2010年7月28日水曜日

中村明『センスある日本語表現のために』

今年の夏は神宮球場にかよう間もなく高校野球が終わってしまった。
西は準決勝の日大対決、早稲田対決で盛り上がりを見せ、古豪早実が優勝。春選抜準優勝の日大三が敗れ、東東京も選抜8強の帝京が国士舘に苦杯を喫するという波乱があった。帝京は選抜以降コンディションを崩したのか、春季都大会で敗退し、今大会はノーシードだった。スポーツのたいていがそうであるように高校野球というのは予測不可能な競技である。
東東京大会の決勝は修徳対関東一。下町対決となった。少ない好機をいかした修徳が逃げ切るかに思われた9回裏まさかの大逆転劇で関東一が優勝。まったくわからないものだ。
「センスある日本語表現」という表題にすでにセンスが感じられない本書であるが、内容は“語感”をテーマによくまとまっているし、古さを感じない。発行が1994年。16年も昔のことなのに。当時はまだ“センスある日本語”という言葉が違和感なく通用していたのだろう。
たまにこうした日本語関係の本を読むが、さすが中公新書だ。奇をてらった感じがなく、真摯で読みやすく、空気のおいしいリゾート地を散歩しているような気持ちよさがある。

2010年7月24日土曜日

オノレ・ドゥ・バルザック『ゴリオ爺さん』

「フランス文学 24人のヒーロー&ヒロイン」と題されたNHKラジオフランス語講座応用編でフランスの名作を紹介している。なかなかすぐれた読書ガイドだ。
先日、いつだったか2週にわたって紹介されたのがバルザックの『ゴリオ爺さん』。「ゴリオ」という名前はどことなく昔のアニメーションのガキ大将のような響きがあり、ゴリラのような風貌のやんちゃな爺さんを想像していた。人間ってやつはなんてに勝手な想像をするのだろう。
ところがどうして、ゴリオ爺さんは朴訥で、働くことだけが取柄で、娘たちを溺愛し、にもかかわらず看取られることもなく世を去るこの上ない不幸を身にまとった老人だ(もちろん娘がふたりいる父親としては共感せざるを得ない部分が大いにある)。
残念ながら、ゴリオ爺さんはわんぱく爺さんではなかった。そういった意味ではぼくはこの小説に裏切られたのであるが(勝手に思い込んでいて裏切られたもない話だが)、それ以上に他の登場人物がこの物語を盛り立てている。とりわけゴリオ爺さんと同じ下宿ヴォケー館に住むラスティニャックは立身出世をもくろむ地方出身者で主役といってもいい存在である。このほかにもひとくせもふたくせもある人物が登場する。バルザックはどうやら登場人物を使いまわす作家であるらしい。機会があれば別の作品でこれら登場人物に出会いたいものだ。
親というのはいつの世も子どもたちに裏切られているのかもしれない。裏切られた親がかつてそうだったように。

2010年7月20日火曜日

さくらももこ『永沢君』

先月、次女が修学旅行で京都、奈良をまわって来た。
帰りの新幹線のホームには京都に住む姉が見送りに来て、たいそうな土産を持たせてくれたようである。
修学旅行と聞いて思い出す一冊は、さくらももこの『永沢君』だ。『ちびまるこちゃん』の特異なキャラクターである永沢君、藤木君らの中学3年生時代の物語である。
『ちびまるこちゃん』はテレビアニメーションとなって、『サザエさん』同様人工衛星アニメ化した。人工衛星アニメというのはいちど軌道に乗ったら永遠にまわり続けるアニメーション番組のことで、ぼくが勝手に名づけたものだ。つまりそこには時間の概念はない。永遠にまるこは3年生だし、かつおは5年生だ。イクラ、タラにいたっては永遠に乳幼児だ。
そんななかでこの本が画期的だったのは、永沢や藤木が年齢を重ねるという現実にきちんと立ち向かったことだ。永沢はビートたけしに憧れ、藤木は深夜ラジオのスターになり、野口は憧れのなんば花月を訪れる。平井は土産屋で万引きし、それを目撃した小杉は殴られる。そして高校受験、卒業となんとも切ない思春期の物語だ。切なさの根源は時間の流れ、ということなのか。
ちなみにまるこ、たまちゃん、まるおは登場していない。おそらくは私立の中学校に進学したのだろう。でも花輪はいる。中学受験に失敗したのだろうか。

