2011年12月31日土曜日

今年の3冊2011


今年は月8冊強で年間100冊を目標にしたのだが、なかなかどうしてそんなに読めるものではない。おそらく昨年より量は減っているだろう。もともと本を読むのははやくない方なのでこんなもんといえばこんなもんだ。
それにしても今年はいい本を選んで読んだと思う。こうして1年を振りかえってみると表題のごとく3冊に絞るのが難しい。
先日読書系のソーシャルメディアである読書メーターでそれなりに順位をつけてみたのだが、どうも納得いかない点が多い。いまだ悩んでいるのだ。
奥田英明『オリンピックの身代金』は読み応え十分な長編だった。今年の1位にふさわしいといえる。今まで読まず嫌いなところもあったレイモンド・チャンドラーも捨てがたい。アメリカ文学自体が久しぶりの体験だった。
町歩きをするようになって川本三郎を多く読んだ1年でもあった。『我もまた渚を枕』には町歩きの真髄を教わった。その影響か、戦前戦後の日本小説にも手を伸ばしてみた。林芙美子『浮雲』、幸田文『流れる』、芝木好子『洲崎パラダイス』などとの出会い。もちろん司修『赤羽モンマルトル』や半村良『葛飾物語』なども東京ならではの名著といえる。
一方で今年は震災の年だった。吉村昭『三陸海岸大津波』、『関東大震災』のリアリティはすさまじかった。
ということで今年は結論らしきものを導けない1年だったのだが、あえて3冊というなら、次のようになるかもしれない。

奥田英明『オリンピックの身代金』
実相時昭雄『昭和鉄道少年』
林芙美子『浮雲』

実はすでに読み終わっているのだが、ブログ化していない飯田哲也『エネルギー進化論』と半村良『葛飾物語』は実に捨てがたいのでここに記しておくことにする。

今年もお立ち寄りくださった方々、ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。

佐藤尚之『明日のコミュニケーション』


すっかり町歩きがおもしろくなってしまった。
とりわけ四ツ谷界隈はその地形的な面もさることながら、奥が深い。鮫河橋と新宿通りをはさんで荒木町が主要な散歩スポットであることは以前もここで書いた。荒木町から住吉町まで歩いたことも書いた。
住吉町はいわゆる谷あいの町で商店が軒を連ねている。その南に位置しているのが市谷台でその西に余丁町、富久町と続く。市谷台はかつて刑務所があったところでその碑が余丁町児童遊園にある。ちょっと神秘的なにおいがする。その公園前の広い通りをはさんで向かい側がかつて永井荷風の住んでいたあたりだ。
その通りを西に向かうと抜弁天。抜弁天前の寺の多い商店街を歩いていくと西向天神も近い。
それはともかく、今年は震災の年でもあったがソーシャルメディアの年でもあった。気がつくとその手の本をよく読んでいた。
佐藤尚之は『明日の広告』以来になる。すでに3年以上も前に読んだ本だが、当時はコミュニケーションデザインという新しいしくみの萌芽期だった。今やソーシャルメディアの爆発的な普及で広告コミュニケーションががらりと変わった。商品Aと競合する商品Bがあったとき、AとBの差異を伝えていく、優位性を表沙汰にしていくという本来の広告表現のベースがくつがえされつつあるのだ。
これまで商品AとBはどう違うのか、どちらがいいのかという点だけが広告の発信する“情報”だった。今はそんな微差でモノは売れない。どちらがより“好き”か、どちらを応援したいかという視点がだいじなのだ。
まあそんなことも考えながら、町歩きするのも悪くはないのだ。

2011年12月16日金曜日

吉良俊彦『嘘の破壊』

東京都立日比谷図書館が千代田区立日比谷図書文化館として先月生まれ変わった。
先日、赤坂檜町から麻布今井町、麻布市兵衛町を散策したのだが、霊南坂を下って虎ノ門に出たときふと思い出し、そのまま日比谷公園まで足をのばした。
基本は内装(館のコンセプトも含め)が新しくなっただけであの菱餅をふたつに切ったような三角形の建物の外観に変わりはない。建物の中央に角ばった螺旋形階段があるのも変わっていない。もちろん床も壁面も書架も真新しくなっている。三階に机と椅子があって、二階に貸出カウンターがあって、地下に食堂とホールがある。基本的な組み立ては変わっていない。変わったといえば千代田区がいかにも民間を活用していますといった雰囲気をただよわせている地下の食堂か。
昔は学生食堂のようなひなびた食堂だったのが、しゃれた喫茶店のようなスペースになっている。店の名前も“Library Dining”。ちょっと入るのが恥ずかしい雰囲気である。まあメニューにビールが加わっているのはありがたいことだ。
吉良俊彦の本は三冊目。
前著『1日2400時間吉良式発想法』の続編ともいえる内容で、相変わらずスピード感がある。説得力がある。何よりも熱い気持ちがある。こういう本を通じて若い人たちがコミュニケーションスキルを磨くってすばらしいことだなあと思うのだが、それは吉良さんが先輩だからかなあ。

2011年12月12日月曜日

井上ひさし『日本語相談』

仕事がはやく片付くと仕事場近くを歩いてみる。
四谷の闇坂から鮫河橋のあたりとか、荒木町あたり。新宿通りの四谷界隈は右も左も深い谷に刻まれていて神秘的な場所だ。先日は荒木町から靖国通りまで出た。住吉町の商店街が昔のようにそこにあった。
住吉町には父方の親戚が以前住んでいて、なんどか訪ねたことがあった。親戚のお兄さんはいくつ歳上だったのだろう。蒸気機関車の写真を各地に撮りに行っていたようでキャビネ版の紙焼きを何枚かもらった記憶がある。鉄道模型のコレクションもあった。自分で組み立てたのだろう、未塗装の、金属色の機関車が何台かガラスケースに並んでいたように思う。
その家は住吉町の商店街(今はあけぼの橋通りというらしい)から細い路地を入ったところにあった。夕方になると木桶の響く音がした。たぶん銭湯が近かったのだろう。もちろんその手がかりとなる銭湯はもうない。
親戚のお兄さんに貸本屋に連れて行ってもらったおぼえもある。おそ松くんを借りたような気がするが、これもまた定かではない。いわゆるうろおぼえというやつだ。人間って生きものはそんな曖昧な記憶とともに生きていくものなのだ。
曖昧ということでいうと最近、日本語に自信がなくなる。日本語関連の本を読みたくなるのはそんなときだ。何人もの作家がこの手の本を書いているが、井上ひさしはわかりやすくて、おもしろい。
住吉町と平行して市谷台という町があり、その先に余丁町、富久町と続く。その昔東京監獄市谷刑務所があったあたりだが、その話はまた別の機会に。


2011年11月24日木曜日

奥田英明『オリンピックの身代金』


久しぶりに夢を見た。
江戸川橋のアパートにいて、窓外に警視庁の公安が大勢やってくる夢だ。すべての逃げ場がふさがれた場面だ。
この本の後半でそんなシーンが出てくる。読んだ本のシーンが焼き付いてしまうのもまた久しぶりのことだ。上巻を読んでいるとき、後半はどうなるのだろう、どこかにほころびが見られるのではないかとハラハラしていた。島崎国夫の逃走シーンは何度かあるが、いちばん「無理があるなあ」と思ったのがここだったからだろう。
それにしても昭和39年の光景を描き出すのは相当のエネルギーが必要だったに違いない。たとえ、テレビの普及で映像資料が多く残されていたとしてもだ(建設ラッシュの東京はモノクロのニュース映像として残されている)。そして見た目だけではなく、当時の人びとの、ただひたすら前進するしかなかった時代の心性もよく描いている。
読みはじめたとき、『レディー・ジョーカー』のような印象を受けた。よく調べ上げ、丹念に組み立てられたストーリーであるということだ。時代背景も事件の内容もまったく異なるふたつの物語に共通した何かを感じたのである。
まあ、本の内容のことはどうでもいい。読んでもらえばわかることだ。
以前ここでも書いたように本書の上巻は人に借りて読んだ。下巻は買って読んだ。解説が川本三郎だった。
得した気がした。
蒲田から糀谷、羽田、そして六郷あたりをまた歩いてみたくなった。

2011年11月21日月曜日

寺西廣記『foursqareプロモーション』


今年のプロ野球日本シリーズはソフトバンクの優勝に終わった。中日も中日らしい守り勝つ野球で徹底抗戦したが、最後は投手のコマが足りなくなったようだ。
それにしてもオレ流野球というかオチアイムズというべきか、勝つことに固執した落合野球はたいしたものだ。落合博満という人は内に秘めた闘志を決して表に出すことなく、勝負に徹する。そのスタイルは現役時代から変わらない。派手さはない。パフォーマンスもない。スポーツは結果がすべてであるかのように割り切っている。そのあたりは嫌いじゃない。ただ、選手たちも同じようにクールでいるのはいかがなものかと思うのだ。
7戦すべてを観たわけではないが、気がつくとソフトバンクを応援していた。ワールドベースボールクラシックで活躍選手が多くいたせいかも知れない。残念ながらドラゴンズにはひとりもいなかった。
TwitterやFacebookなどソーシャルメディアをいくつか試しているが、いちばん頻繁に利用しているのがfoursqareだ。スマートフォンの普及でユーザも増えている。
この本はfoursqareを活用したビジネスのヒントを概観しているが、foursqareそのものがまだまだ未開拓なメディアであるせいか、ひととおりの話に終わっている。企業や商店でこう使ってみたらどうだろう的な話にとどまっているのだ。
アメリカでの成功事例の紹介やトータルなコミュニケーション戦略の中でどう活かしていったらいいのかという視点が紹介されればますますfoursqareは盛り上がるだろうと思う。そのためにも今後筆者は孤軍奮闘するより、専門分野の人を集めて共著というスタイルで裾野を広げてみたらいいのではないか。
誤植が多いのは残念だったが、このメディアには大きな期待を寄せている。

2011年11月13日日曜日

吉本佳生『無料ビジネスの時代』


しばらくブログをさぼっているうちに外はめっきり涼しくなってきた。おそらく今月下旬の明治神宮野球大会は厚着をしないといけないだろう。
ブログをさぼっているのは本を読んでいないからではなく、ちょっと文章を書くのが億劫だったからだ。年に何度かこういう時間帯がある。
数日前、仕事場で隣にすわっているI君が、これ面白いですよと文庫を一冊貸してくれた。
奥田英明の『オリンピックの身代金(上)』だった。
作者は元広告会社のクリエーティブだったらしい。そのせいもあってか何人かの著名なコピーライターやアートディレクターが賞賛しているらしいことをI君から聞いた。
この本に関してはまた改めて、ということにするが、なかなかおもしろいのだ。ちょっとした『レディ・ジョーカー』なのだ。あれよあれよという間に読み終えてしまった。で、I君に下巻はあるかと聞いたところ、まだ呼んでる途中だという。仕方なく本屋で買ってしまった。
これは無料ビジネスの世界でいえば、コーヒー1杯目無料ということになる。1杯目無料とおかわり無料とではビジネス的にどう異なるのか、ディズニーランドとUSJのアトラクション無料はどう違うのかとかなど本来なら専門的な本にあたらなければわからない話を実に簡潔にまとめてくれている。けっこう売れてるんだろうな、この本、と思わせる。人間は“無料”には弱いものだ。

