2013年2月28日木曜日

大道珠貴『東京居酒屋探訪』

若い人たちのことをとやかく言いたくはない。
自分自身がやはり、「近頃の若いもんは」と言われてきたし、そう言われてあまりいい思いをした経験がないからだ。
昨年の春に大学を卒業したA(この場合、Aはイニシャルではなく、ABCのAだ)は、映画が好きだとかとあるテレビコマーシャルを見て感動したとか、ありがちな動機を持って入社してきた。自分の思い描いている仕事のイメージと現実にギャップがあったのかどうかはわからないが、入社直後から「覚え」が悪い。資料をつくるためのアプリケーションの使い方を覚えない。外線電話と内線電話の切替えも覚えない。お使いを頼むといちいち道を訊く。あっという間に同期入社のなかで落ちこぼれていく。掃除とお使い、そしておそらくはそんな有名大学を出ていなくてもできるような資料さがし以外、誰も仕事らしい仕事を頼まなくなった。土日に撮影があって人手が足りないときに応援を頼むとなんだかんだ言い訳をつけて拒否する。
そうこうするうちに、本来なりたいのは作家で同人誌に作品を書こうとしているので長期休暇が欲しいという。年明けはほぼ無断状態で半ばまで休んでいた。
ついこのあいだ、2月の連休から連休明けにかけて、けっこう規模の大きい撮影とその準備があって、人手の足りない状況でもあったので手伝わせることにしていた。そうしたら祖母が病気で危ない状態なので連休は実家に帰りたいという。仕方がないので、そういうことなら様子を見に行ってこい、ただ連休明けは撮影を手伝うようにと言うと、「実は連休明けの2、3日がヤマなんです」と言う。
人のことをとやかくいえないが、この著者はずいぶん偏屈な人だなあと所々で思った。けれども楽しい居酒屋ガイドである。王子の山田屋なんかシズル感たっぷりで思わず訪ねて行ってしまったくらいだ。
さて、連休前にAは社内の全員にメールを出した。「本日をもちまして退社いたします」と。彼が使っていたデスクにはノートPCが置きっぱなし、資料やメモ書き、筆記用具もしばらくそのままだった。


2013年2月23日土曜日

岸本佐知子『ねにもつタイプ』


3年前のことだ。
読みたい本があって、区の図書館のホームページから予約した。他の区の蔵書だったので、届いたという知らせを受けて借りに行ったのだ(たぶん司修の『赤羽モンマルトル』だったと思う)。
貸出カードを出すと期限切れだという。延長するには免許証なり身分を証明する書類が必要だという。そのときは手ぶらで貸出カードだけ持って家を出ていたので、泣く泣く20分弱ほどの道のりを引きかえし、また20分弱の道のりを歩いて、ようやく借りたのだった。歩きながら、期限の切れたカードで本の予約ができるというのはシステムとしておかしいのではないかと思った。貸出しできない人も予約ができるのであれば、図書館じゅうの本が貸出しできない人に予約されて、貸出しできるできる人が借りられなくなるではないかと。嫌なおじさんだと思われるのを覚悟の上でカウンターでその旨を伝えた。職員はそうですね、検討いたしますとか言っていたが、その後どうなったか。
先週、どうしても読んでおきたい林芙美子の随筆が一編あって、全集第16巻を借りに同じ図書館に出向いた。貸出カードがまたもや期限切れだった。当然免許証は持ち歩いていない。車には乗らないので免許証を持ち歩いているかどうかに関しては無頓着なのだ。
スマートフォンは持ってる。Dropboxというストレージサービスを利用していて、そのなかに免許証に画像を取り込んである。免許証はいま持っていないが、これでいいですかとカウンター越しに見せると職員はちらっと見ただけで、現物じゃないとだめなんですという。「いったい何をたしかめたいんだ?俺の免許証のにおいでも嗅ぎたいのか!」と声を大にして叫びたかった。
もちろんそんなことはせず、ああそうですかとおとなしく退散した。
僕はさほど、ねにもつタイプではない。
ちなみに仕事場のある千代田区では2年間のうち利用した実績があれば自動的に継続する。

