2009年9月28日月曜日

向田邦子『思い出トランプ』

卓球の話。
近所の体育館の一般開放日にスポーツアドバイザーとして月に一度だけやってくるTさん。
各台を見てまわり、ときどき声をかけ、ラリーをして、フォームなど弱点を指摘して修正してくれる。その指導法は至極明快でわかりやすい。
まずフォアならフォア、バックならバックでラリーを続ける。そのうち少し浮いたボールを出してくる。そのボールを強く打ち返しなさいという意図である。そこで強打する。Tさんはいとも簡単にショートやストップで返してくる。その返球はさらに浮いて、手ごろな打ちやすいボールだ。そこをふたたび、みたび強打する。最後、Tさんは台から離れてロビングで返してくる。スマッシュ対ロビングというラリーになる。
そんなラリーになる前にたいていの人は(ぼくももちろんそうだが)打ち損じる。そこでTさんは言う。「強く打つということは力を入れて打つこととは違う」と。いかに自分の、ふだん強打できるポイントで、ふだん打っているフォームで、ボールにラケットがあたる瞬間に的確な角度と力を加えられるかという練習なのだ。たいていの人は(あえて言うまでもなく、ぼくも含めて)ロビングの頂点で打とうと身体が伸び上がってしまい、大振りして、無茶苦茶な角度でボールを叩きつけてしまう。
「強く打つとは小さく振って、打つ瞬間に力を集中させること」とTさんは言う。
その後、ぼくと同じくらいのレベルの初級者とラリーをするとき、Tさんのまねをしてみる。浮いたボール出して強打させ、さらにロビングでスマッシュを打たせる(もちろんTさんのようには何本も続かないが)。打たせる側に立ってみると打つ人がいかに余計な力を入れて打っているかが手にとるようにわかる。おもしろいものだ。なかにはロビングうちの練習なんてまだ無理ですよ、という相手もいる。技術的に高度な練習をしていると思っているらしい。
それは違うんですよ、とぼくは言いたい。いちばん初級者にとってなじみのあるフォアを強く打つ練習を重ねることで、力を抜いて、正しい角度でできるだけ小さなスイングをして、インパクトの瞬間にだけ力を込めるという卓球競技の基本をTさんは教えてくれているのだ。そしてその技術はサーブだろうがレシーブだろうがショートだろうがあらゆる局面で活かせる基本技術なのだ。
「荻村(伊知郎)さんはぼくの大学の3つ上の先輩。長谷川信彦や河野満はぼくの3学年下」というTさんはまさに昭和の卓球ニッポンと歩みを一にしてきた人なのだ。

昭和。
昭和の風景を問われると、銭湯、呼び出し電話、脱脂粉乳、茶色い国電、汲み取り便所、木造校舎、都電、月刊少年誌などが思い浮かぶ。なにぶん昭和は波乱万丈の長い時代だったから、人それぞれ思いは異なることだろう。昭和を貫くキーワードというものがもし存在するとすれば、それは“貧しさ”なんじゃないかと個人的には思っている。
先日、九段下の図書館で雑誌『東京人』をパラパラ見ていた。
“向田邦子 久世光彦 昭和の東京”という特集が組まれていて、両氏のドラマづくりの細部にわたるこだわりに感心した。
向田邦子が航空機事故で他界したのが'81年。"昭和"がその存在感をひっそりと薄れさせてきた頃ではないかと思う。今年は生誕80年ということでドラマが制作されたりしているようだ。
図書館を出て立ち寄った本屋で『思い出トランプ』を買い、ちょっと昭和に寄り道して帰ることにした。
昭和はぼくがはじめて卓球に出会った時代でもある。

2009年9月26日土曜日

『アートディレクションの黄金比』

卓球の関東学生秋季リーグが終わった。
今季は忙しくて観戦する時間がない。もっぱらネットで結果だけを追いかけた。
今の学生リーグの見所といえば、やはり世界ランカーである明治の水谷を至近距離で見られるということだろう。これまで明治の稼ぎ頭としてトップバッターが定位置だったが今季は、必ずしもそうではなく、後半出場だったりもする。続くスターは早稲田の笠原だ。スピード感あふれる両ハンド攻撃と柔軟な守備、そして勝負強さをあわせもつ好選手である。ただ今季は京都東山の先輩足立と組むダブルスで星を落としたが気になった。この後に全日本学生選手権がひかえており、コンディションづくりも難しい時期なのだろう。
早明には及ばないものの安定した力を持っているのが専修。エース徳増を中心に早明のどちらかを崩すかと期待していたのだが、今季も3位。中位から下位はまさに混戦。ぼくはペンホルダーなのでおのずと応援に力の入る筑波の田代、駒澤の桑原勇、埼玉工大の伴がいずれも苦戦。駒澤は来季2部落ちだ。

