2024年4月21日日曜日

長谷川四郎『九つの物語』

東京の桜はビークを過ぎて、葉桜となる。少し寂しい。
若い頃は歳をとった後の生活をイメージできなくて、大江健三郎や太宰治の全集を買い揃えたり、これは老後にもういちど読むぞと思い、捨てずに文庫本を残しておいた。とてもじゃないが、字の小さい本は今となってはお手上げだ。目測を誤った。
最近は昔読んだ本を読みかえすことを主としている。キンドルで無料の夏目漱石や芥川龍之介など。去年、半年近くかけて読み直した『ジャン・クリストフ』も無料だった。
こないだソファの肘掛に古い本が置いてあった。長谷川四郎『九つの物語』である。長女がどこかの古書店で見つけたのだろう、百十円という値札が付いていた。刊行は1980年だ。装幀は安野光雅。とても魅力的な本に仕上がっている。娘はこうしたいいものを見抜く力を小さい頃から持っていた。せっかくなので読んでみる。
時代も場所も特定できない九つの物語が並んでいる。強いて言えば東京の下町か、あるいは多摩川沿いの武蔵野かもしれない。いずれも心を穏やかにする小品である。著者も心穏やかに書いたに違いない。九つの物語というタイトルから想像したのは、J・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』である。もうすっかり忘却の彼方に消えた本を思い出させたのは単にタイトルの類似によるのだろう。サリンジャーは第二次世界大戦でノルマンディー上陸作戦に参加していた。先日、NHKの「映像の世紀」で紹介されていた。それで思い出しただけだ。
20代最後の年に広告会社に転職した。クリエーティブという部門である企業のPR動画を制作していた。そのカメラマンが長谷川元吉だった。映画やCMの世界ではベテランだった。この本を読んで長谷川四郎について少し調べてみた。元吉は四郎のご子息であった。残念ながら、お話しする機会はなかった。
長女がどこかから拾ってきた一冊の書物からの古い記憶を辿ることができた。

2024年4月14日日曜日

安西水丸『水丸劇場』

横浜に行ったのは2019年5月以来だと記憶する。
以前読んだ北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語』に取り上げられていた昭和33年の東芝日曜劇場「マンモスタワー」を視たいと思い、横浜の放送ライブラリーを訪れた(おそらくここでしか視聴できないはず)。
テレビ番組のほとんどが生放送だった時代、少しだけ普及しはじめたVTRがこのドラマで部分的に使われている(インサートやオープニングなど)。ドラマの主要部分は生放送だから、台詞の言い間違いなど明らかなNGシーンもそのまま放映されていた。この頃のテレビ番組はほぼアーカイブが残されていないが、今でも視聴できるこのドラマは奇跡と言っていい。主演は人気絶頂の映画スター森雅之。特別出演の森繁久彌が存在感を放っていた。
70分のドラマを見終わって、ふと、去年ある放送局を定年退職した高校バレーボール部の後輩Nからもらった年賀状を思い出した。再就職し、勤務地は横浜だと記されていた。それってもしかして、ここ(放送ライブラリー)じゃないかなと不思議に勘が働いて、物は試し、受付でN〇〇〇さんってこちらにいらっしゃいますかと訊ねてみた。するとどうだろう、内線電話をかけはじめるではないか。
5分後、30数年ぶりでNと再会を果たすことができた。
電車のなかで安西水丸を読む。この本は安西の没後、「クリネタ」というニッチな雑誌に特集された記事を中心にまとめられ、急遽刊行されたものだ。
氏の書いた4コマ漫画やフィクション、カレーライスのこと、眼鏡のことなどさまざまな切り口から生前の安西を忍んでいる。和田誠、黒田征太郎、大橋歩らの追悼文のほかに南青山にあったバー、アルクール店主の勝教彰、水丸事務所を支えた(今でも支えている?)大島明子のコメントも載っている。
あれから10年。多くのファンにとってと同様、安西水丸は僕にとっても忘れられない、忘れてはいけない存在なのである。

