2008年3月30日日曜日

金川欣二『脳がほぐれる言語学』

桜が咲いて、街は賑わっている。
選抜高校野球は横浜、常葉菊川と相次いで破れ、優勝争いは混沌としてきた。心底応援していた安房高はほんのちょっと打合せをしているあいだにサヨナラ負けで消えていた。夏がんばってほしいが、常葉菊川を破った千葉経大付属もなかなか強そうだ。
いつだったか毎日新聞に引用されていたこの本が気になっていて、読んでみた。ちょっとした辛口箴言集のような読み物でなかなかおもしろい。現代言語学の基礎を築いたのはソシュールであるとなんとなく思っていはいたが、実はそうでもないらしい。ややもすればソシュールやレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコーあたりを読んでないとわかりにくいところもあるのかもしれないが、それでも引き合いに出される書物が多岐にわたっていて著者の読書と発想の幅広さが感じられる。まさしく脱中心、周縁、リゾームなどといった言葉が板についた現代的な学者なんだろう。脳がほぐれることはたしかだ。


2008年3月23日日曜日

佐藤尚之『明日の広告』

選抜高校野球が始まった。昨秋の実績で常葉菊川、横浜が優勝候補らしい。初日の今日、昨秋ベスト4の東北が破れる波乱があった。
第三試合には21世紀枠で初の甲子園出場となった千葉県立安房高校が登場した。父も母も南房総の出身なので、叔父やらいとこやら安房高出身者が多く、テレビにかじりついて応援してしまった。9回表の連打での得点、その裏のピンチをしのいでの勝利に熱いものがこみあげてきた。甲子園初出場初勝利。歴史を刻んだ瞬間だ。
その昔、ぼくのいとこが安房高野球部にいたのだが、そのとき夏の千葉県大会の決勝に進出し、強豪の銚子商業に破れ、甲子園初出場の夢を断たれたことがあった。当時の銚子商業には宇野勝、尾上旭らがいて、たぶん甲子園でもベスト8くらいはいったんじゃないかな。

で、うどんの話。
7年ほど前に仕事で高松に行った。同行したお得意さんと空港でうどんを食べて、すごくうまいと思った。こんなことを言っちゃ失礼かもしれないが、駅とか空港で食べるものってたいていの場合、通りいっぺんなおいしさでしかなかったりする(もちろんそれ以前のものも圧倒的に多い)。空港でこんなうまいんだったら、街に行ったら、もっとうまいんだろうなと想像力がふくらんだ。
どちらかといえば、蕎麦のほうが好きで、うどんなんてものは病気したとき食べるもの、くらいにしか思ってなかったのがこの日を契機に認識を改めた。
で、東京でもうまい讃岐うどんが食えるのか、ネットでさがすことにした。うまい蕎麦屋はいくらか知ってはいるが、うどん屋に関してはまったくの無知蒙昧だったから。そこで出会ったのが「さとなお」なる人物である。氏の「おいしい店リスト」で銀座さか田、板橋すみた、新橋さぬきやなどを知ることとなった。
最近では立ち食い蕎麦屋のように讃岐うどんの店が増えてきている。まあそこそこ本場の雰囲気を手軽に味わえるようになった。なによりである。
で、そのさとなおなる人物は広告会社のクリエーティブディレクターで、この本はその本業を書いている。20年前とは消費者が変化しているのに、旧態依然たる広告でよいのかという疑問にポジティブに応えてくれて、メディア・ミックスからメディア・ニュートラル、クロス・メディアへとネット時代のコミュニケーションのあり方を平易に語ってくれている。
シンプルだけど噛みごたえのある讃岐うどんのような一冊である。


