2005年4月27日水曜日

川上弘美『古道具中野商店』

学生時代に通っていた喫茶店があった。最寄り駅から大学までは20分ほど歩くのだが、駅から少し遠くて、通学路から少しはずれたところにあったので、同じ大学に通う学生はほとんど来ていなかった。
遅めの午前の授業の前か、午後の授業の終わりに立ち寄っては、ひとしきり本を読んでは帰った。そう年配とはいえない夫婦で経営していた記憶があるが、常連だったとはいえ、会話を交わしたこともなく、ただコーヒーを飲んで、本を読んで帰る大人しい学生だったわけだ。特になにが楽しくてそこに佇んでいたのではない。ただその空間に身をおくと時間の流れが止まってしまうようで、そのことが心地よかったのだ。
外界から時間的にも空間的にも遮断された場が好きだ。別に世の中のことがきらいなわけじゃなくて、むしろ世の中の面倒なこと、こまごましたことに煩わされることは苦にならない。時間的空間的に遮断されていたって、身の回りのことや世の中のことはうごめいている。喫茶店でコーヒーを飲んでいたって、人の話は聞こえてくるし、レポートの提出日は迫ってくる。たぶん、そこは遮断されているんじゃなくて、遮断されたいと思うぼくのイマジネーションを刺激してくれる場所だっただけかもしれない。
中野商店で繰り広げられる日常は、あまりに日常すぎて、ぼくたちの生きている世界から遮断されているような錯覚に陥る。まさに不純物のないありきたりな日常だ。平凡な毎日もここまで徹底的だとその中に息づく人間関係の微妙な動きが鮮明に映し出されてくるように思う。
最近、ドラマや映画を観ていても過剰な演出や、突飛なシチュエーション、無意味な映像効果が氾濫している。久しぶりにデジタル合成のない実写だけの映画を観たような気がした。

2005年4月10日日曜日

清水義範『大人のための文章教室』

清水義範は好きな作家のひとりだ。パスティーシュの名手とよくいわれるが、それは多くの文章に接しただけでなく、よく観察している結果として彼独自の世界が生み出されたからだろうと思う。
一方で清水義範は教員養成系大学で国語教育を専攻していた。教員の経験はないものの、日本語を教えるということに関しては何がしかのものを持っているはずだ。
というわけでこの本を手に取ってみた。一見実用書のように見える。読んだその日から役に立ちそうな体裁をしている。ところが読んでみてわかるのは彼の文章に対する観察力、洞察力だ。それもすぐれた文章にとどまらない。このことはこの本だけでは読み取れないが、彼は街に貼られたポスターや注意書き、家電製品の取扱説明書までこと細かに読んでいる。読んでいるというより、観察している。この本では子どもの作文を取り上げて言及しているが、もともと文章が好きなんだろうなって思ってしまう。身近な文章の書き方を指南する実用書のふりをして、作者の文章に対する日ごろの思いや信念が綴られているといってもいいかもしれない。
さらに実用書らしい演出がさえているのは、品格のある名文は文章力だけでは生まれないときちんと線引きしているあたりだ。まずやらなければいけないことはわかりやすく伝わりやすい文章を書くことだと。
文章読本と名のつく書物は硬軟数多あったが、さすがは清水義範だなあと思わせる「ちょうどいい感じ」がこの一冊にはある。

2005年4月1日金曜日

細谷巖『細谷巖のデザインロード69』

青山のバーで何度か細谷巖を見かけたことがある。アートディレクターというより、昔ながらの職人さんという風貌だ。人は見かけで…というが、どこからあのような広告デザインが生まれてくるのか、ずっと不思議だった。
いわゆる団塊の世代以前の人たちはアメリカのデザインをダイレクトに受け止めた世代だと思う。それ以後は日本の何者かによって媒介されたアメリカ文化しか知らないのではないだろうか。団塊世代のひとまわり下のぼくもそうだと思う。和田誠もそうだと思うが、アメリカの豊かさを見事に体現できるデザイナーが育ったのは、“戦後”を経験した世代だけなのだろう。
さて、和田誠と細谷巖は同じライトパブリティというデザイン会社で育ったふたりだが、デザインの根幹の部分はかなり近いと思う。しかしながら、そのキャラクターはずいぶん違うようだ。言葉は悪いが、器用で、あらゆる面で才能を発揮する和田誠に対して、細谷巖は不器用で、朴訥で、そのデザインワークに似合わず地味な人である。その細谷巖が語ったこの本は、まるで細谷さんそのもののように質朴で、飾りのない仕上がりになっている。多くのエピソードをおもしろ、おかしく挿入していく和田誠とは好対照だ。
残念ながら、ぼくは細谷巖と面識はなく、会話をかわしたこともない。それだけにこの本を通して語りかけてくれる細谷巖がどうしようもないくらいうれしいのだ。この感覚はおそらく70年代後半から80年代を通じて、細谷デザインにあこがれていた人たちに共通のものではないだろうか。
(2004.12.15)