2024年4月10日水曜日

今尾恵介『地名の楽しみ』

沓掛(くつかけ)という地名がある。街道の、たとえば峠の入り口や暴れ川の近くなど交通の難所に多いという。旅人はそこで草鞋(沓)を新しくし、履きつぶした草鞋を木に掛けて、その先の安全を祈願したというのがその由来である。
ときどき散歩に出かけるのだが、清水という町がある。かつて井伏鱒二が住んでいた。地名の起こりとなった湧き水のある場所に案内板があり、この辺りが以前、豊多摩郡井荻村沓掛と呼ばれていたことが記されている。古い地図で見ると昭和40年くらいまでたしかに沓掛町という町が存在している。昭和7年に東京市に編入されるまで杉並町と井荻町の境界があったあたりである。
今は住宅地になっており、沓掛町と呼ばれるようになった言われはまったくわからない。土地はほぼ平坦である。町の北側に妙正寺川が流れている。今は護岸が整備されているが、最上流の地域でもあり、川幅は狭い。もしかするとかつては暴れ川だったのかもしれない。古くは街道があって、多くの旅人が行き交ったのだろうか。その面影は皆無である。
地名は面白い。江東区はかつて深川区と城東区が合併した。下町で水路が多くあるので深川と呼ばれる川があったのだろうと思っていたら、そうではなくその辺りを開拓した深川八郎右衛門にちなむという。城東区には砂町がある。見渡す限りの砂地だったのだろう思っていたが、この地も砂村新左衛門という人が開拓したことで砂村と呼ばれるようになり、その後、大正時代の町制施行で砂町になってしまったというのだ。
今、東京で人気の町、恵比寿も恵比寿ビールの工場があり、出荷を担う駅ができ、その後地名も恵比寿になってしまった。それまであった小さな町の名前は消えてしまった。
地名は先人からのメッセージと言われる。古い地名を訪ねる旅は面白い。沓掛という地名は小学校の名前に遺されている。杉並区立沓掛小学校である。古い地名を辿るのに小学校の名前は貴重だ。

2024年4月5日金曜日

川端康成『山の音』

ドジャースに移籍した大谷翔平。オープン戦は好成績をマークし、期待は膨らむばかりだった。
開幕してみると一番バッターのベッツが絶好調であるせいもあり、大谷が本調子には見えないのである。ヒットは一日に1本か2本。なによりもホームランが打てていない。まるでこの春の選抜高校野球から採用された低反発バットを使っているようだ。何億という莫大な年俸をもらいながら、平凡な記録でシーズンを終えたらこれまでの賞賛が非難の声に変わる。そんなことまで心配してしまう。
常勝球団に移籍したことがプレッシャーになっているのではないかとも思う。これまでは(失礼な話だが)勝てば儲けもの、みたいなチームに所属していた。今年は違う。勝たなければいけないチームの一員であり、主力なのである。もちろんその程度の環境の変化で押しつぶされる選手ではないとは思うが、これだけ打てないと邪推もはたらく。単なる通訳以上のパートナーだった水原一平の事件もある。野球には集中していると本人は取材に応えているようだが、尋常でない金額を最も信頼していた男から騙し取られたとなれば、本当に大丈夫なの、と思ってしまう。
と、ずっと心配していたドジャースタジアムでの開幕シリーズ。チームは好調で勝ち星を重ねながらも、打てない大谷が気がかりでならなかった。
4月3日(日本時間4日)、開幕41打席目にしてついに今季初アーチ。
うれしかった。
成瀬巳喜男監督の「山の音」を観たのは10年近く前になる。
戦後の混乱がようやく収まりつつある時代。鎌倉のある一家の舅と嫁の心の交流が描かれている。この構図には既視感があった。小津安二郎の「東京物語」でも舅と戦死した次男の嫁が心を通わせる。奇しくも嫁役は原節子である。映画の公開は「東京物語」が一年はやいが、脚本執筆時に小津は『山の音』を意識していたのかもしれない。
映画を観て、原作を読みたいと思った。ようやく読み終えた。

