2005年2月19日土曜日

カート・ヴォネガット・ジュニア『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』

カート・ヴォネガット・ジュニアは好きな作家のひとりであり、SFをほとんど読まないぼくにとって極めて特異な存在といえる。
ヴォネガットの本はたいてい早川書房から刊行されていて、そのすべての装丁が和田誠さんによるものだ。和田さんのイラストやレタリングがぼくは好きで、そうでなかったらぼくはヴォネガットを読むことはなかったんじゃないかとも思う。
ヴォネガットの作品でとりわけ好きなのは、『ガラパゴスの箱舟』と『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』の2冊。
一昨日読み終えたのは『ローズウォーターさん…』で7年ぶりに読み返したことになる。
エリオット・ローズウォーターの慈愛深く、あまりに人間臭い、奇怪な行動と思考が何といってもおもしろい。筒井康隆の『富豪刑事』を読んだとき、この『ローズウォーターさん…』の影響を受けてるような気がした。大金持ちと普通の庶民とを痛快に対比させながら、しかも心あたたかくする傑作SFであるという思いをあらためて感じた。
(1993.10.10)

和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』

和田誠さんとはつくづく多芸多彩な人である。
『銀座界隈ドキドキの日々』は和田さんの若かりし頃、多摩美を出てライト・パブリシティに入社したところを皮切りにライトを辞め、フリーになるまでの9年の日々が記されている。向秀男、細谷巌、田中一光など登場人物がいきなりすごい。篠山紀信、秋山晶が出てくるのがずっと後のほうなのである。
ぼくは10年来、ライトの広告のファンでもあった。友人のKさんがデザイナーとして働いていた。和田さんの記す細谷さんのしゃべり方はKさんにも影響を及ぼしていたようで、ぼくはKさんに「ユウってトラッドが好きなんだね」などといわれたことがある。細谷さんは一度青山のバーで見かけたことがある。
和田さんはグラフィックデザインの世界にとどまらず、イラストレーションやアニメーション、装丁さらには音楽の世界にまで活躍の場をひろげてゆく。彼は何でも自由にやりたいことができる時代だったというように回顧しているが、決して時代だけの問題ではなかったはずだ。
彼の仕事の基本は手づくりであることだと思う。フリーハンドであるいは定規を使って、丹念に仕事をする。それが結果として彼独自の味わいになっているような気がする。時代の最先端をゆく才能ある人たちに見い出され、さまざまなジャンルの仕事を20代の若さでこなしてきたのは(当時としては彼のようなマルチな才能の持ち主は珍しかっただろう)、彼のひく線の一本一本味わいがあったからだと思える。
60年代の終わりに彼がライトをやめたのもデザインという仕事がハンドクラフトである以上にビジネスになってしまったからだと懐想している。システマティックな世界に才能が圧し潰されてしまうのを感じとり、彼は住みなれた銀座を離れたのだ。
この本の終わりの方に秋山さんがコピーを書いて和田さんがレイアウトしたキヤノンの新聞広告が載っている。キャッチフレーズは「明日、銀座から都電が姿を消す」である。これは秋山さんの作品集にも載っていてそのなかでもぼくがいちばん好きな広告である。和田さんがライトを辞めた、つまり銀座を後にしたのが1968年。この広告は1967年の暮れにつくられている。和田さんも書いているようにこれは今でも印象深い広告だ。
(1993.8.3)

2005年2月18日金曜日

清水義範『国語入試問題必勝法』

どうも1冊読んで気に入ると同じ作家の本を読み続ける傾向が僕にはあるようだ。大江健三郎も大宰も三島もベルグソンもスタインベックも比較的短期間にまとめて読んだ記憶がある。最近では筒井康隆とアーウィン・ショーがそんな作家だ。もちろんもう学生ではないからそんなに集中的に読めるわけではない。ずいぶん時間をかけている。

ここのところ気に入っている(というよりとりつかれているというべきかもしれない)のは清水義範である。すいすい読めるタイプの短編集なので平均より速いペースで読んでいる。

