2010年12月28日火曜日

今年の3冊2010


先週、川崎という町を訪ねた。
川崎は「街」というより「町」な感じがする。その熱狂振りはカワーニョさんのブログに紹介されているのでそちらを参考にしてほしい。丸大ホールで熱燗をのんで、つまむ、というより、ガッツリ食べた。草食系でもなく、肉食系でもなく、定食系の忘年会だった。
さて、世にある評論家のごとく今年の3冊などと生意気なことを許していただくとして、心に残った本を別記事で記しておこうと思う。

安岡章太郎『僕の昭和史』
大正末に生まれ、昭和とともに歩いてきたぐーたら作家の代表格による独自の昭和史。戦争を庶民の目線でとらえた貴重な資料だと思う。すでに新潮文庫のリストからはずされているが、神保町の三省堂書店で手に入ったのも幸運だった。

高村薫『レディ・ジョーカー』
ビール会社に限らず大企業、それも出世をめざす人、警察官をめざす人、そしてジャーナリストをめざす人は絶対読むべき本だ。大森山王から海岸側の産業通り、さらには糀谷、萩中、羽田あたりの風情を味わう散策ガイドとしてもすぐれている。

関川夏央『家族の昭和』
ぼくの関川体験は『砂のように眠る』からである。ここのところ昭和探索を続けているが、その原点はこの本にあるといえる。その関川夏央がまた新たな切り口で昭和を見せてくれた。向田邦子、幸田文などここからインスパイアされる本は数知れず。

そんなわけで2010年のブログはこれでおしまい。
一年間立ち寄ってくださった皆さんに感謝します。
よいお年をお迎えください。

2010年12月24日金曜日

永井荷風『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』


このあいだの日曜日、卓球仲間の忘年会があった。
いつしか体育館で知り合い、毎週日曜日(場合によっては祝祭日、土曜日)に集まっては練習をするようになった。中学・高校時代に部活経験のある人もいるので、毎回ただ漠然と打ち合うのではなく、それなりにシステマティックな練習も採り入れている。そんな仲間たちと酒をのんだというわけだ。
のんで話し出せばきりがない。卓球の話はもちろんのこと、他のスポーツの話、各自の出身のこととか、食べ物の話などなど。年齢的にも40~60台だから共通する話題もあれば、かみあわない話もある。で、話は結局、卓球のことに戻るわけだ。
生ビールをのんで、焼酎をのんで。それから後のことはあまり憶えていない。翌日は立派な二日酔いになっていた。
永井荷風は『ふらんす物語』以来だ。
一般にこの小説は東京向島の往時を偲ぶ名作と評されている。ごたぶんにもれず、ぼくもそのような視点から読んでいる。グーグルマップで東向島駅周辺を表示し、あ、これはこの界隈だな、などとひとりごちながら読んだのである。
青梅街道の荻窪辺りに天沼陸橋というJR中央線をまたぐ橋がある。天気のいい日にはここから遠くスカイツリーを見渡せる。ふむふむ、あの辺が向島だな、などと思いながら、休日に散歩する。スカイツリーができあがってしまえば、おそらく街の風景はもちろん、その空気みたいなものも変わってしまうだろう。浅草から曳舟、千住。さらに荒川を渡って立石。いったいこの辺りはどうなってしまうのだろう。
大きな変貌をとげる前に東向島(当時の名前でいえば玉の井)を散歩してみたいものだ。

2010年12月21日火曜日

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

Ticket
今月のはじめにACC(全日本シーエム放送連盟)の主催するコマーシャル博覧会というイベントに行ってきた。
コンテンツは著名なクリエーターによる講演や今年のCMフェスティバルの入選作品、日本の名作CM選、海外クリエーターのドキュメントフィルムなどの上映である。
ぼくはそのなかで「杉山登志作品集」と「もう一度みたい日本のCM50年」、そして映画「Art&Copy」を観た。杉山登志はかつて資生堂のCMなどでコマーシャルの世界を席巻した天才CMディレクターであり、今の時代からみればその映像の見た目はそれなりに古びてきてはいるが、随所に当時としては大胆な手法を取り入れてきたその手腕に感心させられる。「Art&Copy」はここ何年かで世界的に注目を浴びたCMの制作者にスポットをあてたドキュメンタリー。すぐれたクリエーターというものはすぐれた言葉を吐くものだ。
で、実はいちばん楽しみにしていたのが「もう一度みたい日本のCM50年」だった。
結論からいうとこれはぼくの期待に応えていなかった。それはかつてACCで表彰された秀作のリールであり、この業界にいるものなら誰も知っている、見たことのあるお手本集だった。そうじゃないんだ、ぼくが観たかったのはぼくが子どもの頃なんども視て、記憶にとどめていた昭和の普段着のCMなのだ。「ほほいのほいでもう一杯ワタナベのジュースの素ですもう一杯」とか「ハヤシもあるでよ」とか「うれしいとめがねが落ちるんですよ」なのだ。
『君たちはどう生きるか』、これも関川夏央からインスパイアされた一冊。
もともと健全な青少年を育成するタイプの本だけに今さら読むのはどうだかなあと思っていたんだが、これはむしろうす汚れてしまった大人こそが読むべき本であろう。デジタル化されて、斜に構えた今どきの子どもたちになんか読んでほしくない。
世の中に、人生にくたびれ果てたおじさんたちにさわやかな一陣の風を送り込む、そんな本である。


2010年12月17日金曜日

小林信彦『昭和の東京、平成の東京』


12月になって、暖かい日があり、寒い日もある。寒いといっても今のところ超一級の寒波の到来はなく、気圧配置が冬型になると北西風が強くなり、空気が乾くが、それも一時のことで気温は平年並みだったりする。
ついこのあいだまで暑くて暑くてどうしようもなかったのが信じられないくらいだ。特に休日の体育館でそのことを痛感する。少しラリーをするだけでじゅうぶん汗をかけた夏場と違って、この時期はなかなか身体があたたまらない。準備運動も夏場より入念に行う必要がある。休憩するにしても上着を着るとか、トレーニングパンツをはくなどしないとあっという間に冷え切ってしまう。
ここのところ3球目攻撃、5球目攻撃、7球目攻撃といったパターン練習を繰り返している。基本練習であり、実戦的な練習でもある。もっと新しいパターンを試してみてもいいと思うのだが、新しいことより、今やっている基本練習の精度を上げていくほうが大切な気がしている。一応、それなりに緊張感を保ちながら、反復しようと心がけてはいる。
筆者小林信彦の生まれた現在でいう東日本橋あたりはかつて両国と呼ばれていたそうだ。
両国というとぼくのように両親が房総半島の出身だったりすると両国駅をすぐに連想する。かつて房総の玄関であった両国駅である。そんなわけで隅田川の西側が両国というのは少々違和感があるのだが、隅田川をはさむ地名、ゆえに両国なのだという。その後、川の向こう側だけが両国と呼ばれるようになったらしい。
浅草橋駅の近く、神田川が隅田川に合流するところに柳橋という緑色に塗られた小さな橋がかかっているが、それを渡ると住所は東日本橋となる。大きな通りに出ると左手に両国橋が見える。
昭和から平成へ。下町に生まれた筆者の思慕を随所に読みとれるすぐれた随想である。

2010年12月15日水曜日

朝倉かすみ『田村はまだか』


このブログに対して、いろいろアドバイスをいただくことが少なからずある。
たとえば、もっと写真とか画像を入れてみたらどうかとか、文章量を減らしたり、行間をあけたりして読みやすくしてはどうかとか、著者名、書名だけでなく出版社とか発行年とかも入れてくださいとか。ぼくも映画評論をするイラストレーターよろしく、名場面を絵にしたらどうかと考えたこともある。絵を描くことはある意味ぼくの職業でもあるのだが、絵を描くだけが仕事ではないのでちょっと負荷がかかりすぎる。まあたまにならいいかもしれないけど。
まことにありがたいサジェスチョンの数々ではあります。そのうちにいくつかは実現していきたいと思っています。
あと、もっと本のことを書いてください、なんて方もいるんですけど、まあこのブログはぼくの個人的な備忘録的な意味合いもあり(それがほぼすべて?)、もちろん読みやすく、読む人すべてにわかりやすく、ためになることをめざしたいとは思うのですが、今は自分のことだけで精一杯なのです。
それでもこのブログを読んで、同じ本を読みました、なんて言われるとちょっとうれしかったりする。
この本はイラストレーター井筒啓之の装丁が気に入って読んでみた。最近文庫化されたようだが、ぼくはたまたま図書館で単行本を見かけたのでそちらのほうを読んだ(たぶん内容的に異なるところはないはずだ)。
後半にやってくる事件がちょっと劇的すぎると思うが、こんなストーリーを映画化したらそこそこヒットするんじゃないかな。アラフォーには受けるかも。
キャストを考えるだけでもちょっと楽しい。

2010年12月12日日曜日

佐藤達郎『教えて!カンヌ国際広告祭』

先日久しぶりに高田馬場から早稲田界隈を散策した。
ツイッターで知り合った下町探険隊に加わったのだ。探険隊のメンバーはすでに立石だの向島だの三ノ輪だの方々を歩いているつわものばかり。たまたまぼくが以前、20台の最後の歳から5年近く早稲田に住んでいたということで仲間入りしたわけだ。
夕刻高田馬場ビッグボックス前で待ち合わせして、早稲田松竹や今は廃屋となっている名曲喫茶らんぶるを見て、古書店街を歩き、早稲田大学構内へ。大隈講堂前で後発のメンバーと合流。隊長Kさんの母校であるなつかしの文学部校舎へ。Kさんは卒業以来だとしみじみした様子。
お腹も空いたので馬場下町のキッチンオトボケで思い思いの夕食。やはり一番人気はじゃんじゃん焼き定食。K隊長の説明によれば、ジンジャー焼き、要は生姜焼きがなまったものだろうとのこと。ビールを飲みながら時間をかけて完食した。とにかくみんなお腹がいっぱいなのでとりあえずどこかでお茶でも飲もうと喫茶店に入る。
ここからがまるで学生ノリ。尽きない話で盛り上がり気がつけば夜の10時。じゃ、そろそろってことで解散となった。学生街に迷い込んだ大人がすっかり学生気分になってしまったわけだ。K隊長いわく、「学生に戻りたいな。学生に戻れたら、こんどはちゃんと勉強するぞ」
佐藤達郎は2004年のカンヌ国際広告祭フィルム部門の日本代表審査員である。よくよく考えればこの年、ぼくはこの広告祭に参加しているのである。著者が審査会場で浴びるようにフィルムを観て、とめどない議論を積み重ねているとき、ぼくは会場をあちこちはしごしながらエントリー作品を観ていたのだ。
そういうこともあって妙になつかしい気分になった。筆者の思いは広告制作者たちに向けた新しい時代の広告の模索であるはずなのに。もちろんそれはそれで勉強になる一冊だ。
その一方でぼくはなつかしいものが好きなのだ。

