2017年12月30日土曜日

今年の3冊 2017

クリスマスコンサートを聴きに吉祥寺の明星学園に出かける。
中学生のアンサンブルや、アマチュアオーケストラ、ムジカプロムナードの演奏を楽しむ。ピアニストとしてゲスト出演した三好タケルは長女の高校時代の同級生で、なんどかライブに行ったり、焼鳥屋で飲んだりしている。
今回の演目はガーシュインの「Rhapsody in Blue」、実はここ2〜3週間仕事中になんども聴いていた曲だった。まるでリクエストして、それに応えてくれたかのような選曲だった。
今年読んだ本の中で印象の強かった3冊をピックアップしようという試みは久しぶりである。今年は簡単であるといえば簡単だが、難しいといえば難しい。

森田誠吾『魚河岸ものがたり』
四方田犬彦『月島物語』
出久根達郎『佃島ふたり書房』

上記3冊で決まりだ。
でもあまりにも偏りすぎちゃいはしまいか。築地、月島、佃。この一年の読書が隅田川の河口にひとまとめにされてしまうのもいかがなものか。他に読んだ本を見てみよう。

今年読みはじめた作家としては城山三郎。広田弘毅の生き方はそのまま作者の生き方に投影されているようだった。平松洋子も今年から。軽妙なエッセイがなんともいえない。昨年から引き続き読んでいる獅子文六。娯楽映画を観ているようなテンポ感がすばらしい。
常連組としては山本周五郎、吉村昭。今年も心に沁みる名作に出会えた。久しぶりに読んだのが関川夏央。昭和を見つめるまなざしがたまらなく共感を呼ぶ。
忘れた頃に読む海外の小説。今年はモーム、ディケンズ、フィッツジェラルドと数は少なかったが内容的には充実していた(と勝手に決めている)。

とはいうものの今年は「築地、月島、佃」の一年だったかな。とりわけ佃、月島は個人的に結びつきの強い土地だけに読書を通じて受ける印象が強すぎる。
来年はどんな本に出会え、どのような一年になるのか。
今年もご愛顧ありがとうございました。
来年もよろしくお願い申し上げます。

2017年12月25日月曜日

平松洋子『あじフライを有楽町で』

佃にお昼を食べに行く。
築地市場橋(仕事場がその近くにある)から佃まで歩けば30分近くかかる。散歩するには楽しい距離だが、平日昼食を摂りに行くにはちょっとぜいたくな距離だ。
ふたつのルートがある。
佃大橋を渡るか、勝鬨橋経由で西仲通りを歩くか。
佃大橋はかつてぽんぽん蒸気のたどった航路に沿って架けられている。東京に出てきて新佃に住んでいた若き日の母の記憶をたどりながら歩くコースだ。いっぽうの勝鬨橋は少年時代に月島のおじちゃん、おばちゃんの家に遊びに行くときバスで通ったルート。いずれも吹く風がなつかしい。
12月の暖かい日、勝鬨ルートで佃に向かった。
佃で何か特別なものを食べるわけではない。ごく普通の町の蕎麦屋に入って、もりそばと小ぶりな丼もののセットを注文する。店の名は相馬屋という。おそらくは古くからこの地にある蕎麦屋だ。客観的に評価すればとびきりうまい蕎麦屋というわけでもなかろう。うまい蕎麦はうまい蕎麦屋に行けば食べることができるが、佃に根づいた蕎麦屋の味は佃までたどり着かなければありつけない。
その日はあさり丼ともりそばのセットを食べる。
ラフな服装の男性がふたり。なにかしらの丼ともりそばを慣れた手つきで食べている。近所で働く若者の遅い昼休みか。そのうち老夫婦らしき男女が来店する。今日は何にしようかなとお品書きを開く。
佃のお昼の風景が見たくて築地から歩いてきた。佃の人になって、佃の人が食べるお昼をいっしょに食べたくて。
平松洋子の『○〇は(を)○○で』シリーズを読むのは、『ひさしぶりの海苔』も含めると4冊目になる。
毎度毎度おいしいお店や食材、食べ方を指南してくれる。そそられる記録である。世代もほぼ同じなのでなつかしい景色にも出会える。
強いて言えば文章がうますぎる。シズル感があり過ぎる。読んだ時点で食べた気になってしまう。残念といえば残念だが、うらやましいといえばうらやましい。

2017年12月22日金曜日

柘植光彦『村上春樹の秘密 ゼロからわかる作品と人生』

築地に仕事場が移転して一年が過ぎた。
それまでの千代田区平河町はいわゆる山の手で、大名屋敷が多くあった。坂道も多かった。青山に出るには赤坂見附の深い谷を越える必要がある。九段に行くには永井坂を下って南法眼坂を上り、行人坂を下って、東郷坂を上る(他にもルートはあるが、どのみち上り下りをくり返す)。麹町や番町の、そんな起伏が案外きらいではなかった。
築地には坂道がない。
坂道というのは人生や青春のメタファーとしてよく登場する。坂がないということは町としての深みに欠けるきらいがある。歩いていても表情を感じない。のっぺりしている。傘がないなら歌にもなるが、坂がないのは味気ない。
その代わりといってはなんだが、築地には川がある。かつて大川と呼ばれただけあって大きな川である。橋が架かっている。大きな橋の上から川面ながめると滔々と水をたたえている。少しだけ豊かな気持ちになる(その昔、銀座や築地がたくさんの川にかこまれていた時代を思うともっと気持ちが昂ってくる)。
坂道がないぶん、下町に住む人たちは川の流れに人生や青春の思いを込めたのかもしれない。そういった意味からすると世界は平等にできている。
村上春樹の小説が初期のものを中心に電子書籍化されている。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の初期三部作を電子ブックリーダーで読む。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も読みたいがまだ電子化されていないようだ。
村上春樹の解説本や研究本にはあまり興味がない。誰かが書いた村上春樹より、村上春樹が書いた文章の方が圧倒的におもしろいからだ。
でもこの本はちょっとよかった。村上春樹の人生は上京して早稲田大学入学とともにはじまったように思えるけど、ちゃんと両親がいて、小学生時代があったこともわかったから(Wikipediaには書かれているそうだが)。
たまにはこういう本も読んでみるものだ。

2017年12月21日木曜日

出久根達郎 『逢わばや見ばや完結編』

高円寺というと庶民的な町という印象が強い。
東京の中央線沿線は吉祥寺など住んでみたい町の上位にランクされる駅が多い。その中では意外と思われる町だ。今売れている芸能人らが売れない時代に高円寺に住んでいたというエピソードがテレビ番組で紹介される。商店街に古い店が並んでいる。精肉店の店頭から揚げたてのコロッケの匂いがする。商店主とタレントが気軽に声を掛け合わせる。駅前はそんな商店街を保護するかのように高い建物が少ない。
よしだたくろうが作詩作曲した「高円寺」という歌がある。地方から出てきた若者たちにも住みやすい土地柄だったのかもしれない。
どのようなわけで中央線沿線に高円寺のような町が生まれ育っていったのか。くわしいことはわからない。沿線には軍人が多く住んでいたという。高級将校は荻窪に居を構え、下級軍人の多くは高円寺に住んでいたという話を聞いたことがある。関東大震災後、西東京の郊外へ移住する人が増えた。山の手の住人は荻窪や阿佐ヶ谷に移り、下町の人びとは高円寺に移り住んだともいわれている(らしい)。貧しい人たちがどこからともなく集まって、おたがいに助け合いながら、貧しいながらも美しい風土と気質を築き上げたのかもしれない。
月島の古書店に長く奉公した出久根達郎は1973年に独立し、高円寺に古書店を開く。高円寺という町に月島や佃島と同じ匂いを嗅ぎとったのだろうか。それはレバーカツやもんじゃ焼きにふりかけるソースの匂いだったのかもしれない。そして文筆家の道を徐々に歩みはじめていく。
高円寺に移り住んで開業したのは正しい選択だったように思う。月島時代に培われた出久根達郎の生活感覚や洞察力、養われた体質みたいな目に見えないなにがしかの力が変質されることなく、彼の精神的な資産として引き継がれたであろうから。
高円寺という町をよく知らないけれど、だとすれば高円寺というのはいい町なような気がする。

2017年12月18日月曜日

出久根達郎『二十歳のあとさき』

月島のおじちゃんの家には風呂がなかった。もちろんその頃月島で内風呂のある家なんてアフリカのサバンナでペンギンを飼う家より少なかったと思う。
おじちゃんと銭湯に行ったことがある。
この本の前編である『逢わばや見ばや』で月島の銭湯では当たり前のように見知らぬどうしが背中を流し合っていたと出久根達郎は書いている。もちろんそんなことは知らない。
誰におそわったわけでもなく、おじちゃんの背中を洗ってあげた。
その日は泊まることになっていた。風呂から戻って、夕飯。おじちゃんは一杯やりながら、「よしゆきはちっちゃっけえのに気が利くんだ。俺は背中を流してもらったんだ」と何度もおばちゃんにくりかえしていた。
おじちゃんとおばちゃんには子どもがなかった。昭和20年代の終わり頃、母はふたりを頼って東京に出てきた。おじちゃんの家はその頃新佃にあり、母はその家からぽんぽん蒸気で隅田川を渡り、明石町の洋裁学校に通った。おそらくふたりとも自分の娘のように接してくれたにちがいない。その息子である僕をかわいがってくれたのも然もありなんという気がする。
夕食後、西仲通りを歩いた。
ほろ酔い加減のおじちゃんは「よしゆき、欲しいものがあったら言ってみろ、好きなものを買ってやる」という。さっきおばちゃんに本を買ってもらったばかりだし、欲しいものはなかった。でもそう言うとおじちゃんがかなしそうな顔をすると思ったので、思い切ってキャッチャーミットが欲しいと言ってみた。
スポーツ用品店が当時の西仲商店街にあった。
ぴかぴかのミットを手にとり、右手でこぶしをつくってパンパンとたたいてみる。革のにおいがする。不思議と自分の左手になじむ気がする。
「でもやっぱり要らない、まだ下手くそだから」
いくらなんでもそんな高価なものを買ってもらうことに臆したのだろう。
そしておじちゃんのほっとしたような、さびしいような顔を見上げた。
昭和40年代の月島。
二十歳を過ぎた出久根達郎がいた。

2017年12月10日日曜日

出久根達郎『逢わばや見ばや』

佃大橋から勝鬨橋を撮影していた。
西方に聖路加タワーが見える。その向こうに夕日が落ちていく。東京タワーのシルエット。その背後の空が(運がよければ)赤く染まる。
2秒に1回シャッターを切るようにカメラを設定した。やがて勝鬨橋は薄暮から夕闇のなかで照明が灯された。
「いい写真撮れました?」
カメラと三脚を片付けていたら、通りがかりの女性に声をかけられた。70歳は越えていると思われるが、背筋が伸びてシャキシャキしている。
月島に親戚がいてよく遊びに来たこと、何度も勝鬨橋を都電やバスで渡ったことなどをつい話してしまう。彼女は生まれてからずっと月島だという。どんどんタワーが建っちゃってねと町の変貌を嘆く。西仲にまた新しくタワーが建設されるという。
「電気屋さんのところですね」
「そうそう、つきしまテレビのあの一角。よく知ってるわね」
仕事場が築地に移転して、ときどき佃や月島を歩く。ずいぶん西仲通り商店街も変わってしまった。変化はまだ終わらない。
明治時代に埋め立てられた月島はそれほど歴史のある町ではない。工場の町、河岸勤めの人の町、もんじゃ焼きの町、そして都心に至近なタワーマンションの町とその変化が凝縮されている。
昭和30年代。
僕が生まれた頃は中学校を卒業して働く若者たちが多かった。「キューポラのある街」のジュンも夜学に通いたいと言っていた時代。
著者は昭和34年に茨城から上京。月島の古本屋の丁稚となる。両国から都電で月島にやってくる。房総や水郷方面の玄関口は両国駅だった。
誰もが高校や大学に進学する時代ではなかった。学校だけが勉強する場ではなかった。
大半は経済的な理由だっただろう。時代が貧しかったのだといえばそれまでだが、人が学んだり、かえって人が育っていくための選択肢は豊かな時代だったといえるかも知れない。
この物語は出久根達郎が世の中という学び舎で額に汗して成長していった学生時代といっていい。

2017年12月8日金曜日

岡崎武志『ここが私の東京』

見知らぬ町が好きであてもなく歩く。
東京23区内で知らない町も少なくなった、というのはちょっと大げさでまだまだ未踏の地が圧倒的だ。
クリエーティブディレクターのKさんとは年に一二度カメラをぶら下げていっしょに歩く。浅草、浦安、千住、根岸、四谷の谷底…これまで方々踏査した。
僕は生まれてこの方東京を離れたことがない。芝に生まれて神田で育ったというような江戸っ子ではもちろんない。旧東京15区の外側(山手線の外側の郡だった地域)の出だから東京の地方人だ。
ふりかえると都内の方々に父方母方を問わず親戚が住んでいた。落合、金町、駒込西方町、赤坂丹後町、高輪二本榎、月島…。そうした地名の記憶がどこか深いところに潜んでいる。そのせいかもしれない、見知らぬ町を歩いていてもどことなく既視感をおぼえる。
Kさんは兵庫県西宮市の出身である。大学進学時に上京。以来勤めも東京である。幼少期の東京体験がない。このことは思いのほか僕にとって新鮮だ。
Kさんが青春時代に出会った東京はどんな風景だったのだろうか。興味深い。東京にずっといたことがなんだか損をしたような気になってくる。
著者の本は以前読んだことがある。『昭和三十年代の匂い』(ちくま文庫)だ。どうやらこのブログでは紹介していないようだ。2014年の4月に読み終えている。読書メーターに記録が残されている(便利な世の中になったものだ)。
地方(八王子も含めて)から上京してきた作家、詩人、漫画家そしてミュージシャンらと東京との接点がテーマである。月島、石神井、赤羽、杉並などなど。興味深い町が次から次へと登場する。残念ながらここで登場する著作は、司修の『赤羽モンマルトル』くらいしか読んでいない。とりあえず出久根達郎の自伝的小説でも読んでみようか。
著者自身も大阪からやってきた上京者だった。意外な気がした。東京をよく歩かなければ、書けない本だと思ったからだ。