『国語入試問題必勝法』では表題作もさることながら「いわゆるひとつのトータル的な長嶋節」がいい。長嶋は野球の天才であり、解説者としての彼は「本能的にわかっている非常に高度なことを、なんとか説明しようと最大の努力をする」のだそうだ。それがいわゆるひとつの長嶋節になってしまう。それは長嶋の「言語能力が低いのではなく、伝えたい内容が高すぎる」からであるという。原が打てないときに「四番打者としての自覚がないからですよ」という普通の解説者とはレベルが全然違うのである。

まあほんの一例であるが清水の洞察力と創造力、そして月並みな言葉だが人間的なやさしさに感服させられる一冊である。
(1993.7.10)

清水義範『蕎麦ときしめん』他

東京ドームで巨人-横浜戦を見る。

初回にジャイアンツがエラーがらみで得点。8回、ベイスターズようやくスクイズで同点。その間得点無し、エラー有り、拙攻ありのさえない試合。8回裏、ツーアウトからつかんだ二塁一塁のチャンスも原辰凡退で家路につく客も多かった。

9回拙い攻めもあったが緒方のサヨナラヒットでそこそこの盛り上がりを見せた。観ていて決しておもしろい試合ではなかった。ましてやここ数日アルコールをひかえている僕としては、子どものころ以来のビール抜き観戦なのだから、つまらなさもひとしおのものがあった。野球場でコカ・コーラを飲むのなんて20年ぶりのことかもしれない。

ところでここ最近、清水義範の文庫ばかり読んでいる。『秘湯中の秘湯』とか『ビビンパ』などとてもおもしろかったが、『蕎麦ときしめん』もまたおもしろかった。彼はありとあらゆる文章表現の可能性を切り開こうとしているといっても過言ではない。「序文」という短編はまさにそんな試みのひとつだ。また「三人の雀鬼」は老雀士たちの巧みな技の衰えをおもしろ哀しく描いた秀作だ。オチもいい。

ここ数日酒を飲んでないので夕食後もけっこう本が読める。で、もう一冊は『「青春小説」』。清水氏のおもしろさには僕は以前からものすごい真面目さともの哀しさを感じていた。学術論文のパロディは彼がそれなりの教育を受けてきた証であるし、細かな人間洞察は既成の作家にはないマイナーなものだったからだ。この「青春小説」におさめられている自伝的短編はまさに彼のキャラクター生成の過程を物語っている。

清水氏が国立の教員養成大学出身であることを知って(もちろん彼の虚構の中にあるその叙述が事実であるとすれば、であるが)、同じく国立の教員養成大学を就職も決めずに卒業した僕は、いたく共感せざるをえないのだ。
(1993.7.7)


2005年2月17日木曜日

村上春樹『TVピープル』

雨が降ると西武新宿線が遅れる。高田馬場駅で遅延証明書が出される。たいていは10分か15分の遅れであるが、本当はもっと遅れているはずだ。
昨日は電車がゆっくり走ってくれたおかげで村上春樹の『TVピープル』の最後の短編「眠り」を読み終えることができた。
この中におさめられている6つの短編はいずれも幻想的な奇妙な世界を映しだしている。どちらかといえば『世界の終わり…』や『羊をめぐる冒険』に近い世界だと思う。唯一「我らの時代のフォークロア」だけがリアルな描写といえる。この「我らの時代の…」は『国境の南…』のプロトタイプといった短編である。
作家というのはきっとだれでもそうなのだろうが、村上春樹という人は彼の世代と時代を描くのが非常にうまいという印象がある。
(1993.7.1)

ピーター・メイル『南仏プロヴァンスの12か月』

著者のピーター・メイルはBBDOのクリエーティブ・ディレクターだったという。この本は彼が有能な広告クリエーターの地位を捨て、南仏プロヴァンスに移り住んだ1年間のエッセイである。

著者はアングレであるが、イギリス(人)とフランス(人)、パリとプロヴァンスなどが対比的に語られていて、食生活や気候風土、人がらのちがいなどがたいへんおもしろい。とりわけ食の国フランスに移り住んだだけあって、料理とワインの話は食欲をそそられる。