2011年10月29日土曜日

半村良『葛飾物語』


10数年ぶりに仙台を訪れた。
前回はただただあわただしく、どこにも出かけなかったが、今回は多少ゆとりのあるスケジュールだったので青葉城や県庁前の欅並木などを見、仙石線と仙山線に乗った。仙石線は高城町から矢本までは復旧しておらず、松島海岸から代行バスがつないでいる。松島海岸駅に着いた時にはすっかり日も暮れてしまったので石巻行きは残念ながらあきらめた。
到着した日だけ晴れて暖かかったが、翌日から雨が降ったりやんだり。仕事を終え、小雨の中、五橋から愛宕橋あたりを散策する。道幅の広い国道4号線を避けて、裏道を歩くとなかなか風情のある商店や飲食店が残っていてうれしくなる。
半村良というと『戦国自衛隊』のインパクトが強く、SF作家のイメージがある。『エイトマン』や『スーパージェッター』の脚本も手がけていたと思う。あと、清水義範の師だ。
この本はたしか、川本三郎の新聞連載で紹介されていた(はず)。たまたま行った図書館で見つけて、読んでみた。昭和18年から63年までの、葛飾区立石、四ツ木あたりの長屋に住んでいた住人たちの年代記である。東京にもこんなピュアな時代があったのだ。近所づきあいというものが生活の一部であった時代が。
仙台からの帰路は少し遠回りして、仙山線で山形に出た。仙台から山深く分け入り、長いトンネルを越えると山形だ。萬盛庵という蕎麦屋にいちど行ってみたくて、途中下車した。
地図を頼りに駅からとぼとぼ歩いて行くと萬盛庵は駐車場になっていた。

2011年10月22日土曜日

林芙美子『めし』

東京六大学野球秋のリーグ戦も大詰めを迎えている。4年生にとっては最後のシーズンとなる。
が、今日はあいにくの雨。試合開始時間を遅らせるなど主催者側も懸命の努力をしたが、やはり雨には勝てない。
どの本だったか忘れてしまったが、林芙美子を読むようになったのは鉄道に関する本がきっかけだったと思う。
林芙美子がシベリア鉄道で単身パリに渡った話を何かで読んで、『下駄で歩いたパリ』を手にし、以降、『放浪記』だの『浮雲』だのを読んだのだ。ずいぶん荒削りな文章を書く作家だなと当初思っていたけれど初期の作品に比べると『浮雲』などは文章も洗練されて、小説家としての風格を感じさせる。
『めし』は林芙美子の未完の作品で朝日新聞連載中に彼女は絶命した。その最後の作品を読んでみたいと思ったのだ。
古書店などまわってさがしてみたものの、新潮文庫版は見つからず、かといって全集で読むのも旧仮名が難儀だ。新潮社では電子版というのをインターネットで販売しているが、それもあまりに味気ない。そう思っていたところ、九段下の千代田図書館にごく普通に置かれていた。まったくノーマークだった。
成瀬巳喜男監督の映画では上原謙と原節子が共演していた。実家に戻った三千代の降り立った駅は南武線の矢向だった。茶色い省線電車がガードの上をゴトゴト走っていた。茶色い、無骨な国電(さらに古い世代の人は省線電車と呼んだそうだ)を知らない人たちはこのモノクロームの映像に映る昔の電車にどんな色を思い浮かべるのだろう。
映画ではそれなりに結末がある。林芙美子は原作でどのような結末を想定していたのだろうか。

2011年10月14日金曜日

中村計『佐賀北の夏』


2006年の甲子園は早実対駒大苫小牧の熱戦に沸き、2007年は公立佐賀北の大逆転劇で盛り上がった。ついこの間のことのようだけれど、もう4年も5年も昔の話だ。
佐賀北の捕手市丸と広陵の三塁手土生の両校の主将は早稲田に、広陵のエース野村は明治に進んだ。それぞれ東京六大学野球の注目選手に成長した。
それはともかく、先週末左奥歯の根っこのあたりが痛み出し、草加で歯科医をしているK先輩のもとに駆け込んだ。同じ箇所が以前も痛んで治療したことがあり、慢性化しているのではないかという。ちょっと無理とか無茶をして疲れがたまると症状が出るのだろう。薬ももらって、週明けには痛みが和らいできた。
固いものが痛みに障るので週末はお茶漬けとかもりそばばかり食べていた。カップスープにパンを浸して食べたりもした。歯が痛いというのはかくも不便なことなのだとあらためて実感する。
話戻って野球であるが、高校野球がはじまると熱心に公立校を応援する人がいる。横浜に住む友人のKもそのひとりだ。今夏は習志野の試合を甲子園まで観にいったそうだ。そういえばKもやはり都立校出身だった。
東京では公立校が全国大会に出場するなどよほどのことがない限りあり得ない。人材、環境に恵まれた私学とは圧倒的な差があるからだ。地方に行くと案外その差が小さいのかもしれない。別に差別するわけではないが、佐賀県のようなところでは。
佐賀北は決して強いチームではなかったが、監督以下一丸となって全国大会で「勝てる」野球を実践した。このことを克明につづった一冊である。

2011年10月11日火曜日

辛酸なめ子『女子校育ち』


今秋の東京六大学野球は春優勝の慶應、2位の立教、そしてBクラスに甘んじた明治の争いだろうと思っていた。
さらに夏のオープン戦等の結果から法政が好調と聞き、早稲田、東大を除いた四つ巴(?)になりそうな予感だった。ふたを開けると明治野村の好投が光り、法政三上もいい。慶應は福谷が春ほどの球威はなく、竹内大も制球難。そして都立の星、立教の小室がマメをつぶしたとかでリタイア。後半再起をかける。
前半でふたつの勝ち点を落とした慶應、立教を尻目に明治が3戦までもつれながらも、ここまで勝ち点を落とさず来ていて、順当に行けば完全優勝するだろう。
明治野村と、同じく最終シーズンとなる早稲田市丸の対決が楽しみだった。2007年甲子園決勝の広陵対佐賀北の頃から対決している両者である。結果は7打数2安打2三振だった。今季打撃好調の市丸を野村がよく抑えたといえるだろう。甲子園で市丸が野村から何本ヒットを打ったのかは記憶にない。チーム全体で5安打だから、さほど打ってないような気もする。まあこのあたりは次回『佐賀北の夏』を読んでからということで。
なめことはずいぶん楽しい名前だと思っていたが、味噌汁の具のなめこではなく、どうやら「辛酸をなめる」から来ているうペンネームなのだろう。ちくまのツイッターで話題の本的な騒がれ方をしていたので手にとってみたが、別になんということもなかった。実相時昭雄の鉄道本で感動する輩にはあまり関係のない本だと思う。
そういえば先週靖国神社で奉納相撲を観た。自称相撲ファンであるのに生で相撲を観たのはこれがはじめてだ。
靖国神社のまわりも女子校が多い。

2011年10月6日木曜日

実相寺昭雄『昭和鉄道少年』


クリープを入れないコーヒーなんて。
この名コピーでおなじみのテレビコマーシャルの大半は実相寺昭雄が演出したのではないだろうか。20数年前、アルバイトでもぐり込んだCM制作会社の作品集の、そのほとんどが芦田伸介出演のクリープのCMだった。
CM制作の現場はテレビ番組制作のそれより映画に近い。演出家は監督と呼ばれる。当時の社長はむやみやたらと演出を監督と呼ぶなと言っていた。「監督といえるのは実相寺くらいのもんだ」と豪語していた。
実相寺昭雄の絵コンテを見たことがない。たいていの演出家は自ら構想を描いたプランをカット割りして、絵コンテにする。実相寺監督は原稿用紙に達筆過ぎる文字でその構想を記す。それを読んだカメラマン、ライトマン、美術デザイナーは現場に向けて映像をイメージし、必要な準備をすすめる。手慣れた実相寺組に絵コンテはむしろ要らない。
そうはいっても広告ビジネスの世界では広告主の意向なり、判断を仰がなくてはならない。共通認識のツールとして絵コンテは欠かせない。
あるとき、プロデューサーでもある社長に呼ばれ、“監督”の書いた原稿用紙のコピーを渡された。「お得意さんに事前に見せておかなくちゃならないから、お前、これを絵コンテにしておけ」との指示。畏れ多くも実相寺昭雄直筆の演出メモを絵にするなんて…。原稿を読む前にこれはカメラマンのNさんか美術のIさんに相談して監督のイメージを聞き出すしかないと思った、多忙な監督にお目にかかれる機会など年に何度かしかないし。とてもじゃないが鬼才の描く映像世界など描写できるほどの熟練はなかったのだ(熟練ということでいえばいまでもそうだが)。
ふた晩ほど会社で白紙を置いて悩んだ挙句、社長に「ぼくには描けません」と正直に打ち明けた。「そりゃそうだろうな」のひとことで結局絵コンテは描かずに済んだ。
生前の実相寺昭雄とは直接会話らしい会話をしたことはない。実相寺組のスタッフの方から伝え聞いた話が多い。鉄道に限らず、いまでいう“をたく”だったと聞く。とりわけ地方にロケに行くと必ず郵便局で貯金をする話とか、スタッフにいたずら(子どもじみたいたずらだったと聞く)した話とか。
しかしこの本はおもしろかった。読み終えるのがいやでわざとゆっくり頁をめくりたくなったくらいだ。
単に鉄道好きということだけではない。実相寺昭雄の生活圏が案外身近だったことをいままで知らなかったのだ。王子電車とか、戦後大井出石町から京浜東北線と中央線で飯田橋の学校に通ったとか、九段から靖国通りを下って須田町まで歩いたとか、赤坂のテレビ局に就職したとか。王子も大井町も飯田橋も赤坂も、ぼくにとってはいずれも忘れらない場所なのだ。
自分自身を、永遠の少年である“監督”にオーバーラップさせられたことがうれしくてたまらない。
ところで実相寺昭雄の演出メモを絵コンテにできなかったのは、監督の書いた達筆過ぎる字が解読できなかったせいもある。
豊島、いい文庫をありがとう。

2011年9月26日月曜日

安西水丸、和田誠『青豆とうふ』

安西水丸は大学受験の年の正月、半紙に毛筆で「東京芸術大學」と「日本大学芸術学部」と書き、どうみても後者の字面がいいので芸大ではなく日芸に進学したという。
また、本来広告制作を生業とするのであれば博報堂に行きたかったとも語っている(出展は定かではないので人から聞いた話程度に思ってほしい)。どうして電通を選んだかというとどのみち辞めてフリーランスになるのだから、元博報堂より元電通のほうが断然いいのだ、みたいなことも言っていた(これも出展は明らかではなく、知人に聞いた話程度に思ってほしい)。
電通退社後、ニューヨークに渡り、帰国時ヨーロッパをまわって、羽田に着いたときには財布にお金が全然なかったという話も聞いたことがある。ただその翌日の新聞求人欄に平凡社の募集があり、エディトリアルデザイナーとして採用され、嵐山光三郎と出会う。この辺の経緯も実に計算されていたかのように安西水丸ブランド育成に大いに寄与している。
村上春樹とのコンビもしかりだが、安西水丸はその人がらのせいか、行くところ行くところでいい出会いに恵まれ、こう言っちゃ何だけれども、もしかするとイラストレーターとしての才能以上のものを持っている。
「キネマ旬報」に和田誠が「お楽しみはこれからだ」、水丸が「シネマストリート」を連載していた頃から、ぼくはどうしてこのふたりはコラボレーションしないのだろうと思っていた。もちろん和田誠は日本のイラストレーターの中でも別格の人だから、水丸にとっては雲の上の人だったのかもしれない。
でもよかった。それからしばらくしてふたりのコラボがはじまったから。
昇さん、こんど和田さんのサインもらってきてくださいよ。