2008年3月21日金曜日

トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』

ここのところ忙しくて、まっとうな時間に帰れない。さりとて額に汗して深夜までコツコツ働いているわけでもなく、コンピュータを使った作業をチェックしては待ち、修正点を指示して、また待ち…、の繰り返しである。その待ち時間につらつら本を読んでいる。
瀧口直太郎はアーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・サマセット・モームの翻訳でも知られているが、正直いったところ『ティファニー』だけは読みにくかった。するっとストーリーが進んでいかないのだ。最初に読んだのが20代前半でぼくも未熟な青年だったせいもあるけれど。
もう一度読み直してみようと思ったのが、7、8年前かな。仕事でテキサス州サンアントニオに向かう機内で読んだ。するっと読めない感じは相変わらずだった。アメリカの南部に行くのでなんとなくカポーティが読みたくなり、リュックのポケットに突っ込んで旅立ったわけだ。
そういえばフィリップ・シーモア・ホフマン主演の映画『カポーティ』、見そびれちゃったなあ。こんどDVDで観よう。
この映画は『冷血』を書いている頃を中心とした伝記らしいが、彼の代表作ともいえるこの大作の端緒となったのが村上春樹の解説によると『ティファニー』なんだそうだ。いわゆるそれまでの若手天才作家の文体から新たなステージを模索して、大人の作家への移行をとげた作品であるらしい。ぼくは『冷血』は大作であると評価はするものの、やはり好きか嫌いかでいえば初期の作品のほうが圧倒的に好きなわけで、ぼくの中のカポーティは『草の竪琴』や『誕生日の子どもたち』だ。
話は『ティファニー』に戻るが、20代に読んで、ホリーのような女性はよくわからないと思った。もしぼくが階上の住人だったら困ってしまうだろうと思った。20年以上の歳月をへだてて読み直したとき(しかも新訳で)、やはりホリー・ゴライトリーってよくわからない女性だと感じた。こういう痛快な性格づけを登場人物にできることがカポーティの天才たるゆえんなのだろう。

2008年3月18日火曜日

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』

ぼくの生まれは東京の品川区で、子どもの頃からその界隈で過ごしてきた。親戚も佃島とか赤坂に住んでいたこともあって、大井町から有楽町くらいまでは字を読むより先に駅名を憶えた。山手線でいえば、東南側。
高校生になって、中央線の飯田橋まで通うようになって、少しは地理は開けてきたが、それでも山手線の北側は苦手な地域だった。
要は何をいいたいかというと、実は、高田馬場が昔から苦手だったのだ。どう苦手かというと、方向感覚がなくなるのだ。プラットホームに立つとどちらが山手線の内側でどちらが外側かわからなくなる。早稲田通りの小滝橋方面が早稲田側に思えてしまうのだ。そんなわけでなにかの用事で高田馬場に行くとよく反対方面の山手線に乗ってしまう。池袋あたりで気づくのだが、面倒なのでそのまま駒込、田端、日暮里、上野を通って、帰ったものだ。
ぼくが「中国行きのスロウ・ボート」をはじめて読んだときの印象は、そんな高田馬場の光景だった。実際は新宿駅で中国人の女の子を反対方面の山手線に乗せてしまうくだりがあるが、ホームが内回り外回りで分かれている新宿駅でそんなことはないだろう、などとつっこみを入れつつ読んだものだが。

昔話をもうひとつ。大学に通っていた頃、中国からの留学生がいて、彼の身の回りの世話をしたり、相談相手になるという役を学校から言われて引き受けることになった。それで1年間でいくらかの報酬ももらえた。そのころはほとんど学校には行かず、アルバイトばかりしていたから、彼とはほとんど会うことはなく、とはいうものの後ろめたい部分もあったので一度だけ喫茶店で昼食をおごってあげ、通りいっぺんの会話をした。

『中国行きのスロウ・ボート』は村上春樹の最初の短編集で、世の評価としては『羊をめぐる冒険』以前に書かれた荒削りで未完成な前半4編とその後に書かれ、完成度が高く、洗練された後半4編が好対照をなすと苦言を呈されているようだが、ぼくはこのときはじめてコンビを組んだ安西水丸の装丁もあいまって、村上作品のなかでももっとも好きな一冊で、なかでも冒頭の表題作「中国行きのスロウ・ボート」は、そんなわけで忘れられない短編だ。
先日何年ぶりかで読んで、苦い昔を思い出してしまった。。