2010年12月8日水曜日

小林信彦『怪物がめざめる夜』

先週また野毛に行ってしまった。
ぼくが十数年前に辞めた会社の後輩だったKに会ったのだ。Kはしばらく仙台にいて(ぼくがいた頃はまだ会社は小さく、その後合併して支社ができた)、今年になって横浜支社勤務を命ぜられた。
四日市出身で中学の頃上京。それ以降しばらく東京に落ち着いていた。もともと野球はドランゴンズ、ラグビーは明治、競馬は藤田伸二と一度決めたら応援し倒すタイプであるが、仙台時代は楽天も応援するようになり、東北の祭という祭も見てまわったという。頑固一徹ではない人なつっこさも持っている。
声の大きいやつに悪いやつはいないというらしいが、まさにそんなキャラクターだ。行った先、行った先でしっかり根を生やし、地元に親身に溶け込んできたことが話の端々にうかがえる。横浜はまだまだ初心者だと謙遜しているが、なかなかどうして、野毛や山手あたりのいい店にはかなり精通している感がある。
そんなわけで先週はたいへん混み合う焼鳥屋から都橋の風情のあるスナックをめぐり、最後は地元で人気の中華へ。サンマー麺、餃子、紹興酒が締めの3点セット!と高らかに声をあげるKはすっかりハマっ子のようである。
伊集院光が深夜ラジオで言及していたのがこの本。
ありえそうでありえない話より、ありえなさそうだけどありえるかもしれない話のほうが物語としては断然面白い。
この本はもちろん後者だ。20年近く昔に書かれた小説なのにきわめてありえそうな予感のする恐怖小説だ。もちろん10~20代の若者を虜にするカリスマというキャラクターが現代的かどうかというのは別として。

2010年12月5日日曜日

千尋『赤羽キャバレー物語』

キャバレーと呼ばれるところに行ったことがない。
以前勤めていた会社の近くに「白いばら」というキャバレーがあり、社長はよく通っていたという。行ったことがないので勝手なことしか言えないけれどホステスさんが大勢いて、ショウがあって、ダンスをしたりする昭和の社交場というイメージが浮かぶ。先の社長もダンスが大好きな人だった。
ぼくは近ごろ(今にはじまった話ではないのだが)、“昭和”に凝っている。古い居酒屋や情緒のあるスナック、さらにはこれらのお店が息づいている風情ある街を歩いてみたいと思っている。
毎日新聞の夕刊、たしか毎週土曜日だと思うが、東京すみずみ歩きという川本三郎のコラムがあり、古き良き東京に独自の視点を投げかけている。そこで紹介された赤羽の町がこの本を読むきっかけになった。記事では司修の『赤羽モンマルトル』とこの『赤羽キャバレー物語』が紹介されている。『赤羽モンマルトル』は現在捜索中である。
著者の千尋は紆余曲折の人生を経て(おそらくこの本に書かれている以上に紆余曲折があったんじゃないかと思う)、川口、赤羽でホステスとして生きる。この本は彼女のホステスの日々を率直に綴ったもので読みすすめればすすめるほどに味が出る。ホステスという職業が主役なのでなく、つまり接客業という狭義のエピソードではなく、人間対人間の、思いやりだとかコミュニケーションのあり方が語られているのだ。
ひとりの人間がひとつの職業を、生涯を通じて全うするためには単に資質だけではなく、日々努力研鑽する姿勢がなによりも大切なのだと大げさではなくそう思った。

2010年12月2日木曜日

村松友視『黒い花びら』

水原弘といえば、昭和40年代少年の世代には「ハイアース」のホーロー看板である。アクの強い視線を街中に投げかけながら、商品を手にうっすら笑っている和装の水原弘(にっこり笑っているバージョンもあったっけ)。今でもぼくの両親の実家がある千葉の白浜や千倉では目にすることができる。
新進気鋭の永六輔、中村八大と組んだデビュー曲「黒い花びら」は第一回の日本レコード大賞受賞曲。まさに一瞬にしてスターダムにのし上がった男だ。その後大ヒットから遠ざかり、酒におぼれ、借金をかかえ、博打に手を染め、破滅の道を歩んでいく。そして再起をかけ、川内康範、猪俣公章コンビによる「君こそわが命」で劇的なカムバックを遂げる。おそらくぼくらの世代がリアルに見た水原弘はこの曲からだろう。が、水原弘は多くの協力者たちを尻目にさらなる破滅の道を選んでいく。
それにしても村松友視という人はおかしなところに目を向ける作家である。トニー谷しかり、力道山しかり、大井町の骨董屋しかり。アウトローを追いかけているのではなく、一般人とアウトローの境界あたりにいる人を描くのが巧みだ。水原弘は世間一般の価値観である“昼の論理”で見てはいけないと筆者はいう。天文学的数字にまでふくれあがった借金をかかえ、破滅に向かって血を吐くまでステージに立ち続ける“夜の論理”に生きた男である。それでいて家族に向ける、不思議にやさしいまなざし。
フランス映画にあるような、貧困の時代からスターダムへのし上がり、そして放蕩から破滅に向かうヒロインが奇跡的なカムバックをとげたにもかかわらず、その後世間から敵視され、不遇な晩年、そして悲惨な死を遂げる、そんなドラマティックな生涯がぼくたちが少年時代に親しんだホーロー看板の向こう側にあったなんて。
なかなかの力作である。

2010年11月28日日曜日

向田邦子『父の詫び状』

週末卓球を練習しに行くとき、かつての向田家の近くを通る。
向田邦子の家は荻窪駅から徒歩20分くらいの杉並区本天沼にあった。当時向田邦子は港区のマンション住まいだったから住んでいたのは向田家の人々ということになる。
荻窪とか阿佐ヶ谷あたりは作家が多く住んでいた地域で井伏鱒二、太宰治、青柳瑞穂などなど枚挙に暇なしってところだ。井伏鱒二の家はいまでも文学者然とした風貌で残っている。
先日杉並区立郷土資料館分室で『田河水泡の杉並時代』という展示を見た。
田河水泡は本名高見澤仲太郎というらしい。ペンネームの田河水泡はたがわすいほうと読むんじゃなくて、“たがわみずあわ”と読ませたかったそうだ。タガワミズアワ、転じてタカミザワ。創作する人はおもしろいことを考えるものだ。義兄が小林秀雄だったというのも知らなかった。世の中は知らなかったことに満ち満ちている。
向田家の人々を描いた『父の詫び状』は関川夏央にインスパイアされた一冊。昭和の家族像を綴った秀逸のエッセーである。語り手の向田邦子もさることながら、父母、きょうだいが幾度となく登場するなかでひときわ輝いているキャラクターは癇性の強さは父親譲りだと向田邦子も語っている父だろう。まさに寺内貫太郎のような人だ。
ぼくの父より年下で母より年上の向田邦子であるが、「おみおつけ」をはじめとしてボキャブラリーが昭和なのもうれしかった。
そしていつしかぼくは向田邦子が亡くなった歳を越えていた。





2010年11月24日水曜日

孫正義vs.佐々木俊尚『決闘ネット「光の道」革命』

音楽プロデューサーM君夫妻と卓球をした。
M君は中学高校と卓球部で鍛えたつわものであり、その奥さんもPTAなどの大会で華々しい成績をおさめている。先日飲みながら、久しぶりに打ちますかってことになって、昨日午後、荻窪のクニヒロ卓球で練習とゲームを行った。
ぼくのラケットは中国式ペンホルダーグリップで、ふだん練習している仲間たちもペンホルダーが多い。シェークハンドグリップの人もその中にいるにはいるが、まだまだ発展途上の人ばかりである。そういった点からするとシェークの上級者と練習できたのは大きな収穫だ。
ペンホルダーは一般にバックハンドが難しい。ラケットのフォア面を右利きの人ならば自分の左側にまわして打たなければならないからだ。その点シェークハンドはバック面にもラバーが貼ってあり、ラケットを裏返すだけでバック側の打球に対応できる。日頃、ペン相手に練習をしていると強打しにくい難しいボールは相手のバック側に返すことが多い。相手もつないでくることが多いのでチャンスボールの生まれる可能性が高くなる。ところが相手がシェークだとよほどコントロールよく返球しないと、振り抜きやすいバックハンドから痛打をくらう。ドライブに精度が求められるのだ。
孫正義の「光の道」構想がマスコミを賑わせている。天下国家日本の未来を憂い、熱いビジョンを語れる数少ない実業家だ。
この本はユーストリームなどで配信された5時間にわたる激論をまとめたもので読みごたえじゅうぶん。対決図式で興味を煽っているが、実は両者がそれぞれの主張を補完し合っていて、書物として言いたいことが明快だ。
ところでゲームは週5回の練習量をほこるM君夫人には完敗。今まで手も足も出なかったM君とは互角にわたりあえるようになった。日頃の練習の成果と認識し、今後も精進していきたい。

2010年11月21日日曜日

関川夏央『家族の昭和』

明治神宮野球大会が終わった。
野球が終わると秋も終わりだ。いよいよウィンタースポーツの季節がはじまる(とはいっても中国広州ではアジア競技大会で連日盛り上がっているが)。
明治神宮大会は高校の新チームによる最初の全国大会である。今年は東京の日大三が投打のかみ合った試合で優勝した。この大会に出場する10チームと地区予選で準優勝した10チームは間違いなく春の選抜に出場する。さらにこの大会の優勝校の地区からは“神宮枠”というもうひと枠が与えられる。都大会準決勝で日大三に大敗した都立昭和にも選抜のチャンスが生まれたということだ。
大学の部は斎藤、大石、福井のドラフト1位指名の3投手を擁する早稲田が初優勝。これが初というのが意外な感じがした。決勝の東海大戦は中盤逆転し、最少得点差を福井-大石-斎藤のリーグ戦では見られない豪華リレーで守りきった。それにしても打てない早稲田。来季からどう戦うのだろうか。土生、市丸、松本ら3年生と杉山、地引ら2年生は残るとして経験のない投手陣に不安が残る。春の主役は伊藤、竹内大らが残る慶應、野村、森田、難波ら投手王国となる明治、三嶋が加賀美の抜けた穴を埋めるであろう法政ではあるまいか。
関川夏央の読み解く昭和が好きだ。
この本では文芸作品(小説、随筆だけでなく映画、ドラマも含めて)をベースに昭和的家族の成り立ちから崩壊までをドラマティックに紡いでいる。戦後のいわゆる昭和的家族像はすで戦前、戦中に成立していた。ただ戦後という時代が戦前、戦中の否定から成り立っていたため見過ごされてきたというのだ。筆者以上の昭和の語り部はそう多くはいないだろう。

2010年11月18日木曜日

村松友視『時代屋の女房』

このあいだ免許の更新に都庁まで出向いたのだが、昔は鮫洲か府中でしか更新ができなかった時代に比べるとなんと便利になったものか。便利の裏側にはなにかが犠牲になっている。品川の大井町に生まれ育ったぼくにとっては鮫洲という街との接点を失ったのがなんとしても大きい。
鮫洲から南へ行くと立会川という京急の駅があり、大井競馬場の最寄り駅になっている。さらに南下すると鈴ヶ森の刑場跡がある。小学校の区内見学では品川火力発電所から鈴ヶ森というのは定番ルートだった。もっと南に行くと第一京浜国道が産業道路と分岐する。その扇の要には大森警察署があり、『レディジョーカー』でおなじみだ。「時代屋の女房」とともに収められている「泪橋」はこの立会川界隈が舞台となっている。
立会川から京浜東北線のガードをくぐり、池上通りを右折すると三叉(みつまた)商店街という、大井町では東急大井町線沿いに連なる権現町と並ぶ商店街があった。最近はとんと歩いていないので今はどうなっているのか。昔の町名でいうと倉田町だったと思う。
この小説に出てくるクリーニング屋の今井さんは横須賀線の踏切近くに店をかまえていたようだが、時代屋からはかなりの距離がある。横須賀線は以前貨物線で品鶴(ひんかく)線と呼ばれ、ぼくの通った小学校のどの教室からも眺めることができた。EH10という重量級の電気機関車が大量の貨物を引いて走っていた。踏切をわたると伊藤博文の公墓がある。さすがこれは昔のままだろう。
「時代屋の女房」も「泪橋」もアウトローになりきれなかった半端な男たちが主人公である。そういった意味ではリアルで哀しい物語である。
時代屋のあった場所は今は駐車場になっているらしい。

