2023年4月30日日曜日

安岡章太郎『犬と歩けば』

大型連休に突入した。
昨日は昭和の日。以前読んだ安岡章太郎の『僕の昭和史』を思い出した。劣等生から見た昭和の日々。おもしろかった。常々思うのだが、劣等生で落第をくりかえした安岡がどうして流暢に日本語を綴れるのか不思議でたまらない。天賦の才に恵まれたとしか思えない。
連休が大型であろうが、小型であろうが、在宅勤務で毎日自宅で過ごしているせいか、あまり外出する気にもなれない。行きたいところはあるにはあるが、わざわざ混んでいる休日に出かけることもなかろう。仕事を自分のペースでやりくりして、空いている平日に行ったほうがいい。いつも10人くらい並んでいるラーメン屋だって休日となると倍以上の人が待っている。
ちょっと前には連休を利用して墓参りに出かけることも多かった。南房総は鉄道旅には不便な場所になっている。東京駅か千葉駅から高速バスに乗る。これが当然のことながら混む。普通なら2、3時間の旅が4時間も5時間もかかる。滞在時間1時間半、バスのなか10時間なんてこともあった。墓参りというよりバスに乗りに出かけたようなものだ。
洋犬を飼っていた安岡章太郎は近藤啓太郎のすすめもあって、紀州犬を飼うことになった。安岡は近藤の一学年下。小中学校(青南小、第一東京市立中学)が同じ幼馴染だそうだ。そのせいか、そのせいでないか、安岡はその犬をコンタと名づけた。
紀州犬という犬を見たことがない。調べてみるとソフトバンクのCMに出てくる白い犬に似ている(この犬は紀州犬ではなく北海道犬らしい)。秋田犬にも柴犬にも似ている。日本の犬という感じがする。
前回読んだ『犬をえらばば』は著者の交遊録の色合いが強いが(その登場人物はいずれも犬と関わりを持っている)、この本は自らの飼い犬を中心に記述されている。犬と暮らすのはすこぶる楽しいことであるが、悲しい日もいずれやってくる。それを思うと楽しい毎日が切なくもなる。

2023年4月27日木曜日

安岡章太郎『犬をえらばば』

犬を飼いはじめて10年以上になる。
義妹が飼っていたチワワが仔犬を産んで、そのうちのオス2匹を引きとることになったのである。兄貴と目される大きい方は妻と娘にゴードンと名づけられ、少し小柄な弟はパパが名前をつけていいというので迷わずヨーゼフとした。TVアニメーション「アルプスの少女ハイジ」でアルムおんじが飼っていたセントバーナードから拝借した。体重3キロに満たない小さなヨーゼフ。
基本的な世話は妻がしている。僕の出番は、留守番のときと日々の散歩である。はじめのうちは土日だけしか連れていかなかった。週末になると人の顔色を伺ってはそわそわしたものだ。コロナ禍で在宅勤務になり、天気がよければ毎日連れていくようになった。犬というのはことばはわからないが、雰囲気でわかるという。餌の時間になるとのそのそハウスから出てきてうろうろしはじめるし、そろそろ散歩の時間じゃないかと思うとこっちを見て、尻尾を激しく振る。
安岡章太郎が犬を飼っていたとは知らなかった。遠藤周作、吉行淳之介なども愛犬家であったと知る(愛犬家かどうかは知らないが、とにかく犬を飼っていた)。昭和の作家たちはずっと家にこもって原稿用紙に向かい、夜は酒場で過ごすわけだから(これも偏見かもしれないが)、犬でも飼って散歩させるくらいのことをしなくては身体によくないだろう。この本に登場する作家以外にも犬を飼っていた文筆家は多いかもしれない。
犬を飼っている人に共通するのはその思考だろう。こいつが人のことばを喋れたらなあ、とか、犬は飼い主に似るものだなどということは誰もが思う。どんなにかわいい犬を見ても自分が飼っている犬がいちばんだと思うなど。そういった意味ではこの本は犬を飼っている読者にとってありきたりの内容である。逆にいえば、犬を飼ったことのない人たちはどう読むのだろう。仮に自分がそんな立場だったら。でもそれはなかなか想像するのが難しい。