冬の厳しさを考えると、こんな生活してみたい、とまでは思わないがただただ楽しく温暖なだけと紹介されがちな地中海の素顔がかいま見れて、プロヴァンスの魅力をリアルに伝えている本だと思った。
(1993.6.13)

2005年2月16日水曜日

ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』

きみはそんな男ではない。
夜更けのこんな時間に、こんな本を読んでいるような男ではない。しかし、いまきみの読んでいるのは、間違いなくこんな本なのだ。この本には見覚えがない、ときみは言うことができない。きみは満員の西武新宿線に乗って、5年前に買った単行本を読んでいる。本の名前は『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』。

買ってからずっと読まなかった本が何冊かある。『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』はそんななかの一冊だ。以下感想。

 この手の本はニューヨークを散策するときに便利である。

 サリンジャーの『ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ』に似ている。

 永沢まことさんの装画と地図が素敵である。
(1993.5.16)

筒井康隆『最後の伝令』

四谷の小さなCMプロダクションいたころ、同僚のコグレくんにすすめられて筒井康隆を読むようになった。7年前のことである。

杉並に引っ越してから、朝夕の電車が混むのでなるべく文庫本を読もうと思うのだが、ここのところ単行本が多い。

『最後の伝令』には「死」をテーマにした短編がいくつかおさめられている。もちろんSF、ファンタジー、実験的試みなどバラエティに富んでいるLPのような本であるが、仮にこの本にレコードジャケットをつくるならば、やはりビジュアル・イメージは「死」なのだろうと思う。

久しぶりに楽しませてもらった。コグレくんはもう読んだだろうか。
(1993.5.16)

2005年2月15日火曜日

村上春樹/安西水丸『日出る国の工場』

できることなら、生涯床屋をかえたくないと思っている。

早稲田の理容Kは、僕にとっては三軒目の床屋であるが、その思い切りのよさを僕は気に入っている。ジャイアンツでいえば水野のフォークボール、広島東洋でいえば衣笠の空振り、日ハムでいえば大沢監督の采配のように気持ちがいい。

ふつう床屋は、僕が「短くしてね」というと、ほどよく遠慮がちに短くする。坊主にしてくれとか、剃ってくれとかいわないかぎり、客の注文より少し長めに仕上げるものだ。なぜなら切ってしまったら取り返しがつかないからだ。ところが早稲田の理容Kはそうではない。本当に短くするのだ。本人のイメージ以上に短くするのだ。客があきらめるくらい短くするのだ。これがすごく気持ちいい。

今日はその早稲田の床屋にいった。バスで阿佐ヶ谷に出て、東西線にのって早稲田にいった。去年まで住んでいた街である。ちょうど昼時だったので、えぞ菊で味噌ラーメンを食べることにした。最近、テレビ番組でとりあげられるようになった札幌ラーメンの店だ。ビールを飲みながら、味噌バターラーメンを食べる。ここは餃子もうまいが今日はラーメンだけにする。スープを少し残して、鶴巻町まで歩く。早大の西門から構内に入り、正門に抜ける。鶴巻町に出る近道だ。けやき通りを200メートル弱歩くと理容Kがある。

待ち時間に『日出る国の工場』を読む。単行本を昔買ったが度重なる引っ越しのごたごたで紛失し、先日文庫本を買った。内容は単なる工場見学記でときおり村上春樹の人間嫌い、動物好きなキャラクターがかいまみれる程度の本である。

学究肌の僕はこんなノンジャンル的な興味本意の本は好きじゃないんだけれど、先日のとある靴工場を仕事で見学させてもらって以来、工場にいっそう関心を持ちはじめたので、参考として読むことにしたのだ。まあ本のことはともかく、髪をどっさと切ってもらい、天気もよく素晴らしい5月の土曜日だった。
(1993.5.16)