2011年9月21日水曜日

常盤新平『銀座旅日記』

最近読書量が落ちた。
目が疲れているせいではないかと思うのでむしろ少しずつ読めるものを読むようにしようと常盤新平のエッセーを神田の三省堂で見つけた。
翻訳者の常盤新平を知ったのは(おそらく)80年代、そのきっかけはアーウィン・ショーの『夏服を着た女たち』だった。その後しばらくショーの小説にはまった。『はじまりはセントラルパークから』、『若き獅子たち』、『夏の日の声』、『パリスケッチブック』、『ルーシー・クラウンという女』などなど。今では入手が難しいものが多い。ショーの翻訳といえば常盤新平というイメージをずっと持っていたけれど、よくよく調べてみると案外そうでもない。カート・ヴォネガット・ジュニアの翻訳イコール浅倉久志というほどではない。不思議なものだ。
ショーの作品の中で好きなのは『ビザンチウムの夜』と『真夜中の滑降』だ(いずれも常盤新平訳ではないが)。もう一度読んでみたい。今となっては記憶はおぼろげどころか遠くかすんでさらに厳重に梱包されている。旅行カバンがすり替えられて、フィルム缶をなくしてしまった話はどっちだったっけ、などとさっきネットで調べるまですっかり混乱していた。
とまあ、常盤新平はアーウィン・ショーを紹介してくれた人ということで僕にとっては偉大な方なのであるが、老後も読書に励み、おいしいものを食べ、旧交をあたためているのを見聞し、安心した。病気を患ったこと、外出が減ってきたことなど心配な面も多々あるけれど、いいあとがきを書かれていた。
4、5日かけて著者の何年かを追ってきたが、読み終わってちょっと寂しい。

2011年9月13日火曜日

夏目漱石『門』

グリコ、チヨコレイト、パイナツプル。
子どもが小さい頃、住んでいたマンションの外階段でよく遊んだものだ。
この遊びを正式に何と呼ぶのかは不明だが、これにはちょっとしたコツがある。とりわけ小さい子ども相手には有効な方法なのだが、とにかく負けてもいいからひたすらチョキを出し続ける。負けても3段だから、そう大差はつかない。向こうがパーでも出してくれれば2敗ぶんは一気に追いつく。そのうち相手も子どもながらにさっきからチョキしか出してないぞと気づくはずだ。その空気を読んだらすかさずパーを出す。このパーを出すタイミングさえ間違えなければ、仮に大きくリードされていてもすぐに追いつき、追い越せる。イメージとしてはチョキチョキチョキチョキパーチョキチョキって感じだ。
それはともかくたまには読みたい名作シリーズ夏目漱石。
今回は『門』を読む。再読ではない。50を過ぎてはじめて読む『門』である。
平穏な、なんてことない夫婦の暮らし。小津安二郎の映画を観ているような感覚に陥る。ときどきさざ波が立ち、夫婦のエピソードが挿入されて、少しだけその生い立ちが明かされる。
静かな静かな小説であるが、その後の日本文学や映画、ドラマに与えた影響は大きいんだろうな思える佳作である。
ちなみに子どもたちとしりとりをすると「る」攻めにする。うちの子どもたちが小さかった頃(幼稚園くらい)、ぼくはロクでもない親だったと最近ちょっと懐かしい。

2011年9月6日火曜日

梨木果歩『ピスタチオ』

高校に入学する前の春休みに教科書などを買いに行く日があった。
当時校舎の地下に購買部があっておそらくはそこで買ったのだろうが記憶が定かではない。憶えているのはすでに教科書が売り切れていて、自分で本屋に行って買ってこいという指示だけだ。今考えてみるとおかしな話だ。教科書を買いに来いと呼びつけておいて、売り切れたから(そもそも生徒数ぶん用意してあるんじゃないのか)本屋へ行けと。たしかに今考えるとおかしな話だが、そのころは不思議とこうした理屈に合わないことが素直に受け容れられた。適度に緊張していたせいかも知れないし、もともと物事を深く考える方ではなかったからかも知れない。
たまたま指定された本屋が神田神保町の三省堂書店で学校から歩いてもわけのない場所だった。とぼとぼ歩いていると同じように校舎を出てとぼとぼと前を歩く生徒がいた。当時の三省堂は今のようなビルではなく、木造の本屋だった。書店というより本屋。黒い木でできた床がみしみしいう店内に膨大な数の教科書が並んでいた。最初からここで買えと指示してくれればよかったのに。
昨年の秋に梨木果歩の新刊が出たから買ってくれと娘に言われ、三省堂で購入した。厳密に言うとどこで買ったか憶えていないのだが、三省堂のカバーがしてあったから、間違っちゃいないだろう。
梨木果歩は今まで知らなかった世界に導いてくれる作家のひとりだ。水辺だったり、織物の世界だったり、トルコだったり。今回はアフリカ。
水にまつわるエピソードや精神世界への展開はおなじみの梨木ワールドだ。

2011年8月30日火曜日

樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』


8月の最終週にして9月のはじまりの週。今週はやけにハードだ。
進行中の企画が4本。絵コンテを描いたり、シナリオを書いたり。
7~8月は比較的マイペースで仕事ができた。帰りに散歩する余裕があった。散歩といってもたいてい四ツ谷から信濃町駅までひと駅ぶん歩くだけのことだ。学習院初等科の裏から鉄砲坂を下りて、若葉町の商店街に出、須賀神社の参道を上って、闇坂からもとまち公園でひとやすみして信濃町に出る。この一帯は歩いてみなければわからない坂の町で、たとえば闇坂を下りきったところにある若葉公園などはまるで谷底である。
四ツ谷は新宿通りをはさんで北側の荒木町界隈も谷底である。不思議な地形の町だ。
そういえば本郷あたりも坂が多い(というか東京は坂だらけだ)。小石川と本郷の間、春日はやはりの谷の町だ。本郷三丁目から西片町に抜ける菊坂を先日歩いてみた。樋口一葉ゆかりの地である。もっとゆっくり散策したかったが、とにかく暑い日だったのですぐに地下鉄の入り口にもぐってしまった。
以前、ハードディスクに録画した今井正監督「にごりえ」を観るにあたり、原作くらいは読んでおこうと思い、頁をめくった。読んでいなかったら、この映画がオムニバスであると、きっと気づかなかっただろう。
四ツ谷や本郷、小石川の坂は歴史もあるし、山の手としてのちょっとした上品さがある。これが上野や日暮里の方に行くと山の手と下町を結ぶ坂があり、それはそれでまた風情がある。もちろん横浜は横浜らしい坂があってそれも捨て難いものがある。

2011年8月28日日曜日

小野俊哉『プロ野球解説者の嘘』


金曜日に名古屋に行った。
のぞみで1時間40分。便利になったものだ。
名古屋に行くとたいてい夕方か夜まで仕事をして、そのあと栄で食べたり飲んだりするのが通例なのだが、その日は夜東京に戻ってしなければならない仕事があり、2時間ほど打合せをしてとんぼがえりした。え、もう帰っちゃうの?とみんな驚いていた。
この著者の本を読むのはたしか2冊めだと思う。やはり以前読んだ本もプロ野球を新たな視点で分析する本だった。今回も同様。たとえば3点以内の少得点での勝率の高さが優勝するためには必要であるとか、ホームラン王やリーディングヒッターがいても優勝できるとは限らないとか、犠打か強攻かなどなどかなりの量のデータを整理してプロ野球の謎を解く。
『プロ野球解説者の嘘』というタイトルほどにはセンセーショナルな内容でもなく、冷静にプロ野球を分析している。こうした分析がプロ野球を観る上でどれほど有効なのかはちょっと判じ得ないが、こういう見方があっても悪くない。
プロ野球は観る人すべてが解説者のようなものだから、むしろそんなジャンルに波紋を広げるような著書を世に送る著者の勇気は大いに賞賛されるべきであろう、とだけ感想として記しておく。
帰りののぞみでは夜の打合せに備えて仮眠をとることにした。目が覚めたら新横浜の手前で、名古屋はあんなにかんかん照りだったのに窓外は滝のような雨が降っていた。定刻より10分ちょっと遅れて東京駅に着いた。

2011年8月24日水曜日

ジョン・レノン『絵本ジョン・レノンセンス』


猛暑の中、世田谷文学館に行って、「和田誠展書物と映画」を観た。
装丁や挿絵などに携わった和田誠のデザイン作品と文学との接点を蒐集した、愉快痛快にして、奥深いコレクションである。閉館時間が思いのほかはやく、こんなことなら朝から弁当持参で行って一日中居たかったと思う。世田谷文学館周辺の芦花公園あたりは閑静な町並みが続き、散歩するにもうってつけだ。
和田誠のイラストレーションはその線のやわらかさや親しみやすい絵柄が好きなのだが、とりわけ色づかいが絶妙だと思っている。直接グアッシュやカラーインキで描くこともあるし、線画に版下で色指定することも多い。そんな版下が掲示されていたりするともうメモ帳片手にその色指定を書き写す。顔はY20+M10とか。特に和田誠の指定するブルーは毎度のことながら感動する。
今回は本と映画にフォーカスした展覧会だったが、和田誠といえばアニメーションも音楽、文筆も完璧にこなす、表現の才能がワンパッケージになった人だ。どこかに和田誠美術館でもこしらえたら、相当楽しい場所になるに違いない。
そういった意味ではジョン・レノンもマルチな才能と柔軟な思想の持ち主だったといえる。ただちょっと僕には難解だったけど。しかしながら出版されて30年も40年も経つ本がこうして改めて文庫化されて、話題になることにやはりジョン・レノンの一方ならぬ才能の深さを感じざるを得ないのである。
芦花公園駅近くの居酒屋で生ビールを飲みながら、才能というものについて考えてみた。店を出たらバス停にO駅行きのバスが待っていた。何も考えずにそのバスに乗った。

2011年8月20日土曜日

所澤秀樹『時刻表タイムトラベル』


日大三は強かった。
昨秋明治神宮大会で見たとき、今年のチームは相当強いと思った。選抜も行けるんじゃないかと思った。明治神宮、選抜、選手権の三冠を獲れるのではないかとさえ思った(97~98年の横浜以降三冠校は出ていない)。選抜で惜しくも九州国際大付属に敗れ、都春季大会を制したものの関東大会では優勝した習志野にコールド負け。夏に向けて不安がよぎった。
が、しかし西東京大会は前にも書いたとおり一強状態で圧倒的な優勝を飾る。本大会も島根開星、智弁和歌山とは接戦だったが、準々決勝以降はまさに完勝だった。
印象に残ったのは智弁和歌山戦で打線が吉永のスライダーを狙い打ったこと。高校生レベルの野球ではスピードがあって下に曲がるスライダーはかなり有効な球種なのだが、おそらく高嶋監督は甲子園で勝ち残るため徹底してスライダー打ちを練習したに違いない。
先週千葉の南房総に墓参りに行くにあたり時刻表を見たのだが、近年道路が整備されたせいか、バスが移動機関の主役になっている。特急列車も朝夕のみで非常に寂しい思いをした。筆者もおそらくそんな思いで筆をとったのだろう。主として車両編成の妙を説いた内容だったが、いかにも時刻表マニアな一冊だ。
南房総滞在中は期待していたワンセグチューナーが電波をキャッチできず、一日中ラジオを聴いていた。それそれで田舎の風景に似合っていたように思う。
東京は来月10日から新人戦がはじまる。さしあたって高校球児たちは明治神宮大会をめざす。

2011年8月13日土曜日

吉田修一『パークライフ』


高校時代は日比谷図書館によく通ったものだ。
とりたてて熱心に勉強したわけではない。その雰囲気を楽しんでいたのだ。
当時、都立図書館としては港区有栖川の中央図書館が開館したばかりで近代的なデザインとその土地柄もあって高校生に人気スポットだった。ものみなすべて成長していく時代にあって“新しいもの”はほぼ無条件に素晴らしかった時代だ。
ぼくと友人のKはそんなトレンドに流されることなく、外観だけは奇抜な三角形のデザインでありながら、机も椅子も古びていて、壁際には暖房用のヒーターが張りめぐらされている古風な環境に身をゆだねた。食堂もいわゆる食堂だった。中央図書館のようなカフェテリアな匂いはなかった。
だいたい夜8時の閉館までいて、日比谷公園のなかを歩いて帰る。Kは町屋に住んでいたので公園の前から地下にもぐって千代田線で帰った。ぼくは有楽町まで歩いて京浜東北線に乗った。
日比谷公園との付き合いはまず図書館からはじまった。
それ以来、都心にいて時間をつぶしたいと思うときは日比谷図書館に行くようになった。読みたい本がないときは縮刷版の古い新聞をながめる。地下の食堂で自販機のコーヒーを飲む。
日比谷図書館は都から千代田区に移管されたそうだ。今は閉鎖されたままで、新しく区の施設として復活する日を待っている。
残念ながら心字池の上から図書館の建物は見えない。

2011年8月9日火曜日

佐々木俊尚『キュレーションの時代』


甲子園がはじまって、強豪同士の組合せが予定されている日は少しそわそわする。この時期ラジオは手放せない。
テレビ観戦していて、いたたまれなくなって新幹線に飛び乗ったのがもう5年も前のこと。その日は準々決勝の2試合を観た。西東京の早実が日大山形に8回裏の集中打で逆転した試合と初出場の鹿児島工が福知山成美を延長戦で破った試合だ。甲子園は熱い球場だった。
キュレーターという言葉をはじめて知った。
美術展のパンフレットのクレジットでたまに見かける程度で身近な言葉じゃなかった。そこらへんをきちんと説き明かしてくれるちくま新書に感謝だよ、豊島。
平たく言うと膨大な情報のなかからある尺度に則って取捨選択し、その意味付けと共有をはかることということだそうだ。
筆者はIT関連のオピニオンリーダーであり、今世の中的にはもっとも注目されてしかるべきライターである。ひとつのことを解説するのに、巧みに言い換えながら繰り返し説いてくれるところがうれしい。多少難解なところがあってもそのまま読みすすめていけばなんとなくわかるところがいいのだ。表現に幅がある。ジスモンチ、『ハングオーバー!』、田中眼鏡本舗、フォースクエアなど事例の挿入も見事。
こういう肩が凝らないで新しい知識に触れられる書物に出会えるのは本当に爽快だ。
ちょっとほめすぎかな、豊島?