2024年3月27日水曜日

島田雅彦『散歩哲学──よく歩き、よく考える』

大相撲春場所は昔から「荒れる春場所」として知られている。古くは若浪が平幕優勝した(古すぎるだろう)。冬から春へ、季節の変わり目でもあるこの場所はコンディションづくりが難しいという。
今場所は横綱照ノ富士が不調、先場所綱取りに失敗した霧島も初日から連敗。4人の大関が揃って勝つ日がなかった。そんななか、新入幕で幕尻の尊富士が11連勝。先場所新入幕で優勝争いに絡んだ大の里と大関琴ノ若、豊昇龍が追う展開。新入幕の力士が優勝したのは1914年に遡るという。
14日目、大関経験者朝乃山戦で尊富士は右足を痛める。花道を車椅子で引きあげ、救急車で病院に運ばれた。思いがけないアクシデント。千秋楽の出場が危ぶまれた。本人も相当悩んだ末に土俵に上がる(この辺りはテレビ解説していた伊勢ヶ濱親方が伝える)。今場所好調の豪ノ山を押し倒して見事初優勝を飾った。
辛口解説でお馴染みの伊勢ヶ濱は大の里が敗れたあと、圧力の強さだけでなく、まわしをしっかり取って、自分の型をつくらないとこれから上位に通用しなくなると苦言を呈していた。僕には尊富士をはじめ、自らの弟子たちに立ちはだかるこの大物に送ったよきアドバイスに思えた。
先週だったか、昼間ラジオを聴いていたら、ゲストが島田雅彦で近著のことを話していた。
島田雅彦は学生時代に小説家としてデビューし、その作品は話題になった。残念ながら読んではいない。その後も芥川賞の候補となるような話題作を世に出したらしいがまったく読むことなく40年以上経つ。というわけで島田雅彦は僕にとってはじめましてであり、たとえば十条の斎藤酒場で偶然隣り合わせて、散歩について哲学的な考察を教えていただいた人というわけだ。
これまで下町を中心に町歩きの本は読んでいたけれど、この本は歩くことそのものがテーマになっている。東京や地方に加えて、ヴェネチアなども散策している。
なかなか大きな散歩論であった。

2024年3月23日土曜日

今尾恵介『消えた駅名 駅名改称の裏に隠された謎と秘密』

いちど付けられた駅名がそんなにころころと変えられるなんてこの本を読むまで知らなかった。生まれ育った地域にも消えた駅名があった。東急大井町線の戸越(現下神明)と蛇窪(現戸越公園)である(本書でも取り上げられている)。僕が生まれるずっと前のことだ。
最近の例だと東武スカイツリーライン(旧伊勢崎線)の業平橋だろうか。東京スカイツリー開業とともに「とうきょうスカイツリー」と改称された。古くは同線の玉ノ井が東向島に変わったが、リアルには知らない。地図と歴史を辿っていけば改称された駅はたくさんある。地図と地名の人、今尾恵介だからできた一冊だ。
なぜ駅が改称されたか。市区町村の合併によってとか、付近の施設がなくなった、あるいは新たな施設が生まれたなど理由はさまざまである。観光地やニュータウンの入口として乗客や住民を誘致するための改称もある。同一鉄道会社の路線で同じ駅名は付けられない(A駅からA駅への切符は混乱を来すからだ)。同じ駅名を避けて、武蔵Aとしていた駅がそもそものA駅が改称されたことで武蔵AからAに改称されたという例も多い。
駅は大人の事情によって名前を新しくしていった。その事情が読んでいて楽しい。駅は世につれ、といったところか。
最近は合成駅名とでもいうのか、ふたつの地名を併記する駅が増えている。JR埼京線の浮間舟渡、東京メトロ銀座線の溜池山王、都営地下鉄大江戸線の落合南長崎など。たしかに駅を堺に隣接するふたつの町がある場合、駅名をひとつにするのは今の世の中では難しい。だったら両方を付けてしまおうという考えは大人の事情対応として有効だ。昔は考えられなかった気遣いである。荻窪駅だって今新設されたならば荻窪天沼駅となったに違いない。
僕はこうした合成駅名を民主主義的駅名と呼んでいる。新しい駅名だけを見ると日本の民主主義は進展してきた。本来的な意味でいう民主主義は果たしてどうなんだろう。

2024年3月11日月曜日

北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語 ――映画黄金期に現れた伝説的ドラマ』

1953(昭和28)年にテレビ放送がはじまったが、草創期の映像は残されていない。コンテンツのほとんどが生放送だったからだ。録画して保存するなんて誰ひとりとして思いつかなかったのだろう。
CMはフリップを映すだけであり、海外から提供されたドラマや映画も流された。日本最古のテレビコマーシャルは精工舎の時報CMと言われているが、これも諸説あり、現存する最古のCMということらしい。他にも一番最初のCMはこれだという見解もあるようだが、如何せん実物が残っていないのである。
当時、NHKも日本テレビも独自の電波塔を持っていた。開局申請が増え、東京のテレビ局が共同で使える電波塔が企画された。東京タワーだ。主導したのは産経新聞の前田久吉。かくして1958(昭和33)年、東京タワーは完成した。
この本は東京タワー完成時に放映されたドラマにフォーカスしている。現在のTBSが制作した「マンモスタワー」である。近い将来斜陽産業となるであろう映画と今は未知数だがいずれ大きなメディアになるであろうテレビの世界。来たるべき映像産業の対立を描いている。当時、映画の観客動員数はピークを迎えていた。旧態依然とした映画会社の経営者たちはテレビ恐るるに足らずと豪語していた。ひとりの映画製作者が主人公。映画製作はもっと合理的にしなければならないと主張する。その役が誰もが認める映画スター森雅之だ。ちょっと興味を唆られる。
このドラマは完全な生放送ではなく、当時希少だったVTRも駆使されている。風景などは事前に収録されていたらしい。そんなこともあってか実はこのドラマは保存されている。全てではないかもしれないが、今でも横浜関内の放送ライブラリーという施設で視聴可能だ。放送ライブラリーはずいぶん前に訪ね、昔のCMやニュース、ドラマなどを視た記憶がある。
行ってみようかな、横浜まで。帰りに野毛で餃子とサンマーメンを食べたいし。