子どもの頃から絵を描くことは好きだったのが、中学高校はどちらかといえばスポーツに打ち込んだりしていて、いつしか描かなくなった。広告の仕事をはじめてからまた描くようになった。だからぼくの絵は、ぼくの人生同様、基本がなっていない。高校時代、冷静に人生を見つめる機会があれば、美術大学に進むという選択肢も当然あったとは思う。まあ仮に美術系を歩んでも、歩まなくても、さほど大きな影響はなかったような気もする。人生とはそんなもんだ。
この本は広告やエディトリアルなど各方面で活躍しているトップアートディレクター9人のインタビューをまとめたもので誠文堂新光社にありがちな本。
アートディレクターの世界もぼくが社会的に幼少の頃とはずいぶん様変わりして、若い才能が次々にあらわれているようだ。この手のオムニバス形式もいいが、ひとりのADを一冊まるっと追いかけてくれるのもいい。むしろ後者の方が個人的には好みではある。
まあ、いろいろなジャンルでデザイナーやアートディレクターが活躍しているんだということで美大やアート系の職種をめざす若者たちには有意義な一冊かもしれない。

2009年9月22日火曜日

佐藤賢一『カペー朝』

世の中プラチナだシルバーだと連休だけは景気がよさそうだ。
ぼくの連休は今日で終わりで明日から仕事に戻る。週明けにプレゼンテーションがあって、木曜金曜の二日だけでは時間のやりくりができないのである。
この週末は本を読んで、卓球を楽しみ、墓参りに出かけ、充実した連休だった。
その本の副題に“フランス王朝史1”とある。続編があるのだろう。
この本は群雄割拠する西フランク王国の時代に台頭したユーグ・カペーから350年近くにわたってフランス王国を興隆させたカペー朝の歴史を説いている。その長きにわたる歴史を著者の怒涛のような文才をもってコンパクトにまとめた書で、もっと紙幅を問わずに語らせようものならおそらく大部の歴史物語になったであろう。むしろそのほうがありがたかったか。ある意味、歴史の教科書のように箇条書き的に時間が進行し、地図や登場人物のプロフィールなしに読み進めるのはなかなか困難な読者も多かろう。読み手の興味や知識レベルの設定がこの手の本では難しいと思った。

2009年9月19日土曜日

チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』

シャネルの映画が多い。
「ココ・シャネル」、「ココ・アヴァン・シャネル」、「シャネル&ストラヴィンスキー」(これは日本では来年公開)と立て続けに上映される。「ココ・シャネル」はシャーリー・マクレーンが主演だが、若かりしガブリエル・シャネルを演じるバルボラ・ボスローヴァの評判もいいと聞く。「ココ・アヴァン」はオードリー・トトゥが主演だが、それだけでも集客力がありそうだ。
以前新潮文庫で読んだ『クリスマス・カロル』はたしか村岡花子訳だった。で、今回の『クリスマス・キャロル』は光文社の古典新訳文庫。訳者は池央耿。クリフォード・ストールの『カッコウはコンピュータに卵を産む』やピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12ヶ月』などでぼくとしてはおなじみの人。調べてみるとノンフィクションから推理、SF、ミステリーなど幅広い翻訳作品を送り出している。
村岡訳がどんな感じだったか思い出せないのだが、池訳はイギリス文学らしい、あるいはディケンズらしい格調ある訳語を流麗にレイアウトし、読み手を一気に夢の世界に引きずり込む力がある。ちょっと高尚な訳語の数々は子ども向けと思われがちだったこれまでのクリスマスキャロルとは一線を画すような気もする。
で、バルボラ・ボスローヴァはチェコの人らしい。

