2016年12月24日土曜日

小板橋二郎『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』

「貧民窟」なんて言葉は現代の日本では死語なのではないだろうか。
海外に出向いたとき、大都会の片隅にスラムと呼ばれる地域が存在することがある。あの辺はスラム街だから観光で訪れた人は近寄らないほうがいい、などと言われる地域がある。今の大都会はおそらくそのような地域はないと思う。
古くは東京にも貧民窟があった。
JR浜松町駅に近い金杉橋のあたりにあった芝新網町。同じく上野駅に近い下谷万年町。そして四谷の鮫河橋。
これらは明治の頃に生まれ、東京三大スラムと呼ばれていた。芝、下谷のような下町のみならず、赤坂御所のお膝もとに規模の大きな貧民窟があったことに驚かされる。
鮫河橋は永井荷風の散歩道としても知られている。
四谷は新宿通りの南北が谷になっていて、北は荒木町から住吉町の方へ続いている。南は須賀町、若葉、南元町へ谷が続く。『日和下駄』の頃の荷風はおそらく余丁町あたりから歩きはじめて、須賀町の闇坂を下って鮫河橋(鮫ヶ橋)の火避地を訪れていたのだろう。今のみなみもとまち公園のあるあたりだ。もちろん貧民窟の名残はない。それは芝にしても、下谷にしても同じだ。
山本周五郎の『季節のない街』を思い出す。具体的なイメージとしては黒澤明監督の「どですでかん」だ。貧民窟とはあのような地域だったのではないかと。漫画でいえばちばてつやの『ハリスの旋風』だ。石田国松の親父は屋台を引いていた。トタン屋根の上には石が置かれていた。
作者小板橋二郎は板橋の貧民窟の生まれだという。
調べてみると板橋にも貧民窟があった。今でいう都営地下鉄板橋本町あたり。埼京線の十条からも遠くない。以前歩いたことがあるかも知れない。
いずれにしてもかつて貧民窟と呼ばれた地域にそのおもかげは残されていない。時間というきめ細かい土砂が堆積し、今や歴史の地層の奥深くに隠されてしまった。
教科書に載るような事件があったところなら、石碑でも建つのだろうけれど。

2016年12月18日日曜日

所澤秀樹『鉄道フリーきっぷ 達人の旅ワザ』

その昔、茶色い電車が走っていた。
山手線や中央線が近代的でカラフルな電車が走るようになっても、京浜東北線は導入が少し遅れた。スカイブルーの電車が運行するようになったのは1970年くらいからか。その後、茶色い電車(どうやら72系というらしい)はどこか他線区にまわされたのかもしれない。くわしいことはわからない。もしかすると南武線で使われていた電車がそうだったのだろうか。高校のグランドが南武線の沿線にあって、乗る機会があった。
鶴見線には90年代の半ばまで茶色い電車が走っていた。12系というそうだ。どこからともなくそんな情報が入り、一眼レフカメラを下げて見にいった。はじめて乗った鶴見線である。
行く先々で枝分かれしていく不思議な線で、工場の敷地とつながっていて一般の乗客は下車できない駅もある。いずれ京浜工業地帯に物資と人を送りこむ産業路線であったのだろう。
この著者は鉄道関係の著作が多い。以前『時刻表タイムトラベル』という本を読んでいる。
全国津々浦々のフリーきっぷを紹介する本かと思っていたら、首都圏で入手の容易なフリーきっぷの活用事例を紹介している本だった。
週末JRで400円くらいの区間を往復する。迷わず都区内フリーパスを購入する。途中駅で下りて、大型カメラ量販店をのぞいたり、中古レンズのお店をのぞく。往復するだけで元が取れる。トクした気分になる。平日、打合せで出かけることが多い日には東京メトロの一日乗車券を買う。
著者はJR東日本の週末パスで東日本を駆けめぐる。方々を乗り歩いた経験が随所に生きている。うらやましい。いつか両毛線、水戸線、水郡線、磐越西線経由で新潟まで行ってみたいと思っている。
ところで鶴見線にも数年前までぶらり鶴見線パスという粋なフリーきっぷがあった。最近はとんと見かけないが、時期限定で今も発売されているのかもしれない。あらかた無人駅の鶴見線でフリーパスもどうかとは思うけれど。

2016年12月16日金曜日

池内紀『東京ひとり散歩』

焼香が苦手だ。
客観的に自分が焼香しているシーンを見たことはないが、たぶんちゃんとできていないと思う。背筋をきちんとのばして丁寧におじぎして、はやからずおそからず適度なスピードで三回、無駄な動きなくこなせる人がいる。自分はおそらくああではないのだ、きっと。
自分の順番になる。遺影に向かって一礼する。もともと猫背なのでじゅうぶんにおじぎできているかわからない。せせこましく頭を下げて焼香台に向かっているような気がする。出だしで躓くと、以後の所作だけでも完璧にしようと気持ちが焦る。合掌して右手でつまんだ香をおでこの近くに持っていく。そのとき左手はどうするんだっけ。右手に少し添えるようにするんだっけ。それとも左手の位置は「気を付け」の位置でよかったんだっけ。気がつくと左手が中途半端に空中に漂っている。さっき姿美しい焼香をした男性はどうしていたっけ。
そんなことを思いめぐらせながら、三回香を落す。爪が伸びていると爪の間に香が残る。親指人差し指中指をこすりあわせるように香をふり落とす。ああなんて俺はみっともないんだと思う。
何ごとに関しても基礎ができていないのだろう、今さら気づいても遅きに失しているのだが。
池内紀はカフカの翻訳で知られるドイツ文学者だが、旅行記や町歩きの著書も多数上梓している(このブログを書くようになってからたぶんこの本が4冊目だと思う)。文章も着飾ったところがなく、おしゃれな書き手だと思う。
銀座、両国、紀尾井町…。訪ねる先も日常的な東京だ。それぞれの町で見つけた小さな発見をひけらかすこともなく、うんちくをしつけることもなく、おそらく散歩するものとして適切なスピードと所作と感じ方で歩いていると思われる。旅をすること歩くことの基本的な姿勢がいい人なのだ。
先日、そんなことを南房総行きの高速バスの中で海を見ながら考えた。
叔父の葬儀に列席した。残念ながら僕がめざしている理想の焼香にはほど遠かった。

2016年12月12日月曜日

ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』

読み終わった本のことを書き残しておこうというのがこのブログのねらいだ。
それが第一義的な目的ではあるんだけれど、たぶん僕が読む本のことなんてきっと誰かがもっとちゃんと書いているだろうと思っているので、できるだけ書物の中身に両手両足を突っ込んだ話にしないようにしている。それでもおもしろい本を読んだり、昔感動した本を再読したりした後ではどうしてもその思いを強く語ってしまう。あとで読みかえすとけっこう恥ずかしかったりする。むしろその本を読んでいた当時、僕は何に興味を持ち、何をしていたかが思い出せたほうがいい。あるいは読みながら、思い出したことなんかを書き留めておいたほうがいい。そんなこともあって一向に内容に触れることもなく終わってしまう書き込みもなくはない。それはそれでいいかもと思う。
読んだ本にまつわる思い出や身近なできごとをブログにしようと思ったのはキネマ旬報に連載されていた「安西水丸のシネマ・ストリート」のようなメモを残しておこうと思ったことがきかっけだ。映画の話なんだけど、映画以外の話で盛り上がっている不思議な連載だった。
BSで録画した映画を観る。
郵便配達は登場しない映画だとわかる。
原作を読んでみると、映画でストーリーが忠実に再現されていることがわかる。映画では「郵便配達は二度ベルを鳴らす」というフレーズにちょっとだけふれるけれども、原作ではまったく言及されない。なかなか洒落たタイトルをつけた小説だ(とはいえ、原作を先に読んでいたら、映画を観るまでその題名の意味はわからないままだっただろう)。
さて、このブログ。いつのころからか自分でルールをつくった。週に2本投稿する。1投稿は800字前後とする。というものだ。これは読んでくださる奇特な方々にはまったく関係のない自己満足のためのルールだ(厳守したところで満足感なんか得られっこないのだが)。
おかげで更新するのがめんどくさいブログになってしまった。

2016年12月11日日曜日

岡康道『勝率2割の仕事論 ヒットは「臆病」から生まれる』

岡康道になりたかった。
20代のなかば、僕は小さなCM制作会社にアルバイトとしてもぐり込み、撮影現場の手伝いをしながら、テレビコマーシャルの企画を学んだ。そして20代最後の年、あるクリエーティブディレクターに誘われ、CMプランナーとしてやはり小さな広告会社に移籍した。
広告制作者としてようやくスタート地点に立つことができたとき、岡康道はすで心臓破りの丘を越えようとしていた。精悍な表情のまま、仕立てのいいスーツを着て。
はるか遠く、肉眼では見えない岡康道の背中をずっと追いかけてきた。多大になる影響を受けたと思う。そのわりにつくってきたCMは情けないものが多い。
岡は絵がうまいわけではない(というか彼の描いた絵を見たものはいないんじゃないか)。すぐれたコピーを書くわけでもない(もちろん文章はすばらしいが、広告制作のなかで彼の立ち位置はコピーを書くことではないと自覚しているようだ)。クリエーティブとしての彼の才能は絵コンテやコピーに注がれているわけではない。もっと大きなものを動かしてつくっているのだ。
あえて誤解を受けるような言い方をするならば、広告制作者としてすぐれた技術を岡は持っていない。決して凡庸とまでは言わないが、どちらかというと広告マンとしては普通の人である。「クリエイティブに進むなら、大学で美学を専攻していたり、映画研究会にいた、ジャーナリズム研究会をやっていた、というような経歴が必要だと、そのときは信じていた」と本人も言っているように。
岡康道にはドラマがある。
僕は常々そう思っている。岡康道という人間がドラマであり、その人生がドラマである。岡康道にしかない孤高のドラマを彼は持っている。だから岡康道のつくる広告は強いのだ。
多いときで年に4,000枚くらいの絵コンテを描いてきた。企画が通って形になるのがせいぜい20本くらい。僕の勝率5厘にくらべれば2割は天文学的な数字だ。