2010年11月14日日曜日

フョードル・ドストエフスキー『地下室の手記』

フォアハンドが苦手だった。
と書いてみると、バックハンドが得意なのか、これまで苦手だったフォアハンドを克服して今では得意なのかと誤解をまねく表現ではあるが、要は卓球の基本技術であるフォア打ちが弱かった、あるいは多少の改善のきざしはあるが、弱い。と、まあそういう意味である。卓球をなさらない方にはフォアが弱いといってもイメージしにくいかも知れない。野球でいうとキャッチボールが弱いとか、サッカーでいえばパスが下手、みたいなことかも知れない。
これは自覚症状もあり、また多くの人から指摘されていた課題であった。とはいえ、いちばんベースとなる技術だけにどう克服していけばいいのかが難しい課題でもあった。
夏の終わりから秋にかけて(といっても今年はしばらくずっと暑かったのでどこに線をひけばいいのかわかりにくいが)中級から上級クラスの方とスマッシュ練習に取り組んでみた。スマッシュ、ロビング、スマッシュ、ロビングとつながる限り相手コートに強いボールを叩き込むのだ。5分もやれば、汗びっしょり、大腿筋は痛くなるし、三角筋やら広背筋やらくわしいことは知らないがとにかく筋肉が痛くなる。そんな練習をなんどか繰り返しているうちにいつしか強い打球が打てるようになっていた。もちろんまだまだ不安定ではあるに違いないが、今までより格段といいボールが出るようになった。
また野球のティーバッティングのように目の前でボールをワンバウンドさせそれを強打する練習もやってみた。できるだけ強く、スイングは小さく速く、打球の方向を安定させるようにターゲット(ペットボトルなど)を置いて。そうこうするうちにフォアが強くなった。
案外頭で悩んでいるより、やってみたほうがはやい、ということがスポーツには往々にしてあるものだ。
さて、この本は自意識過剰の青年の独白である。哲学的というか病的というか、特に第一部は抽象的で難解。主人公の“俺”はどことなくサリンジャーの『ライ麦』の主人公みたいだと思った。ホールデン・コールフィールド、だっけ。
この作品には後に続く大作のプロトタイプ的なエピソードや登場人物が見てとれるという。それはなんとなくわかるような気がする。

2010年11月9日火曜日

須田和博『使ってもらえる広告』

先週、横浜の野毛で飲んだ。
昭和さがしの旅をテーマに東京下町をはじめ、散策しては酒を飲んでいるクリエーティブディレクターKさんとツイッター上で意気投合。横浜なら野毛だろうと話がまとまり、野毛ツアーが実施されたというわけだ。
一軒めは野毛といったらこの店といっていいであろう武蔵屋。運よく席を確保でき、お酒3杯限定でありながら、酢漬けのたまねぎ、おから、たら豆腐、納豆を堪能。酒飲みに生まれてよかったと思えるひとときだった。
二軒めは中華三陽。ここはチンチン麺と独自のキャッチフレーズ戦略で知られた店。実は萬里の餃子にも心引かれたところはあったのだが、Kさんがまだチャレンジしていないということでこちらを選択。餃子がうまかった。紹興酒もあっという間に空いた。
三軒めはいよいよ野毛の本丸、都橋商店街。地元で支社長をしている友人から教えてもらったスナック浜へ。ここでKさんの、いかにもものを書く人だなあと思わせる少年のような歌声を拝聴。そして4軒めは橋を渡って吉田町のスナック。もうこのあたりになると店の場所も名前も憶えていない。拙い韓国語であいさつをし、百歳酒(ペクセジュ)とマッコリを飲んで後ろ髪をひかれながら、終電せまる桜木町駅まで早足で歩いた、憶えているのはわずかにそこまでである。
広告が効かなくなっているとお嘆きの貴兄が多い中、新しい広告を模索する試みがそこかしこで行われている。とりわけ主戦場はネットの世界で、テレビCMさえおもしろければ、すべて牛耳れるってほど世の中は甘くなくなっている。
そんななかこの本は筆者の実践記である。須田和博は美大でグラフィックデザインを学んだだけでなく、さまざまなビジュアルと接してきたなかでコミュニケーションの基本をよく把握されている人だと思う。あるいは博報堂という、広告表現に真摯な姿勢を貫いている土壌が彼をそう育てたのかもしれない。
広告はメディアの似姿だという。新聞なら“読ませる”広告、テレビなら“楽しませる”広告。だったらwebは“役に立つ”広告でしょうという。なんともわかりやすい話ではないか。
久しぶりに隣に座っているCMディレクターのI君に“おまえも読んでみろよ”と手渡した一冊である。


2010年11月6日土曜日

馬場マコト『戦争と広告』

ITの技術革新というのかな。ここのところ携帯電話の進化がめざましく、なかなかついていけない。
先日ソフトバンクがアンドロイド2.2搭載のスマートフォンを発表した。つい先ごろAUが2.1搭載の新製品を発表したばかりなのに。記者発表時の映像を見ていると今ぼくが使っている1.6などかなり時代遅れな感じがする。
新しくなるものを追いかけていくのはなかなか疲れる。歳をとるとはそういった疲労の蓄積が顕在化することなのかとも思う。
新しいものばかりでなく時には古きをたずねるのもいい。そう思って昭和戦中時代の広告シーンに思いを馳せたこの本を手にとった。
新井静一郎さんが亡くなったのはたしか1990年。当時銀座の小さな広告会社にいたぼくは、上司でありコピーライターであったOさんから銀座の酒場で「惜しい人がいなくなっちゃったんだよ」と思い出話を聞かされた。ぼくと新井静一郎さんに接点があるとすれば、わずかにここだけ、Oさんから聞いたOさんの上司の思い出話だけである。
著者の立ち位置はクリエーティブディレクターであるが、小説なども書く表現の人である。徹底的にドキュメントにする方法もあっただろうし、一方でフィクション化することも可能だったと思う。馬場マコトはあえて忠実に昭和を追いかけた。それは彼の戦争に対する思いがそうさせたのだろうけれども、ぼくはこの史実を物語として、ドラマとして著者が描いたらどうなるだろうと考えた。著者の強い思いをもうひとつ下位の深層レイヤーに配置しなおすことで、昭和戦争広告史はさらにドラマティックな読みものに、うまいたとえが見つからないのけれど、嵐山光三郎の『口笛の歌が聴こえる』みたいな実話的フィクションに変貌したにちがいない。

2010年11月3日水曜日

NHK放送文化研究所日本語プロジェクト『国語力アップ400問』

東京六大学野球は早稲田、慶應が勝ち点、勝率で並び、優勝決定戦にもつれこんだ。決定戦は20年ぶり。早慶による決定戦は50年ぶりであるという。
そもそもここまで順調に勝ち点を積み上げてきた早稲田がなぜ慶應に連敗したのか。しかもドラフト1位指名された投手がそろいもそろって慶應打線に本塁打を打たれて、である。早稲田打線が打てないのは今季に限った話ではなく、1年時から出場経験がある今の4年生の守備位置、打順を不動にできなかったところに一因はあるのではないだろうか。
一方で慶應は江藤監督のベンチ内のインサイドワークが素晴らしい。ねらい球を絞り、思い切って振らせる。その結果が早慶戦の3本塁打だと思う。このままでは3日の決定戦も早稲田の看板投手陣は打ち崩されること必至だ。
ところで人間というのは放っておくと退化する生き物である。
日々少量の努力を積み重ねていかないとだめになってしまうのである。たとえば、今日はちょっとめんどくさいからビール飲むのやめとこうかな、なんてすぐ寝てしまったりすると、翌日がつらい。寅さんのようにつらい。
うーん。比喩が適切でないかもしれない。
要はたまには人間の、というか日本人の基本にたちかえることも時には必要なのではないかと思うのである。老齢になってもクラス会やら同期会をやるのもきっとこうした深い人間論が根底にあるためだろう。
そういった意味では自らの国語力をときどき試してみることはたいせつだ。

2010年10月30日土曜日

落合信彦『無知との遭遇』

ドラフト会議って、アマチュア野球の日程終了後に開催されるものとばかり思っていたけど、いつしかシーズン中に行われるようになっていた。
今年は斎藤、大石、福井の早稲田の3投手に、中央の沢村あたりが注目されていたようだが、斎藤は日本ハム、大石が西武、福井が広島、そして沢村は読売にそれぞれ1位指名された。早稲田の3投手、というけれど、横浜に指名されたJEF東日本の須田幸太も早稲田だから、今年は4投手をプロに送り込んだってわけだ。
ぼくは学生野球が好きでときどき神宮球場などに出向いているせいもあって、斎藤ってどうなの、とか大石って速いの、とかよく人に訊かれるのだけれど、斎藤は先輩で同じ日ハムの宮本賢やロッテに行った大谷智久よりクラスは上じゃないだろうか。順調に行けば、藤井秀吾や和田毅くらいは活躍するんじゃないかと思っている。野手に転向するはずだった大石は身体能力が高い上に野球センスもありそうだ。今度転向するなら先発投手だろう。
野球の話をし出すときりがない。
書店でぱっと見たその一瞬、落合信彦ってどんな人だっけと“思い出し回路”がめまぐるしく動き出し、オヨヨの人?いいやそれは小林信彦、じゃあ、オレ流の人、違う違うそれは落合博満、と脳細胞のあいだをある種の化学物質が逡巡した結果、ようやく、ああ、“ASAHI Super DRY!”の人だとようやくたどり着いた。
著者は国際ジャーナリストとして現在もご活躍のようだが、グローバルな行動半径のなかから培ったユーモアと日本の現状への憂いをシャープな口調で切った一冊。笑えるけれど笑えない本である。


2010年10月28日木曜日

アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』

月に一冊はフランス文学に親しみたいと思っている。
とはいえ、月に一冊司馬遼太郎を読もうとか、村上春樹を読もうとか、IT関連の本とかビジネス書とか、あまり“しばり”をきつくしていくと読書本来の楽しみが失われるのであまり堅苦しいことはやめようとは思っている。
『マノン・レスコー』は正式な題名を『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』といい、著者のアベ・プレヴォも本名はアントワーヌ・フランソワ・プレヴォ・デグジルという。聖職者だったので、みんなから僧プレヴォ(日本的にいうならプレヴォ坊さんみたいなことか)と呼ばれていて、その名前が定着したのだそうだ。なんでそんなことを知っているかというと9月頃NHKラジオフランス語講座でこの『マノン・レスコー』の一部を読む回があり、その際講師の澤田直さんがそう紹介していたからだ。要は受け売りということだ。
ぼくはこの本をたしか20代の、学生時代にいちど読んでいる。いかにも青年たちに受け容れられそうな恋愛小説であるが、その倍ほど年齢を重ねてあらためて読んでみるといまひとつ感動的でない。昔はシュヴァリエ・デ・グリューに感情移入して読んでいたのに対し、今ではむしろその父親の立場で読んでいるからかもしれない。
マノンに溺れるどうしようもない息子に対し、今となっては怒りをおぼえざるを得ないのである。
まあ、ただ歳はとってみるもので、当時はアメリカのヌーヴェルオルレアンという地名が何のことだかさっぱりわからなかったが、今読み返してみるとニューオーリンズだなということが苦もなくわかる。微妙にではあるが、ぼくも成長しているのである。

