2021年11月10日水曜日

吉田勝明『認知症が進まない話し方があった』

昨年から認知症当事者の方をインタビュー取材して、動画にまとめる仕事をしている。認知症と診断された方を患者とは呼ばない。当事者とか本人と呼ぶ。
認知症当事者である丹野智文は、著書のなかで症状があるけれども生き生きと暮らしている人を患者と呼ぶことで重い病気の人というイメージを与えることを懸念している。単に認知症と診断された人が当事者なのではなく、診断された本人が自分の意思で自由に行動したり、要求することが当たり前にできるのだということを社会に発信していく。そんな本人が「当事者」であると丹野はいう。
仕事で担当しているのは、企画と構成である。現場に赴いて直接問いかけることはない。それでも事前の打合せでお話をうかがうこともある。ウェブ会議で、ではあるけれど。
当事者の方に声をかけるのは緊張する。認知症に関して知識があるわけでもなく、身近な当事者を介護した経験ももちろんない。よく言われていることだが、認知症当事者とコミュニケーションするには本人目線がたいせつである。ついつい認知症でない人のスタンダードで話してはいないか、本人を混乱させるような高圧的で一方的な発話をしてはいないか。とにかく緊張する。
認知症は、認知機能が低下したり、損なわれる病である。これもよく言われることだが、認知機能が低下したからといって、脳のはたらきすべてが奪われているわけではない。相手の顔も名前もおぼえられない人でも、子どもの顔と名前すら思い出せない人でもやさしく微笑みかければ、微笑みかえしてくる。「私誰だかわかる?」などと声をかければ、試されていると感じ、不快に思う。人間はどんなに認知機能が低下しても、感情はずっとその人のままなのだ。
先日読んだ『ユマニチュード入門』に人間の尊厳を保つケア=ユマニチュードには4つの柱があり、それは「見る」「話す」「触れる」「立つ」であるという。とりわけ「話す」に特化したのが本書である。

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