2024年3月3日日曜日

今尾恵介『ふらり珍地名の旅』

僕が生まれ育った町は品川区二葉である。若草の二葉が生い茂る地域であった。北隣にあるのは豊町。農業に適した肥沃な大地だった。というのは冗談で地名のいわれはない。
このあたりは荏原郡蛇窪村と呼ばれていた。蛇が多く生息する谷間の湿地帯だったのかもしれないし、近くを流れる立会川が護岸工事される以前は蛇行を繰り返し、蛇のようだったのかもしれない。
蛇窪村はその後、上蛇窪、下蛇窪となり、昭和7年、東京市荏原区に編入されるにあたり、上神明町、下神明町と改称される。商業地域や住宅地の開発を見据えて、蛇窪はないだろうと誰か言ったと思われる。さらに昭和16年、上下神明町を南北に分け、北側を豊町、南側を二葉町とした(二葉町は後に二葉となる)。こうして地名がいわれ(歴史や地形的な特徴、言い伝え)を持たない町が生まれた。自由が丘や光が丘のように。
蛇窪の南側にも小さな集落が多くあった。大井伊藤町、大井金子町、大井出石町、大井原町、大井山中町などなど。今は大井、西大井とひと括りにされているが、そのいくつかは小学校の名にとどめている。
今尾恵介の本はこれまで何冊か読んでいる。地名や駅名に関するものだ。いずれも興味深く読了した記憶がある。今尾恵介は地名会のさかなクンだ。勉強したいことを見つけられることはだいじだと思う。教科としての国語算数理科社会ではなく、学びたいものを自分で見つけること。ふりかえって自分の人生のなかで夢中になれるものはあまりなかった。あっても持続しないことばかりだった。いまさら嘆いても仕方ないのであるが。
珍地名といってもどこからが珍なのかは主観的なところだ。この本で知っていた珍地名は東京都江東区海辺と同じく目黒区油面。個人的には足立区の地名に興味がある。六月とか島根とか宮城とか。
実家の近くに東急大井町線の下神明、戸越公園という駅がある。昭和10年まで下神明駅は戸越駅、戸越公園駅は蛇窪駅だった。

2024年2月25日日曜日

風来堂編、宮台真司他著『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』

もう50年以上も昔のこと。小学生だった僕の住む町に知的障害のある少年がいた。年齢は少し上だったように思う。ごく普通に町を歩いており、時折公園などに姿をあらわし、いっしょに遊びたがっているように見えることがあった。少し年下の低学年の子たちに声をかけていることもあった。
中学生になり、学区域が大きくなったことで行動範囲が広がった。他の小学校の区域にもやはり知的障害のある子どもがいた。昔はどの町にもひとりやふたりはいたのかもしれない。彼らの本当の名前は知らなかったが、それぞれに呼び名を持っていて、町で見かけると声をかけてはいたずらする輩も少なからずいた。当時、特殊学級と呼ばれるクラスのある学校もあった。おそらく彼らはそんな特別な学校に通っていたのだろう。
大人になってからそういった子どもたちを見ることがなくなった。あるいは身近にいるものの気がつかなくなっただけかもしれない。特殊学級はその後特別支援学級と名前を変える。世の移り変わりとともに彼らは保護者や制度によって手厚く守られるようになり、そのために町なかから姿を消したのではないだろうか。
異界とは異人、ストレンジャーたちの界隈。花街や色街、被差別地域など、日常から解き放たれて発散する場所だった。そういった点ではお祭りも異界の一種といえる。異界のルールは「法」ではなく、「掟」であると語るのは宮台真司だ。たしかにジャニーズ事務所や宝塚歌劇団の問題は「法」という視点からとらえられたときにはじめて生じる問題だった。反社会的勢力が世の中で見えにくくなっていることもこうした背景がある。
今はそうした異界が次々と消え去り、異界を知らない世代が異界なき社会をつくろうとしている。この本はかつてこんな異界が日本中にありましたよと言い伝えるガイドブック。すでに跡形もなくなっている異界も多いが、貴重な記録である(記憶している世代がある限りではあるが)。