2010年10月23日土曜日

鈴木健一『風流 江戸の蕎麦』

ソフトバンクホークスがパ・リーグ3位のロッテに敗れ、日本シリーズ進出ならず。最終戦はじっとしていられず、羽田から福岡に急遽飛んだというファンも多かったと聞く。セ・リーグは3位のジャイアンツが中日ドラゴンズに挑んだが、果たして結果は如何に。
強さと勝敗は必ずしも一致しないと思っているが、中日に強さは感じないものの(強いとか弱いとかって結局感じるものであって、ある一定の尺度を持った事実ではないということだろう)、勝負ということに関しては彼らはプロの集団である。それだけはいえると思う。
昼にそばを食することが多い。おそらくそば好きという点に関していえば、ぼくは日本人の平均値を上回っていると思う。時間のあるときはゆっくりつまみをとって、忙しいときは立ち食いでさっとすます。
立ち食いというとなんとなく粗末なイメージがないこともないが、それなりにうまい店は多い。もともとそばが江戸時代のファーストフード的な位置づけだったことや屋台で商売されていたことを考えれば、今ある立ち食いそば屋もトラディショナルなそば屋のあり方ではある。とはいうものの、あまり威勢のいい立ち食いそば屋はいかがなものか。妙に愛想よく「まいどどうも!」とか、親しみをこめて「いつもありがとうございます!」などと声をかけられるとちょっと恥ずかしい気がしないでもない。
蕎麦本は多々あるが、さすがは中公新書だとうならせる一冊だ。著者の専門は江戸時代の詩歌を中心としたものだそうだが、江戸時代にうどんを凌駕して、食文化の華になる蕎麦を巧みに発掘している。一味深い蕎麦の薀蓄といったところか。
野球の季節もそろそろ終わる。日本シリーズ、そして明治神宮野球大会。寒空の下で野球を観るのも案外悪くない。


2010年10月20日水曜日

村上春樹『やがて哀しき外国語』

読んだ本の中で、あ、これおもしろいなっと思ったところをなるべく抜書きしておこうとしている。昔、論文を書く学生がB6サイズくらいの紙に抜書きしていたように(今ではワープロで打つだろうから作業的にも楽だし、検索など簡単にできるし、さぞ重宝していることだろう)。
そんな学生みたいなことをはじめて20年近くたった。たいして勤勉でもなく、そうした抜書きを何かに役立てようという具体的な目的もないので、長いこと続けているわりにはテキストファイルで200キロバイト程度のものである。ときどき思い出したように読んでみてもあっという間に読み終えることができる。まあ言ってみれば、切手やフィギュアの人形をコレクションしてときどき眺めてみる、みたいな趣味の域を出ないものには違いない。
それでも読んだものを読みっぱなしにしないで、なんらかの形で自分自身につなぎとめておくには「書く」(あるいは打つとでもいえばいいか)という行為は無駄ではないような気がしている。
たとえば今回はこんなところを抜いてみた。

>僕自身だって、二十歳の頃はやはり不安だった。いや、不安なんて
>いうようなものじゃなかった。今ここに神様が出てきて、もう一度お前
>を二十歳に戻してあげようと言ったら、たぶん僕は「ありがとうござい
>ます。でも、べつに今のままでいいです」と言って断ると思う。こう言っ
>ちゃなんだけど、あんなもの一度で沢山だ。

こういう、なにかおもしろい言い回しとか、ものの見方をさがして本を読むのも案外悪くない。それにしても村上春樹からの抜書きが圧倒的に多い。

2010年10月16日土曜日

岸博幸『ネット帝国主義と日本の敗北』

先日、とある消費者金融の会社が更正法を申請したというニュースに出くわし、昔お世話になった広告会社のKさん(苗字だとSさんだが、ぼくたちは名前の方でKさんと呼んでいた)を思い出した。
Kさんはぼくが学生の頃通っていたコピー講座の先生で、主にラジオCMの手ほどきを受けた。独特の説教口調で今どきなら“うざい”おじさんなのだろうが、その後ぼくが就職した制作会社で家庭用品や台所製品のテレビコマーシャルの企画をお手伝いさせていただいたこともあり、またKさんがぼくの叔父と大学、就職先(大手広告会社)の同期であったということもあって、たいへんあたたかく、そしてきびしく接してくれた。
そのKさんももう70近くになるだろうか。定年でご退職されて以来お会いしていない。先ほどもいったように、いっしょにした仕事の大半は洗剤とか、芳香剤とか、冷蔵庫用のバッグなどで、主婦層を的確につかむコピーワークが要求される作業だったのだが、いちどだけ、消費者金融のCMを手伝った。Kさんとごいっしょした仕事の中でそれはとても異色なものだっただけに妙に記憶に残ってる。
無料コンテンツがネット上では幅を利かせている。タダならなんでもいいかというとけっしてそうではないだろうけれど、いちどタダを味わってしまうと、それはそれでかなり居心地がよくなってしまうのも否めない。そもそも無料コンテンツのビジネスモデルの元祖は民間放送だったのではないか。それが今ではネット広告は収入面でラジオを凌駕し、テレビにも迫る勢いであるという。
筆者によれば、無料のままだとジャーナリズムと文化の衰退をもたらす。旧来の、コンテンツ制作から流通までまるめ込んだ垂直型ビジネスモデルを無料ビジネスモデルが崩壊したのだ。
では、ジャーナリズムと文化の衰退をどう食い止めるか。まあ、その辺に関してはいまひとつって印象かな。

2010年10月11日月曜日

吉良俊彦『1日2400時間吉良式発想法』

比較的読まないジャンルの本が時代小説、ビジネス書、自己啓発書である。
最近はなるべく幅広く読んでそういったアレルギーを克服しようとしている。それでも自己啓発系は正直、気乗りしない分野ではある。
著者の吉良俊彦はさほど歳の離れていない、高校の先輩であり、大手広告会社でコピーライターの経験もあって、それだけでなんとなくリスペクトしてしまう人だ。もちろん面識はない。
以前、『情報ゼロ円。』という本を出したときも飛びつくように読んだ。今回の著作もこの本と同様、氏の大学等での講義をベースにまとめられたものである。
僕のようなすでに齢50を過ぎた者が今さら発想法もあったもんじゃないが、将来のある若者たちと同じ教室、同じ席に腰掛けて、学生のような気持ちでその講義を拝聴するというのも悪くない。とりわけ、吉良俊彦のようにクールで柔軟な発想術を熱く語っていただける先生であればなおさらである(全体に著者の強いパッションを感じる本でありながら、装丁の帯やいきなり村上龍の出版に寄せる文章が載せられているのはいささか熱すぎではないかと思いつつも)。
前半に基本的な発想法としてチャネル変換型発想という、◆◆といえば○○、と視点を変えて想起されるものを列挙するメソッドが紹介される。後半、再度チャネル変換型発想法が登場する。その手法がアイデアを生み出すのに有効であるとともに、分析(マーケティング)にも役立つということを紹介している。
そこで「自動車産業といったら○○」という課題が出されているのだが、その一覧(解答例)のなかに“免許”とあった。
実に絶妙なタイミングだった。来月更新であることを思い出させてくれたのである。

2010年10月6日水曜日

司馬遼太郎『殉死』

ツイッターで何百人もフォローしている人がいるけれど、その都度目を通していく、さらには返信したり、リツィートしたりするっていうのはなかなかたいへんだ。
でも人はそれぞれにいろんなことを考え、いろんな行動を起こし、いろんな感想を抱いているものだなあと思う。自分の嗜好にあった人ばかりでなく、さまざまなジャンルの人、キャラクターの人などなどをフォローすることである種、脳内に混沌をかたちづくり、さまざまな色の絵の具をぶちまけたみたいな状況から、新鮮なものの見方、考え方に出会う瞬間はふだん漫然と生きているだけではなかなか得がたく、心地いい経験になる。
なかにはしばらく疎遠にしていた方々を見つけてはフォローしてみると、相変わらずで何よりとも思うし、ずいぶん成長したんだなこいつとか思ったり、それはそれでまた楽しい。果たしてぼくはどう見られているんだろう(まあ今のところフォローしてくれているのがごく少数なのであまり気にもとめていないけどね)。
月に一冊は司馬遼太郎を読もうプロジェクト第二弾。
乃木希典は、ふうん、そういう人だったのか。ずっと思い描いていた人とは違うものなんだなあ。
平和な高度経済成長期に育ったぼくたちにとって乃木大将というのは、母親からの口伝えに聞く伝説的なエピソードであったり、彼を讃えた歌でイメージしていた。そういうわけでどうも軍事的才覚に長けた武勲華やかなる人物を思い描いていたのでことのほかその違和感は大きく、これがあの乃木希典のリアルなかのかと咀嚼するまで時間がかかった。ただ軍人的である以上に、古典的忠臣的な人であり、美的感覚に長じた明治時代の異物だったのだろう。もちろんいい意味で、である。


2010年10月1日金曜日

根岸智幸『Twitter使いこなし術』

はやいものでもう10月だ。
東京都の高校野球新人戦(正しくは秋季東京都高等学校野球大会というらしい)は2日からブロック予選を勝ち抜いた48校で争われる。
組合せを見るとうまい具合に強豪校が振り分けられている印象だ。Aブロックでは(まあ仮に横書きのやぐらの左上、左下、右上、右下の順にA~Dを割り振るとして)日大二、八王子、二松学舎、創価、法政大とやや小粒ではあるが有力校がひしめいた。Bブロックは下半分に東海大菅生、修徳、国学院久我山、安田、桜美林とそうそうたる顔ぶれ。迎え撃つのは早大学院か。Cブロックは比較的都立高が多いなか、なんといっても注目は初戦に激突する国士舘と帝京だろう。Dブロックは日大三が強そうだが、関東一、世田谷、日大豊山、東亜と侮れない強豪が名を連ねた。
ともかく3年生が引退し、1・2年生による新チーム。何が起こるかわからないというのが正直言ったところだろう。24日に予定されている決勝戦がまことにもって楽しみである。
ツイッターが世の中をどう変えていくのか、みたいな話には興味がなくはないのだが、如何せん、ツイッターのことを知らなさ過ぎるので、まずは入門してみることにする。新書であることがまずはうれしい一冊だ。大判の、CDやDVDが付録についていたり、けばけばしいデザインで太いゴシックで“できる”なんて表紙に書かれていたら、そうやすやすと電車の中では読めないもの。

2010年9月29日水曜日

カーマイン・ガロ『スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン』

“驚異のプレゼン”とはなんともいい響きである。それに引き換え、以前よく仕事であったのが“驚異のオリエン”だ。なんの商品情報もなく、市場動向や消費者インサイトもなく、コミュニケーション課題もなく、ホワイトボードに、A・B・Cとだけ書いて、「まあ、3方向くらいでプレゼンしたいんだよねぇ、よろしく!」で終わる驚異のオリエン。というか脅威のオリエン…。まあいい時代だった。
アップルは製品そのものがプレゼンターだと長いこと思っていた。Macintoshしかり、iPhone、iPod、iPadしかり。だが、そんな具合に技術がすべてを語ってくれる的な発想自体がきわめて日本人的なのかもしれない。ソニーもホンダも世の中にたったひとつしかない製品をその高い技術力でカタチにしてきた。技術力は雄弁に語ることより、寡黙に役立つことを美徳とする。日本的な技術立国とはそうした背景のもと育まれてきたのではないだろうか。
もちろん経済土壌の違いはある(あったというべきか)。独自性を極力黙殺し、横並びの無個性製品を広告やイメージで差別化し、あるいは流通のコネクションで市場をコントロールする旧日本式経済とプロテスタントの自由主義経済とは根本的な差異があって当然である。そのなかで生き残る術として“プレゼン”は存在する。
ジョブズのプレゼンテーションがアップルを支えているのか、アップルのプロダクツの数々がジョブズのプレゼンテーションを支えているのか。その判断は難しいところであるが、アップルという総合エンターテインメント商社の両輪として現在、両者(両車?)はうまく稼動している。
今回、この本を読むにあたって、ユーチューブに投稿されているジョブズのキーノートの数々を見せてもらった。いずれも魅力的なプレゼンテーションだったと思う。英語の勉強にもなった(かもしれない)。
漢字トーク6の時代からはじまってOS8.1までぼくはMacintoshユーザだった。そろそろぼくというMacユーザを再発明してもいいかなと思っている。


