2020年12月31日木曜日

ウジトモコ『これならわかる!人を動かすデザイン22の法則』

デザインには関心がなかった。
広告の仕事をするようになってはじめて大学でデザインを専攻した人ってたくさんいたんだと知る。テレビコマーシャルの仕事が多かったので、たとえばタイトルを映像に載せる場合もなんとくこんな感じがかっこいいとか、あっちの書体よりこっちの方がコピーの内容としっくりくるねとか、なんの基礎も教養もないスタッフとして接してきた。
20代最後の年に小さな広告会社に移って数年、グラフィック広告にもたずさわるようになった。見よう見まねでサムネイルを描いたり、グラフィックデザイナーが手いっぱいのときは版下をつくったりもした。
ふたたび映像制作会社に戻る。他に人もいないので会社の求人広告や年賀状、名刺などのデザインを頼まれる。気がつけば年賀状など20年以上も続けていた。
デザインの基本は無駄のないビジュアルだと思う。スティーブ・ジョブズはデザインとはもののしくみだと言っていたそうだが、わからないでもない。あれもこれもと、アメ横のお菓子屋さんみたいに詰め込んでみたところで、そのお客さんはよろこぶだろうが、世間にぽんとほおり出されたビジュアルはたいてい無視される。
僕も個人の嗜好としては意味があまり感じられない装飾などを嫌う傾向があるので、著者の言わんとすることはよくわかる。さりとて世のグラフィックデザイナー諸氏は、すべてがワンヘッドライン、ワンビジュアルといったシンプルでかっこいい仕事にめぐまれているわけではない。あれやこれやと意味のない情報を入れろ、文字を大きくしろ、太くしろ、濃くしろと言われ続けている方が圧倒的に多いだろう。
ポリシーの異なるA案、B案、C案を提案したとき、この三つをひとつにした案にしてくれという経営者もいる。デザインのことより、あなたの会社が心配になる。
さて、たいへん勉強になった一冊だが、タイトルに「これならわかる!」の一文を加えたことがたいへん惜しいと思う。

2020年12月30日水曜日

穂村弘『にょにょっ記』

年末の、一般的にはあわただしいなか、小中で同級生だった石羽紫史からLINEが届く。
「突然ですが」
こんな時期にこんな書き出しのメッセージにはろくなものがない。
やはり同級だった大野雪絵の訃報だった。
大野とは中学に入ってから同じクラスになったことはなく、小学生の頃もさほど話をした思い出もない。僕にとっては名もなき同級生であり、おそらく彼女にとってもそれは同様だったろう。7~8年前だったか、通っていた小学校と中学校、そして周辺の学校も統合されて、新たに小中一貫校ができた。たしかその年に同期会が開かれて、地元の居酒屋に何人か集まった。そのときことばを交わしたけれど、はじめて会話をしたような感じだった。
その2年くらいあとで、母が地元の大学病院に入院して手術をした。
「大野さんって知ってる?おまえの同級生だっていうんだよ」
術後、母から聞いておどろいた。大野雪絵はその病院でヘルパーとして働いていたのである。
患者のデータ、たとえば住所や保証人の名前を見て、僕の母だとわかったのだろう。入院中はずいぶんと声をかけてもらい、励ましてもくれたにちがいない。
前回読んだ『にょっ記』に続いて続編を読んでみる。
なんでもないようなことをひけらかすのではなく、なんでもないように描いている。おもしろい。どんなふうにおもしろいかというと腹を抱えて笑いころげるようなおもしろさではない。遠赤外線の暖房器具のようにおもしろい。こういうおもしろさこそたいせつにしたい。どうやら続々編もあるようだ。
通夜は大田区の海に近い斎場で営まれた。父を送ったところでもあり、訪ねるのはそれ以来ということになる。東京モノレールの駅からずいぶんと歩く記憶があったが、数分でたどり着いた。大野は祭好きで、町会の神輿を毎年担いでいたという(今年は残念ながら中止なったと聞いている)。石羽もその仲間であるらしい。そろいの半纏を来た人が大勢列をつくっていた。

