2021年4月30日金曜日

岩下智『「面白い!」のつくり方』

先日購入したラジオはなかなか優秀で海外からの電波もしっかりキャッチしてくれる。
ラジオの優秀さについてはくわしく知らない。通信型受信機だと何マイクロボルト以下などと仕様書に記載されているが、このラジオには数値表示はない。聴きたいと思った放送が聴きたい時間に聴くことができればそれでじゅうぶん優秀なのである。
よく聴くのは台湾国際放送。平日の夜20時から一時間、日本向けの放送がある。もちろん日本語である。このプログラムは翌日の夕17時から周波数を変えて再放送される。アジア諸国の日本向け放送はこのほか、中国国際放送、KBSワールドラジオ(韓国)、ベトナムの声放送、朝鮮の声放送(北朝鮮)、モンゴルの声放送などがある。時間帯が合わなかったりもするので聴いていない放送も多い。
以前に使っていた小型ラジオも短波帯を聴くことができたが、ロッドアンテナをいっぱいに伸ばしても、ちょっと物足りなかった記憶がある。外部アンテナ端子がなかったのでロッドアンテナにビニール線を巻きつけたりなどしたものだ。
台湾国際放送ではニュースや音楽番組などを聴く。新型コロナウイルスの新規感染者が一日にひとりであるとかふたりいたなどと報道されている。みごとに封じ込めた国なのだと思う。音楽番組では日本のヒット曲のカバーがときどき紹介される。中国語で聴く日本の流行歌。味わい深い。
コピーライターの書く広告本をたまに読む。この本の著者はアートディレクターである。若い頃、不勉強だった僕はアートディレクターはビジュアルのことだけを考える人だと思っていた。そもそもクリエイティブディレクターよりアートディレクターの方が歴史がある。
アートディレクターもコピーライターもコミュニケーションのアイデアを生み出すことにおいては同じように悩んでいる。とりわけ著者は「面白さ」というものときちんと向き合っている。真摯な姿勢と粘り強い考察に好感が持てる。

2021年4月29日木曜日

ホイチョイ・プロダクションズ『電通マン36人に教わった36通りの「鬼」気くばり』

中学生の頃、アマチュア無線をはじめた。
当時、ラジオで海外からの日本語放送を聴くようになり、「ラジオの製作」「初歩のラジオ」といった雑誌を読むようになり、その流れでアマチュア無線に興味を持った。流れとしてはそんなところか。
今から50年近く昔、アマチュア無線人口は多かった。50MHz帯という入門者の多いバンド(周波数帯)で電波を出し、交信した。近所には同好の士も多くいた。最近のアマチュア無線については何も知らないので少し聴いてみることにした。アマチュアバンドを聴くことができる受信機を持っていたのだ。たぶん撮影現場でワイヤレスマイクの音を拾えるように買ったものだと思う。
430MHz帯は現在ではもっともポピュラーなバンドで休日はもちろん、平日も電波を出している人が多い。無線機も手頃で、アンテナも小さくてすむということで入門者にうってつけなのだろう。かつての50MHz帯がそうであったように。
電離層の反射で遠くまで電波が届く短波滞と違って、VHF帯、UHF帯は直線的に電波が飛ぶ。見通しのいい高台や高層ビルの上階に行くとおどろくほど遠くの無線局の声が聴こえる。ハンディ機と呼ばれる小型のトランシーバーを持って、山岳移動する人も多いという。
広告制作の世界に限らないが、仕事を受注し、それを継続するための努力は欠かせない。ときに過剰対応や忖度も辞さない思いで営業活動を行っている下請制作会社も多いという。そうした企業の人材育成に必要なのは、広告の知識でもトレンドでもなく、筆者らの掲げる「戦略的おべっか」なのかもしれない。
もちろん本気でそんなことは思っていない。
先日古い荷物を整理していたら、アマチュア無線を趣味としていた頃のQSLカードが出てきた。QSLというのは相手局と交換する、交信したことの証となるカードのことだ。見ると海外のアマチュア無線局と交信していたようだ。ほとんど記憶はないのだが。