2024年2月13日火曜日

カート・ヴォネガット『ホーカス・ポーカス』

テレビでデイブ・スペクターを視るたびに、なんでこの人は日本の文化や風土、日本人の感情を日本人以上に理解して日本語を話すのだろうと驚愕する。まるで脳内に人工知能を所有しているように思える。それでいてけっして賢ぶらない。面白くとも何ともない駄洒落やギャグを連発する。「笑点」の大喜利レベルである。それだけ見ているとおバカな外国人だが、彼はそれをねらっているのだ。どれくらいの笑いのレベルが平均的な日本人に受けるのかを知っている。そこがすごい。あの風貌で確実に日本人と同化している。
たぶん(そんなことは決してしないだろうが)本気で日本の政治や文化の劣化をぶった切るような論評をするとしたら、相当ハイレベルな発言をするのではないかと思っている。
もはや彼はアメリカ人ではない。藤田嗣治が日本人ではないように。
翻訳されているカート・ヴォネガットの小説はほとんど読んでいる。何年か前に『タイムクエイク』という大作を読んで、『ガラパゴスの箱舟』『青ひげ』『ジェイル・バード』を再読した。これでひと通り読んだなと思っていたところ、もう一冊未読の小説が見つかった。それがこの本。ホーカス・ポーカスとはどういう意味かよくわからないが、魔法使いが魔法をかけるときに唱える呪文のようなことらしい。だから意味がなくていいのだ。ギャツビーの「オールド・スポート」みたいなものだ。
カート・ヴォネガットの比喩は深い。ちょっとやそっとじゃ理解できない。立ち止まってばかりいる読書。それでもキンドルのおかげで、すべてではないけれど、知らない言葉や出来事は検索してくれる。大いに助かる。
原書でヴォネガットを読むという知人がいる。村上春樹も私的読書案内で推している。英語で読むとさらに面白さが見つかるのだろうか。僕は翻訳を読むので手いっぱいなのだが。
ところでカート・ヴォネガットを読むたびにデイブ・スペクターを思い出すのはどうしてなんだろう。

2024年1月20日土曜日

半村良『戦国自衛隊』

斎藤光正監督「戦国自衛隊」が公開されたのが1979年12月。僕が20歳のときである。文庫本と映画がコラボレーションする、いわゆる角川映画のひとつだった。角川映画は角川書店(現KADOKAWA)が映画をベースにしたメディアミックス展開として知られていた。
第一作は市川崑監督「犬神家の一族」(原作横溝正史)だそうだが、第二作の「人間の証明」(佐藤純彌監督)が話題になった。森村誠一の原作もジョー山中が歌った主題歌もヒットした。1977年。僕は高校三年生だった。
五作目にあたる「戦国自衛隊」に興味はそそられたが、劇場でこの映画は観ていない。当時あまり映画を観る習慣がなかったのである(後にテレビで視たが鮮明な記憶は残っていない)。
年が明けて1980年。読書記録によれば、この年の1月にこの本を読んでいる。映画を観る前に原作を読んでおこうと思ったのか、映画を観るお金がなかったから文庫本だけで済ませようと思ったのか。季節的には学年末の試験やレポートなどに追われていた頃だと思う。あと三カ月で大学三年生になる。今となっては遥か彼方の遠い記憶であるが、学生時代ももうじき折り返しかと思うとちょっと憂鬱な心持になる、そんな時期だった。
半村良という作家は当時も今もくわしくは知らない。『戦国自衛隊』から30年経って、『葛飾物語』を読んだ。葛飾の長屋を舞台に昭和の庶民を描いた素敵な小説だった。その後『小説浅草案内』を読む。ここに登場する粋で素朴な浅草っ子がいい。僕にとって、半村良は決してSF作家ではないが、遠い昔に『戦国自衛隊』との出会いがなければ、半村良の描く東京の東側にはお目にかかれなかったかもしれない。つまり『戦国自衛隊』の半村良という記憶があったから、彼の描く下町に出会えた気がするのである。
そういえばパスティーシュの名手清水義範の師匠が半村良だったっけ。清水義範のSFのなかでは『イマジン』が好きだ。