2010年7月17日土曜日

ダグラス・C・メリル/ジェイムズ・A・マーティン『グーグル時代の情報整理術』

早川書房といえば、SFやミステリーでおなじみだが、いつの間にか新書も出版していた。
ぼくが好んで読んだハヤカワの本はカート・ヴォネッガットJrのSF小説で和田誠の装丁が好きだった。浅倉久志の訳も筆者を熟知した感があってあんしんして読めたと思っている。
そんなせいか、ハヤカワと聞くと良書を良質な翻訳で世に出している、といったイメージが強い。
先にクラウドコンピューティングの本を読んで、あまりにグーグルのことをぼくは知らないなと思い、それじゃあ、ってんで、手にとった。
グーグルという企業のモットーは「世界の情報を整理する」ということらしいが、筆者で元グーグルCIOのダグラス・C・メリルが自らの実体験とともに情報整理術を披露する。けっしてグーグル製品に偏った宣伝的な本でないところがいい。
gmailをはじめていないのならば、この本を読むのを機にはじめてみてはいかがだろう。本書の内容をPCの画面で確認できる。WordやExcelなどのファイルも作成でき、PDAやOutlook のスケジュールや連絡先データも移行できるが、実際のところは機能的には不十分だったり、文字が欠けたり、日本語版ではまだまだなところもあるが、とりあえずクラウド体験するにはもってこいだ。
早川書房に話は戻るが、翻訳ものや演劇関係の本が多かったので、もしや早川雪洲と関係があるのでは、と思っていたが、どうやらそういうことではないようだ。



2010年7月15日木曜日

オルセー美術館展2010

仕事場でとっている日経新聞のチラシのなかに新聞販売店のアンケートが挿し込まれていて、適当に答えてFAXするだけなのだが、回答者のなかから抽選でオルセー美術館展2010のチケットが進呈されるという。ちなみに返答すると数日後、日経新聞販売店の人がチケットを持ってきてくれた(ここのところ、小さいことに関しては運がいい)。
そんなわけで昨日がはじめての国立新美術館。
前回オルセー美術館展を観たのは上野、東京都美術館だったような気がする。そのときは写真や陶器、彫刻などさまざまな展示があり、メインの絵画はエドゥアール・マネの「ベルト・モリゾ」だったような…。
今回は特にこれといった大物はなかったように思う。アルルのゴッホの部屋とか、ゴーギャンの自画像とか前回来日した絵も多かった。強いてあげればゴッホの自画像、スーラの点描画の何点かが印象に残った。
しかしながらなんといっても観てよかったと思うのはセザンヌの「ラ・モン・サン・ヴィクトワール」だ。大きな絵ではなかったけれども、3年前カンヌからアヴィニヨンへ向かうTGVの車窓からほんの一瞬だけで見たヴィクトワール山の姿を思い出したからだ。人間の記憶とは不思議なものでほんの一瞬でも印象に残ったものは一定期間、あるいは永遠に(もちろん体感的にではあるけれども)記憶できるものだ。
美術館を出たら雨が上がっていたので、昔伯父の住んでいた三河台公園のあたりを蒸し暑いなか散策してみた。大きなマンションが建ち並び、当時にもまして日当たりの悪くなった俳優座の裏の細道から六本木通りへ出て、南北線の六本木一丁目駅まで歩いた。

