2013年12月25日水曜日

富澤一誠『あの素晴しい曲をもう一度―フォークからJポップまで』


40年以上昔に東北本線の尾久駅で下車したことがある。
上野から東北、上信越方面に向かう列車の操車場がそこにあった。小学校の頃、同級生の高橋くんと写真を撮りに行ったのだ。たしか高橋くんのお父さんが付き添ってくれた。ふたりとももう他界している。
大井町あたりに住んでいて、よく行く親戚も赤坂や月島だったから、京浜東北線の北側は遠い世界だった。尾久という駅の近くに操車場があり、色とりどりの電車や客車が並んでいることを雑誌か何かで知り、行ってみたいと思ったのだろう。尾久駅は「おくえき」と憶えた。
高校生になって行動半径がひろがった。町屋に住む友だちや王子から通う同級生に尾久は「おく」ではなく、「おぐ」であると何度も正された。なぜ駅名だけ「おく」なのか。おそらくは「やまてせん」と「やまのてせん」の関係に近いのではないかと思っている。歴史的に見てもこの界隈は尾久村(おぐむら)と呼ばれていたようだ。
歌謡曲やニューミュージックの歴史を追った書物は多々あるが、やはり教科書的に平たく概観するのは無理がある。そんな気がする。
とりわけ評論家という立ち位置というか書き手の視点からでは難しい。
以前テレビの番組でなかにし礼が「不滅の歌謡曲」と題してその歴史をたどった。作詩家としての視点から歌謡曲を解き明かした。
坂崎幸之助は『坂崎幸之助のJ-POPスクール』でアーティストをめざした少年の視点でフォーク、ニューミュージックの世界を読みなおした。たしかこの本もラジオ番組をまとめたものだったと思う。1アーティストの昔話と言ってしまえばそれまでなのだけれど、むしろその方が味があって、生き生きと感じられる。
というわけで何が言いたいかというと、歌の歴史をまとめるのはたいへんだよなってことである。
「おくえき」を降りるとそこは昭和町(しょうわまち)だった。

2013年12月13日金曜日

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』


12月である。忘年会のシーズンである。
ここのところ、酒量が減っている(たぶん)。特に体調がすぐれないとかそういうことではなく、毎日毎日いやっていうほど飲むのに少し飽きてきたのだ。もちろん飲むときは飲むし、電車でとんでもないところまで乗り過ごすことだって以前とまったく変わらない。ひとりでふらっと居酒屋に入って、熱燗を2本飲んでぼんやり過ごすこともある。
東京の下町には安くて風情のある居酒屋が多く、その一軒一軒をたずね歩くのも悪くない。十条の斎藤酒場、王子の山田屋、北千住のおおはし。
このあいだは下町散歩仲間のKさんと新子安の諸星に行った。キンミヤの割梅ロックでしたたかに酔っ払った。少し反省した。
昼間、蕎麦屋で飲む酒もうまいもんだ。神田のまつやとか室町の砂場あたりで板わさ、焼鳥などをつまみに熱燗を飲む。いいとこ2本も飲めばじゅうぶんだ。蕎麦屋に長居するのも野暮だ。
たずねてみたい居酒屋や蕎麦屋はいくらでもあるけれどどちらかというといろんな店に行ってみるより、同じところに何度も足を運ぶ方が好きかも知れない。
仕事を終えて、パブで一杯だけ飲んで帰ることもある。ひとりで本を読みながら、ギネスの1パイントをゆっくり飲む。活字を追っているとだんだん自分が酔ってくることがわかる。
そういえば最近ウィスキーを飲んでいない。
以前は南青山の墓地近くにあるバーに立ち寄って、ワイルドターキーのライをちびりちびりと飲んだものだ。シングルモルトもそこでいろいろおそわった。
ウィスキーは奥が深い酒だと思った。
そういえばそのバーで村上春樹を何度か見かけたことがある。バーとしては比較的はやい時間帯であったと思う。
「あ、ご無沙汰してます」
「あ、どうもお久しぶりですね」
などという会話を交わすわけもなく、やはりバーとしてははやい時間帯にカウンターを去っていった。
バーは移転して今は西麻布にある。もう2年くらい行っていない。

2013年11月28日木曜日

川本三郎『向田邦子と昭和の東京』


向田邦子の誕生日は11月28日である。
太宰治が入水自殺した日や三島由紀夫が自決した日を憶えていても、向田邦子の誕生日は案外知られていないのではないか。
たまたまなんだけど(そんなこと偶然以外のなにものでもないのだが)母と長女が同じなのだ。さらにどうでもいいようなことを書くと松平健も原田知世もいっしょだ。
向田邦子は昭和4年の生まれ。私事ではあるが、父のひとつ下で母の五つ上になる(父は11月28日生まれではない)。生きておられれば今年で85歳ということだ。
現在の家族のあり方が生まれたのは昭和のいわゆる戦前であるといわれている。母から聞いた幼少時の話では昭和の前半は戦争による暗い時代だったそうだが、関川夏央の『家族の昭和』を読むと戦前の昭和は今でいう「家族」というスタイルが確立した時代だったことがわかる。明治から大正を経て、ようやく生活習慣や人びとの考え方が変わったというのだ。中流のサラリーマン家庭に育った向田邦子は新しい家族の時代を謳歌できる環境にあった。本書でもそのことが語られている。
そして向田邦子にとっての家族がいちばん色濃くあらわれているのがドラマ「寺内貫太郎一家」ではなかろうか。谷中の石屋石貫の主人貫太郎は向田邦子の父親がイメージされているという。時に家長として権威を振りかざす一方でふだんは家族の食卓シーンに小さくおさまっている。人情味にあふれている。明治から大正にかけて育ち、昭和で家庭を持ったたいていの男はこうして生きてきたのだろう。
ところで母の父、つまり母方の祖父は母が中学生のときに亡くなっている。南房総千倉町白間津の実家にある遺影でしかその顔を知らなかった。先日、母がどこからか昔の写真が見つかったと見せてくれた。母はよく笠智衆みたいな感じのやさしい人だったと言っていた。たしかに写真を見ると似ていなくもない。
祖父もいわゆる昭和の父親だったのだろうか。

2013年11月26日火曜日

芝木好子『隅田川暮色』


何を隠そう、下町ウクレレ探検隊という不思議な組織の一員なのである(別に隠しているわけでもない)。
あるときは代々木公園でウクレレを練習し、またあるときは下町を歩く(ウクレレに関しては西田敏行のピアノと同じで僕は持っていないし君に聴かせる腕もない)。先月は冬が来る前に川散歩をしようということになり、日の出桟橋から水上バスに乗って浅草吾妻橋へ行った。間近で見る隅田川はまるで海のようだ。水量が豊かで東京の真ん中をこんな大きな川が流れているとは信じられない。不思議な感覚に陥る。
以前浅草に来たときは駒形橋までいったん戻り、川沿いを今戸橋まで歩いた。芝木好子『隅田川暮色』の世界だ。山谷堀沿いに紺屋はまだあるのだろうかと探したものだ。
昔撮ったカラー写真が褪色する。モノクロームの写真がセピア色に変わる。それはそれで風情のあるものだが、最近のカラープリンタで印刷した写真はひどいものだ。あっという間に色が褪せる。今は思い出そのものも昔に比べて軽くなってしまっているのかもしれない。
化学でつくられたものは自然の色彩にはかなわない。昔の人はそのことをよく知っていた。染色とは糸に色をつけるだけではない。歴史に色を残す営為なのだ。そんなことをこの本からおそわった(たいていの書店で在庫のない文庫版を見つけられたのはラッキーとしか言いようがない)。
この本の舞台は池之端から根津、上野、浅草だ。時間が許せばその界隈から歩いてみたいものである。
下町探検隊は吾妻橋上陸後、仲見世、浅草寺、そしてその周辺の商店街を歩く。短くなった日差しの許す限り写真を撮った。あたりが暗くなってきた。せっかく浅草に来たのだからとねぎま鍋の店やおでん屋を覗いてみるが、あいにく満席だったり、定休日だったり。で、結局、浅草寺脇のもつ煮ストリートに迷い込んで生ホッピーにありついた。これはこれで浅草らしい過ごし方だ。
川風が気持ちよく吹いていた。

2013年11月24日日曜日

笠松良彦『これからの広告人へ』


さて、今年の大学野球をふりかえってみよう。
大学野球といっても東京六大学リーグばかり観ていて他チームの試合は全日本選手権や明治神宮大会でしかお目にかかっていない。おのずと偏りがある。
今年は明治大学の年だった。春は昨秋優勝の法政が勝ちっぱなしで最終週を迎え、明治と激突。明治は勝ち負けをくりかえしながらもなんとか勝ち点4で法政と並んでいた。初戦を落とした明治の第2戦、法政のねばりに会って引き分ける。悪い流れのなかで第3戦、ようやく法政に土を付け、流れを引き寄せる。混戦に持ち込んで這い上がるのがこの春の明治の勝ちパターン。第4戦は終始リードされる苦しい展開となったが思いがけないエラーで逆転、そのまま1点差を守りきった。
大学選手権は上武大に不覚をとり、4強にとどまった。
秋は立教に勝ち点を落としたものの春より安定した戦いぶりだった。立教対明治の3回戦で舟川が起死回生の代打逆転3ランを放った。観ている方もびっくりしたが、打った本人も感極まって涙のホームインだった。4年間野球を続けてきたよかったと思ったのだろう。
明治神宮大会は明治と亜細亜の一騎打ち。準決勝では明治中嶋、亜細亜嶺井が主将の仕事をして試合を決めた。が、流れをつかんだのは後者だった。先制ホームランと貴重な追加点となるタイムリーヒット。母校の沖縄尚学が初優勝を決めたその直後だけに嶺井にも期するものがあったにちがいない。亜細亜は九里、山崎のリレーで全試合を戦い抜いた。トーナメントを勝ち抜くにはそれ以外にないとの判断だろう。戦国東都をはじめ、入れ替え戦のある連盟に加入している大学は負けない術を知っているのだろうか。
以前いっしょに仕事をしていたTくんがイグナイトという会社に移り、広告ビジネスの最前線でがんばっているようだ。この本の著者はそのイグナイトの代表。広告ビジネスにはスピードと結果をともなう緻密さがこれまで以上に求められている。その足場が悪く、水の流れの激しい上流で彼らは仕事をしている。そんなことがわかった。