2016年12月5日月曜日

村上春樹『羊をめぐる冒険』

村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」で「(みさきは)小さく短く息をつき、火のついた煙草をそのまま窓の外に弾いて捨てた。たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」という一節があり、これに対し中頓別町の町議が抗議した。その結果、後日単行本として出版されるにあたり、村上は中頓別町を上十二滝町に改めている(そのことは単行本の「まえがき」に書かれている)。上十二滝という集落は『羊をめぐる冒険』に登場する架空の地名だ。
ひょんなことから思い出し、もういちど羊をめぐる冒険を冒険してみようと読み直す。
十二滝町の開拓史が描かれている。まるで実在していた集落のように。
村上ファンが突きとめたところによると十二滝町は旭川から塩狩峠を越えた美深町ではないかと言われている。中頓別町はそこからさらに北にある。
1988年。11月末から12月にかけてはじめて北海道を旅した。
最初に勤めた会社を辞めて、一ヵ月まるまるすることがなくなったのだ。寝台特急で札幌に出て、釧路、根室をまわった。まだ雪深い時期でもなかったし、太平洋側だったのでさほどの積雪もなかった。ただ西高東低の気圧配置が強まると身体を切り裂くような季節風が吹いた。
根室から会社に電話をすると(退社手続きの関係で12月になったらいちど電話をよこせといわれていた)、名古屋で打ち合わせがあるからすぐに帰って来いという。帯広で一泊して、翌日札幌からふたたび寝台特急に乗って帰京した。
もし時間が許せば、上十二滝町を訪ねてみたかもしれない。もちろんそんな架空の町がどこにあったかなんて知る由もなかったけれど。
札幌にはほとんど滞在しなかった。ドルフィンホテルを探そうともしなかった。村上春樹の不思議な冒険の出発点ともいうべきこの本を読んだのが(僕のメモによると)84年8月。その後社会人になり、転職しようとしていた。『羊をめぐる冒険』はその間、すっかり僕の記憶のかなたにあった。

2016年12月1日木曜日

梅田悟司『「言葉にできる」は武器になる』

近く、仕事場が移転する。
これまでは永田町、紀尾井町、麹町に囲まれた平河町という小さな町にあった。
小さな町はきらいじゃない。そこにしかない町だからだ。面積は小さくても存在が大きい。隼町という町が隣り合っている。これもまた小さい。
この界隈は昔、麹町区だった。町名としての麹町は半蔵門から四ツ谷駅あたりまで新宿通りをはさむように東西に細長い。北側は番町、さらに市ヶ谷、九段とつながる。
高校が九段にあった。
今でもときどき一番町から靖国神社に出て、飯田橋駅まで歩く。考えごとをするのにちょうどいい距離だ。デスクや打ち合わせで思いつかなかったようなアイデアがポンと思い浮かんだりすることがある。厳密にいえば、思い浮かびそうな気分になる。
さすがにもう高校時代のことは思い出さないが、母校はいつだったか東京都立から千代田区立に変わった。今まで千代田区で仕事をしてきて、賃貸料だのなんとか税だのが後輩たちに役立ってくれているんじゃないかと思うと励みになった。
こんど引っ越すところは中央区築地。昭和30年ごろの地図で見ると目の間が川になっている。というか銀座も築地も川だらけだった。タイムマシンがあればぜひ訪れたい。
築地にも小田原町という小さな町があった。今の築地6、7丁目にあたる。明石町は生き残ったのに小田原町は生き残れなかった。
広告の仕事をしていながら、近ごろ売れているコピーライターやアートディレクターのことを知らない。
この著者も知らなかった。
上智大大学院理工学研究科を終了している。根っからの理系みたいだ。理屈がちゃんとしている。組み立てがしっかりしている。
言葉が武器になるのは「内なる言葉」に耳を傾け、その解像度を高めていく。自分の思いをしっかり持つ。つまり言いたいことを磨き込んでいけば、「人が動く」(人を動かすではない)言葉は生み出される。ご丁寧に「使える型」と称して実践例まで紹介してくれている。
まさに伝わる言葉の生産技術書だ。

2016年11月27日日曜日

松尾卓哉『仕事偏差値を68に上げよう』

ある日曜日に自宅のファクシミリに着信があった。
数案のテレビコマーシャルの企画コンテだった。もう二十年近く昔の話だけど。
送って寄こしたのは松尾卓哉。当時あるかつらメーカーのテレビやラジオのコマーシャルをいっしょに企画していた。休日返上でアイデアをまとめた彼はクリエーティブディレクターのチェックをもらい、さらに僕にリライトをお願いしろとアドバイスを受けた。
それが日曜日のファックス着信である。
もちろんどんな内容のプランだったかははっきり憶えていない。元アイドル歌手が母親役で授業参観に行く。事前に子どもからおしゃれしてきてねとか言われたのかもしれない。そのときの元アイドルが言う。「だいじょうぶ、ママは昔○○(アイドル歌手の名前)だったのよ!」おしゃれなウィッグを着けて教室にあらわれた元アイドルのママが脚光を浴びる。たしかそんな企画案があったように思う。
日曜日に絵を描いて、翌月曜日にスキャンして当時やっと使い方を覚えたばかりのフォトショップで色を着けた。おもしろいアイデアばかりだったけど、残念ながら制作されて放映されるには至らなかった。
ラジオコマーシャルもいっしょにつくった。当時の松尾卓哉のラジオCMはありふれた台詞を(商品名とか商品特徴を連呼するのではなく)とことん繰り返すパターンが多かった。原稿ではちょっと強引かなと思ったけれど、録音してみたらおもしろかった。
その頃の松尾卓哉はまだまだ売り出し中の若手クリエーターだった(カンヌ国際広告祭で入賞し、忍者のコスチュームで表彰式にのぞむ数年前だった)。それでもすでに完成形をしっかりイメージしながら、企画やコピーを考えていたのだろう。
広告制作にたずさわる制作者がクリエーティブの手法やCM制作から学んだことなどを本にすることは少なくない。そのなかでもこの本は平明で誰にでもわかりやすい。松尾卓哉のつくったテレビCMのように。

2016年11月23日水曜日

マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』

読書の記録を残すようになってずいぶん経つ。このブログだけでなく読書メーターというSNSも利用している。
半年前、一年前に何を読んでいたかがすぐにわかる(もちろんさらにさかのぼるることだってできる)。ブログの方は読んですぐに書くなんて洒落たことはできない。タイムラグが生じる。それはそれで致し方ない。
ただ半年前、一年前をふりかえって見たとき、半年後一年後にこんな本を読んでいたのかとは想像すらできない。そこがおもしろい。本を読むとはあてもない旅なんだと思う。
仕事でどうしても本を読まなければいけない人もいる。僕だっていつも冒険小説や時代小説ばかり読んでいるわけじゃない。そういうのは趣味娯楽ではなく仕事なんで読書とは違う。
一年前は何を読んでいたかというと司馬遼太郎の『世に棲む日々』だ。『竜馬が行く』、『燃えよ剣』、『花神』を読み終わって、もう少し幕末にとどまろうか、『坂の上の雲』に行こうか思いめぐらせていた頃だ。
半年前は『大地の子』や『64(ロクヨン)』を読んでいた。その後、村上春樹の未読のエッセーを読んだり、初期の作品を読みなおしたり、スタインベックの『怒りの葡萄』を再読したりして現在に至っている。紆余曲折も甚だしいが、どういう経路でハックルベリー・フィンにたどり着いたのかまったくわからない。スタインベックに触発されたのと大統領選の過熱する報道がアメリカ文学の原点に向かわせたのかもしれない。
読み終えた一冊が無意識のうちに次の一冊へ導いていく。そういうことはたしかにあるし、テレビのニュースやネットで知るさまざまな情報に導かれているのかもしれない。
いずれにしても僕の読書は根無し草みたいなものだ。ミシシッピ川に浮かぶ筏に揺られているようなものだ。流れ着いた町ではじめて出会う人たちと波乱万丈支離滅裂な事件に遭遇する。
こんなおもしれえことばっかあるんならおいらこれからも本を読みつづけるぜ。

2016年11月20日日曜日

マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』

今でも町歩きが大好きなんだけど、そのはじまりは小学校時代にさかのぼるんじゃないかと思っている。
ゴムボールで野球をしたり、タカオニやカンケリなどといった低学年的な遊びもしたけれど高学年になってにわかに冒険心が芽生えたんだと思う。学区域を越える、区境を越える。まだ知らない町を見てみたい。そんな気持ちになった。
なんとなくこの辺、みたいな話だとイメージしづらいかもしれない。僕らの冒険の出発点(いわばセントピーターズバーグだ)を品川区の大井町としよう。そこを拠点にあちこち歩きまわったのだ。
今でも憶えているのは区の南西にあたる大田区上池台。僕たちが学校教育以外で接する唯一といっていいメディアを提供していた学研の本社があった。学習研究社の雑誌『学習』と『科学』は当時教科書のおやつとして絶大な支持を得ていた。その生産拠点を(少なくともその場所を)見極めようと小さな旅に出た。
当時、学区域を出ることは大いなる冒険だった。学区域の外は他の学校の生徒児童の縄張りであり、迂闊なことでもしようものなら僕らは生命の保証がなかったからだ。大げさかもしれないが、気分的にはそうだった。
学習研究社はまわり一面畑に囲まれた丘に上にあった。のどかな風景だった。北馬込から夫婦坂を通って行ったと思う。
記憶に残る次の冒険は国電(今のJR東日本)の品川駅と田町駅のあいだにある東京機関区(たしかそんな名前だった)という機関車の基地。これは興味をそそられたね。深夜九州に向かう電気機関車たちが昼間ここで眠っているのだ。
でも歩いていくには遠かった。入口もわからなかった。高輪や三田あたりの線路沿いから、札の辻の陸橋の上から遠く眺めたものだった(後日見学させてくださいと正式に訪問している、皆カメラをぶら下げて)。
20世紀の日本で、品川という小さな町に育った僕らの冒険とはこんなものだ。
トム・ソーヤーほどではないが、見方を変えればトムの冒険よりおもしろかったかもしれない。

2016年11月16日水曜日

松岡正剛『危ない言葉』

もし理想的な国語の教師がいたとしたら(これは高校現代国語の授業を想定しています)。
その人は僕たちに好き勝手に本を選んで読めと、その授業の冒頭で言うだろう。そしてわれわれは、ある者は鞄の中から読みかけの文庫本を取り出し、ある者は駅前の書店に出向き、またある者は学校の図書室で読みたい本を物色する。もちろんここぞとばかりに靖国神社で缶ビールを開けたり、神楽坂のパチンコ屋でひと勝負する者もいただろう(学校がその辺にあったので地域が限定されますが、あくまでたとえということで)。
小学校以来ほとんど本を読まなくなった僕はやることがない。頭のいい輩なら予備校や塾の宿題をここでこなすんだろうけど。
勝手に本を読めと言ったその教師は自ら持参した本を読みはじめている。することもないので彼を観察する。
ときどき微笑んだり、涙ぐんだりしている。真剣な表情も見せる。自分の親と同世代か、少し歳上かもしれない。そんな大人がページをめくりながら嗚咽なんぞしている。気持ちがわるい(僕が高校生当時、そんなボキャブラリーはなかったけど、今でいう「キモイ」感じ)。とはいうもののだんだん気になってくる。彼は何を読んでいるのかと。
他人に、この本だけは絶対読め、いい本だから。そうすすめるのは簡単なことだ。だけど自分の、あるいは不特定多数の読書体験を盾に課題化される、強制されることが何よりもいやだった。中学生になってから本を読まなくなったのは(もちろんそれは自分のせいにちがいないけれど、あえて人のせいにするなら)夏休みなどに課される読書感想文の宿題のせいだ。
国語教師が読んでいる本を覗きに行った。
その本の題名はさして重要ではない。ここでは割愛する。
もちろんこれは僕がつくった架空の話でそんな理想の教師に出会う機会はなかった。
読書は強制されるものではない。覗き見ることだ。松岡正剛はそんなことを教えてくれた。僕にとって理想の教師かもしれない。