2010年7月14日水曜日

阿刀田高『ギリシャ神話を知っていますか』

サッカーワールドカップ2010はスペインが優勝した。
識者によると速いパスまわしでチャンスをつくるスペインのサッカーは日本がめざしているサッカーに近いらしい。じっくり時間をかけて、切り崩した貴重な1点だったように思う。オランダは長いパスやドリブルの突破など、見ていて派手なサッカーだったが、微妙に勝ちに出る姿勢に乏しかったような印象だ。それにしてもオランダのファンマルウェイク監督の試合後のコメント「主審が試合をコントロールできていたとは思わない」は言わなくてもいい余計なひとことだ。
ギリシャの神々は聖書に比べて、とても人間的である。神話と呼ばれるだけあって、奇想天外な物語ばかりだが、登場する人物のみならず神々たちも人間的だ。
ギリシャ神話の逸話は西洋の小説にふんだんに引用されており、読書のための基礎教養として必須かなと思っていた矢先にこの「知っていますか」シリーズに出会えてなによりである。「知っていますか」を「知っていませんでした」だったわけだ。

>すでにこれまでの十章でおおよその英雄や美女たちについては触れただろう。
>ヘレネ、パリス、ヘクトル、アンドロマケ、カッサンドラ、アキレウス、ピュロス、
>オレステス、レダ、ヘラクレス、アドニス、ダフネ、オイディプス、アンティゴネ、
>オルペウスとエウリュディケ、シシュポス、タンタロス、ディオニュソス、プロメ
>テウス、エピメテウス、パンドラ、イアソンとアルゴー丸の船員たち、メディア、
>オデュッセウス、ペネロペイア、そしてゼウスを初めとするオリンポスの神々。
>いくぶん私好みの選択ではあったが、膨大なギリシャ神話の中の著名なエピ
>ソードはおおかた取りあげたと思う。読者諸賢は右のヒーローとヒロインたちの
>中で、どれほどの数を記憶にとどめておられるだろうか。

これはエンディングに近い11章で筆者が記しているまとめの部分。まあ、読み終えた今となっては、大して記憶にも残っていないが、そのうち折があれば思い出すだろう。

2010年7月9日金曜日

柳田國男『日本の伝説』

ワールドカップもいよいよ大詰め。決勝に勝ち上がるのは、ブラジルのいるブロックとアルゼンチンのいるブロックからだろうと思っていたが、ドイツも敗れて、スペインとオランダの対戦となった。決して予想外の展開ではなく、ヨーロッパの強国同士。いい試合を期待したい。
ワールドカップといえば、先日コカコーラのキャンペーンでワールドカップ2010のロゴがデザインされたTシャツが当たった。コカコーラで当たったというより、アクエリアスで当たったというべきか。なにせ土日に卓球をするとこの時期猛烈な汗をかく。水分補給はたいせつだ。
その昔、水の便の悪い村があった。村人は遠くにある水源に毎日水を汲みに行っていた。あるときその村にやってきた弘法大師が苦労して水を運んでいる村人に一杯の水をめぐんでもらった。弘法大師はお礼に杖で地面をたたき、ここを掘れという。そしてその井戸から良質な水が湧き出し、村をうるおした。
と、このようなありがたい話が満載されているのがこの本。柳田國男によれば、昔話と伝説の違いは、動物的なるものと植物的なるものとの差であるという。普遍的なストーリーがあちこちで見られる昔話に対して、伝説はその土地土地にしっかり根を張っているということらしい。
偉い人が地面に挿した箸が成長して大木になったり、山が背比べをしたり、持ち帰った石が大きくなる話などなど日本はあっちこっちでおもしろい国だと思う。
ただLなんだな、サイズが。Oだったらよかったんだけど、選べるサイズがMとLしかなかったんだよね。

