2021年7月27日火曜日

斎藤三希子『パーパス・ブランディング 「何をやるか?」ではなく「なぜやるか?」から考える』

オリンピックの卓球で金メダルの可能性があるとすれば、混合ダブルスではないかと思っていた。
可能性があるといっても中国ペアの壁は厚くて高い。決勝はこてんぱんにやられるのではないか、0-4でしかもトータルで20得点も取れないのではないか、30分で試合が終わるのではないか、そんな思いで視ていた。
第一ゲーム、第二ゲーム。伊藤美誠が完璧に分析されている。中国選手になんどか勝ったことのある選手は徹底的にマークされる。似たタイプの選手をさがしてきて、いいところわるいところを洗い出し、弱いところを攻める。水谷が序盤つなぐことに徹していたこともあり、とりわけ伊藤を完璧に理解しているリウシーウェンが水谷から返される簡単なボールをとらえ、伊藤の弱点を徹底的に狙いうちした。
第三ゲームから流れが変わる。水谷が修正する。ナックルドライブ(水谷は回転をかけるフォームで回転をかけないボールを得意としている)で中国ペアをゆさぶる。フォアハンドにこだわり、台からはなれて強打をくりだすシュシンの裏をかく。強豪中国に一矢報いる方法論が見つかる。気持ちが前を向く。
これで常勝中国が浮足立てば、ミスも出てくる。案の定、スピード・パワー・回転に勝るシュシンもリウシーウェンも本来の卓球ができなくなっていく。
電通の佐々木康晴がここ数年、表現アイデアやクラフトではなくパーパスの戦いになっていると先月のカンヌライオンズ*のアワードの結果を受けて語っているように、広告クリエイティブの世界はパーパス=企業の存在理由の時代になりつつある。なにをやるか、どうやるかではなく、なぜやるのか?本音と建前が共存する日本でどこまで浸透するかわからないが、とても腑に落ちる考え方だと思う。
それはともかく、2006年の全日本優勝以来10年以上にわたって日本の卓球を支えてきた水谷隼に金メダル。卓球の神様もまだまだ捨てたものじゃないと思った。

*カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル
One Show、Clio Awardsとならぶ世界三大広告賞のひとつ。毎年6月フランスのカンヌで開催される。

2021年7月26日月曜日

筧裕介『ソーシャルデザイン実践ガイド 地域の課題を解決する7つのステップ』

人なみに東京オリンピックの開会式を視た。
開会式といえば、選手入場、開会宣言、最終聖火リレーから点火。これだけあればいい。ずいぶん前からオリンピックの開会式、閉会式は余興に熱心である。企画する人、パフォーマンスを見せる人はたいへんだろうが、視ていてそれほど感情移入できない。
聖火の最終リレーで長嶋茂雄が王貞治、松井秀喜とともに登場した。松井が長嶋をしっかり支えていた。長嶋のまなざしに、彼のスポーツに対する、とりわけオリンピックに対するひたむきな思いが映っていた。今回の開会式でいちばん印象深いシーンだった。
ここから先は勝手な想像である。
その日、長嶋茂雄は長男一茂の運転するクルマで国立競技場入りした。車いすに移乗させ、控室まで連れて行ったのは一茂。先に競技場に入った王と松井が待っていた。
一茂は松井の前で父を抱き起こして直立させる。腰に手をあてがい、歩行の際の注意点を教える。こんどは松井が長嶋を抱え立たせる。一歩二歩と松井に支えられた長嶋は歩いてみせる。
以前『ケアするまちのデザイン』というソーシャルデザインの本を読んだ。
この本はその続編というわけではないけれど、世の中にある社会的課題の解決に人びとを導いてくれる。本の帯にコミュニティデザイナー山崎亮の「こんなにわかりやすい本が出るなんて、これからソーシャルデザインに取り組む人は幸せだなあ。」という推薦文が載せられている。この本を手にとったきっかけでもある。
常日頃ソーシャルデザインの仕事にたずさわっているわけではないが、それに近いことを手伝っている。自分がやっていることが森の中に道をつくる一助になってくれているとうれしい。
聖火リレーは無事終わる。一茂は王と松井に謝意を示し、ふたたび車いすに移乗させる。そしてそのまま報道関係者の目にふれられることなく、国立競技場を後にした。
そんな舞台裏があったのではないかと勝手に思っている。