2011年8月7日日曜日

志村ふくみ『白のままでは生きられない-志村ふくみの言葉』


ちょうど読む本がなくなって、朝とか深夜とかちょっと本屋行ってくる、みたいなことができないタイミングでのそっと娘の部屋に入って、なにか本あるかと訊ねる。何冊か見繕ってくれる。梨木果歩『ピスタチオ』、安野光雅『口語訳即興詩人』など。
さっと読めて重たくないやつ、とさらにぜいたくを言って絞り込み検索をかけると、じゃ、これと本棚から出したのが志村ふくみだった。
まったく予備知識なしに読んで、巻末の略歴でああ、こういう人なんだと知る。
ちょっとためになる文章と言葉の数々。

「一つの線を引く。生きる上でそれをしなくてはならない時がある」
「色に名前をつけるの愛情である」
「手によってすべての仕事は行われる。手の中に思考が宿るといってもいい」

などなど。
往き帰りの地下鉄の中で読み終わってしまったけれど、読んでいる時間以上に多くの時がそのなかを貫いている、おりかさなっている。
そんな一冊。

2011年8月2日火曜日

境治『テレビは生き残れるのか』


センセーショナルなタイトルではあるが、おそらく放送や広告に携わっている人たちが薄々感じとってきた危機感をそのままテーマにしている本だ。
テレビは4大媒体のうち抜群のパワーをもって、高度成長を支えてきた。マスメディアの“マス”を体現していた。もちろんテレビのもつ影響力が近い将来劇的に減少するということもないだろう。ただその視聴形態は大きく変わってくる。
テレビはメディアとしての“マス”の役割を終え(というよりマスメディアと呼ばれる巨大な媒体がすでになくなりつつある)、これからはミドルメディアとして位置づけられて、インターネットやソーシャルメディアと友好的な関係を築いていくであろうというのが著者の論。大きな成長を終えたところにマスは不要ということだ。
当然クリエイティブのあり方も変わってくる。100案のアイデアを30時間かけて1案に絞り込む、そんなやり方は成長を前提とできない今日にあってはムダな要素が多すぎる。少数精鋭でコンパクトな議論でパパッと決めて進めていく、そう変えていかなければならないという。
しかしながらプロアマ混淆の映像コンテンツ氾濫の時代にあって、コンテンツ制作の環境も激変することが必至だ。これまで以上にスピードとセンスが求められ、しかも作業規模はコンパクトになっていく。ビジネスとしての将来が不透明ななか、劣悪な作業現場に身を投じる若者たちははたしているのだろうか。
テレビの将来は見えてきた。しかし映像コンテンツを底辺で支える人たちの明日はまだ見えていない。

2011年7月30日土曜日

井口資仁『二塁手論』


東都大学にすごい選手がいると聞いて神宮に行ったのがもう15年前。
すでに24本の本塁打を放ち、三冠王も経験した東都大学史上最強バッターのひとり井口忠仁である。身体はできているし、パワーもじゅうぶん。ショートの守備も巧い。プロ注目の逸材だった。
その年、秋のシーズンはふたりの遊撃手に注目が集まっていた。もうひとりは東洋大の今岡誠。ともにアトランタ五輪で注目を浴びたが、井口の鋼のようなスイング、アクションの大きな守備などにくらべ、今岡はやわらかいスイングで長打を飛ばす好選手だった。守備も柔軟でスピードがあった。結局そのシーズンは今岡がベストナインを獲得した(優勝は井端弘和がいた亜細亜大学だったが)。
当時神宮で見た井口の印象は豪快な長距離ヒッター。将来的にはプロにすすんでサードか外野手に落ち着くんではないかと思えた。それが意外なことにセカンド…。
野球で二塁手というポジションは身体の流れが逆向きになることが多く難しい。右足を前に出して2塁ベースに送球するとか、一二塁間の打球をつかんで一塁ベースに送球するときも身体をいったん右にひねらなければならないなど、ちょっとしたコツが必要なポジションなのだ。土井正三、高木守道、落合博満など歴代プロ野球の名二塁手と呼ばれた選手にもひと癖ある人が多い。
子どもの頃遊びで草野球をやった程度のぼくがとやかくいう話ではない。ま、いちど名二塁手の道を歩んでいる井口資仁の声に耳を傾けてみよう。

2011年7月27日水曜日

猪瀬直樹『地下鉄は誰のものか』


高校野球東西東京大会はいよいよ大詰め。
西東京は今日ベスト4が決まった。準決勝は早実対佼成学園、日大鶴ヶ丘対日大三。しかるべきチームがしかるべき場所までやってきたという感じだ。それぞれ昨秋新人戦予選敗退チームと秋季大会、春季大会上位校との対戦になった。秋に屈辱を味わった早実、日大鶴ヶ丘の下克上組も楽しみだが、昨秋日大三にコールド負けを喫した佼成学園が春季大会決勝では互角にわたりあったように(結果的には延長で3-7で敗れたが)西東京の1強日大三に各校が迫りつつある。逆にいうと追われる立場の日大三も相当のプレッシャーと戦っているといえるだろう。
東東京は混戦模様だが駒込学園、朋優学園の健闘が光る。春季大会出場校がひとつもないブロックからは青山学院が勝ち上がった。最終的には関東一、二松学舎、修徳、帝京あたりかと思うが、準々決勝で帝京と修徳がぶつかるのは少し惜しい気がする。
で、猪瀬直樹の『地下鉄は誰のものか』。
たしかにそうだ、東京メトロと都営地下鉄はしのぎを削っているわけでもなく、ふつうに共存していて、不便なところ、つまり乗換だの運賃だのに関しては放置されていた。言われてみないと気がつかないことってけっこうあるもんだ。
それにしても地下鉄というのはもともと都市計画のなかでつくられていったのだなとつくづく感心する。言ってみれば郊外電車の山手線内への延長ととらえられるわけで、こうした連続性で考えれば、地下鉄はどこから入れるのかなんて徹夜で考えなくてもいいのだ。

2011年7月24日日曜日

中竹竜二『リーダーシップからフォロワーシップへ』


フォロワーシップという言葉に新しい何かを感じた。
組織はリーダーとフォロワーから成る。一般には強いリーダーのいる組織は強く、リーダーシップに欠けるリーダーが率いる組織は弱いといわれる。カリスマ指導者といわれた元早大ラグビー部監督清宮克幸が退いた後監督に就任した中竹竜二は本人も認めているように(どちらかといえば)強いリーダーシップを発揮するタイプの指導者ではなかった。ところが中竹はカリスマ性がなかったかわりに卓抜した理論を持っていた。
それがこの、フォロワーシップという発想である。
中竹監督率いる早稲田ラグビー部は決して弱くはならなかった。2006~2009年までで大学選手権優勝2回、準優勝1回。まったく恥ずかしくない戦績である。
冒頭「組織はリーダーで変わる」のと同様に「フォロワーで変わる」と打ち出している。この考え方が実に現代的である。個人の持ち味を組織に活かす、そのために今必要とされるのは組織を“あるべき姿”へ引っ張っていくリーダーシップではなく、個のスタイルを組織の中に浸透させ、確固たる組織のスタイルを構築する、いうなればフォロワーを育てるリーダーシップなのだ。
中竹メソッドはこのほかにも、スキルよりスタイルを重視する姿勢、成功よりも成長を重視する見方、できる人とすごい人の差などフォロワーシップを支える独自の視点をふんだんに備えている。後日、あらためて熟読してみたい一冊だ。

2011年7月20日水曜日

村上たかし『星守る犬』


先週の土曜日は高校バレー部のOB会があり、ブログを休んでしまった。
今月は土日が5回ある珍しい月なので、一回くらい休んでもいいんじゃないかとつい気がゆるんでしまった。
で、今日ご紹介するのは村上たかしの『星守る犬』である。
その前にOB会の話だが、例年昼の部、夜の部の2部構成で行われていて、昼の部はOBどうし、あるいは現役高校生らと母校の体育館でバレーボールを楽しむ。夜はしかるべき場所で酒を飲みながら思い出話を楽しむというきわめて立体的な構造のすぐれた会なのである。
ここ数年、ぼくは夜の会に気持ちを集中させるべく、昼の部にはやや距離を置いていた。今年はどういうわけか、バレーをやってみたくなった。たぶん新しいシューズを3年前に買って、ようやく足に馴染んだせいだろう。おしゃれは足もとからというけれどやる気も時には足もとからなのだ。
駅から炎天下の道を歩いて名前も校舎もシステムも新しくなってしまった母校(元母校といった感じか)にたどり着き、3年前に買った新しいシューズを履いて、体育館に入った、数年ぶりに。
『星守る犬』は先月公開された映画の原作になった漫画である。ちょっと哀しい男と犬の物語だ。
実は最近、わが家にも小さな犬がいるので(そのことはまたいずれお話しするとして)、ちょっと冷静に読みとれないところも多々ある。
それはそうとして、体育館に冷房が入っていたのにはおどろいた。

2011年7月12日火曜日

偉関晴光監修『世界最強中国卓球の秘密』


先の週末、神戸で開催された卓球の荻村杯ジャパンオープン男子単で岸川聖也が初優勝した。
中国の一線級選手の参加がなかったものの、コルベル、呉尚垠、荘智淵ら名プレイヤーも参加した大会であり、しかも決勝の相手が水谷隼だったことを考えるとさほどレベルの低い大会とも思えない。しかも松平賢二、荘、丹羽孝希を破っての決勝進出。大きな自信になったに違いない。おそらくは世界選手権の16強から8強クラスの活躍だったといえる。
そして今回4強に残った日本選手の上空に君臨しているのが、中国の選手たちだ。先の世界大会でチャンピオンになった張継科をはじめ王皓、馬琳、馬龍、王励勤、許昕と世界ランキングトップ10に6人をランクインさせている卓球王国である。7月発表のランキングで水谷が王励勤、許昕より上位だったとはいえ、直接対決したら結果はどうなるかわかったものじゃない。中国卓球の強豪選手は単に試合で結果を残す以上のポテンシャルを秘めているような気がするのだ。
そんな中国卓球の秘密を解き明かすべく、卓球仲間のKさんに借りて読んだのがこの本。タイトルからしてベタベタだ。監修者の偉関晴光はソウル五輪の金メダリスト。後に日本に帰化したが、まさに中国卓球の真髄を知る人だ。
さまざまな卓球技術を中国語(漢字)で紹介し、解説を加えている。中国卓球の強さの秘密は微妙な技術の差を表現できる“言葉”にあったのかもしれない。
本書の教えの通り練習したら、卓球も漢字も相当上達するにちがいない。