2017年12月5日火曜日

本田創、高山英男、吉村生、三土たつお『はじめての暗渠散歩:水のない水辺をあるく』

区境に興味があった。
たとえば東京メトロ千代田線の根津駅で下車する。不忍池に注ぐ藍染川が暗渠となっている。台東区と文京区の区境だ。さらに北へ、日暮里方面に向かう。文京区は荒川区と接する。谷中のあたりでは荒川区と台東区の区境がある。田端の方に歩いていくと文京区は北区とも接する。近隣には谷中銀座なる商店街があるが、かつて藍染川が流れていた暗渠の道は区境銀座だ。
豊島区と板橋区を分けるのは谷端川。これも暗渠になっている。東京23区を区切る川や水路がいかに多かったか、歩いてみるとわかる。そもそもが東京は川だらけの町だった。
銀座などはその典型的な町だ。人工的な川が多かったとはいえ、四方を川に囲まれていた。橋のつく地名が多い。銀座と有楽町、新橋、築地、京橋はいずれも川で隔てられた町である。
今、仕事場は築地にある。采女橋あたりで南東方面に枝分かれする築地川(今では首都高速道路)の支流沿いだ。目の前が川だったと思うとちょっとわくわくしてくる。築地川の支流は交差点にだけその名をとどめる市場橋を越え、築地市場の中を流れる(いや、もう流れてなんかいない)。
築地川はもう少し上流、新富町の三吉橋のところでも支流に分かれる。こちらの支流は築地本願寺の裏手を流れ、晴海通り沿いにわずかに痕跡を遺す門跡橋、小田原橋をくぐって、築地市場で先の支流と合流する。そしてアーチ型の海幸橋(残念ながらもう撤去されている)の先で東京湾に注ぐ(だから注いじゃいないって)。
築地市場にお昼を食べに出かけたついでこの辺りを歩く。まるでそこに川が流れているかのように想像しながら。
実に楽しい。
水のなくなった水辺に惹かれる人が多いというが(本当か?)、僕はどちらかというと行政区分への興味から暗渠に関心を持つようになった。
かつて川が流れていた流路の写真を撮り、Facebookのアルバムに整理した。
「川はどこに行った」というタイトルを付けた。



2017年11月29日水曜日

吉村昭『海の史劇』

イングレスでついにレベル16に到達した。
このゲームをはじめたのが2015年1月だったから、2年と10ヶ月を費やしたことになる。実をいうと11月20日あたりからポイント2倍キャンペーンがはじまったのだ(どこかのスーパーマーケットみたいだけど)。イングレスというゲームはAPと呼ばれる経験値とさまざまなミッションをクリアすることで得られるメダルによってレベルアップする。目標とするレベル16まで逆算すると年内いっぱいかかるだろうと思っていた。そんな矢先の2倍キャンペーンだったのだ。
具体的にいうとレベル16までに必要なAPは40,000,000。レベル15だと24,000,000。次のレベルまであとひとつなのにもかかわらず、実際にはレベル15までが60%、あと半分弱のAPが必要なのである。実際のところレベル1から15まで1年7ヶ月弱、15から16まで1年3ヶ月かかっている。
キャンペーン期間は10日ほどだとSNSなどでアナウンスされていた。というわけで朝晩仕事の行き帰り、お昼どきにちょっと集中して取り組んでいたらあれよあれよと予定よりもひと月はやく達成することができた。
おかげですっかり読書量が減った。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み終えたとき、友人から吉村昭のこの本もぜひ読んでみるといいとすすめられた。それから一年半、ようやく読み終えることができた。
司馬遼太郎のようなエンターテインメント性はない。史実に基づいた小説と思われる。主役はロジェストヴェンスキー率いるロシア第二太平洋艦隊だ。
そして吉村昭は(この作品に限ったことではないが)最後まで書く。戦闘終了後、つづきは『ポーツマスの旗で』で!なんてことはしない(もちろん講話交渉の襞までは描かれていない)。主要登場人物の消息まで追う。これがまたすばらしい。
ずいぶん時間をかけて読んだ。椅子の裏に牡蠣がこびり付いていなければいいが。

2017年11月22日水曜日

吉村昭『赤い人』

ふらりと立ち寄った秋葉原。
中学生の頃はトランジスタやら、抵抗、コンデンサー、コイルなど電子部品を買いに行ったものだ。JRのガード下や総武線ガード沿いのラジオデパートではまだ取り扱っている店もある。アニメーションの自主制作として電子部品を活用できないかと思って何軒か回ってみる。すでに製造中止となった東芝のトランジスタ2SC1815が20本入で200円で売られていた。
電子部品の店に組立キットがあった。デジタル時計や電光掲示板、それにモーターで動く車やロボットアームなど。聞いてみるとそれらは小さなコンピュータで制御できるという。コンピュータは名刺ほどのサイズである。オープンソースのOSをインストールすれば普通にパソコンとして使えるという。面白半分に買ってみた。
ネットで調べてみると数年前から流行っているRaspberry Pi(ラズベリーパイ)というシングルボードコンピュータとわかる。電源ソケット、USBソケット×4、LANポート、HDMIソケットにマイクロSDカードのスロットが付いている。
さっそくWindowsのノートPCでダウンロードしたOSをあり合わせのSDカードにコピーして、システムをインストールする。モニタとマウス、キーボードをつないで電源を入れる。あれよあれよと起ち上がる。ブラウザを開くとネットにつながっている。日本語入力のソフトをインストールする。これでブラウザからSNSもメールもできるようになった。
仕事場のデスクトップPCが古い機種のせいか起動に時間がかかっていたので代替機としては助かる。
不思議なめぐり合わせだった。
吉村昭『赤い人』を読む。
北海道に送られ、開拓に従事した囚人たちの話だ。北海道の町も、道も、広大な農地も彼ら開拓に従事した者たちが命がけでつくりあげてきた。
子どもたちが小さいころ、北海道を旅行した。こんな歴史の上にこの大地はあるのだと語り聞かせてやるべきだった。

2017年11月17日金曜日

寺山修司『ポケットに名言を』

明治神宮野球大会が終わった。
秋は社会人、大学、高校の全国大会が行われ、野球の一年を締めくくる。とりわけ高校野球の全国大会は春と夏に甲子園球場で開催されるため、明治神宮大会は東京で行われる唯一の全国大会だ。
今年は一回戦の日本航空石川(北信越)対日大三(東京)、準決勝の創成館(九州)対大阪桐蔭(近畿)、明徳義塾(四国)対静岡(東海)の三試合を観る。出場10チームのうちただひとつの公立校である静岡を応援していたが、優勝した明徳義塾に惜敗。春センバツに期待したい。
大学の部が4年生にとって最後の大会であるのに対し、高校の部は夏の選手権大会後に始動した新チーム最初の全国大会。各地区を勝ち抜いてきた精鋭とは言うものの、まだまだ完成度は低く、荒削りなプレーも多い。試合経験を積みかさねていくことで課題や強化すべき弱点を見出していくのだろう。今はまだそんな段階だ。
その点大学生の野球は完成度が高い。高校生の試合を観たあとだと子どもと大人ほど違う印象を受ける。投手は慎重に球種を選ぶ。丁寧にコントロールされたボールがコーナーを突く。ピンチのときも動ずることなく目の前の打者に集中して打ちとる。優勝した日体大の試合を観てそう感じた。
大学野球というと東京六大学、東都大学にいい選手が集まって高いレベルを維持していそうに思われるが、春の大学野球選手権も含めトーナメント方式の全国大会を見ると思いのほかそんなこともなく、地方の名の知れていない大学やマスコミにあまり取りあげられないリーグにも好投手、好打者がいる。野球の裾野は広く、奥は深い。
寺山修司はアウトロー、アングラの印象が強い。根強い人気があるのも彼がそうした雰囲気を持っているからかもしれない。表現する人としての寺山修司を支えていたのは広くて深い読書体験だったのではないか。そう思い知らされる一冊だ。
それはともかく慶應や東洋が決勝に残らないと大学野球は少し寂しい。

2017年11月16日木曜日

野口悠紀雄『知の進化論』

ゴッドフリー・レッジョ監督「コヤニスカッティ」を観たのは20代だった。
82年公開のこの映画がテレビで放映され、βマックスのビデオテープに録画した。たたみかける衝撃的な映像にフィリップ・グラスの音楽が印象的だった。こうした撮影手法を微速度撮影というんだと教えてくれたのは当時働きはじめたテレビコマーシャル制作会社の先輩だった。
たとえば1秒刻みに撮影した画像をつなげて動画にする。昔のムービーは1秒24コマだから24秒ぶんの動きが1秒に凝縮される。人はちょこまか歩く。夜のハイウェイでは光が走り、飛行場の上空に光が飛ぶ。
1枚1枚の写真をつなげて動画にするという点で微速度撮影はアニメーションといえる。動いていないものを動かすか、動いているものをさらに動かすかが異なるだけだ。1秒間に24コマのフィルムをまわすムービーに比べるとフィルムにかける予算を大幅に省くことができる。そもそもアニメーションはそうした経済観念にも支えられていた。フィルムは高価なものだし、現像して、プリントして、編集して。まわせばまわすほどお金がかかるのだ。
とはいえこの手法もなかなか素人にできるものではなかった。カメラを固定する。露出をはかり、できあがる映像にイマジネーションをはたらかせてインターバル間隔を決める。撮影した一コマ一コマの画像現像してつないでいく。けっして一般的ではない。
ところがデジタルカメラが普及して誰にでも簡単にできるようになった。カメラの機能にインターバル撮影というモードが加えられた。また動画編集ソフトやインターバル撮影した画像を動画にするアプリケーションも増えてきた。こうした背景もあって、ネット上では微速度撮影した動画を頻繁に見るようになった。今では微速度撮影などとはいわない。タイムラプス動画と呼ばれている。デジタルはカタカナなのだ。
知識をオープンにすることで新たな可能性が切りひらかれる。要するにそんな内容の本だ。

2017年11月14日火曜日

スコット・フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』

築地市場場外に気に入った蕎麦屋がある。
細打ちの麺がうまい。かき揚げそば、カレーそば、納豆そばなどを好んで食す。
人気店である。
昼どきは店の外でお客さんが席が空くのを待っている。場所がら観光客も多い。もちろん築地の店だけあって、築地色豊かな日替りメニューをお目当てに来るのだろう。とりわけしらす丼や海鮮丼と蕎麦のセットメニューは人気が高い。
蕎麦屋だから昼から酒を飲んでいる人もいる。それなりのネタがあるんだから、つまみにだって事欠かないだろう。夜は夜で居酒屋としても人気店であると聞いた。
蕎麦屋で飲むのはきらいじゃない(というか大好きだ)。わさびかまぼこやたまご焼き、やきとり、とりわさ、海苔なんかをつまみにちびちび飲んで、もりそばとかけそばを食べて帰る。そんな酒が好きだ。
さて築地の人気店。気に入ってはいるものの、どうも気に入らない。ランチメニューも夜の天然まぐろの中トロも。蕎麦屋のつまみは蕎麦のたねになっている材料の流用であるべきだという固定観念があるせいだろうか。せっかくうまい蕎麦を供する店なのに、蕎麦を脇に追いやっている感じが好きになれないのか。うまい刺身を食べたければ寿司屋にでも行けばいい。蕎麦屋に行ったら蕎麦屋のものを食べる。
今はそういう時代じゃないのかもしれない。刺身のうまいピザ屋や餃子がおいし鰻屋などというものがあって、それはそれでいいじゃないかと人々は寛容に心を開いているのかもしれない。たとえそれが現実だとしても海鮮丼がおいしい蕎麦屋は気に入らない(もちろん誰かが誘ってくれたらほいほいと付いていって、中トロなんかをほおばるかもしれないが)。
フィッツジェラルドを読む。村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』以来だと思う。
光文社の古典新訳シリーズで08年に刊行されている。村上訳ギャツビーの2年後だ。すっかり見落としていた。
フィッツジェラルドは悲しい。短編はとくに悲しい。絶望的に悲しくなる。

2017年11月12日日曜日

加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』

最近持ち歩いているペンタックスQであるが、電源を入れるたびに日付がリセットされる。
写真は撮れるし、時計として持ち歩いているわけではないので不便とは思わない。ただ最近は撮った写真がいつ撮影されたものであるか(さらに言えば使ったレンズ、ISO感度や絞り、シャッタースピードもわかる)が記録として残っていると便利は便利だ。しかもSDカード内に日付ごとのフォルダをつくってくれるので後々助かることが多い。
律儀な人なら電源をオンにするたびに117に電話をかけて秒数まで合わせるにちがいない。あいにくそう生まれついていないのでそのままにしている(そのままでも写真は撮れる)。
ネットで調べてみると日時を保持するバッテリーだかコンデンサーだかが弱くて同じ症状のユーザは多いようだ。そして律儀な方は12,000円ほどお支払して修理してもらっているらしい(中古でボディを買っておつりがくるお値段である)。ペンタックスは他の機種でも同様の症状があるようで、ある意味伝統芸なのかもしれない。
何か妙案はないものかと思っている。けっして律儀な人間ではないが、がめついところは否定できないのである。
村上春樹の作品がむずかしいかむずかしくないか。
そういう尺度で読んだことがないので何とも言えない。おもしろいから読む。一読者としてそんな姿勢を貫いてきた(ちょっとおおげさだけど)。
高度経済成長期まで支えてきた「否定性」という概念を覆した「否定性の否定」というキーワードが取り上げられている。たしかに肯定性の時代に村上春樹はあらわれた。その真っただ中にいたせいか、あまり意識したこともなかったが。
著者は村上作品群を初期・前期・中期・後期・2011年以降と分類している。思い返してみるとたしかにそうだなと思えはするものの、そういったこともあまり考えることなく読んできた。
おもしろいから読む。
この立ち位置はかわらないと思う。

