2011年10月29日土曜日

半村良『葛飾物語』


10数年ぶりに仙台を訪れた。
前回はただただあわただしく、どこにも出かけなかったが、今回は多少ゆとりのあるスケジュールだったので青葉城や県庁前の欅並木などを見、仙石線と仙山線に乗った。仙石線は高城町から矢本までは復旧しておらず、松島海岸から代行バスがつないでいる。松島海岸駅に着いた時にはすっかり日も暮れてしまったので石巻行きは残念ながらあきらめた。
到着した日だけ晴れて暖かかったが、翌日から雨が降ったりやんだり。仕事を終え、小雨の中、五橋から愛宕橋あたりを散策する。道幅の広い国道4号線を避けて、裏道を歩くとなかなか風情のある商店や飲食店が残っていてうれしくなる。
半村良というと『戦国自衛隊』のインパクトが強く、SF作家のイメージがある。『エイトマン』や『スーパージェッター』の脚本も手がけていたと思う。あと、清水義範の師だ。
この本はたしか、川本三郎の新聞連載で紹介されていた(はず)。たまたま行った図書館で見つけて、読んでみた。昭和18年から63年までの、葛飾区立石、四ツ木あたりの長屋に住んでいた住人たちの年代記である。東京にもこんなピュアな時代があったのだ。近所づきあいというものが生活の一部であった時代が。
仙台からの帰路は少し遠回りして、仙山線で山形に出た。仙台から山深く分け入り、長いトンネルを越えると山形だ。萬盛庵という蕎麦屋にいちど行ってみたくて、途中下車した。
地図を頼りに駅からとぼとぼ歩いて行くと萬盛庵は駐車場になっていた。

2011年10月22日土曜日

林芙美子『めし』

東京六大学野球秋のリーグ戦も大詰めを迎えている。4年生にとっては最後のシーズンとなる。
が、今日はあいにくの雨。試合開始時間を遅らせるなど主催者側も懸命の努力をしたが、やはり雨には勝てない。
どの本だったか忘れてしまったが、林芙美子を読むようになったのは鉄道に関する本がきっかけだったと思う。
林芙美子がシベリア鉄道で単身パリに渡った話を何かで読んで、『下駄で歩いたパリ』を手にし、以降、『放浪記』だの『浮雲』だのを読んだのだ。ずいぶん荒削りな文章を書く作家だなと当初思っていたけれど初期の作品に比べると『浮雲』などは文章も洗練されて、小説家としての風格を感じさせる。
『めし』は林芙美子の未完の作品で朝日新聞連載中に彼女は絶命した。その最後の作品を読んでみたいと思ったのだ。
古書店などまわってさがしてみたものの、新潮文庫版は見つからず、かといって全集で読むのも旧仮名が難儀だ。新潮社では電子版というのをインターネットで販売しているが、それもあまりに味気ない。そう思っていたところ、九段下の千代田図書館にごく普通に置かれていた。まったくノーマークだった。
成瀬巳喜男監督の映画では上原謙と原節子が共演していた。実家に戻った三千代の降り立った駅は南武線の矢向だった。茶色い省線電車がガードの上をゴトゴト走っていた。茶色い、無骨な国電(さらに古い世代の人は省線電車と呼んだそうだ)を知らない人たちはこのモノクロームの映像に映る昔の電車にどんな色を思い浮かべるのだろう。
映画ではそれなりに結末がある。林芙美子は原作でどのような結末を想定していたのだろうか。

2011年10月14日金曜日

中村計『佐賀北の夏』


2006年の甲子園は早実対駒大苫小牧の熱戦に沸き、2007年は公立佐賀北の大逆転劇で盛り上がった。ついこの間のことのようだけれど、もう4年も5年も昔の話だ。
佐賀北の捕手市丸と広陵の三塁手土生の両校の主将は早稲田に、広陵のエース野村は明治に進んだ。それぞれ東京六大学野球の注目選手に成長した。
それはともかく、先週末左奥歯の根っこのあたりが痛み出し、草加で歯科医をしているK先輩のもとに駆け込んだ。同じ箇所が以前も痛んで治療したことがあり、慢性化しているのではないかという。ちょっと無理とか無茶をして疲れがたまると症状が出るのだろう。薬ももらって、週明けには痛みが和らいできた。
固いものが痛みに障るので週末はお茶漬けとかもりそばばかり食べていた。カップスープにパンを浸して食べたりもした。歯が痛いというのはかくも不便なことなのだとあらためて実感する。
話戻って野球であるが、高校野球がはじまると熱心に公立校を応援する人がいる。横浜に住む友人のKもそのひとりだ。今夏は習志野の試合を甲子園まで観にいったそうだ。そういえばKもやはり都立校出身だった。
東京では公立校が全国大会に出場するなどよほどのことがない限りあり得ない。人材、環境に恵まれた私学とは圧倒的な差があるからだ。地方に行くと案外その差が小さいのかもしれない。別に差別するわけではないが、佐賀県のようなところでは。
佐賀北は決して強いチームではなかったが、監督以下一丸となって全国大会で「勝てる」野球を実践した。このことを克明につづった一冊である。

