2019年6月25日火曜日

吉村昭『総員起シ』

もういちど観ておきたい映画がある。
野村芳太郎「砂の器」であるとか、オリヴィエ・ダアン「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」、山田洋次「家族」、ジョン・フォード「怒りの葡萄」などなど枚挙に暇がない。
1970年頃からパニック映画と呼ばれる大惨事や緊急事態を扱った映画が次々につくられる。その手のものはあまり好まないが、ロナルド・ニーム「ポセイドン・アドベンチャー」は唯一といっていい例外である。なんといっても映画を観ながら長い時間息を止めたのはこの映画が最初で最後だ。転覆した船から生還するために逆さまになったセットを上へ上へ、つまり船底へと進んでいく。そこに一縷の望みがある。
逃げられるかどうかわからないとしても逃げ道があるだけまだいい方かもしれない。逃げ場がない状況は恐ろしい。たとえばロン・ハワード「アポロ13」みたいに宇宙で事故なんか起っちゃうと外に逃げましょうってわけにもいかない。そのうち酸素が少なくなってきて惨事になる。こういう状況を見続けているとだんだん呼吸が苦しくなってくる。
この短編集は歴史上あまり知らされていない海難事故を吉村昭が独自の取材力で形にした記録小説集である。書名になった「総員起シ」は潜水艦事故を取り上げている。まさに息づまる作品である。似たような状況は作者のトンネルもの(『高熱隧道』『闇を裂く道』を合わせて勝手にそう呼んでいる)の落盤事故にもあった。真っ暗な地中でできるかぎり息をひそめて救出を待つ。読みながら静かに大きく息を吸う。酸素が薄くなってきたような気がする。
以前同じ作者の『長英逃亡』という長編を読んでいたときには誰かに追われているような錯覚に襲われた。息苦しくなる物語はいくらでもあるのに、どうして吉村昭の小説ばかり酸素を薄く感じさせてしまうのか不思議でならないが、読む側に与えるその感覚は記録文学に取り組む著者の誠実さが生み出した副産物なのかもしれない。

2019年6月20日木曜日

三遊亭圓朝「名人長二」

名人という呼び方は特定分野ですぐれた技芸を持つ人を指す。
囲碁や将棋の世界では最高の地位であり、称号とされているが、落語の大家にも呼ばれる。競馬騎手武豊の父、武邦彦がその昔、名人と称されていた。名人より多くの勝ち鞍を上げた騎手もいるけれど、武邦の容姿や騎乗スタイルなどが名人然としていたことによるのかもしれない。
名人というのはある分野で秀でた技芸を持つ人のことだから、総合的に高い能力などには使われないのだろう。政治家に名人はいないし、俳優や作家にもいない(たぶん)。スポーツの世界で、たとえば体操競技は個人総合と種目別にわかれている。鉄棒とかつり輪、あん馬など特定の種目に圧倒的に高い力量を発揮する選手をときどき見かけるが、名人とは呼ばず、スペシャリストと普通の呼び方をされる。名人には和の雰囲気が感じられる。競馬のジョッキーを名人と呼ぶのに多少の違和感を感じるのはそのせいかもしれない。騎手を名人と呼ぶのがいけないと言ってるわけじゃない。よくぞ武邦彦を名人と呼んだものだと当時のマスコミに感心しているのである。
「抜け雀」という落語にも名人が登場する。さんざん呑んで、払えぬ宿代のかわりに絵を描いて帰る。その絵が評判を呼ぶ。そんな噺。左甚五郎の「竹の水仙」もそうだが、名人(というよりこの場合は名工といった方がいいか)の噺は多く、興味深い。
古今亭志ん生の動画がYouTubeにあって、通しで聴いてみた。全部で2時間以上ある。落語というより、芸術だ。書きものがあると聞いてさがしてみたら、青空文庫になっていた。
名人の仕事は後世に遺る。「素人には分からねえから宜いと云って拙いのを隠して売付けるのは素人の目を盗むのだから盗人も同様だ、手前盗人しても銭が欲しいのか、己ア仔様んな職人だが卑しい事ア大嫌いだ」と言ってつくった書棚を打毀す長二。
長二の生き様を通じて、名人ということばが響く。意気でいなせでいざぎよい。