2017年11月7日火曜日

吉村昭『海も暮れきる』

来年の甲子園をめざして各地で新チームが始動した。
11月上旬は全国10地区の地区大会が終わる。今週末から最初の全国大会である明治神宮野球大会が開催される。新しい勢力地図が描かれる。
昨年は近畿地区優勝の履正社が東京地区代表の早稲田実業に勝って優勝した。この大会で勝ったチームは来春のセンバツで優勝候補筆頭になる。もちろんその後、センバツ、夏の選手権と勝ち続けることは難しい。
明治神宮野球大会はセンバツや選手権にくらべると歴史は浅いが、過去に秋春夏と連覇した学校は1校しかない。97~98年の横浜高校がそれだ。エース松坂大輔を擁した横浜は春の関東大会も含め、新チームになってから1年間公式戦無敗を誇った(横浜は秋の国体でも優勝している)。
秋春を連覇した高校も横浜に加え、83~84年の岩倉(センバツ決勝で清原、桑田のPL学園に完封勝ち!)、01~02年の報徳学園(後に早大~トヨタ自動車~ロッテの大谷智久がエースだった)の3校しかない。トップレベルのチーム力を維持向上させながら冬を越すのがいかに難しいかがわかる。
今年の東京代表は日大三。決勝の対佼成学園戦では9回表連打で逆転し優勝した。関東地区代表は千葉の中央学院。準決勝で東海大相模を破って勢いに乗った。その他、大阪桐蔭、明徳義塾、聖光学院など名門校が出場する。東京で開催される唯一の全国大会。楽しみだ。
ここのところあまり本を読んでいない。
以前読んだ本を思い出しながら、こうしてブログを書いている。というかそもそも本の内容に関して書いているわけではないからどうでもいいことなんだけれど。
尾崎放哉についてはまったく知らなかったし、自由律俳句のことも同様。定型にとらわれない俳句というものが今でもよくわからない。たしかに「咳をしても一人」という句は詩情にあふれていると思う。心に残る。だけどこれが俳句だといわれてもどうもぴんと来ない。
尾崎放哉。ひどい生涯を送った人だ。

2017年11月6日月曜日

吉田凞生編『中原中也詩集』

出かけるときはカメラを持ち歩く。
町歩きのメインのカメラはパナソニックのLUMIX GX-1というちょっと古いマイクロフォーサーズ。このボディにニコンの20mmやフォクトレンダーの17.5mmか25mmを付けて出かける。野球を観るときはカール・ツァイスの85mm。マイクロフォーサーズだと160mm(35mm換算)の望遠になる。
荷物を多くしたくない旅行や外出用にペンタックスQという小さなミラーレスカメラも持っている。小さいだけのカメラで飛び抜けて素晴らしい写真が撮れるわけではない(もちろん撮影者の技術にも問題があろう)。ペンタックスQシリーズはQ7とかQ10など新しい機種が次々に登場したが、マグネシウム合金でその筐体を仕上げた初代Qは格別に持ち味がいい。
ペンタックスQには標準ズームレンズを付けて出かけることが多い。他の選択肢が少ないからだ。Dマウントレンズという昔の8mmカメラで使われていたレンズをマウントアダプターを介して使うこともある。中古カメラのショップで5.5mmというオールドレンズを手に入れた。35mm換算にして30mm。イメージサークルの関係で四隅はケラれるけれどまずますのワイドレンズである。
読んだけれどブログに残さなかった本が幾冊もある。
読み終わって何年も経つとなんでこれを読んだのか、そのとき何を考えていたのかなど思い出せない。この詩集もそのひとつ。少しだけ思い出せるのはその頃の通勤途中、耳さびしくなり、何か聴きたいと思って、図書館で借りたCDを(もちろん個人で楽しむために)録音し、仕事の行き帰りにゆわーんゆわーんと聴いていたことだ。
言葉を耳で聴くというのはいいものだ。言葉が「ことば」になる。そのうちもの足りなくなって詩集を読むことにした。
どの詩を読んでも切ない気持ちになるのはどうしてだろう。
まるでオールドレンズで撮ったみたいな風景が眼前にひろがるのだ。

2017年10月30日月曜日

宮下紘『ビッグデータの支配とプライバシーの危機』

イングレスというゲームがある。
以前も紹介したかもしれない。ポータルという拠点を占拠し、リンクでつないで陣地をひろげていく。そんなゲームだ。敵の陣地を破壊するための武器があり、ポータルにレゾネーターというパーツを挿すことで自陣にする。さらに防御用のアイテムもある。
エージェントと呼ばれるプレイヤーが参加している。レベルは1から16まで。一応レベル16が目標なのだが、それを過ぎても楽しんでいるユーザも多い。このゲームの奥深さを感じる(FoursquareというGPSを利用したSNSにゲームの要素を加えたアプリと考えていい)。
イングレスには(当然のことながら)膨大な数のエージェントが参加している。いわゆるビッグデータ処理技術の上に成り立っているゲームである。それぞれのエージェントがどれほどの個人情報と紐づいているかはわからないが(グーグルアカウントと連繋している人も多い)、多数のエージェントの動きを処理するとともにひとりひとりの活動履歴も残している。
毎日朝晩活動している場所ならそのエージェントが住んでいる地域であろうし、日中であれば勤務先がそのあたりである公算は高い。毎週決まった日に特定の場所でゲームをしているとすれば、その付近で習いごとでもしているかもしれない。こうしてイングレスを楽しんでいる人たちは着実に行動履歴を残していく。
その人の生活圏や移動のパターンがわかればマーケティングに活用できる(もちろんメールやSNSのアカウントと紐づいてればだが)。スーパーマーケットや地元商店のお買い得情報や勤務先近くのランチ情報の提供など。個人情報の利活用とはそういうことだ。これはイングレスに限った話ではない。大型店舗のポイントカードだって同じこと。
個人情報は今後さらに利活用され、個人も企業も自治体もその恩恵にあずかることだろう。そのぶんじゅうぶんな管理がなされなければならない。要するにそういうことだ。

2017年8月27日日曜日

佐々木俊尚『ネットがあれば履歴書はいらない-ウェブ時代のセルフブランディング術』

甲子園が終わると、来年の甲子園に向けて2年生中心の新チームが始動する。
当面の目標は北海道、東北、関東、東京、東海、北信越、近畿、中国、四国、九州の10地区の代表を決める地区大会だ。北海道と東京をのぞけば、地区大会の優勝・準優勝チームが来春のセンバツに出場できると思って間違いない。
東京都も来月から地区大会の一次予選がはじまる。24の会場で勝ち進んだ64チームが本大会に進出。新チームによる最初の公式戦なのでシード校はない。ガラガラポンの抽選で組み合わせが決まる。
組み合わせが決まった翌日の新聞で記事になっていたのはこの夏ともに甲子園まで駒を進めた東海大菅生と二松学舎が初戦で対戦する。もちろんここで負ければ夏春連続出場はなくなる。
この一次予選は江戸川球場などをのぞけば指定された当番校のグランドで行われる。当番校というのはシード校みたいなもので、当番校同士は本大会まで対戦しない。当番校でない学校は自校にグランドを持っていても他校で試合をする。強豪チームのグランドへ出向いて、組み合わせ抽選によっては初戦で強豪校とぶつかる。今回の二松学舎はそうした例だ。
二松学舎だって千葉県柏に人工芝の野球場を持っている。ただ会場校に指定されないだけである。立地の問題もあるだろう。遠方の学校が早朝柏まで遠征するのは容易ではない。東東京の学校は千葉、埼玉などにグランドを持っていることが多い。都外で会場になっているのは埼玉県八潮市の修徳くらいのものだ。
ということで24の会場のうち19までが西東京で行われる。二松学舎や安田学園、東海大高輪台など東東京の強豪は遠征を余儀なくされるわけだ。
だからどうということでもないが、有力校が早々と姿を消していくのは残念でならない。
4年ほど前に読んだ本。
ネット時代は自己PRや本書の題名にもなっているセルフブランディングが容易にできるという。裏返せば個人情報がだだ洩れになるということでもある。

2017年8月22日火曜日

チャールズ・ディケンズ『二都物語』

今夏全国高校野球選手権大会は花咲徳栄高校が優勝した。
埼玉県勢初だそうだ。
とにかく今年は打撃の大会だった。昨秋の明治神宮大会決勝は履正社が11得点、センバツ決勝は大阪桐蔭が14得点、そしてこの夏の決勝も花咲徳栄が14得点である。この夏の大会は本塁打も68本飛び出した。広陵の捕手中村奨成は清原を上回る大会新の6本塁打を打った。ここしばらく高校野球は攻撃力主体になるのだろうか。
何年かにいちど、長い小説を読みたくなる。それがディケンズだったりする。英文学が好きだというわけではない。ディケンズも『デイヴィッド・コパフィールド』『オリバー・ツイスト』くらいしか読んだことはない。
『二都物語』はずいぶん昔のことだがテレビで放映された映画をビデオテープに録画して(それもベータマックスだったからたしかに昔のことだ)、何度も観ようと思った。テレビに映し出されるモノクロの画面。馬車がやってくる。と同時に眠気もやってくる。そういうわけで結局最後まで観ることもないまま世の中からベータ方式のビデオデッキはなくなってしまったのだ。
ということで今回手にしたこの本は中学生がはじめて文庫本を買ったときと同じくらいまっさらな状態といえる。最後どうなっちゃうんだろうという予備知識も何もなく読み進めるって楽しい。もちろん過去に読んだディケンズから多少なりとも学習はしているので、どのみちハッピーな結末が待っているのさ~なんて予想を自分なりに立ててはいた。
期待は、いい意味で裏切られた。こんな結末だったのかと。もちろんここで詳細を書くつもりはない。要するにこれまで読んだディケンズ的な終わり方じゃなかったっていうことだ。つくづく映画をちゃんと観ておかなくてよかったと思った。
東京ではもうすぐ秋季大会のブロック予選がはじまる。来夏に向けて、その前にセンバツに向けて、さらには明治神宮大会に向けて野球の新しい季節が今年もはじまる。

2017年8月20日日曜日

吉村昭『闇を裂く道』

丹那トンネルが開通するまで東海道本線は国府津から箱根の山を迂回して沼津に出ていた。
旧東海道本線は御殿場線という名のローカル線になっている。古い幹線の名残りを見に国府津まで出かけたことがある。もともと東海道本線なだけあって、かつて複線だった跡やトンネルの跡を見ることができた。
富士山を間近で眺めることのできるのどかなローカル線ではあるが、東海道本線時代には輸送量の多さと勾配のきつい難所越えがネックだった。国府津や沼津での機関車交換に時間をとられた。急坂を登りきれずレールの上を車輪が滑るため、機関車前部から砂を巻きながら走ったともいう。
SLの時代でなくなってからも国府津駅にはしばらく機関庫と転車台が遺されていた(ように記憶している)。雄大な富士をバックに蒸気機関車全盛期に思いを馳せる。
丹那トンネルは熱海(来宮)と函南を結ぶ。完成当時清水トンネルに次ぐ日本で二番目に長いトンネルだった。その上は丹那盆地があり、湧き水の豊かな水田地帯だったという。わさびが名産だったというからそれはきれいで豊かな水だっただろう。
吉村昭のトンネル作品には黒部ダム建設用のトンネルを掘るノンフィクション『高熱隧道』がある。火山帯の高熱地下を掘り続ける話だった。こんどのトンネルは水攻めである。トンネル内に流れ出る水は工事を難航させただけではない。丹那盆地の住民の生活をも変えてしまった。出水で枯れたこの地はその後酪農と畑作を主とするようになった。
なにしろ15年もの歳月をかけて開通したトンネルだ。この本だけでは語り尽くせぬ物語があったにちがいない。崩落事故や崩壊事故で多くの犠牲者を出した。崩落事故にまきこまれた17名の作業員が一週間後救出される。闇の中でじっと救助を待つ。読んでいるだけで酸素が薄く感じられてくる。
こんど熱海に行く機会があったら、温泉なんてどうでもいいから、トンネルの入り口を見てみたい。