2013年11月23日土曜日

タカハシマコト『ツッコミニケーション』


明治神宮野球大会が終わり、今年の野球も全日程終了。
この大会は高校の部と大学の部にわかれて、それぞれ今年最後の日本一を競う。高校の部は全国10地区の秋季大会優勝チームが集まり、大学の部も各地区のリーグ戦勝者、あるいは勝者同士の代表決定戦を勝ち抜いたチームでトーナメント戦を行う。高校生は夏の選手権後、1,2年生による新チームが始動する。その頂点を決める大会であり、大学生にとっては4年最後の大会となる。そういう意味合いがあるのか知らないが、高校の部は午前中、大学の部は午後に行われる。当然この時期だから16時半くらいからはじまる第4試合ともなると点灯ゲームになる。スタンドでじっと観ているのと身体が冷えきって凍えるのである。高校生の試合と大学生の試合を観ていると金属製か木製かといったバットの違い以外にも微妙にルールが異なっていることがよくわかる。高校チームの監督はのっしのっしとマウンド上に歩いていって、ピッチャーに「どうだ、まだ行けるか」などと声をかけたりできないのだ。
今大会、高校の部決勝は九州地区代表の沖縄尚学と北信越代表の日本文理の対戦だった。準決勝をともにコールド勝ちした打撃のチームである。初回、日本文理の先頭打者が初球をいきなりスタンドに運ぶ。これを皮切りに打つわ打つわ、ホームラン5本とタイムリーヒット1本で6回までに8-0。決勝戦でなければ次の回でコールド勝ちだ。その7回、沖縄尚学に3ランホームランが出て、完封負けは避けられた。と思っていた続く8回、もう1本3ランが飛び出す。相手エラーにも助けられ、1点差まで詰め寄り、さらにタイムリーが飛び出しなんと8点差をひっくり返してしまった。
ネット広告やソーシャルの時代になって、今はまさにオンタイムでコミュニケーションすることが可能になった。この本は「ボケ・ツッコミ」をキーワードにして今どきの広告手法をわかりやすく説いている。
こんなびっくりした試合は滅多に観られるものではないが、その前、5回にもびっくりしている。それは日本文理の飯塚が放ったその日2本目(今大会3本目)のホームランだ。低い弾道を描きながらぐんぐん伸びていく打球はそのままバックスクリーンの向うへ飛んで行った。飛ぶボールが使われているのか、とツッコんでみた。

2013年11月21日木曜日

村上春樹『雨天炎天』

トルコという国をさほど意識したことがなかった。
もちろんまったく未知の国というわけではない。学校で習った世界史や地理程度のことは知っている(ほんとうか?)。ヨーロッパとアジアの境界に位置し、庄野真代が「飛んでイスタンブール」と歌っていた国だ。ちなみに首都はイスタンブールではなく、アンカラだ。まちがって憶えていたとしても恨まないのがルールだ。旅行会社の新聞広告はカッパドキアという世界遺産を見に行こうと声高に叫んでいる。まだまだたくさん知っているが、この辺で勘弁してやろう。
本を読むとき、たいていその舞台や登場人物などをイメージしながら読みすすめる。だが残念なことにトルコという国のイメージが脳裏に浮かんで来ない。これまでその国を思い浮かべながら読んだ本といえば梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』くらいだ。このときはトルコというよりアラビアみたいな空間を思い浮かべながら読んでいた。もちろんアラビアのことだってろくに知らない。ともかく自分がいかにトルコと無縁な人生経験を積んできたかを思うとたいへん申し訳なく思う。ついでにいえば、ギリシャも同様で青い海と白い建物と石づくりの遺跡。その程度のイメージしか持っていない。B。G.M.はジュディ・オングだ。
まだ読んでいない村上春樹の本、読みつぶしの旅。今回は『雨天炎天』、ギリシャ、トルコ紀行である。
ギリシャは巡礼の旅、トルコは命がけの冒険物語。読み応えじゅうぶんの旅行記だった。ギリシャ正教の聖地アトスを徒歩で旅する前半はコリーヌ・セロー監督の「サン・ジャックへの道」を思い出させてくれたが、おそらくはそんなのんきな旅ではなかったろう。後半は埃にまみれ、危険と背中合わせの緊張のトルコ一周。
たいていの紀行文は読み手を旅に誘う役割を少なからず持っている。ところがこの本に関してはまったくそういう気にさせない。そこが辺境の旅たる所以だ。
これを読んで、同じ旅をしたいですかと訊かれたら、答は迷わずノーだ。

2013年11月19日火曜日

田宮俊作『田宮模型の仕事』


昔はティックではなく、チックだった。
ゴチックとかマグネチックとかドラマチックとかエロチックとか。
最近ではもっぱらティックである。たとえばエレキギターではない古典的なギターをアコースティックギターと呼んで区別したりするけれど、今の時代は「アコースティック」であり、「アコースチック」ではない。アコースチックギターなんて全然アコースティックじゃない。
ティックをチックにしてしまうとどことなく古くさくなる。アーティスチックは芸術の匂いが薄れるし、ロジスチックだと荷物の届くのが遅れそうだ。ニヒルスチックはあんまりニヒルじゃないし、アクロバチックは場末のサーカスみたいである。
アメリカのメジャーリーグにアスレチックスという球団がある。古くからアスレチックスと表記されているのであまり違和感がない。フィールドアスレチックなどという場所が日本全国にある。定着した言葉はむしろチックでいい。プラスチックもそうだ。
田宮模型をはじめとする静岡の模型メーカーは古くは木の模型をつくっていた。恵まれた森林資源が背景にあったからだ。しかし時代の主役は木から石油に変わった。絹がナイロンに変わったように。
戦後次々に海を渡ってきたアメリカ製品は日本人のあこがれだった。プラスチックモデルとて例外ではなかった。静岡の木工メーカーはプラモデルへの転向を模索した。本書『田宮模型の仕事』はこのあたりからはじまる。
数ある模型メーカーのなかで田宮模型が頭角をあらわしてくる。そこには卓越した芸術的センスと好奇心、探究心があった。加えて日本人ならではともいえる緻密な目と手が次々に精巧なプラモデルを生んでいく。プラモデルの昭和史というにはスケールの大きな一冊と言っていいだろう。
プラスチックがプラスティックにならないでプラスチックのままでいてくれるのはプラモデルも一役買っているのではないだろうか。
それはともかく、カメラを担いで戦車を撮りにドイツまで行ってみたいったらありゃしない。

2013年11月16日土曜日

ロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』


電子ブックリーダーを買った。
以前はタブレット端末でKindleの無料本を読みあさっていた。ところがタブレット端末ではバッテリの持ちとか、気になるところも多く、またガジェット好きな知人からKindleペーパーホワイトの話を聞かされ(実はこのおススメがいちばん大きかったのだが)、じゃあ一台という気持ちになった。
たまたま三省堂に紙の本(紙の本という言い方もおかしな話だ)を買いに行ったとき、そこに展示されていたLideoという電子ブックリーダーをいじってみて、これでじゅうぶんじゃないかと思ったのである。で、その場で買ってしまったのである。さほど高額な買い物ではない。スペックなどを比較検討したり、口コミを調べたりして深く悩むこともなく即決した(その辺の自分の性格というのがある意味恐ろしくもあるのだが)。
三省堂は高校入学前に教科書を買いに行った本屋である。当時はまだ木造の本屋然としていて神田らしい風情があった。いろいろと思い出も多い。Lideoが三省堂になければおそらく衝動買いをすることもなかっただろう。ブックファーストやジュンク堂だったら買わなかったかも知れない。逆に三省堂にソニーのリーダーが置いてあったらそっちを買っていたかも知れない。
僕は三省堂のファンなのだ。
今、マス広告よりも知人や友人のおススメが効くと言われている。意識的にアンバサダー、つまり推奨者=ファンを見出し、おススメをソーシャルネットワークなどで広めてもらうマーケティング手法が注目されている。この本ではそんなシステムの有効性と活用法が紹介されている。
義理人情浪花節的商売が普通だった日本人の感覚としてはごく当たり前のことである。おススメが効くから、システマティックに商売に取り入れましょうよ、なんて大真面目に書かれてあると笑っちまうのである。
ちなみにこの本は紙の本で読んだ(やっぱり紙の本で読んだという言い方はへんだと思う)。
Lideoを友だちにおススメするかと訊かれたら、それは微妙だ。

2013年10月26日土曜日

吉川昌孝『「ものさし」のつくり方』


秋もまた野球のシーズンだ。
夏の選手権大会で3年生は引退し(国体というサービス残業的なイベントはあるにせよ)、2年生中心の新チームが始動する。今年の夏は特に2年生の好投手が多かった印象がある。新チームが楽しみだなと思っていた矢先、甲子園を沸かせたチームが秋季大会で苦戦を強いられ、早々に敗退したところも多い。
甲子園が終わると日本選抜チームが招集され、国際試合を行う。今年は18U世界選手権が台湾で行われた。センバツをめざす秋の大会前にできることなら2年生は選考の対象からはずせばいいのにと思う。済美の安樂、前橋育英の高橋がそれにあたる。いずれも県予選の初戦で敗退している。ただでさえ、甲子園に行った学校は新チーム始動のタイミングが遅れるわけだから、各都道府県の高野連も公平を期するならば代表チームの選考に新チームのメンバーをあてない、などの配慮が必要なのではないか。
先月、都のブロック予選がはじまった。武蔵境の岩倉グランドまで母校の応援に行ってきた。初戦、二回戦を突破し、強豪岩倉とブロック代表決定戦まで駒を進めた。序盤の失点を最小限に抑え、後半やってくるワンチャンスをものにできれば弱小公立校でも強豪私立に勝てる。前半の5失点は痛かったが、唯一のチャンスに得点ができ、敗れたとはいうものの来春につながる戦い方ができたと思う。
博報堂生活総合研究所はなんとなく気づいてはいるけれど明確には規定できない事象をいつも巧みに切り取ってカタチにしてくれる。生活者意識オリエンテッドな集団だ。
今回読んだのは過剰摂取してしまいがちな情報をいかに整理整頓してアイデアに加工していくかという本。もちろんこれを読んだからってそれほどアイデアなんか出てはこない。ただアイデアってのはたしかにこういう手順を踏んで湧き出るものかもしれないなあと妙に納得感がある。思いつきって案外そんなものかもしれない。
しつこいようだが、高校野球の日本代表チームに2年生を選ばないでもらいたい。