2011年7月10日日曜日

多根清史『ガンダムと日本人』


関東甲信越地方も今日梅雨明けしたとみられる、のだそうだ。どおりで卓球練習をしていても暑いはずだ。
こう厚くなると散歩に出かけるのも億劫になる。炎天下を歩いて、汗をかき、冷たいものを飲む。まるで「砂の器」の刑事だ。
今歩いてみたいのは、上野から鶯谷、日暮里、田端あたりの台地の縁を上中里、飛鳥山あたりまで歩くコースだ。京浜東北線、山手線はこのあたりでは山の手と下町の境目に沿って走っている。線路の西側はどこも小高い。
逆コースもいいかもしれない。飛鳥山を起点として最終ポイントが鶯谷か上野。だとすれば“しめの蕎麦”は公望荘か、蓮玉庵、池之端藪となるだろう。散歩と蕎麦の話はきりがない。
以前住んでいた町はガンダムの生まれ故郷に近かった。ガンダムのアニメーションを制作したサンライズという会社が近くにあったのだ。杉並北部から練馬にかけては東映動画や虫プロなどがあったせいかアニメーション関係の会社が少なくない。
機動戦士ガンダムはいまさら言うまでもなく、歴史をモチーフに創作された物語だ。ただそれが第二次世界大戦の枢軸国と連合国、みたいな簡単な線引きでは語りつくせぬところにその奥行きが感じられる。もちろんこと細かに検証しようという気にもなれないのだが、ちゃんとやってくれる人が世の中にはいるもので、その著書を手にとることができたのは幸運だったとしか言いようがない。
ザクは零戦だのシャアは小沢一郎だの、その大胆な飛び火の仕方もおもしろい。おそらく著者は、ガンダムさえあれば朝まで飲んで語る人なのだろう。

2011年7月6日水曜日

森鴎外『青年』


甲子園をめざして、東京でも予選がはじまる。
今年は先の震災の影響で春季大会が縮小開催されたため、昨秋の新人戦ブロック予選で敗退したチームはいきなりの予選ということになる。またその影響でシード校を決めずにまったくの抽選で組合せが組まれた。秋季大会出場48校のうち29校が西東京、19校が東東京である。
東を見ると修徳、二松学舎、東海大高輪台、国士舘あたりが一応実績校である。秋16強春8強の修徳がいるブロックには秋春ともに初戦で姿を消した帝京がいる。秋春ともに16強の世田谷学園もここだ。反対側のブロックでは二松学舎が組合せに恵まれた感がある。その下のブロックには国士舘、関東一が接近しており、さらには安田学園、日大豊山と激戦区になっている。いずれ東は抜きんでた学校がないだけに目がはなせない。
一方西は初戦から強豪校同士の組合せが多い。八王子対東海大菅生、聖パウロ対国学院久我山、東亜対実践がそれだ。とはいえ西東京は日大三の力が抜きんでているような気がする。ひと泡吹かせるとすれば、日大鶴ヶ丘、早実のように秋に苦杯を喫したチームではないだろうか。昨秋都立昭和が4強を果たしたが、都立校で安定した力を見せているのは国立か。ただ順当に行って、2回戦で日大二、4回戦で創価か堀越、準々決勝で日大三と甲子園への道のりは険しい。
鴎外の『青年』を読む。
小泉純一は小川三四郎同様、すがすがしい明治の青年である。

2011年7月3日日曜日

佐野正弘『位置情報ビジネス』


foursquareというモバイルコンテンツがある。
GPS機能の付いた携帯端末で自分が今どこにいるか、チェックインする。するとポイントが加算され、バッジがもらえたり、いちばん多くその場所にチェックインするとメイヤーになれる。もちろんバッジはディスプレイに表示されるバッジだし、メイヤーになったからといって収入が増えるということもない。要するにゲームなんだと思って半年ほど前から遊んでいる。
いったい誰が何のためにこんなしくみを考えたのだろうと不思議には思っていたが、さしたる関心もないまま、ただチェックインを続けていた。半蔵門の山下書店にチェックインして、何かおもしろそうな本はないかと思っていたら、この本を見つけた。チェックインしていなかったら見つからなかっただろう。
たしかに自分が今どこにいようがそんなことに関心を持つ者なんていないだろうとは思うが、知ってる人なら気になることもあるだろう。政治家先生が料亭◯◯にチェックインしたと聞けば、少なからず興味は抱く。「いま、◯◯してる」以上に「いま、◯◯にいる」のほうが雄弁なときもある。
foursquareにはTwitterやFacebookにシェアできる。つまりは「いま、ここにいる」という位置情報がそのままつぶやきとなるわけだ。サボっていてもすぐにばれてしまうのだ。この辺は特に注意しなければならない。
で、この本ではそうした位置情報がどのようなビジネスの可能性を秘めているか、みたいなことが書かれている。自分がいまいる場所、立ち位置を把握することは重要なことである。それが地理的な場所であろうがなかろうが。

2011年6月28日火曜日

井上ひさし『日本語教室』


味の素は非常によくできた調味料だと思う。
子どもの頃夏休みは南房総の町で過ごした。両親ともに実家が白浜、千倉、その辺りだった。
父方の祖父(といっても母方の祖父は母が中学生の頃他界しているので写真でしか見たことがない)は味の素が好きだった。漬物はもちろんのこと、味噌汁にも、煮物にも、焼き魚にも味の素をふって食べていた。下手をすれば西瓜にもかけただろう。ただ、僕と同様、西瓜を口にしなかった人なのでその場を目撃することはなかった。
築地市場場内の定食屋などでカウンターに味の素が置いてあるとうれしくなる。とんかつ屋のキャベツやごはんと同様、お好きなだけどうぞというオーラを発している。ついふり過ぎてしまう。海老一染之介が土瓶をまわし過ぎるように。
わが家にも味の素があるのだが、家族は皆味の素をふる習慣がない。おそらく買ったものではなく、誰かに(たとえばぼくの実家の母に)もらったものだろう。うちでは味の素を買ったことはない。ひと袋があまり減ることなく残っているのは僕ひとりが細々と使っているせいだ。具体的には休日の朝などに目玉焼きを焼いて、ご飯にのせ、混ぜて食べる。このとき醤油と味の素は必須調味料である。納豆に混ぜるときもある。それ以外にはまず使わない。わが家では味の素は貴重なのである。
味の素の話を引っ張りすぎた。
井上ひさしの『日本語教室』は氏の上智大学で行われた講演をまとめたもの。井上ひさしは上智のOBだったんだ。

2011年6月26日日曜日

レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』


今日は午前中卓球練習して、善福寺川沿いを少し散策して帰った。
善福寺川は善福寺公園の池から流れ出て、神田川と合流し、さらに落合のあたりで妙正寺川と合流する。そして早稲田、飯田橋、御茶ノ水を経て、両国で隅田川につながる。妙正寺川にくらべると水量が豊富で、水も澄んだ印象であるが、それは水源となる善福寺池と妙正寺池とのスケールの違いか。また大きく蛇行して流れる杉並区の西田から和田にかけての緑地は歩いていてすがすがしい。
午後はレイモンド・チャンドラーの『さよなら、愛しい人』、村上春樹訳を一気に読み終えた。
村上春樹によれば、というかチャンドラーファンの大方の人がそうであるらしいが、『ロング・グッドバイ』、『大いなる眠り』とこの本がチャンドラーの代表作なのだそうだ。刊行されたのは1940年で『ロング・グッドバイ』をさかのぼること13年。読み慣れた読者にはフィリップ・マーロウがまだ若いということらしいが、まだ2冊しか読んでいないのでよくわからない。それにしてもマーロウというのはかっこいいやつだ。
善福寺川にかかるいくつかの橋のなかに相生橋という名を見つけた。相生橋というと佃島と越中島を結ぶ橋を思い出してしまうが、どうやら橋の名前としてはポピュラーな部類で日本全国津々浦々にあるようだ。
この小さな相生橋から笹舟を流すとやがて下町にかかる相生橋まで流れ着くのかと思うとちょっと不思議な感じがした。もちろん新川の辺りで勝鬨橋のほうに流されなければ、の話であるが。

2011年6月22日水曜日

博報堂ブランドデザイン『あなたイズム』


横浜にある放送ライブラリーに行ってきた。
関内駅からほど近い横浜情報文化センター内にある。横浜スタジアムの海側という位置か。
ここで来月18日まで「CM半世紀展--ACCCMフェスティバルの歩みと3人のクリエイター」が開催されている。これまでのACCCMフェスティバル入賞作品や杉山登志、三木鶏郎、堀井博次のCM作品を上映している。それを見に行ったわけだ。
放送ライブラリーにはこの催し以外にも常設展示として古い資生堂や桃屋のCMを見ることができる。とりわけ桃屋のライブラリーは圧巻である。本数の多いこともさることながら、特にアニメーション作品が懐かしく、色褪せてはいるけれどおもしろい。「男は度胸、女は愛嬌、おかずは桃屋の花らっきょう」など名コピーの数々が記憶の底なし沼を抉る。
関内から野毛小路まで歩いて萬里へ。サンマーメンと餃子で遅い昼食をとる。横浜に来たんだなとあらためて実感する。
博報堂ブランドデザインによるこの本は先の『「応援したくなる企業」の時代』とベースになる考え方は同じで、こちらのほうは組織の中でどう自分らしさを持ち続けるかという新種の自己啓発的内容にやや傾けている。もちろんイズムとは「個人の持ち味」と「組織のらしさ」から導かれるとされているから、組織論でもある。人材の開発・育成にあたる人にはもちろん、経営者的立場にある人まで幅広く、すぐれたヒントを与えてくれそうだ。
今日は梅雨の晴れ間で暑かった。萬里でビールを飲みたかったなあ。

2011年6月19日日曜日

博報堂ブランドデザイン『「応援したくなる企業」の時代』


博報堂で長いことクリエイティブに携わってきた先輩が先週亡くなられた。
先輩といっても歳は14も離れた高校のバレー部の先輩で、バレーボールを直接指導していただいたこともなければ、コピーライティングを教わったわけでもない。OB会で何度かご挨拶差し上げて、その後博報堂でお会いすると「どう?がんばってるかい」とやさしく声を掛けていただけるようになった。何年か前にはカンヌ国際広告祭でお会いしたこともあった。
ぼくのような若輩者にとって(さしてもう若くはないのだが)そんな些細なことがうれしかったのだ。
それにしても博報堂の人たちって上手いなと思う。
かつて高度成長期の終焉を大衆の時代から分衆の時代へという示唆を与えたが、分衆というネーミングは言い得て妙だった。
ここのところの企業コミュニケーションのあり方を見てみると商品やサービスの差別化をはかってもモノが売れない時代になっている。むしろそんな微差を広告表現で補うよりか、企業の理念なり哲学なりに賛同してもらってファンになってもらった方がよほどいい。
そういうことをこの本は上手いことまとめている。企業側からの発想でもなく、それを単純に裏返した消費者視点の発想でもなく、企業と生活者が共創していく時代だ、というわけだ。まさに情報伝達的に飽和した社会、すなわちテレビコマーシャルの全盛期から、Webを経てソーシャルメディアの全盛期を迎えるにあたって現状考えられる最適なコミュニケーションの考え方だろう。
お通夜は梅雨時らしい小雨模様の日だった。

2011年6月14日火曜日

川辺謙一『電車のしくみ』


豊島洋一郎にかれこれ10年以上会っていない。
豊島というのは高校の同級生でどこかの大学を出てから、筑摩書房に就職した。最後に会ったのは四ツ谷の焼鳥屋だった。豊島は川口に住んでいた。
先日テレビで浦山桐郎監督の「キューポラのある街」を観た。高校生の頃、豊島の家に泊まりに行ったことがあるが、キューポラなるものはもうなかった。
たまたまちくま新書を読んでいたので豊島のことを思い出した。
以前中公新書で『電車の運転』という本を読んだ。長年列車運転にたずさわった著者の質朴な語り口が印象的だった。今回読んだこの本は電車はどうして走るのか、どうやって止まるのかというきわめてプリミティブなテーマを懇切丁寧に説き明かしてくれている。著者は大学院で工学(化学系であるらしい)を専攻した。畑違いの分野であるが、あるいはだからこそかも知れないが、噛み砕いて噛み砕いて話をすすめていく。実物の電車の構造を解くにあたり、鉄道模型からはじめたり、モーターの話をするのに電磁誘導から説明してくれる。図解の図まで自ら描いたという。
たとえば「電気機関車は、動力を持たない客車や貨車を牽引するのが目的であるため、それ自身は人(乗客)や物を運ばない。これが電車と大きく異なる点だ」と電車と電気機関車の違いのためにひと段落割く。このくらいのことは誰にだってわかるだろうようなことをちゃんと書き添えるタイプの著者なのだ。これは読んでいて多少まだるっこしいとか、冗長だとか思うかもしれないが、こうした“モノを書く姿勢”は正しい。
スイッチング制御の話は個人的には勉強になった。
で、豊島、今なにしてる?