ロバート・ジェームズ・ウォラー『マディソン郡の橋』

今日は昼過ぎから、神奈川美術展、通称神奈美展を見にゆくため横浜の神奈川県民ホールへでかけた。神奈美展に足を運ぶのは2年ぶりだ。僕の仕事上の直接的恩師にあたるMさんや絵コンテライターのHさんが出品している関係でかつては必ず足を運んだものだ。

雨が降っている。差し出した手のひらに滴が落ちる雨ではなく、全体がしっとり湿る、そんな雨だ。

京浜東北線で桜木町に向かう間に『マディソン郡の橋』を読み終えた。天才カメラマン、ロバート・“ハヤブサ”・キンケイドとアイオワの農夫の妻、フランチェスコ・ジョンソンの恋物語だ。その恋はあまりにも短い間で燃え上がり、その思いは20年以上持続する。これはふたりの4日間と20数年の物語だ。

キンケイドは自らをハヤブサ=放浪者にたとえた。僕はこの本を読みながら、クリフォード・ストールの『カッコウはコンピュータに卵を産む』を思い出した。情報が電子というメディアを通して、瞬時に伝達される時代と、手紙や電話のやりとりもなく支えられた人の思いというものを考えてみた。

僕は写真が好きで何台かのNikonをもっているが、彼の写真を創造するエネルギーに感服したし、もしまだ屋根付きの橋がアイオワに現存するのであれば、いつか彼と同じように105ミリのニッコールをつけてねらってみたいと思う。

Hさんの絵はいつもの透明感を保ちながら、油独特の深みが増してきたような絵だった。Mさんの雪の絵は、Mさんらしいソフトフォーカスのかかった風景画だった。どちらかというとMさんの絵は風景画というよりももっと集落に住む人の生活や生き方を描いたジャンルの絵ではないかと思っている。
(1993.4.30)

2005年2月14日月曜日

アーウィン・ショウ『はじまりはセントラル・パークから』

これまで読んだ長編は、『真夜中の滑降』、『ビザンチウムの夜』、『夏の日の声』だからアーウィン・ショウの長編はこれで4冊目ということになる。

ショウはすぐれた短編小説家という印象が強いが決してそれだけではない。長編においてもその都会的なペーソスや現代人の機微が持続されている。長編であるがゆえにそれはいっそうかなしいものになる。本当の幸福とは何なのかをショウは、この作品の中で追い求めたような気もするし、そんなものははじめからなかったのだといいたかったのかもしれない。

書棚には『ルーシィ・クラウンという女』という長編が眠っている。和田誠さんの装丁も気に入って5年ほど前に買った本だ。この次に読むショウの長編はおそらくこの本になるだろう。
(1993.4.24)

アーウィン・ショー『ニューヨーク恋模様』

これはショーの1930年代から60年代にかけての短編を集めたものだという。
この文庫におさめられているものには、ちょっとした心情の微妙な動きや、思想的な問題をテーマにしたものなど切り口鋭く迫った作品が多いと思う。短編小説に問題意識をもち、意欲的に取り組んだショーの姿勢がひしひしと伝わってくる。

それ以上に僕が評価するのは(僕なんかが評価したからといって、だからどうしたということはないんだが)やっぱり常盤新平さんの訳だと思っている。
僕はショーの原書を読んだわけでもないし、ショーという人を卒論の課題にしたわけでもないけれどショーと常盤さんはすごく相性がいいと思っている。
例えばラブレーと渡辺一夫、ルソーと桑原武夫、ヴォネガットと浅倉久志みたいに。
(1993.4.3)


2005年2月13日日曜日

安西水丸『青山の青空』

何年かぶりに茗荷谷界隈を歩いた。
文京区のこのあたりは、池袋へ歩くにも、飯田橋へ歩くにも中途半端で不便な場所だ。だからかえって歩くのにちょうど気持ちのよい場所なのかもしれない。

二十歳の頃、教育実習でこの近くの小学校に3週間ほど通ったことがあるし、富坂上、伝通院のちょっと先の都立高校とはよくバレーボールの練習試合をした。

白山の側からみて茗荷谷駅の手前の小さな本屋で安西水丸の『青山の青空』という文庫本を買った。退屈な街には退屈な本が似合うと思ったからだ。

この本は彼の日常を綴ったエッセイである。僕にとってもなつかしい千倉の話や僕の母方の伯父が住んでいた赤坂丹後町や佃や青山、そして都電の話などがさりげなく描かれている。

