2008年10月30日木曜日

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』

神田まつやで、昼、蕎麦を食って、神保町界隈を久しぶりに歩いた。ミズノ(昔は美津濃だったな)などスポーツ用品店と何軒か古本屋を見た。ちょうど古本市で靖国通りの歩道はそれなりに賑わっていた。
そういえば、夏休み前とかになると、子どもが学校から「夏休みに読みたい課題図書」だとか、あるいは書店から「○○文庫の100冊」みたいな販促物を持って帰ってくる。そんなものをぼんやり眺めていると、子どもは父親は果たしてその中のどれほどの本を読んだのだろう、みたいな視線を送ってくるのである。
自慢じゃないが、読みそびれた名作は多い。もちろん、何冊かは子どもの頃や10代、20代の頃に読んではいる。しかしながら圧倒的多数の名作を実は読んでいないまま、この歳になっちゃったんだなあというのが正直言ったところだ。
ヘルマン・ヘッセも読んだことがない作家のひとりだ。昔、教科書に「少年の日の思い出」という作品が掲載されていて、隣家の少年の収集している蝶の標本を盗んで、罪の意識から返しに行って、謝るのだが、ポケットの中でその標本はこわれてしまって、相手の少年に「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」と蔑まれる話で(まったく何も資料を見ることなく記憶にだけ頼っているので決して正確ではないけれど)、その「つまり君は…」という台詞の痛烈さだけが妙に記憶にとどまっている。
『車輪の下』を読んだことあるかいと訊ねると、『車輪の上』は読んだけど、下巻は読んでないと答える阿呆な友人がいたが、いかにもヘッセな感じの暗澹たる自伝的小説といったところか。車輪の下というのはハンスが入学した神学校の校長が成績の振るわなくなったハンスを自分の部屋に呼んでいう「それじゃ結構だ。疲れきってしまわないようにすることだね。そうでないと車輪の下じきになるからね」という台詞からきていると思われる。車輪の下じきという言い方がドイツのその土地、その時代で重くのしかかる言い回しとして存在していたのだろう。
こんな重厚な書物を読まなければならないなんて青少年もなかなかたいへんだなあ。


2008年10月21日火曜日

立松和平編『林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里』

先日、高校の同窓会があった。部活の集まりには毎年出ているが、同窓会などという同じ学校を出たというだけのぼんやりした会にはほとんど出席したことがない。今年は画家である部活の先輩が事前イベントで講演を行うということでその先輩の同期の方々から号令をかけられ、参加したのである。
ぼくもかれこれいい歳で街を歩いていれば、立派なおじさんであるにもかかわらず、会場内では下から数えてひと桁の若輩者である。こんなことでこの会は将来どうなるのだろうと不安がよぎる。
乾杯の音頭をとったのは、何代か前に同窓会長をなさっていたという御年95歳の大の上にさらに大をいくら重ねても足りないほどの大先輩。多少よろよろしながらも、壇上に上がり、しっかりした声で挨拶をする。
「誠に僭越ではございますが…」
僭越じゃない。全然僭越じゃない。
実を言うと林芙美子はまったく読んだことがない。日本文学に多少なりとも興味のあるたいていの人は『放浪記』くらいは読んでいるのだろうが。まあ、これは連鎖読みとぼくの称する本の読み方で、その前に読んだ『文豪たちの大陸横断鉄道』に影響されている。
解説で編者の立松和平も述べているとおり、昭和初期の、多少は便利な世の中になったとはいえ、旅がぜいたく品でかつ、苦行だった時代によくもよくも身ひとつでユーラシア大陸を経巡ったものだと感心する。本書所収の「文学・旅・その他」でも「私は家を建てることや蓄財は大きらいだ」と述べているが、それは彼女が如何に人生の中で旅に価値を置いていたかの証左でもあろう。
書く、旅をする、そして書く、また旅に出る。ある意味、文学者としての理想の姿を忠実に実践した作家といえる。そして「愉しく、苦しい旅の聚首(おもいで)は地下にかこっておく酒のようなもの」という描写に彼女の旅観、人生観が集約されているように思う。


2008年10月16日木曜日

小島英俊『文豪たちの大陸横断鉄道』

原巨人が長嶋元監督のミラクル越え。13ゲーム差をひっくり返しての優勝だ。とはいうものの今ひとつインパクトがないのはなぜだろう。
ひとつにはクライマックスシリーズという企画もののつまらなさ。言ってみれば緊張感や真剣さが観ていて希薄なのだ。それともうひとつは、原と長嶋の器の違い。違いすぎるのはその実績やスター性、カリスマ性等々すべてトータルしてもかないっこないので致し方ないところだが、長嶋のすごいところは有限実行。「メークドラマ」とか「メークミラクル」と言ってのけ、実現できる不思議なパワーがすごいのだ。
ジャイアンツが今後、原長期政権で安定した人気を保持していくつもりなら(実力面は実績ある補強戦術でお墨付きだが)、広報を中心に原にキャッチフレーズをどんどん提供していくとよいだろう。
ここのところ仕事が辛いわけではないのだが、旅ものが読みたくて仕方ない。で、この本を手に取ったのだが、まあ内容的には大きな盛り上がりもないままに終わり、何が言いたかったのかよくわからなかった。さらっと立ち読みして、荷風や林芙美子を買って読んだほうが手っ取り早い。
でも大陸経由でヨーロッパに行くってのは、日本人の遺伝子に組み込まれた憧憬なのかもしれないなあ…。

2008年10月10日金曜日

安野光雅『天動説の絵本』

長女が西荻の古本屋で気に入った絵本があったといって買ってきたのがこの本。
安野光雅の絵本は昭和の日本が描かれていたり、中世ヨーロッパが舞台だったりして、その空気感をふんだんに詰め込んでいる。単なる絵と文の複合体でないところがいい。この本は空の星が動いてるんじゃなくて、地面が動いているということに多くの人が気づく頃の話なのだろう。中世の迷信と近代の科学の狭間が絵本の世界にギュッと凝縮されて、おもしろおかしく描かれている。
安野光雅は一介の絵本作家ではない。なかなかの勉強家だ。少なくともぼくは天動説から地動説へシフトする時代のことなんか、これっぽちの知識もないし、想像力だって働かないもの。それにこんなに素敵な絵は描けない。


2008年10月2日木曜日

白井恭弘『外国語学習の科学』

4月に始まったラジオフランス語講座が9月で終了し、今月からどうしようかなと思っている。もちろん新番組は始まるし、それを聴いてもいい。前から聴きたかった応用編がアンコール枠で再放送されるので、それもいいかなと。
ただ、今回聴いた「ディアローグ三銃士」というのはいい企画だった。繰り返し聴く価値はある。そんなこんなで悩んでいるんだが、せっかくトークマスターに録音してあることだし、再度「ディアローグ三銃士」に挑戦しよう。ま、また気が変わるかもしれないけど。
さてさて、外国語を身につけるということに関して、それなりに研究がすすめられ、成果も上っているそうだ。この本にはそこらへんの経緯が紹介されつつ、外国語をマスターするための方策、ヒントも書かれている。また随所に具体例が提示されていて、学習法の紹介も説得力があり、励ますだけの語学応援本とはちょっと違う。
成功のポイントは学習開始年齢、適性、動機づけの3つらしい。自分を省みたとき、多少なりとも可能性の余地を残すのは動機づけだけ。日々の学習はともかくとして、動機づけだけでも維持していきたいものだ。