2021年4月26日月曜日

佐野洋子『私はそうは思わない』

去年の緊急事態宣言で、会社としては4月からテレワークになったが、その前の2月末くらいから自宅で仕事をするようにしている。
動画の構成を書いたり、絵コンテを描いたりするのが主な仕事なので(他にもつまらない仕事があるのだが)通勤する必要はほとんどない。どうしても対面で打合せをしなければならないときと撮影やナレーション収録に立ち会うときは現場に出向く。もう年齢も年齢だし、仕事も以前ほど多くない。のんびり家で考えたり、書いたりするのがちょうどいい。
三度目の緊急事態宣言が発令されて、行政はリモートワークを推進するよう呼びかけている。いわゆる「お願い」だ。お願いして、みんなが言うことを聞いて、この感染症が収束するならそんなにめでたいことはない。もう少し効果的なといおうか、抜本的な解決への糸口はないのだろうか。
リモートワークであるが、導入できる業種とできない業種があることはたしかだ。どうしてもその場にいて、対面で話をし、ハンコを押してもらわなければならない仕事ってきっとある。感染症がひろがるからリモートで仕事してね、はいわかりました、と簡単にはたらき方をシフトできる仕事なんてそう多くない。それでもどうすればリモートで効率よく仕事のできる環境が整えられるかというのは今の経営者に課された課題である。今世の中にどんなツールがあって、どう活かせば、はたらき方を変えられるのか。そんな情報が山のようにある。コロナで経済は停滞しているかもしれないが、世の中は進歩している。
いちばんやっかいなのは、在宅では人ははたらかないという先入観だ。昭和・平成型の経営者に多いと思う。出社していれば仕事をしていることになり、テレワークしているやつらは何をしてるかわかったもんじゃないと思っている人たち。得てしてICTに弱い。
まあ、あまりとやかく言っていると佐野洋子の読み過ぎだと叱られるかもしれないからこの辺でやめておく。

2021年4月24日土曜日

安西水丸『ビックリ漫画館』

1月に続いて、世田谷文学館。本日4月24日から、企画展「イラストレーター安西水丸展」がはじまる。明日(25日)から三度目の緊急事態宣言が発出される。大型連休中は休館になるのではないかと思っていたが、案の定、芦花公園駅駅前の案内板に4月25日から5月11日まで臨時休館という貼り紙があった。
展示はシルクスクリーンや印刷物以外に原画や直筆の原稿など盛りだくさんでひさしぶりに安西水丸を堪能した。生前彼を支えた嵐山光三郎、村上春樹、和田誠とのかかわりなどもくわしく語られていたように思う。なかでも嵐山光三郎との交友による影響は大きく、彼なくして安西水丸は生まれなかったと言ってもいい。
1980年代の中頃だったか、銀座のギャラリーで嵐山光三郎と安西水丸は二人展を開催した。ふたりともすでに平凡社を退社して、それぞれの道にすすんでいた。嵐山は文筆家であるが、原稿用紙に万年筆で描いた落書きのような絵を展示していた(なぜだかそのオープニングパーティーに僕はいた)。
展示室に戻ろう。いつ撮ったのか、若い頃の制作風景も動画で残っていた。カラートーンをカッターで切りとる、その指先が若い。何度も何度もくりかえし見ていたくなる。アトリエの写真をつないだ動画もあった。鎌倉のアトリエの、このソファの上に倒れていたのかな、などと思う。これまで見てきた個展では知り得なかった安西水丸の生涯に触れることができる展示だった。
1977年ブロンズ社から上梓されたこの本は『ガロ』や『ビックリハウス』などに掲載された初期の作品集。平凡社のエディトリアルデザイナーだったこの頃から漫画の連載をこなしていた。おそらくは嵐山光三郎の人脈によるところが大きかったのではないかと思う。
それともうひとり、安西水丸に多大な影響を与えたのは、彼が少年時代に愛読していた漫画雑誌冒険王に連載されていた福井英一の「イガグリくん」であったことはまちがいない。

