2020年9月30日水曜日

池井戸潤『ロスジェネの逆襲』

そんな時代もあったねと、と歌うのは中島みゆき。時間を遡ることは、案外わるいことではない。
それでも自分が年老いてきて、昔はこうだったとはできるだけ言わないように注意している。そんな話をしても受け容れられる時代ではなくなったと思うからだ。そうした文脈には新たな世代に拒否されがちな自慢話の要素が(たぶんというより、かなり)ある。
働き方が見直されていることは承知している。僕たちの、あるいはそれ以前の時代には、仕事が人生のすべてであり、生きがい、やりがいを見つけさえすれば、のめり込んで生きていくことが許されていたのだ。「だって、好きでこの仕事を選んだんだから」ってずっと思って生きてきた。他に時間を消費する手立てを知ることもなかった。もちろん、能力の問題もある。不器用に仕事をするしかなかったのだ。いま、働き方とか、休み方とか、ブラックだとか、そんなことを考える暇もなかった。
そんなことを言うと仕事で成功して、財を築いて、この先は…と思われるかもしれないが、好きな仕事を続けてきたという自負があるだけで、なんら蓄えがあるわけでなし、人間的にみごとな成長を遂げたわけでもない。
幼少の頃から絵を描くことが好きで、イラストレーターになった叔父がいる。好きなことができて生きていけること以上に幸せなことはないとよく言っていた。自分がほんとうに就きたかった職業で生きてきた人ってどれくらいいるのだろう。
今はコンピュータの時代でもある。IT関連の仕事はこれからも増えていくだろう。複雑になりながら。そこはかつてのエルドラドのゴールドラッシュに近いものか。いやいや、金を見つけたい、なんて生きがいある仕事とは思えない。金が何かをしてくれるわけではない。おいしく食べられるものでもない。石油や石炭を掘るのとなんら変わりはない。
半沢直樹は、銀行の仕事がきっと好きで好きでたまらなかったんだろうな。
僕にはちょっと理解できないけど。

2020年9月28日月曜日

カンヌライオンズ審査員著 PJ・ペレイラ編/鈴木智也監修・訳『ブランデッドエンターテイメント お金を払ってでも見たい広告』

そもそもがブランドとは何かという定義が難しいのに、「ブランデッドエンターテイメント」などとなると簡単にはイメージできない領域である。小霜和也によれば、ブランドとは「気持ちいい記憶」と定義される。なかなか的確である。
この本はカンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバルの2017年ブランデッドエンターテイメント部門の審査員によって書かれている。ブランデッドエンターテイメントとはエンターテイメントコンテンツにブランドのメッセージをのせて顧客に届けるコミュニケーション手法のことだ。
テレビコマーシャルのように強制的に視聴される動画ではなく、むしろ能動的に視てもらえるコンテンツ。著名人に無理矢理商品やサービスを語らせることもなければ、画面に大きくロゴマークが映し出されることもない。秒数など時間の制約もない。視聴者にエンターテイメントを楽しんでもらうのに15秒も30秒もないのだ。2分のものもある。15分を超える短編映画もあり、2時間近い作品もある。その後映画化された作品もある。2015年に公開された韓国映画「ビューティー・インサイド」がそれだ。
ストーリーが重要であると同時に、ブランド自体がしっかりした考え方を持っていなければならない。そうしたポリシーがあってはじめて多くの共感を得ることができる。カンヌライオンズの一週間にわたる審査を通じて、多くを学んだ審査員たちがそれぞれの視点ですぐれた作品のポイントを語る。読みながらYouTubeで該当作品を視聴する。なかなかいい勉強になる。横書きの本は苦手なのだが、ついつい読み切ってしまった。
自分でブランデッドエンターテイメントなるコンテンツをつくる機会があるかどうか。本書に登場してくるようなすぐれた作品ができるかどうか。たぶんもうそんな作品制作に携われないかもしれない。そういった意味でこの本は、僕にとって『真空管アンプの製作』に近い。