2013年10月23日水曜日

村上春樹『遠い太鼓』


海外で暮らすというのはどんな気分なのだろう。
前世紀の最後の年にアメリカのテキサスに3週間滞在した。コンピュータ・グラフィックスをサンアントニオの制作会社に発注し、その進捗状況をチェックする、そんな仕事だった(細かく言えばそれ以外にもたいへんな仕事はあったけど)。さすがに3週間もいると仕事以外の時間を持て余す。話すことといえば日本に帰ったらまず何を食べたいかなんてことばかりだ。
以前南仏を訪れたとき、SNCFの列車に乗って、アルル、アヴィニヨン、マルセイユ、ニースなどをまわった。そのなかでいちばん気に入った町はアンティーブ。町全体が静かで(まあコートダジュールの町はたいていそうなんだけど)、リゾート地ではあるのだろうが観光地らしくない。城壁に囲まれた旧市街が駅から近い。ビーチも近い。ああ、海外で永住するならこんな町がいい、と思ってしまったわけだ。
それから具体的に永住するにあたって、アパートの家賃はいくらくらいなのだろうとか、なにか仕事は見つかるだろうかとか、日本に残してきた両親の面倒はどうするんだろうかとか考えはじめた。で、永住する計画は考えないことにした。
母方の叔父が20代の終りに近い頃、それまで勤めていた広告会社を辞めて2年ほどニューヨークのデザインスタジオで働いていた。本人はもっといたかったらしいがビザの関係で帰国せざるを得なかったようだ。叔父から母宛てに何通か手紙が届いており、見せてもらったことがある。祖母(つまり母と叔父の母)が誰かに住所を代筆してもらって手紙を送ってくれた話なんかが書かれている。平和なうちに帰ってきなさいと書いてあったという。
村上春樹が南ヨーロッパで暮らした何年かを書き記したこの本はそんな叔父のニューヨーク便りにも似ておもしろい。具体的なことを具体的に考えなければ海外で生活するってのはやっぱり楽しいのだ。見知らぬ土地で見知らぬ国民性や風習に出会い、不思議な体験ができるのだ。ギリシャやローマに住んでみたいとはこれっぽっちも思わないけれど、この種の経験というものはしてみてけっして損はないだろう。
深い井戸に潜るには海外で生活するのがいちばん手っ取りばやいという気もするし。

2013年10月20日日曜日

本田創編著『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』


時間が許せば、ふらっと東京の町を歩く。
まだ行ったことのない土地の方が圧倒的に多い。できれば東京23区内を均等に訪れたいと思っているのだが。不思議なもので生まれも育ちも東京なものだから、フラットな視線で東京の町を眺めることができない。どうしても思い出や思い入れのある町が地図上で、あるいは脳裏に浮かんできて知らず知らずにそういう町ばかり歩いている。
たとえばずっと住んでいた大井町とか馬込とか戸越などいわゆる地元はよく歩く。不思議なことに馴れ親しんできたとこちらが一方的に思っているつもりでも案外知らなかった道や新たな発見が多い。へえ、この道はあの道につながっていたのか、とか実家と目と鼻の先にまったく通ったことのなかった道がある。
たとえば高校のあった飯田橋から、神田方面。あるいは麹町方面。毎日通っていたというのは実は過信に過ぎず、知ってるつもりになっているだけだったりする。みんながよく行く店だから、よく通る道だから自分も知っているつもりになっている。戒めなければいけない。
月島や佃島。ここは母が下宿していた大叔父の家があったので幼少の頃の思い出がある。
赤坂丹後町。伯父が家を買って、母も佃島から移り住んだ。
駒込西片町。父方の大叔父が住んでいた下町。記憶はないが、その町の名前は耳に残っている。
よく歩く町はこうした知っている町が多い。もっと本を読んだり、映画を観たり、自分自身とかかわりのない町に興味を持たなければいけないんじゃないかと思うのだ。
川の本を読んだ。
川といってもかつて川であった川の本だ。
子どもの頃近所の公園で手打ち野球(その後ハンドベースボールと呼ばれたらしいが最近の子どもたちはやるんだろうか、そんな遊び)をしていて、公園の外まで打球を飛ばせばホームラン。すぐ近くを流れる立会川に落すと一発でチェンジだった。立会川にボールが落ちると少年たちは靴と靴下を脱ぎながら走って一カ所だけあった梯子段を降りてボールを拾いにいったものだ(もちろんそこは立ち入り禁止だったけど)。ボールを拾った子はそこで声高に叫ぶ。
「チェンジ!」
立会川のその場所は今ではバス通りになっている。

2013年10月14日月曜日

西崎憲『飛行士と東京の雨の森』


文章を書くというのは面倒なことだ。
文で身を立てるような仕事はしていなのだが、文書をつくる作業は日常的にある。自分で書くこともあれば、誰かに書かせてチェックする場合もある。自分のことは棚に上げて、人の書いた文章はなんでこうも気になるのだろうと思う。
たとえば、ある部分では漢字だったのが、別のところでは平仮名になっている。気になる。
会社名が書かれている。それは正しい表記なのか。気になる。
ちなみに「キヤノン レンズ」で検索すると「キャノンではありませんか?」とアラートが出る。これは検索エンジンがわかってないんじゃなくて、圧倒的大多数が「キャノン」で検索するからだ。言葉は多数決の世界だからあながち間違いとは言えないけれど、人様の名前を誤記するのは憚られる。
地名が書いてある。四谷は四ツ谷か、四ッ谷か。御茶ノ水はお茶の水じゃなかったか。市ヶ谷は市谷じゃなかったか。気になる。どうでもいいようなことが気になる。
先日読んだちくま文庫『誤植読本』に校正のルールはきつくしないほうがいいというようなことが書いてあった。たとえば、漢字にするか、開くかは前後の文章から判断して読みやすい方を選べばいいし、それによって読みにくくなる改行、改頁が行われるのであれば無理に漢字で統一したり、仮名で統一したりしないほうがいい。たしかにそのとおりだ。少し気が楽になった。
とある雨の日。会社に行くのに遠まわりをしてみた。四ツ谷駅を出て、迎賓館の方に歩いた。昔の都電3系統が専用軌道に移って、喰違トンネルをくぐり、弁慶橋の方へ坂道を降りていく方向だ(というか都電3系統を出した時点でこの説明はまったくわかりにくくなっている)。今でいう紀之国坂交差点あたりがかつてトンネルのあったところで、上智大学グランド南端(そこに弓道場がある)から弁慶濠北端にかけてこんもりと木が生い茂っている。
ウェールズの少女ノーナが飛行士に出会った森だ。

2013年10月11日金曜日

高橋輝次編著『誤植読本』


十数年ぶりに四谷の焼鳥屋に行った。
十数年前、高校時代の親友とそのカウンター席に座った、そしてとりとめのない話をした焼鳥屋だ。そのときでさえ十数年ぶりに会ったわけだから、気が利かない幹事が仕切るクラス会のようなものだ。
高校時代のクラブ活動の先輩や同期、後輩とは毎年顔を合わせている。親しい先輩とは新年会だの忘年会だの年に何度か会っている。奥歯の付け根あたりが痛み出すと毎週のように会いに行く先輩もいる。ところが部活以外となると自慢じゃないが友だちと呼べるような人がからっきしいなくなる。せいぜい同じ広告の仕事をしているとかじゃない限り、部活でいっしょだった同期以外に会うことはまずない。そういった意味では四谷の焼鳥屋のカウンターというのは貴重な存在だ。
最近ではFacebookでおたがい近況はなんとなくわかる。
俺はあいかわらず酔っぱらっていて、神宮で野球を観て、カメラをぶらさげて町歩きしている。やつは合気道だか、空手だかをやっていて(実は正確なところは知らなかったりするのだが)、休みの日には落語ばかり聞いて、野球は阪神戦しか観ない。
と、この程度のことはわかるので何も直に会って、皮だの、ねぎまだの、つくねだのをかじりながら酒を飲むこともないのである。
いつだったか本屋でこの本を見かけた。『誤植読本』、おもしろそうじゃないか。
中身は見なかった。立ち読みする時間がなかったのだ。なんとなくではあるが、こういうことはあいつが詳しいんじゃないかと思って、焼鳥屋で十数年に一度会う友にFacebookで訊いてみた、「この本、おもしろいか?」と。
誤植は奥が深い。それは四谷の焼鳥屋のカウンターで頬張る炭火の焼鳥にも似た深さがある。
こうしてとりとめのない夜はとりとめもなく更けていくのであった。

2013年10月10日木曜日

『村上春樹全作品 1979~1989〈3〉 短篇集〈1〉』

この夏、読書量が激減した。
読書量が減るということは単に本を読まなくなることではなくて、読みたい本がなくなることだとなんとなく思った。仕事を中心に日々を送っていると一日が仕事の部分とそうじゃない部分とに比較的単純に二分できる。そうじゃないとき、つまり仕事と非仕事に加えて第三、第四の用事だとか悩みだとかが勃発すると非仕事の時間が削られる。外界に対する興味が失われていく。結果、読みたい本がなくなる。おそらくはこういった図式なのではないかと勝手に思っている。
だからといって読書以外の私的な楽しみがことごとく奪われてしまったかといえばけっしてそんなわけでもなく、カメラを下げて町をぶらつくとか野球の試合を観に行くといったことはあいかわらず続けていた。
野球といえばこの夏東京を盛り上げてくれたのは何校かの都立校だろう。東東京大会では江戸川と城東がベスト8。西東京では都立日野高が次々と強豪を撃破して決勝戦までコマをすすめた。
準決勝対国士舘を延長戦で勝ち、その勢いを駆ってのぞんだ決勝。相手は常勝チーム日大三。公立校が甲子園常連校に勝つ方法はひとつ。序盤の失点を最小限にとどめて、後半必ずやってくるワンチャンスを活かすという戦い方だ。もしそうした試合運びができれば日野高は日大三に勝って西東京代表になるのは当然として、甲子園での勝利という夢にも近づくことができるだろうと思っていた。
特に読みたい本がないときは昔読んだ本を読みかえしてみたり、好きな作家のエッセーをめくることが多い。村上春樹の『全作品』を図書館で借りてきたのは、そこに収められている「中国行きのスロウ・ボート」が初期の短編集からかなり書きかえられていると知ったからだ。枕元に二冊をひろげて、一頁ごと比較対照しながら読んでみた。どうしてここは割愛したのか、描写を変えたのかなどなど考えながら読むとけっこう楽しいものだ。
それにしても日大三は強かった。日野高にめざす野球をさせなかった。