2011年6月11日土曜日

坂崎重盛『東京文芸散歩』


おっちゃんの話。つづき。
6年になって、修学旅行の班分けが学級会の議題になった。
なんとなく仲のいい者どうしが集まって自然といくつかのグループができあがっていた。たしかぼくはそのうちのひとつのリーダー的な役割を負わされていた。
自然発生的に班ができたとはいえ、あぶれて孤立する者もいる。おっちゃんもそのひとりになってしまった。ぼくはその気まずい学級会で担任のN先生に呼ばれ、なぜおっちゃんを仲間に入れないのかと訊ねられた。今となってははっきり憶えていないけれど、他のメンバーのうちの何人かがおっちゃんといっしょに行動すると足手まといになると言っていたからだ、というようなことを答えたと思う。
その瞬間だった。N先生の黒く、骨ばった平手が飛んできたのは。
その後、おっちゃんは施設のような特殊な中学校に進んだと記憶している。そしてときどき忘れかけたころ、ぼくのうちにふらっと遊びに来てくれた。そのとき何を話したのか、今ではまったく憶えていない。
おっちゃんと修学旅行でいっしょに行動したことはたぶん、ぼくのなかでかけがいのない思い出になっているはずだ。それまで知らなかったおっちゃんの、全身を切り刻まれたような手術の痕を見たこともさることながら、誇り高く生きることをN先生に教わったような気がしたからだ。
おっちゃんは今、どこでなにをしているのだろう。
今回読んだのも東京町歩き本。文学の香り高い一冊であった。

2011年6月7日火曜日

武藤康史編『林芙美子随筆集』


おっちゃんの話をしよう。
おっちゃんはたしか、小学校3年のとき、自転車で坂道を下り、車にはねられ、大けがをした。長い療養生活のあと学校に戻ってきて、5~6年時、同じクラスになった。それまで面識も接点もなかったので事故以前のおっちゃんに関してはほとんど記憶がない。ひとりっ子で、いわゆるガリ勉タイプだった気がする。そんな印象しか残っていない。
おっちゃんは手足が若干不自由な上に、言葉も流暢にしゃべれなくなっていた。体育の授業や休み時間の遊びも原則“みそっかす”状態だった。それでも孤立することなく、なんとなく同級生として溶け込んでいた。
ぼくはどういうわけか、おっちゃんに好かれていたと思う。よくおっちゃんのうちに(それは当時よくあった手狭なアパートだったと記憶している)遊びに行った。おっちゃんのお母さんは働いていたと思うが、たまにうちにいて、いっしょに遊んでくれてありがとうみたいなことをなんどもなんども言っていたと思う。
わが子が大事故を起こし、ようやく一命をとりとめ、こうして普通に(とはいってもおっちゃんにもご家族にもかなり不自由な毎日だったと思うけれど)小学校に通い、友だちまで遊びに来てくれている。そんな母親のよろこびなど当時のぼくには知る由もない。ただただ出されたジュースとケーキをむしゃむしゃほおばっていた。
今こうして、まがりなりにも人の親となってはじめて、彼女の気持ちが身にしみてわかる。
林芙美子は難しい言葉を駆使して文章を編むタイプの作家ではない。平易な、わかりやすい小説や随筆を書く。それでいて情熱的なところもあって、そのあたりが大衆受けするのだろうと思う。

2011年6月5日日曜日

野口冨士男編『荷風随筆集』


東京六大学野球春季リーグ戦は慶應の完全優勝に終わった。
以前も書いたかもしれないが、昨季江藤監督が就任して、慶應は精神的に強くなったような気がする。続くのは野村、森田、難波ら投手陣が充実している明治かと思われたが、エース小室と打線の好調に支えられた立教が優勝争いに絡んできた。小室は6勝をあげ、ベストナイン。昨年の3本柱が抜けた早稲田はあえなく5位。それでも新人の有原(広陵)が1勝をあげ、今後にかすかな期待を残した。それにしても慶應は投打に充実している。打線は集中打が素晴らしいし、竹内大、福谷、そして白村、田村ら投手陣は昨年までの斎藤、大石、福井を擁した早稲田を上回るのではないか。福谷の155キロのストレートは大石を凌駕しているといっても言い過ぎではないだろう。
毎日新聞にはいい散歩記事が多い。
かつては赤瀬川原平の“散歩の言い訳”、今では土曜夕刊川本三郎の“東京すみずみ歩き”、そして日曜版大竹昭子の“日和下駄とスニーカー”だ。そういえば「日和下駄」は読みたい読みたいと思っていながら、ついつい先送りしてきた。この連載スタートを機にようやく読んでみる。
岩波文庫の上下二巻の随筆集は下町散歩者、江戸愛好家としての荷風以外にも多面的に彼の思想をたどることができる。まだ読んでいないが、『断腸亭日乗』なども含めて、荷風の日常、普段着の荷風を知るには貴重な史料である。
荷風といえば過去偏重と読み取れるふしが多々見られるが、単に昔を美化するだけでもあるまい。いいものはいいと言っているわけであって、その辺を誤読するとせっかくの面白みが失せていくような気がしてならない。
そういえば永井荷風は慶應義塾の教授だったっけ。

2011年5月31日火曜日

川本三郎『日本映画を歩く』


日本ダービーはオルフェーブル号が制し、皐月賞に続いて二冠を達成した。
今年の競馬は先の震災の影響もあって、変則開催で皐月賞も日本ダービーも府中の東京競馬場での開催となった。古くはトウショウボーイ、ヤエノムテキの勝った皐月賞が東京開催だった。同じ競馬場で距離が400メートル延長されるだけだから、二冠も容易だろうと思われるのだが、天馬トウショウボーイでさえ伏兵クライムカイザーに敗れている。
というわけで1988年東京開催の皐月賞に範をとり、今回予想してみた。昭和最後のダービーを勝ったのはサクラチヨノオー号。皐月賞は一番人気で3着に敗れている。が、その前の、皐月賞トライアルともいうべき弥生賞で勝っている。似たパターンを今回の出走馬からさがしてみるとやはり人気で皐月賞に敗れたサダムパテック号が浮上する。弥生賞も勝っている。迷わず本命とする。
1951(昭和26)年、無敗で皐月賞馬とダービー馬となった伝説の名馬がいる。トキノミノル号である。馬主は大映社長の永田雅一。戦績10戦10勝。ダービー直後破傷風で急死してしまった。その後、1955年には「幻の馬」という映画となった(映画の中ではタケル号)。
以上、この本からの受売りである。
川本三郎にとって町歩きと映画は切っても切り離せない。まさに真骨頂の一冊といえそうだ。
先週末は東京でもたいそうな雨が降り続いた。競馬予想もはずれ、大雨の降りしきる東京競馬場をテレビで視ながら、ひと月に35日降るという屋久島の雨を思った。

2011年5月28日土曜日

藤井青銅『ラジオにもほどがある』


BCLという趣味があった。
ラジオや海外短波放送を聴くといういたってシンプルな趣味である。放送を聴いて、聴いた場所、受信状態、受信機の種類、放送内容などを受信報告として送るとベリカードと呼ばれるお礼の(?)カードが送られてくる。その収集がモチベーションを高める。ま、そんな趣味である。“あった”と過去形にしたのは今そんな趣味があるのかわからないからだ。
小学生から中学生にかけての時期、1970年代のはじめにそんな趣味が流行った。とはいっても高級な受信機など持っていないし、うちにあった古い真空管のラジオ(5球スーパーだったと思う)では国内の短波放送を聴くのがやっとだった。当時の雑誌、誠文堂新光社の『模型とラジオ』や電波新聞社の『ラジオの製作』などを紐解くと高一中二(高周波増幅一段中間周波増幅二段のスーパーヘテロダイン方式)受信機や再生検波式受信機の製作記事が載っていて垂涎のまなざしで眺めていたものである。メーカー製ではトリオの9R59(D、DS)が高嶺の花だった。
その後ソニーがスカイセンサーというスマートなラジオを発売した。これはかなりすぐれた製品だったが、真空管仕様の“受信機”に憧れていたぼくたちには“しょせんはラジオ”な感じが拭いきれなかった。
海外短波の受信にはアンテナが重要なファクターになる。ラジオとアンテナに恵まれていなかったぼくのコレクションは結局国内のAMラジオ局とモスクワ放送、北京放送のベリカードにとどまった。再生検波受信機のキットをつくり、ささやかながらもアンテナを建てた友人のHからVOA(Voice Of America)のカードを見せびらかされたときちょっとくやしい思いをした。
藤井青銅はたぶんこれが2冊目。今となっては斜陽メディアと思われがちなラジオがかろうじて輝いていた時代に裏方としての活躍していた著者の、少しなつかしく、少しほろ苦い自慢話である。

2011年5月24日火曜日

梨木果歩『僕と、そして僕たちはどう生きるか』


小学生のころはずいぶん本を読んだものだが、中学から高校にかけてはほとんど読まなくなった。理由は思い当たらない。結果的に読まなかったということだ。月並みな原因究明をするとすれば、勉強や部活が忙しくなったとか、深夜ラジオばかり聴いていたとか、たぶんそんなことだろう。
そんなわけでその頃読むべき本を読んでいないのが自分の読書的特徴である。いわゆる名作が欠落している。もちろんそれが原因で不幸、不利益を被ったことはない。『こころ』を読まなくても学校生活に支障はなかった。むしろ谷村新司の天才・秀才・ばかシリーズを聴かないと翌日つらい思いをした。
久しぶりに梨木果歩を読む。
主人公の名はコペル。その叔父さんが子どもの頃読んだ本の主人公の名が、彼の呼び名になっている。その本はもちろん、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』だ。
群れの中で自分自身と向き合いながら、どう生きていかなければならないのかという物語である。もちろん“どう生きるのか”の答はない。集団に順応し、流されていくこともある主人公をはじめ、さまざまなタイプの少年少女が登場する。童話のようにわかりやすいキャスティング。サイドメニュー的な役割を果たしながら彼らをフォローする大人たちとエピソード。舞台は森。読み手にストレスを与えない梨木ワールドだ。
初代コペル君は上級生にいじめられる親友に助けを貸さなかったことで自己嫌悪に陥り、苦悩する主人公だったが、今回はコペル君とその仲間みんなが主人公だ。
多様化する時代、多様化する個と集団をも視野に入れた平成の吉野源三郎である。