2020年12月17日木曜日

穂村弘『にょっ記』

ついこないだまで暑くて暑くて仕方なかったのに、気がつくと急に寒くなっている。
昼間は陽あたりのいい場所で仕事をしているので天気さえよければ堪えられる。夕方になると暖房を入れる。それでも寒いので自衛手段として厚着をする。シャツを2枚重ね、セーターを着て、ウインドブレーカーを着て、ライトダウンを着込む。ちなみに今日からタイツも履いている。
明治生まれの祖母センは、ずっと千葉県南房総市千倉町の白間津という集落に住んでいた。当時は千葉県安房郡七浦村白間津。関東大震災も、先の大戦も、明治大正昭和のあらゆる歴史を白間津で経験した。
最晩年、目を患って東京の伯父の家に連れてこられた(このことは前にも書いた気がする)。
祖父は戦後すぐに病死している。5人の娘が嫁いで、長嶋茂雄が栄光の巨人軍に入団した昭和33年、叔父(次男)が高校進学のために上京する。それからおそらく20年近く、ひとり暮らしを続けてきた。
あるとき、伯母に出かける用事があって、母が留守番がてら祖母の世話をしに、伯父の家を訪ねる。こたつに入って、ぼんやりしているのもなんなので母は、祖母をお風呂に入れようと思い立つ。祖母もそうだったらしいが、母も無為に時を過ごすことは損だと思っている。湯を沸かし、浴室まで連れていく。着ているものを脱がそうとしたら何枚も何枚ものシャツを重ね着していたという。お風呂に入れるより、入れるまでがたいへんだったと母が笑いながら話していたのを思い出す。
慣れない東京。息子の家で世話になっているのが心苦しく、せめて風邪などひくまいと思っていたのかもしれない。昨日風呂に入るとき、何枚も何枚も重ねて着ていたシャツやセーターを脱ぎながら、祖母を思い出した。
穂村弘という著者をまったく知らなかったが、角田光代がおススメするので読んでみた。
ちょっとした発見がうれしい。どうでもいいようなことを思い出させてくれるところがうれしい。

2020年12月12日土曜日

井村光明『面白いって何なんすか!?問題 センスは「考え方」より「選び方」で身につく』

井村光明という名前をおぼえている。どこかで会ったこともあるかもしれない。ないかもしれない。
1993年だったか、94年だったか、僕はある食品メーカー(納豆をつくっている会社だった)のテレビコマーシャルをつくった。CMはそこそこ話題になり、新聞や雑誌で取り上げられ、ちょっとしたヒットCMになった。今回は大きな広告賞でも獲れるのではないかとも思った。国内有数の広告賞の一次選考を通過したという情報も耳にしていた。今はどうなっているかわからないけれども、当時、大きな広告賞は業種ごとに部門分けされ、各部門のなかで高い評価を受けた作品が入賞作品として表彰される。そして各部門の入賞作品のなかから大賞であるとか、グランプリであるとか、その年の代表作が決定する。
僕がエントリーしたのは食品部門。食品というジャンルは景気がよかろうが、わるかろうが広告を発信しなければ商品の売れ行きに大きく影響する。特にナショナルクライアントと呼ばれる大手は次から次へとCMを制作し、オンエアしている。ただでさえ競争のきびしい部門である。そんななかで入賞でもしたら、これはすごいことだと想像するだけでわくわくしたのをおぼえている。
結果的には、残念ながら大きな賞をもらうことはなかった(小さな賞には入賞したけれども)。その年の食品部門にはもっとすごいCMがあったのだ。
お腹を空かせたサッカー少年が家に帰ってくる。母親は簡単にできるレトルトカレーを手ばやく供する。カレーを食べた少年は、当時の人気サッカー選手ラモス(ラモス瑠偉=ブラジル出身、ヴェルディ川崎の中心選手)に変身する。永谷園のJリーグカレーのCMである。Jリーグがはじまって、サッカー人気が沸き起こっていた時流にも乗ったし、アイデアもシンプルで素晴らしかった。
大きな広告賞の食品部門はあらかた、このJリーグカレーだった。そしてこの作品の企画を考えたのが井村光明であった。

2020年12月10日木曜日

佐野洋子『役にたたない日々』

井伏鱒二の『荻窪風土記』は名著だと思う。
昭和のはじめ。駅の乗降客も少なく、あたり一面田畑だった時代の荻窪が描写されている。かつては田園風景のひろがっていたこの一帯も今では見る影もないほど変貌を遂げている。
佐野洋子も荻窪に住んでいたらしい。もちろんそんなことは知らなかった。佐野洋子という人もだ。先日読んだ角田光代の『私たちには物語がある』でたいそうおもしろい本を書く人だと知って、手にとってみたのである。
荻窪駅北口に出て青梅街道を渡ったところに教会通り(井伏鱒二の時代は弁天通り)と呼ばれる商店街がある。昔からずっとある店もあるが、様変わりした店も多い。駅の方から北に向かって200メートルほど行くと右に曲がる。その角にS青果店がある。S青果店のおやじさんは、そうかセロリが嫌いで、だから店にも置いていなかったのかなんて話は相当おもしろい。八百屋の向かいにはMという鶏肉店があった。著者はスープをつくりたくて、鶏ガラをわけてもらおうと店主に声をかけるが断られる。
M鶏肉店はお店を閉めてしまったけれど、唐揚げとか焼き鳥とかうまかったなあ。
行ったり来たりするけれども、少し駅の方(つまり南)に戻ったところにKという文房具店がある(S青果店もM鶏肉店も本書のなかでは店の名前までは明かされていないが、だいたいわかる)。偏屈な店主が店番をしている。商売人としてあるまじき態度で難癖をつけられた著者は不快な思いをするが、不思議なことにその店主に好意を抱いてしまう。
家内は中学生の頃からずっと荻窪だったので、教会通りの文房具店のおやじってヘンなの?と訊ねたみたら、おじさんもヘンだったけどおばさんも相当ヘンだったという。僕はいちどもお店に入ったことがない。いちど訪ねてみたいと思った。おじさん、おばさんはまだいるのだろうか。
それにしても佐野洋子おそるべし。この本は平成の『荻窪風土記』である。