2010年9月26日日曜日

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』

ラバーを表ソフトに替えた。
といっても卓球をご存じない諸兄にはなんのことやらわかるまい。卓球のラバーは大きく分けて2種類あって、それが表ソフトラバーと裏ソフトラバーである。人間同様、卓球のラバーも表と裏がある。
表ソフトラバーはイボイボというかツブツブが表面に出ているラバーで(さらにいえばそのツブの高さによってまた性質の異なるラバーのカテゴリーもあるのだがここでは面倒なので割愛する)、裏ソフトラバーは表面がつるんと平らなラバーのこと。小学生の頃は表ソフトラバーを使っていたが、昨今の主流は裏ソフトラバーであるらしく、卓球を再開したここ1年半、すっと裏ソフトを使ってきた。
が、ついこのあいだ、ひょんなことから表ソフトのラケットを借りて打ってみたら、思いのほかしっくりきたので貼り替えてしまったわけだ。
基本的なことをいうと表ソフトはスピードは出るが、スピンがかかりにくい。裏ソフトはスピンがかかりやすく、スピードが出ないということなのだが、昨今はスピンが重視される時代であり、技術的な進歩とともにスピードが出て、スピンのかかる裏ソフトが各メーカーから多数出てきた。世界ランカー、日本ランカーのほとんどが裏ソフトラバーを使用している。
表ソフトの存在価値は相手ボールの回転に影響されにくいということだが、ぼくにとっては今より身長が30センチも低く、軽快に動けた頃の自分を思い出せるというのがいちばんの効果だ。
ジョルジュ・バタイユの名前はある種の思想書に登場するだけでそれ以外に接点はなかったが、光文社の古典新訳シリーズでようやく読むことができた。
ともかくびっくりした。ある意味では赤塚不二夫の漫画よりもすごい。
もちろん、ラバーを替えて、軽快に動けているわけではない。

2010年9月19日日曜日

岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』

高校野球の新人戦がはじまっている。
他道府県はどうかわからないが、東京の場合、新人戦はまったくのガラガラポン。シードなしの抽選による組合せと何十年も昔に聞いたことがある。もちろん秋の大会は会場を提供する当番校があり、その24校は確実に振り分けられるわけだから本大会まで対戦はない。つまり当番校は暫定シード校ということになる。それ以外は純粋に抽選なのだろうが、毎年まずまずうまく振り分けられている。とりわけ昨年から本大会枠を24から48にしたことで強豪同士が予選で激突する確率は減ったといえる。
それでもくじの世界ならではのいたずらが当然ある。たとえば第3ブロックBなどはいきなり一回戦が早実対東亜学園。これで春選抜への道が閉ざされるわけだから、両校にとってはいきなりきびしい戦いになったが、東亜が接戦を制した(これを番狂わせ的な見出しで報道していた新聞もあったが、いかがなものか)。
この対戦に限らず、強豪同士が潰しあうブロックはいくつかあって、12Aの修徳・雪谷、24Bの国士舘・日大鶴ヶ丘あたりは予選ブロック戦のなかでも好カードとなるだろう。
この小説はさすがにドラッカーを扱っているだけに、戦略戦術に長けた一冊だ。かつてスポ根ドラマにはヒーローとライバルと友情が欠かせなかったが、現代に必要なのはマネジメントだぜっていう骨組と青春ドラマのお決まりディテールを巧みにマッチングさせたマーケティング小説といえそうだ。売れるべくして売れたと筆者とそのスタッフたちは思っているに違いない。


2010年9月16日木曜日

オノレ・ドゥ・バルザック『グランド・ブルテーシュ奇譚』

雑誌の表紙をつくる、という課題が出たそうだ。
美術大学に通う娘の話なんだが、そのデータを送るので仕事場のプリンタで出力してほしいとのこと。はいはい、と黙ってプリントしてくればいい父親なのだろうが、つい余計なことをいう。
どれだけのサンプルを見たのか、どんな雑誌にしようと思ってデザインを考えたのか、と。作曲家がどこかで聴いたことのある曲をつくってはいけないように、デザインするものは何かに似たデザインをしないほうがよい。そのためにはできるだけたくさんの雑誌に触れてみる必要がある。
今はインターネットですぐに検索できるから、短時間に膨大なサンプルを眺めることができる。だからといってそこからすぐれたデザインが生まれてくるだろうか。たいせつなのは“たくさん触れてみる”ことではないかと思う。手にとる、ページをめくる、目を通す。外国の雑誌でもなんとなくそのジャンルやテーマはわかる。勘がよければ、若者や初心者をターゲットしているか、そうではない専門性を持ったものかというのもわかる。そうした中身・内容をその表紙のデザインは期待させてくれるだろうか、きちんと語りかけてくれるだろうか。
雑誌の表紙はもちろん、ポスターだって、レコード(CD)ジャケットだって、おそらくこうした想像力のもとにデザインは成り立つものなのではないかと思う。
バルザックといえば、骨太な長編小説を思い浮かべるが、短編もなかなかのものだ。きらりと光るものがある。
で、娘には上記のようなことを言ったつもりだが、酔っ払ってたし、“いつも言ってるみたいなこと”にしか聞こえなかったと思うが、それはそれでいいんじゃないかな。

2010年9月13日月曜日

司馬遼太郎『最後の将軍』

先週の台風通過後、しばらくは「あ、これって大陸の風」と思える空気が日本列島に流れ込んだような気がしたが、また暑くなってきた。とはいえ朝晩はいくらかしのぎやすくなってきてやれやれであるが、考えてもみれば9月の中旬だ。そろそろなんとかしてほしい(誰に何をどうお願いすればいいのか皆目わからぬのだが)。
歴史小説、時代小説のファンがこれほど身のまわりにいるんだと知ったのはつい最近のことで、たまに幕末の話題になったりすると100%ついていけない。山川出版の日本史くらいなら読んではいるが(憶えているかいないかは別にして)、どこまでが徳川幕府の時代でどこからか明治時代なのかすらよくわからないでいる。そんなときはたいてい「サアカスの馬」の主人公のするバスケットボールのように飛んでくるボールをよけながら、ドンマイ、ドンマイと言うがごとくお茶を濁している。世の中のたいていのことは「なるほど」か「ですよね」と応えておけばうまくいく。ただし相手が謙遜しているときは要注意で、ときに「そんなことないでしょう」くらい言えないと気まずくなることがある。
仕事場の後輩の(大学の後輩でもあるのだが)Yが時代物をよく読むと聞いて、取り急ぎ司馬遼太郎にエントリーするなら何を読めばいいのかと訊ねたら、『最後の将軍』っすよ、という。どうやら徳川慶喜の話であるらしい。先日『羆嵐』を紹介してくれたHさんは自他ともに認める“幕末通”であり、そうした諸先輩方と熱く、楽しいひとときを過ごすためにもこれは必読の書であると思った。
正直申し上げると、自分で思っている以上にぼくは日本史の知識がない。漢字が読めない。登場人物の名前が憶えられない。特に苦しんだのが“永井尚志(なおむね)”。ルビのあるページに戻ること数知れず。ようやく記憶にとどまったところで読み終わった。
幕末通への道は遠く険しい。

2010年9月8日水曜日

長嶋茂雄『野球へのラブレター』

清水義範の短編に「いわゆるひとつのトータル的な長嶋節」という名作があり、それによると長嶋は野球の天才であり、解説者としての彼は「本能的にわかっている非常に高度なことを、なんとか説明しようと最大の努力をする」のだそうだ。それがいわゆるひとつの長嶋節になってしまう。それは長嶋の「言語能力が低いのではなく、伝えたい内容が高すぎる」からであるという。アインシュタインが子どもに相対性理論を教えるようなものらしい。
本書は野球に関する雑話と著者自身述べているように系統的でなかったり、思いつきであったり、いかにも長嶋茂雄らしい一冊だと思う。
長嶋茂雄は現役時代を知るぼくにはスタープレーヤーであったし、自らの引退後低迷する巨人軍の監督でもあった。その後浪人時代は文化人的な活動をしていたが、やはりこの人はユニフォームを着てなんぼの人なのだろう、第2期監督時代が(現役時代を除けば)いちばん輝いていたのではないだろうか。
なによりも長嶋の素晴らしいところは過剰を超えてあふれ出る自意識だ。ゴロのさばき方、ヘルメットの飛ばし方、エラーの演出、胴上げのされ方まできちんと計算しているスターなのである。そして彼の資質の中でさらにすごいのがグラブのように、バットのように、ピッチャー新浦やバッター淡口のように巧みにあやつる“言葉”ではなかろうか。“メークドラマ”、“メークミラクル”、“勝利の方程式”など長嶋茂雄の造語は多い。これらの言葉は意味をもつというより、意図を感じさせる役割を果たしている。天才の思いを共有するためのコミュニケーションツールになっている。
そういった意味からすれば長嶋の“言葉”に接することができたぼくらはなんて幸せなんだろうといわざるを得ない。



2010年9月5日日曜日

藤村和夫『蕎麦屋のしきたり』

今使っているPCがことごとく老朽化している。
自宅のネットブックはほとんど役に立たず、仕事場のノートPCは電源ジャックのあたりの断線か接触不良でバッテリが充電されたり、されなかったり。メーカーに修理を出したらまずメインボードの交換となるだろう。
以前PowerBook100というノート型のMacintoshを使っていたときも似たような症状があった。そのときはメインボードにつけれらた電源ジャックの半田が割れていたので自分で半田付けをしなおした。今回もたぶんそんなことだろうとは思うのだけれど、ノートPCを分解する意欲ももうないし、半田付け程度ですめばいいが、ケーブルの断線だったりしたら手に負えない。秋葉原の修理専門店に持ち込むか、あきらめるかのどちらかだ。自宅のノートPCはCeleronの650MHzくらいだが、仕事場のそれはPentiumIIIの1GHz。メモリも512M挿しているから、どうにかこうにかLinuxのネットブックにはなりそうな気がして、あきらめきれないところがある。
昭和50年当時、東京の蕎麦屋の名前で“藪”とつくのが約300軒、次が“更科”で160軒。以下“長寿”、“大村”、“満留賀”と続き、“砂場”がはやくから登録商標とされていたせいか65軒で11位だったという。
杉浦日向子によれば、そば好きは“蕎麦屋好き”と“そば好き”に大別されるらしいが、ぼくのように両方好きな諸兄も多いはずだ。
この本は元有楽町更科の四代目が書いたとあって、蕎麦屋を外からでなく、内側から見渡せる貴重な文献である。ぼくもかなり以前、老舗蕎麦屋の次男が先輩だった関係で大晦日のみやげ売り場に立ったことがある。いい蕎麦屋は内から見ても外から見てもいい蕎麦屋である。