2011年5月21日土曜日

田家秀樹『70年代ノート』


関東学生卓球リーグ早稲田対明治戦を観る。
明治は世界選手権出場の主将水谷が欠場。早稲田も笠原、御内が残っているものの昨年の主将足立がいなくなり、ダブルスが弱くなっている。しかも先週、埼工大が早稲田を4-3で破る金星を上げ、恒例の全勝対決ではなくなった。
トップで笠原、続いて御内が無難に勝って、早稲田ペースかと思われたが、明治3番手の平野(野田学園)が流れを変えた。ダブルスは平野・神(青森山田)の1年生ペアが笠原・板倉組に逆転で勝利。その流れで岡田(愛工大名電)、神と1年生3人で4ポイント連取し、見事全勝優勝を飾った。
明治の1年生はそれぞれ他校の新人にない勢いをもっている。しばらく明治1強時代が続くのではないだろうか。
先日読んだ赤瀬川原平『東京随筆』同様、この本も毎日新聞に連載されていたものだ。
以前、田家秀樹の『いつも見ていた広島』という吉田拓郎を主人公にした小説を読んだ。70年代といえば個人的には吉田拓郎である。どうしても拓郎中心に音楽シーンの動きを見てしまうが、この本は特定のアーティストに偏ることなく“70年代”という時代そのものを浮き彫りにしようとしている。
著者も書いているように激動の10年を駆け足で通り過ぎていった印象は否めないものの、次々に押し寄せてくる70年代のアーティストたちの挫折と模索、そして成功が凝縮された一冊である。たしかに新聞連載時には次週掲載が待ち遠しかったが、こうして単行本として読むと実にはかない10年だったのだと思い知らされる。
はかなくも濃密な10年。かすかな記憶をたどって、当時の自分をふりかえるとちょっとせつない気持ちになる。

2011年5月18日水曜日

根岸智幸『facebookもっと使いこなし術』


先週、南青山のSPACE YUIで安西水丸+和田誠AD-LIB4を見た。
ふたりのイラストレーターがひとつのテーマでイラストレーションを描きわけるという楽しい試みですでに4回目となった。心和む愉快な絵がならぶ。
青山から外苑西通りを千駄ヶ谷方面に歩いた。お昼を食べていなかったのでホープ軒でラーメンを食べる。腹ごなしの散歩は外苑から権田原に出て、御所沿いに坂を下る。この坂は安鎮坂。南元町、昔の鮫河橋あたりから上りになって学習院初等科から四谷見附に抜ける。坂を下ったところで左に折れて中央線のガードをくぐる。なんとなく道なりに歩いて行くと若葉町公園に出、その先の細い坂道が暗闇坂。寺や神社の多い須賀町の谷底を越えると四谷三丁目である。
なんてことを地図を見ながら、想像してみた。実際はホープ軒の後、外苑前から地下鉄に乗って仕事場に戻っている。
FacebookはTwitterにくらべて、オフィシャルな感じがする。気軽につぶやくという雰囲気ではない。そんなわけでついつい敬遠しがちなのだが、いろいろ活用するには便利なアプリがあるという。そんなこんなで手にとってみたわけである。
まだまだ日本語環境の整っていないアプリもあるが、たとえばDocsなどはGoogleのアプリより使い勝手がよさそうな気がする。ノートを使えば、ブログ的な使い方も可能だし、なかなか奥が深いぞFacebookと思う。もちろん、あくまで一個人の感想に過ぎないけど。

2011年5月15日日曜日

赤瀬川原平『東京随筆』


世界卓球選手権がロッテルダムで行われている。
男子単期待の水谷隼は前回王者の王皓に準々決勝で敗れ、ベスト8止まりだった。男女とも8強のほとんどが中国選手。そのレベルははかりしれない。水谷も相当王皓の卓球を研究したであろうが、逆に水谷がそれ以上に研究されていたのではないか。あまりにも呆気ないゲームだった。
日本卓球はとかく、打倒中国を掲げてはいるが、実際のところは超級リーグにトップ選手を派遣するくらいのことで現時点では抜本的な打倒中国策に至っていないように思われる。東大野球部が元プロ野球選手の谷沢健一をコーチとして招へいしたように日本の卓球も中国のトップクラスの指導者を招いみてはどうだろう。
日頃、近所の体育館で卓球をしていると教えるのが大好きなおじさんが必ずいるものだ。頼まなくても無償でああだこうだと指導してくれる。莫大な卓球人口を誇る中国のことだ。超A級の教え魔がいるに違いない。
今、毎日新聞の土曜日夕刊に「川本三郎の東京すみずみ歩き」という連載があるが、以前連載されていた散歩コーナーが赤瀬川原平の「散歩の言い訳」だった。この本はその連載を単行本にしたもの。赤瀬川原平は難しいこと、面倒なものを好まないタイプの人なので散歩という、ある意味、意味のない行為にはうってつけの人物である。
この本でも行った先々の歴史や薀蓄なんぞに字数を多く使わない。読んでいて散歩している気分になる。その点が川本散歩と少し違う。そのくせときどきいいことをいう。「どの店も美味しそうだが、昼食というのは失敗すると明日までないから、選ぶ目にも力が入る」、「静かなのは音がしないというより、静かな人たちがいるからだと思った」などなど。抜書きしておく。

2011年5月11日水曜日

林芙美子『浮雲』


先日、新宿区落合にある林芙美子記念館を訪ねた。もともと林芙美子が住んでいた家を新宿区の郷土資料として開放、展示している。
西武新宿線中井駅は妙正寺川が削ったであろう谷間に位置していて、その北側の目白大学や西落合の台地に向かって急坂がいくつかある。あまりに坂が多くて、ネーミングにも困ったのだろう。一の坂、二の坂と、戦後できた新制中学校や小学校が人口急増とともに番号を割り振られたような、そんな名前が付いている。
記念館は石段になっている四の坂の下にあり、『放浪記』『清貧の書』などからはイメージしにくい立派な木造家屋である。編集者を待たせる部屋や使用人の部屋まである。行商人の子として、貧しく育った著者もこの家に移り住む頃には、売れっ子の小説家だったのだ。なにしろシベリア鉄道で陸路パリまで行った人なのだ。
『浮雲』は成瀬巳喜男が映画化している。外地から戻り、たくましく、したたかに生きる女主人公ゆき子を高峰秀子が演じている。映画の主役はあくまでゆき子であるが、小説の中で林芙美子が浮雲になぞらえたのは実はゆき子ではない。
今、文庫本などで身近に読める林芙美子の長編は『放浪記』とこの『浮雲』だが、必死の思いで書きなぐった日記風の前者にくらべ、後者は荒削りで乱暴だった時代の文章から格段の進歩をとげている秀作だと思う。しかもドストエフスキーの引用があり、ゾラの空気感を宿すところもあり、小説家林芙美子の完成形に近づいている。その結果が落合の、立派な木造家屋なのかもしれない。
『悪霊』第2巻もはやく読まなくちゃとも思いつつ。

2011年5月7日土曜日

池田あきこ『パリと南仏に行こう』


ゴールデンウィークはどこに行くでもなく、なんとなく過ごした。
散策したのは西武線の中井から高田馬場、江戸川橋にかけての神田川沿い。西早稲田のえぞ菊で味噌ラーメンを食べて、水神社に出て、胸突坂を上り、目白坂を下りる。目白も高台ではあるけど、小石川に比べるとゆるやかな感じがする。江戸川橋から茗荷谷界隈まで歩こうと思ったが、坂道を考えてやめることにした。飯田橋までそのまま神田川沿いに歩いた。
また別の日に神宮球場に行ってみた。久しぶりに野球を観た。
昨年ドラフト1位指名された好投手を3人擁した早稲田が今季は大方の予想通り苦戦している。今年は市川、杉山、地引とキャッチャーを3人スタメンに揃えている。まあどのみち今年は竹内大・福谷が投げ、伊藤の打つ慶應が断然強そうだ。それに続くのがエース野村の明治ではないか。そういえば野村の後輩、広陵の有原が早稲田に進学し、もうマウンドに立っている。大石よりスケール感が大きく感じられ、速球も140キロ台後半と速い。まだまだ荒削りといおうか、走者を出すととたんに打たれ出すが、今後の成長に期待しよう。
十条の斎藤酒場にも行ってみた。連休の谷間で空いているかと思っていたが、あれよあれよのうちに満席になった。串かつやポテトサラダが店内を飛び交っていた。
近場もいいが、今頃の季節になると南仏あたりに行ってみたくなる。アビニョンとかアルルとか。アンティーブとかカーニュシュルメールとか。もちろん南仏にこだわるわけではない。リヨンでもボルドーでもナンシーでもストラスブールでもいい。要はどこでもいいのである。
この本にとくに感想はない。

2011年5月3日火曜日

池内紀編訳『カフカ寓話集』


小石川富坂を後楽園あたりから上るとほどなく伝通院前の交差点に出る。
左に折れて、安藤坂を下れば、神田川。川に沿って新目白通りを下流にすすめば飯田橋、反対に行けば江戸川橋から高戸橋に出る。富坂上はちょっとした高台なので、どこに出るにも都合がいい。その反面、どの坂を下りようか、迷ってしまう。
小石川と呼ばれるこのあたりは高校時代はよく練習試合をした竹早高校や大学時代に教育実習に通った学校もあり、当時と町並みはずいぶん変わってしまっているものの思い出深い一帯である。水道橋駅や都営地下鉄の白山から歩いたこともある。もちろん丸ノ内線茗荷谷駅から来たこともある。下り方を迷うように上り方もバリエーションがいくつかある。
茗台中学校脇に石段があった。方角的には西向きだろうか。高い建物ばかりだが、目白や牛込方面が見渡せる。足下に丸ノ内線が地上を走っている。そんな風景を見ながら、一段、また一段と下りてみた。石段を下りきったところにトンネルがあった。その上は地下鉄の車庫。
カフカの「巣穴」を思い浮かべながら、トンネルを抜けた。
このあいだ池内紀の本を読んで、しばらくぶりにカフカを読んでみたくなった。寓話集と名づけられている。池内紀の名訳とはいえ、心して読まないとたちまち睡魔に襲われる。
とりたててカフカを読み込んでいるわけではないが、長編・大作のヒントが随所に隠されている小品集なのかもしれない。「皇帝の使者」は「万里の長城」を思い出させるし、「巣穴」の閉塞感は「変身」のにおいがする。
そしてトンネルを抜けるとそこには切支丹坂があった。

2011年4月30日土曜日

有川浩『阪急電車』


小高い丘の上にある門戸厄神から武庫川や伊丹方向の景色はのどかでいい。
以前同じマンションに住んでいたBさん一家が西宮に引越して、かれこれ10年近くなる。夏休みや春休みにはお互いの家族ぐるみで泊まりに行ったり、来たりしていたものだ。その住まいが門戸厄神駅の近くだった。
阪急梅田で神戸線に乗り、西宮北口で今津線に乗り換える。西宮北口という駅はJRの西宮駅の北口にあるものだとばかり思っていた。今津線はその南の今津と宝塚を結ぶ路線であるが、今津~西宮北口間と西宮北口~宝塚間は線路がつながっていない。不便なことに階段を上って乗り換えなくてはならない。東京の感覚でいえば、東海道新幹線と東北・上越新幹線が“今津線”という名前でどういうわけか東京駅で乗り換えないと新青森から博多まで一本で行けないと思えば、わかりやすい(そんなことないか)。
この沿線は(西宮北口から今津へは行ったことがないが)、大阪や神戸の賑わいに比べて実に落ち着いた風景をもっており、車窓を眺めているだけで心が和む。仁川駅から見える阪神競馬場が宇宙から降ってきた異質な施設のようである。山が見え、川を渡る。鉄道模型マニアであればジオラマのつくり甲斐があるというものだ。
北に向かって終点にあたる宝塚は(この小説では起点の役割を果たしているが)、阪急電鉄が育て上げたミニリゾート地帯である。と同時に住宅地であり、学園町でもある。JRと阪急宝塚線をつなぐターミナルでもある。それらが絶妙なバランスで寄り添っているいい町だと思う。
そのような路線であるので、この小説に描かれたようなドラマがあっても不思議ではない。もちろんそんなドラマなんてなくてもじゅうぶんに楽しく、心あたたまる線区でもある。