2013年10月1日火曜日

クリス・アンダーソン『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』

さて。
前回のつづきを書こうかどうしようかと思っているうちに3ヶ月近くたってしまった。
実はこの間いろんなことがあって、あまり本を読むこともなかった。まったく何も読まなかったわけではないんだけど、活字がするすると身体の中に入っていかない。蕎麦がのどにつかえるような、そんな日々が多かった。
週に2冊の本を読んで、週2回ブログに上げることを課題にしていた時期もあった。800字程度を目標に。インプットとアウトプットのバランスをとることは健康的でもあった。
最近はどうかというとあまり過度に自分を律することはしないでし自然の流れにまかせようと思っている。読みたいときに読む、書きたいときに書く。これがいい。
もちろん仕事もこんな感じかというとそうでもなく、頼まれたCMの企画やPR映像の構成などはそれなりにこなしてきたし、かたちになったものもある。やらされればやるのだ。
クリス・アンダーソンのこの本は昨年の秋に読んだ。
アトムの世界の革命をビットが支えていてる。ビットが構築した仮想現実より、アトムがかたちづくる現実世界のほうにものづくりのよろこびはあるというわけだ。レーザーカッター、3Dスキャナ、3Dプリンタなど、道具の進歩とマスカスタマイゼーション化されたモノを所有する満足感がこれからを支える。読んでいてわくわくしてくる。
特にこの3ヶ月読みたい本もなかったので積み上げられていた本の山の中から引き抜いてぱらぱらとページをめくってみた。
以前のように頻繁に更新することもないだろうが、とりあえずこのブログもここからリスタート。これまで読みためてしまった本もあるし、この先細々ながら読んでいく本もあるし。近郊の町を散策するように続けていけたらと思っている。
それにしても今年の夏は暑かった。暑い暑いと言っているうちに秋が来た。この間、南房総に三度行った。お盆と父の納骨と彼岸の墓参り。
海は夏の匂いを残しつつ、ゆるやかに秋に変わっていく。

2013年6月16日日曜日

樋口裕一『「教える技術」の鍛え方』


養老乃瀧というと赤べたに筆書きっぽいスミ文字の書体のイメージがあるけれども、最近少ししゃれた書体の店舗も見かける。ちょっと角ばった新藝体に近いフォント。
労働者の居酒屋から若者たちの集まるおしゃれ居酒屋へと脱皮を図っているんだろうか。
クリエーティブの世界では若い力が古いものを次から次へと刷新している。古くさいから新しくしましょう、というエネルギーが今まで見たことのない、あるいはこれまでだったら考えられなかったようなデザインを生み出す。それはそれで素晴らしいことだ。
新しいデザインを見ていつも思うことだが、「新しい」には二種類ある。「古くさい」と対話した「新しい」と一方的に新しくされた「新しい」とが。僕は古くささとしっかりコミュニケーションできた新しさが好きだ。
樋口裕一という著者は小論文指導の世界では有名な方らしい。その著作も数多い。タイトルからの印象は「教える」ことに対する哲学的、理念的な話だった。「鍛え方」という文字面にそういったイメージを抱いた。ところが読んでみると徹底した実践の書だった。教えるものは「なめられ」ちゃいけないとか、ウケる話を用意しておけとか一歩間違えばギャグなんじゃないかと思われる内容がなんとも印象的だ。著者の教える人生の集大成の書といえる一方でとにかくおもしろい。
効果的な雑談を交えろという。《大変な目にあった人の話は誰もが興味を持つ。強盗に出遭ったことがある、死体を発見したことがある、UFOを見たことがある……といった体験談が望ましい》と書かれている。本人は読者を笑わせようとしているのかも知れないが、その一方で大真面目に語っているのかも知れないとも思う。《これならいつでもウケるという得意ネタを作っておくと、教える時に便利だ》と提言する。人に何かを教えることより、ネタづくりの方がよっぽどたいへんだ。
教育学や教育心理学、あるいはコミュニケーション論などの専門的なお話も結構だが、この著書のように実践から学んだ経験をダイレクトに受け止めるということも時には必要だ。教壇に立つものに限らず、人前で何かを伝える機会のある人たちはこの本から大いに学ぶべきだろう。そして大いに笑ってもらいたいものだ。

2013年6月7日金曜日

銀座百点編集部編『私の銀座』


東京六大学春季リーグ戦は明治と法政の一騎打ちだった。
船本、石田を中心に投手力で勝る法政は開幕から連勝で勝ち点を伸ばし、一方明治は東大戦以外は3戦、4戦ともつれる展開だったが、同じく勝ち点4で法政との決戦にのぞんだ。初戦を法政が取り、9連勝で優勝に王手。粘り強さの明治もここまでかと思われたが、翌日の第2戦を引き分ける。リードしながら追いつかれての引き分け、明治は流れをつかめない。ところが第3戦、中軸にタイムリーヒットが集中し、タイに。こうなると明治ペース。第4戦も接戦だったが、関谷、山崎の日大三リレーで法政を振りきった。
翌週の早慶戦はそれまで打てなかったのが嘘のように早稲田の打棒がさく裂。2連勝ですんなり4位が決まった。
早慶戦が終わったあとのお楽しみは新人戦だ。これは1、2年生によるチームでトーナメント戦を行う大会。昨年甲子園を沸かせた新入生たちのデビュー戦となることが多い。神宮球場に集まるファンもマニアックな野球好きである。この春も北海のエース玉熊(法政)や作新の石井(早稲田)らが先発出場した。
新人戦の楽しみはこうした1年後の高校球児に出会えることもあるが、野球本来の“音”に触れられることも忘れてはなるまい。リーグ戦と異なり、スタンドに応援団の姿はない。客席にいるのは出場する下級生の家族や上級生、アマチュア野球に心酔するファンが少々。だいたいそんなところだ。そのぶん、野球の音が球場じゅうに響きわたるのだ。
バットの芯でとらえられたボールの、長く余韻を引く音。ミットにおさまる直球の乾いた音。ベース前を削りとるスライディングの摩擦音。ベンチから飛びかう気合いのひと声。スタンドで耳を澄ましているだけで存分に野球に浸れるのだ。
銀座は大人の町だった。革靴を履かなくちゃ行けない町だった。
人それぞれに野球の楽しみ方があるように、人それぞれの銀座があるもんだ。

2013年5月20日月曜日

本田亮『僕が電通を辞める日に絶対伝えたかった79の仕事の話』


吉永小百合を見たことがある。
実物を間近で見たとき、俺はとんでもない仕事に就いてしまったものだと背筋の凍るような緊張感が走った。吉永小百合は輝きを放っていた。これがスターだと思った。
その撮影はC食品というクライアントの年にいちどのお中元のCMで、そのCMプランナーが本田亮だった。おそらくは30代前半からなかばにかけて、本田亮がかっこいいテレビCMを次々と世の中に生み出していたそんな時代だ。制作現場に出てひと月ふた月の下っ端があいさつ以外に本田亮とことばを交わすことなどできるわけがなく、ただただひたすらいつか本田さんみたいなCMをつくりたいという漠とした希望を抱いたことだけを憶えている。
数年後、僕はCM制作会社から広告会社に移籍していた。たまたま住んでいたのが西武新宿線の沿線で、高田馬場乗り換えで東西線、銀座線を乗り継いで銀座に通っていた。本田亮も同じ沿線に住んでいた。何度か電車のなかでノートだか手帳だかにメモをとる彼を見かけた。
ある日、遅めの午前に出社したときのこと。空いている各駅停車西武新宿行きに本田亮が乗っていた。もちろん何かメモをしている。きっとすごいアイデアが次から次へと浮かんでいるに違いない。僕はもうそのメモが見たくて見たくてたまらない。電車が空いているにもかかわらず、僕は本田亮の座っている席の前の吊革までたどり着き、それとなく自然に振る舞って(どっからどう見ても不自然だ)そうっとそのメモを覗き込んでみた。使っているのが2Hのシャープペンシルだったのか、字が薄くてよく見えない。「本田さん、昔はレイアウト用紙にラッションペンで絵コンテ描いてたじゃないですか、最近は2Hのシャープペンですか?」という僕の心の叫びはとうてい届くはずもなく、電車は高田馬場駅のホームにすべり込んでしまったのだった。
あのときのメモ書きはきっとこの本のなかに書かれているに違いない。

2013年5月19日日曜日

岡康道『アイデアの直前』


企画の仕事をしている。
企画といってもテレビコマーシャルのストーリーを考える仕事だ。僕たちの世界では映像の構成やナレーション、劇中の会話、バックに流れる音楽や画面上に乗っかるスーパーインポーズなどトータルで考え、絵コンテというカタチにする作業を企画と呼んでいる。ラジオであれば映像は考えなくていい。ただし映像がないぶんだけ気を遣うことも多い。「ごらんのように」なんていう言い回しが通用しない。「上腕二頭筋」みたいにいきなり耳に飛び込んできてもわかりにくい言葉は使いにくい。テレビとラジオとでは作業上似ているところも多いが、根本的に違う部分も多い。
企画をする上で役に立つのが、諸先輩をはじめとする他の人の仕事である。すぐれたクリエーティブの作品を視るのも役に立つ。講演会やセミナーで話を聞くことも有効だ。でもいちばんいいのはそのすぐれたクリエーターの日常をのぞき見することじゃないかと思う。
僕がまだ駆け出しだったころ、岡康道は憧れのCMプランナーだった。
営業としてキャリアをスタートし、その後クリエーティブへ転局。試行錯誤の末、ビッグキャンペーンを数多く手がけ、成功させた。ところが彼がいったいどんなコピーを書いたのか、どんな企画コンテを描いたのか。いわゆる広告クリエーターの手作業として彼が残してきたものはさほど多くないはずだ。それでいてその仕事の中心にたえずいた。岡康道なしでは成立しえなかったの仕事の真ん中に彼は立っていた。
この本を読むとわかるのだが、岡康道は天才でもなく、勤勉な努力家ということでもけっしてない。ごく普通の人間だ。当たり前に寝起きし、当たり前にスーツを着て会社に行く。もし彼に人より際立ってすぐれているところがあるとすれば、瞬時に物語をつくる想像力と人の能力や才能を見抜く眼力だろう。その力を力むことなく発揮するために岡康道はありふれた日常生活を楽しんでいる。
普通のなかに偉大さがあるのだ。

