2012年7月7日土曜日

小倉広『自分でやった方が早い病』


都内の地図を見ていると気になる場所がいくつかある。
気になるというのは行ってみたい、歩いてみたい思える場所のこと。そのひとつが港区、渋谷区、品川区、目黒区が複雑に入り組んでいるあたり。住所でいうと港区白金台五丁目、渋谷区恵比寿三丁目、品川区上大崎二丁目、目黒区三田一丁目。実際に歩いているとめまぐるしく住所が変わる。たいていの区境は道とか河川で線引きされていると思っていたが、案外そうでもなく、目黒区のアパートの隣のマンションが品川区だったりするのだ。区境には区境たるなんらかの理由があるはずで、そんなことを考えながら歩くのもわるくない。
以前、港区の二本榎という地名の名残をさがしに高輪の商店街を歩いた際、少し足を延ばして都営地下鉄の高輪台駅から港区品川区の区境を歩いたことがあった。北側が白金台二丁目、三丁目。南側が東五反田四丁目、上大崎一丁目。やや入り組んだこの区境はちょっと神秘的な道のりだった。港区はかつての東京市の南端で品川区は市下郡部北のはずれ。まさに東京市のエッジだった。
『自分でやった方が早い病』とはなかなか耳の痛いタイトルである。
組織のリーダーたりうるものは部下に任せてることで己を成長させていかなければならないというわけだ。新書ということもあって深くつっこんだ内容にはなっていないが、くわしくは『任せる技術』を読んでくださいってことかも知れない。読んでいて中竹竜二の“フォロワーシップ”にも似た内容であると感じた。なんとか病などと病気呼ばわりするよりも(もちろんその方が目立つし、売れるだろうが)フォロワーシップの方がスマートでいい。
そういえば恵比寿という地名は比較的新しいもので恵比寿麦酒の工場から駅名が恵比寿となり、そのうちに町の名前まで恵比寿にされてしまった。古い地図を見ると山下町、新橋町、豊沢町、景丘町、伊達町となっている。なかなか風情があるではないか。

2012年7月4日水曜日

高峰秀子『にんげんのおへそ』


神経質でも几帳面でもない。
たいてい出したものは出しっぱなし。そこらに置いたものが積みかさなって、そのうちさがしものをはじめる。そういう人間であるにもかかわらず、妙に気になることもある。
たとえば文章がそうだ。書類などでいったん「あんしん」と書いたら、最後まで「あんしん」じゃないと安心できない。と、こういうことが気になって仕方ないのだ。ここは「あんしんできない」だろうと思うのである。別に誤字脱字ではない。意味も通じる。たださっき開いてたのに、なんで後になって漢字になっているのか、そこだけ漢字で表記するのは何か深い意味でもあるのだろうか。そんなことを考えてしまうのである。実にくだらない考えである。
それと“「」”や“『』”の使い分けなども悩む。本のタイトルは“『』”を使う。映画や歌の題名、小説でも短編は“「」”を使う。
広告の企画などでは商品名に“[ ] ”を使うこともある。“【】”も表題の内容をあらわすのに使う。たとえば【ねらい】とか【参考資料】のように。“《》”はたまに使うが、“<>”はあまり使わない。ひらがなの“く”とごっちゃになるおそれがあるからだ。と、ここでひらがなは“ひらがな”か“平仮名”かで、ちょっと悩む。
学校にも通うことなく、ひたすら女優として生きてきたために教養面でコンプレックスを持っているという高峰秀子だが、文章の着眼点や率直な語り口など、文筆家としてもすぐれた才能を発揮している。昭和という時代に思いを馳せるとき、彼女の小文はなつかしくて新しかったその時代を巧みに描きだしている。
ここで“巧みに”を漢字にするか、ひらがなにするかまた思い悩むのだが、常日頃そんなことばかり考えているのかいえばそうではなく、たまたま今(実は“今”と“いま”はいつも悩みながら混在させることが多いのだが)、思いついただけでたぶん1時間後くらいには忘れている。神経質でも几帳面でもないのだ。

2012年7月3日火曜日

三浦しをん『舟を編む』


仕事場のアシスタントプロデューサーNとの会話。
「三浦しをん、読んだことあります?」
「三浦朱門?読んだことないな。曾野綾子もない」
と、はなっから噛みあっていない。
「三浦しをん、ご存じないですか?『舟を編む』って本、いま売れてるんですけど」
と、そこまで言われて、書店に平積みされているその本を思い浮かべた。
「へえ、おもしろいの?どんな話?」と訊ねる。
「辞書をつくる話なんですよ」と、N。
「そういえば、ち、ち、地図をつくりたいって男が『ノルウェイの森』に出てきたよね。突撃隊だっけ?」
「わたしは『ノルウェイの森』読んでいないのでわかりません」
と、噛みあわぬまま話が途切れてしまった。ただ『舟を編む』という題名がおもしろそうだったので機会があれば読んでみようと思った。
考えてみれば、仕事で作成する資料や書類だって、表記誤たず、できるかぎり正確にこちらの意図を伝えることが難しいのに、一冊の書物ならともかく、辞書をつくるなんて気の遠くなるような話だ。もちろん玄武書房の『大渡海』も十数年の歳月をかけて上梓される。ちょっとした辞書編纂年代記である。
言葉は生き物だ。時代とともに意味や使い方が変化してくる。生きている言葉と対峙する人間の姿がおもしろい。松本先生にしろ、荒木にしろ、馬締(まじめ)にしろ、どう考えても生き生きした生身の人間ではない。辞書に取りつかれた変人たちだ(彼らをいっそう変人たるべく設定された“ふつう”の若者たちが西岡であり、岸辺であろう)。こうしたむしろ、真っ当に生きていない人間たちが徐々に辞書に生かされていく、生を吹き込まれていく、人間を取りもどしていく。まさにそんな物語だ。
会話は噛みあわなかったものの、Nから聞いた「辞書をつくる話」に対して、当初難解でストイックな純文学的世界を想像していたわけだが、読んでみるときわめて明るく楽しい現代ドラマでほっとした。最近の作家はややもすれば重苦しい題材を実にたくみに料理するものだと思った。