2019年6月11日火曜日

吉村昭『プリズンの満月』

職業に貴賤なしという。
これは昔のある思想家の教えで、士農工商という階層は社会的な職務の違いであって、人間の価値とは関係がないという、そんな意味だ。落語などを聴いていると、なんとなくわかってくる。
価値的に貴賤はないだろうが、見た目のイメージとして硬軟はありそうな気がする。マスコミ関係はどこからどう見ても柔らかいし、公務員というとどこまでも硬そうだ。
ある講演で吉村昭が語っていた。
刑務官の方たちに取材していたとき(『破獄』の取材だったとか)、サインを求められた。私も人間だから何があるかわからない、もしお世話になるようなことがあったら、ときどき部屋に呼んでもらって煙草をわけてもらいたい、約束してくれたらサインをする、みたいなことを言った。刑務官はしばらく考え込んだあとで「じゃあ、諦めます」と言った。そして吉村昭はサインに応じた。もしそんな約束をしてくれたのなら、私はサインなどするつもりはなかった、と言いながら。
刑務官という職業の人がすべてそうとは言い切れないだろうが、この本に出てくる刑務官はとても真面目な人で、決してテレビのくだらないバラエティ番組なんぞ視ないに違いないし、相当かみ砕いて冗談を言わないと本気にされてしまいそうな気がする。もちろん実際にどうかはわからない。たまたま吉村昭に取材された刑務官が真面目一本やりだっただけかもしれない。なかにはビールを飲みながらお笑い番組を視て、品のないギャグに笑い転げている人もいるかもしれない。あるいは刑務官という職業の崇高さを際立たせるために筆者が過剰なまでに脚色したと考えられなくもない。
いずれにしても刑務官という人に僕は会ったことがない。吉村昭という小さな窓を通して眺めるしかない。それは刑務官に限らず、養蜂家だって、大間の漁師だって、奄美大島のハブ獲り名人だって同じことだ。ふりかえってみればこの作者にはたいへんお世話になっているのである。

2019年6月6日木曜日

村上春樹編訳『セロニアス・モンクのいた風景』

2014年3月半ばの週末。安西水丸の仕事場に一本の電話がかかる。
村上春樹からだった。来週あたり久しぶりに青山でお昼でも食べましょう、食事でもしながら(その年の夏に刊行予定の単行本の)打ち合わせでもしましょう、という内容だった。もちろん本当かどうかはわからない。僕お得意のつくり話である。
その週末、安西水丸は鎌倉のアトリエで帰らぬ人となる。
事務所の女性と家族以外で安西水丸が最後に会話をしたのは村上春樹だったかもしれない。もちろんつくり話だけど。
1990年代の終わりか2000年代がはじまったばかりの頃か、南青山のバーのカウンターで村上春樹を見た。隣でパイプをくゆらせていたのは安西水丸ではなかったか。もしかしたらどこかの編集者だったかもしれない。バーの夜にしては比較的はやい時間に席をたち、その一行は帰って行った。その頃、彼が日本にいたかどうかも定かでない。村上春樹は小柄な中年男で顔が村上春樹でなかったらおそらく誰も気が付かなかったに違いない。店内にはいつものようにジャズのCDがかかっていた。
2016年、東京練馬のちひろ美術館で「村上春樹とイラストレーター」というイベントが開催された。村上春樹が安西水丸に装幀を依頼していた本がこの本だと遅ればせながら知る。その「あとがき」がパネル展示されていた。モンクにハイライトをねだられた安西水丸、その仕事を引き継いでくれた和田誠(ハイライトのパッケージをデザインしたのも和田誠だ)。そんなエピソードが書かれていた。
ふだん仕事をしながら音楽を聴くけれど、ジャズは苦手なジャンルだった。ジャズは用語が難しい。それでもいつかこの本をちゃんと読んで「あとがき」にたどり着かなくちゃと思っていた。
セロニアス・モンクのアルバムを聴きながら読み終えた。青山のバーでよく流れていたのはたぶんモンクだったに違いない。カウンターに並んでいた村上春樹と安西水丸が目に浮かぶ。

2019年6月4日火曜日

ビートたけし『間抜けの構造』

2000年の7月だったと思う。アメリカのテキサスに3週間ほど滞在していた。
メキシコで撮影し、サンアントニオのコンピュータグラフィックス会社でC.G.をつくり、コンポジット(実写映像とC.G.の合成)して帰ってくるという仕事。今ならC.G.のデータのやりとりなどはネットを通じてできるが、当時は高速回線に恵まれていなかったのだろう。コンピュータグラフィックスにしてもハードウェアのスペックが今ほどではなかったのでずいぶん待ち時間が長かったように記憶している。
というわけで撮影、現像、仮編集と、そこまでは連日忙しかったが、C.G.のチェックとなるとほぼ待ち時間になる。することもなく、観光したりする。アラモ砦を見たり、サンアントニオ川沿いの遊歩道を歩いたり、シーワールドでイルカのショウを見たり(どうやって大量の海水をテキサスに運んだのだろう)。独立記念日には近くの(といっても車で2~3時間)広場でウィリー・ネルソンのコンサートを見たり。
ステーキはとっくに飽きて、ありとあらゆる日本料理店をまわった。日本料理といっても、寿司と中華料理と焼肉を供する和食という名の東洋食だ。3週間は長い。
あるとき、プロデューサーとコーディネーター(現地の案内役件通訳)の3人で日本に帰ったら最初に食べたいものは何かなどといった妄想がかった話題で盛り上がった。どこそこのうな重だとか蕎麦だとかいろいろ出てきたのだけれど(これってある種囚人の会話に近い)、満場一致圧倒的多数で支持されたのが銀座共楽のラーメンだった。
共楽は3年前にビル建替えのため長い休業に入ったが、つい先日リオープンした。プロデューサー氏が成田に着いたらタクシーを飛ばして直行したいと言っていた共楽である。
間抜けとは間の悪い人であり、間を見きわめることが難しいことだという。
プロデューサー氏は間の悪いことにトラブルに巻き込まれ、帰国が1日遅れてしまった。