2023年12月31日日曜日

青柳いづみこ『阿佐ヶ谷アタリデ大ザケノンダ』

この本の著者も言及しているが、アサガヤは地名で阿佐谷、駅名は阿佐ケ谷と表記される。ややこしいが、一般には阿佐ヶ谷が浸透している。
荻窪駅の北側に住むようになって十数年経つ。意外なくらい阿佐ヶ谷とは無縁の生活をしていた。それまでは映画を観に行くか、渋谷方面にバスで行くためくらいしか阿佐ヶ谷まで歩くことはなかった。ここ何年か、コロナ禍で在宅勤務となり、運動不足を補うために歩くようにした。阿佐ヶ谷駅周辺まで行って帰ると四キロほどのウォーキングになる。主に歩くのは松山通り商店街やスターロードである。歩くというのは退屈な行為であるから、道々にある店の看板を見るなどして過ごす。いろんな店があるものだなと思う。そのうち散歩がてら、気になった蕎麦屋やラーメンの店に行く。知らない町に小さな根が生えてくる。
阿佐ケ谷駅の南側にもときどき足を伸ばす。川端通りという商店街がある。ウォーキングをするようになって、日本大学相撲部の位置も知る。この辺りには花籠部屋もあったという(花籠部屋が今の日大相撲部の場所だったか)。
著者青柳いづみこは青柳瑞穂の孫にあたるらしい。青柳瑞穂の名を知ったのは井伏鱒二の『荻窪風土記』だったか。ずいぶん昔にジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』という文庫本を読んだことがある。翻訳したのは青柳瑞穂だったのではないだろうか。いやいや記憶にないとすれば僕が読んだのは岩波文庫版で新潮文庫版ではなかったのではないか。
この本は長女が阿佐谷駅前の、まもなく閉店するという書店に立ち寄って何冊か買ってきたうちの一冊である。ソファの上にほったらかしにされていたので、お先に読ませてもらった。将来、もし仮にであるが、阿佐ヶ谷学なる分野が確立した折には貴重な資料となるに違いない。冗談ではなく、阿佐ヶ谷学はぜひとも確立してもらいたい。ついでに高円寺学、荻窪学、西荻学もできるといい。

2023年12月21日木曜日

ハーマン・メルヴィル『白鯨』

サマセット・モームは1954年に『世界の十大小説』というエッセイを上梓している。
その内訳は、ヘンリー・フィールディング『トム・ジョーンズ』、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、スタンダール『赤と黒』、オノレ・ドゥ・バルザック『ゴリオ爺さん』、チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、ハーマン・メルヴィル『白鯨』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、レフ・トルストイ『戦争と平和』である。
モームのエッセイは、岩波文庫にあるそうだが、この十大小説のうち僕は半分しか読んでいない。
二十代に読んだのはスタンダールとメルヴィル。後は結構大人になってからだ。『カラマーゾフの兄弟』なんて光文社の古典新訳シリーズで刊行されなければおそらく読む機会はなかっただろう。
『デイヴィッド・コパフィールド』は二十代の頃、当時絶版になっていた新潮文庫(記憶違いかもしれないが)を仕事場近くの小さな書店で見つけて、買うだけ買っておいたものをずっと後になって読んだ。もっとはやく読めばよかったと思うが、こんな長編を読む暇はなかった。『赤と黒』は二十代の頃、岩波文庫で読み、五十を過ぎて光文社の古典新訳で読み直した。
小説を読むようになったのは大学2年の終わりごろから。大江健三郎を読んで、開高健を読んで、スタインベック、ノーマン・メイラーと海外の小説を読みはじめるようになった。そしてどういう経緯かは忘れたが、『白鯨』にたどり着く。おそらくこの本がアメリカ文学の最高峰であるとかなんとか吹き込まれたのではないかと思う。モビー・ディックに復讐心をたぎらせるエイハブ船長。一頭の鯨をめぐる心理戦。まるでミステリー小説を読んでいるようなハラハラドキドキ感を(それだけを)今でもおぼえている。もう一度読む機会は果たしてあるだろうか。

2023年12月4日月曜日

ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』

ものみなことごとくはじまりがあって、終わりがある。終わってしまうのは寂しいし哀しい。いつまでも終わりが遠くにある長編小説を読む楽しみとはいつまでたっても終わりがやってこないことではないだろうか。
ときどき果てしなく長い小説を読みたくなる。
最近では浅田次郎の『蒼穹の昴』シリーズ。これはひとつのタイトルではなく、続編の形で進んでいく壮大なドラマであるが。古くはルソーの『新エロイーズ』、ディケンズの『デイヴィット・コパフィールド』、スタインベックの『エデンの東』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』などなど。
1980年11月から12月にかけて、『ジャン・クリストフ』という大河小説をはじめて読んだ。今も岩波文庫にラインナップされているこの名作は、当時8分冊だった。今では4分冊になっている。
まだ若かったのだろう、古くさくて、難解な(といっては名訳を世に遺した豊島与志雄には失礼もはなはだしいが)翻訳をすいすいとではないが、坂道を昇るように読みすすんだ。当時はあまり理解できなくてもずんずん読んでいった。
今回の再読は7月から読みはじめ、5カ月かけてようやく読み終える。
ロマン・ロランはクリストフのモデルはベートーベンではないと明言しているが、僕はいやいやベートーベンでしょうと思って読んでいたように思う。それくらいしか記憶に残っていない。あらためて読んでみると、クリストフの生きた時代背景など気になることが多い。あきらかに18世紀末から19世紀はじめが舞台となっているのだ。そんなことも理解しようともせず、学ぼうともせずに読んでいた自分が恥ずかしい。
1980年にはこのほか、モンテーニュの『エセー』、ルソーの『告白』を読んでいる。それなりに感銘を受けたつもりでいるが、果たしてきちんと理解していたのだろうか。再読してみたいとは思うものの、ちょっと怖い気もする。