2016年1月25日月曜日

吉村昭『破獄』

第一級の寒波が押し寄せているという。
このところ気象状況はおかしい。夏はどこまでも暑く、冬はとことん寒い。とはいえ冬は気温が10度を超えて暖かい日も続く。今年は暖冬かというニュースがテレビや新聞でにぎわう。読んでいるだけで少し暖かくなる。
若い頃は(ああ、このフレーズを出したところで負けだ)、多少の寒さは何とも思わなかった。暑いのにくらべればたいてい我慢ができた。Tシャツにダウンジャケット。そんな出で立ちで町を歩いていた。ズボンの下にタイツなんか絶対に穿かなかった。
それがどうしたものか、今は寒いことがなによりつらい。困ったものだ。
凍えるような小説を読むのも冬場にはよくない。去年の秋、吉村昭の『間宮林蔵』を読んだ。厳冬のなか樺太を探検する物語だ。真冬に読むべき小説ではない。身体によくない。
南極探検の映画を観ても、ふるえるような寒さをぜんぜん感じないのに、小説からだと寒さが身にしみる。不思議なことだ。
これまで運がよかったのか、行いがよかったのか、刑務所のお世話になったことがない。くさい飯を食って、出所する際子分が迎えに来ていて「おつとめご苦労さまでございました」なんて言われたこともない。夕張かなんかの駅でかつ丼とラーメンを注文し、ビールを注いだグラスをふるえる両手で持って飲み干したこともない。
もちろんこれらを経験したいがために刑務所に入ってみたいと思ったこともない。
ただ獄中生活というのは小説を読む者にとってなんとリアルなことなんだろうと思う。
山本周五郎『さぶ』の栄二、大岡昇平『ながい旅』の岡田資、そして吉村作品なら高野長英、関鉄之介。吉田松陰もそうだ。
皆、監獄にあった。
獄は外界とすべてにおいて遮断された空間だった。これを破って外に出るなど、刑務所生活を送った者にも想像できまい。しかも破獄した男は極寒の北海道東北で冬を越す。
年明け急に寒くなったのはこの本を読んだことと無関係ではないだろう。

2016年1月23日土曜日

池井戸潤『下町ロケット2』

TVerというサービスがはじまった。
テレビで視逃した番組をあとでネットで視聴できるというそんな試み。
どうしても視たい番組を視るために残業を切り上げ、付き合いもほどほどに急いで帰宅して、待ってましたばかりにチャンネルを合わせる…。もうそんな時代ではないらしい。
テレビ番組を放映スケジュール通りに視聴することを近ごろの青少年たちはリアルタイムで視る、略して「リアタイで視る」と呼んでいる。ここぞという番組は「リアタイ」で視たいと思うのが、昨今の若者なんだそうだ。
そもそもテレビ番組なんてものはリアタイで視るのが当たり前だった。視逃したやつは視逃したやつがわるい。翌日教室や職場での話題に取り残される。テレビとはそういうものだった。
ところが近年、インターネットを駆使したオンデマンド視聴が普及する。何も急いで帰宅して、銭湯をはやめに切り上げてテレビの前に座らなくてもよくなった。
その結果、逆に「リアタイ」で視る価値が見直された。ちなみにツイッターで「リアタイ」を検索すると「○○(番組名)久々リアタイ」なんていうツイートが山ほどあらわれる。
たしかにテレビというメディアが送り込むコンテンツの中で今もっとも力を持つのは一回きりの放映で同時に視聴することに価値のある番組だという。たとえば生中継のスポーツ番組がそう。毎年全米を熱狂させるスーパーボウルに企業が莫大な媒体費を投じるのも、質の高いリアルタイム視聴者に広告を届けたいがためなのだ。
メディアの話はともかくとして、テレビドラマ「下町ロケット」、「下町ロケット2」ではTVerが大いに役立った。視逃した回を視たのはもちろんのこと、日曜視たのに月曜にもう一回視たりとか。
まあとにかく久しぶりにしつこいくらいテレビドラマを視てしまったのだ。
前作はロケットエンジンのキーデバイスであるバルブの開発話だった。今回はその技術を医療に応用した。技術ってすごいもんだ。

2016年1月19日火曜日

池井戸潤『下町ロケット』

生まれ育った町に工場が多かった。
「こうじょう」ではない。「こうば」である。小学校の同級生も工場の子が多かった。彼らはたいてい野球が上手かった。子どもの頃は不思議に思っていたけれど、今考えてみれば若い工員さんたちがキャッチボールの相手をしてくれたり、河川敷で楽しむ娯楽の野球におそらく連れて行ってくれたにちがいない。そしてたぶん、道具だってそろっていただろう。
そんな工場の子が、今思い出せるだけでもクラスに3人いた。工場で何をつくっていたのか、まるで知らない。近所のM君の家では鉄を削っていた。薄く細いばねのような削りくずがドラム缶に何杯も置かれていた。旋盤やボール盤があった。そうした工作機械の名前を知ったのもずっと後のことである。M君の家で働いていた職人さんにベーゴマを削ってもらった記憶がある。あっという間の作業だった。
ところで品川の大井町や戸越のあたりになぜ小さな工場が多かったのだろう。やはりその一帯が工場地帯だったからか。
区名に川が付く品川は川の町だ。目黒川と立会川。
立会川はほぼ暗渠になってしまったが、三菱重工、日本光学、さらには国鉄大井工場と川沿いに大きな工場があった。目黒川もしかり。再開発されて景観が一新した大崎駅界隈は工場しかなかった。
これらの工場に供給する部品が同級生の家でつくられていたのではあるまいか。そして彼らはキャッチボールで鍛えられていった。
僕の記憶に残る町工場のイメージにくらべると佃製作所はなかなか立派な工場だ。ちゃんとした中小企業であり、零細ではない。しかも夢を持っている。M君の家をはじめとする当時の町工場にだって夢はあったと思う。きっともっとささないな夢だっただろうが、それはそれでいい時代だったと思う。
単行本が出て、直木賞を受賞した頃からずっと読みたかった一冊。文庫本を待っていた。ようやく出た。テレビドラマのはじまりになんとか間に合った。

