2023年1月29日日曜日

浅田次郎『珍妃の井戸』

アテネ五輪卓球男子シングルスの決勝は韓国の柳承敏対中国の王晧だった。
日本で実況するとユスンミン対オウコウということになる。実際の実況をおぼえていないのでたしかにそうアナウンスされたかどうかわからない。ただ日本では韓国の人は韓国語読みするのに対し中国人の場合は日本語読みする。リュウショウビン対ワンハオとはならない。韓国の呉尚根はオサンウン、朱世赫はチュセヒョクであり、中国の馬龍はマリュウ、張継科はチョウケイカであって、マロン、チャンジイカではない。どうしてなのかは知らない。
浅田次郎の『蒼穹の昴』シリーズを読んでいる。タイトルは『珍妃の井戸』(チンピのいど)だが、文中で珍妃はチェンフェイである。李鴻章(リイホンチャン)や袁世凱(ユアンシイカイ)など歴史上の人物はすぐにおぼえるが、途中でルビが省略されている人物などは前のページに戻って確認したりなどする。少し手間のかかる読書である。
そういえば山崎豊子の『大地の子』では主人公は陸一心。ルーイーシンであり、リクイッシンであった。中国側の登場人物も中国語読みのルビがふられていて読むのに苦労した記憶がある。当時すでに小さい文字が辛くなっていたのである。余談になるが、もし僕が中国残留孤児になるとしたら、やっぱり陸徳志のような養父に育ててもらいたいと思っている。
『珍妃の井戸』を読み終える。
この作品は『蒼穹の昴』の続編ともいえるし、サイドストーリーともいえる(むしろこの本から読みはじめた読者は理解できるのだろうか)。人の記憶はなんとあやふやで頼りないものなのか、そしていかに自分に都合よく再構成してしまうものなのか。おどろきの中国人は、中華思想のもとに生まれ育っているから、やはりそうなってしまうのか。ただ、ここに登場する証言者は誰ひとりとして嘘をついていないと僕は思っている。
さて次に読むのは『中原の虹』。張作霖はチャンヅオリンと読むらしい。

2023年1月27日金曜日

井上ひさし『新釈 遠野物語』

映像やゲームの世界ではVR(バーチャル・リアリティ=仮想空間)技術はごく当たり前のものになっている。体験するにはVRゴーグルまたはVRヘッドセットが必要になる。小型の双眼鏡を顔に固定するイメージである。千円台のものから数万円、十数万円までさまざまなタイプがある。驚くべきことにダイソーなど100均の店にも置いてある(機能的にはそれなりなんだろうけれど)。
VRで視聴する映像というか空間は、当然のことながら日常ではあまり体験できない世界になる。飛行機のパイロットになって空を滑空するとか、ダイビングで海中散歩するなどである。行ってみたいけれどなかなか実現できない世界の秘境を訪れる旅体験なども可能だ。
こうした映像技術はつい娯楽、エンターテインメントの視点からとらえられがちだが、産業、医療、福祉、教育など広い分野で応用可能だと考える。世のため人のためになるVRは魅力的だ。
産業分野では都市の再開発や交通インフラの拡充をよりリアルな姿でシミュレーションができるだろう。医療分野では高い技術力を必要とする外科手術のVRトレーニングを模索している企業もあると聞く。医療以外でもトレーニングが難しく危険を伴う工場や設備のメンテナンスなどでVRは有効だ。実際の店舗をVR上に再現し、仮想空間のなかでショッピングを楽しむなどという使い方も模索されている。
新型コロナウイルス感染拡大は学校教育にも影響を及ぼした。学校行事の相次ぐ中止。なかでも修学旅行の取りやめは残念だったことだろう。もう少しVR技術が普及していれば、多くの学校でVR修学旅行が可能だったに違いない。それはそれで味気ないが。
VRの技術があれば、ゴーグルのなかに山人や河童、天狗などを再現することも可能だろう。この本を読んで強く思った。狐にまんまと騙される体験など、なんと楽しいことだろう。もちろんその際のVRゴーグルは馬のお尻のカタチであるといい。