2017年8月9日水曜日

吉村昭『高熱隧道』

トンネルを掘ったこともなければ、トンネル工事を想像したこともなかった。
黒部川発電所建設のインフラ整備のひとつとして谷深い秘境にトンネルを掘る話がこの『高熱隧道』だ。
広告の仕事を続けていてよかったと思うのは、自分では経験できなかった職業の人と出会えたことだ。銀行や証券会社、食品会社などの担当者からそれぞれの業界の苦労話を聴くことは楽しいことだ。空調設備の設計や船舶の船級審査など、一生知りえなかった仕事だったかもしれない。製靴会社の工場で見せてもらった職人の技術も忘れられない。
ひとりの人生でふれることのできる職業の数なんてたかが知れている。そういう意味では吉村昭は興味深い作家である。日本全国を駆けまわって蜂蜜を採取する養蜂家、青森県大間でマグロを釣る人、戦闘機や戦艦をつくる人。読書ならではの出会いだ。
東京の葛西に地下鉄博物館という施設がある。トンネルはシールドマシンという円筒形の巨大な掘削機で掘り進むと紹介されていた。さほど難しい作業ではないと思っていた。ところが読んでみると黒部峡谷に穿ったトンネルの工法はそうではない。穴を開け、ダイナマイトを入れ、爆破する。土砂を運び出してはまた穴を開けてはダイナマイト。この作業を延々繰りかえす。トンネルの両端から掘り進み、中心点はほとんどずれないというから驚きだ。技術者の設計がそれだけ正確であるということらしい。
大手ゼネコンである大成建設は「地図に残る仕事」というキャッチフレーズでずいぶん長く企業広告を展開している。魅力を感じる素敵なコピーだ。しかし建設土木というと危険をともなう仕事である。ましてや相手が“自然”ならなおさらだ。命がけの仕事だ。
黒部峡谷のトンネルの場合、現場にたどり着くだけでも命がけの現場であり、自然の脅威にさらされながらの作業が続く。手に汗握るシーンが続く。もちろん手に汗をかくだけでは済まない。なにせ“高熱”なのだから。

2017年7月28日金曜日

根来龍之『プラットフォームの教科書』

道を訊ねられることが少なからずある。
銀座の三原橋の交差点で新橋演舞場はどこですか、みたいに。晴海通りを指差してこの先に万年橋という信号がありますからそこを右に。ルノアールの看板が目印です。少し行くと采女橋という信号があるので直進してください。左手に見えてきますよ、などとおしえる。
不思議なことにほとんどの人は僕の知っている場所を訊いてくる。昔、京都の大丸の前で烏丸駅はどこですかと話しかけられたこともある。
それはいいとして、もしもあるとき見知らぬ人からプラットフォームってどういうものなんですかと訊ねられたら、おそらく答に窮するだろう。しかし人生というものは何が起きるかわからない。その矢先書店で目にとまったのがこの本だった。
読めばわかるけどそれを人に伝えることが難しいことってあるよね。とりわけICT関連で多い。ひととおり読んで、そうかそういうことだったんだと理解したものの(それを理解と呼んでいいなら)、やはり道を訊ねるみたいに訊かれたら答えられるかどうか、自信がない。
休日お昼にラーメンが食べたくなったとする。その際の選択肢としては少し歩いて駅前のラーメン店に行くか、スーパー、コンビニで購入してうちでつくるかが考えられる。これはプラットフォームではない(僕の勝手な解釈だけど)。玉子やほうれん草を茹でたり、ねぎをきざんだり、場合によっては豚肉のかたまりを買ってきてチャーシューからつくることだってある。人によってはメンマだって炒めるにちがいない。もちろんお店で食べるとしてもこうしたプロセスは当然必要だ。
ではプラットフォームとはなにか?
それはカップラーメンではないだろうか。ラーメンを食するという欲求を満たすあらゆる工程がレイヤー化されている。誰もがそこに参加できる。お湯を沸かし、注ぐだけで均質な利便性を得られる。
ちょっと違うかもしれないけど、こんど道で訊ねられたらそう答えるようにしよう。

2017年7月26日水曜日

小霜和也『急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。』

1980年頃、すなわち僕が大学生だった当時、デジタルと名の付くものといえば時計くらいしかなかった。
今ではあらゆるものにデジタルという言葉が付く。カメラはデジタルカメラになった。デジタル家電なる製品も一般的なものとなった。有形物でなくてもデジタルマーケティングなる方法論も生まれた。
デジタルクリエイティブは少し違うような気がしている。それは方法論としてデジタル化された手法を意味するのではなく、デジタル化のすすんだ世の中でどういったコミュニケーションが有効かを模索する考え方なのではないかと思っている。
そもそもクリエイティブという仕事は課題解決のための方法のひとつで視聴覚=感性を刺激する高速で平易なコミュニケーションであり、そのためのアイデアの集積回路みたいなことかなとずっと思っていた。
方法論としてのデジタルクリエイティブの端緒はコンピュータ上であらゆるデザインや動画の加工・編集ができるようになったことではないだろうか。センスのある職人の手からセンスのある人の手にクリエイティブは譲渡された。手仕事のデジタル化だ。写植文字を切り刻んで素敵なボディコピーをレイアウトする仕事がなくなり、フイルムをひとコマずつ切ってつなぐ職人技が意味をなさなくなった。
あくまで方法論の話であるが。
デジタルクリエイティブとはデジタルな環境下でより効果的な広告表現ということか。それは(ある程度まで)計測可能で、PDCAがまわせるシステムであり、まさに「運用する」クリエイティブである。そのためには総合系エージェンシーとデジタル系エージェンシーとの融合が欠かせないという。
もちろん筆者の出自はデジタルでなく、クリエイティブだからクリエイティブ寄りの見解が多い。「デジタル系エージェンシーはこれまでクリエイターを育ててこなかった」と一刀両断されているもともとデジタル系の方はこの本にどういった反応を示すだろうか、興味深い。

2017年7月25日火曜日

吉村昭『陸奥爆沈』

何ヵ月か前のこと、会社のネットワークがつながらなくなってしまった。
インターネットにもつながらないし、プリンタで出力もできない。LANのケーブルもWi-Fiもまったく用をなさなくなってしまった。
配線とメンテナンスをお願いしている会社の人に来てもらったが、原因がわからない。ルータをリスタートしても復旧の兆しがない。応急処置として以前使っていた予備のルータに入れ替えたところようやくつながった。
その翌日同じ人が来て、もとのルータに接続しなおした。普通につながる。昨夜の不通は何だったのか。
管理部門から原因がわかり次第お知らせしますというメールが届いたけれど、もう何ヵ月か音沙汰なしだ。こうして世の中に数多ある通り雨のような不具合は忘れ去られていく。
最後に船に乗ったのはいつだろう。
3年ほど前だったか、南房総の館山市を訪れた帰りに浜金谷からフェリーに乗り、久里浜に渡った。わずかな航海だったが、東京湾をわたる風が気持ちよかった。お昼に食べたアジフライもうまかった。
とある仕事で「ちきゅう」という船に乗ったことを思い出した。
「ちきゅう」は地球深部探査船といって海底深く穴を掘ってその堆積物などを採取する特殊な船だ。内部を取材させてもらう仕事だったので海に出たわけではない。清水港で停泊中に乗せてもらった。
人にもよるけれど何か特別な事情でもないかぎり、人はそう頻繁に船には乗らないのではないかと思う。ましてや軍艦に乗るなんてことも、たぶんない。
その身近でない軍艦を間近で見せてくれたのは、吉村昭の『戦艦武蔵』だった。その製造過程を読むかぎり、軍艦が爆沈するなど想像にもおよばないのだが、さすがに火薬庫に火が着けば沈んでしまうものなのだね。しかも軍艦爆発事件のほとんどが人為的な原因だったという。人間が恐れるのはやはり人間ということだろうか。
さて、先のネットワークの不具合だが、原因はいまだに究明されていない。

2017年7月24日月曜日

吉村昭『七十五度目の長崎行き』

ちょうど昨年の4月と7月に仕事で長崎を訪れた。
波佐見という町にある小さな社がある。水神宮という。土の神様と水の神様が祀られている。その社殿に奉納される天井画を取材した。はじめての長崎だった。というかはじめての九州だった。
仕事で行く旅は味気ない。効率が最優先されるからだ。
早朝の飛行機、レンタカーでの移動、宿の近くで夕食。翌早朝から取材・撮影して、最終の飛行機で帰京する。仕事だからといえばそれまでだけど、それでも長崎に行ってきたというと眼鏡橋は見てきたか、グラバー園には行ったのか、ちゃんぽんは食べたのかと訊ねられる。行ったところは波佐見という焼きものの町で長崎市街にいたのはほんの2時間ほどだ。三菱重工長崎造船所もシーボルトや坂本龍馬ゆかりの地もまったく訪ねていない。
負け惜しみではなく、多くの人が想像するのと少しちがった旅ができるのはそれはそれでうれしいこともある。
長崎空港から波佐見町に行くにはJR大村線に沿った国道を北上する。川棚という小さな駅(これがなかなか風情のある駅なのだ)を目印に川棚川沿いを上流に行ったあたりが波佐見町だ。このあたりは穀倉地帯で麦畑がどこまでもひろがっている。仕事の合間や移動中にレンタカーの窓から見た風景こそ何ものに代えがたかったりするものだ。
ちなみに朝9時過ぎに東京駅を出発すると川棚駅に16時半に着く。乗換はわずか2回である。いまどき陸路で長崎に行くのもどうかと思うが、思いのほか遠くない(波佐見町のもうひとつの入口JR佐世保線の有田駅なら乗換1回で16時前に着く)。いつかそんな旅をしてみたい。
吉村昭は長崎を舞台にした作品をいくつも書き上げている。その訪問回数は100を超えるという。そのほとんどが資料収集や取材などの仕事だったわけだからやはりあわただしい移動のくりかえしだったのではないだろうか。
移動の車窓から吉村昭はどんな風景を目にしただろうか。

2017年7月10日月曜日

中尾孝年『その企画、もっと面白くできますよ。』

ときどき思い出したように広告クリエイティブの本を読む。
お目にかかったことのある人、いっしょに仕事をしたことのある人より、最近ではほとんど面識のない方の書いた本が増えてきた。時代を引っ張ってきた先達が少しづつ世代交代をくりかえし、業界内での新陳代謝がすすんでいるせいだろう。
中尾孝年は電通入社当初、中部支社クリエーティブ局に配属されたという。21世紀になる少し前のことだ。僕は当時、中部支社のCM企画を年に何本か手伝っていた。エネルギー関連の仕事やコンビニエンスストアのキャンペーンなど。
新幹線で名古屋に行って、夜遅くまで打合せをして、ぎりぎり最終ののぞみ号で帰るか、クリエーティブ局の方々とお酒を飲んで一泊し、翌朝帰京した。いっしょにチームを組んでいるCMプランナーに同世代が多く、仕事が片付いても話は尽きなかった。
当時は(今もそうだけど)仕事をするうえであまり余裕がなく、自分のアイデアを絵コンテに描いて、さらにその案をプレゼンテーションの舞台にのせるだけで精いっぱいだった。誰かが考えたアイデアに自分のアイデアを盛り込んで、ブラッシュアップしたりもした。そうして一年に何本かテレビコマーシャルになってオンエアされた(名古屋地区だけ放映されてできあがりを視ていない仕事も多かった)。
自分なりに「面白い」広告を考えよう、つくろうと努力してきたつもりだけど、今になってみるとさほど面白くはなかった気がする。もっと面白くしようという熱意みたいなものがなかったような気もする。とりあえず面白そうなカタチになればそれでいい。そうしてお酒を飲みに出かけた。
著者の中尾孝年はおそらくその頃の新入社員だったのだろう。
おじさんたちがとっとと仕事を片付けて、栄の街に繰りだしていく頃、クリエーティブ局のフロアでひとり「面白い」企画を追求していたのだろう。そして当時彼を指導した上司にも勝るすぐれた上司になっているにちがいない。

2017年7月4日火曜日

星野博美『戸越銀座でつかまえて』

その昔、高輪あたりが江戸のはずれだった頃、さらに南へ進んだ江戸越えの集落が戸越だという。
明治になって戸越村は周辺のいくつかの村と統合して、平塚村になり、昭和になって東京市に編入され荏原区となる。戦後荏原区は旧品川区と合併し、現在の品川区になった。
僕が生まれ育った町は旧品川区と荏原区の区界に近い。立会川という川が流れていて、橋を渡れば旧品川区だった。三菱重工や日本光学(現ニコン)の工場があり、さらに下流には国鉄大井工場があった。現在ではJR東日本総合車両センターとなっている。旧品川区の大崎地区も工業地帯だった。現在のように再開発がすすめられる以前、大崎駅周辺は武骨な工場が林立していた。
旧品川区にくらべると荏原区は商業がさかんだったイメージが強い。もともと農村地帯だったからさほど歴史は古くはないだろうが、武蔵小山や戸越銀座、中延に大きな商店街を持っているのが特徴的だ。
戸越銀座は関東大震災後の復興にあたり銀座からレンガをもらい受けたことがきかっけで命名された日本初のなんとか銀座であるという。品川区内の商店街としては圧倒的な知名度を持っている。
それでいて個人的に少々距離を感じるのは(たしかになにか買い物をしたという記憶がまったくない)先述したように荏原区のはずれで育ったせいかもしれない。買い物をするにもどこかに出かけるにしても大井町駅を起点としていた。東急大井町線高架下の商店街や阪急百貨店に幼少の記憶が集中している。戸越銀座には無縁だったが、武蔵小山や中延の商店街(当時アーケードが付いているだけでモダンな商店街だった)には思い出がある。中学校の制服を扱う洋品店があったからだ。
というわけでこれまで疎遠にしていた戸越銀座とお近づきになりたく、ときどき散策したり、本書のようなタイトルの本を読んでみたりしているのである。
そういえば僕が通っていた幼稚園は戸越銀座商店街のすぐそばにある。