2008年3月13日木曜日

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

はじめてニューヨークに行ったのは1992年の秋。義妹が57丁目あたりに住んでいて、そこを拠点にマンハッタンを歩きまわった。ニューヨークに行ったらぜひとも見てみたかったものがふたつあって、ひとつは1970年ごろ、大手の広告会社を辞めて単身渡米した叔父の住んでいたアパート。もうひとつはホールデン・コールフィールドが妹のフィービーと行ったセントラルパークの回転木馬だった。
後日、グランドセントラルやストロベリーフィールズを訪れもせず、よくもそんな小さな目的でニューヨークまで行ったものだ人から揶揄されたが、とりわけ回転木馬はひと目見てみたいと思っていたわけだ。本書の中で回転木馬の小屋の中で流れていたのは「煙が目にしみる」だったが、ぼくがその場で聴いたのは「シング」だった。
この本を読むのは3度目で、最初は野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』、2度目はペーパーバックの“The Catcher In The Rye”、そして今回の村上春樹訳。野崎訳は何度か読みかえしているので、村上訳は新鮮にうつると同時にちょっとした違和感もおぼえた。現代語っぽすぎると感じたのかもしれない。週刊誌に連載されているビートたけしのなんとか放談みたいな。まあ、翻訳の話は大きな問題じゃない。むしろ村上春樹フリークが大勢いる時代に彼がこの名作の新訳を世に送り出したことのほうが重要だ。昨今の新訳ブームの発端となったのではあるまいか。
サリンジャーはこの作品を執筆後、隠遁生活をおくるなど、なかなかの偏屈者だと聞く。偏屈な作家が描いた偏屈な高校生が世界中の青少年のハートをとらえているあたりがなんともおもしろい。きっと時代を超えて、若者の心の中には少なからずホールデンが生きているということなのだろう。



2008年3月8日土曜日

太宰治『津軽』

先週は月曜、木曜と徹夜、今週も日曜、火曜、木曜と朝帰り。忙しいのがなによりという見方もあるが、この土日はゆっくり休みたい。今日は昼から寝転がってテレビでラグビー観戦している。
そういえば今年は太宰治没後60年らしい。太宰の命日は桜桃忌と呼ばれ、毎年三鷹の寺に多くの愛好家が訪れるそうであるが、別段太宰ファンでもないぼくはそういったことを新聞の片隅で知る程度である。 
太宰の小説はひととおり読んではいたが、先日も没後60年云々という新聞記事を見て、もういちど読んでみよう気になった。迷わず『津軽』を選んだ。 生まれ故郷の津軽地方を訪ねる紀行文というのがこの本の体裁だが、その真意は生まれ育ったふるさとを旅して記述することではなく、自らの心のふるさと、太宰治という人間のよりどころを訪ねる旅であったことに間違いあるまい。
太宰はこの旅の終わりに育ての母ともいえるたけという女性に30年ぶりに会う。ここがこの本のクライマックスで、ぼくも30年ぶりに読んで、30年前と同じように泣いてしまった。 
本の前半は津軽の歴史、風土などを見聞きしたものに加え、むしろそれより史料の引用が多く、これはいかにも紙数かせぎといえなくもない。旅とはいえ、太宰の見聞はわずかな思い出話と感想だけで後は酒を飲んでいるばかりだ。これはたけとめぐりあう感動のラストシーンに向けて計算された冗長さなのか、はたまた太宰自身が再会を前にした緊張と不安と、あるいは照れ隠しのあらわれなのか。
今回読み直してみて、むかし読んだだけではわからなかった太宰の心が少しだけ見えてきたように思う。