中でも銀座の話はすごくうれしい。銀座は僕自身勤め先のある土地であるし、かつて母が(父と結婚する前、僕が生まれるずっと昔に)勤めていたデパートがあるからだ。

安西水丸はかつて電通で働いていて、彼なりに銀座を体験し、銀座を身につけたのだろうと僕は思う。銀座は基本的には今昔のない、時間の止まった街だと僕は思っている。銀座に新しさやなつかしさをもとめてはいけない。
変わったのは人であり、その感じ方である。
彼はもしかするといちばんよかった銀座といちばんよかった東京を知っている人かもしれない。

ほとんど本の感想文にはなっていないな、これは。
(1993.4.3)

アーウィン・ショー『夏の日の声』

アーウィン・ショーを読んだのは久しぶりだ。

書棚にある『ニューヨークは闇につつまれて』に《861113》と記されていることからするとこの辺が、最後に読んだショーということだろう。

その後『真夜中の滑降』というハヤカワ文庫のショーの長編を読んだ覚えもある。『夏服を着た女たち』を読んだのは84年か85年か。いずれにしろ記憶は押し入れの段ボール箱に眠っている。

ショーの小説は水彩の映画みたいだ。

この『夏の日の声』もとびきり素敵な映画と考えてよい。1927年から1964年までの自分史が小気味のよく
つながれている。ショーはすぐれた映画監督というよりは、繊細な編集者だと思った。
(1993.4.3)

2005年2月12日土曜日

村上春樹『国境の南、太陽の西』

この作品は、村上春樹氏の作品の中で家庭や家族が描かれているきわめて珍しいものだ。また、一個人の孤独な感情世界を一人っ子という主人公の設定を通して展開している。

ストーリーとしては、いつもの、彼独特のしっとりでもなく、ねばねばでもない恋愛物語であり、随所に乾いたユーモアを織り混ぜている。

僕が感心したのは、10代や20代の描写だけでなく、彼が37歳の女性をみごとに美しく、なまめかしく描いたことだ。そして表情の無さも。

こんなことをいっては世の37歳の女性たちに失礼かもしれないが、僕の思い描ける範疇で、37歳の女性は想像し得ない。美しいのか、魅力的なのか、まったくわからない。でもこの本を読みながら、37歳も悪くないなと思った。
(1993.2.16)

荒俣宏『図像学入門』

荒俣さんは、以前講演を聴いたこともあり、本はあまり読んではいないけれども僕が強い関心を寄せる作家のひとりだ。

この『図像学入門』は、昨年の8月に「夜中の学校」というマスコミ文化人志向の若者をねらったミーハー深夜テレビ番組で放映されたものの講義録である。

たぶん荒俣フリークであれば、基礎知識のじゅうぶんなおさらいができるだろうし、荒俣さんのことをあまり知らない人(フクスケも帝都物語も)でもじゅうぶん理解できる内容になっている。

彼の説く図像とは、「美」という偏見に保護されてきた美術・芸術を開放することによって成り立つところのビジュアルを意味している。だからこそ森菓のエンゼルマークやひとつぶ300メートルのグリコマークをも研究の対象となるのだ。

この講義の端的なテーマは、「バカの見方」、「ボケの見方」、「パーの見方」という図像対人間の3つのスタンスである。詳しくは一読されたし。
(1993.1.29)

