2023年6月30日金曜日

南伸坊『私のイラストレーション史』

南伸坊って不思議な存在だなと思っていた。もちろん彼をくわしく知っているわけではない。著書を多く読んだわけでもない。以前『笑う写真』という本を読んだことがある。内容はほとんどおぼえていない。目立った作品を残しているわけでもない。大きな賞を獲って世間の耳目を集めたという話も聞かない。なんとなくおにぎりみたいな風貌で主張の強くないイラストレーションを描く、親しみやすそうな人といった印象があった。
この本を読んでよかったと思うのは、こうした僕のなかのぼんやりした南伸坊の輪郭が少しだけはっきり見えてきたことだ。
南は絵や図案が好きな少年だった。子どもの頃からデザイナーという職業に憧れていた(その経緯はともかくとして)。そして挫折をくり返した。高校も大学も受験は失敗。無試験で美学校に入り、赤瀬川源平らから教えを受ける。その後ひょんなことから青林堂の編集者になる。転機が訪れたのだ。伝説の月刊漫画誌ガロの編集にたずさわりながら、多くの才能に出会う。そこは彼の、おもしろいものを見つけるための修行の場でもあった。
南は昭和22年生まれ。いわゆる団塊の世代である。数多くの才能が過酷な競争を経て磨かれていった時代だ。僕が二十代なかばで広告制作の世界に飛び込んだとき、団塊の若者たちは勢いのある、ある意味ぎらぎらした若手だった。CMディレクターにせよ、コピーライター、グラフィックデザイナーにせよ。南伸坊はそんな熱さを感じさせない。その世代のなかではきわめて特異な存在だ。受験にこそ恵まれなかったが、実社会のなかで和田誠、安西水丸、湯村輝彦らすぐれた教師に出会ったのだろう。それは東京芸術大学のデザイン科に進むよりも価値があったんじゃないか。
この本には南が模写した絵が多く載っている。きっと子どもの頃からこんなふうに絵を描いて過ごしてきたのだろう。絵が大好きだったことはパラパラとページをめくるだけでわかる。

2023年6月27日火曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

午前中BS放送でMLBを見るのが日課のようになっている。それもエンゼルスのゲームがいい。去年も大谷翔平の出場する試合はときどき見ていたが、今年はワールド・ベースボール・クラシックの余韻もあって、ほぼ欠かさず見ている。もちろん向こうのデーゲームは試合開始が早朝過ぎるので勘弁してもらっている。おそらく僕のような、降ってわいたようなファンは多いのだろう。NHKもエンゼルスを中心に放送している。吉田正尚も鈴木誠也も千賀滉大も活躍はしているものの、「その他の日本メジャーリーガー」扱いされている。
大谷のすごいところは、そろそろ打ちそうだなと思っているとき、かなりの確率でホームランを打つところにある。前の打席は三振だったから、ここまでノーヒットだから、カウントが3ボール1ストライクだから、今度は打つだろうと思っていると打つ。打たないときもある。打たない方が多いとしても、打ったときの印象の方がはるかに強いから、やっぱり期待に応えてくれたと喜びもひとしおなのである。
打撃成績も抜群だが、投手としてもいい。最近の野球は一試合の投球数は百球程度に制限されている。序盤中盤に味方が点をとってくれないと勝利投手になるのは難しい。それでも現時点で6勝。11勝しているピッチャーもいるが、チームではトップの成績だ。なによりも奪三振が多いのがいい。アメリカンリーグではトップクラスである。先発投手として出場した試合はトイレに行く暇もないくらい、テレビの前に釘付けになる。誰もが言うことかもしれないが、こんな選手、今までいたか。
大谷は岩手県水沢市出身。水沢市は合併して今は奥州市になっている。奥州市のすぐ北に北上市があり、さらにその北に花巻市がある。岩手県出身の著名人としては宮沢賢治と千昌夫がいる。千は奥州市の東、陸前高田出身。こぶしの花が咲く春がいいらしい。宮沢賢治は花巻出身。
宮沢賢治を読むのは、子どもの頃以来だ。

2023年6月12日月曜日

浅田次郎『おもかげ』

親戚の通夜に行く11月の寒い日。友人吉岡以介の母親は、駅で電車を待っているとき脳疾患を起こして倒れた。もう4年くらい経つだろうか。以介がいっしょにいたのですぐに救急車を呼んでもらって大事に至らずに済んだという。電車に乗っていたらもっと大変だっただろうとも言っていた。以介の母親はその後区内の特養に移り、昨年は施設で米寿のお祝いをしてもらったそうだ。左半身に麻痺が残り、不自由な生活を余儀なくされているが、よくしゃべり、食欲もあるからあんしんだという。
先日、NHKのドラマを視た。なにかのついでに視ていたせいか、こまかいストーリーはわからなかったが、主人公は中村雅俊だった。番組ホームページを見て、原作は浅田次郎と知る。どうりで東京メトロの新中野駅が登場していたわけだ。著者の作品『地下鉄(メトロ)に乗って』も新中野は主要駅だった。原作が浅田次郎ならば読まないという選択肢はない。さっそく図書館から取り寄せる。
以介も僕も近い将来65歳になる。主人公竹脇正一みたいに地下鉄車内で倒れることもあながちないことではない。ごく普通に生まれて、ごく普通に生きてきた(何をもって普通というかはまた難しい問題であるが)僕には正一のような未知なる過去は(たぶん)ない。竹脇正一は、親の顔も知らなければ、名前さえ持っていなかったのである。世間並みに生きてきた僕は、彼と同様の事態に陥ったとき、どのような生死の境を生きるのだろう。この本を読んでそんなことを思った。
以前児童養護施設ではたらく若者たちを取材して動画にする仕事にたずさわったことがある。施設出身の子どもたちがどんな苦労を背負って生きていくのかは筆舌に尽くしがたい。
竹脇正一は孤独な人生から脱却し、家族を得る。だからといって彼がたどってきた過去を拭い去ることはあるまい。そんな孤独な魂を同じ境遇を生きた数少ない仲間たち救う。
浅田次郎にまたやられてしまった。