2016年11月12日土曜日

村上春樹『風の歌を聴け』

東京六大学野球や東都大学野球は先に2勝したチームが勝ち点1をもらう。その勝ち点の多いチームが優勝。同数であれば勝率で決める。非常にわかりやすいルールである。と同時に春秋のリーグ戦をおもしろくしている。
どのチームにも試合をまかせられる投手がひとりはいる。完投こそしなくても失点を最小限に抑えて、打線が少ないチャンスをものにすれば野球は勝てる。柱になる投手がもうひとりいて第二戦も同様に戦えればすんなり勝ち点はもらえる。問題は一勝一敗のタイになった3戦目だ。
第3戦は1、2戦で活躍した投手が同じように投げられるとは考えにくい。疲労も蓄積されている。お互い後のない戦いに必要以上にプレッシャーがかかる。たいていの場合総力戦になる(プロ野球でもそうだが、学生野球も投手の分業がすすんでいる。初戦に勝ち投手になり、2戦目負け投手になり、3戦目も先発でマウンドをまかされ完投する、なんていう猛者はもうあらわれないだろう)。
そういった意味でも学生野球のリーグ戦を観戦するなら第3戦をおすすめしたい。初戦で完璧な投球をした投手がもろくも打たれたり、打ち崩された投手が見事に立ち直っていたりする。ベンチやブルペンのあわただしい動き、決死の覚悟の応援団などなど。第三戦は見どころ満載だ。
忘れたころに村上春樹を読み直す。
初期の作品はたぶん二回は読んでいるだろうから、これが再々読になるかもしれない。いわば第三戦ということか。
主人公や登場人物がビールを何本も飲んで、クルマを走らせ、煙草を何本も吸っていたそんな時代のお話。もう30年近く以前に南房総の防波堤に寝ころんでビールを飲みながらページをめくった夏の日を思い出す。
東京六大学野球秋のリーグ戦最後の試合となった第三戦早稲田大対慶應大は広島東洋カープにドラフト一位指名された慶應の加藤拓也が圧巻のピッチングで学生最後の試合を飾った。いい思い出になったんじゃないだろうか。

2016年11月10日木曜日

司馬遼太郎『幕末』

東京都秋季高校野球大会決勝を観に行く。
チケット売り場は神宮球場外野方面にある。たどり着くとそこから長蛇の列。最後尾をさがして行くと外苑の銀杏並木の中ほどまで続いていた。何度かの折り返し点を過ぎ、ようやくチケットを手にしてスタンドに席を確保するまでおよそ2時間。もともと東東京にあった早稲田実、日大三の対戦は毎度のことながらスタジアムが埋まるのだが、今年はあの怪物清宮幸太郎をひと目見ようと詰めかけるファンも多い。
試合は一進一退の接戦だったが、もうひとりの怪物日大三の金成麗生の同点ホームランと逆転タイムリーヒットで勝負あったかに見えたが、粘る早実が9回裏バッテリーエラーで同点、清宮5つ目の三振の後、続く1年生で4番の野村大樹の劇的なサヨナラホームラン。来春の選抜出場をほぼ確実にした。勝った早実は明治神宮大会初戦で東海地区代表の静岡と対戦。またしても神宮はフィーバーするのだろうか。
明治神宮野球大会といえば学生野球一年の締めくくりの大会。高校生にとっては新チームで最初の全国大会であり、大学4年生にとっては学生時代最後の試合となる。大学の部では明治大の柳、星、桜美林大の佐々木などドラフト上位指名投手のピッチングに期待したい。
立冬を過ぎる頃に開催されるこの大会は観戦するには寒い。とりわけ点灯試合になる第4試合は寒い。今年はここにきて急激に寒くなったので観戦する人はどうか暖かくしてお出かけください。
司馬遼太郎の短編集。
暗殺をテーマにした12編。とはいえすべて暗殺される話ではない。桂小五郎のように明治の世まで逃げ切った者もいる。井上聞多のように殺されかけたが一命をとりとめた者もいる。死ねばいいというものではないということを司馬は語っているように思える。
ヒットが続いて無死一二塁になる。勢いが出る、押せ押せムードになる。ここで送りバントで一死二三塁にする作戦はいかがなものかと僕は常々思っているのです。

2016年11月7日月曜日

田宮寛之『新しいニッポンの業界地図 みんなが知らない超優良企業』

神奈川近代文学館で開催されている「安岡章太郎展--<私>から<歴史>へ」を見に行く。
目録冒頭の文章を寄せていたのは村上春樹だった。『若い読者のための短編小説案内』という著作の中で安岡章太郎にふれている。たぶん、そのせいだろう。
小説家をテーマにした展示は古い原稿や書簡、当時の写真などがメインになる。百万年前の動物の骨やオルセー美術館に行かなければ見ることのできない名画が飾れているわけではない。どちらかといえば退屈なイベントだ。
中学校時代の卒業アルバムや当時の校章(菊の花に中とデザインされている)がガラスケースにおさめられていた。「サアカスの馬」時代のものだ。
安岡は高知県出身。土佐藩の郷士の出であるという。私小説からはじまる彼の小説家人生は、晩年になって『流離譚』や『境川』など自らの家系をさかのぼる作品にたどり着く。この展覧会は安岡章太郎というひとりの作家の旅をテーマにしている。
さて。
名前もほとんど知られていない企業が実は世界有数の技術と実績をそなえている。そんな会社が日本にいくつもある。
ここ最近、とりわけIT分野の驚異的な発展で海外の製品やテクノロジーについ目が行ってしまう。日本の産業はどうなっていくのか、労働人口の衰退とともに日本という国はだめになってしまうのではないかと懸念することが多い。もちろんそういう分野もあるだろうけれど、まだまだ知られざる日本の力があるのだ。この本に紹介されている250社はまさに前途有望。ニッポンオリジナルで世界をリードする技術やサービスを持っている。
広告している企業がメジャーだという先入観にとらわれる、たとえば生産材や部品をつくっている会社に目がいかない。実は日本を今支えている、あるいはこれから支えていくであろうビジネスはまだまだ日の目を見ない場所で力をさらにたくわえているのだ。
などと思いながら、港の見える丘公園から麦田町まで歩いて奇珍楼でワンタンメンを食べたのだった。

2016年11月4日金曜日

村上春樹『女のいない男たち』


読書メモをはじめたのは1990年頃からだと思う。
ワードプロセッサ(ワープロ)からパーソナルコンピュータ(パソコン)に移行したのがたぶんそのあたりでMSDOSのテキストファイル(プレーンなテキストファイルを昔はこんなめんどくさい術語で呼んでいたんだ)に保存しておけば後々何かの役に立つかもしれないと思って読後のメモを書き残すようになった。書いたり書かなかったりしながらかれこれ四半世紀以上続けている。もちろんまだ何の役にも立っていない。
最近は疲れたときに焼肉が食べたいとか、温泉に行きたいと思うようにどうしても読みたい、これだけは読んでおきたい、プレスリーみたいに読ずにいられないという本も少なくなってきた。昔読んだ本をもういちど読んでみたいと思うし、昔読もうと思って何らかの事情で読めなかった本を読んでみたいと思っている。
スタインベックやカポーティ、村上春樹、スチーブンソンの『宝島』などがそうだ。
村上春樹は大半の小説を二回は読んでいると思うけれどもう一回読み直してみたい作家のひとりだ。
その前にまだ読んでいなかったこの本を手にとる。
文藝春秋に連載された何編かを読んでいたのでまったくはじめてというわけじゃないが、村上春樹はきちんと原稿に手を加える書き手なので、初出と変わっているところがあって興味深い。
「ドライブ・マイ・カー」では上十二滝という地名が単行本になってあらわれた(ちょっとした苦情が寄せられたらしい)。『羊をめぐる冒険』で鼠の別荘があった町だ。なつかしい。
「イエスタデイ」も木樽が歌う歌詞が省略されている。版権絡みの面倒を避けたようだ。
「女のいない男たち」に一角獣の像がある公園が出てくる。「貧乏な叔母さんの話」に登場する絵画館前の風景を思い出す。野球を観に行くときその像の前を通る。
今日、ひとり静かに誕生日を迎えた。またひとつ歳をとった。
それはまあしゃあないやろ。

2016年11月2日水曜日

司馬遼太郎『酔って候』

両国の江戸東京博物館で開催されている「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」を見る。
二度来日を果たしたシーボルトが持ち帰った日本コレクション。これらはミュンヘンなどで何度か日本展として公開されたという。ヨーロッパの人々にとって日本を知るいいきっかけになったにちがいない(正直僕はさほど感激はしなかったけど)。
シーボルトが国外に持ち去ろうとしていたもののなかには、当時幕府のご禁制であった日本や蝦夷地の地図なども含まれており、やがて発覚する。いわゆるシーボルト事件である。このあたりは吉村昭の『ふおん・しいほるとの娘』に描かれている。
事件を明るみにしたのは間宮林蔵ともいわれている。同じく吉村昭の『間宮林蔵』にそんなエピソードが登場する。
司馬遼太郎の長編は少しお休みするとして、短編集を読む。
土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津久光、宇和島藩主伊達宗城、肥前藩主鍋島正直にまつわるエピソードを集めた短編集『酔って候』である。
表題作「酔って候」。山内豊信(容堂)は酒好きで片時も離さなかったといわれている。自らを鯨海酔候などと呼んでいた。てっきり江戸時代の人かと思っていたが、明治維新後まで生きた。
「伊達の黒船」は伊達宗城の命で蒸気船をつくった前原喜一(巧山)の話。手先の器用な職人がその器用さを認められ、宇和島城に呼びつけられる。長崎に遊学後、蒸気船を完成させ、その後士分に取り立てられる。
日本人は古くから海外から新しい技術を学び、持ち前の繊細な感覚でより高度な製品をつくってきた。いわゆる技術立国である。その縮図のようなエピソードが宇和島にあった。
薩摩に蒸気船建造の研究修業に出た帰り途、長崎に立ち寄った前原はシーボルトの娘楠本イネに会う。さまざまな日本の文化をコレクションして持ち帰ったシーボルトと西洋の叡智を収集しながら蒸気船を完成させた前原とのたったひとつの接点がここにあった。