2010年9月3日金曜日

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

仕事場で使っていたノートPCが起ち上がらなくなったのが去年のこと。
リカバリディスクでなんとか復旧した。ちょうどそのころ自宅で使っていたノートPCも同時多発的に起ち上がらなくなり、こっちのほうはHDDがやられているのか、リカバリもできず、そのままに放置していた。最近になってクロームOSはLinuxベースのOSでどうしたこうしたという記事を見て、LinuxをHDDにインストールすれば、この放置ノートPCもネットブックとしてよみがえるのではないかと思いついた。
ところが昨今、Linuxもコマンドラインからコマンドを入力して、という時代ではなく、GUIが当たり前になっている。先日、Fedora13というRedHat系のディストリビューションをためしにインストールしてみたら、デスクトップ画面が現れない。どうしたものかと調べてみたら、メモリが128MBでは全然非力なんだそうだ。
だからといってメモリを今さら買い足す気にもなれず、さりとて捨ててしまう気にもなれず、何かないかと探していたら、xubuntuという比較的少ないメモリで動くディストリビューションがあるという。
CDにisoイメージを焼いてインストールしてみると、やはりメモリが少ないせいだろう、画面サイズが小さい。800x600モードになっている。それでもFireFoxは起ち上がる。Gmailも見ることができる。ただし日本語入力はできない。これは今勉強中。一応ネットの閲覧だけはできるようになった。ただネットブックと呼ぶにはちょっと動作が鈍い。
話題作や長編ばかりで実はまだ読んでいない村上春樹は意外と多い。
この本もそうだ。”地震”しばりというテーマに対しては少なからず無理はあるものの、楽しく読ませていただいた。今後も読み漏らしている村上春樹を読み潰していきたい。


2010年8月29日日曜日

角川歴彦『クラウド時代と〈クール革命〉』

そうそう。最近の体育館の話。
区内にいくつか体育館があるのだが、そのうち古いものをのぞくと空調設備があって、実に快適なのである。たいして必死に卓球に取組んでいるわけではないのでそう汗をかくこともないのだが、空調はあるにこしたことはない。もちろん空調の設備のない体育館もないわけではない。夏は暑く、冬は寒いのである(そんなことは当たり前のことだが)。そういう体育館ではぼくのようなへなちょこ卓球でもそれなりに汗をかく。昨今ではスポーツ中はこまめに水分補給などということが奨励されているので、お言葉に甘えて、アクエリアスだのポカリスエットだのを大量に摂取する。高校時代には考えられなかった夢のような世界だ。
思い出した。体育館の話じゃなくて、Tシャツの話だ。
昨年から、スポーツするのに適したTシャツ、とりわけ夏場に着心地のいいTシャツはどこのメーカーのものかをそれとなく調査していた。最近のTシャツは昔のような綿100%のものではなく、ポリエステル製の、乾きがはやく熱を放出しやすいタイプのものが主流である。とはいえ、各メーカーのものを着くらべてみると微妙に着心地がちがう。
今、いちばんしっくりくるのはmizuno製で、軽く、やわらかく、風合いもいい。さすがは全日本チームのユニフォームをまかされているだけある。asics製も悪くない。ただちょっと厚手な感じがする。卓球用品メーカーのTシャツの中ではButterfly製とNittaku製のTシャツを着るが、後者はちょっと厚くて重くて、冬場はいいが夏だときつい。前者はまずまず合格点であるが、デザインがいまひとつだったりする。まあ、へなちょこ卓球のぼくに言われる筋合いもないだろうけど。
出版業界を代表する論客が熱く語るネット社会の未来像。その意欲は終章に“提言”というかたちで述べられている。日本の将来を支える日の丸クラウド。クラウドコンピューティングがめざす社会がいつしか単なるネット社会の一般論になって、どこがどうクラウドなのかよくわからなかったし、時折主語を端折られて読みにくいところもあるにはあるが、その熱意にだけは感心させられた。ユーチューブやグーグルを黒船にたとえる人が語る未来ってなんとなくおもしろい。
案外夏場活躍するのはunderarmerとかmizunoのBIO GEARといったアンダーシャツだ。これらはちょっとお高いけれど、着ていて暑くない。それでいてTシャツ一枚のときのようにびしょぬれになる感じがなくていい。ぼくにとってはちょっとしたクラウドコンピューティングのようなシャツだ(って意味がわからない)。


2010年8月26日木曜日

内田百閒『百鬼園随筆』

高校時代は炎天下でバレーボールの練習をしていた。
昔の話ではあるが、けっして大昔のことではない。バレーボールは屋内スポーツで公式戦は体育館で行われていた。もちろん6人制が主であった。
ぼくの通っていた高校は都心の真ん中にあったが、広さという点では恵まれておらず、体育館も小さかった。なんとか月に一度とか、週に一度とか体育館を使える日もあったが、基本は校庭に石灰でラインを引き、ネットを張って練習した。
敷地の狭いぶん、郊外の多摩川べりに合宿所があって、野球グランド、サッカーグランド、テニスコート、そしてバレーボールのコートがあった。もちろん屋外に、である。夏休みに行われる合宿練習では、ここに寝泊りして一週間朝から晩まで練習に明け暮れる。ぼくの在学中は幸か不幸か、天候に恵まれ、連日猛暑の中、楽しく練習させていただいた。諸先輩方に話を伺うとやはり合宿期間中は天候にすこぶる恵まれていたそうだ。
今では母校はなくなって新しい学校になってしまったが、広い体育館があり(バレーボールのコートが2面とれる体育館をぼくは“広い体育館”と呼んでいる)、多摩川の土手近くにある合宿所も以前に比べて縮小したようだが、そこにも体育館が(もうかなり以前に)つくられ、生徒諸君は幸か不幸か快適な合宿練習を行えると聞いている。
何の話をしようとしてたんだっけ?昔のことを思い出しているうちに忘れてしまった。
この夏はちょっと不慣れな仕事をした。主に電波媒体の広告の仕事をしているので印刷媒体の仕事というのは不慣れなのである。不慣れな仕事というのは疲れるものである。そうした疲れを癒すには、なんといっても人間くさい書物がいちばんである。
内田百閒は『阿房列車』でもお世話になったが、偏屈を通り越して、ぼくには真っ当な人に思える。なるほどと思える。もちろん借金ばかりしようなどとは思わないが、不思議なリスペクトを感じさせる心地いい作家のひとりである。


2010年8月22日日曜日

中村計『甲子園が割れた日』

高校野球も終わった。
去年の秋、大垣日大がまず明治神宮大会を勝ち、春選抜は興南、そして夏も見事に連覇した。夏の上位校は大方の予想通りだったのではあるまいか。報徳学園、興南、東海大相模は前評判どおり。千葉の成田が強いていえばよく検討したということになるだろう。ぼくが期待していたのは聖光学院、北大津、開星。残念ながら今一歩だった。不運な敗戦もあれば、幸運な勝利もあったが、スポーツは練習よりも試合が選手を強くする感がある。勝ち進んだチームは勝ち進んだぶんだけ着実に強くなっている。練習は嘘をつかないとよくいうが、勝利も嘘はつかないと思う。
また1年を通してチームのレベルを保ち続けること、さらにはチーム力を強化していくことはたいへん難しいことだと、毎年のことだが、思い知らされる。秋からコンスタントに全国レベルの力を保持し続けたのは興南、東海大相模であり、この両校が決勝を争ったのは不思議ではない。選抜をわかせた日大三や帝京は夏の大舞台にすら立つことができなかった。一方でこの春から力をつけてきた学校も多い。激戦区兵庫を勝ち、近畿大会を制した報徳や春の東北大会を勝った聖光学院、近畿大会で報徳には敗れたものの昨秋から飛躍的に強くなった履正社などがそれにあたるだろう。
松井秀樹が甲子園で5敬遠された試合はテレビで観ていた。当時はずいぶんなことをしやがるもんだなあと思っていたし、純粋に松井のバッティングを見たいと思ったものだ。今はどうかというと、野球に限らずスポーツでは勝つことが重要性であるとの思いが強い。作戦として当然のことだったと思えるようになっている。そういった意味では、この本は今さらな感じではあるのだが、かつて明徳義塾の野球に苛立ちを感じていた頃の熱い自分が懐かしく思えた。
東京の秋季大会一次予選は来月中旬からだという。来年の夏はもうはじまっている。

2010年8月19日木曜日

川端康成『雪国』

“上”とつくものに多少の抵抗感がある。
上天丼とか上カルビとかにだ。なかには“特上”なるものもあって、仮に経費でまかなえるとしても分不相応な気がする。ただ、特上があるメニューの上は比較的頼みやすい。
ときどき大阪風のうなぎが食べたくなって、銀座のひょうたん屋(6丁目と1丁目に店がある)に行くことがある。6丁目の店は松・梅・竹と昼時だけの丼があり、1丁目は上・中・並で並はお昼だけとなっている。もちろんいちばんリーズナブルなランクを注文する。それでも1,000円を超えるわけだから、贅沢な昼食だ。
ごくごくまれに豊かな気持ちになりたくなって、上のランクのメニューを頼むことがある。それでも松や上は頼めない。それを注文する人は人格高潔にして聖人君子のような人でなければいけない(と、勝手に思っている)。金さえ払えば何を食ってもいいかというとけっしてそうではない(はずだ)。客としてじゅうぶん鍛え上げられた客だけが特上の資格を得るのである。
子どもを連れて行く焼肉屋で特上ばかり注文する父親はだいじな教育の機会を失っている。特上もあるけれども、今日は上カルビにしておこう。特上はいつか、しかるべき時までだいじにとっておこう。こう言うのが教育である。
言い訳がましいが、そう思っている。
鉄道ファンの書いた本や旅行記に引用される率が非常に高い川端康成の『雪国』であるが、もちろん鉄道の本でもなく、旅の話でもない。上越地方が舞台なので吉幾三の“雪國”とも関係はないようだ。
精緻な描写力が生んだきわめて映画的な作品であると思う。かつて映画には岩下志麻が駒子役を演じたらしい。島村役の木村功もあわせて見事なキャスティングだ。



2010年8月16日月曜日

小川浩・林信行『アップルvs.グーグル』

金曜土曜と房総なのはな号で千倉まで行く。都心に比べれば、もうこの時期になれば朝晩いくらか涼しくなるはずのこの辺りも蒸し暑い。
バスの旅は楽といえば楽であるが、昨日のように帰省ラッシュに巻き込まれたりなどすると余分に時間がかかって困る。まあ、それでものろのろ走ってくれたおかげで東京湾華火が見られたのはラッキーといえよう。
今日はかねてから約束のあった野球観戦に行く。午前中近所の体育館で軽く卓球をして(それでも激流のような汗をかく)、昼食を摂り、14時開始の巨人横浜戦になんとか間に合う。一塁側内野席でそれなりに盛り上がる席だったが、試合はあまり盛り上がることもなく、むしろ気になったのはラジオで聴いていた高校野球だったりして。
空調の効いた東京ドームで観る真夏の野球は快適至極であるが、その一方でこれが野球観戦の“ふつう”の姿なのかとも思う。やっぱり野球は炎天下でする、観るっていうのが正しいのではないか…。
ところが今世の中の人の多くが気になっているのはどうやらアップル対グーグルであるらしい。たぶんにiPhoneとアンドロイド携帯によるスマートフォン対決が街中を賑わせているからだろう。
ぼくも1990年代はMacintoshユーザだったのでAppleの製品とその思想には感嘆する者のひとりである。最近は残念ながらApple製品は使っていない。それは自らのITリテラシーを高めるために課している試練なのである。より率直に述べるならば、PCを買い換える原資に乏しいのである。
ぼく個人の経験と印象だけでアップルvs.グーグルを語らせてもらえば、グーグルのアプリケーションはまだまだ粗削りだし、デザインも含め操作性全般に“ゆきとどいたところ”がじゅうぶん見られない。その点でいえば、最近のアップル製品はきわめて完成度が高くなった気がする。とはいうものの昔のMacintoshだって、気が利かないIM(っていったっけ?かな漢字変換のプログラム)やすぐに起きるフリーズ、日本語を小馬鹿にしたようなフォントなど、いけてなかったよなあと思うのである。
だからぼくとしてはこの勝負、今のところ引き分けってことで勘弁してもらいたい。