2017年6月30日金曜日

山本周五郎『つゆのひぬまに』

日本には季節が四つあるが、野球には春夏秋と三つの季節がある。
これは個人的に季節分けをしているだけで世の定めでも自然の摂理でもなんでもない。3月から5月が春、6月から8月が夏、9月から11月が秋。
春。高校野球でいえば、甲子園球場で選抜大会が開催され、春季地区大会の予選がはじまる。大学野球の春季リーグ戦、社会人野球もJABA(日本野球連盟)主催の大会が各地でスタートする。もちろんプロ野球もだ。
高校野球の地区大会が終わり、都市対抗野球の代表が決まって春野球は終わる。
夏野球は大学選手権から。高校野球も選手権大会の予選がはじまる。7月になれば毎日のように甲子園をめざすチームが熱戦を繰りひろげ、社会人は東京ドームで日本一を競う。そして8月には甲子園。
大学選手権は35季ぶり東京六大学春季リーグ戦優勝の立教大が59年ぶり4度目の優勝を飾った。立教は長嶋茂雄がいた昭和32年と翌33年に連覇している。それ以来の優勝ということで決勝戦は多くのOBが神宮球場に集まったという。もちろん長嶋さんも。
主将の熊谷敬宥は仙台育英時代に上林誠知(ソフトバンク)らとともに明治神宮大会で日本一を経験しているが、長嶋茂雄の目の前でインタビューを受け、チームメートに胴上げされるなんて一生の宝物だろう。
山本周五郎の珠玉の短編集を読む。冒頭の「武家草鞋」からすばらしい。「おしゃべり物語」も「妹の縁談」もいい。なんといっても表題作「つゆのひぬま」がいい。この原作をベースに黒澤明が脚本化した「海は見ていた」はその後遺志を継いだ熊井啓が映画化した。遺作「まあだだよ」の後作品化された「海は見ていた」と「雨あがる」の二編は黒澤最晩年期の仕事である。「海は見ていた」はぜひ観てみたい。
6月ももう終わる。来月は都市対抗野球に高校野球選手権大会。大阪や西東京など有力校がそろった地方大会からも目がはなせない。
この夏はどんな野球にお目にかかれることか。

2017年6月27日火曜日

ウィリアム・サマセット・モーム『月と六ペンス』

2009年、国立近代美術館でゴーギャン展を観た。
「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」が日本ではじめて公開された。1897~98年に描かれたこの作品は世界的に高く評価されている。ボストン美術館まで出向かずに観ることができたのはラッキーだった。
ポール・ゴーギャン(ゴーガン)のタヒチでの日々は自伝的回想『ノアノア』に描かれている。
モームの『月と六ペンス』をはじめて読んだのはいつ頃だろうか。新潮文庫で読んだ記憶がある。装幀に特徴があったからだ。いつしか光文社の古典新訳文庫シリーズの一冊として上梓されていた。ゴーギャンをモデルにした小説だったことは憶えてはいたものの、あらためて読み直してみると人の記憶なんてこんなものかと思う。
ゴーギャン(もちろんチャールズ・ストリックランドのことだ)がこの世のものとは思えないくらい最低な人間として描かれている。突如として迸り出た主人公の天才、その深さ奥行を際立たせる演出かも知れないが、あんまりだ。モームが本当に描きたかったのは実はストリックランドと対比される凡庸な人びと(妻を寝とられた友人ストルーヴや突如裕福な生活が舞い込んできた夫人)だったのだろうか。
僕の記憶の中のストリックランドはある日才能にめざめ、タヒチにわたって開花した天才画家というストーリーでしかなかった(世界的に認められたのはその死後であるけれど)。おそらく年月とともに読んだ当時の記憶が薄れ、その後作品を観たり、別の本を読んでいくうちにいやな人ではなくなってしまった。『月と六ペンス』もゴーギャンの伝記的小説でしかなくなってしまった。
それでしばらくぶりに読み直してみたら「あれ、こんなひどい人間だったっけ」となってしまったわけだ。
そういえば昔タヒチを訪れたことがある。ゆるやかな時間が流れていた。
ゴーギャンの時代はマルセイユから2か月かかったという。
きっと心が洗われる旅だったにちがいない。

2017年6月20日火曜日

関川夏央『昭和が明るかった頃』

CM制作会社でアルバイトをはじめて何度目かの撮影現場ではじめて吉永小百合を見た。
ある飲料のお中元用のテレビコマーシャルだった。
映画やテレビ番組などさほど多く出演しておらず、テレビコマーシャルも4~5社と契約していたが、それ以上は出演しないというのが事務所の方針だったと聞いた。
全盛期の吉永小百合を知らない僕たちの世代にとって彼女は圧倒的なスターだった。もちろん全盛期を知る上の世代にとってもこれは同じことだろう。シズル撮影(僕たちはグラスに注ぐ飲料のカットを撮るためにグラスを磨いたり、氷を削ったりしていたのだ)の準備のかたわら、照明機材の隙間から遠く見る吉永小百合は光彩を放っていた。
吉永小百合は何を演じても吉永小百合である。体当たりの演技や汚れ役ができない。そんな批判も一方であったという。関川夏央は吉永小百合の全盛期は1962年春(浦山桐郎監督「キューポラのある街」)から64年秋(清水邦行監督「愛と死をみつめて」)と言い切る。それ以降一本もヒット作がないにもかかわらず神話的な存在でありえたのはその全盛期に団塊の世代とその上の男たちが清純派として冒しがたい空気をまとった吉永小百合像をつくってしまったからだという。
吉永小百合が日活のトップスターになった背景には石原裕次郎が61年スキーで大けがをしたこともある。
関川夏央は吉永小百合と石原裕次郎を対比させながら、戦後激流の時代を読みとる。吉永小百合に関しては当時の社会の変化や日活という環境、そして勤労少女たらざるを得なかった彼女の家庭環境、そして生真面目な性格がキャパシティの小さな女優として早熟な運命を課してしまったのかもしれない。
もちろん作者のめざしたところは娯楽映画の歴史や俳優論ではなく「ある時代の思潮と時代そのものの持つ手ざわり」(文庫版あとがき)である。
関川夏央が愛してやまない戦後昭和の第二期(昭和35年から15年)がそこにある。

2017年6月13日火曜日

安西水丸『神が創った楽園』

1992年9月から10月にかけてニューヨークに遊びに行った。
当時のメモにはセントラルパークの回転木馬(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に出てくるあの回転木馬だ)を見ること、安西水丸がニューヨーク滞在中住んでいた家をさがすこと、トイザらスでおもちゃを買うこと、TYMNETという中継サービスを利用してパソコン通信をすることといったささやかな目標が記されている。
安西水丸は1969年3月羽田空港を立ち、ハワイ経由のパンナム機で渡米した。はじめはハドソン川のほとり、リバーサイドドライブにあるアパートに住み、その後アッパーイーストの閑静なアパート(たしか83st.だったと思う)に引っ越している。
1990年、僕はタヒチを訪れている。新婚旅行でだ。
特にどうしても行きたい場所が思いつかなかった。当時は毎日忙しかったから、日常から逃避できる南の島がいいんじゃないかと思った。できればフランス語圏がいい。選択肢は狭まってきて、行き先はタヒチに決まった。予備知識はなにもなかった。パペーテからプロペラ機に乗り換え、海の上の空港に着き、船でボラボラ島へ。ポール・ゴーギャンやサマセット・モームの『月と六ペンス』を思い出したのは到着してしばらくたってからのこと。
安西水丸は2004年にタヒチ・ビバオア島を訪れている。
彼の訪ねた町や通ったバーなど、僕はいつも後を追いかけるように訪問していたが、めずらしいことにタヒチに関しては僕の方が先輩である。とはいえやはり絵を描く人だけあって、ゴーギャンの足跡を追っている。ぼんやり海をながめながらヒナノビールを飲んでばかりいた輩とはちょっとちがう。
そもそも僕は「何もしない」をしに行く旅だったのでパペーテとボラボラ島以外は訪ねていない。複製だらけのゴーギャン美術館に行った気もするが記憶にない。
ちなみに僕はニューヨークに行ったのにストロベリーフィールズを訪ねていない。

2017年6月12日月曜日

一坂太郎『幕末歴史散歩東京篇』

表記といえばやはり外来語の表記は難しい。
以前にも書いたけれど本来日本語ではない言葉を日本語に置き換えるわけだから誤差が生じるのは致し方ない。最近ツイッターやインスタグラムに投稿する際のハッシュタグで迷うことが多い。
たとえば#ラーメンと#らーめん。これはカタカナ表記するかひらがな表記するかだけの違いだからまあどちらでもよい。汁物のラーメンは日本で生まれた文化だかららーめんと書くのも一理ある。もちろん拉麺と表記することもあるだろう。漢字にしておくことで翻訳というワンクッションを避けるねらいもあろう。Babyと書いておけばベイビーでもベイビィでもベイベでもそのニュアンスは読み手にゆだねてしまえる。
焼売はどうだろう。これもシューマイかシュウマイで迷う。携帯電話をケイタイとするかケータイにするかに近い感触をおぼえる。シューマイはどうも軽薄な気がする(実にどうでもいいことであるが)。インスタグラムのハッシュタグで多数派は#シュウマイである。僕もカタカナで書くならシュウマイの方がいいと思っている。ただし、炒飯はチャアハンではなくてチャーハンだろうというご批判もあるだろう。それもよくわかる(わかったところでどうしようもないのだが)。
中公新書の『幕末歴史散歩東京篇』を読む。著者はもともと山口県の学芸員だったそうだ。仕事の合間や出張のついでに訪ね歩いたのだろう。膨大な史跡コレクションには感服する。
落語「居残り佐平治」、川島雄三監督の映画「幕末太陽傳」の舞台となった品川宿の土蔵相模の復刻模型が品川歴史館にあることを知る。東京到る処史跡ありだ。
ところで外来語ではないのだが、冷やし中華は冷し中華か、冷やし中華で悩むことがある。初夏の訪れを告げるいわゆる「はじめました」の貼り紙には冷し中華が多い気がしているが、インスタグラムのハッシュタグでは#冷やし中華の方が多数派である。
ほんとうにどうでもいいことではあるが。

2017年6月6日火曜日

関川夏央『昭和時代回想』

先日ある動画を編集していたときのこと。
何か気になるところはありますかと意見を求められたので、インタビューシーンのテロップ「良かった」は「よかった」の方がいいんじゃないかと言ってみた。ディレクター氏がここのインタビューではひらがなが続くのでここは漢字にしておきたいというのでじゃあそうすればと答えた。ひらがなが線路のようにどこまでも続こうが「良い」は「よい」もしくは「いい」であると個人的には思っている。もちろんこれはあくまで個人的な話なので他人様に強要することではない。
個人的な話を続けると「何々するとき」「なになにしたこと」は「する時」「した事」と表記しない。ひとつに文章が古くさく感じられるせいだが、もちろん個人的な話だ。
長いこと広告制作の仕事にたずさわっていると印刷媒体にくらべると映像媒体の制作者の方が漢字を使いたがる。テレビという限られたスペースで文字数を節約しようとの配慮だったかもしれない。僕が個人的にあまり漢字を多用しないのは漢字をあまり多用した文章を読む機会が極端に少ないからだ。
わざとらしい漢字表記もいかがなものかと思う。「おいしい」を「美味しい」と書くのはちょっと恥ずかしい。「はやり」を「流行り」とするのは何となく気が利いていると思う。
関川夏央がふりかえる昭和が好きだ。昭和をいとおしむ姿勢と視線が好きだ。
これまで読んできた筆者の本にはほとんど言及されていなかった彼自身の昭和も描かれている。僕が生まれ育った時代、その10年前に思いを馳せてみる。昭和は案外いいやつな顔をしてそこにたたずんでいる。
関川によれば戦後昭和は15年刻みでその相を変えているという。終戦から昭和35年までの混乱と復興の時代。35年から50年までの高度経済成長とその挫折の時代。さらに昭和の終焉とバブル景気の時代。非常にわかりやすい分類だ。
あっという間に過ぎ去っていった昭和。今にして思えばなんてもったいないことをしたか。

2017年6月2日金曜日

内田百閒『阿呆の鳥飼』

黒沼真由美というアーティストがいる。
学生時代は油画を専攻していた。大学院修了後テレビCMの制作会社で企画にたずさわりながら、どちらかといえば立体の造形に関心が移っていったようだ。正直に言ってひと目見ただけではよくわからないオブジェをつくっていた。
あるとき目黒寄生虫館を訪れた際、何か閃いたのだろう、レース編みでサナダムシを編み上げた。以後レース編みを駆使してミジンコやらセミやらクラゲなどをつくっている。
もともと生き物が好きだったのだろう。隻眼の猫を飼い、競馬中継を丹念に視聴し、セミの抜け殻を集めていた。疾駆する競走馬の筋肉の動きをスケッチしたりしていた。
普通の人には見えないものが見えている。それが芸術家の芸術家たる所以ともいえるが、そういった資質を彼女は持っていた。動きから構造が見えてくる。その逆もある。しくみから動きが見えてくる。もちろんそんなことは凡人には見えてこない。長いこと同じ職場で仕事をしていたが、幸か不幸かさして影響を受けることもなった。ただひとつ黒沼真由美の影響をあげるとすれば内田百閒を読みはじめたことかもしれない。
『阿房列車』を皮切りに内田百閒との旅がはじまった。
鉄道や列車はもともと好きだったので思いのほか苦も無くこのとっつきにくい先生と親しくなることができた。用もないのに列車に乗りに行くことが正当性のある行為であるということもおしえてもらった。百閒先生は黒澤明監督「まあだだよ」でかつての教え子たちに「せんせい!せんせい!」と呼ばれている。僕もおそらくそのなかのひとりだと思っている。そして先生は鉄道だけでなく、猫だけでなく、小鳥に関しても阿呆だとこの本におそわる。そういえば映画の中で先生は鳥かごをだいじそうに運んでいたっけ。
この本には小鳥に限らず、小動物を愛でる百閒先生の気持ちが随所に描かれている。思わず涙が浮かぶ。笑みがこぼれる。まるで黒沼真由美の毎日を見ているようである。