2016年10月23日日曜日

田勢康弘『島倉千代子という人生』

小学生3年か4年の頃、社会の授業で品川区の地図をもらった。
授業中にひろげて、先生の言うこともそっちのけで、品川駅は港区にあり、目黒駅は品川区にあるなどという発見に興奮したものだ。当時あって、今なくなった駅もあれば当時なくて今ある駅もある。横須賀線の西大井駅はなかった。今の横須賀線は品鶴線と呼ばれる貨物専用線だった。
なくなったのは京浜急行の北馬場と南馬場。京浜急行が高架化されるにあたり統合され、新馬場となった。馬場という駅がないにもかかわらず、「新」が付いた。1976年。僕はもう高校生になっていた。
京浜急行は廃止された駅が多いという。立会川駅と大森海岸駅の間にあった鈴ヶ森駅もそのひとつ。戦時中の1942年に廃止されているからずいぶん昔の話だ。
新馬場駅を降りると第一京浜国道の向う側に品川神社、目黒川沿いに荏原神社がある。島倉千代子が地元商店街の「若旦那楽団」の一員としてアコーディオンを弾きながら歌っていた社である。旧東海道を中心に商店街が連なっている。今も若旦那が出てきそうな店構えもある。島倉千代子の生まれ育った家は荏原神社の裏手だったらしい。
この本を最初に読んだのは出版当初のことだから1999年くらいか。単行本は誰かに貸してそれっきりになっていた。電子版が刊行されていることを最近知り、再読する。
島倉千代子がヒット曲を連発していたのは50年代半ばから60年代前半だと思う。僕がリアルタイムで見聞きしていた当時のヒット曲は「ほんきかしら」や「愛のさざなみ」くらい。いずれも60年代後半、島倉は30歳になろうとしていた。若い流行歌手が次々にあらわれてヒット曲を披露していく中で島倉千代子はすでにベテランの部類に属する歌手だったと思う。それなのにいつまでもアイドルのような初々しい印象を与える不思議なキャラクターだった。
この本を読むとそんな彼女のひたむきさが少しわかるような気がする。

2016年10月19日水曜日

村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』

村上春樹の紀行文をたまに読む。
たいていの場合、彼は僕が行きたいと思う場所には行かない。
『遠い太鼓』のイタリアにはあまり興味がなかったし、『雨天炎天』のギリシャやトルコの辺境も行きたいと思ったことがない。ギリシャの修道院を巡る巡礼の旅はミュリエル・ロバン監督「サン・ジャックへの道」を彷彿とさせる苦難とユーモアに満ちた作品でそれなりに楽しめたけれど。
ウィスキーをテーマにアイラ島やアイルランドを旅する『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』もおもしろかった。ただシングルモルトのふるさとを見に行くためだけでスコットランドやアイルランドに行きたいかと言われたら、もっと他に行ってみたい場所はある。
じゃあ君はいったいどこに行きたいのかと面と向かって訊かれたら、それはそれで答えに窮してしまう。列車とバスでは到底たどり着けないフランスの美しい村とか答えるかもしれない。たとえばセギュレとか。あるいは非常に現実的な答だったら道後温泉かもしれない。
他人がどこに行こうが、自分がどこを旅したいかなんて結局本人の自由だ。もちろん村上春樹が僕の行ってみたかった村を訪れ、なんらかの文章を残してくれたら、それに勝るよろこびはない。だけど彼が旅する土地のほとんどに興味を持てない。だのになぜ僕は村上春樹(彼だけに限らないけど)の紀行文を読んでしまうのか。それが不思議だ。もしかするとまったく関心のない町や村が創作的な世界を感じさせてくれるからかも知れない。
テレビではじめて知る原住民の生活をつい見入ってしまう。そこに彼らに対する興味関心は皆無だ。でも今まで知らなかった世界に惹き込まれてしまう。それだけでじゅうぶん楽しめたりもする。つまりはそういうことなのかなと。
さて、この本はボストン、ポートランド、ニューヨークと僕の行きたい町が紹介されている。あと、熊本もいい。村上春樹の旅行記のなかでは屈指の一冊といっていい。

2016年10月13日木曜日

村上春樹『意味がなければスイングはない』

秋野球がはじまっている。
明治神宮大会をめざす学生野球と全日本選手権をめざす社会人野球。
東京都の秋季大会は今年は48チームではなく64チームで本大会が行われている。昨年までは24のブロックからAB2チームが勝ち上がっていたけれど、今年は8ブロックで2チーム、16ブロックでABC3チーム、計64チーム。ブロックが増えたことで強豪同士のつぶし合いが減った(それでも國學院久我山対国士館などという豪華な一回戦が組まれたが)。
秋季大会は夏の選手権大会で引退した3年生に代わって、2年生1年生主体の新チームのデビュー戦となる。昔は新人戦と呼んでいたように思う。実績のない新チーム同士の対戦だからシード校なし、すべて抽選のがらがらぽんだ。いきなり強豪校同士のl対戦があってもなんら不思議はない。とはいえまったくの抽選かといえばそうともいえない。24のブロックはそれぞれ当番校が決まっている。グランドを提供する学校だ(近隣の球場を借りて運営を手伝う当番校もある)。つまり当番校同士は対戦しない。それと試合会場は修徳のように埼玉県の場合もあるが、基本都内だ。安田学園や東海大高輪台など特に東東京の学校は千葉、埼玉にグランドをもつケースが多く、当番校になりにくい。どこかの当番校のグランドで試合をする。おのずと強豪校と対戦する確率が高くなる。
そういうわけで秋季大会本戦常連校は当番校である率が高くなる。ノーシードだからすべて平等というわけでもなさそうだ。
村上春樹の音楽評論を読む。
ジャズはふだんほとんど聴かないので、読む前と読んだあとで生活が変わるわけではない。読後少し変わったことといえばルービンシュタインの弾くショパンを聴くようになったことくらいかな。ブルース・スプリングスティーンはしばらくしたらまた聴いてみることにしよう。
さて本大会は岩倉対国士館、城東対東亜学園といった初戦の組み合わせもあったが、春センバツをめざす強豪校が散りばめられていて、興味は尽きない。

2016年10月10日月曜日

山崎豊子『大地の子』

以前、何度目かの再放送でテレビドラマ「大地の子」を視た。
はじめて放映されたのが1995年。日中合作による映像作品はこれまでにいくつかあり、その後も多く制作されているが、このドラマほど中国の政治や民衆の生活などに踏み込んだ作品はないだろう。スタッフや関係者の尽力は相当なものと思われる。
この作品はDVD化されていて、町のレンタルショップで借りることができるが、まだ読んでいない原作に目を通しておこうと思った。
ドラマにも勝る一冊だ。原作を追いかければいいドラマと違って、入手困難な資料や証言を人知を越える努力の末かき集め、わずかに判明した小さな事実というひとつひとつのパーツを丁寧に組み立てて、この中国残留孤児の半生記は描かれている。作者がこの作品に賭けた思いの丈に感服させられる。
中国残留孤児の生活は想像を絶するものだったに違いない。そのなかで陸一心は(もちろん創作ということもあるけれど)、度重なる不幸、不運に見舞われたとはいうものの、幸運な出会いに支えられた。
ひとりは陸徳志との出会い。このほとばしるような人間性を蓄えた小学校教師が陸一心を人として正しい道に導いた。そして親友の袁力本は幾度となく一心の窮地を救う。妻江月梅は命の恩人であるだけでなく、訪問医療で訪ねた寒村で一心の生き別れた実妹あつ子(張玉花)を見い出す。この三人なくして陸一心は存在しえない。
原作を読んでよかったのは、ドラマではつい見逃しがちな日中両国の体制の違い、社会の違い、感覚の違いがひしひしと伝わってきたことだ。中国は1949年の建国から現代にいたるまでさまざまな政治的な変化を経験している。こうした背景を把握しておくことがこの大河小説を読みすすめる上で役に立つ(実名ではないけれどそうした背景も本書でも触れられている)。
山崎豊子が執筆にあたった頃やドラマ制作当時は比較的日中の行き来が緩やかだったのであろうことは想像できるとしてもとにかく圧倒される一冊だ。

2016年10月5日水曜日

アスキー書籍編集部『企画書・計算書がパッと作れてミスなし! 仕事が速い人は必ず使っているExcel関数55』

先月だったか、いつだったか石原慎太郎の書いた田中角栄の小説を読んで、小学校時代の同級生K君のことを思い出した。
厳密にいうとK君のことではなく、K君のお父さんのことだ。
うすぼんやりしたj記憶なんだけどK君のお父さんに競馬の馬が練習するコースのある公園に連れて行ってもらった記憶がある。今にして思えば世田谷の馬事公苑だったか、もっと広々していたから多摩川河川敷にある川崎競馬場の練習場だったかも知れない。さらにクラスの全員を国会議事堂に連れて行ってもらった記憶もある。最近では小学校の社会科見学のコースになっているようで駐車場には連日のように大型バスが出入りして、子どもたちを国会内に送り込んでいるが、おそらく50年近く昔にはそう頻繁に国会議事堂見学が行われていなかったように思う。
もちろんそんな昔の記憶だから例によっておぼろげだ。ひとつだけ印象に残っているのは尖塔に上ったか、あるいはらせん階段越しに尖塔を仰ぎ見たかしたことだ。たぶん今では見学コースに入っていないんじゃないかと思う。それ以外の記憶はまったくといっていいほどない。本会議場を見せてもらったような気もするし、見せてもらわなかったような気もするし。とにかく坂の上にそびえ立つ石の建物、遠くから眺めるだけの存在だった国会議事堂に足を踏み入れたという記憶だけが鮮烈に残っている。
エクセルは表をつくるときだけ使う。合計を出す以上の計算式(どうやら関数というらしい)を使ったことがない。ただこの計算式を縦横に使いこなせればとてつもなく便利なビジネスツールなんだそうだ。
というわけで読んでみる。
でも電車の中で読んでいる限り、エクセルの関数式は上達しないし、使いこなせるものではない。パソコンの前で一日この本と向き合うしかない。当然のことながらそんな時間もない。わかっちゃいるけどつい読まなくちゃと思わせる本にときどきめぐり合うのだ。
で、K君のお父さんが越山会の人だと知ったのはずっと後のことだ。