2013年5月16日木曜日

横山秀雄『クライマーズ・ハイ』


ミラーレス一眼のことをあれやこれやと調べているうちに、シネレンズというムービーカメラ用のレンズにつき当たった。
ミラーレスのいいところはアダプターを介して、今まで持っていた古いレンズが使えるところだ。たとえば最近ほとんど使っていないニコンの24ミリや50ミリ、28~85ミリのズームレンズなどが使えるということだ。仕事場にはカールツァイスもある。ただし、センサーのサイズによってそのまんまの画角になるわけではなくて、APS-Cなら約1.5倍、マイクロフォーサーズなら約2倍。つまり24ミリは、本来ならワイドレンズであるが、APS-Cで36ミリ、マイクロフォーサーズで48ミリになる。オリンパスペンで28ミリの画角が欲しかったら14ミリというレンズが必要になる。35ミリの一眼レフで10ミリ台のワイドレンズはかえって高額で、かつレンズ自体も大きくなる。望遠系のレンズなら手持ちが使えるとしてワイド系はやはり純正のレンズを購入しなければいけない。だとすればつまらない。
と思っていた矢先にシネレンズがあらわれたのである。
35ミリのムービー用のレンズは仕事で何度もお目にかかっているが、ごつくて重い。ところが16ミリ用だとこれが小さくてなかなかおしゃれなのである。マウントはねじ込み式。35ミリだとPLマウントが主流だが、16ミリはCマウントという直径1インチのねじである。8ミリ用のDマウントだとさらに小さい。
佐々木俊尚の『「当事者」の時代』でとりあげられていた横山秀雄をはじめて読んでみた。新聞記者の話である。谷川岳の衝立岩を登る。事件は日航ジャンボ墜落事件である。
この人の本はよく売れているらしい。人気があるのもわかる気がした。
で、16ミリ用のシネレンズで相性がいいのがニコン1だという。センサーのサイズが16ミリフィルムに近いからだそうだ。8ミリ用のDマウントレンズは同様の理由でペンタックスQ10らしい。
ニコン1とシネレンズで映画のような写真を撮ろう。とりあえずそんな高い志を持つに至ったのである。

2013年5月15日水曜日

川本三郎『いまむかし東京町歩き』


一昨年だったか、毎日新聞夕刊土曜日に連載されていた「いまむかし東京町歩き」が単行本になった。
ひととおり読んではいるものの、本になったらなったでもういちど読んでみたいと思う。この手の本に関してはそうとういやしい読書家なのかもしれない。もちろん夕刊連載程度の分量が一単位になっているので読みやすい。むしろ単行本用に尾ひれをつけてもらいたいくらいだ。読み終わってみると物足りなく思ったりもする。
昔の東京を歩くというとだいたいが隅田川あたりから東側だったり、あるいはおおよそ今の山手線内にあたる東京十五区だったりするのだが、川本三郎は特にわけへだてなく、東京を歩く。あるいは下町エリアは歩き飽きたのかもしれない。大森の森ヶ崎や江戸川の妙見島あたりを歩くなんて相当マニアックな歩き人ではなかろうか(東京近郊を歩いた『我もまた渚を枕』もおもしろかった!)。
それから毎度驚かされるのは町歩きデータベースと映画データベース、書籍データベースのリンクである。たしかに昔日の東京をふりかえるのに映画も小説も貴重な資料だ。たとえば銀座は四方を川や掘割に囲まれた土地で橋はところどころにその跡をとどめているが、水路はまったくなくなっている。三十軒堀川や築地川などの風景を知る手だては今となっては映画だけかもしれない。川ばかりではない。古い建物もしかりである。板橋のガスタンクも千住のお化け煙突ももはや映画の一背景になってしまった。今こうしているあいだにも昔の町並みは刻々と消え去ろうとしている。
失われていくものはやはり残念なものである。それでいて映画や小説などでその姿が残されることは喜ばしいことでもある。ましてそれらが名作と呼ばれ、後世に受け継がれていくものであればなおさらだ。失われるものが一方的に惜しいものだとも思えなくなってくるから不思議だ。
先日、小津安二郎監督の「東京暮色」を観た。周囲の景色はずいぶん変わったけれども、雑司が谷のあの坂道は健在だった。

2013年5月14日火曜日

村上春樹『若い読者のための短編案内』


野球を観る。南房総に行って、父の実家の掃除をする。
今年のゴールデンウィークの目標はこのふたつだった。
野球は東京都春季大会の準決勝、帝京対日大鶴ヶ丘、二松学舎対日大三を観戦した。帝京対日鶴は土壇場で帝京が追いつき延長戦。最後は豪快なホームランで帝京が競り勝った。日大三は猛打で圧倒。コールド勝ちをおさめ、この両校が来週開幕する関東大会の切符を手にした。うまいこと勝ち進めば、準決勝で帝京対桐光学園なんてカードが実現するかもしれない。
決勝は観に行かなかったが、やはり延長となって帝京が接戦を制した。夏の東東京大会は帝京が第1シード、二松学舎が第2シード。以下関東一、安田学園など16強のチーム7校がシードがされる。西は日大三が第1、日鶴が第2、以下東海大菅生、創価、早実など9校。
村上春樹というとあまり日本の小説について言及するイメージはないのだが(本人も冒頭そう述べているとおり)、いわゆる「第三の新人」を中心に佳作をチョイスしている。太宰治や三島由紀夫は「サイズの合わない靴に足を突っ込んでいるような」気持ちになるんだそうだ。おもしろい。
40代になって日本文学を系統的に読むようになったと言う。その契機は外国で暮らすようになったこととも言っている。だからおそらく本書で指南している短編小説の読み方は大人の読み方なのだろうと思う。
さて連休後半は南房総安房白浜を訪れた。
東京駅から高速バスで行く予定が朝中央線の事故で乗りそびれ、計4回、各駅停車と路線バスを乗り継いでようやくたどり着いた。思いがけない列車の旅となった。ひと駅ごとに風の匂いが南房総に近づいていくのを感じることができた(いつもお盆時期に行くのだが、気候のいい時期に行って簡単に掃除をしておけば、少しは楽できるんじゃないかと思ったのだ)。
帰り途、林芙美子が訪ねた時計屋をさがしてみた。見つからなかった。こんど夏に来たときは久しぶりに野島崎の灯台に行ってみたいと思った。

2013年4月30日火曜日

博報堂ブランドデザイン『ビジネスは「非言語」で動く』


バレー部のK先輩から電話があった。去年のことだけど。
娘さんが貯まったカードのポイントを使ってカメラを交換したいという。その選択肢にソニー製とパナソニック製があって、どっちがいいかという話。近々子どもが生まれるということで動画も撮れて、それなりによく写るカメラが欲しかったのだろう。まさにそんな相談の孫請けをしたわけだ。
先日も書いたように頭の中はオリンパスペンになっていたのでNEXに関してもLUMIXに関しても知識がない。さっそく調べてみた。ここでようやくデジカメにはセンサーの大きさによって、35ミリフルサイズ、APS-C、マイクロフォーサーズとざっくり分けられることを知る。オリンパスペンやLUMIXはマイクロフォーサーズでNEXはミラーのついた一眼レフにも使われているAPS-Cだ。くわしい違いはわからない。マイクロフォーサーズはレンズが小さくて、APS-Cだとちょっとレンズが大きい。それとソニーのEマウントってなかなかいいレンズだということはわかった。
そんなわけで先輩にはNEXをすすめたわけだが、その後どうなったかは知らない。
コミュニケーションでだいじなのは雰囲気であるという人がいる。話していることの内容そのものが伝わるのは1割以下で、3割が声が大きさ、残りは話し手の雰囲気だと教えてくれた上司が昔いた。
佐々木俊尚はハイコンテキスト、ローコンテキストという分類をして、コンテキスト、つまりコミュニケーションの背景みたいなものの関与の仕方でコミュニケーションの方法は異なる、みたいなことを言っていた(もともとはアメリカの文化人類学者エドワード・ホールという人らしい)。日本人のコミュニケーションはまさしくハイコンテキストで伝える努力やスキルに乏しくても相手に通じてしまう。まあそんな非言語コミュニケーションがビジネスではだいじだよ、という本だ。
マイクロフォーサーズより、さらに小さなセンサーを使ったデジカメがあることをその後知った。ニコン1とペンタックスQであるが、その話はまた後日ということで。

2013年4月25日木曜日

村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』


デジタルカメラはこれまで2台買っていた。
最初は仕事でテキサスに行くのに簡単に撮れるデジタルカメラが欲しいと思って、キヤノンのパワーショットS10という今にしてみるとかなりごっついカメラを買った。2000年頃の話。ズームは35ミリ換算で35-70と比較的穏便な仕様。ワイド端が物足りないといえば物足りない。ニコンの一眼に24ミリを付けていた頃と比べるとあまりに物足りなかった。ちなみに24ミリだとたとえば東京ディズニーランドでミッキー、ミニーに子どもたちが群がって記念写真を撮るときに他の親たちよりももう一歩前に出られるのだ。子どもたちが小さい頃、僕の後頭部はずいぶん多くのカメラにおさまったにちがいない。
2台めのデジカメはやはりキヤノンのIXY DIGITAL 900ISだった。ワイド端28ミリのデジカメは当時それほど多くなかったので、案外迷うこともなく決めた。これは今でも現役で町歩きの友である。
デジカメは消耗品だ。フィルムで撮るときのような緊張感もない。そんな気楽に使えるデジカメを、特にこだわることもなくしばらく使いつづけていた。ところが昨年、尊敬するクリエーティブディレクターKさんの持っていたオリンパスのミラーレス一眼を見て、俄然欲しくなってしまった。そのカメラはオリンパスのペンミニだった。何が気に入ったかというとアクセサリーシューに付いていたファインダーだ。モータードライブやレンズフードなど、実を言うと機械に付けるアクセサリーに僕はめっぽう弱いのだ。ペンミニが欲しいということは、あのファインダーを付けたいということなのだ。
先に記したことだが、「蛍」をもういちど読んでみようと思った。『ノルウェイの森』は「蛍」の延長上にある作品だが、その原点にある短編をもういちど。で、結局一冊まるまる再読してしまったというわけだ。
ただでさえ、儚くみずみずしい長編の原型は旧ザクのように多少の荒っぽさを残しながら、それはそれで味わい深い。
ペンミニ+ファインダーは魅力だが、Kさんとまったく同じカメラを持つっていうのもちょっと癪に障る。どうしようかと頭の中をミラーレス一眼のかけめぐる日々がはじまった。

2013年4月21日日曜日

村上春樹『ノルウェイの森』


家にキヤノンデミというハーフサイズのカメラがあった。
ハーフサイズなんてのももう死語かもしれない。35ミリのフィルム1コマぶんを半分にして撮影するエコノミーな規格のカメラだ。36枚撮りのフィルムで72枚撮影できる。もちろん紙焼きの量も値段も倍になる。
子どもの頃はそのカメラを手に大井町の東海道本線に架かる歩道橋の上や品鶴線という貨物線の沿道で列車を撮っていた。それも小学生までの話。中学、高校あたりになるとそろそろ一眼レフが普及しはじめてきた。簡単なカメラでは恰好がつかなくなってきた。カメラを手にすることはなくなった。
20代の半ばを過ぎて、テレビコマーシャルの制作会社に入って、ふたたびカメラを手にすることになる。もちろん、カメラマンとしてではない。CMもその当時は35ミリ、ないしは16ミリのフィルムをまわしていた。露出であるとか、画角であるとか、カメラの知識が皆無では太刀打ちできないのだ。そんなわけでニコンのFM2という一眼レフを購入した。レンズは会社に何本かあったので、とりあえず50ミリを買った。当然中古である。
以来、基礎教養としてのカメラいじりが、85ミリ、35ミリ、135ミリ、28ミリ、24ミリ…、とレンズを買い足すごとにたちの悪いに趣味になっていく。それも子どもが小さいうちまで。そもそもレンズを何本も持って移動することがつらくなってきたのだ。仕事でカメラを持っていってもフィルムは入れない。画角を見るだけ。
『ノルウェイの森』はもう何度読みかえしたことだろう。
たしかに村上春樹の本流の小説ではないけれど、今でも多くの読者を惹きつけてはなさない不思議な魅力を持った長編だ。今回は『蛍・納屋を焼く・その他の短編』でそのプロトタイプとして書かれた「蛍」と読みくらべてみようと思い立って、またページを開いてみた。
子どもたちが大きくなってからはもっぱらコンデジ(コンパクトデジタルカメラ)でカバンのポケットにいつも入れていた。旅行にでも行かない限り、写真はさほど撮らなくなった。
カメラの話はまた後日ということで。