2017年5月24日水曜日

城山三郎『指揮官たちの特攻』

九段坂上の高校に入学して間もなく、靖国神社を訪ねる機会があった。
当時は遊就館なる展示施設はなかったように記憶しているが、そこで見た人間魚雷には強烈な印象が残っている。誰が何のためにつくったものなのか。しばらく思考回路がはたらかなかった。
人類の歴史は戦争の歴史でもあり、それはすなわち殺戮の歴史だった。さまざまな方法で人は人を大量に殺してきたのだ。ナチスドイツによる大量殺人や中国大陸における日本軍の大虐殺は決して許される行為ではない。戦勝国といわれた連合国側だって無差別爆撃を繰り返したその罪はぬぐいきれるものではない。
特別攻撃隊という組織にとりわけキリスト教の国々は恐怖したという。生身の人間の生命を賭して戦うという倫理観がそもそも受け容れられなかった。今でいう自爆テロだ。
日本には古くから武士道という教えがあった。生きて虜囚の辱を受けずという戦陣訓もあった。しかしそれは生きて戦うことを前提にしている。
かつてこの国でテロリズムの萌芽的思想があったと思うと恐ろしい。この国は人間の国ではなかったのか。神風特別攻撃隊では多くの若者が志願したというが、それは真実ではない。志願せざるを得ない状況に追い込まれた人間が志願したのだ。それは志願とはいえない。
放っておいたら、美化されてしまうかもしれない伝説に危惧の念を抱いた城山三郎は史実を丹念に集めた。特攻の真実を後世に残すことで愚かな戦争の犠牲者となった若者たちへ鎮魂の歌を捧げた。
誰もが特攻の無意味さを知っていた。誰もが生命を犠牲にすることの無意味さを知りながら出撃していった。そして誰もが無念のうちに死んでいった。
日本はテロの国ではなかった。城山三郎はどんなに苛烈な軍国思想の下にあっても日本は人間らしさを失わない国だったと伝えたかったのではなかったか。そうした人間らしさを持った国こそがほんとうの「美しい国」なのではないだろうか。

2017年5月22日月曜日

関川夏央『寝台急行「昭和」行』

毎年、夏になると南房総に出かけた。
両親の実家があって、海辺の町で何日かを過ごす。子どもの頃は祖父が迎えに来て、両国駅の「下の」ホームから千倉駅に向かった。房総方面の列車の始発駅がなぜ両国だったのか、両国駅には総武線が発着する高架のホームの下にどうしてホームがあったのか、そんなことを知る由もなかった昔のことだ。
ものごころつく頃には南房総はちょっとした夏の観光スポットで内房、外房という急行列車に代わってさざなみ、わかしおという特急列車が走るようになった。そして夏の繁忙期には季節列車や臨時列車が増発された。時刻表には夏ダイヤの特設ページが設けられた。そんなわけで少なくとも年に一度は時刻表を購入していた。
時刻表から学んだことは大きい。鹿児島に川内という駅(地名)がある。時刻表をながめる習慣がなければおそらく一生「せんだい」とは読めなかったと思う(その後原子力発電所で全国的に知られるようになったのだけれど)。駅名と数字(発着時刻)の羅列が思わぬ想像力を育んだりする。たとえば日帰りで人はどこまで行って帰って来られるのかなどというシミュレーションは時刻表なしにはできない遊びだ。
鉄道趣味の世界は奥が深い。以前読んだ『汽車旅放浪記』で関川夏央の実力に恐れをなしたが、彼以前には宮脇俊三、内田百閒とそうそうたる名前が連なっている。毎年のように房総半島を列車で往き来してきたのに、小湊鉄道も木原線(いすみ鉄道)も久留里線も乗ったことがない僕なんてまだまだ初心者とも言えない。
それにしても列車に乗るって楽しい。遠くに行くのはたいへんだから、まずは近いところから乗りつぶしていきたいとずいぶん前から思ってきた。それで八高線や相模線、鶴見線、御殿場線、つくばエクスプレスに乗りに出かけた。もちろんただ乗りに行くだけの阿呆列車の旅である。そのうちもう少し足をのばして身延線、両毛線、烏山線あたりを乗りつぶそうと思っている。

2017年5月16日火曜日

佐高信『城山三郎の昭和』

東京六大学野球春季リーグは混戦になった。
第五週を終えたところで東大以外の五校が勝ち点2で横一線に並ぶ。第六週は明治と慶應、立教と早稲田によるサバイバル戦。法政は勝ち点2を上げてはいるものの、すでに4校と対戦を終え、東大戦を残すのみ。この週で勝ち点を3にしたチームに優勝争いは絞られる。
今季投打にバランスのいい慶應がまず抜け出す。一発長打力のある岩見や仙台育英で佐藤世那とバッテリーを組んでいた郡司、センスが光る柳町らが経験の浅い投手陣を盛り立てている。明治に連勝して優勝に望みをつないだ。
早稲田立教は3戦までもつれ込んだ。初戦は投手戦。浦和学院のセンバツ優勝投手小島が完璧な投球で早稲田が先勝。2回戦は両チーム合わせて24安打の打撃戦を立教がサヨナラ勝ちした。
そして3回戦。先発投手は小島、田中誠と1回戦と同じだったが、こんどは立教田中が辛抱強く投げ勝った。早稲田は6回の集中打を食い止められなかったのが痛かった。5回の裏の小島の打席で代打を送るという選択肢もあったかもしれない。
これで次週第七週、立教が勝ち点を上げれば優勝。もし立教が勝ち点を落として、最終週慶應が勝ち点を上げると慶應が優勝となる。
先日読んだ『落日燃ゆ』がおもしろく、それまであまり関心のなかった城山三郎に興味を持つ。
昭和2年生まれという。世代としては僕の父や伯父と変わらない。志願しなければ戦場に送られることのなかった世代だ。ところが城山は帝国海軍に志願入隊する。特攻隊に配属される。経済小説というジャンルを切り拓いた作家としか知らなかった城山三郎に俄然興味がわく。タイトルに魅せられてこの本を手にとってみた。
子どもの頃、僕たちのまわりにいた大人たちはみな戦争を経験していた。それぞれが自らの戦争を語ってきた。
城山三郎の戦争ときちんと向きあいたいと思った。
ところで立教も慶應も勝ち点が取れなかったらどこが優勝するのだろう。

※東京六大学野球連盟のホームページで確認したところ、第六週明治法政ともに2勝0敗、最終週早大2勝1敗で明治法政のよる同点決勝ということがわかりました。お詫びして訂正いたします。

2017年5月9日火曜日

城山三郎『落日燃ゆ』

五月の連休は南房総を訪れる。
墓参りというか草刈り、草むしりのためだ。海水温がまだ高くなく、風が乾いているせいか、この時期空も海も青い。ここは南房総市白浜町の東端の集落乙浜。西に隣接するのが千倉町白間津。白間津には母の実家の墓がある。
この時期なにかとニュースになるのが憲法改正論議。社会科学全般(というより学問全般)が苦手だ。日本国憲法をどうしたらいいかなんて訊かれてもまともな返答ができない。たしかに防災や国防の対応面で現在の憲法では足りないところがあるという見解を否定はしない。将来起こり得る事柄に対して準備できている方がいいに決まっている。現状欠落しているところがあれば修正するべきだろう。
戦前の憲法では統帥権を天皇大権と定めたことが後々の歴史に大きく影響を与えた。拡大解釈された統帥権が軍部の暴走を生んだ。それを止める手立てもなかった。
そんななか、武力衝突より外交でと戦争を避けるべく戦った宰相がいた。広田弘毅である。聡明な外交官であった広田は帝国憲法の弱点をおそれていた。粘り強い交渉を重ねることで諸外国との摩擦を避け、軍国主義に傾斜する流れを食い止めようとした。
結果は見るまでもなく歴史が明らかにするところである。
極東軍事裁判で広田は文官としてただひとり、絞首刑の判決を受ける。
あれほど平和外交を貫いた人物が何故に、と思うのが正直言った気持である。広田はこの(不当とも思える)裁判で沈黙を守り続けた。何かを証言することで自分以外の何者かに害が及ぶのを避けたという。
それは広田の生き方だったから、ここでどうこう言ってみても仕方のないことだが、彼が裁判の場でなにがしかの証言をしていたならば日本は今ここにある国とはちがっていたような気がする。日本人はただただ侵略に明け暮れていたのではなく、国益と平和のための外交手腕を持った民族であるという証を歴史に残せたのではないか。
今さら言っても仕方ないけど、そんな気がする。

2017年4月27日木曜日

平松洋子『ひさしぶりの海苔弁』

高校時代、毎日毎日母はお弁当をつくってくれた。
部活動の仲間と昼休みに練習をする都合上、二時間目と三時間目のあいだにその弁当を食べ終わり、三時間目と四時間目のあいだの休み時間に食堂に走って蕎麦を流し込む。ほぼそんな毎日だった。二段になった海苔弁は母の得意技だった(かどうかはわからないけれど)。
海苔弁がブームになっている(と、テキトーに言っている)。
この本で平松洋子が食した東京駅グランスタ紀ノ国屋の海苔弁は、というより紀ノ国屋がすでにない。代わって海苔弁界のスターに押し上げられているのは福島県郡山駅の駅弁、福豆屋の海苔のりべんであるという。JR東京駅構内のお弁当屋で売られているというが実物を見たことがない。一日何十個だか限定で発売されている上、値段も駅弁としては900円と安く、さらにはテレビ番組で幾度か取り上げられている。平日午前東京駅に着いて、駅弁屋をのぞいてみてもそれらしき弁当はない。これはもしや幻の弁当なのか。あるいは世の中の酸いも甘いも知り尽くした大人にだけ見えて、僕のような少年の心を持った人間には見えないのだろうか。
駅弁などというものは行った旅先で食べるからいいのであって、いくら東京駅に全国の駅弁があるといってもそんなところで買うのはフェアじゃない気もする。どうせ食べるのなら郡山に行こう。とりあえずそう思うことにした。
でもたまたま立ち寄った東京駅でひとつでも残っていたら走り込んで買うだろうわが姿もまったく想像できないわけではない。人間の行いというのものはその場になってみなければわからないものなのである。
先日、銀座にGSIXという新たな商業施設がオープンした。かつて松坂屋というデパートがあった場所だ。そのなかに刷毛じょうゆ海苔弁山登りというテナントが入っている。ちょっと高級そうな海苔弁を売っている(値段は1,080円とそれほどでもないが)。
いややはり郡山の海苔弁を食べてみたい。

2017年4月25日火曜日

獅子文六『コーヒーと恋愛』

昨秋に続いて春季高校野球東京都大会決勝戦は早実対日大三。
4月23日が決勝戦の予定だったから本来ならもう終わっているはずだが、4強にセンバツ出場の両校が進出した時点で日程が変更された。22日に神宮第二球場で予定されていた準決勝2試合を同球場で22日に1試合、23日に1試合とし、決勝戦を27日の18時から神宮球場で行うことになった。狭い神宮第二では観客の収容人数に問題があるし、応援団の入れ替わりだってたいへんだ。しかも早実、日大三はともにかつて新宿区、港区にあった学校であり、夏の大会などで対戦するときは毎度のことながらスタンドが超満員になる。西東京の地元だけが応援する学校ではないのだ。ましてや今春ともにセンバツに出場し、この夏はどちらが甲子園に行くのか今から注目されている。神宮第二での決勝戦をいちはやく諦めたのは無難な選択だったと思う(昨秋の決勝戦では多くのファンがチケットを求めて外苑の銀杏並木まで並んだらしい)。
秋は東京六大学野球終了後、明治神宮大会までのあいだの土日ないしは文化の日に日程を組めば神宮球場で決勝戦ができる。春はそうもいかない。平日昼は学生野球、夜はプロ野球の日程が組まれている。準決勝からできるだけ日程を空けてあげることを考えると27日神宮でのナイター決勝戦は妥当なところか。翌28日はプロ野球が予定されているし、29、30日は東京六大学野球も組まれている。
獅子文六は4冊目。今回もちくま文庫のツイートにまんまと乗せられてしまった。
『てんやわんや』『自由学校』では終戦から復興が背景にある。この本は『七時間半』の少し後に書かれている。高度経済成長=新しいニッポンのはじまりが舞台だ。なんてったってヒロインはテレビタレントだもの。そうした点では著者の晩年の作品といえよう。
それにしても27日の決勝戦が国士館対帝京でなくてよかった(両校を応援していた方々には申し訳ないと思うけど)。

2017年4月23日日曜日

平松洋子『ステーキを下町で』

平松洋子というエッセイストがどんな人なのか知らなかった。
日比谷図書文化館の二階をぶらぶらしていたとき『焼き餃子と名画座』という単行本に目がとまった。おそらくその前に月刊誌『散歩の達人』最新号をながめていて、町中華のコーナーでうまそうな餃子の写真を見たせいかもしれない。
サブタイトルには「私の東京味歩き」とある。川本三郎かと思った。
ぱらぱらとページをめくってみるとおもしろそうだ。借りてみようかと思ったけど貸出カードをうちに置き忘れてきている。とりあえず平松洋子という名前だけおぼえて帰ることにした。帰り途、特に読む本もなかったので電子書籍のサイトで検索してみた。『サンドウィッチは銀座で』と『ステーキを下町で』があらわれた。おもしろいそうだからぽちっと買ってしまった。
というわけで平松洋子との付き合いはさほど長くはない。せいぜい半月程度の間柄だ。ついこのあいだ銀座でサンドウィッチを食べ終わった、いや『サンドウィッチは銀座で』を読み終えたばかりだ。あまりよく知らない著者の方からおいしい話ばかり一方的にいただいているのも大人としていかがなものか思い、こんどはグーグルで検索してみた。
電子化されていない書籍もたくさんある。そのなかに『ひさしぶりの海苔弁』という本の装幀が目に飛び込んできた。表紙イラストレーションも挿画も安西水丸。ああ、これなら知ってる、見たことある。
そうか、海苔弁の人だったんだ。
まだ知り合って(知り合ったわけじゃない、こっちが勝手に知っただけだ)、まだ半月しか経っていないというのに俄然親しみがわいてくる(どうでもいいことだけど歳も僕に近い)。なんだはやく言ってくれればいいのに的な錯覚。安西水丸の『a day in the life』の書評を書いている。きっとただならぬ関係だったのだろう。
それはともかく東向島にステーキを食べに行こう。そして6月になったら有楽町であじフライだ。