2016年10月4日火曜日

ジョン・スタインベック『怒りのぶどう』

地球上のありとあらゆる土地は血に染まっている。
アメリカ大陸の歴史はヨーロッパ人による侵略の歴史だった。土着の民は土地を奪われ、富を奪われ、安寧を奪われ、そしておそらくこれが致命的と思えるが、言葉を奪われた。
日本だって同様にアジア大陸を侵略した。が、日本人のすぐれた資質のひとつは、こうした過去の侵略の歴史をふりかえり、反省するところにある(もちろんそうじゃない人もいるけれど、少なくとも僕のまわりにはちゃんとした人が多い)。
侵略というのは必ずしも武力によるとは限らない。
経済は成長を是とする。資本主義には資本主義の正義がある。効率を求め、利潤を追求する。時代に取り残された者たちを駆逐していく。まるで侵略者のように。
アメリカ西海岸、カリフォルニア。ふりそそぐ陽光。どこまでもひろがる果樹園。サーフィンに興じる若者たち、そして彼らを賛美するヒット曲の数々。カリフォルニアはまるでこの世の楽園のように思っていた。
少なくともこの本をはじめて読んだ1984年までは。
生産能力の衰えた土地を買占め、土着の農民を追い出し、大資本は農業の工業化を進める。そこに人は介在しない。利益だけが求められる。
駆逐されたオーキーたちは新天地を求めてカリフォルニアに旅立つ、そこにユートピアがあると信じて。彼らがやっとの思いでたどり着いた楽園は大資本家の楽園だった。農業はすでそこにはなく、耕された大地はまさに工場だった。
スタインベックは資本主義という怪物に家族という人間のいちばん小さな単位を対峙させた。力なきものの力を鼓舞し、巨悪に立ち向かわせた。結果は火を見るより明らかだった。
発表されたのは1939年。やがて第二次世界大戦に参戦するアメリカの武力侵略はすでにここカリフォルニアではじまっていたという見方はやや穿ちすぎか。
もういちど読んでおきたい名作。
30年余の時をへだてて、ようやく再読することができた。

2016年10月2日日曜日

獅子文六『てんやわんや』

四国に興味を持つ機会がなかった。
『坊ちゃん』を読んでも『海辺のカフカ』を読んでも四国に行ってみたいとは思わなかった。
以前仕事で徳島空港から香川県のとある会社に打合せに行ったことがある。もうその会社の名前も憶えていない。どんな案件の仕事だったかも憶えていない。空港で食べたうどんがおいしかったという記憶だけが残っている。
香川県を中心にさぬきうどんブームがあった。ふだんうどんを食べないにもかかわらず、そのコシやのどごしに魅せられて都内にある名店を訪ねたこともある。もちろん本場でうどん屋をはしごしたい気持ちにもなった。おそらく四国に行ってみたいと強く思ったのはそれが最初だと思う。
最近、吉村昭や司馬遼太郎などを読むようになって、高野長英やシーボルトの娘イネが訪ねた宇和島や坂本竜馬が生まれた高知、秋山兄弟と正岡子規の故郷松山に興味を持った。史跡(とはいっても石に何やら文字が刻まれている程度だろうが)を訪ねてみるのもわるくないと思うようになった。
これまで四国をないがしろにしてきたため、あらためて地図をながめてみると自分の無知に驚かされる。室戸岬や宇和島あたりは地図上どこにあるかと問われたらまず不正解だったろう。子どもの頃から時刻表を見るのが好きだったが、四国の鉄道網についてはまったく知識がない。高松から松山や高知へ行くルートが思い浮かばない。これまで如何に四国を軽視してきたことか。そのとばっちりを今になって受けている。
タイトルの「てんやわんや」から受ける第一印象は、往年の漫才コンビ獅子てんや瀬戸わんやだ。なかでもとりわけ瀬戸わんやの「たまごのおやじゃぴよこちゃんじゃぴぴぴーよこちゃんじゃあひるじゃがーがー」と口角泡を飛ばすギャグはわれわれの世代にはなつかしく印象深いものではないか思っている。
高校時代の親友Tは中学生時代にこの本を読んだという。彼の勤めるC書房でもこの本から「たまごのおやじゃ」を思い出すのはもう彼だけらしい。
宇和島。
いちど訪ねてみたい町だ。

2016年9月23日金曜日

石原慎太郎『天才』

物心ついた頃から、総理大臣はずっと佐藤さんという人だった。
最初の総理大臣は伊藤博文で、途中は知らなくて、あるときからずっと佐藤栄作だった。
東大安田講堂事件もあさま山荘事件も沖縄返還も佐藤栄作時代のできごとだ。
1972年、総理大臣は佐藤さんから田中さんに代わった。
はじめての大正生まれの総理大臣だった。さらに高等小学校を卒業しただけという学歴のなさも話題になった。総理大臣は東大を卒業していなければなれないと多くの人が思っていた。
田中角栄が首相就任前に著した『日本列島改造論』という本も話題になった。
いちばん記憶に残っているのは日中国交正常化だ。その後オイルショックなどあって、物価が高騰。田中角栄という人物の明るいキャラクターとは裏返しの不安な世相につつまれた。
そして田中金脈問題、ロッキード事件と疑惑の渦中に陥れられ、まもなく退陣する。
当時中学生になったばかりの少年にとって田中角栄の記憶はこの程度のものではないだろうか。
石原慎太郎が田中角栄になり代わって、自伝を書いた。
一人称で語られている。
40数年前には知らなかった田中角栄がよみがえった。
現在の日本の礎となっている法律を数多くつくった政治家は、後に金脈問題を取り沙汰されたが、選挙のための莫大な資金集めに奔走し、派閥議員の運動資金として提供してきた。考えようによっては自らのアイデアを形にするための一方策だったのだろう。ロッキード事件もどこか仕組まれた感があり、選挙資金として何十億円も集める力のある田中角栄が賄賂として5億円程度を受け取るとは思えない。
よくもわるくも日本という国を支え、動かしてきた法律を立案し、整備してきた田中はコンピュータ付きブルドーザーとよく呼ばれていた。土木建築のための重機としてのブルドーザーではなく、この国を建て直し、整備するためのブルドーザーだったのだ。
かつて保守傍系で反田中の立場にあった石原慎太郎が田中角栄を読みなおした本として興味深い一冊だ。

2016年7月24日日曜日

岸本 佐知子,三浦 しをん,吉田 篤弘,吉田 浩美『『罪と罰』を読まない』

本との出会いは偶然によるところが大きいと思う。
どんな名著だって、それを読むきっかけや機会が得られなければ、永遠に読まないことになるだろう。『オッデュセイア』だって『神曲』だって『失われた時を求めて』だって、チャンスに恵まれた人が読み切ったのだ。そして僕はそうした機会に出会うことがなかった。
ドストエフスキーもおそらく、ほとんど興味関心のない小説家だった。そもそもロシア文学に興味がなかった。さらに「そもそも」を繰り返せば、ロシアに関心がなかった。特に若い頃はフランスとアメリカにしか興味がなかった。
村上春樹が人生で巡り会った重要な三冊というのがある。『グレート・ギャツビー』、『カラマーゾフの兄弟』、『ロング・グッドバイ』だ。やれやれ、ロシア文学が入っているじゃないか。
そう思っていた矢先、光文社の古典新訳シリーズという文庫で『罪と罰』が出ていることを知る。これまでの重厚な翻訳と異なり、読みやすいという(亀山郁夫訳の古典新訳に関しては賛否両論であくまで重厚古典的翻訳を重んじる人は多いそうだけど)。もちろん『カラマーゾフ』から読むという選択肢もあったけど、少しでも短いほうがいいかと思ったので読んでみることにした。
これが僕と『罪と罰』との出会いだった。
この名著と出会えなかった4人が集まって、いったいどんな物語なのかをいい加減に推測しながら対談するというのがこの本である。その企画だけでじゅうぶんおもしろい。でもさすがに皆さん作家だけあって、あまり極端に的外れなことは言わない。ちょっとずれてたりする。それがおかしい。
それにしても文学少女、文学青年であった4人がドストエフスキーを読んでいなかったというのがなんといっても『罪と罰』に対する敷居を低くしてくれる。この大作にチャレンジしたくなる、そんなきっかけを与えてくれる一冊だ。読むきっかけや機会が得られなかった作家たちを通じて、今回チャンスを得た読者もきっと多いことだろう。

2016年7月21日木曜日

横山秀夫『64』

7月。ふたたび長崎波佐見町を訪れる。
水神宮に奉納される天井画の落成式が行われる。その様子を撮影しに行ったのである。
天井画そのものは6月、銀座アートホールというギャラリーで公開された。今回、天井画の創作にあたった画柳会という同人が毎年この時期、展覧会をひらく。中央に男神、女神の大きな2枚の絵。そのまわりを思い思いに描かれた48枚の天井画が飾る。なかなか勇壮である。
この展示を終えて、天井画は長崎に送られた。波佐見町では地元の総代で大工の里山一郎さんが待っている。一週間かけて、一枚一枚をはめ込んでいく。最後の一枚を落成式前日、つまり僕たちが到着した後、はめ込んでもらう予定だと聞いていた。作業風景を撮影させてもらうためだ。ところが空港からレンタカーで水神宮に駆けつけると、天井画は一枚の漏れもなくはめ込まれていた。人づてに聞いた予定なんて、まったく当てにできない。完成した天井画を撮影して、明日の落成式でどこから撮影するか、カメラの置き場所や段取りを打ち合わせして撤収。ありあまった午後の時間は波佐見町の風景を撮ることに費やした。
以前から見てみたかった鬼木郷の棚田や4月にじゅうぶんに見ることができなかった中尾山の窯元などを見てまわり、旧波佐見町立中央小学校の講堂兼公会堂を見に行く。この建物は昭和12年旧波佐見高等尋常小学校の講堂として建てられ、平成22年に国の登録有形文化財に指定された。内部も改装され、きれいなホールになっているらしいが、あいにくその日は見ることができなかった。小学校は移設されているが、この跡地には卒業生たちがつくった陶磁器の絵や校歌を記した碑など長年にわたって積み重ねられてきた思い出が随所に見られる。まさに小学校の遺跡だ。
横山秀夫は以前『クライマーズハイ』を読んだが、『64』もいいと聞いて、読んでみた。映画化もされ、小説とは違ったおもしろさがあるという。今度観てみようかな。