2010年7月6日火曜日

戸村智憲『なぜクラウドコンピューティングが内部統制を楽にするのか』

もうかなり前からクラウドコンピューティングという言葉を耳にしている。
ギターの上手いおじさんがコンピュータをはじめて、そのギタリストの名前をとって、クロードコンピューティング。それを英語読みするとクラウドというわけだ。もちろんうそだ。
最近になってぼくが関心を持ったのは、きわめて個人的な事情で、要は仕事場で使っているPCのハードディスクの容量が小さくてすぐにいっぱいになってしまう。外付けに逃がしても逃がしてもすぐにいっぱいになってしまう。よくよく調べてみたら、日常的に使うアプリケーションも多いのだが、ゴミ箱に入れられない古いメールや頻繁に使うテンプレート、画像等の圧迫が大きい。こんなものはネット上のどこかに置いておいて、使いたいときだけダウンロードすればいいんじゃないかと常々思っていたら、クラウドというのはどうやらそういうことらしい。
ポルトガルにものすごくサッカーの上手い選手がいて、しかもコンピュータにも長けていた。その名をクリチアーノ・クラウド。その名をとって…。そんな馬鹿な。
先日、個人情報保護に関するセミナーが都内某所であり、そこで1時間ほど話をしてくれたのが、この本の筆者、戸村智憲だった。
厳密に言えば、その講演を聴いて、興味を持ったのでこの本を読んだ。順番としてはそうである。
ITは社内で持つ時代ではなく、社外あるものを賢く借りる。内部統制でネックとなる対応コストの増大に応えるのがクラウドコンピューティングであるというたいへんためになるお話でした。

2010年7月2日金曜日

野坂昭如『アメリカひじき 火垂るの墓』

先日、岡山に行ったときのこと。
プロデューサーのTが弁当を買うというので、ぼくは“貝づくし”という煮帆立ののっているのを指定した。あまりあれもこれも入っている弁当は好きではない。
昼近くなって、豊橋だか三河安城だかあたりで、お腹が空いたので弁当を出す。包み紙には“深川めし”と印刷されている。なんとなくいやな予感がしたが、深川めしと貝づくしは隣どうしで並んでいたし、つくった会社も同じだったと思うので、包装紙は同じものを使っているのだろう、くらいに思ってふたを開けると、なんとやっぱり深川めし。
ぼくは普通に寛容な人間なので、深川めしと貝づくしの違いくらいで騒ぎ立てたりなどしない。ご飯にのっている帆立が穴子になったくらいの微差だ。
ただ食べながら思ったのだが、ぼくが駆け出しの頃、大先輩の弁当を間違って買ってしまっていたら、いったいどんな目にあっただろう。当時は純粋に怖いスタッフは大勢いたからだ。たぶん名古屋で降りて、東京駅に戻って、取り替えてもらってこい!くらいのことは言われただろう。それとか、自分の弁当ならまだしも、相手が子どもだったらどうか。食べたいものと違うものが目の前になって、それがもしも大嫌いなものだったら…。
考えただけでも背筋の凍る思いである。
一応念のため、Tに弁当が頼んだものと違っていたと教えてやった。そしたらT,「ぼくはちゃんとお店の人に“貝づくし”っていいましたよ」だって。時代が変わったのか、Tが未熟なのか、Tを教育した人がバカなのか。普通こういうときには「申し訳ありませんでした」とまず詫びを入れてから、弁解するなり、言い訳するなりしたほうがいい。そう言おうと思って、Tの悪びれない顔(こいつはいつも阿呆みたいな顔をしているのだが)を見て、余計なことを言うのはやめた。
野坂昭如と聞くとどうしても文壇の人というより、テレビの人、タレントというイメージが強い。タレントでないとすれば作詞家。「おもちゃのチャチャチャ」の印象が強い。
「火垂るの墓」は前々から読みたいと思っていたのだが、独特の、助詞を省いてリズミカルな文章は慣れるまでは時間がかかるが、読みすすめていくうちに講談を聞いているような錯覚におちいり、いつのまにか数十頁読み進んでいる。実に不思議なタレント、いや作家である。
のぞみ号が新神戸に停車したとき、ふと野坂昭如を思い出した。