2018年3月28日水曜日

大岡昇平『雲の肖像』

前回お話したアニメーションのつづき。
ひとりで撮影編集をしたけれど、さすがに音楽や効果音、ナレーションは自分ではできない。昔なじみの音効さん(音楽、効果音を専門とするスタッフ)に相談し、楽曲とSE(サウンドエフェクト)をつけてもらう。ナレーターも以前からよく知っている青年にお願いした。
広告会社のクリエーティブディレクターと前もって話をして、運動会っぽい曲がいいよねということになっていた。運動会らしい音楽と聞いて、ヘルマン・ネッケの「クシコスポスト」やルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」を想起するのは中年以上の方と言っていい。いまどきの運動会ではそんな古典的楽曲は流れない。でもまあ、世の中の記号としてこういう曲があるのは助かる。手品でいうところの「オリーブの首飾り」、サーカスなら「美しき天然」である。
映像制作のフローで最終工程は音楽やナレーションなど、音のミックスである。レベルの高低、レイアウトなどを検討する作業である。ベストな結果が出るまで何度も何度も繰り返し聴いてはチェックする。この動画のためにつくってもらった「クシコスポスト」を何十回となく聴いたわけだ。
試写の結果、無事に広告主のOKが出て、長い長い制作作業は終了した。
ちょうどその頃読んでいたこの本は大岡昇平らしい緊迫感はあまり感じられず、獅子文六のドラマを少しシリアスにしたかな、くらいの印象が残っている。
翌日、仕事を休んで横浜の保土ヶ谷球場に野球を観に行った。
秋季関東高校野球大会の準決勝。この大会でここまで勝ち進んできたチームは春のセンバツ出場は当確といえる。試合は千葉の中央学院対神奈川の東海大相模。久しぶりに観る野球である。高校野球らしく応援席にはブラスバンドが陣どっている。
初回東海大相模のチャンス。三番バッター森下が打席に向かう。ブラスバンドが彼のための応援曲に切り換える。
「クシコスポスト」だった。

2018年3月26日月曜日

アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』

9月末から10月にかけてアニメーションの仕事をしていた。
1センチにも満たない小さなチョコレートが集まって、何らかのカタチになる。実際には最初につくったカタチを少しずつ崩していく。逆再生すればいい。
理屈は簡単だが、実際は難しい。ひとつひとつのチョコレート(ジグソーパズルみたいなカタチ)をピンセットや爪楊枝で少しずつ動かしていく。2~3ミリほど動かしたり回転させてはシャッターを切る。大きく動かさないほうがいい。小さく少しずつ動かすことで動きがスムースになる。さじ加減が難しい。
溶けにくい製法のチョコレートなのだが、ほおっておくとピンセットにくっついたりして微妙な動きを阻害する。気持ちが焦る。無理をして舞台にしているアクリル板を動かしてしまう。カメラを固定した三脚を蹴飛ばしてしまう。すべてがやり直しだ。
アニメーションというのは何かを動かすことだと思っていたが、むしろカメラや背景など動かしてはいけないものをどうやって動かさないかが大切だと知る。
1,000枚を超える写真を撮り、よさそうなものを選んで編集ソフトに貼り付けていく。実際に使用した写真は300枚くらいか。その都度再生し、動きをチェックする。
パズル型のチョコレートは水色、ピンク、黄色、チョコレート色の4色。そのうち水色とピンクの発色がよくないという。なんとかならないかと相談される。フォトショップというソフトで水色とピンクだけ切り抜いて、色を濃くすればいい。300枚という量だけが問題だ。
一枚一枚の写真に対峙してみると撮影時にはわからなかった小さなゴミだとか、数ミリの動きで生まれるパースの変化に気付く。カメラとレンズによって映し出された写真に奥行きがあることを今さらのように知る。
編集を終えて音をつけた。ナレーションと音楽と効果音。アニメーションがさらに楽しく仕上がった。
『老人と海』を読む。本のことはいずれ書くことにする。