2016年7月13日水曜日

吉村昭『ニコライ遭難』


4月、長崎県東彼杵郡波佐見町を訪ねた。考えてみると沖縄には行ったことがあるが、九州に行ったのははじめてである。
波佐見町はひろく海に面した長崎県にあって唯一海岸線を持たない町だという。内陸に位置し、お隣佐賀県の有田市にも近い。そして有田同様やきものの町である。有田焼、伊万里焼ほどの知名度はないかもしれないが、この町の特産は波佐見焼という陶磁器だ。
やきものの中心地は中尾山(なかおやま)という地域。古くから窯が多く、煉瓦造りの煙突がところどころ残っている。ろくろや絵付けなど陶芸体験を楽しみにやってくる観光客も多いという。
中尾山から川棚川の流れに沿うように西に向かうと長野郷という郷にたどり着く。川沿いからさらに西へ上っていくと小さな社がある。水神宮という。その名のとおり、水の神様を祀っている。
社殿に天井画を奉納するという。聞けば、宮司の親戚の同級生で仏教画家の中田恭子さんが九州の復興や子どもたちの未来のために祈りを込めて描いた絵を後世に遺したいということで同人である画柳会のメンバーとこの取組みに参加したのだそうだ。
4月の時点でもちろん天井画は完成していない。それぞれの画家たちが趣向を凝らして、その準備に追われていた。ちょっと興味深く思えたので東京に戻ったら、天井画を描かれている方々にお会いしてみたいと思った。
往復の飛行機のなかで吉村昭の『ニコライ遭難』を読みはじめた。いわゆる大津事件を題材にした力作である。
ニコライ二世が長崎に到着したのが1891年4月。正式に訪日する以外にもお忍びで上陸し、長崎の町を楽しんだという。まったくもってうらやましい話だ(その点僕は2日間の長崎滞在で市内にいたのはほんの2時間ばかり)。
皇太子は有田焼の花瓶や茶器が気に入って出島で買いこんだらしい。どうせなら波佐見にも来ればよかったのに。波佐見焼もさることながら、風景だってとってもいいんだから。

2016年6月26日日曜日

高峰秀子『にんげん住所録』

古い地図を見ると今の品川区は品川区と荏原区だったことがわかる。
旧品川区は今でいう大崎、品川、大井町。旧荏原区は戸越、平塚、中延から旗の台、小山あたり。東京に35の区があった時代だ。
僕の生まれた家は大井町駅に近いが、昔の区分でいうと荏原区になる。管轄するのは荏原警察署であり、荏原消防署だった。どちらも大井警察署や大井消防署よりはるかに遠い。
近くに川が流れていた。
立会川という。
今は暗渠となってバス通りになっている。川沿いには大小さまざまな工場があった。
そのなかでも大きな工場は三菱重工と日本光学で、前者はなくなってかつて品鶴線と呼ばれた貨物線に横須賀線を通すようになったとき、西大井という駅になった。駅前に高層マンションが建ちならび、西大井広場公園というこのあたりではちょっとした広さを誇る公園もできた。駅も広場も立会川の南岸なので旧品川区である。さらに南へ歩いて行くと旧大森区。馬込、山王という町名があらわれる。
古くからこの辺りに住む人の特徴として、間違った呼び方を貫くという点があげられる。大井町駅からニコンの大井工場へ続く道路は光学通りと呼ばれているが、地元民のほとんどが日本光学(ニッポンコウガク)をニホンコウガクと呼んでいた。そしてこれらの人たちの多くが今社名を改め、ニコンになったことを知らない。
旧荏原区旗の台に昭和大学がある。その昔旗が岡という町はいつしか旗の台と呼ばれるようになった。この昭和大学も昭和大学と呼ばれることがほとんどない。東急旗の台駅にはご丁寧に「昭和大学前」と付記されているにもかかわらず、古くから住む地元住民のほとんどが昭和医大という。
僕も子どもの頃からずっと昭和医大だと思っていた。調べてみると昭和39年に昭和大学と名前を改めたらしい。なんと根強いことか。
高峰秀子は以前、大森に住んでいたという。蒲田の撮影所に通うのに便利だったからだろう。
この本は大人になってからの交友録。女優としても文筆家としても小気味いい人だと思う。

2016年6月23日木曜日

吉村昭『東京の戦争』

春野球はとっくに終わり、夏野球の季節だ。
この春は数戦しか観ていない。ちょっと興味が薄れたせいだ。
2011年夏の甲子園優勝の日大三。その主力5人が東京六大学にすすんだのが、翌12年春。エースの吉永、トップバッターの高山ら1年生の活躍が目立った。楽天イーグルスで活躍している茂木も含めてベストナインに3人の1年生。日大三優勝メンバーの慶應横尾、法政畔上、立教鈴木以外にも明治坂本(履正社)、菅野(東海大相模)、立教大城(興南)早稲田重信(早実)と全体としてレベルの高い世代だった。そしてこの春こぞって卒業した。ついつい球場から足が遠のいてしまったのは、誰を観にいこうか、という興味が薄れたからに他ならない。
東京六大学野球でいえば、昨年まで世代的に強かった4年生に依存してきたチームは苦戦を強いられた。早稲田が典型的だ。1学年下にエースが残った明治(柳)、立教(澤田圭)、慶應(加藤)がリーグ戦を盛り上げた。強い世代が抜けて、全体のレベルが下がるという見方はちょっと極端すぎるかもしれないが、リーグ戦で東大が3勝したり、その後の全日本選手権で東京六大学も東都大学も早々に姿を消したのは各大学の戦力が接近して団子レースになったからではないか、などと思っている。
最初に読んだ吉村作品は『羆嵐』だった。それから人に勧めらるがままに『三陸海岸大津波』、『関東大震災』を読み、そして災害三部作(なんていう言い方はされていないけど)の三冊目としてこの本を選んだ。
特定の人物の視点からではなく、戦争というものが、空襲というものが淡々と綴られていく。政治や思想ではなく、戦争とともに戦争そのものを生きた庶民が見たままの戦争だ。
吉村昭は東京日暮里の生まれという。あの戦争で東京の東半分はほぼ焼き尽くされた。それでもときどき歩いていると空襲で焼けなかった一角という場所が70年以上の時を隔てて残っている。奇跡といっていいだろう。

2016年4月19日火曜日

司馬遼太郎『坂の上の雲』

司馬遼太郎を読みはじめた。去年の夏。
幕末あたりの話からはじまって、戦国時代にさかのぼるか、明治につきすすむか思案の末、『坂の上の雲』をとりあえずのゴール地点と定めた。
まだ二十歳になったばかりの頃。時代小説や大衆小説になんら興味の持てなかった頃、高校時代のバレーボール部のK先輩(『峠』を読めとすすめてくれたのは三学年上のK先輩、こちらは八学年上である)が『坂の上の雲』だけは絶対読めと言ってくれたのをずっとおぼえていた。それまで司馬遼太郎と接する機会はなかったが、もしなにかのはずみで読むようになったらぜひ読みたいと思っていた(というより記憶のひだの中にすりこまれていたような気がする)。『竜馬がゆく』、『花神』、『世に棲む日々』、『峠』とたどってきた司馬街道はおのずとこの本に向かっていたともいえるだろう。
秋山好古、真之兄弟と正岡子規が主役である。
が、テーマは明治という時代である。現代に生きる日本人にとって明治とはいかなる時代であったか、明治を経験した日本がどのように近代に向けて変貌をとげていくのか。司馬遼太郎が生涯をささげた問題はこの時代にあったのだろう。
であるから、秋山兄弟や子規の物語ではない。彼らはたまたま同時代に生きていたにすぎない。ときに主役は乃木希典であったり、大山巌であったり、東郷平八郎であったりする。あるいはクロパトキンやロジェストウェンスキーらでさえ、この壮大なドラマにおいて主人公を演じている。
司馬遼太郎はあたかも3Dスキャナーで読み取るように明治を、日露戦争を読み解いていく。陸軍から、海軍から、参謀本部から。内政不安などを背景にしたロシア兵の士気など。描かれているのは日露戦争時代の日本とアジアの精細なジオラマのようである。敵陣の背後にまわる騎兵隊、一糸乱れぬ航行をくりかえす連合艦隊。これはやはり読まないではいられなかっただろう。
先だって、K先輩に会った。
ようやくロジェストウェンスキーが対馬までたどり着きましたよと話したら「おまえ、まだ読んでなかったのかよ」と言われた。

2016年4月2日土曜日

吉村昭『ポーツマスの旗』

今年の年明け、ある企業の企業広告の企画を依頼された。
空調などの設備を設計施工する会社で、広告会社の担当者はたぶん知らない会社だと思いますけど、と説明をはじめた。
僕は知っていた。四谷にあって、小学校時代の同級生Mが勤めている会社だ。
同級生といってもMとは3~4年生のときだけだ。家が近かった。僕のうちとMのうちのあいだにTがいた。朝八時になると僕がTの家に行く、TとふたりでMの家に行く。そして3人で登校した。
TもMも僕もそれぞれ都立高校に進学し、やがて大学生になった。
大学を出る頃、3人で集まって、酒を飲んだ。だからMが空調設備の会社に就職したことは知っていたのだ。十数年続いたと思う。
30代の半ば、Tが急逝した。
3人の集まりの世話役だったTがいなくなり、それからMとは年賀状だけのやりとりになった。ずっと3人で会っていたので、ふたりでどう会っていいのかわからない気もした。たとえとしてはへんだけどちょっとした『ノルウェイの森』みたいな感じだったのかもしれない。
企業CMの企画案はまとまり、Mの会社と郊外にある研究施設で撮影をすることが決まった。たまたまだったが、クライアントの広告担当の方のご主人がMの部下だという。Mに連絡してもらい、撮影の当日ほぼ20年ぶりに再会することができた。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んだ。おいおいここにアップしようと思っている。
吉村昭のこの本は学生時代大江健三郎とか安部公房を読んでいた頃、新潮社の書下ろし長編シリーズのリーフレットでその題名を記憶していたが、まったく興味がわかなかった。
日露戦争後、ポーツマス条約締結に日本の全権として尽力した当時の外相小村寿太郎の物語だ。もしこれから読みたいという方があれば、『坂の上の雲』を先に読むことをおすすめしたい。
Mの会社の人たちはみんないい人たちばかりだった。いいCMをつくらなくちゃというプレッシャーがいちだんと増した。

