部を創作したにすぎない。そんなことを考えながらぼくは荒川の流れをしばし眺めていた。

2011年4月6日水曜日

川本三郎『私の東京町歩き』


1ヶ月ほど前、三の橋にある笑の家という店でラーメンを食べたあと、久しぶりに魚藍坂あたりを歩いてみた。
古川橋から魚藍坂は四谷見附から品川に行く都バスのルートで学生時代、アルバイト先の広尾からの帰り道によく通った場所である。
昔、急だと思った坂道がその後思ったほどの急斜面ではなかった、ということがときどきあるが、こと魚藍坂に関しては昔も今もきつい坂だ。魚藍坂下から伊皿子まで上っただけでちょっと汗ばんでしまった。
伊皿子を右に折れると二本榎の商店街である。二本榎という地名はもう地図上からはなくなってしまっている。六本木の今井町とか、赤坂の丹後町のような感じだ。それでもしばらくはこの商店街とほぼ平行している桜田通り(第二京浜国道)の明治学院近くの歩道橋にはたしかに“二本榎”という表示があった。
その商店街を都営地下鉄浅草線の高輪台駅まで歩いて、そこからさらに東京メトロ南北線の白金台駅をめざした。
桜田通りから目黒通りへ、ちょっとした裏道探検だ。
品川区の北のはずれ東五反田、上大崎と接する港区の南端白金は思いのほか薄暗い路地で隔てられている。高低差もあって、アップダウンがきつい。歩いた日がちょうど小雨模様だったせいもあり、ちょっとした秘境気分を味わえた。
川本三郎のこの本は、もう古典といってもいいであろう比較的初期に書かれた町歩き本である。おそらくこの当時はまだまだ東京に昭和の面影が色濃く残っていたに違いない。返す返すも昔はよかったねと思わざるを得ない、そんな一冊だ。

2011年4月3日日曜日

芝木好子『洲崎パラダイス』


母校である小学校と中学校が統合されて新たに小中一貫校になった。
そんな知らせとともに廃校になる中学校の同窓会の案内をかつての同級生であるI(旧姓)が実家に持ってきてくれた。前の住所に出した往復はがきが返ってきたというのでわざわざ持ってきてくれたのだ。生憎、耳の遠い父が留守番だったためにIの話がどれだけ伝わったかわからないが。
Iはちょっとおせっかいだけど、小さいころから(Iとは小学校のときから同級だった)責任感の強い、しっかりしたやつだった。
出身の小学校中学校がなくなり、すでに出身高校もなくなっている。やれやれである。
地震のあと木場のビデオスタジオに行かなければならない用事があった。午後はやめに終わったので洲崎神社からかつての洲崎界隈を歩いてみた。“パラダイス”は跡形もない。なくなるものはなくなるし、のこるものはのこされる。
ただ、どうせ洲崎を歩くなら、この本を読んで歩いたほうがいい。もちろんこの町を歩かないにしても、この本は読んだほうがいい。貧しい戦後東京に生きる女性たちの姿は、実はきわめて人間的だった。ドラマティックだった。もちろんこれは小説の話であって、事実でも史実でもない。けれどもこの町に生きた人間の生きざまとしてはかなり真実なのではないかと思うのだ。
結局同窓会当日は都合がつかず欠席した。その旨を伝えるべく、Iの携帯に電話をかけ、何十年ぶりに声を聞いた。ちょっとおせっかいだけど、責任感の強いしっかりした声だった。