2009年9月15日火曜日

重松清『あの歌が聞こえる』

東京で生まれ育ってそのままなもんだから、ふるさとを後にして都会へ旅立つという経験がなかった。
父親は小学校を卒業し、千葉の白浜町(現南房総市)から親戚を頼って上京し、浜松町にある商業学校に通った。以来ずっと、毎年何度か帰郷したとはいえ、東京で過ごしている。
故郷を捨てて、というと大げさだけど、人生で一度くらい新天地へ出発する日があってもいい。そんなことを考え、とある地方大学を受験した。もう30年も昔の話だ。結果的にはずっと東京である。
重松清はぼくの中では反則すれすれのレスラーだ。限りなくずるい。テーマの持って来方、味付けの仕方など、これをやられたら読んじゃうよなあ、みたいな連続技で畳み掛けてくる。
地方都市、中学~高校、友情、母と息子、父と息子、旅立ち…。これら、多くの読者に共有できる時代体験を、かつて一世を風靡した流行歌にのせてお届けするわけだ。ここまでして人を泣かせたいのか、あなたは、とついその、一歩間違えば反則になる、くさくなる話を、ギリギリのところにとどめる技がすごい。もちろん多少語り過ぎるきらいがないでもないが。
で、この作者は青臭い少年心理より、親父たちの友情や親目線の情愛、情感を描かせるほうが断然うまいと思う。

2009年9月13日日曜日

村上春樹『1Q84』

村上春樹の小説に関して、ぼくの中ではいくつかのルールがある。

(1)発売されたらすぐに買う
(2)一気に読み通す
(3)時間を空けてもう一度読む

もちろん、はじめて『風の歌を聴け』を読んだのが、'84年頃だから(奇しくも1984)、すぐに買って一気に読むのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以降ということになる。一気に読むのは、暇をもてあましていた学生時代に出会ったせいだろう、読み始めたら、そのまま最後まで読み切らないと気がすまなくなってしまった。それと基本的にこの作家は情景描写に凝らない。ストーリーのエッセンスがスピーディに進行し、伏線となるメタファーが次々にあらわれていくので、息をつく暇がない。また、そういうわけだから中身が濃密で再読に耐えられ、いやむしろ再読を通じて、読みこぼしをすくっていったほうが断然おもしろい。
そういうわけなんだが、今回の新刊に関しては、つい最近購入し、つい最近5日かけて読み終えた。
すぐに読まなかったのは、あまりに話題になり過ぎて、なにも今読まなくてもいいんじゃないかと思ったからだ。書店に平積みされたBook1とBook2はなんだかどこかのお店のカウンターに置かれた《自由におとりください》と書かれたパンフレットみたいだったし、タイトルも現地の文字で書かれたエスニック料理のメニューのようで何がしかの期待を抱かせるものではなかった。
さらにいうなら、その前に読んでおきたい本が多くあったことも理由のひとつだろう。『ねじまき鳥』や『カフカ』を読んだときにうっすら思ったことだが、村上春樹を読むのなら、ディケンズやドストエフスキーは読んでおいたほうがいい。
以前『海辺のカフカ』を読んだとき、これは『不思議の国のアリス』だと思ったのだが、その雰囲気はこの本にもあり、さらには言及もされている。総じて印象は未完のストーリーといったところだが、果たして続編はあるのだろうか。

2009年9月7日月曜日

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』

エディット・ピアフのCDを聴きながら、先週末は本を読んでいた。
映画「エディット・ピアフ愛の賛歌」ではマリオン・コティヤールの演技が光っていた、などと思いつつ。
外語大学長の亀山郁夫は光文社の古典新訳シリーズでドストエフスキーをわれわれ庶民に解放した立役者である。その功績は解体新書をわが国に紹介した前野良沢、杉田玄白級といえる。
この本は平凡社新書であるが、新書の特性を活かした比較的自由な枠組みのなかで、紙数の制限はあるものの思う存分『罪と罰』を語っている。ついこのあいだ『罪と罰』を読み終えたばかりの素人のぼくはただただ感服するばかりである。鉄道やアニメやそばうちの世界に卓抜した知識人がいるようにドストエフスキーの世界にもこうした“をたく”が存在するのだ。亀山先生が学問を生業とするプロッフェショナルでなく、そこいらの一市民だったらもっとすごい“をたく”なのになあと思ったりもする。
日曜日は久々、卓球。
気温は高かったが、湿度の低いさわやかなグリコアーモンドチョコレートのような一日だった。