2017年4月20日木曜日

平松洋子『サンドウィッチは銀座で』

グルメという言葉が一般に使われはじめたのはいつ頃からだろう。
少なくとも学生時代にそんなしゃれた言葉は流通していなかった。バブル経済とかおそらくそんな時代背景の中で使われるようになったんじゃないだろうか。もちろん昔から美食家であるとか、食通と呼ばれる人がいた。おいしいラーメン、蕎麦、寿司、うなぎ、とんかつ、ステーキなどにやたらと詳しい人がいた。
「グルメ」はいわゆるグルメ本とともに普及した。おいしい店は活字になり、写真になり、書店に山積みされた。さらにグルメは映像と音になって電波に乗った。日本全国津々浦々をかけめぐった。温泉とグルメさえおさえておけばそこそこのテレビ番組ができた。
やがてインターネットとソーシャルメディアの時代になる。活字や写植、電波に乗った映像以上の方法量がデータ化されて世界中を飛び回っている。多数決で民主的に決められた最強グルメのお店に連日行列ができる。何時間も並んだ末、スマートフォンやデジタルカメラで撮影されたデータはさらに世界をかけめぐる。
それはそれでいいとして、本当においしいものは食べるその人にとっておいしいものだ。
おいしいものをおいしく食べる人がおいしいものに至るまでの道のり。これこそがソーシャル時代のグルメ情報に著しく欠如している点ではあるまいか。著者が料理を頬張る時空間を共有し、そこに身をゆだねる。そうした追体験を可能にする情報が何よりもおいしい。
昨夜、この本を読み終わって明日(つまり今日)のお昼はサンドウィッチにしようと思った。
仕事場から歩いてすぐに行けるチョウシ屋でダブルコロッケパンとダブルメンチパン。天気もいいことだし、そのまま祝橋公園に腰かけてぺろりと食べてしまった。アツアツのコロッケがうまかった。
やはり東銀座にある映像の編集スタジオに何日もこもって仕事をしていた十数年前を思い出した。
引き続き、『ステーキを下町で』を読みはじめている。

2017年4月19日水曜日

曽根香子『その辺の男には負けないわ』


ずいぶん前の話。民主党の選挙CMのプレゼンテーションをお手伝いした。
CMの提案というのは絵コンテという4コマ漫画のようなボードをつくって完成形をイメージしてもらうのだけれど、そのときイラストレーターに描いてもらった菅直人があまり似ていなかった。鳩山由紀夫はまあまあ似ているのに菅直人が似ていない。時間も限られているのでボードに仕上げて広告会社に確認しに行った。案の定、「菅さんが似てないわよ!」の怒声を浴びた。
プレゼンテーションは翌日。この時点で20時をまわっている。カラーで描いてもらったイラストレーションを修正するのは相当難しい。このあとどう対応しようかと思案している間も「菅さんが似ていない!」と30分に150回ほど浴びせかけられた僕は明日朝まで描き直して来ますと引き下がるしかなかった。イラストレーターに再発注することもできず、僕は夜を徹し、ひとりで描き上げ、着彩した。
「菅さんに似てない」と、月に35日降る屋久島の雨のように浴びせかけた人が曽根香子である。
はじめて会ったのは平河町のおでん屋だった。おしゃべりだけどバイタリティあふれる女性だと思った。酔ってスペイン語を話していた。
それ以降、幾度となく曽根香子の提案の手伝ってきた。
直観に優れている彼女は、本書に書かれているとおり、これと決めたゴールに突き進む。時間もないし、これくらいでいいだろうと思ったのがいけなかった。曽根香子は自分で決めたことに嘘がつけない。志に一途な人なのだ。僕は今でも言い訳めいたことばを繕って逃げようとした自分を恥ずかしく思っている。
これまで曽根香子の友人を何人も紹介してもらった。こういってはなんだが、彼女にはもったいないくらい素敵な人ばかりだった(汗)。
この本には著者にとってばかりではなく、世間一般としてみても素晴らしい人物が何人も登場する。一人ひとりがきっと曽根香子のまっすぐな人がらを愛していたのだろう。

2017年4月14日金曜日

内田百閒『東京焼盡』

僕たちの知らない戦争、その終焉を先人たちはどう迎え、受け容れてきたのか。
両親が戦争の時代を生きた僕ら戦争二世はもっとちゃんと次の世代に語り継いでいかなくてはと常々思う。戦前から戦中、そして終戦を経て戦後。こうした時代を背景にした文学や映画が数多くある。終戦直後に限らない。舞台は何十年も経った日々なのに戦争の影が落ちている、そんな作品も多い。創作だけではなく、その時代を生き抜いた作家がどのように戦争という怪物の臨終を見つめてきたかに興味がある。
安岡章太郎『僕の昭和史』、高見順『敗戦日記』、吉村昭『東京の戦争』…、あげればきりがない。
日本の敗戦をつつみ込む重苦しいにおいをもとめて、これらの本を読んできた。そして内田百閒のこの本も同様の期待感とある種の責任感をもって手にとった。
まるで違う。
百閒先生は時代を達観している。下町が焼け、山の手が焼け、日本中が空襲にさらされていようとどこ吹く風のように淡々と日記をしたためる。米がなくなろうが、酒がなくなろうがあわてふためくこともなく、取り乱すこともない。家が焼け、なにもかもが焼けてしまっても。
先日観た映画、黒澤明監督の遺作「まあだだよ」は松村達夫演じる百閒先生がモデルだった。
5月25日のいわゆる山の手空襲で焼け出されてからは掘っ立て小屋での生活を余儀なくされる。今でいうと千代田区五番町。四谷~市ヶ谷間の土手近くだ。この日記が書かれていたのはこの頃だろう。マッチ箱のようなわずかな空間の中でまるでもうすぐ戦争は終わるであろうと思っていたかどうかわからないが、人生も世の中もすべて見通していたようにさえ思える。
その後番町小学校の北、六番町に居をかまえ、名作を生みだしていく。『ノラや』も『阿房列車』もそこから生まれた。
それにしても内田百閒の中で戦争は呆気なく終わってしまった。先生の心は戦争の終わりよりももっと遠く旅の空の下をさまよっていたのかもしれない。

2017年3月31日金曜日

獅子文六『自由学校』

御茶ノ水駅改良工事が行われている。
地盤強化、耐震補強、バリアフリー化をはかる工事だそうである。御茶ノ水駅といえば足下に神田川が流れているが、この川が江戸時代初期に開削されたことはよく知られている。本郷の台地に無理矢理川を通したものだから、隣の水道橋駅や秋葉原駅のあたりと異なり、御茶ノ水駅は狭隘な地形に位置している。しかも東西を聖橋、お茶の水橋にはさまれている(駅は御茶ノ水だし、橋はお茶の水だし地名の表記は難しい)。工事をするにはやっかいな場所だ。
現在、神田川の上に仮設桟橋を設置している。せまく、急峻な地形のため桟橋をつくって、そこから神田川河岸の耐震補強を行うらしい。聖橋口の駅前広場機能整備まで含めると2020年までかかるというから、かなり大掛かりな工事である。
お茶の水はこの小説ではお金の水と称されている。家を追い出された南村五百助はお金の水橋の袂の土手に住んでいた。今でいうホームレスである。
戦後間もない昭和25年頃、混乱の時代ではあったが、お茶の水の谷間にはのどかな時間が流れていたのではないだろうか。さすがの五百助もこんな工事の最中ではのんびりもできなかったにちがいない。
獅子文六を読むたびに思う、これは映画全盛期の小説だなと。
実際にその作品の多くが映画化されている。澁谷実監督「てんやわんや」、川島雄三監督「特急にっぽん」(原作は『七時間半』)と、これまで読んだ二冊はともに映画になっている(いずれの映画も興味深い)。1950~60年代の映画全盛期は原作に飢えていた時代だったのかもしれない。
『自由学校』にいたってはほぼ同時にふたりの監督が映画化している。吉村公三郎監督(大映配給)と澁谷実監督(松竹配給)。この競作がともに好評を博したというのだから驚きだ。
獅子文六の作品人物はキャラクターがはっきりしているから、活字の世界から実写の世界に飛び出すにはうってつけなのかもしれない。

2017年3月30日木曜日

小沢信男『ぼくの東京全集』

三月も終わりかけたある日、東京駅からバスに乗る。
[都05]という系統番号の晴海埠頭行き。東京国際フォーラム、有楽町駅前を経て銀座を突き抜ける。晴海通りをバスに揺られているとちょっとした観光気分だ。朝から晴れて天気もいい。気温も高い。こんな日は事務所のある築地で降りないでそのまま勝鬨橋をわたって「島」まで行ってみたくなる。ちょうどいい具合に東京駅で買った昼の弁当をリュックに忍ばせている。なんてことはしないでもちろん普通に出社する。
センバツ高校野球は関西勢が強い。昨秋近畿大会と明治神宮大会を勝った大本命履正社のみならず、近畿大会4強の大阪桐蔭、同じく8強の報徳学園の3校が準決勝まで勝ち進み、決勝は大阪対決となった。近畿大会準優勝の神戸国際大付属が初戦突破ならなかったものの、智弁学園、滋賀学園もひとつ勝ち、近畿勢のレベルの高さを思い知らされる。
東京からは早実と日大三。
日大三はいきなり履正社と当たる。主戦投手が最後力尽きて、履正社の猛打を浴び、大敗。昨秋の早実戦に続いて履正社の破壊力を見せつけられた。早実は投手力が課題のままセンバツを迎えた。持ち前の打力だけでは全国は通用しない。
東京は来月1日から春季大会がはじまる。両校ともとりこぼすことなく勝ち進んで、関東大会に駒をすすめられるといい。夏の大会のシード権を逃してしまって神宮に来る前に直接対決ということだけは避けてもらいたいものだ。
ちくま文庫が例によってツイッターでおすすめするものだから、この本を買ってしまった(実は紙の本を買うのは久しぶりなのだ)。興味深そうなタイトル、ながめるだけでわくわくする目次。にもかかわらずあまりおもしろいと思えなかった。作者は詩人であり、俳人であり、目の付け所がユニークなんだけど文章が僕には読みづらかった。いつも読んでいる文章とはちょっとちがう感じがするんだ。もう少しこの著者の本を読んでみてから手にとればよかったかな。

2017年3月27日月曜日

森枝卓士『カレーライスと日本人』

築地のコンワビルの地下にRASAというインドカレーの店がある。
コンワビルは晴海通りに面した銀座松竹スクエアと旧電通本館ビルの間、高速道路沿いにあるビルだ。南側の角に活字発祥の碑がある。明治6年に建てられた東京活版製造所がここにあったらしい。
出版社に勤める友人が「このビルに精美堂という写植屋さんがあって、何度も通った」と言っていた。僕も広告会社にいた頃、新聞広告や雑誌広告のフィニッシュ(版下制作)を精美堂にお願いしていたし、つい数年前にも雑誌広告の製版を依頼した(すでに高輪に移転していたが)。
30年くらい前、築地に大手の広告会社があった(というかそれは電通だ)。制作会社の駆け出しのCMプランナーだった僕は毎日のように築地に出かけていた。午前の打合せが長引いて、昼食を摂る時間がなくなったときはたいていRASAに駆け込んでカレーライスを食べていた。カウンターの左右に目をやるとやはり同じような境遇の人たちがいた。昼食難民化した広告会社の社員か、そこに出入りする関連会社、制作会社の人たち。
その広告会社が築地から明石町、汐留と移転を重ねても、RASAはずっとコンワビルの地下にとどまり、築地界隈の忙しい人種の胃袋を待ちかまえていた。誤解がないように申し上げておくとRASAは決してファーストフードではない。時間に余裕のある人だって訪れる。すべてのお客さんがあわただしくカレーを飲み込んでいくわけではないのだ(ビールの小瓶で喉をうるおす人だってたまに見かけた)。辛さだけではなく、味わいも深い。時間がないときサクッと食べられるだけの店ではない。時間がなくてもおいしいカレーライスが食べられる店なのだ。
カレーライスが如何にして日本の食シーンにあらわれたか、この本を読むとよくわかる。
そういえばカレー好きだった叔父がなくなって3年になる。どうりでこの一週間ほどカレーが食べたくて仕方なかったわけだ。