2011年10月11日火曜日

辛酸なめ子『女子校育ち』


今秋の東京六大学野球は春優勝の慶應、2位の立教、そしてBクラスに甘んじた明治の争いだろうと思っていた。
さらに夏のオープン戦等の結果から法政が好調と聞き、早稲田、東大を除いた四つ巴(?)になりそうな予感だった。ふたを開けると明治野村の好投が光り、法政三上もいい。慶應は福谷が春ほどの球威はなく、竹内大も制球難。そして都立の星、立教の小室がマメをつぶしたとかでリタイア。後半再起をかける。
前半でふたつの勝ち点を落とした慶應、立教を尻目に明治が3戦までもつれながらも、ここまで勝ち点を落とさず来ていて、順当に行けば完全優勝するだろう。
明治野村と、同じく最終シーズンとなる早稲田市丸の対決が楽しみだった。2007年甲子園決勝の広陵対佐賀北の頃から対決している両者である。結果は7打数2安打2三振だった。今季打撃好調の市丸を野村がよく抑えたといえるだろう。甲子園で市丸が野村から何本ヒットを打ったのかは記憶にない。チーム全体で5安打だから、さほど打ってないような気もする。まあこのあたりは次回『佐賀北の夏』を読んでからということで。
なめことはずいぶん楽しい名前だと思っていたが、味噌汁の具のなめこではなく、どうやら「辛酸をなめる」から来ているうペンネームなのだろう。ちくまのツイッターで話題の本的な騒がれ方をしていたので手にとってみたが、別になんということもなかった。実相時昭雄の鉄道本で感動する輩にはあまり関係のない本だと思う。
そういえば先週靖国神社で奉納相撲を観た。自称相撲ファンであるのに生で相撲を観たのはこれがはじめてだ。
靖国神社のまわりも女子校が多い。

2011年10月6日木曜日

実相寺昭雄『昭和鉄道少年』


クリープを入れないコーヒーなんて。
この名コピーでおなじみのテレビコマーシャルの大半は実相寺昭雄が演出したのではないだろうか。20数年前、アルバイトでもぐり込んだCM制作会社の作品集の、そのほとんどが芦田伸介出演のクリープのCMだった。
CM制作の現場はテレビ番組制作のそれより映画に近い。演出家は監督と呼ばれる。当時の社長はむやみやたらと演出を監督と呼ぶなと言っていた。「監督といえるのは実相寺くらいのもんだ」と豪語していた。
実相寺昭雄の絵コンテを見たことがない。たいていの演出家は自ら構想を描いたプランをカット割りして、絵コンテにする。実相寺監督は原稿用紙に達筆過ぎる文字でその構想を記す。それを読んだカメラマン、ライトマン、美術デザイナーは現場に向けて映像をイメージし、必要な準備をすすめる。手慣れた実相寺組に絵コンテはむしろ要らない。
そうはいっても広告ビジネスの世界では広告主の意向なり、判断を仰がなくてはならない。共通認識のツールとして絵コンテは欠かせない。
あるとき、プロデューサーでもある社長に呼ばれ、“監督”の書いた原稿用紙のコピーを渡された。「お得意さんに事前に見せておかなくちゃならないから、お前、これを絵コンテにしておけ」との指示。畏れ多くも実相寺昭雄直筆の演出メモを絵にするなんて…。原稿を読む前にこれはカメラマンのNさんか美術のIさんに相談して監督のイメージを聞き出すしかないと思った、多忙な監督にお目にかかれる機会など年に何度かしかないし。とてもじゃないが鬼才の描く映像世界など描写できるほどの熟練はなかったのだ(熟練ということでいえばいまでもそうだが)。
ふた晩ほど会社で白紙を置いて悩んだ挙句、社長に「ぼくには描けません」と正直に打ち明けた。「そりゃそうだろうな」のひとことで結局絵コンテは描かずに済んだ。
生前の実相寺昭雄とは直接会話らしい会話をしたことはない。実相寺組のスタッフの方から伝え聞いた話が多い。鉄道に限らず、いまでいう“をたく”だったと聞く。とりわけ地方にロケに行くと必ず郵便局で貯金をする話とか、スタッフにいたずら(子どもじみたいたずらだったと聞く)した話とか。
しかしこの本はおもしろかった。読み終えるのがいやでわざとゆっくり頁をめくりたくなったくらいだ。
単に鉄道好きということだけではない。実相寺昭雄の生活圏が案外身近だったことをいままで知らなかったのだ。王子電車とか、戦後大井出石町から京浜東北線と中央線で飯田橋の学校に通ったとか、九段から靖国通りを下って須田町まで歩いたとか、赤坂のテレビ局に就職したとか。王子も大井町も飯田橋も赤坂も、ぼくにとってはいずれも忘れらない場所なのだ。
自分自身を、永遠の少年である“監督”にオーバーラップさせられたことがうれしくてたまらない。
ところで実相寺昭雄の演出メモを絵コンテにできなかったのは、監督の書いた達筆過ぎる字が解読できなかったせいもある。
豊島、いい文庫をありがとう。