2021年3月26日金曜日

獅子文六『食味歳時記』

佃に大叔父が住んでいた。母が南房総千倉町から上京したときに頼った人だ。伯父(母の兄)も上京した際には大叔父の世話になったと聞いている。東京で頼れる唯一といっていい親戚だったのだ。
最近になって思い出した。大叔父ともうひとり、東京で暮らしている親戚がいたことを。
くめおばさんという。
くめおばさんは祖父のきょうだいの末で、昭和のはじめに上京し、四谷荒木町にある食用油問屋柏原商店に奉公した。この家で主に家事をまかされただけでなく、ふたりの子ども(一女一男)の世話もした。主人が築地の料亭などに油を卸すかたわら、奥さんは長唄の師匠として多くの弟子に教授していた。とある大学の長唄研究会の顧問も兼ねていて、柏原商店の手狭な座敷には学生も多く集まったという。
柏原家でくめおばさんは、ねえやさんと呼ばれていた。家族からはもちろん、多くの弟子たち、長唄研究会の学生たちからもねえやさんと声をかけられ、そのうち僕ら親戚もねえやさんと呼ぶようになっていた。一生結婚することはなかったが、ねえやさんと呼ばれることで実家の人間ではなくなり、柏原家の人になったのだと思う。
母方の祖父の親戚はたいていおだやかで、どちらかといえばのんびりした性格の人が多い。祖母の親戚にしっかり者が多いのとは対照的である。くめおばさんも人あたりのいいおだやかな人柄だったと、幼少の頃しか知らないけれど記憶している。
文豪と呼ぶにはおだやかで娯楽性の高い作品が多い獅子文六であるが、なかなかの食通だったと聞いている。戦前から戦後にかけて、変わっていった食文化に関してもなるほどと思わせる観察眼を見せている。さすがとしか言いようがない。
くめおばさんに最後に会ったのは東京女子医大病院だった。今にして思うとさほど高齢ではなかったが、ガンにおかされていたのだ。
今、くめおばさんは柏原家の墓に眠っている。茗荷谷の寺だと聞いているが、くわしいことは知らない。

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