2010年8月12日木曜日

吉村昭『羆嵐』

都心の電車が空いて、高速道路が渋滞する。盆暮れ正月とはよく言ったものだと思う。
どことなく、であるが東京は風通しがよくなったような気がする。あるいは日本海を進む台風のせいかもしれないが。
今週末は休みをとって、千葉の千倉に恒例の墓参りに行こうと思っている。宮脇俊三もたいして話題にしなかったなにもない房総半島の突端である。最近は東京駅八重洲口からバスの便もあり、東京湾に渡した橋を通る楽しみができた。かつてはフェリーで渡っていたところだ。
ここのところいっしょに仕事をしている某広告会社の営業T君が今まで読んだなかでいちばん怖い小説ってなんですかと訊く。
怖いといってもねえ。スリラーとかホラーとかあんまり読まないし、スティーブン・キングとかですかね。
などと話し込んでいたら、クリエーティブディレクターのHさんが怖いといったら、吉村昭の『羆嵐』だよ、怖いよう、と話の輪のなかに入ってきた。怖い話ときいて、そこであらすじを聞いてしまっては元も子もないので、そこから先は話題を換え、続きは読んでみることにした。
人間にとって“怖い”というのは、地震・雷じゃないけれど、超常現象とか凶悪犯などではなく自然現象なのだと思った。ふだんぼくたちはそうしたものに対する文明という備えを整えているから、恐怖を感じないだけであって、やはり無防備なまま自然そのものに立ち向かうというのは非常に恐ろしいことなのだ。
たとえば夏場に起きる水の事故などその最たるものといえよう。

2010年8月9日月曜日

宮脇俊三『最長片道切符の旅』

いつしか仕事場から時刻表がなくなっていた。
今、たいがいのものがネットで調べられる時代だ。時刻表を開かなくとも、どこそこへ何時着で行きたいか、なんてことはポータルサイトの“路線”で調べればいい。ただしそこには旅程をイマジネーションする楽しみはない。
ぼくが時刻表にのめり込んだのは、小学生の頃だと思う。1970年、本州から蒸気機関車がなくなった頃だ。考えてみれば地理も歴史も漢字も時刻表に学んだところが大きい。北海道の地名は特殊だとしても、その地方地方で独自の読み方をする地名をぼくは駅名から学んだ。東京からの距離感は巻頭の路線図と東京から、あるいは始発駅からのキロ数で学んだ。
3年前、南仏を訪れたときも、頼りにしたのはトーマスクックだった。時刻表というシステムは万国共通なのだ。
テレビコマーシャルの企画立案という仕事を最初に手ほどきしてくれたMさんはCMプランナーである以上にすぐれた画家だった。今でも横浜でご近所の奥様方に水彩画を教えておられる。そのMさんの座右の書であったのがこの『最長片道切符の旅』である。
宮脇俊三はもと雑誌編集者であったと聞くが、そのあたりのコミュニケーションのセンスはじゅうぶんにうかがえる。車窓から見える風景をだいじにし、しかも余計なことは書かない。あたかもいっしょに日本を縦断しているような錯覚に陥る。著者が小海線で小淵沢から小諸に向かうとき、車内放送の簡潔さを賞賛するくだりがある(賞賛は大げさかもしれないが)。事実だけを簡潔に述べ、ためになる。筆者の、この本に対する基本的な姿勢を垣間見ることができる貴重なシーンだ。
そもそも時刻表とはそういうものだ。余計なことはいくらでも付加できる。にもかかわらず、寡黙に情報を提供し、それから後のことは旅人にまかせる。この本はシステマティックに最長ルートを割り出し、ただ暇に任せて乗りつぶした人間の記録ではない。真に時刻表や鉄道という装置産業に敬意を表する人間にしか書くことできなかった稀有な旅行記である。
そういえばMさんの描く安曇野の水彩画は、まるで列車の車窓からながめる風景のようだった。


2010年8月5日木曜日

共同通信社編『東京あの時ここで』

紙の手帳を使わなくなってもう10年になる。
携帯型の端末が好きであれこれ渡り歩いてきた。NECのモバイルギア、シャープのザウルス、ヒューレットパッカードのJORNADA。その後Palmに移行して、Visor、Clie。Clieは今も現役で使っている。
この間の“予定”はPCと同期を取りつつ、引き継いできたので、Clieのなかには2000年3月からの予定が保持されている。Clieももう5年ほど使っているだろうか。バッテリが弱くなってきたので、先日交換した。秋葉原にはフィギュアだけでなくこんなものもまだ売っているのだ。
さしあたりClieの延命措置はできたが、せっかくここまでためこんだデータだから役に立たないだろうが持っていたいと思うのは人情だろう。古いMacintoshの一体型やノート型を捨てられないのと同じだ。もちろんPCとはときどきシンクロナイズさせているのでOutlookには過去のスケジュールデータは残っている。ただ考えてみるとWindowsXPもPalmOSもいつまであるかわからない。
というわけでグーグルカレンダーに10年データを移行させることを思い立った。今はグーグルのアプリケーション(Google Calendar Sync)でなんてこともなくOutlookと同期がとれる。たいしたものだ。アドレス帳もCSVに書き出してグーグルにインポートした。ところがこれがいまひとつ。グーグルの住所録は番地、住所、郵便番号の順に表示されるアメリカンなもので、ちょっと気障ったらしい。わざとそうしているのか、グーグルという急成長する企業に担当スタッフが追いつけていないのか定かじゃないが。その点WindowsLiveのアドレス帳は郵便番号、住所、番地と普通に日本人ライクに表示される。なかなかよろしい。
急成長急発展をとげるクラウドコンピューティングの世界だが、戦後の日本もそうだったのではないか。その政治経済文化の中心を担ってきた昭和の東京には手さぐりで発展をとげてきた形跡がいくつも残されている。要するにこの本はそんな東京の足跡を追いかけている。


2010年8月1日日曜日

NHKスペシャル取材班『グーグル革命の衝撃』

PCのハードディスクがいっぱいで、残り何メガバイトという状態だった。
一般には(というか経験的には)ハードディスクの容量が一杯になるといろいろとトラブルに見舞われることが多い。ハードディスクの換装か、新しいPCの購入か(もう5年くらい使っているWindowsXPマシンだし)。2~3日悩んだのだが、あれよ?これってパーティションをかえればいいんじゃないのとさっきようやく気がついた。
もともと40Gしかないのだが、20+20でCドライブ、Dドライブに割り当てられていたのだ。Dドライブなんてそもそもデータの逃がし場所でしかないからほとんど使っていなかった。でもってPartitoin Wizardというソフトをダウンロードして、25+15に変更。
心なしか反応が速くなった気がする。少なくともそう感じることができるだけでも精神衛生上いい。
引き続き、グーグル本。
よくあるテレビのドキュメント番組のようにNHKスペシャル取材班は明快な結論を避けている。そんな印象の一冊。
検索から広告へつなげたこと、消費者と広告主のニーズをつなげたことがグーグル勝利の起点だ。広告というビジネスモデルと縁遠い存在であるNHKにはない発想がある種の戸惑いで終始させたのだろうか。あるいはそれは読み手の、下衆の勘ぐりか。
先に読んだ『グーグル時代の情報整理術』で筆者のメリルは手書きメモとデジタルデバイスの棲み分けを語っているが、要は結論的にはそういう共存形態なのではないか。検索まかせで図書館で文献を調べない若者が多いとか、多くなるとか、クラウドに記憶をゆだねて自ら思考を封鎖する人間が増えるとか、携帯端末で利便性を享受するだけの旅とか、ありえるとしてもさほど危惧すべきでもないような問題を針小棒大のごとく提起するテレビ番組の取材チームは視聴率を稼げても世の中にはなんら身のある提言をしていないに等しい。

2010年7月28日水曜日

中村明『センスある日本語表現のために』

今年の夏は神宮球場にかよう間もなく高校野球が終わってしまった。
西は準決勝の日大対決、早稲田対決で盛り上がりを見せ、古豪早実が優勝。春選抜準優勝の日大三が敗れ、東東京も選抜8強の帝京が国士舘に苦杯を喫するという波乱があった。帝京は選抜以降コンディションを崩したのか、春季都大会で敗退し、今大会はノーシードだった。スポーツのたいていがそうであるように高校野球というのは予測不可能な競技である。
東東京大会の決勝は修徳対関東一。下町対決となった。少ない好機をいかした修徳が逃げ切るかに思われた9回裏まさかの大逆転劇で関東一が優勝。まったくわからないものだ。
「センスある日本語表現」という表題にすでにセンスが感じられない本書であるが、内容は“語感”をテーマによくまとまっているし、古さを感じない。発行が1994年。16年も昔のことなのに。当時はまだ“センスある日本語”という言葉が違和感なく通用していたのだろう。
たまにこうした日本語関係の本を読むが、さすが中公新書だ。奇をてらった感じがなく、真摯で読みやすく、空気のおいしいリゾート地を散歩しているような気持ちよさがある。

2010年7月24日土曜日

オノレ・ドゥ・バルザック『ゴリオ爺さん』

「フランス文学 24人のヒーロー&ヒロイン」と題されたNHKラジオフランス語講座応用編でフランスの名作を紹介している。なかなかすぐれた読書ガイドだ。
先日、いつだったか2週にわたって紹介されたのがバルザックの『ゴリオ爺さん』。「ゴリオ」という名前はどことなく昔のアニメーションのガキ大将のような響きがあり、ゴリラのような風貌のやんちゃな爺さんを想像していた。人間ってやつはなんてに勝手な想像をするのだろう。
ところがどうして、ゴリオ爺さんは朴訥で、働くことだけが取柄で、娘たちを溺愛し、にもかかわらず看取られることもなく世を去るこの上ない不幸を身にまとった老人だ(もちろん娘がふたりいる父親としては共感せざるを得ない部分が大いにある)。
残念ながら、ゴリオ爺さんはわんぱく爺さんではなかった。そういった意味ではぼくはこの小説に裏切られたのであるが(勝手に思い込んでいて裏切られたもない話だが)、それ以上に他の登場人物がこの物語を盛り立てている。とりわけゴリオ爺さんと同じ下宿ヴォケー館に住むラスティニャックは立身出世をもくろむ地方出身者で主役といってもいい存在である。このほかにもひとくせもふたくせもある人物が登場する。バルザックはどうやら登場人物を使いまわす作家であるらしい。機会があれば別の作品でこれら登場人物に出会いたいものだ。
親というのはいつの世も子どもたちに裏切られているのかもしれない。裏切られた親がかつてそうだったように。

2010年7月20日火曜日

さくらももこ『永沢君』

先月、次女が修学旅行で京都、奈良をまわって来た。
帰りの新幹線のホームには京都に住む姉が見送りに来て、たいそうな土産を持たせてくれたようである。
修学旅行と聞いて思い出す一冊は、さくらももこの『永沢君』だ。『ちびまるこちゃん』の特異なキャラクターである永沢君、藤木君らの中学3年生時代の物語である。
『ちびまるこちゃん』はテレビアニメーションとなって、『サザエさん』同様人工衛星アニメ化した。人工衛星アニメというのはいちど軌道に乗ったら永遠にまわり続けるアニメーション番組のことで、ぼくが勝手に名づけたものだ。つまりそこには時間の概念はない。永遠にまるこは3年生だし、かつおは5年生だ。イクラ、タラにいたっては永遠に乳幼児だ。
そんななかでこの本が画期的だったのは、永沢や藤木が年齢を重ねるという現実にきちんと立ち向かったことだ。永沢はビートたけしに憧れ、藤木は深夜ラジオのスターになり、野口は憧れのなんば花月を訪れる。平井は土産屋で万引きし、それを目撃した小杉は殴られる。そして高校受験、卒業となんとも切ない思春期の物語だ。切なさの根源は時間の流れ、ということなのか。
ちなみにまるこ、たまちゃん、まるおは登場していない。おそらくは私立の中学校に進学したのだろう。でも花輪はいる。中学受験に失敗したのだろうか。