2005年2月11日金曜日

尾辻克彦『カメラが欲しい』

カメラを生涯の趣味とし、愛情を注ぎ込む筆者のむくな気持ちが随所に見られ、たいていの少年がたいていもっていた少年の気持ちがうれしい一冊だ。
別段、カメラや写真に趣味がなくても共感できる本だと思った。それは5球スーパーラジオでも2石レフレックスラジオでもHOゲージのC62でもUコンでもなんでもいい。少年がもつ機械、あるいは機械的なものへの純粋な憧れがそこには描かれている。
そういったものを欲しいと思う気持ちの、微妙に複雑な心理的論理構造が実に巧みに書かれている。アマチュアとしての立場に徹している筆者の態度にも好感がもてる。
そういえば大人になると欲しいものが見えなくなってくる。マニアックにものを集められる人というのは昨今の住宅事情では難しいものもあるし、時短とかゆとりとか叫ばれながらも男はたいてい会社人間となり、たいした趣味ももてないまま歳をとる。若い人たちに今何が欲しいかと聞くと、お金だのマンションだの、さらにはゆとりだのやすらぎだのと答えるらしい。クルマと答える者も多いようだが、これはまた莫大なお金がかかる。
どうも近い将来手にとれるものはあまり欲しがられないようだ。
(1992.8.14)

筒井康隆『朝のガスパール』

この小説は昨年10月から、今年の3月にかけて朝日新聞に連載された新聞小説である。

冒頭はSFタッチのパソコンゲームのシーン。そしてゲームに没頭する会社役員、そして株に手を出し、借金を積み重ねるその妻。パーティーに明け暮れるその仲間たち。そして虚構を描き続ける作者櫟沢。幾重にもまたがる虚構の世界は作者が『残像…』や『夢の木坂…』で試みてきたところだ。

今回の新しい試みは読者からの投書、提案(手紙とパソコン通信)をストーリーに反映させる点にある。読者もこの虚構に実名で参加し、虚構内存在になるというわけだ。そのためストーリーはめまぐるしく、変化、進展し、いろんな場面を読みたい読者には楽しめるだろうし、文学の理論的なことも勉強になる一冊だ。
(1992.8.10)

安西水丸『手のひらのトークン』

安西水丸の『手のひらのトークン』は、彼の小説の中でもかなり事実に即した小説である。

著者が電通を辞め、ニューヨークにゆくそのストーリーとはじめて体験する異国の生活などが非常になまなましく、かつセンシティブに描かれている唯一の小説だ。ビザの問題でおびえながら暮らした日々やアパートでの人々とのふれあいがまさしく僕は事実に基づいて書かれた小説だと感じた。

引っ越した先のアパートで知り合う絵画を趣味とする老夫婦、小説の中では、シェルダ夫妻となっているが、これは著者の書簡(なぜか持ってる)の中でも登場する実名である。

僕は、実は彼のニューヨーク時代の書簡をかつて読んだことがあるんだけど彼の事実を語る率直な語り口は好感が持てる。安西水丸は、虚構の人ではなく、現実の人である、そう思った。
(1992.7.14)

2005年2月10日木曜日

筒井康隆『残像に口紅を』

『残像に口紅を』は、虚構の中に構築された虚構ともいうべきストーリーで、時間とともに日本語の音が消えてゆく。消えてゆくとその音を含んだあらゆる存在が消えてゆく。はじめ「あ」が消える。すると「朝」がなくなる。
朝は「通常、太陽が昇りはじめ、中天ににかかるまでの時間」、「昼、夕方に続く一定の時間を表現することばで、四季を通じて爽やかさ、新鮮さを伴うたいへん好ましい時間」ということになる。
濁音、半濁音を含めた全部で66の音がなくなったところでこの物語は終わる。

タイトルの『残像に口紅を』は、主人公佐治勝夫の高校一年生の三女、絹子が「ぬ」の音の消失で消えてしまった次の一節からきている。

「高校一年だから化粧はしていなかった。ひと前で化粧したことは一度もなかった筈だ。少し色黒だったからか、化粧をして見違えるようになるのが照れ臭かったのか。そうだ。美しくなることを知っていたに違いないぞ。自分でこっそり化粧してみたことが一度もなかった筈はない。若い娘なんだものな。彼女の化粧した顔を一度見たかった。では意識野からまだ消えないうち、その残像に薄化粧を施し、唇に紅をさしてやろう。」

このときすでに世界からは「あ」と「ぱ」と「せ」と「ぬ」が消え去っている。
(1992.2.5)