2021年4月21日水曜日

森山至貴『10代から知っておきたい あなたを閉じ込める「ずるい言葉」』

ラジオを買った。
昔だったらトランジスタラジオなどと言ったのだろうが、今はラジオである。真空管式から半導体へ、当時としては画期的なイノベーションがあったに違いない。ラジオは持ち運びができるようになり、乾電池さえあればどこでも聴くことができる。厳密にいうと電波の届かないところでは聴くことができない。
ふだんは枕元に置いている。寝る前にスマホをいじったり、電子ブックリーダーで読書するのはやめた。寝るときくらいスクリーンから目を離したい。
夜、ラジオ深夜便を聴きながら寝る。朝起きると、平日なら伊集院光の番組を聴く(金曜日は別プログラム)。日曜はイルカの番組を聴きながら二度寝する。昼間も音楽を聴くかわりにラジオを聴くことが多くなった。NHKの音楽番組や大竹まことの番組をである。
最近はスマホやPCでもラジオを聴くことができる。デジタルでライブ配信されているのである。わざわざラジオ(受信機)を買う必要もないのだが、スマホの音とラジオの音は少し違うと(勝手に)思っている。ラジオは音声信号を電波に乗せて、放送局の送信所から送られる。その電波をラジオはキャッチし、微弱な電波を電気信号に変え、増幅し、復調する。復調とは電波に乗った音声信号を取り出す工程のことである。復調された音声信号にはどことなく遠くのアンテナから発射された電波の名残がある。光と同じ速さでどこからか飛んできた音のにおいがする。
もちろんそんなはずはない。スマホで聴いても、ラジオで受信しても音声は音声だ。
この本は青少年向けだろうか。対人関係、人間関係のコミュニケーションで悩む若者をターゲットにしている。とても評判のいい本だということを誰かに聞いて、読んでみた。
とても丁寧に「ずるい言葉」を解説している。僕には少しまどろっこしかったけれど、本にして読ませるより、読んで聞かせてもらったらいいかもしれないと思った。ラジオみたいに。

2021年4月2日金曜日

芝木好子『女の肖像』

杉並に馬橋という町があった。
JR中央線高円寺駅と阿佐ヶ谷駅のまんなかあたり。線路をはさんで南北にひろがる一帯である。今は高円寺北、高円寺南と阿佐谷北、阿佐谷南という町になっている。旧町名をとどめている杉並区立馬橋小学校は高円寺北、馬橋稲荷神社は阿佐谷南にある。小学校に隣接して馬橋公園がある。元は気象庁の気象研究所だった。その前は陸軍気象部だったという(空襲で焼けた)。
芝木好子と聞くと下町の作家というイメージがある。
『隅田川暮色』『葛飾の女』『洲崎パラダイス』といった東京の東側が舞台になった作品が多いせいかもしれない。自身は王子で生まれ、浅草で育ったという。年譜によると昭和17年に結婚し、高円寺に移り住んだ。以後死ぬまで高円寺で暮らした。当時、町の名前は馬橋だったに違いない。
鷹狩りに訪れた徳川家光が高円寺という寺院で休憩したといわれている。寺の名前が知れるようになり、村の名前が高円寺村になったという。江戸時代初期の頃から高円寺は高円寺だったのである。馬橋という地名のいわれは知らないが、家光一行がまたがっていた馬と関係があるのではないかとひそかに思っている。
高円寺には関東大震災後、都心から多くの人が移ってきた。とりわけ深川など下町からの転入者が多かったと何かの本で読んだことがあるが、忘れてしまった。商店街などを歩くとどことなく下町風情を感じるのはそのせいではないかと思っている。出久根達郎の『佃島ふたり書房』も佃から高円寺に移転している(と、うっすら記憶している)。
この町に移り住んだ芝木好子は下町の方角に向かいながら、それらの町を舞台にした創作を綴ったのだろう。この本はたしか画商として自立する女性が主人公だった。銀座の画廊が舞台だった。なにぶん、読み終わってから7~8年は経っているので詳細はおぼえていないのである。
この本はテレビドラマになったという。これもまたおぼえがない。