2020年9月18日金曜日

高橋亜美、早川悟司、大森信也『子どもの未来をあきらめない 施設で育った子どもの自立支援』

山崎豊子『大地の子』を思い出す。
ソ連軍参戦によって虐殺された満蒙開拓団。過酷な体験を経、記憶を失った松本勝男少年は小学校教師陸徳志に助けられる(このときすでに日本語も自分の名前も忘れてしまっていた)。貧しい暮らしではあったが、勝男は一心という名前を与えられ、両親の深い愛情を受けて育つ。生き別れとなって農家に売られた妹のあつ子とは対照的である。
日本は欧米に比べて、里親の割合が少ないという。
家庭の問題(たいていの場合、離婚や虐待)で養育できなくなった児童の多くは児童福祉施設で生活する。実際にそうした児童の数そのものも欧米に比べると少ないらしい。一概に海外比較を取り沙汰するのもどうかと思う。里親など、民間で児童を養育する方が人道的、先進的な印象があるのかどうか知らないが、日本でも里親制度をもっと普及させたいという意向があることはたしかだ。
実際のところ、児童福祉施設で働く人たちはたいへんだ。愛情を注ぐことだけが仕事ではない。朝はやくから夜遅くまでずっと見守りを続け、その成長を手助けしていかなければならないのだ。「おはよう」「行ってらっしゃい」「おかえり」「おやすみ」を言うのは同一職員であるべきだという。職員が長く働ける環境ではないことがうかがえる。それでいて素行があまりよくなく、犯罪や自殺など問題行動が指摘されがちなのも施設の児童であったりする。
疲弊する現場を救い、じゅうぶんな環境を与えられない子どもたちに里親制度はプラスになるという考えが主流なのかもしれない。里親の比率が増えれば、欧米のように児童福祉先進国になれるという印象もあるのかもしれない。この本では、施設か里親という議論より、社会的養護はどうあるべきかを考える著者たちによってまとめられている。勉強になる。
児童養護にたずさわる人に限らず、多くの人の心に陸徳志が住んでいれば、世の中はもっとよくなるんじゃないかと思う。

2020年9月7日月曜日

大久保真紀『児童養護施設の子どもたち』

先月のことだが、鵠沼海岸まで出かける用事があった。
新宿経由で藤沢というと湘南新宿ラインか、東京駅まで出て東海道線(今は上野東京ラインというらしい)と思っていたら、時間帯によっては小田急線の方がはやく着くという。なかには片瀬江ノ島行という便もあって、乗り換えなしで目的地に着く。小田急線は箱根に行くときなど乗ったことはあったが、日常的に利用する機会はほとんどない。少し緊張しながら乗車する。
高校時代、合宿所がJR南武線の沿線にあった。当時は屋外のコートでバレーボールの練習をしていた。春休み中に合宿があった。連日天候に恵まれず、宿舎のなかで基礎体力づくりなどばかり行っていた。新学期を迎えると公式戦も近い。できることなら組織的な練習をしたい時期である。
横浜の大学に通う先輩が体育館を貸してくれる(厳密にいえば大学の先輩らと合同練習ということになる)ことになった。登戸で小田急線に乗り換えて、相模大野、大和。そこから相鉄線(=相模鉄道、おそらくこのときはじめて乗ったと思う)で和田町という駅で下り、あとはひたすら坂道を上った。
新宿発藤沢行の電車が相模大野駅駅に停車した。ふと、40年以上昔の記憶がよみがえった。一時間半ほどの行程だったが、ひどく長い道のりだった。横浜を経由した方がはやかったと思うのだが、路線検索などない時代にどうして小田急大和経由をとったのか、今となっては謎である。さらに不思議なことに行きは思い出せるのだが、どうやって合宿所に戻りついたか、まったく思い出せない。
何をもって当たり前と考えるか。裕福とは言えないが、ごく当たり前に生まれ育った自分の生い立ちからくらべてみれば、当たり前の環境に恵まれない子どもたちが多くいる。保護者がいて、人並みに甘えたり、叱られたりして育った子どもたちだけで社会は構成されていないということに気がつく。
世の中は映画やテレビドラマより深いと感じる。