2023年1月24日火曜日

橋爪 大三郎,大澤 真幸,宮台 真司『おどろきの中国』

浅田次郎の『蒼穹の昴』はたいへんおもしろい小説だった。続編もあるというので楽しみにしている(次に読むのは『珍妃の井戸』だ)。
清朝末期の政変が舞台となっているが、そのあたりの詳しい歴史は知らない。そもそもが中国のことをよく知らない。ただでさえ、清朝末期の歴史は複雑でわかりにくい。列強との小競り合いがあり、内乱があり、新国家建設のための革命が起こる。ウィキペデアで読んだだけではちょっとやそっとじゃ理解できない。どうせなら浅田次郎を読みながら学ぼうと思った。楽しみながら苦手な歴史を学ぶのだ。なかなかいい思いつきではないか。
中国の歴史小説を読んでいくついでに昔読んだこの本をもういちど読み返してみようと書棚をさがしてみた。見つからない。読書メーターによれば2013年3月に読み終えている。
中国という自己中心的な国家が歴史的にどう形づくられ、今に至っているかを識者が解き明かすといった内容だったと思う。この本自体は10年前に上梓されている。今の中国の状況とは多少異なるが、やがて中国が強大な国家として世界に君臨するという想定の上で議論されていたと思う。などと憶えているようなことを書いてはいるが、再読したわけではない。10年前に読んだというあてにもならない記憶を綴っているだけである。なんとも情けない話である。
情けないといえば、年頭、岸田首相が記者会見を行った。賃上げを実現したい。(政府もそのための施策を検討するのだろうが)経済界にも物価上昇率を上回る賃上げの協力をお願いしたいということを語っていた。賃上げを実現するために企業の方々に賃上げをお願いするという無策な会見にびっくりした。経済界が、中小企業も含めてすべての企業が賃上げを実現できるような環境をつくるのが一国の首相の務めなのではないか。経済界にお願いすればほいほいとできてしまうのか、賃上げって。
おどろくべきはお隣の国ではなく、わが国である。

2023年1月15日日曜日

浅田次郎『蒼穹の昴』

このところ本を読むことで自分の無知・無教養を知ることが多い。情けなくなる。
浅田次郎は『鉄道員』で直木賞を受賞し、世に出た作家だと思っていた。それ以前に『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞を受賞しており、『鉄道員』の前年に『蒼穹の昴』で直木賞の有力候補者になっていたのだ。知らなかった。
歴史は好きで、日本史も世界史も人並みに興味を持ってきたつもりではいる。19世紀末、清は立憲君主国をめざして、日本でいえば明治維新のような近代化が推し進められる。日清戦争に敗れ、欧州列強諸国がますます勢いづいてきた頃のことである。光緒帝と組んだ改革派(変法派)と西太后率いる保守派が対立し、改革派は追われることになる。戊戌の政変というらしい。へえ、そんなことがあったの?と思う僕は実に不勉強であったと飽きれるばかりである。かろうじて名前のわかるのは李鴻章、袁世凱か。
この作品は、戊戌の政変にかかわった人物を描いていく。もちろん創作であるがたいへんおもしろく読んだ。これだけ中国の歴史に疎い僕がそういうのだから間違いない。これから読んでみたいなあと思う方々にはぜひおすすめしたい一冊である(文庫だと四冊であるが)。
2010年にこの作品はテレビドラマ化されている。そういえばそんな番組あったなあと思う。西太后を演じていたのは田中裕子だった。無教養な人間の海馬にはその程度のことしか残されていない。情けないを通り越して、哀しい。
『蒼穹の昴』には続編があるようだ。『珍妃の井戸』『中原の虹』がそれである。その先もまだあるらしい。ちょっとした連作大河小説だ。
魅力的な登場人物にも出会えた。梁文秀と春児である。彼らの行く末も気になるところでもある。恥のかきついでにもう少し先まで読んでみよう。
このシリーズを読み終えたらベルナルド・ベルトリッチ監督「ラストエンペラー」をもういちど観てみたい。きっと新たな発見があるはずだ。

2023年1月11日水曜日

柳田国男『遠野物語・山の人生』

子どもの頃、母から聞いた話。
母の実家は南房総千倉町の西端、白間津という集落にあった。白間津を越えると白浜町になる。乙浜という漁港のある集落である。白間津の東には大川という集落があり、さらに東の千田という集落で七浦という村を構成していた。白間津は七浦村のはずれであり、千倉町のはずれであった。
白間津と大川の境界あたりは以前は人家に乏しく寂しい地域であった。少し小高いところには洞穴があって、シタダメの貝殻が多く残されていた。シタダメというのはこのあたりでよく食されていた小さな巻貝でおそらく方言なのだろう。正式な名前は知らない。
母がいうにはこの洞穴に手長婆さんという老女が棲んでおり、夜になるとそこに座ったまま長い手を伸ばして磯から貝を取っては食べていたという。ちょっと怖い話でもあるが、おもしろい言い伝えがあるのだなと思ったものだ。と、思っていたら、南房総市のホームページに「南房総にまつわる民話」に紹介されていた。ずっと昔から手長婆の話はあったのである。母の話では残されていた貝殻はシタダメであるが、これを読むとアワビやサザエの貝殻がたくさん出てきたと書いてある。母に聞いた手長婆より、もう少し手が長く、美食家だったのかもしれない。
こんなふうに語り伝えられた話は日本全国、いや世界じゅうにあるだろう。文字にされていなかった語り伝えの物語を顕在化させた柳田国男は偉大だなあと思う。その仕事はいわば物語の考古学だ。かなりの量が発掘されてはいるのだろうが、時間という地層の中に埋もれている話もきっと多いことと思う。
そういえば高校時代の友人川口洋二郎は大学卒業後出版社に勤めている。以前は文庫の編集長だったが、その後柳田国男全集の編纂を担当すると言っていたような気がする。もしかしたら柳田邦男だったかもしれない。柳家小さんだったかもしれない。まあ、またそのうち会うだろうからそのときにでも訊いてみよう。