2023年4月23日日曜日

持田叙子編『安岡章太郎短編集』

昭和50年に僕は高校に入学し、「靖国神社の隣にあり」「暗く、重苦しく、陰気な感じのする」校舎に通った。この短編集に収められている「サアカスの馬」は中学生時代に教科書に載っていた。まさか自分がその学校の生徒になるとは思いもしなかった。
ライコウという先生がいた。雷公なのか雷光か、どう表記するかは知らないが、その名のとおり発雷確率の高い社会科の教師だった。本当の名前は(記憶がたしかならば)林三郎である。
ライコウはこの学校に奉職して50年を超えているという。ひとつの学校に大正時代からいたなんてにわかに信じられない。昔の学校制度は詳しくないが、仮に17、8で師範学校か中学校を出て教職に就いたとすると、僕の入学時には70歳くらいだったのではなかろうか。どうしてひとつのそんなに長く学校にいたのか、それもわからない。僕の出身校の前身は東京府立の中学校ではなく、東京市のそれであった。府立の学校にくらべて数の少ない市立中学では異動も少なかったのかもしれない。
ライコウの担当教科は政治経済だった。僕たちの時代は三年生で履修した。社会科というとメインは日本史、世界史、地理で政治経済と二年時に履修する倫理社会は地味な科目だった。ライコウの授業はほぼ教科書通りだったと記憶しているが、脱線することも多かった。余計な話といっても、政治談議や景気の動向なんかでは決してなく、この学校の偉大なる卒業生の話ばかりであった。いろんな卒業生の名前が出てきた。当時はノートに書いたりしていたが、ほとんど忘れている(このノートが現存すればなあと思うが、いまさら持っていても、とも思う)。頻繁に話題になったのはロケット工学者の糸川秀夫である。「諸君の先輩、糸川君は…」などとよく話していたものだ。
ライコウの余談のなかに究極の劣等生、安岡章太郎が登場することはいちどもなかった。これだけはたしかである(記憶は甚だ曖昧であるけれど)。

2023年4月17日月曜日

夏目漱石『道草』

最近、夏目漱石を読んでいるのは、Kindleで無料だったりするからである。
そう遠くない将来、僕は年金生活を余儀なくされる。今のうちから倹約できるところは倹約したいと思っているのである。図書館も最近になって利用するようになった。ウォーキングついでに立ち寄れる図書館が近隣に多い。今までは音楽CDばかり借りていたが、読みたい本があれば検索して、予約するようにしている(これがなかなか順番がまわってこないのである)。もちろん仕事で必要な本は、今のところ資料代として精算できる。資料として読む本は味気ないものが多いが、たまにすごくおもしろいものに出会える。また楽しからずや、である。
先日、無料本のなかに『ジャン・クリストフ』があるのを知った。ロマン・ロランの大長編小説である。大学生になったばかりの頃読んだ記憶がある。翻訳もそのとき同じ豊島与志雄である。たしか岩波文庫だったと思う。年金生活後、読む本としてチェックしておく。
『道草』は漱石の自伝的小説といわれている。そういわれても、漱石の生涯なんて、教科書の日本文学史程度の知識しかない(しかもほぼ忘れている)。
ロンドンから帰った主人公健三は駒込に住む。兄は市谷薬王寺町に、姉は津の守坂に住んでいる。案外近い。四谷から牛込、早稲田あたりは当然のことながら、漱石のテリトリーである。この辺りはよく歩いた。知らず知らずのうちに散策していたのだ。
ただでさえめんどくさい人間である健三は、養父のことや細君の父のことでめんどくさい日々を送る。めんどくさい主人公が登場するのは漱石の小説では決して珍しいことではない。この作品が自伝的小説で健三が漱石であるとするならば、胃をやられてしまうのもさもありなんと思う。
四谷の荒木町や市谷台あたりも昔はよく歩いた。余丁町から西向天神も永井荷風の足跡をたどって歩いたものだ。そうした町並みをなつかしく思い浮かべながら読み終えた。

2023年4月7日金曜日

浅田次郎『兵諫』

二・二六事件。最後の現場は荻窪だった。
荻窪駅の西。環状八号線を越えたところに光明院という寺がある。いつ頃できたかは知らないが、境内には鐘つき台が設けられている。除夜の鐘もここから聴こえてくるのだろう。当日近隣に住んでいたとしたら、銃声も響いたに違いない。
陸軍教育総監渡辺錠太郎が暗殺された事件現場はこの寺のちょっと先である。さらに線路沿いを歩いていくと本むら庵といういい蕎麦屋がある。実は本むら庵に行くついでに、ああ、この辺りだったのかと知ったのである。本むら庵に行かなければ、僕と二・二六事件は接点のないままだった。
『蒼穹の昴』シリーズ第六部は『兵諌』である。またしてもタイトルが難解だ。
兵諌とは主君の行いを忠臣が剣を取って諌めた故事に由来しているという。兵を挙げて主君の誤ちを諌めるといった意味だろう。二・二六事件もこの小説では兵諌と位置付けられている。この事件に触発された張学良が蒋介石を軟禁する。いわゆる西安事件である。日中のそれぞれの事件につながりがあると見るのが一般的なのかどうかは歴史に疎い僕にはよくわからない。
なつかしい登場人物がいた。陳一豆である。北京で床屋の見習いだった一豆は北洋軍に召集され、張作霖の司令部付きの当番兵になった。その後、宋教仁や張学良の護衛役としてときどき登場していた。華々しい活躍に無縁だった一豆は最後の最後、一世一代の証言者となって張学良をかばい、死刑となる。仮に映画化、ドラマ化される際にはそれなりのキャスティングが必要だろうなどと考える。
このシリーズ、さらなる続編はあるのだろうか。『天子蒙塵』で満洲に渡った二少年の行く末も気になるところだ。
本むら庵の細打ち蕎麦はうまい。が、僕には華奢すぎる。板わさも焼きかまぼこより蒸しかまぼこが好きである。それでもときどきこの店を訪ねるのは蕎麦屋らしい凛とした雰囲気に浸りたいからなのである。空気は大切だ。