2016年3月19日土曜日

加東大介『南の島に雪が降る』

お彼岸ということで春の南房総を訪ねた。
内房線に乗って館山、乗り換えて千倉。路線バスで乙浜という集落で降りる。
父の墓のまわりの草取りをし、線香を手向ける。花は前日近くに住む叔母が供えてくれていた。叔母の家にお礼を言いに立ち寄る。
隣の集落は白間津という。南房総の花摘みで知られた町だ。乙浜は白浜町だが、白間津は千倉町になる。海岸通りを歩いて、写真を撮りながら白間津の寺に向かう。母方の墓がある。
彼岸のこの時期、町はひっそりとしている。花摘みの観光客が少しいるが、最盛期はもっと寒い1~2月だ。地元に住む叔母(白間津にも父の妹が住んでいる)の話ではこのあたりは夏のお盆時期ほどお彼岸は重視されていないという。秋も春も畑仕事が忙しくなるからだろう。
暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。TシャツにGジャンで日中はじゅうぶんなあたたかさだった。
映画に残された昭和の町並みを見たくて、古い映画をよく観る。成瀬巳喜男とか小津安二郎とか。決して主役ではないが、味のある脇をかためる名優がいる。
加東大介だ。
生真面目でもてない男の役だったり、たまに羽振りがよくてもてていたりすると詐欺だったりする。芝居的には難しいであろう役どころが多い。
兄は澤村國太郎、姉に澤村貞子、甥に長門博之、津川雅彦という役者一家の出だ。戦前は市川莚司という名で歌舞伎役者として活躍していた。
この本はニューギニアに出征していた当時、現地で兵隊たちを鼓舞する劇団をつくっていた頃の記録だ。ぽっかりと戦争から取り残された不思議な空間が舞台である。そこには抱腹絶倒かつ涙ぐましい劇団員の努力が描かれている。
昭和30年代半ばに書かれたこの本は映画化されたり、舞台化されたりしているが、最近になってちくま文庫から出版され、ようやく読むことができた。
南房総ではキンセンカや菜の花に混じってソラマメの花が咲いていた。もうひと月くらいで豆を抱いたさやが空に向かってのびることだろう。

2016年3月18日金曜日

司馬遼太郎『峠』

歴史というものは学校で教わるだけじゃないんだとつくづく思う。
というよりも学校で歴史の授業にたいして身を入れてなかったからかもしれないが、これまで知らないことが多すぎた。
幕末から明治にかけて興味を持ったのは吉村昭を読むようになってからで、その吉村昭も江戸時代を舞台にしたものはあまり関心が持てずに避けていたように思う。ちょっとしたきっかけで(そのきっかけも憶えていないのだが)『長英逃亡』と『ふぉん・しいほるとの娘』を読んで江戸末期に多少近づくことができた。
幕末~明治をもっと読んでみたいと人に相談したところ、司馬遼太郎を読めという。まずは『竜馬がゆく』、『燃えよ剣』だという。さっそく読んだところ世の中には司馬遼太郎ファンというのは大勢いるもので友人知人から次は『花神』、『世に棲む日日』、『峠』を読めと指示が飛んでくる。それを読み終わったら、『関ヶ原』だ、いや『坂の上の雲』だと大河ドラマのように話がふくらんでいく。
なかでも『峠』は高校時代バレーボール部のK先輩が特に推す。聞いてみるとKさんがアメリカに留学していた頃、日本から持ち込んだ数少ない本であったらしく、なんどもくりかえし読んだという。
薩長同盟が官軍となって幕府軍を駆逐した鳥羽伏見の戦いから江戸開城あたりまでが徳川から明治への大筋であり、その先多く語られることはあまりない。東北、北海道へ逃げ延びた幕府軍が敗れ、明治政府が日本を掌握したということになっている(少なくともそう習った記憶がある)。
そうしたあまり日の当たらない歴史のなかでも白虎隊のようなサブストーリーは多少知ってはいたが、越後長岡にスイスのような永世中立国をつくろうとした男がいたなどとはこの本を読まない限り知りようがなかったと思う。
歴史というのは大きな事件の羅列ではなく、小さなできごとが絡み合ってつみかさなっていくものなのだと今さらのように感じるのだ。歴史は教わるよりも学ぶ方が断然おもしろい。

2016年2月27日土曜日

杉浦日向子『合葬』


仕事で絵を描いている。
というとちょっとアーティスティックな印象を与えてしまうかもしれないが、そんなにたいそうなものを描いているわけではない。テレビコマーシャルとかWebムービーなど映像コンテンツの企画の仕事をしている。絵など描かずに文章だけでもじゅうぶん仕事はできるんだけど絵があるとイメージしやすく意図が伝わりやすい。絵を見せてもわからない人もいるが。
絵を描くのはその日の気分でサインペンやゲルインキのボールペンを使う。立派な画材を使うような絵は描けないのでもっぱら、安価な筆記具とコピー用紙を使う。最近は0.5ミリとか0.7ミリのシャープペンシルを使う。
シャープペンシルといえば昔からノックボタンの内側に消しゴムが付いていた。
いったい誰が考えついたんだろう。たしかにとっさの場合には便利な構造である。考えついた人の頭上に電球が煌々と輝いたにちがいない。
ところがそこに付いている消しゴムは今どきのよく消えるタイプ(プラスティックイレーサーというらしい)のものではない。昔ながらの、下手をすると紙を汚したり、破いたりしかねない消しゴムだ。正直言って実用性に乏しい。使うとすればどうしようもないときだ。
別の見方もある。華奢なシャープペンシル(昔はシャープペンシルといえば500~1,000円はしたであろう高価な文具だったが、今は100円くらいで買えるし、それ相応の身なりをしている)はノックボタンがはずれやすく、それによって中の芯がこぼれ落ちやすい。消しゴムはその落下防止のための中ブタなのではないか。
久しぶりに漫画を読んだ。昨年映画化された『合葬』だ。
先日、吉村昭の『彰義隊』を読んだが、同じ彰義隊の物語でありながら、こちらは事件の全体像より幕府側の若者にフォーカスしている。息絶えようとする江戸時代。はかないサムライの命がはかなく描かれていた。
杉浦日向子はシャープペンシルなんか使わないんだろうな。

2016年2月6日土曜日

スティーヴンスン『宝島』

実家近くにある区のセンターで水墨画の教室があるという。
母の知人も何人か通っているらしいが、聞くところによると昔、僕の母校(小学校)で教鞭をとっていた女性が隣の区から通われているという。母に言わせるとその先生が僕のことをよく覚えていてちょくちょく話題にしてるんだそうだ。
最初のうちは誰だろうと思っていたが、小学校の6年間で女の先生だったのは3~4年のときだけだからそのときの担任の先生にちがいない。隣の区から通っているって、田園調布の方かなと母に訊くとそんなことを言ってたという。まちがいない。当時担任のA先生ないしはY先生だ。
AとYでは大ちがいだが、たしかその頃結婚されて苗字が変わった。A先生からY先生になったのか、あるいはその逆か。そのあたりは思い出せない(以下、仮にY先生としよう)。
Y先生はあるとき体調をくずされて、ほぼひと月近く休んでいた。同級の誰かがある日お見舞いに行こうと言い出した。住所はわかる。最寄駅もわかる。ということで男子生徒有志で相手の迷惑もかえりみず、電車に乗って行ったのだ。
駅に着いてからがたいへんだった。はじめて降りる駅。地図はなく、所番地を記した紙切れ一枚だけ。街区表示板だけをたよりに延々とさがしまわった末、ようやくたどり着いた。突然十人くらいの男子生徒に押しかけられて先生もほとほと困ったことだろう。
お菓子をいただき、庭の芝生で遊ばせてもらった。記憶に残っているのはそのくらいだ。
この頃主に読んでいた本はポプラ社の伝記だった。
その後、冒険ものや怪盗ルパンが好きになる。そのなかでもしくりかえし読んだのは『宝島』だ。自分で模写した地図を手に読みすすめた。
光文社古典新訳シリーズにこの一冊があるのを知り、あらためて読んでみる。何十年ぶりだろう。地図も載っている。遠い記憶が呼びさまされる。ジム・ホーキンスに久しぶりに出会う。
冒険小説にめざめたのは、Y先生の家をさがしまわったあの日だったのかもしれない。

2016年2月4日木曜日

吉村昭『彰義隊』

及川惣吉さんが亡くなられたと聞いた。
及川さんはわずか数年ではあったが、広告会社でサラリーマンだった時代の僕の上司であり、コピーライターだった。大学卒業後勤めはじめた会社が傾いて、博報堂に文案家として就職しなおし、それから間もなく電通にスカウトされて移籍した。ちょっと風変わりな経歴の持ち主である。昭和30年代半ばのスターだった。
及川さんのすごいところはずしりと響くそのコピーだけでなく、クリエーティブディレクターとして多くのコピーライターやアートディレクターを生み出したところにある。クリエーティブの才能や能力を継承していくのはまさに電通の得意とするところだ。
僕は30歳になる少し前に及川さんに出会った。及川さんは還暦のちょっと手前だった。もう少しはやくめぐり会えて、広告作法を直に学べていたら、僕ももう少しまともなクリエーティブになっていたかもしれない。それでも及川さんは時間さえあれば毎晩のように酒場に連れて行ってくれた。そして飄々と昔話やら友の話やらを聞かせてくれた。
及川さんは酔うとよく踊った。誰かがカラオケで歌いだしたりするとそこらにある棒っきれを手に(本人は刀のつもりらしい)踊りはじめる。店がせまいと路地に出て踊る。最初は呆気にとられるのだが、慣れてくるとカッコいい。男のダンディズムを感じる。阿久悠が作詩して沢田研二が歌った「カサブラン・カダンディ」という曲があった。「男がピカピカのキザでいられた」ハンフリー・ボガードの時代が歌われている。今さらおだてても仕方ないが、及川さんにはそんな粋でカッコいいところがあった。
彰義隊。
サムライの時代はほぼ終わっている。武家社会の栄光だけをたよりに失われた時代にすがりつく男たち。新たな時代の新たな勢力に屈することを拒絶した若者たちのドラマはちょっとした美学=ダンディズムだったのではないか。
2月生まれの及川さんはもうすぐ84歳だった。どうかあの世でもカッコいい踊りを披露してください。

2016年2月1日月曜日

ラズロ・ボック『ワーク・ルールズ!』

とあるCM制作会社の話。
その会社では作業があってお昼を食べに行けない社員のために蕎麦屋とか中華の店からほぼ毎日出前をとっていた。その際、社員の負担は少額の定額(たとえば一食300円とか)にして、給与から天引きしていた。また近くにおでん屋があった。夜は居酒屋みたいになるんだけど昼はランチがあり、そこでも会社名と名前を告げればお金を払わなくてよかった。同じように天引きされた。
食べるってだいじなことだ。
グーグルでは社内にマイクロキッチンと呼ばれる社員食堂やカフェテリアで無料の食事が提供されている。全世界で一日10万食におよぶという。
この制作会社の昼食は無料ではないけれど、外に出られない社員のことをよく考えていた制度だった。自由な発想とか工夫だとかはこうしたなんてこともないサポートから生まれたりする。
時間がない、昼飯どうしよう。今日ははやく帰って洗濯しなくちゃ、貯まっちゃってるからな。ずっと髪を切りたいと思っているんだけど休みがとれない、休日もやることがいっぱいで美容院に行けない。
実はこうした些細なことがイノベーションの障害になっている。グーグルのオフィスにはクリーニング屋がやってくる。移動美容室も訪れる。ちょっとした気がかりなことをちゃんと取りのぞくサービス、福利厚生がある。
この本はマイクロキッチンの本ではない。クリーニングサービスや移動美容室の話でもない。イノベーションを起こすためのクリエーティブなオフィスはどうあるべきか。その基本的な考え方から解き明かしている。グーグルの人事責任者が書いている。どんな人材をどうやって選んで採用するのかから語られる。
先のCM制作会社では経済環境、経営環境の変化から昼食補助制度はなくなってしまったようである。ああ、今日も昼飯抜きかなあ、コンビニで何か買って適当に済ませようかな、なんて思いが仕事にとってたいせつな発想を妨げてはいないだろうか。