2017年3月19日日曜日

山本周五郎『深川安楽亭』

本所と深川の境はどのへんなのだろう。
墨田区が本所で江東区が深川という説もあるようだが、墨田区千歳と江東区新大橋、森下あたりの複雑な区界を見るかぎり、そう簡単には線引きができないこともわかる気がする。
本所両国から深川に向かって歩いてみる。
深川は川の名前ではない。徳川家康の時代、この地を拓いた深川八郎右衛門の名前が由来だという。意外な真実だ。沼田という土地があって、沼だらけだからと思っていたら昔この地に住み着いた大豪族が沼田さんだったみたいな話だ。
さて両国から深川に歩くとして、どこを最終目的地にするか。とりあえず深川の最果てにたどり着きたい。ところがやっかいなことに時代とともに深川は海へ海へと進出していく。行政上の区分でいえば豊洲や有明の方まで深川なのだ。
東に目を向けてみる。どうやら横十間川あたりまでが深川でその先は城東と呼ばれる地域らしい。ということで暫定的にというか当然かもしれないが、深川の最果てを越中島とする。両国から越中島までなら歩ける。それに道々楽しそうじゃないか。
両国駅から回向院に立ち寄り、清澄通りを南下する。森下あたりから深川だ。高橋、清澄庭園を経て、門前仲町へ。昭和30年頃の地図では深川門前仲町、深川富岡町、深川越中島と現在の町名に深川が付いている。神田みたいだ。おそらく旧深川区が統合して江東区になったとき、町名に深川を残したいという住民の意見が反映されたせいではないだろうか。
人もクルマもにぎわう門前仲町の交差点を過ぎれば、最果ての地越中島も近い。枝川方面へ左折する交差点の歩道橋の向こうに東京海洋大学(旧東京商船大学)が見えてくる。
深川安楽亭はどこにあったのだろう。抜け荷をする連中が集まる場所だから運河にかこまれた辺鄙なところにちがいない。深川木場あたりかそれとも深川佐賀町か。
そんなことを考えるともなく歩いているといつしか相生橋に差しかかる。
深川の果ては佃島と橋でつながっている。

2017年3月14日火曜日

川端康成『遠い旅・川のある下町の話』

情けない話であるが、ここのところリアルな書店に立ち寄ることがめっきり減った。
そのそもリアルな書店という言い方からしておかしいのだが、リアルじゃない本がこれだけ世の中に流通しているのだから致し方ない。
母の誕生日になるとたいてい本を買う。もちろんリアルな本だ。装幀されていて、表紙があって、見返しがあって、遊び紙があってそれらに触れると紙であることがわかる本。手にとると重さを感じられる本。
先だって、新宿の紀伊国屋書店で母にも読めるような昔の小説はないかと探していたところ、山口瞳の『居酒屋兆治』を見つけた。こういってはなんだけど、紙質もよくなく、粗末な装幀の本だった。もちろん値段もべらぼうに安い。
小学館から何年か前に出版されたP+D BOOKSというシリーズであると知ったのはつい最近のことだ。ペーパーバックス&デジタルの略であるという。全集など大掛かりな書物でなければお目にかかれなくなった名作を気軽に手軽に読んでもらおうという考え方から生まれたのだという。けっこうな企画ではないか。
電子書籍のショップで(もちろんネット上の)“下町”“川”などという検索ワードを打ち込んだところ引っかかってきたのが川端康成のこの本だ。書名の横にカッコ囲みでP+D BOOKSと付記されている。それが気になっていた。
「川のある下町の話」はNという川沿いの町が舞台になっている。
川沿いのN?
具体的な描写がほとんどないせいかとっさにイメージできない。日暮里か、日本橋か。大きな病院がある川沿いの下町というと築地界隈をイメージしてしまうのだが、この辺りは空襲を免れているから、たぶんちがうんだろう。さりとて深川あたりでもなさそうだ。
1955年に衣笠貞之助監督の手で映画化されている。義三は根上淳、ふさ子が有馬稲子、井上民子が山本富士子。まだ観てはいないけれど、これはほぼイメージ通りのキャストである。期待が高まるばかりである。

2017年2月21日火曜日

四方田犬彦『月島物語』

20数年前に月島を歩いた。
月島に住んでいた大叔父が南房総館山に移り住んだ後だ。
中学生の頃、夏休みの工作に必要なラワン材を切ってもらいにおじちゃんを訪ねたのが最後だったか。だいたいこんな本箱をつくりたいのだと紙に描いたところ、おじちゃんはわかったわかったと言って、長屋の向かいにある作業場へ行って木を切るどころか釘まで打って完成させてしまった。ひと晩泊まって翌日出来上がった本箱を持って帰り、砥の粉で目止めしてニスを塗った。あっという間に技術家庭科の宿題は終わった。
おじちゃんの家は玄関の右手に二畳ほどの板の間があった。誰かいるときはたいてい鍵が開いていた。月島の長屋は(全部見てまわっちゃいないけど)ほとんどそうだった。
月島では「おはよう」とか「こんにちは」という日常的な挨拶言葉が発達しなかったという。ガラガラと玄関の引き戸を開けて「いる?」というのが挨拶だった。
四方田犬彦の月島考察を通じて、記憶の土砂に埋もれていた月島がよみがえってきた。
中学生以来ふと立ち寄った月島で、おじちゃんの住んでいた長屋の前まで行ってみた。昔だったら風呂屋の先のガソリンスタンドの脇の路地とすぐにわかったのに、すでに目じるしはなく、不安な思いで入り込んだ。どこからか女性があらわれ、怪訝そうな視線を投げる。
昔親戚がここに住んでいて、近くまで来たのでついなつかしくなって訪ねてきたみたいなことを話す。渡辺さんはずいぶん前に引越しましたよ、千葉の方になどと言う。そんなことは重々承知なのだが、もう住んでいない親戚の家を訪ねてきたという行為はまあ、常識的にも月島的にも理解されなくて当然だ。
大叔父は月島という町を通り過ぎていった人に過ぎず、僕を不審に思った女性だって月島を通り過ぎていくだけの人だろう。ある日突然東京湾にあらわれた埋立地月島はどこからともなく人が集まってきて、やがてどこかへ去っていく、そんなはかない町なのかもしれない。

2017年2月20日月曜日

山本周五郎『人情武士道』

カタカナってのは本当にやっかいだ。
文化庁のホームページに外来語の表記の留意事項がまとめられている。「イ列エ列の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く」のように。つまりグラビア、ピアノ、フェアプレー、アジアとなるということだ。ただし「ヤ」と書く慣用のある場合はそれによる。ダイヤ、ダイヤル、ベニヤ板など。
また語末の-(i)umは(イ)ウムと書くとしている。アルミニウム、カルシウム、ナトリウムなど。ただし「注」としてアルミニューム」と書く慣用もあるとしている。
文化庁のまとめはゆるやかで、ハンカチ・ハンケチ、グローブ・グラブなど表記のゆれに対して寛容であり、分野によって慣用が異なる場合はそれぞれの慣用によればよろしいとしている。
学生時代はvの音を(ドイツ語だとwも)ヴで書いていた。理由はない。いちおう、綴りを知ってますよくらいしか意味のないことと思いながら。ヴィデオとヴォランティアとかヴォイスとか。ところがこれは後で読み返すと結構恥ずかしい。ビデオだろようそれ、と誰かにあざ笑われているんじゃないかと思ってしまうのだ。そういうわけでいつしかヴは使わなくなった。
ただどうしてもヴじゃないと落ち着きの悪い言葉がある。たとえばヴォルテールはボルテールだとちょっと哲学者のシズル感に欠けるきらいがある。フランス語の会話をカタカナ表記するときもコマンタレヴ?とかサヴァビアン、メルシじゃないとフランス語感が湧いてこない(もちろんこんな会話を日常書く機会は滅多にないのだが)。
ということで最近では外来語=日本語として定着している言葉はブ、人名のように本来日本語表記できない言葉や固有名詞はヴと表記するようにマイルールをつくっている。バイオリンだし、ジュール・ベルヌだし、ヴァン・ジャケットだ。
周五郎の初期の短編集。時代物あり、現代ものあり、ミステリアスなものもあり。
ヴァラエティに富んでいる。前歯で下唇を噛んでみる。

2017年2月17日金曜日

浅田次郎『月島慕情』

動画のシナリオや広告コピーを書くことはあるとしても文章を生業にしているという意識はあまりない。
ただ、人様に文章をお見せする仕事をしている以上、表記には気を遣う。とりわけ外来語(カタカナ語)が厄介でJIS(日本工業規格)には「アルファベットをカタカナで表記する場合、2音の用語は長音符号をつけ、3音以上の用語の場合は長音符号を省くと定められいるそうだ。たしかに車はカーだし、コンピューターではなくコンピュータという表記をメーカーはしている。お客様センタと表記する会社もある。複合語の場合は省かないというルールもあって、ハイブリッドカとはならない。ん?メーカーはメーカではないのかな。
文化庁のガイドライン(1991)では外来語の表記として、英語の語末が-er、-or、-arなどに当たるものは、原則ア列の長音とし長音符号「-」を用いて書き表し、慣用に応じて省くことができるのだそうだ。この影響を受けて、JISの規格も2005年以降、長音は省いても誤りではないと修正されたという。そのせいか最近、サーバーとかプリンターとか長音を付けた表記をよく見かけるようになったが、実は文化庁のガイドラインだけではないらしい。
2008年にマイクロソフトが「マイクロソフトの製品ならびにサービスにおける外来語カタカナ用語末尾の長音表記の変更について」を発表した。マイクロソフトの方針転換が大きな影響を及ぼしているらしいのだ。たしかにインストーラよりインストーラーの方がちゃんとインストールしてくれそうだし、ブラウザよりブラウザーの方がゆったり検索できそうな気がする。
しかしだ、これら複数のガイドラインをどうこなしていけばいいのか。ハードウェアとしてはサーバ、その機能の話をするならサーバー。いやいやそんな使い分けをしていたら文章が先に進まない。
浅田次郎の『月島慕情』を読む。再読である。
久しぶりに月島を歩いてみようと思った。

2017年2月16日木曜日

山本周五郎『明和絵暦』

センバツ高校野球の出場校が決まった。春はもうすぐだ。
毎年気になるのは出場枠のあいまいな関東・東京地区。基本は両地区で6校が選ばれるが、それが関東4、東京2だったり関東5、東京1だったり。もちろん秋季大会をいっしょにやってしまえばいいのだろうけれど、センバツに東京の学校が出場できないことだってあり得てしまうわけだから、東京都高野連はなんとしても独立枠を確保したいのかもしれない。
センバツ出場校は全国10地区から選ばれる。地区大会上位が同一府県だったりすると2校出場できる。そのかわり出場できない府県が出てくる。関東は最大5校出場できるが、当然出場できない県ができる。今春は群馬から2校選ばれている。茨城、埼玉、神奈川からの出場校はなし。
そのぶんと言っちゃなんだけど21世紀枠という地区大会の成績にかかわらない独自の基準で評価された学校が選ばれる。合計32校。どんな戦いが見られるか。
周五郎の(おそらく)ファンであろうC書房のTがこの本はまだ読んでいないと言っていた。僕が読んでTが読んでいない周五郎ははじめての快挙である。
刊行は1941年。少年雑誌に時代小説を連載していた頃の作品か。今まで読んできた周五郎とはちょっとちがう。文章が若々しい。主人公の百三九馬も少年漫画の主人公のようだ。腕は立つし、言うこともふるっている。それでいて冷静沈着、周囲をよく見ている。しかも(というか当然というか)女性にはモテモテである。やはりこいつは少年漫画のヒーローだ。
話はセンバツにもどるが、東京からは2校が選ばれた。早実と日大三。接戦をくりひろげた都大会の決勝戦をふりかえると妥当な選択か。先の話になるが、夏の選手権では同じ西東京で1枠を争うことになる。どちらかがセンバツ後の都春季大会でとりこぼしでもしようものなら夏のシード権を失い、神宮にやってくる前に両校の対決もなくはない。
と、とりとめもないことを考えている。

2017年2月6日月曜日

出久根達郎『佃島ふたり書房』

佃に親戚がいたことは何度かここに書いている。
母方の叔父が佃(新佃)に住んでいた。深川から来ると相生橋をわたってすぐ。肉の高砂の裏手になる。
大叔父夫婦はその後月島に引っ越した。僕の記憶のなかで佃はおぼろげだ。
ただ南房総の海辺の町から上京し、大叔父の家に寄宿した母からなんどとなく佃の話を聞いている。その話がいつしか僕の記憶に溶け込んでいる。
母の住んでいた昭和20年代。佃は門前仲町から商船大学の前を通って、相生橋を渡るか、月島に出て勝鬨橋を渡る陸路のほか、「渡し」という船の便があった。上京したばかりの母は明石町にある洋裁学校に通いはじめた。収入があるわけでない居候だから贅沢はできない。橋を渡るには電車賃が要る。住吉神社に近い渡し場から明石町に通った。もちろん銀座や築地に行くわけではないから距離的にも渡しの方が近かったかもしれないが。
大叔父夫婦には子どもがなく、母をだいじにしてくれたという。そのおかげもあって僕もおじちゃん、おばちゃんによくなついた。その頃はもう月島に越していたが、何度も泊まりに行っては、おばちゃんには晴海のプールや築地の映画館に連れて行ってもらったし、おじちゃんとは銭湯に行ったり、夕涼みがてら西仲の商店街を散策しては本を買ってもらったりした。渡しはとっくになくなっていた。たいていは有楽町まで国電で出て、そこから都電に乗った(都電もその後廃止されバスで通うことになる)。勝鬨橋は1967年まで通航のため跳開を行っていたというが実際に見た記憶はない。
佃大橋ができたときには佃の若い衆が神輿をかついだという。そして佃島が橋でつながったその日、ポンポン蒸気は姿を消した。
この本にはそんな遠い日の町の記憶が描かれている。
新富町から若き母の日々に思いをめぐらせながら、何度か佃に渡った。こんど訪ねるときはふたり書房をさがしてみることにしよう。きっと佃の町のどこかでひっそりとねむっているはずだ。