2016年1月14日木曜日

司馬遼太郎『世に棲む日日』

暮れに千住を歩いた。
事前に地図を見ながら思い出したのは荒川放水路の開削によって東部伊勢崎線(今はスカイツリーラインという愛称で呼ばれているらしい)のルートが変更されたこと。以前読んだ本(それが思い出せないのだが)によると伊勢崎線は鐘淵からゆるくカーブを描きながら、堀切、牛田を通り、北千住に向かっていた。ところがちょうど堀切駅あたりが荒川の水路となるため、鐘淵〜堀切間を直線にした。結果、荒川の土手沿いを走る路線となり、いちど廃駅になった堀切駅がその後、荒川の東岸土手下に駅舎を構えることになった。このとき駅名を変えればよかったのだろうが、堀切という名前のままにした。堀切は荒川を渡ったところの葛飾区の町だが、その手前の足立区千住曙町に駅があるのはそういうわけだ。
もう少し下流に京成押上線八広駅がある。この駅は平成4年まで荒川駅と呼ばれていた。山田洋次監督「下町の太陽」で倍賞千恵子を勝呂誉が追いかけてくる荒川土手の上にある駅だ。このあたりは墨田区八広なのだが、荒川区と間違えられるというので駅名が変更されたという。そもそもこの駅ができた頃、荒川区はまだなかった。
『世に棲む日々』は前半が吉田松陰、後半が高杉晋作にフォーカスした大河小説だ。昨年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」とシンクロする部分も多い。「花燃ゆ」は明治中ごろまで話が続く。江戸~明治をこれほど跨いだドラマも珍しい。
松陰も高杉も幕末維新に欠かせない存在ではあるが、到底ふたりだけでは語りきれない。その前後があってはじめて物語になる(黒船から大政奉還、鳥羽伏見の戦いくらいまでがひとかたまりの歴史のような気が個人的にはしている)。2大スター豪華共演的な小説ではあるけれど、よほど筆力に自信がなければ実は難しいテーマなのではないかと思う。その点ひょうひょうと書き連ねて読みものにしてしまうのが司馬遼太郎という作家の実力なのだろうが。

2016年1月12日火曜日

司馬遼太郎『花神』

暮れに下町探検隊のK隊長から、仕事納めが終わったらどこか歩きましょうとお誘いを受け、千住界隈を歩いた。
北千住駅で待ち合わせて、ゆるゆると南千住方面へ。
千住大橋を渡る。
大きな橋ではないが、アーチが美しい。上流側に水道橋、下流側に日光街道のバイパスが走っていて、遠くからその景観を眺めることができないのが残念だ。
南千住駅に出る。
小塚原回向院、延命寺、JR貨物隅田川駅を見て、大林酒場へ。反省会と称してひたすら飲んだ。
桂小五郎が吉田松陰の埋葬のためここに来たとき、腑分け(解剖)をしていた村田蔵六に出会ったとこの本には書かれている。司馬遼太郎の創作で史実ではないらしい。
千住探検の反省会以降の記憶はまったくなくなってしまったので、場所を九段に移す。40年前、靖国神社にほど近い高校に入学した。大村益次郎に出会ったのはそのときである。以来、その人がいかなる人であったか、知ることもなく時はながれた。
高校時代の友人Tは大河ドラマで「花神」を 視て、さらに司馬遼太郎も読んでいたという。こちらは何も知らない。坂本竜馬も新選組も去年読んでようやくわかったくらいである。これほどの知識量の格差があるなかで、よくぞここまでTと友だちづきあいをしてきたものだと思う。
実は『竜馬がゆく』、『燃えよ剣』を読み終えたあと次に読むなら『花神』、『世に棲む日日』、『峠』がいいとすすめてくれたのもTである。
この頃、蘭学を志すということは医学を学ぶということだったが、世の中に可及的に必要とされるのは軍事力の強化だった。医学から兵学へ方向転換していくことは自然の成り行きでもあった。西洋近代の世界を覗き見るにはオランダ語という窓しかなかった時代だ(大村益次郎よりやや時代は遡るが、高野長英もそうだった)。
とはいえ、医学も国防も近代国家の成り立ちに欠かすことのできない普遍的な学問だ。
大村益次郎は、靖国神社の真ん中に立つべくして立った人だった。