2020年9月5日土曜日

獅子文六『南の風』

ここ何年か、獅子文六の作品を読んでいる。
ちくま文庫が主であるが、ときどき違う文庫も手にとってみる。印象としては横浜や四国宇和島が舞台で、という印象が強く、九州鹿児島が出てくる話には多少違和感をおぼえる。
この小説は昭和16年、朝日新聞に連載された。『悦ちゃん』『胡椒息子』『沙羅乙女』といった大戦前の作品と『てんやわんや』『自由学校』『やっさもっさ』など戦後作品の中間に位置付けられる。宇和島が出てこないのは当然のことである。
主人公は東京生まれ東京育ちであるが、両親は鹿児島の士族の出。シンガポールから物語がはじまるように小説全体のベクトルは南へ南へと志向する。大日本帝国のその後の南方進出を意識した話であると思われるふしもなきにしもあらず。時代がそうさせたのだといえばそれまでであるが。
六郎太をはじめ、その後の獅子文六の小説を彩るキャラクターの原形が登場しているように思える。異国情緒をにおわせる雰囲気もすでに描かれている。力強く生きる新しい時代の女性像も確立されている。この頃書かれた他の小説にもさらなるヒントが隠されているかもしれない。
西郷隆盛といえば、芥川龍之介も1918(大正7)年に短編「西郷隆盛」を書いている。この小説と同様、西郷は西南戦争で死んでいない、南の島にわたって云々という風聞が題材になっている。その時代に生きていたわけではないが、たしかに西郷の最期を誰がどう確認したのかは謎のままでおかしくない。たしかめようもない。
源義経にも同じような伝説が流布されたが、小さな島国日本にとって国民的英雄が強く求められ、愛されたということか。野茂英雄、イチローらがやがて海をわたって活躍するシーンに僕らもまた熱狂したものだ。それとこれとは話が違うけれど。
春日八郎が歌う「お富さん」ではないけれど、あの人、実は生きていたという話はどことなく興味をそそる。人間ってやっぱり生きていてこそなのだろう。

2020年9月2日水曜日

広岡達郎『プロ野球激闘史』

はじめてプロ野球の試合を観たのは小学校2年のときだった。神宮球場の外野芝生席。たしかライト側のスタンドだった。王貞治がホームランを打ってくれたらいいなと思いながら、産経アトムズ対読売ジャイアンツ戦を観た。王はホームランを打たなかったけれど、森昌彦が大きな飛球を放った。すぐ近くのスタンドで大きくバウンドした。ファールボールだった。
巨人の遊撃手は黒江透修だった。広岡達郎はすでに引退していた。「王金田広岡」という駄洒落のなかでしか存在しない選手だった。金田正一はその何年か前に巨人に移籍していた。国鉄スワローズ時代の金田を僕は知らない。
野球は守備さえしっかりしていれば0対0で延々と続く競技である。すべてのボールを打ち返せる打者はまずいない。苦手とするところに投手が投げ込んでいれば、得点される可能性は限りなく低い。物理的にはそうなのだが、実際にプレーするのは人間だから、人的要因でミスが出る。その結果、一定の割合で安打が生まれ、チャンスが生まれ、守る側からするとピンチを迎える。いくら練習しても対応できない精神的な状況に追い込まれる。野球のおもしろさは(たいていのスポーツがそうであるように)、気持ちを安定させ続けることが困難な人間が主体であるところにある。
広岡達郎の野球解説や指導者としての理論は、おそらく人間の精神を超越した境地にまで高めていく、いわば野球道のようなものではないかと想像する。当たり前のことを当たり前にこなして、アウトを27個重ねる。その間にどちらかが当たり前のことをしそこなう。このときはじめて試合が動きだす。
非常にストイックな野球の見方ではあるけれど、スポーツのきびしさ、楽しみ方を教えてくれたのは広岡ではないかと僕は思っている。
そういえば1980年代、早稲田に広岡という遊撃手がいて、いちど六大学リーグ戦で首位打者を獲ったことがある。たしか広岡達郎の甥だったと思う。