2016年1月25日月曜日

吉村昭『破獄』

第一級の寒波が押し寄せているという。
このところ気象状況はおかしい。夏はどこまでも暑く、冬はとことん寒い。とはいえ冬は気温が10度を超えて暖かい日も続く。今年は暖冬かというニュースがテレビや新聞でにぎわう。読んでいるだけで少し暖かくなる。
若い頃は(ああ、このフレーズを出したところで負けだ)、多少の寒さは何とも思わなかった。暑いのにくらべればたいてい我慢ができた。Tシャツにダウンジャケット。そんな出で立ちで町を歩いていた。ズボンの下にタイツなんか絶対に穿かなかった。
それがどうしたものか、今は寒いことがなによりつらい。困ったものだ。
凍えるような小説を読むのも冬場にはよくない。去年の秋、吉村昭の『間宮林蔵』を読んだ。厳冬のなか樺太を探検する物語だ。真冬に読むべき小説ではない。身体によくない。
南極探検の映画を観ても、ふるえるような寒さをぜんぜん感じないのに、小説からだと寒さが身にしみる。不思議なことだ。
これまで運がよかったのか、行いがよかったのか、刑務所のお世話になったことがない。くさい飯を食って、出所する際子分が迎えに来ていて「おつとめご苦労さまでございました」なんて言われたこともない。夕張かなんかの駅でかつ丼とラーメンを注文し、ビールを注いだグラスをふるえる両手で持って飲み干したこともない。
もちろんこれらを経験したいがために刑務所に入ってみたいと思ったこともない。
ただ獄中生活というのは小説を読む者にとってなんとリアルなことなんだろうと思う。
山本周五郎『さぶ』の栄二、大岡昇平『ながい旅』の岡田資、そして吉村作品なら高野長英、関鉄之介。吉田松陰もそうだ。
皆、監獄にあった。
獄は外界とすべてにおいて遮断された空間だった。これを破って外に出るなど、刑務所生活を送った者にも想像できまい。しかも破獄した男は極寒の北海道東北で冬を越す。
年明け急に寒くなったのはこの本を読んだことと無関係ではないだろう。

2016年1月23日土曜日

池井戸潤『下町ロケット2』

TVerというサービスがはじまった。
テレビで視逃した番組をあとでネットで視聴できるというそんな試み。
どうしても視たい番組を視るために残業を切り上げ、付き合いもほどほどに急いで帰宅して、待ってましたばかりにチャンネルを合わせる…。もうそんな時代ではないらしい。
テレビ番組を放映スケジュール通りに視聴することを近ごろの青少年たちはリアルタイムで視る、略して「リアタイで視る」と呼んでいる。ここぞという番組は「リアタイ」で視たいと思うのが、昨今の若者なんだそうだ。
そもそもテレビ番組なんてものはリアタイで視るのが当たり前だった。視逃したやつは視逃したやつがわるい。翌日教室や職場での話題に取り残される。テレビとはそういうものだった。
ところが近年、インターネットを駆使したオンデマンド視聴が普及する。何も急いで帰宅して、銭湯をはやめに切り上げてテレビの前に座らなくてもよくなった。
その結果、逆に「リアタイ」で視る価値が見直された。ちなみにツイッターで「リアタイ」を検索すると「○○(番組名)久々リアタイ」なんていうツイートが山ほどあらわれる。
たしかにテレビというメディアが送り込むコンテンツの中で今もっとも力を持つのは一回きりの放映で同時に視聴することに価値のある番組だという。たとえば生中継のスポーツ番組がそう。毎年全米を熱狂させるスーパーボウルに企業が莫大な媒体費を投じるのも、質の高いリアルタイム視聴者に広告を届けたいがためなのだ。
メディアの話はともかくとして、テレビドラマ「下町ロケット」、「下町ロケット2」ではTVerが大いに役立った。視逃した回を視たのはもちろんのこと、日曜視たのに月曜にもう一回視たりとか。
まあとにかく久しぶりにしつこいくらいテレビドラマを視てしまったのだ。
前作はロケットエンジンのキーデバイスであるバルブの開発話だった。今回はその技術を医療に応用した。技術ってすごいもんだ。

2016年1月19日火曜日

池井戸潤『下町ロケット』

生まれ育った町に工場が多かった。
「こうじょう」ではない。「こうば」である。小学校の同級生も工場の子が多かった。彼らはたいてい野球が上手かった。子どもの頃は不思議に思っていたけれど、今考えてみれば若い工員さんたちがキャッチボールの相手をしてくれたり、河川敷で楽しむ娯楽の野球におそらく連れて行ってくれたにちがいない。そしてたぶん、道具だってそろっていただろう。
そんな工場の子が、今思い出せるだけでもクラスに3人いた。工場で何をつくっていたのか、まるで知らない。近所のM君の家では鉄を削っていた。薄く細いばねのような削りくずがドラム缶に何杯も置かれていた。旋盤やボール盤があった。そうした工作機械の名前を知ったのもずっと後のことである。M君の家で働いていた職人さんにベーゴマを削ってもらった記憶がある。あっという間の作業だった。
ところで品川の大井町や戸越のあたりになぜ小さな工場が多かったのだろう。やはりその一帯が工場地帯だったからか。
区名に川が付く品川は川の町だ。目黒川と立会川。
立会川はほぼ暗渠になってしまったが、三菱重工、日本光学、さらには国鉄大井工場と川沿いに大きな工場があった。目黒川もしかり。再開発されて景観が一新した大崎駅界隈は工場しかなかった。
これらの工場に供給する部品が同級生の家でつくられていたのではあるまいか。そして彼らはキャッチボールで鍛えられていった。
僕の記憶に残る町工場のイメージにくらべると佃製作所はなかなか立派な工場だ。ちゃんとした中小企業であり、零細ではない。しかも夢を持っている。M君の家をはじめとする当時の町工場にだって夢はあったと思う。きっともっとささないな夢だっただろうが、それはそれでいい時代だったと思う。
単行本が出て、直木賞を受賞した頃からずっと読みたかった一冊。文庫本を待っていた。ようやく出た。テレビドラマのはじまりになんとか間に合った。

2016年1月14日木曜日

司馬遼太郎『世に棲む日日』

暮れに千住を歩いた。
事前に地図を見ながら思い出したのは荒川放水路の開削によって東部伊勢崎線(今はスカイツリーラインという愛称で呼ばれているらしい)のルートが変更されたこと。以前読んだ本(それが思い出せないのだが)によると伊勢崎線は鐘淵からゆるくカーブを描きながら、堀切、牛田を通り、北千住に向かっていた。ところがちょうど堀切駅あたりが荒川の水路となるため、鐘淵〜堀切間を直線にした。結果、荒川の土手沿いを走る路線となり、いちど廃駅になった堀切駅がその後、荒川の東岸土手下に駅舎を構えることになった。このとき駅名を変えればよかったのだろうが、堀切という名前のままにした。堀切は荒川を渡ったところの葛飾区の町だが、その手前の足立区千住曙町に駅があるのはそういうわけだ。
もう少し下流に京成押上線八広駅がある。この駅は平成4年まで荒川駅と呼ばれていた。山田洋次監督「下町の太陽」で倍賞千恵子を勝呂誉が追いかけてくる荒川土手の上にある駅だ。このあたりは墨田区八広なのだが、荒川区と間違えられるというので駅名が変更されたという。そもそもこの駅ができた頃、荒川区はまだなかった。
『世に棲む日々』は前半が吉田松陰、後半が高杉晋作にフォーカスした大河小説だ。昨年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」とシンクロする部分も多い。「花燃ゆ」は明治中ごろまで話が続く。江戸~明治をこれほど跨いだドラマも珍しい。
松陰も高杉も幕末維新に欠かせない存在ではあるが、到底ふたりだけでは語りきれない。その前後があってはじめて物語になる(黒船から大政奉還、鳥羽伏見の戦いくらいまでがひとかたまりの歴史のような気が個人的にはしている)。2大スター豪華共演的な小説ではあるけれど、よほど筆力に自信がなければ実は難しいテーマなのではないかと思う。その点ひょうひょうと書き連ねて読みものにしてしまうのが司馬遼太郎という作家の実力なのだろうが。

2016年1月12日火曜日

司馬遼太郎『花神』

暮れに下町探検隊のK隊長から、仕事納めが終わったらどこか歩きましょうとお誘いを受け、千住界隈を歩いた。
北千住駅で待ち合わせて、ゆるゆると南千住方面へ。
千住大橋を渡る。
大きな橋ではないが、アーチが美しい。上流側に水道橋、下流側に日光街道のバイパスが走っていて、遠くからその景観を眺めることができないのが残念だ。
南千住駅に出る。
小塚原回向院、延命寺、JR貨物隅田川駅を見て、大林酒場へ。反省会と称してひたすら飲んだ。
桂小五郎が吉田松陰の埋葬のためここに来たとき、腑分け(解剖)をしていた村田蔵六に出会ったとこの本には書かれている。司馬遼太郎の創作で史実ではないらしい。
千住探検の反省会以降の記憶はまったくなくなってしまったので、場所を九段に移す。40年前、靖国神社にほど近い高校に入学した。大村益次郎に出会ったのはそのときである。以来、その人がいかなる人であったか、知ることもなく時はながれた。
高校時代の友人Tは大河ドラマで「花神」を 視て、さらに司馬遼太郎も読んでいたという。こちらは何も知らない。坂本竜馬も新選組も去年読んでようやくわかったくらいである。これほどの知識量の格差があるなかで、よくぞここまでTと友だちづきあいをしてきたものだと思う。
実は『竜馬がゆく』、『燃えよ剣』を読み終えたあと次に読むなら『花神』、『世に棲む日日』、『峠』がいいとすすめてくれたのもTである。
この頃、蘭学を志すということは医学を学ぶということだったが、世の中に可及的に必要とされるのは軍事力の強化だった。医学から兵学へ方向転換していくことは自然の成り行きでもあった。西洋近代の世界を覗き見るにはオランダ語という窓しかなかった時代だ(大村益次郎よりやや時代は遡るが、高野長英もそうだった)。
とはいえ、医学も国防も近代国家の成り立ちに欠かすことのできない普遍的な学問だ。
大村益次郎は、靖国神社の真ん中に立つべくして立った人だった。