2009年9月4日金曜日

プロスペル・メリメ『カルメン』

今年の1月から3ヶ月にわたって、NHKのラジオフランス語講座で「オペラ『カルメン』を読む」というシリーズを放送していた。メリメの原文にくらべ、オペラの台本は比較的平易なフランス語で初学者にもとっつきやすいらしい(らしいというのは、ただぼんやり聴いていただけでちゃんと学習していないからだが)。
そのときドン・ホセとかリリャス・パスティアの居酒屋とか闘牛士だとかだいたいの物語の輪郭はつかめたつもりだったのだが、どうもオペラと原作は違うらしいと知るに至った。となるとどう違うかくらいは知っておいた方がよいと思い、このたび読んでみることにしたわけだ。
まあ、「カルメン」はともかく、収録されている短編にすばらしい作品が多く、これは読んでみてよかったなと思った。堀口大學訳でありながら…。

2009年9月2日水曜日

フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

ちょっと大げさな分類だが、世の中に『カラマーゾフの兄弟』を読んだ人と読んでいない人がいるすると、ぼくはこの歳になってようやく読んだ人の仲間入りができたというわけだ。
それにしても光文社の古典新訳文庫はいい。
なにが素晴らしいって、おもな登場人物をしおりに印刷してあることが素晴らしい。ロシア文学などとほとんど縁遠い生活をしているわれわれにはアグラフェーナ・スヴェトロワとかカテリーナ・ヴェルホフツェワなどという名前はおいそれとは記憶にとどまらない。ぼくの母は昔から言ってた。外国の小説は登場人物の名前が憶えられなくてねえ、と。ドミートリーだのラスコーリニコフだのスヴィドリガイロフだの片仮名名前が苦手だった読書家にとってこれはまさに蒸気機関並みの画期的なアイデアだ。
もちろん訳者の亀山郁夫が氏のこれまでの研究成果を駆使し、解釈しやすいよう丹念に言葉を選んでくれていることも読みやすさにつながっている。なによりも訳者が自らあとがきで述べているように「リズム」をたいせつに訳されているのだ。
さて今回読破したばかりのぼくはこの本に関する感想などまだ持ち得ない。読みきっただけで精一杯だ。というわけでとりあえずここではこれから『カラマーゾフ』を読む読者のために偉そうにひとつふたつアドバイスをしてみよう。
◆難解なところはさらっと読め
人によってどこが難解かは判断が難しいが、ぼくの場合、宗教的なくだりは不得手である。とりわけイワンの朗読する「大審問官」やゾシマ長老の談話などは無理矢理解釈しようとしても時間の無駄である。おおまかな物語の流れにはさほど影響しないので、わかろうがわかるまいがさらっと読み飛ばしてしまおう。後で気になったら読み返せばいいのだ。
◆あとがきを活用する
1巻のあらすじは2巻のあとがきに、2巻のあらすじは3巻のあとがきにある。訳者のちょっとした心遣いだ。先にあらすじを読んでから読むと読書のスピードはアップする。もちろん、映画の結末を聞いてから映画館に行くのは絶対いやだという人にはおすすめしない。
◆4巻は厚い
1~3巻にくらべ4巻は厚い。それまでポケットに入れても苦にならなかった文庫が急に厚くなって重くなる。その頁数にめげてしまう読者もいるかもしれないが、3巻を突破したら4巻は読まざるを得なくなる。気持ち的には1~3巻が上巻、4巻が下巻と考えればいい。5巻(第5部)は数十頁しかないのでおまけと思えばいい。
◆本当は続編があった
ドストエフスキーは続編的なもうひとつの小説を構想していたという。ドミートリーとイワンの物語はこれで完結し、それに続くアレクセイの物語を書く予定だったという。読んだ後でそのことを知ると、なるほどそうだったのかと思えるところは多々あるのだが、あらかじめ『カラマーゾフ』は未完の小説だという先入観を持って読んでみるのもおもしろいはず。

昔読んだ小説で古典新訳文庫に加えられている本をこんど読んでみることしよう。翻訳のちがいがわかるかも知れない。
っていうか、たぶんもう憶えてもいないだろうなあ。