2018年3月25日日曜日

レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』

目黒寄生虫館に隣接するギャラリーに黒沼真由美の個展「Arthropoda」を観に行く。
黒沼真由美はレース編みでサナダ虫を編んだり、競馬をモチーフにした油彩やドローイングなど個性的な作品を創作し、すでに何度か個展を開催している。サナダ虫をレースで編もうというインスピレーションは通いつめた目黒寄生虫館で得たという。
プラ板に精緻なダニなどの絵を描き、オーブントースターで焼いたものが今回の主作品である。甲を表面に描き、脚を裏面に描く。表と裏をシームレスに描きわけることで高低差が表現され、立体感が生まれる。会場には虫眼鏡が用意されていて、拡大して見るようになっている。顕微鏡世界の新しい表現を模索したという。
東京藝術大油絵科卒業、修士課程を修了した黒沼は、テレビコマーシャルの制作会社で企画の仕事にたずさわった。当時から突拍子もないアイデアをいくつも生み出した。ただ奇抜すぎた企画案が多かったせいか、世の中でこれといった代表作は残っていない。
あるとき、小豆、それも大納言小豆をぜいたくに使ったアイスバーのコマーシャルの企画を依頼された。彼女は小豆三納言というアイデアを考えた。大納言、中納言、少納言と三人の小豆キャラクターを描き、そのなかでアイスバーになることができるのは大納言だけ、その大納言を羨む中納言や少納言が「まろもまろも、アイスバーになりとうございます~」と地団駄踏むという抜群におもしろい企画だった。
アニメーションをつくる予算がなかったのかあるいは他の理由でカタチにはならなかったけれど、今でも鮮明に記憶にのこっている。
レイモンド・チャンドラーは『ロング・グッドバイ』『さよなら、愛しい人』に続き三冊目になる。この本は初期の作品だという。そう言われてみれば若さというか青臭さを感じる。
フリップ・マーロウの活躍を読みながら、「まろもまろも」という黒沼真由美のCM企画を思い出した。

2018年3月20日火曜日

大岡昇平『事件』

町の蕎麦屋で食べる蕎麦と立ち食いそばが同じである必要なまったくないと思っている。
むしろ違った方がいい。行列のできるラーメン屋のラーメンとそっくり同じラーメンを提供する立ち食いラーメン屋があっても流行るのは行列できるラーメン屋だろう。おいしいラーメン屋の味を再現したインスタントラーメンもコンビニエンスストアなどで見かけるが、絶対同じものではないと信じて疑わない。インスタントラーメンはあくまでもインスタントラーメンであり、どうあがきもがいても「生麺のような食感」でしかない。
立ち食いそばも同様で立ち食いそばとしておいしかったらそれでいいのであって、老舗の高級蕎麦屋みたいにうまくなくてかまわないのだ。もりそば一枚に1,000円近い額を払うのと同じ蕎麦を安く手軽に食べようと思うこと自体虫がよすぎる。注文と同時に生麺を茹で、天ぷらを揚げはじめる。その手間はありがたいことだけれどもだからといって過剰な期待は持っていない。立ち食いそばとしておいしかったらそれで満足である。
その点、茹で麺を使用する昔ながらの立ち食いそば屋には長年培われた工夫が見られる。そばづくりを製麺所にアウトソーシングしたぶん、つゆや天ぷらに力を注いでいる。コシだの香りだので若干劣る茹で麺スタイルは町蕎麦屋や老舗蕎麦屋との圧倒的な違いをむしろ武器にして戦っている。やわらかい麺と合っただしやかえし、揚げものなどの豊富な具材、そして薬味の唐辛子などすべて合わさって得も言われぬうまい一杯にができる。その完成度が高ければ高いほど立ち食いそばは他の蕎麦屋の蕎麦とは異なるジャンルの食べものになる。
話が蕎麦だけにちょっとのびてしまった。
裁判をあつかった大岡昇平の作品としては『ながい旅』(小泉尭史監督「明日への遺言」の原作)を読んだことがある。克明に審理の経過が描かれていた。そんなこともあってこの本はぜひ読んでみたいと思っていた一冊だった。