2013年4月7日日曜日

大竹昭子『日和下駄とスニーカー』


一昨年、毎日新聞日曜版に連載されていた「日和下駄とスニーカー」が単行本になって出版されていた。
永井荷風の東京散歩をベースに同じような構成で東京を歩きなおしてみることで『日和下駄』を読みなおすといった試みでたいへんおもしろかった。いくつかすでに歩いた散歩道もあり、まったく知らなかった道もあった。部分的に歩いたことのある町もあった。
圧巻だったのは、上野から山の手、下町を分ける上野台地の崖沿いを歩くルートだろう。谷中から日暮里、田端、上中里を経て王子に至る道筋である。谷中、根津、千駄木を歩いて散歩した気分になっているのはもったいない。ぜひとも急峻な山の手のエッジから右手に下町を臨みながら北上する旅にトライしてもらいたいと思うのだ。とりわけ上中里から飛鳥山公園にかけて京浜東北線沿いに進む道のり(今はあすかの小径と呼ばれ、北区の観光名所になっているらしい)のひっそりとした空気は散策気分を高揚させる。余計なことではあるが、夕刻王子までたどり着いたら、山田屋で軽くビールを飲むこともすすめたい。
四谷荒木町から住吉町を経て、市谷台町、富久町、余丁町あたりも静かな東京が置きざりにされている。市谷台町にはかつて市ヶ谷監獄があったという。今では大久保方面への通りが拡張され、都市的な景観を醸し出してはいるが、一歩脇道にそれると不思議な空間がひろがっている。余丁町まで行ったら、西向天神も遠くはない。ビル群に隠れてこま切れにされた夕日を楽しむのもまた現代的な風情だ。
夕日といえば、目黒に夕日の岡と呼ばれる江戸時代からの名所があったという。たしかにこの辺りは台地が目黒川によって削られ、山あり谷ありの複雑な散歩道をなしている。田道から中目黒へ尾根道を進むのもいい。高い建物が増えたせいで夕日を楽しむチャンスは少なくなったが、逆に東方向、目黒川の向うの都心を小高い坂上から眺めると赤々とした西日に照らされた建物が見える。
このほかにも伝通院や切支丹坂など茗荷谷あたりや四谷鮫河橋など、著者にそそのかされて、東京をずいぶん楽しませてもらった。

秋尾沙戸子『ワシントンハイツ-GHQが東京に刻んだ戦後-』


かなり以前のことだが、プロデューサーのK君が根岸の米軍住宅で車のCM撮影をした。
その敷地内では車は右側通行、法律もなにもかもアメリカ仕様になるらしいことをそのとき聞いた。要するにアメリカでロケ撮影したようなコマーシャルを日本でつくったというわけだ。
そんな施設が東京にもあった。
歴史というものにそれほど首を突っこまなければ意識しないような場所がいくつもある。
日比谷の帝国ホテル前を歩きながら、ここは占領軍の将校クラスの宿舎だったんだと言われても、先の大戦や終戦後の日本にさほど関心がなければ、へえ、そうだったの、で済んでしまう話だ。代々木公園で遊んでいて、ここは東京オリンピックのときの選手村だったんだと言われるとかすかにその当時記憶のある世代には多少興味関心が生まれるが、それ以前はワシントンハイツと言ってね…、みたいな話になるとやはり、へえ、そうだったの、で終わってしまう。
東京の渋谷・代々木一帯に広大なアメリカがあった。
そのことを強く知ったのは山本一力の自伝的名作『ワシントンハイツの旋風』だ。たしかにそれを読んだとき、「代々木公園はずっとずっと昔から、だだっ広い公園だと思っていた」と書いている。もちろんその後もワシントンハイツの存在は気にはなっていたが、なぜ代々木だったのか、そしてどのようにしてこの地は日本に返還されたのかまで知ろうとも思わずにいた。渋谷・代々木だけでなく、東京近郊のいたるところになんとかハイツという施設が存在していた。子どもたちが小さかった頃よく遊びに連れて行った練馬の光が丘公園はグラントハイツだった。
ワシントンハイツの返還が決まったのが61年11月。日本側が全額移転費用を負担するという条件だったという。オリンピック村の完成は64年8月で、『オリンピックの身代金』の島崎国男が労働者として働いて場所でもあった(というのは本の読みすぎか)。
表参道の書店でこの本を見つけた。ページをめくってみると、その本屋からストーリーははじまっていた。

2013年4月5日金曜日

保坂正康、東郷和彦『日本の領土問題』


選抜高校野球の楽しみは成長を感じることではないかと思う。
昨夏、上級生が引退したあとの新チームによる地区大会が各地で行われ、その勝者10校が神宮球場での全国大会に出場する。明治神宮野球大会である。
昨秋は仙台育英が猛打で圧倒した。準優勝の関西も、4強の春江工、北照も春が楽しみなチームだった。もちろん各地区優勝チーム以外も選抜大会には多くの有力校が選ばれる。秋に強かった学校がどれほど強くなって甲子園にやって来るのか、苦杯を喫したチームがどれくらい力をつけて来るのか。こういう視点で選抜大会を観ているのだ。
仙台育英の秋は強かった。桁違いの打力だった。そのまますんなり春も勝つだろうと思われた。秋の地区大会を勝ったチームのうち関西、春江工、京都翔英など5校が初戦で消えた。これも彼らがしかるべき努力を怠ったからではけっしてなく、昨秋敗れたチームが彼らを上回る鍛錬を積んだ結果だと思いたい。
選抜決勝は明治神宮大会組の浦和学院と秋季四国大会4強の済美。浦学の格上感は否めないものの、思わぬ大差がついてしまった。それでも済美の2年生エースはいい。ベスト4に2校を送りこんだ四国勢のレベルを上げているのは打倒安樂への意気込みかも知れない。
領土問題についてはあまり関心がなかった。これからの時代、領土であるとか主権であるとか少しは学んでおくべきだろう。以前一冊読んでいたが、さらに現代的な視点を加味したこの本を手にとった。
共著者の東郷和彦はとりわけ北方領土問題解決に向け、幾多の施策を試みてきた人と聞く。志なかばで外務省を退官されたのは残念なことだが、それ以降も内外の大学で教鞭をとるなど、この問題について引き続き、活躍されている。
東京では1日から春季大会がはじまった。夏は遠くない。

2013年3月25日月曜日

博報堂ブランドデザイン『ビジネス寓話50選』


仕事って何だろう。
どうでもいいようなことを最近考えさせられた。
今は広告のコンテンツをつくっている。広告会社から依頼され、広告主の利益になるような映像をつくる仕事だ。担当した商品が売れることが結果としていい仕事だったりする。その先のことまでなかなか想像力がはたらかない。その商品を買った人、使った人がどんなにしあわせになっただとか、そういったことをリアルには想像しない。あくまでコンテンツのなかのストーリーづくりのために想像するだけである。映像をつくる。そのためのしあわせ。ほんとうのしあわせではないしあわせを絵に描いているだけ。広告主の利益のためのしあわせ。
先日、バレー部のK先輩宅へ出向いて、無線LANの設定をしてきた。昨年末お孫さんが生まれた。娘さんはカナダ人と結婚し、モントリオールに住んでいる。暮れに先輩はカナダに行って、ご対面を果たしてきたそうだが、世の“じいじ”(本人はGranpaと言っている)というものは孫がかわいくて仕方のないものだ。僕の父もそうだった。とりわけ初孫はそうだ。
先輩はパソコン音痴というわけでもないのだが、基本めんどうなことが嫌いなので、やれエクセルでこんな表をつくりたいとか、自宅にメールで届いた写真を仕事場のパソコンで見るにはどうしたらいいのかとか、てっとり早く答えを聞きたく、しばしば電話をかけてくる。今回の無線LAN設定プロジェクトもそのひとつだ。
今はとにかく便利な世の中でメールで写真や動画が送られてくるのはもちろん、Skypeなどを使えばテレビ電話だってできてしまう。タブレット端末でもあれば、パソコンを起ち上げる手間もいらない。このプロジェクトのポイントはそこにあった(先輩が自分でWebカメラを買ってきてSkypeをつないだのには正直びっくりした)。先輩が奥さんに購入したiPadでSkypeをつなぐ。
作業的にはさほどの困難はなく、光回線終端装置と各部屋に振り分けるHubの間にブロードバンドルーターを設置して、先輩の居住スペースに無線LANのアクセスポイントを置く。ものの一時間ほどで無事開通。そのときの先輩と奥さんのうれしそうな顔ったらなかったなあ。そのうれしさがこっちにもひしひしと伝わってくる。海外で子育てする娘さんだって、よろこぶにちがいない。
こういう感動をもっとうまく人に伝えられたらなあと思うのだ。たとえば寓話にするとかしてね。
それにしても人をしあわせにするってたいせつなことだと、久しぶりに思った。

