2009年8月10日月曜日

岩崎俊一『幸福を見つめるコピー』

このあいだ打合せで“元気ハツラツぅ”の“ぅ”は平仮名だよね、とあるCMプロデューサーに訊ねたら、何を言ってるんですか、片仮名ですよと自信満々に返されて、ぼくの記憶力も衰えたもんだとへこんでいたんだけど、CMを見たらやっぱり平仮名だった。なあんだ、やっぱりそうじゃないかと思う反面、きちんと広告を見て、細部まで記憶していないCMプロデューサー氏の行く末を思って、ちょっと哀しかった。
間違っていてもいいと思うんだよね。ただそのときネットで調べるとか確認するとかすればまだよかったのにって思う。
仕事でそんなことにこだわっていると、まあいいじゃないですか、細かいことですから…なんて言われるんだけど、ぼくは表現者がつくった表現物には敬意を表したいと思うから、礼を尽くして見、礼を尽くして聴き、礼を尽くして記憶するべきだと考えている。いい加減に見ている方はどうでもいいことかも知れないが、つくり手にとってはそうではないと思う。
コピーライターとかグラフィックデザイナーってそういう矜持のある職であるはずだ。

コピーライター岩崎俊一と親しいCMプロデューサーは氏のことを大先生という。
還暦を過ぎ、日本の広告クリエーティブの第一線でいまだ活躍されているそのバイタリティたるや凄まじい。
岩崎俊一も本書で書いているが、すぐれた広告表現というのは発明ではなく、発見である。見つけること。でもそれが難しい。
大先生は打合せしていても、なかなかコピーを書かないという。原稿用紙と鉛筆は目の前に置かれているが、打ち合わせ中にひらめいたことをすぐに書くということをしない。クライアントから提供された基礎資料を丹念に読み込み、広告会社の営業担当から、時には広告主からじかに話を聞き、商品のこと、商品をとりまく環境、人びと、空気、気分…、とにかくあらゆる表現の可能性を精査した上で、それでもまだ鉛筆は手にしない。「たとえば、こういうことかなあ」と京都の人だなと感じさせるイントネーションでまずはそっと扉を開ける。周囲にいる営業担当やプロデューサー、アートディレクターの反応をたしかめる。そんな打合せを何度か重ねてようやく、コピーを原稿用紙に記す。
大先生のコピーは時間がかかる。しかしそれは自分が行き着くことのできる極限まで広い世界へ翼をひろげているからだ。つまりは“発見の旅”に出ているからだ。そしてそこで“見つけた”ものをそのまま言葉にしない。じっくりと吟味し、いちばん届く、深く届く言葉を選ぶのだ。そりゃあ、手間ひまかかるよね。
それと、これはぼくだけが感じることかもしれないが、岩崎俊一のコピーはかつて広告制作会社(制作プロダクション)全盛期の時代のにおいがする。広告主が制作プロダクションに発注し、広告をつくっていた時代。日本デザインセンターやライトパブリシティがすぐれたグラフィックデザインを生産していた時代。クライアントとクリエーティブはもっと密な関係にあった。
最近の広告はテレビだwebだ新聞だクロスメディアだコミュニケーションデザインだととかく広告会社(広告代理店と置き換えてもいいが、ぼくは広告代理店という概念がもうとっくの昔に終わっていると思うのであえて代理店とは言わず、広告会社と呼んでいる)主導の表現が多い。メッセージよりしくみが重視されている。岩崎コピーにはそういった、言葉は悪いが、小細工は一切ない。
広告クリエーティブは、広告主の課題に真摯に取り組み、誰もがうんとうなずく発見を丁寧に(言葉でもビジュアルでも)定着させていく努力を怠らない限り、まだまだ未来はある。ベーシックな広告制作がケータイやネットの時代でも生き残ることができる産業であることを岩崎俊一は身をもって示してくれている。


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