2013年2月20日水曜日

岸本佐知子『なんらかの事情』


ずっと以前に、ニコルソン・ベイカーの『もしもし』という小説を読んだ。
全米で大ヒットした電話小説という触れこみだったと思う。男女による電話のやりとり、ということ以外、内容はすっかり忘れてしまった。その後、もう一冊同じ作者の小説を読んだ記憶があるが、題名も忘れてしまった。
読んだ本を忘れてしまうというのは、実にもったいない話ではあるのだが、ストーリーだとかどんな人物が登場していたかとか、内容を思い出せないのは仕方ないとして、この本を読んだとき自分はどこで何をしていたかが思い出せないのは少しさびしい。もちろん圧倒的にこの手の本のほうが多いんだけど。
不思議と学生時代に読んだ本でそういうことを憶えていることがたまにある。たとえばフォークナーの『八月の光』とカポーティの『冷血』は夏休みに読んだ。連日暑いにもかかわらず、よく読んだもんだと憶えている。ただそのおかげで内容がしばらくごっちゃになってしまった記憶もある。内容はいまではすっかり記憶のひだの奥の方に入り込んでしまって、引っかき出そうにも出てこない。
で、何の話かというと、ニコルソン・ベイカーだ。じゃなくて『なんらかの事情』だ。
ツイッターでずいぶん岸本佐知子のこの本が話題になっていた。おもしろかったとか、電車の中では読めないとか、そんなつぶやきが多かった。というか、筑摩書房のSNS担当者が頻繁にリツイートしていただけなのだが、そんなのばかり読んでいるとほんとうにおもしろいのではないかと思えてくる。書店に行って、思わず手にとらずにはいられなくなる。そして立ち読みしようとページをめくる。が、待てよと思う。電車の中で吹きだしてしまう人がいるような本をうかつに立ち読みするわけにはいかない。
買って帰って、寝る前に読んだ。一気に読んだ。
おもしろかった。読み終わって、なんらかの事情で思い出した。
この人、ニコルソン・ベイカーの翻訳した人じゃん、と。

2013年2月13日水曜日

森鴎外『山椒大夫・高瀬舟』

NEXUS7というタブレット端末を手に入れた。
スマートフォンでたいてい事足りるのだけれど、電話中に予定を問い合わされたときいちいちスケジュールを見るのが面倒なのと、打合せ中、資料画像や映像を人に見せるのに小さな画面を何人かで見入る風景がどうも間抜けに思えたからだ。プレゼンテーションで映像資料を見せるとき、ノートPCの画面を先方に向ける動作もどことなくかっこ悪いと思っていた。
だが、実際にNEXUS7を手にすると、そんなスケジュールの閲覧だの、プレゼンテーションだのといったかっこいい使い方をする機会はさほどなくて添付ファイルで送られてきたPDFの資料をながめるとか、結局はフェイスブックやツイッターを見る程度の使い方しかできていない。
最近になってようやく電子書籍をダウンロードして読めるようになった。不思議なことだが、同じ文字情報を追いかけているにもかかわらず、紙に印刷された文字は比較的スムースに頭に入っていくのにディスプレイに映しだされた文字はなぜだかありがたくないと思ってきた。それなりの文章を綴って文字校正をする場合でも、画面上では気づかなかったことが赤ペンを持って紙に対峙するとたくさん間違いが見つかる。
時代はペーパーレスに向かっているなどともう十年以上も前からいわれていると思うのだけれど、身体がペーパーレスに馴染まない。ということでせっかくタブレット端末もあることだし、ディスプレイ文字に慣らすことにした。
読み切れるかどうかもわからないので基本は短編で無料。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介など近代の名作が思いのほか揃っているのだ。林芙美子の短編なども充実している。図書館に行って、書庫から出してもらわなければならないような全集にしか収められていない短編も多い。
今回は新潮文庫に収録されている森鴎外の短編をキンドルから拾い読みしてみた。
半月ほど電子書籍を読み漁り、少しは身体が慣れてきた。でもやっぱり本は紙がいいな。