2013年3月24日日曜日

村上春樹『アフターダーク』


安田学園とは少なからぬ縁を感じている。
高校時代バレーボールの大会前に各支部ごとに(東京は4支部にわかれていて千代田区は第2支部だった)代表者会議なるものがあり、要は組合せの発表があって、公式戦に向けて簡単なルールの説明が行われるのだが、その会場校が両国にある安田学園だったのだ。
それから15年ほどして、CMプロデューサーのフジちゃんと知り合った。
とある夏の日の昼前、フジちゃんはひょっこり僕の仕事場に顔を出し、ちょっと近くまで来たんで寄ってみたという。てっきり昼でもいっしょにと誘いに来たのだとばかり思っていたら、これから息子の試合を観に神宮球場に行くんだという。そそくさと引き揚げてしまった。
フジちゃんのご子息テツは安田学園の野球部だった。その年はたしか東東京大会のベスト4まで進んだと思う。
その後しばらく安田学園は低迷する。ジャイアンツの阿部慎之助もこの頃の選手である。フジちゃんと飲みに行っても最近安田学園パッとしないよね、などと話していた。テツは肩だか肘だかを壊して、野球をあきらめ、その後めざしたプロゴルファーの道もあきらめてしまったが、今は茨城のゴルフ場で元気に働いているという。
昨秋、安田学園、悲願の都大会優勝というニュースが飛び込んでくる。秋季大会を勝つということは選抜出場決定ということだ。思わずフジちゃんに電話した。来年の春は絶対甲子園に行こう、と。
仕事にかまけていたら、いつしか選抜ははじまっていて、二日目第四試合が安田学園対盛岡大付だった。
村上春樹の小説は全部読んでいるつもりだったが、この本だけはどうしたわけか読み逃していた。昨年、『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』を読んでそのことが発覚したのだ。
はじめての甲子園で安田学園は好ゲームを見せてくれた。9回土壇場で同点に追いついた。興奮した。残念な結果に終わったが、フジちゃんもテツもいい夢を見ただろうか。

2013年3月23日土曜日

皆川典久『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』


大井町から武蔵小金井の大学に通っていた。
京浜東北線で品川に出て、山手線で新宿。新宿から中央線に乗り換える。電車に乗っている時間がだいたい1時間。駅から大学までは20分ほど歩く。大井町までやはり15分強歩くから、通学時間は1時間半を越えた。
往きに新宿で中央線に乗るとまだまだ先は長いと思うのだが、帰りに新宿に着くともう帰ってきたような気分になった。高円寺を過ぎて、中野に近づくとさほど遠くないところに新宿の高層ビル街が見えてきた。今ほど数多くはなかった。三角形の住友ビル、シックな色合いの三井ビル、レンガ色のセンタービル、そして京王プラザホテル。
先日仕事で新宿らしい風景を撮影することになり、どこかいいポイントはないだろうかとさがし歩いた。高島屋の屋上庭園に行ってみたりしたが、高層ビルがきれいに見える場所があまりない。そこで思い出したのが中央線の車窓から見えた高層ビル群だった。
なんどか電車で往復してみると大久保〜東中野間、東中野〜中野間で西新宿方面に視界が開ける場所がある。東中野あたりは神田川が北上するあたりで土地が低くなるので、障害物を比較的避けやすい。おそらく結婚式場の日本閣あたりから撮影すればいいのだろうが、ちょいと写真を撮らせてくださいってわけにもいきにくい。どこかさらに見晴らしのいいポイントはないだろうか東中野から山手通りを北上してみた。そうだ、中井だと思い出した。
西武新宿線の中井駅の北側は高台になっている。一の坂、二の坂と坂に数字が振られている。坂の上には目白大学があって、以前訪ねたとき教室から見える山の手の景色がすばらしかったことも思い出した。
ちょうど山手通りが西武線を越えたところが崖のようになっていた。一の坂を上がっていくと南側に開けたいい撮影ポイントがあった。そもそもこの崖は西武線と平行して流れる落合川が削った谷だ。手前に目立つ障害物が少なく、中望遠レンズでいい感じにビル群が切りとれた。
東京の凸凹は実に楽しい。

2013年2月28日木曜日

大道珠貴『東京居酒屋探訪』

若い人たちのことをとやかく言いたくはない。
自分自身がやはり、「近頃の若いもんは」と言われてきたし、そう言われてあまりいい思いをした経験がないからだ。
昨年の春に大学を卒業したA(この場合、Aはイニシャルではなく、ABCのAだ)は、映画が好きだとかとあるテレビコマーシャルを見て感動したとか、ありがちな動機を持って入社してきた。自分の思い描いている仕事のイメージと現実にギャップがあったのかどうかはわからないが、入社直後から「覚え」が悪い。資料をつくるためのアプリケーションの使い方を覚えない。外線電話と内線電話の切替えも覚えない。お使いを頼むといちいち道を訊く。あっという間に同期入社のなかで落ちこぼれていく。掃除とお使い、そしておそらくはそんな有名大学を出ていなくてもできるような資料さがし以外、誰も仕事らしい仕事を頼まなくなった。土日に撮影があって人手が足りないときに応援を頼むとなんだかんだ言い訳をつけて拒否する。
そうこうするうちに、本来なりたいのは作家で同人誌に作品を書こうとしているので長期休暇が欲しいという。年明けはほぼ無断状態で半ばまで休んでいた。
ついこのあいだ、2月の連休から連休明けにかけて、けっこう規模の大きい撮影とその準備があって、人手の足りない状況でもあったので手伝わせることにしていた。そうしたら祖母が病気で危ない状態なので連休は実家に帰りたいという。仕方がないので、そういうことなら様子を見に行ってこい、ただ連休明けは撮影を手伝うようにと言うと、「実は連休明けの2、3日がヤマなんです」と言う。
人のことをとやかくいえないが、この著者はずいぶん偏屈な人だなあと所々で思った。けれども楽しい居酒屋ガイドである。王子の山田屋なんかシズル感たっぷりで思わず訪ねて行ってしまったくらいだ。
さて、連休前にAは社内の全員にメールを出した。「本日をもちまして退社いたします」と。彼が使っていたデスクにはノートPCが置きっぱなし、資料やメモ書き、筆記用具もしばらくそのままだった。


2013年2月23日土曜日

岸本佐知子『ねにもつタイプ』


3年前のことだ。
読みたい本があって、区の図書館のホームページから予約した。他の区の蔵書だったので、届いたという知らせを受けて借りに行ったのだ(たぶん司修の『赤羽モンマルトル』だったと思う)。
貸出カードを出すと期限切れだという。延長するには免許証なり身分を証明する書類が必要だという。そのときは手ぶらで貸出カードだけ持って家を出ていたので、泣く泣く20分弱ほどの道のりを引きかえし、また20分弱の道のりを歩いて、ようやく借りたのだった。歩きながら、期限の切れたカードで本の予約ができるというのはシステムとしておかしいのではないかと思った。貸出しできない人も予約ができるのであれば、図書館じゅうの本が貸出しできない人に予約されて、貸出しできるできる人が借りられなくなるではないかと。嫌なおじさんだと思われるのを覚悟の上でカウンターでその旨を伝えた。職員はそうですね、検討いたしますとか言っていたが、その後どうなったか。
先週、どうしても読んでおきたい林芙美子の随筆が一編あって、全集第16巻を借りに同じ図書館に出向いた。貸出カードがまたもや期限切れだった。当然免許証は持ち歩いていない。車には乗らないので免許証を持ち歩いているかどうかに関しては無頓着なのだ。
スマートフォンは持ってる。Dropboxというストレージサービスを利用していて、そのなかに免許証に画像を取り込んである。免許証はいま持っていないが、これでいいですかとカウンター越しに見せると職員はちらっと見ただけで、現物じゃないとだめなんですという。「いったい何をたしかめたいんだ?俺の免許証のにおいでも嗅ぎたいのか!」と声を大にして叫びたかった。
もちろんそんなことはせず、ああそうですかとおとなしく退散した。
僕はさほど、ねにもつタイプではない。
ちなみに仕事場のある千代田区では2年間のうち利用した実績があれば自動的に継続する。

2013年2月20日水曜日

岸本佐知子『なんらかの事情』


ずっと以前に、ニコルソン・ベイカーの『もしもし』という小説を読んだ。
全米で大ヒットした電話小説という触れこみだったと思う。男女による電話のやりとり、ということ以外、内容はすっかり忘れてしまった。その後、もう一冊同じ作者の小説を読んだ記憶があるが、題名も忘れてしまった。
読んだ本を忘れてしまうというのは、実にもったいない話ではあるのだが、ストーリーだとかどんな人物が登場していたかとか、内容を思い出せないのは仕方ないとして、この本を読んだとき自分はどこで何をしていたかが思い出せないのは少しさびしい。もちろん圧倒的にこの手の本のほうが多いんだけど。
不思議と学生時代に読んだ本でそういうことを憶えていることがたまにある。たとえばフォークナーの『八月の光』とカポーティの『冷血』は夏休みに読んだ。連日暑いにもかかわらず、よく読んだもんだと憶えている。ただそのおかげで内容がしばらくごっちゃになってしまった記憶もある。内容はいまではすっかり記憶のひだの奥の方に入り込んでしまって、引っかき出そうにも出てこない。
で、何の話かというと、ニコルソン・ベイカーだ。じゃなくて『なんらかの事情』だ。
ツイッターでずいぶん岸本佐知子のこの本が話題になっていた。おもしろかったとか、電車の中では読めないとか、そんなつぶやきが多かった。というか、筑摩書房のSNS担当者が頻繁にリツイートしていただけなのだが、そんなのばかり読んでいるとほんとうにおもしろいのではないかと思えてくる。書店に行って、思わず手にとらずにはいられなくなる。そして立ち読みしようとページをめくる。が、待てよと思う。電車の中で吹きだしてしまう人がいるような本をうかつに立ち読みするわけにはいかない。
買って帰って、寝る前に読んだ。一気に読んだ。
おもしろかった。読み終わって、なんらかの事情で思い出した。
この人、ニコルソン・ベイカーの翻訳した人じゃん、と。

2013年2月13日水曜日

森鴎外『山椒大夫・高瀬舟』

NEXUS7というタブレット端末を手に入れた。
スマートフォンでたいてい事足りるのだけれど、電話中に予定を問い合わされたときいちいちスケジュールを見るのが面倒なのと、打合せ中、資料画像や映像を人に見せるのに小さな画面を何人かで見入る風景がどうも間抜けに思えたからだ。プレゼンテーションで映像資料を見せるとき、ノートPCの画面を先方に向ける動作もどことなくかっこ悪いと思っていた。
だが、実際にNEXUS7を手にすると、そんなスケジュールの閲覧だの、プレゼンテーションだのといったかっこいい使い方をする機会はさほどなくて添付ファイルで送られてきたPDFの資料をながめるとか、結局はフェイスブックやツイッターを見る程度の使い方しかできていない。
最近になってようやく電子書籍をダウンロードして読めるようになった。不思議なことだが、同じ文字情報を追いかけているにもかかわらず、紙に印刷された文字は比較的スムースに頭に入っていくのにディスプレイに映しだされた文字はなぜだかありがたくないと思ってきた。それなりの文章を綴って文字校正をする場合でも、画面上では気づかなかったことが赤ペンを持って紙に対峙するとたくさん間違いが見つかる。
時代はペーパーレスに向かっているなどともう十年以上も前からいわれていると思うのだけれど、身体がペーパーレスに馴染まない。ということでせっかくタブレット端末もあることだし、ディスプレイ文字に慣らすことにした。
読み切れるかどうかもわからないので基本は短編で無料。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介など近代の名作が思いのほか揃っているのだ。林芙美子の短編なども充実している。図書館に行って、書庫から出してもらわなければならないような全集にしか収められていない短編も多い。
今回は新潮文庫に収録されている森鴎外の短編をキンドルから拾い読みしてみた。
半月ほど電子書籍を読み漁り、少しは身体が慣れてきた。でもやっぱり本は紙がいいな。