2020年12月4日金曜日

角田光代『私たちには物語がある』

もう新しい本を読むこともないかとときどき思う。
昔読んでおもしろかった本やよくわからなかった本をもういちど読むほうが楽しいような気がしてくるのである。今さら『失われた時を求めて』を読むのなら『ジャン・クリストフ』をもういちど読んでみたい。行ったことのない町を訪ねるより、以前歩いた道をもういちどたどりたくなる、そんな気分。
最近、一冊読み終えると次は何を読もうか、電子書籍のサイトの前でぼおっと考えることが多い。知らないうちに吉村昭、山本周五郎、獅子文六など、いつもの検索ワードを打ち込んでいる。
ときどき仕事で絵を描くけれど、人が絵を描くのを見るのが好きだった。顔の輪郭を描くのに僕は頭のてっぺんからくるりと円を描くけれども、あごから描きはじめる人を見たりするととても新鮮に感じる。円を描くのが右回りなのか、左回りなのかも気になる。同じように人が読む本というものに興味がある。コロナ禍の緊急事態宣言の頃、SNSで「七日間ブックカバーチャレンジ」というイベント(イベントっていうのかな)で静かに盛り上がっていた。心に残った本の表紙を一日一冊、七日間紹介するというもの。知らない本も多かったが、へえ、この人はこんな本を読んでいるのかと楽しみながらながめていた。
読みたい本が見つからないとき、よく読書案内的な本を開いた。思い出せるのは関川夏央『新潮文庫20世紀の100冊』村上春樹『若い読者のための短編小説案内』である。もっと読んだかも知れない。思い出せないものは思い出せない。
角田光代の小説は少ししか読んでいないけれど、『対岸の彼女』とか『キッドナップ・ツアー』などが記憶に残っている。読書家でもあるらしい。読みたい本をさがしてくれるかもしれないと思って読んでみる。
かくして興味深い本が何冊も見つかった。全部読むかどうかは別にして、大いに初期の目的は果たした。
見知らぬ町の書店に立ち寄ったような気分である。

2020年12月2日水曜日

安西水丸『青の時代』

1977年にブロンズ社から『安西水丸ビックリ漫画館』という本が出版されている。当時彼は漫画雑誌「ガロ」やサブカルチャー雑誌「ビックリハウス」に漫画を載せていた。
『青の時代』は1980年に青林堂から出ている。この80年版を持っていたのだが、どこかにいってしまった。後に買ったのは87年版で装丁が少し違う。70年代から80年にかけての安西水丸を僕は新進気鋭の漫画家だと思っていた。
82年に松任谷由実のアルバム「PEARL PIERCE」が発売される。歌詞カード(ブックレットと呼ぶらしい)に描かれていたイラストレーションを見て、そしてその翌年だったか、書店で見た村上春樹の短編集『中国行きのスロウ・ボート』の表紙イラストレーションで安西水丸はメジャーなイラストレーターになったのだと知る。
その後もシュールな4コマ漫画を描き続けたけれど、この80年代はじめ以降、安西水丸は水丸ワールドを確立し、確固たる地位を築いていく。そういった意味からすると彼の“漫画家”時代の著作、特に南房総千倉で過ごした幼少時代と赤坂丹後町から護国寺の高校に通っていた青春時代が描かれている本書は貴重な史料だ。
千倉町の風景は暗く描かれている。陽光にめぐまれた太平洋の青々とした海原も、5人の姉もみな嫁ぎ、母とふたりで暮らしていた寂しい少年の目からは深い青色だったのだろう。中学卒業と同時に上京し、高校生活をスタートする。慣れない東京で、友だちもいなかった。
四谷荒木町に叔母がいた。長唄の師匠だったというが、くわしいことは知らない。その家か、その近所に同い年の少年がいて、10代の水丸の唯一の友だったとどこかで聞いた気もするが、くわしいことは知らない。
安西水丸のイラストレーションの特徴は、シンプルな線と透明感であるとよく言われる。しかしその絵のずっと奥の方には海の底のような深い青の時代が隠されているような気がしてならない。