2018年3月16日金曜日

中川右介『阿久悠と松本隆』

音楽というのは苦手のジャンルであまりくわしいことはわからない。それでも人並みに流行歌と接してきた。
ラジオをよく聴いていたのは中学生から大学生くらいの時期、1970年代のはじめから80年代のはじめくらいだろうか。音楽は知らず知らずのうちに耳から入り込んで血肉となる栄養みたいなものだった。
広告の仕事をするようになって、歌をつくる人を意識するようになる。どんな表現にもつくり手がいるということをつくり手のはしくれになって気が付いた。音楽のことはわからないが言葉なら少しわかる。昔聴いた流行歌はすぐれた歌詞に支えられていた。
作詞家で好きだったのは、北山修、なかにし礼、阿久悠、松本隆。そして最近になって感服しているのが中島みゆきだ。僕にとっての五大作詞家のうち阿久悠と松本隆が題名になっている。さっそく読んでみる。
この本は(著者本人も言っているように)作家論ではない。阿久悠は阿久悠の時代を生きた作詞家であり、松本隆は松本隆のキャリアの中で創作を続ける。時代の渇きを癒す歌を書き続けた阿久悠と決して時代に寄り添うことのなかった松本隆。比較したところであまり意味はない。
著者は歴史年表を紐解くように70年代半ばから80年初頭のヒットチャートを追いかける。どんな曲が売れたか流行ったか、淡々と史実が並べられる。70年代を突っ走てきた阿久悠は、写しだす時代そのものが見えにくくなった80年代以降、その詞に味わいを増していく。歌を売ることをやめ、遺すようになっていく。
あとがきを読むと著者は坂崎幸之助『J-POPスクール』の編集にたずさわっていたという(僕にとってニューミュージックの教科書だ)。歴史年表の中にときどきふたりのエピソードが資料文献から効果的に引かれる。とりわけ大瀧詠一のアルバム《A LONG VACATION》の話は知らなかっただけによかった。
〈君は天然色〉をもう涙なしには聴くことができなくなった。

2018年3月15日木曜日

佐藤尚之『ファンベース』


20年近く前からMacintoshのコンピュータを使っていた。
1990年頃はまだコンピュータ関連の出版物がさほど多くなかったし、Macという製品の特性として使い方を習得しなければいけない機械ではなかったので情報源としてはパソコン通信の掲示板がメインだったように思う。バイブルと呼ばれるムックもあった。いずれにしろMacintoshの普及に一躍買ったのはAppleコンピュータの人ではなく、ユーザだったという印象が強い。
ファンが企業や商品・ブランド、サービスを支える時代だという。
何年か前に読んだロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』にそんなことが書かれていた。5年ほど前にアメリカで注目されはじめたマーケティング手法らしいが、それ以前から変化を続ける消費者に対応すべくコミュニケーションデザインという新しいクリエイティブ手法を模索していた著者が満を持してまとめた一冊がこの本だ。アンバサダー・マーケティングが日本にも浸透し、豊富な事例が見られるようになったといこうことか。
顧客の中でファンと呼ばれるおよそ20%が全売り上げの80%を支えているという。そのなかにはさらにコアファンと呼ばれる熱狂的な支持者がいる。従来型の「瞬間風速的」キャンペーンもコミュニケーションとして必要ではあるものの、今ある売り上げを支え、さらには今後の製品開発に欠かせない真摯な意見を表明するファンをだいじにする施策も欠かすことができない。
なぜか。
人口が減少していく。商品やサービスの機能的な差異がなくなっていく。情報過多の傾向はますます加速する。結果、新規顧客を獲得することが困難になる。このあたりの表現も毎年ひとつずつ100万人都市がなくなるとか、世界中の砂浜の砂粒の数くらい情報があふれるだとか、読者を惹きつける表現も巧みだ(さすがクリエイティブ)。
筑摩書房のファンとして(笑)人にすすめたくなる本である。