2011年4月26日火曜日

井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』


天気のよいとある日に地下鉄東西線に乗って、妙典に行ってみた。
この駅は開業してから10年ちょっと。比較的新しくできた駅で駅舎もきれいだし、駅前にも町らしい町はない。昭和成長期に生まれ育った浦安とか行徳とは異なる新興の駅といった雰囲気である。
駅から歩くとすぐ江戸川に行き当たる。橋がかかっていて、水門がある。江戸川もここまで下流になると、まわりに高い建物の少ないせいもあって、空ともども広い。水上スキーを曳くモーターボートが水しぶきを上げている。川の向こうに見える高層ビルは市川か。
江戸川沿いを歩いて、篠崎に出る。あっというまに江戸川区になった。川沿いをしばらく歩いたが、その先の橋までは相当距離がありそうだったので、引き返して、都営地下鉄の篠崎駅に出ることにした。なんの変哲もない日のなんの変哲もない散歩。
関川夏央によれば、戦前昭和の日本は決して暗いだけの時代ではなく、戦後社会に失われていく「家族」の生活のパターンが生まれ、安定的に成熟していった時代だという(たしかじゃないけどたしかそのようなことを書いていたような気がする)。戦前昭和に対するそんな興味をもって手にした一冊がこの本である。
格差社会であるとか新興宗教の台頭、あるいはカリスマの誕生など、現代日本との対比で昭和戦前を読み解くという試みは興味深いものがあるが、果たしてじゅうぶん解き明かせたかどうか。
篠崎からひと駅乗って、本八幡に出る。京成八幡の駅前で永井荷風が好きだったというかつ丼を食べた。荷風はずいぶん甘いかつ丼が好きだったんだな。

2011年4月23日土曜日

吉村昭『関東大震災』


JR総武線を下底に蔵前橋通りを上底にして、隅田川と清澄通りにはさまれた台形のゾーンには東京の災害の歴史が集約されている。
両国駅の北側には国技館と江戸東京博物館が並び、その図形に安定感を与えている。国技館の先にあるのが旧安田庭園。東側の辺に位置する日大一高と対称をなす。さらに北に行くと安田学園が横網町公園と向かい合っている。
横網町公園には東京復興記念館や東京都慰霊堂があり、関東大震災、東京大空襲による下町の痕跡を現代にとどめている。高校時代になんどか安田学園を訪れたことがあるが、その右手に広がる公園はいつも木々が鬱蒼と生い茂っていて、陰鬱な印象があった。子どもの頃、毎年夏休みを千葉の千倉で過ごしたぼくにとって、両国は東京と田舎の境であり、もとより神秘的な町だったからなおのことだ。
吉村昭でもう一冊。
先の東日本大震災は規模の大きい地震に加えて、津波と原子力発電所の被災が災害を巨大化している。ふりかえって大正12年の関東大震災では火災が大きな要因となった。それもその日の気象状況がかなり影響している。おそらく前線の通過があったのか、ただでさえ燃え広がりやすい東京の下町に大旋風が巻き起こったというのだ。
また今回の震災でも再三取り沙汰されている風評被害であるが、コミュニケーションツールが未発達であった当時も同じようにあって、悲惨な事件の犠牲者が続出した。さらに下町は地盤が弱く、山の手は比較的固いことも含め、当時も今も日本という国も日本人もそう大きく変化を遂げていないことがよくわかる。
地震を科学する試みは古くから積み重ねられている。人類はいつの日か地震を乗り越えることができるのだろうか。

2011年4月20日水曜日

川本三郎『東京の空の下、今日も町歩き』


BSジャパンで水曜日23時から「俺たちの旅」という1970年代半ばに放映されたドラマを再放送している。
中村雅俊、田中健、津坂まさあき(秋野太作)が大学生から社会人になりかけ、やがて今でいうフリーターとして生きていく、団塊世代後の青春物語である。当時高校生だったぼくは、大学生、しかも4年生なんて遥か彼方の遠い世界だと思っていた。その後再放送でもなんども視ているが、その距離感はずっと縮まらないままだった。
昔のドラマや映画を見ていておもしろいのは、なんといってもその当時の町並みだろう。「俺たちの旅」の舞台は吉祥寺、井の頭公園あたりだ。さすがに公園の風景は大きく変わったとは思えないが、近接する住宅地は妙に懐かしい。
町歩きの楽しみはまさにそんなことなのではないかと思う。
町を歩いていて、子どもの頃、あるいは学生時代に普通に眺めていた景色にふとしたきかっけで出会えたりすると得も言われぬ喜びを感じてしまう。そんなときかつて見たこの町をぼくは当時と同じ気持ちで眺めているのだろうかと自問する。ぼくの心は古びたモルタルの木造アパートではなく、どこにでもある無難な鉄筋マンションに変わってしまっているのではないかと。
町歩きを通じて、見出すものは決して、古き良き町並みや建造物だけではない。などと思いつつ、今日も川本三郎とともに町歩きに出かけるのである。
「俺たちの旅」では主人公のカースケ(中村雅俊)が事あるごとに既成社会の大人たちと対立する。昔はそんな彼に感情移入して視ていたものだが、今視ているとどうもその青臭さが鼻につく。いやな大人になったものだとつくづく思う。

2011年4月16日土曜日

吉村昭『三陸海岸大津波』


吉村昭は卓抜した取材力と冷静に綴る文章で史実を克明に記す作家だ。この本は明治29年、昭和8年、昭和35年に三陸海岸を襲った地震を多面的に記録したすぐれた作品である。
ぼくは大津波というものをSF映画的なイメージでしかとらえることができなかった、今まで。それを今回テレビのニュース映像で視ることで、その被害の甚大さをあらためて知ったもののひとりである。そしてこの歴史的な事件をしっかり焼きつけておく必要があると感じた。
先日、仕事仲間との昼食会の折(そこではたいてい食後に最近読んだ本が話題になる)、おいしい鯛茶漬けをつくってくれたSさんがすすめてくれたのがこの本だった。吉村昭は以前、『羆嵐』でドキュメンタリーのすぐれた語り手あることを知っていたので、その帰りに買い求め、一気に読み終えた。

 海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の
 余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受ける
 のに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条
 件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸
 を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。

吉村昭の予言どおり、津波はやってきた。それも過去の教訓をも突き崩す勢いで。
東日本大震災の被害状況はいまだ把握されていない。いずれ21世紀の吉村昭が今回の津波の被害を克明に記す日が来るだろう。

2011年4月12日火曜日

新潮社編『江戸東京物語下町篇』


いわゆる下町にさほど思い出はない。
月島に母の叔父が住んでいて、子どもの頃はよく遊びに行った。月島に引越す前は佃に住んでいた。その頃の記憶は微かであるが、ぼくは大叔父を“佃のおじちゃん”と呼んでいた。佃のおじちゃんは佃のおばちゃんと長屋に住み、大工をしていた。子どもがいなかったのでおそらく母をかわいがってくれたのだろう。千葉県千倉町出身だったが、当時月島界隈には千葉出身者が多かったように記憶している。
いちど母と千倉からの帰りに両国から月島まで歩いたことがある。なにか届け物を預かるかしたのだろう。夏だったが、比較的風の涼しい午後だった。今でも夕暮れの相生橋を見るとその日のことを思い出す。
東北や北関東からやってきた人たちが赤羽に住みついたように、千葉から来た人たちは清澄通りに沿って、生きる場所をさがしたのかもしれない。
新潮文庫のこのシリーズは残念ながら絶版となっている。
たしかにこの手の東京本は昨今の散歩ブーム(?)の中、競合が激化してきており、生き残りが難しいジャンルなのかもしれない。『都心篇』、『山の手篇』はたまたま古書店で見つけたが、この『下町篇』は区の図書館で予約した。
上野・浅草、本所・両国、向島、深川、芝・新橋と下町を5地区に分けて散策している。両国(今の東日本橋)に生まれ育ち、ほとんど隅田川の向こうに足を運んだことのない小林信彦が巻末解説。この人選は下町を客観視する上で興味深い。その解説の中で地下鉄はもういらないのではないか、ビルが高すぎるのではないかと警鐘を鳴らす小林信彦は「ものごころついた時から、関東大震災の怖さを吹き込まれた身としては、そろそろかな、と思わぬでもないのだが」と締めくくっている。
それはともかく、こんど小名木川沿いをゆっくり歩いてみたいと思っている。

2011年4月9日土曜日

司修『赤羽モンマルトル』


司修といえば、大江健三郎の本の装丁家という印象が強い。
細く繊細な線を駆使しながら、メッセージ性の強い表現を生み出す本格派の画家であるとずっと思っていたが、文章家としても素晴らしい。この本を読んでそんな思いが深くなった。
そもそもこの本を読むきっかけは、ツイッターでコミュニケーションしている知人たちが赤羽探検をしたという話(ぼくは参加していないのだが)を聞いて、ぼくの中で急速に赤羽熱が高まったことにある。この『赤羽モンマルトル』と『赤羽キャバレー物語』は2大赤羽物語といっていい。
子どもの頃の記憶では赤羽駅は2階建ての駅だった。真上真下に2階建てではなく、両国や上野のような段差のある2階建て。京浜東北線のホームから見下ろせたのは東北本線のホームだったか。鉄道が好きだったので、下ばかり見ていた。モンマルトルの丘を眺めたことなどいちどもなかった。
未だ赤羽ビギナーであるぼくはまるます家に行ってもどこかぎこちなくうな丼を食べている。常連と思われる赤羽焼けしたおじさんたちの一挙手一投足を横目で見ながら、なんとか赤羽おやじに近づきたいと思っているのである。
先日、まるます家でうな丼を食べた後、荒川まで歩いてみた。おそらく岩渕水門に出るあたりに巴里館はあったのではないだろうか。荒川はここで隅田川と分かれる。いわば赤羽は下町の源流といえる。
司修の青春はこの本だけではくみとれない深い苦悩があっただろう。彼はそのほんの一部を創作したにすぎない。そんなことを考えながらぼくは荒川の流れをしばし眺めていた。

2011年4月6日水曜日

川本三郎『私の東京町歩き』


1ヶ月ほど前、三の橋にある笑の家という店でラーメンを食べたあと、久しぶりに魚藍坂あたりを歩いてみた。
古川橋から魚藍坂は四谷見附から品川に行く都バスのルートで学生時代、アルバイト先の広尾からの帰り道によく通った場所である。
昔、急だと思った坂道がその後思ったほどの急斜面ではなかった、ということがときどきあるが、こと魚藍坂に関しては昔も今もきつい坂だ。魚藍坂下から伊皿子まで上っただけでちょっと汗ばんでしまった。
伊皿子を右に折れると二本榎の商店街である。二本榎という地名はもう地図上からはなくなってしまっている。六本木の今井町とか、赤坂の丹後町のような感じだ。それでもしばらくはこの商店街とほぼ平行している桜田通り(第二京浜国道)の明治学院近くの歩道橋にはたしかに“二本榎”という表示があった。
その商店街を都営地下鉄浅草線の高輪台駅まで歩いて、そこからさらに東京メトロ南北線の白金台駅をめざした。
桜田通りから目黒通りへ、ちょっとした裏道探検だ。
品川区の北のはずれ東五反田、上大崎と接する港区の南端白金は思いのほか薄暗い路地で隔てられている。高低差もあって、アップダウンがきつい。歩いた日がちょうど小雨模様だったせいもあり、ちょっとした秘境気分を味わえた。
川本三郎のこの本は、もう古典といってもいいであろう比較的初期に書かれた町歩き本である。おそらくこの当時はまだまだ東京に昭和の面影が色濃く残っていたに違いない。返す返すも昔はよかったねと思わざるを得ない、そんな一冊だ。