2021年7月19日月曜日

佐野洋子『そうはいかない』

大相撲名古屋場所。
成績如何では引退を余儀なくされる崖っぷち横綱白鵬、そして3連覇と横綱昇進をかける大関照ノ富士が全勝で千秋楽を迎えた。歴史をひもとくと千秋楽の全勝対決は過去に5回しかないという。直近では2012年の同じく名古屋場所の横綱白鵬と大関日馬富士。このときは日馬富士が勝って全勝優勝した。
14日間の土俵で安定した強さを見せていた照ノ富士が白鵬を圧倒するのではないか、そう思ったのは僕だけではないだろう。今場所の白鵬は横綱という看板だけで相撲をとっていた。威圧的、威嚇的な相撲で内容的には今ひとつだった。結果的には白鵬が勝ち名乗りを受け、全勝優勝を果たしたわけだが、千秋楽の相撲はことさら杜撰だったと言わざるを得ない。肘打ち、張り手、関節技のような強引な小手投げ。勝負にだけこだわった品格のない相撲内容。しかも雄叫びとガッツポーズのはしたないおまけ付き。場所後横綱に昇進するであろう照ノ富士に、横綱という地位は勝つためなら手段を選ばないのだというメッセージだったのか、こんな品位に欠ける相撲をとってはいけないのだというメッセージだったのか。
いずれにしても白鵬の心技体が劣化していることが証明された名古屋場所だった。45回目の優勝。おそらくこれが白鵬最後の優勝になるのではあるまいか。
佐野洋子はこれで何冊目になるだろう。
この本はエッセーのようなフィクションのような不思議な空気をまとっている。おもしろいかおもしろくないかと訊かれれば、間違いなくおもしろい。どこがおもしろいかというのは難しいのだが、吸った息をそのまま吐きだすように綴られた一つひとつの文章がおもしろいのだ。著者の思っていることが嘘いつわりなく書かれているように思えて、読んでいてなぜかうれしくなったりするのである。自然体であるとか力みがないとか、そういう文章技術以前に人間まる出しな感じがなんともいえずいいと思う。

2021年7月18日日曜日

原研哉『デザインのデザイン』

長いこと広告制作の仕事にたずさわっていながら、グラフィックデザインに関しては不勉強なままである。
広告コミュニケーションは人を動かすことがたいせつでその際いちばん重要なのはメッセージなのだとずっと考えてきた。デザインはそのなかの一パート=ビジュアルに過ぎない。そんな誤った歴史認識を持ち続けていた。誤った歴史認識というのは大げさな言い方ではあるが、そもそも広告の原点はデザイン=ノンバーバルなコミュニケーションだった。どのようにして伝わる広告をつくるかといった視点で広告をつくっていたのはグラフィックデザイナーであり、アートディレクターだった。アートディレクターという概念を日本に導入したのは新井静一郎と言われているが、くわしいことは忘れた。たしかに古い広告を見ると制作者は杉浦非水、山名文夫などグラフィックデザイナーである。
コピーライターが存在感を増してくるのは昭和でいえば30年なかばか。花王の上野壮夫、森永製菓の村瀬尚、資生堂の土屋耕一、電通の近藤朔らが東京コピーライターズクラブの前身であるコピー十日会を発足させたあたりである。この頃から広告制作の作家としてのコピーライターが意識されはじめた。
グラフィックデザインの世界では戦後間もない昭和26(1951)年に日本宣伝美術会(日宣美)が設立される。日宣美の作品公募は若いデザイナーたちの登竜門としてすぐれた人材発掘の場となった(残念ながら、20年にも満たないうちに公募は中止され、日宣美も解散してしまったが)。
著者原研哉は1958年生まれ。日宣美の時代のデザイナーではないが、若い頃から多くの巨匠と呼ばれるグラフィックデザイナーたちと同時代を生きてきたことが文章から感じられる。日本のグラフィックデザインの流れのなかにあって、きちんと歴史を見つめてきたグラフィックデザイナーのひとりであることがうかがえる。たいへん勉強になった。

2021年7月6日火曜日

ねじめ正一『落合博満論』

左足を三塁方向に踏み出して、身体は投手とやや正対するような構えで投球を待ち、やわらかく、それでいて鋭くバットを振り抜く。その打ち方は評論家がしばしば言う「身体が開く」打ち方であまり効率的な打法ではない。それでも落合が右に左にセンターにヒットやホームランを量産できたのは右足に体重を残して、スイングの軸にしていたからではないか。身体を開くことで内角も外角もふところを深くして待つことができる。基本はセンター方向に打ち返す。結果、内角に来たボールはレフト方向に、外角のボールはライト方向に素直に打ち返される。
落合博満のバッティングを僕はこのように見ていた。もちろん僕は本格的に野球をやったことはない。あくまでひとりの野球ファンとしての見解である。
小学校の頃、クラスの男子の大半は巨人ファン。なかでも圧倒的な人気を誇ったのが長嶋茂雄である。三塁手で四番打者で背番号3を希望する者が多かった。長嶋のバッティングフォームや守備をまねる者も多かった。1960年代の終わり頃から70年代にかけて、長嶋茂雄は打点王を続け、存在感はあったものの、打率、本塁打では翳りが見えはじめていた。それでも71年に最後の首位打者になったときは、やっぱり長嶋だと熱狂したのをおぼえている。
落合博満も長嶋ファンだったという。60年代の長嶋全盛期を目にしてきたに違いない。華やかな球歴を持ち、常勝チームの一員としてスター街道を歩んできた長嶋と当時の野球文化(あるいは野球部文化といってもいいかもしれない)になじめなかった落合とではその出自は異なるが、野球というスポーツの本質、チームとして勝敗を決する競技であることを十分すぎるほど知っていた。そのことは監督としての落合を見るとよくわかる。長嶋を日本一にした落合は、自らも日本一のチームを率いたいと思ったのだろう。
それにしても落合のバッティングフォームは長嶋のそれによく似ていた。