2020年3月31日火曜日

吉村昭『背中の勲章』

ふた月ほど前のこと。JR大井町駅で吉岡以介にばったり出くわす。
吉岡は小学校時代の同級生で、僕らが進学する地域の公立中学ではなく、他区の中学に進んだのか、あるいは私立中学に進学したのか、卒業後音信不通になっていた代表的人物である。改札付近で声をかけられなかったら、おそらく気がつかなかったと思う。
話を聞くと昨年の秋に母親が脳疾患で倒れ、大井町の病院に入院しているという。たまたまその日は親戚に不幸があって、通夜に行く途中だった。ふだんは別居している。さほど不自由なくひとり暮らしをしているとはいえ、年老いた母親ひとりで行ったこともない遠くの斎場に行かせるのもと考え、実家まで迎えに行き、最寄り駅のホームで電車を待っている間に具合が悪くなったという。生命にかかわるようなことにならなくてよかったなとなぐさめにもならないことばを伝えると後遺症もあるし、まだまだこれからが大変なんだという。そりゃそうだろう、つまらないことを訊いた自分が恥ずかしい。
同じように電車を待っていた女子高校生らが、すぐに駅員を呼びに行ってくれたという。なかにはペットボトルの水を買ってきてくれたりしたそうだ。世の中ってそんなに悪いもんじゃないぜと以介は強がりのように話していた。一時間もしないうちに救急車で病院に搬送され、治療がはじまったという。
「運がよかったんだよ、おふくろは」
小学校卒業以来再会した友人とそんな話をするとその間の50年弱がほんとうに一瞬のことだったと思う。昨日、12歳だった少年があくる日には病気の母親を抱える初老の男になっているのだ。
太平洋戦争の初期に捕虜となった男が背中にPWとペイントされた服を着せられ、アメリカ本土を転々とする。そして終戦後、様変わりした日本に帰ってくる。ちょっとしたタイムトラベラーだ。
吉岡以介のおふくろさん、どうしただろう。もう退院して、どこかの施設で新しい生活をしているのかもしれない。