2013年1月26日土曜日

村上春樹『アンダーグラウンド』

地下鉄サリン事件のあった1995年3月20日、僕はどこで何をしていたのか。

3月20日(晴)
連休の谷間だったが、今朝地下鉄内にサリンが仕掛けられ、その猛毒で大勢の乗客が死傷するという事件があった。テロリストによる無差別殺人事件と見られている。
今日もKは会社に来なかった。Kが会社に来ない度にSさんから小言をいただく。弱ったものだ。

当時はこまめに日記をつけていた。
その前日は日曜日で近所にできるマンションのオープンルームを見、その後光が丘に買い物に行ったこと、マクドナルドでダブルチーズバーガーを食べたことが記されている。そんな大事件が翌朝起きるなんて思いもしないで。
文中に登場するKは僕の隣席に座っていたコピーライターで当時から演劇の世界では少し名の知れた男だった。当時は仕事が合わないのか、芝居の方が忙しかったのか、よく無断で欠勤していた。そのたびに顧問であるSさんから、おまえがしっかり管理しろと怒られたのだ。
その翌日は春分の日だった。僕は秋葉原まで修理に出していたマッキントッシュパワーブックを取りに行ったらしい(らしい、というのもまったく記憶がないのだから仕方ない)。その後、姪の誕生日が近いこともあり、本屋でジュニア朝日年鑑を買い、手紙を添えて姉に送ったり、家でシュウマイをつくったり、知合いのプロデューサーにもらったチケットで映画「マスク」を観たり、1995年3月の終わりは、よくある会社の年度末のように忙しく、あいまいな時間のなかであいまいに過ぎ去っていった。
地下鉄サリン事件がこれほどまでに大きな後遺症を残していったことなど知る由もなかった。

2013年1月15日火曜日

高村薫『マークスの山』


正月休みのあいだに、平山秀幸監督「レディ・ジョーカー」を観た。
原作は高村薫。市井の薬局店主、町工場の職人、トラック運転手から大企業の経営陣、警察、検察、マスコミと、社会のいくつものレイヤーが微妙にリンクしながら完全犯罪を織り込んでいく大作だ。この複雑、巨大なフィクションをどう映画化しているのか、尽きない興味を持って観てみたのだ。
脚本が上手い、と言うのもおこがましい話なんだけど、よくぞここまで集約して、しかも味のある物語にまとめ上げられたなというのが率直な感想だ。渡哲也が演じる物井清三がいい。合田雄一郎のキャスティングはこれでよかったのか、などと言ったらきりがないのでそれはやめておこう。
さて『マークスの山』であるが、こちらは「血と骨」の崔洋一監督が映画化している。事件が残虐なだけにさぞかし暴力的な描写になっているのではないかとまだ見ぬ段階で想像している。
一方で『レディ・ジョーカー』同様、緻密な取材の上で書き上げられたと思われるこの作品の舞台をたどってみるのも大きな楽しみのひとつだ。あいにく山登りの趣味はないので、北岳山頂を訪ねよう気力も体力もないが、京成町屋、足立小台、旧都立大周辺の八雲、王子、赤羽など歩いてみたい町がまた増えた。『レディ・ジョーカー』が主として品川区~大田区の京浜急行沿線を主な舞台にしていたのに対し、『マークスの山』は都内を縦横に走りまわる印象だ。小説の舞台を歩いてみるのは読んでいるときの興奮が呼びさまされるのがなんとも楽しい。
『マークスの山』を越え、次なるターゲットは『照柿』だ。どうやら拝島あたりから物語がはじまるらしい。さらに『太陽を曳く馬』を経て、はやいところ『冷血』にたどり着きたいと思っている。

2013年1月11日金曜日

稲田修一『ビッグデータがビジネスを変える』


昔、本を読み終わると見返しあたりに日付を書いていた。ところが読み終えてから再読するなどしない限り、そんなものは忘れてしまう。ということで何年何月に読み終えたかくらいは別途ノートに記しておこうと思った(たぶん)。そのノートが先日見つかった。
最初の記録は《1978-7 勝田守一編 『現代教育学入門』》とある。大学入学以降、そんなことをはじめたことがわかる。というか、中学から高校にかけてはほとんど本を読まなかった。小学校の頃は人並みに伝記や怪盗アルセーヌ・ルパン、宝島、十五少年漂流記くらいは読んでいたが、それ以降大学生になるまでおそらくは夏休みの課題図書以外に本を読んだ記憶がない(課題図書ですら読んだかどうか)。そういった点からすると大学入学以降取りはじめた記録はほぼ生涯の読書記録の原点であるともいえる。と同時に、これだけ読書と無縁の人間をすんなり受け容れた当時の高等教育機関もたいした度胸だったと言わざるをえない。
ノートのままスキャンして保存しておこうかとも思ったんだけど、誤記もあるかもしれないのでキーボードを叩いてテキストデータにすることにした。記録してあるのは年月と著者名、題名だけだ。あやふな書き方をしているものもおそらくあるだろうし、今ならグーグルなどで検索すれば正確なことが簡単にわかる。
はじまりは1978年7月だが(大学に入って1冊も本を読まずに3カ月、僕は何をしていたんだろう)、最後は《1986-11 カート・ヴォネガットJr 『ガラパゴスの箱舟』》となっている。新宿御苑にほど近いテレビコマーシャル制作会社にもぐり込んだのが1986年だから、一応働き出してからもそれなりに記録を残していたのだ(たしかにその年から読書量が激減している)。
書き写していておもしろいと思うのは当時目茶苦茶に読んでいたつもりなのに、流れで見てみるとそれなりに自分の中でブームがあったんだということがわかることだ。大江健三郎ばかり読んでいたころがあったり、ルソーとロマン・ロランだけ読んでいた2ヵ月があったり。きっと小学生のころからずっと記録していたらちょっとした自分精神史になったかもしれない。これは一個人のスモールデータに過ぎないのだが、僕自身にとってはビッグデータといえるのではないだろうか。
この本でいうところのビッグデータとはちょっと違うんだけど。
読書記録はその後1992年に読書感想文を書こうと思い立って復活した(もちろんすべてではなく、書けたものだけ記録に残っている)。以後ブログや最近ではソーシャルメディアに記録を残している。最近の読書記録は振り返ってみてもおもしろくない。ソーシャルという枠組みがおもしろくないのか、読んでいる本がおもしろくないのか、はたまたまだまだ熟成が足りないのか。 

2013年1月7日月曜日

鈴木琢磨『今夜も赤ちょうちん』


Yさんとはじめて会ったのは、たしか1986年の3月だったと思う。
その昔、といっても母の生まれた昭和の初期の頃だからずいぶん昔の話だが、母の叔母が四谷荒木町の油問屋に女中奉公をしていた。その油屋の娘が長唄をやっており、そんな関係もあってその後、僕の姉も小学生のころから習いに行くようになる。長唄の師匠を僕らはみんな“おっしょさん”と呼んでいた。当時、稽古に通っていたの大半は大学生で姉が長唄研究会で有名な江古田の大学に進んだのもわからないでもない話だ。
話は長くなるのだが、この話をどこでどう端折っていいかもわからない。おっしょさんの妹もやはり長唄の稽古をいっしょにしていて、やはり大学生だった。学生結婚して相手は大阪出身の映画青年だった。卒業後映画監督を志して東映に入社し、映画からテレビへ時代が移り変わるころ、東映のCM制作会社に移籍し、しばらくして独立。会社を起こした。その元映画青年がYさんだ。
「君は何をやりたいんだ」と多少関西風のイントネーションで訊ねられた僕は咄嗟に
「ラジオCMの原稿を書いてみたいんです」と答えた。
Yさんはおもむろに受話器を取り上げ、どこかへ電話をかけた。
「ああ、Yだけど。今、ラジオCM書きたいという青年がひとり俺んとこ訪ねてきてるんだけどさ…。うんうん。そっか。じゃあ、また」
学生時代の友人か同業の知人にでも電話をしたのだろう。ものの一分ほどで会話は終わり、Yさんは僕に向かって口を開いた。
「ラジオやってる知り合いに聞いてみたんだが、間に合ってるんだそうだ。なんなら明日からうちでバイトしてみるか」
こうして僕のキャリアが新宿御苑にほど近いマンションの一室からはじまった。
そして赤ちょうちんな生活もおそらく、この頃からはじまった。

2013年1月5日土曜日

岩下明裕『北方領土問題』


荒川区の町屋を歩いてみた。
高村薫の『マークスの山』に町屋が登場する。水沢裕之が働いていた豆腐屋が町屋なのだ。
町屋には以前来たことがある。厳密に言えば、東尾久という町に、である。
Kは高校時代バレーボール部でいっしょだった。無口で武骨な男だった。特に何か気が合うとか、共通する趣味、嗜好があるとかいうわけではないが、部活動以外でも行動をともにすることが多かった。高校からほど近い神田の中学校を出たKは駿河台下や神保町あたりの飲食店をよく知っていて、練習の帰りに時間をつぶしたものだった。
高校卒業後、Kは北海道の大学に進み、会える機会も少なくなったが、それでも夏休み、冬休みに帰ってくるとさほど積もる話もなかったにもかかわらず、よく酒を飲んだ。ある夏の日、飯田橋から、御茶ノ水、上野と飲み歩き、最終電車もなくなった。タクシーに乗ったのか、歩いたのか当時でさえ記憶があやふやだったのに、今思い出すことなどできるわけがないのだが、その夜は町屋のKの家にたどり着いた。そこでさらに飲んだのかももちろん憶えていない。
朝、都電の走行音で目をさました。Kの母親のつくった朝食をごちそうになり、都電の専用軌道に沿って町屋駅まで歩いた。太陽はすでに高く、真夏の日差しが荒川の町を焼いていた。
仕事の関係で不勉強なジャンルである領土問題の本を読んでみた。
領土問題というと根源からして混沌とした話で、つい精神論的なナショナリズムの高揚次第ということと思われがちだが、この本はその点、やけに冷静で、たとえばロシアと中国の国境画定の経緯などを範として(もちろんそれが日本とロシアの国境問題に直結するとは限らないのだけれど)わかりやすく説いている。勉強になる。
というわけで、2013年もブログ続けます。
今年もよろしくお願い申し上げます。