2010年7月17日土曜日

ダグラス・C・メリル/ジェイムズ・A・マーティン『グーグル時代の情報整理術』

早川書房といえば、SFやミステリーでおなじみだが、いつの間にか新書も出版していた。
ぼくが好んで読んだハヤカワの本はカート・ヴォネッガットJrのSF小説で和田誠の装丁が好きだった。浅倉久志の訳も筆者を熟知した感があってあんしんして読めたと思っている。
そんなせいか、ハヤカワと聞くと良書を良質な翻訳で世に出している、といったイメージが強い。
先にクラウドコンピューティングの本を読んで、あまりにグーグルのことをぼくは知らないなと思い、それじゃあ、ってんで、手にとった。
グーグルという企業のモットーは「世界の情報を整理する」ということらしいが、筆者で元グーグルCIOのダグラス・C・メリルが自らの実体験とともに情報整理術を披露する。けっしてグーグル製品に偏った宣伝的な本でないところがいい。
gmailをはじめていないのならば、この本を読むのを機にはじめてみてはいかがだろう。本書の内容をPCの画面で確認できる。WordやExcelなどのファイルも作成でき、PDAやOutlook のスケジュールや連絡先データも移行できるが、実際のところは機能的には不十分だったり、文字が欠けたり、日本語版ではまだまだなところもあるが、とりあえずクラウド体験するにはもってこいだ。
早川書房に話は戻るが、翻訳ものや演劇関係の本が多かったので、もしや早川雪洲と関係があるのでは、と思っていたが、どうやらそういうことではないようだ。



2010年7月15日木曜日

オルセー美術館展2010

仕事場でとっている日経新聞のチラシのなかに新聞販売店のアンケートが挿し込まれていて、適当に答えてFAXするだけなのだが、回答者のなかから抽選でオルセー美術館展2010のチケットが進呈されるという。ちなみに返答すると数日後、日経新聞販売店の人がチケットを持ってきてくれた(ここのところ、小さいことに関しては運がいい)。
そんなわけで昨日がはじめての国立新美術館。
前回オルセー美術館展を観たのは上野、東京都美術館だったような気がする。そのときは写真や陶器、彫刻などさまざまな展示があり、メインの絵画はエドゥアール・マネの「ベルト・モリゾ」だったような…。
今回は特にこれといった大物はなかったように思う。アルルのゴッホの部屋とか、ゴーギャンの自画像とか前回来日した絵も多かった。強いてあげればゴッホの自画像、スーラの点描画の何点かが印象に残った。
しかしながらなんといっても観てよかったと思うのはセザンヌの「ラ・モン・サン・ヴィクトワール」だ。大きな絵ではなかったけれども、3年前カンヌからアヴィニヨンへ向かうTGVの車窓からほんの一瞬だけで見たヴィクトワール山の姿を思い出したからだ。人間の記憶とは不思議なものでほんの一瞬でも印象に残ったものは一定期間、あるいは永遠に(もちろん体感的にではあるけれども)記憶できるものだ。
美術館を出たら雨が上がっていたので、昔伯父の住んでいた三河台公園のあたりを蒸し暑いなか散策してみた。大きなマンションが建ち並び、当時にもまして日当たりの悪くなった俳優座の裏の細道から六本木通りへ出て、南北線の六本木一丁目駅まで歩いた。

2010年7月14日水曜日

阿刀田高『ギリシャ神話を知っていますか』

サッカーワールドカップ2010はスペインが優勝した。
識者によると速いパスまわしでチャンスをつくるスペインのサッカーは日本がめざしているサッカーに近いらしい。じっくり時間をかけて、切り崩した貴重な1点だったように思う。オランダは長いパスやドリブルの突破など、見ていて派手なサッカーだったが、微妙に勝ちに出る姿勢に乏しかったような印象だ。それにしてもオランダのファンマルウェイク監督の試合後のコメント「主審が試合をコントロールできていたとは思わない」は言わなくてもいい余計なひとことだ。
ギリシャの神々は聖書に比べて、とても人間的である。神話と呼ばれるだけあって、奇想天外な物語ばかりだが、登場する人物のみならず神々たちも人間的だ。
ギリシャ神話の逸話は西洋の小説にふんだんに引用されており、読書のための基礎教養として必須かなと思っていた矢先にこの「知っていますか」シリーズに出会えてなによりである。「知っていますか」を「知っていませんでした」だったわけだ。

>すでにこれまでの十章でおおよその英雄や美女たちについては触れただろう。
>ヘレネ、パリス、ヘクトル、アンドロマケ、カッサンドラ、アキレウス、ピュロス、
>オレステス、レダ、ヘラクレス、アドニス、ダフネ、オイディプス、アンティゴネ、
>オルペウスとエウリュディケ、シシュポス、タンタロス、ディオニュソス、プロメ
>テウス、エピメテウス、パンドラ、イアソンとアルゴー丸の船員たち、メディア、
>オデュッセウス、ペネロペイア、そしてゼウスを初めとするオリンポスの神々。
>いくぶん私好みの選択ではあったが、膨大なギリシャ神話の中の著名なエピ
>ソードはおおかた取りあげたと思う。読者諸賢は右のヒーローとヒロインたちの
>中で、どれほどの数を記憶にとどめておられるだろうか。

これはエンディングに近い11章で筆者が記しているまとめの部分。まあ、読み終えた今となっては、大して記憶にも残っていないが、そのうち折があれば思い出すだろう。

2010年7月9日金曜日

柳田國男『日本の伝説』

ワールドカップもいよいよ大詰め。決勝に勝ち上がるのは、ブラジルのいるブロックとアルゼンチンのいるブロックからだろうと思っていたが、ドイツも敗れて、スペインとオランダの対戦となった。決して予想外の展開ではなく、ヨーロッパの強国同士。いい試合を期待したい。
ワールドカップといえば、先日コカコーラのキャンペーンでワールドカップ2010のロゴがデザインされたTシャツが当たった。コカコーラで当たったというより、アクエリアスで当たったというべきか。なにせ土日に卓球をするとこの時期猛烈な汗をかく。水分補給はたいせつだ。
その昔、水の便の悪い村があった。村人は遠くにある水源に毎日水を汲みに行っていた。あるときその村にやってきた弘法大師が苦労して水を運んでいる村人に一杯の水をめぐんでもらった。弘法大師はお礼に杖で地面をたたき、ここを掘れという。そしてその井戸から良質な水が湧き出し、村をうるおした。
と、このようなありがたい話が満載されているのがこの本。柳田國男によれば、昔話と伝説の違いは、動物的なるものと植物的なるものとの差であるという。普遍的なストーリーがあちこちで見られる昔話に対して、伝説はその土地土地にしっかり根を張っているということらしい。
偉い人が地面に挿した箸が成長して大木になったり、山が背比べをしたり、持ち帰った石が大きくなる話などなど日本はあっちこっちでおもしろい国だと思う。
ただLなんだな、サイズが。Oだったらよかったんだけど、選べるサイズがMとLしかなかったんだよね。

2010年7月6日火曜日

戸村智憲『なぜクラウドコンピューティングが内部統制を楽にするのか』

もうかなり前からクラウドコンピューティングという言葉を耳にしている。
ギターの上手いおじさんがコンピュータをはじめて、そのギタリストの名前をとって、クロードコンピューティング。それを英語読みするとクラウドというわけだ。もちろんうそだ。
最近になってぼくが関心を持ったのは、きわめて個人的な事情で、要は仕事場で使っているPCのハードディスクの容量が小さくてすぐにいっぱいになってしまう。外付けに逃がしても逃がしてもすぐにいっぱいになってしまう。よくよく調べてみたら、日常的に使うアプリケーションも多いのだが、ゴミ箱に入れられない古いメールや頻繁に使うテンプレート、画像等の圧迫が大きい。こんなものはネット上のどこかに置いておいて、使いたいときだけダウンロードすればいいんじゃないかと常々思っていたら、クラウドというのはどうやらそういうことらしい。
ポルトガルにものすごくサッカーの上手い選手がいて、しかもコンピュータにも長けていた。その名をクリチアーノ・クラウド。その名をとって…。そんな馬鹿な。
先日、個人情報保護に関するセミナーが都内某所であり、そこで1時間ほど話をしてくれたのが、この本の筆者、戸村智憲だった。
厳密に言えば、その講演を聴いて、興味を持ったのでこの本を読んだ。順番としてはそうである。
ITは社内で持つ時代ではなく、社外あるものを賢く借りる。内部統制でネックとなる対応コストの増大に応えるのがクラウドコンピューティングであるというたいへんためになるお話でした。

2010年7月2日金曜日

野坂昭如『アメリカひじき 火垂るの墓』

先日、岡山に行ったときのこと。
プロデューサーのTが弁当を買うというので、ぼくは“貝づくし”という煮帆立ののっているのを指定した。あまりあれもこれも入っている弁当は好きではない。
昼近くなって、豊橋だか三河安城だかあたりで、お腹が空いたので弁当を出す。包み紙には“深川めし”と印刷されている。なんとなくいやな予感がしたが、深川めしと貝づくしは隣どうしで並んでいたし、つくった会社も同じだったと思うので、包装紙は同じものを使っているのだろう、くらいに思ってふたを開けると、なんとやっぱり深川めし。
ぼくは普通に寛容な人間なので、深川めしと貝づくしの違いくらいで騒ぎ立てたりなどしない。ご飯にのっている帆立が穴子になったくらいの微差だ。
ただ食べながら思ったのだが、ぼくが駆け出しの頃、大先輩の弁当を間違って買ってしまっていたら、いったいどんな目にあっただろう。当時は純粋に怖いスタッフは大勢いたからだ。たぶん名古屋で降りて、東京駅に戻って、取り替えてもらってこい!くらいのことは言われただろう。それとか、自分の弁当ならまだしも、相手が子どもだったらどうか。食べたいものと違うものが目の前になって、それがもしも大嫌いなものだったら…。
考えただけでも背筋の凍る思いである。
一応念のため、Tに弁当が頼んだものと違っていたと教えてやった。そしたらT,「ぼくはちゃんとお店の人に“貝づくし”っていいましたよ」だって。時代が変わったのか、Tが未熟なのか、Tを教育した人がバカなのか。普通こういうときには「申し訳ありませんでした」とまず詫びを入れてから、弁解するなり、言い訳するなりしたほうがいい。そう言おうと思って、Tの悪びれない顔(こいつはいつも阿呆みたいな顔をしているのだが)を見て、余計なことを言うのはやめた。
野坂昭如と聞くとどうしても文壇の人というより、テレビの人、タレントというイメージが強い。タレントでないとすれば作詞家。「おもちゃのチャチャチャ」の印象が強い。
「火垂るの墓」は前々から読みたいと思っていたのだが、独特の、助詞を省いてリズミカルな文章は慣れるまでは時間がかかるが、読みすすめていくうちに講談を聞いているような錯覚におちいり、いつのまにか数十頁読み進んでいる。実に不思議なタレント、いや作家である。
のぞみ号が新神戸に停車したとき、ふと野坂昭如を思い出した。

2010年6月30日水曜日

柳田國男『日本の昔話』

日帰りで岡山に行ってきた。
滞在時間はものの3時間。のぞみ号に乗っていた時間が7時間。新幹線に乗るのが仕事、みたいな仕事だった。
山陽新幹線で広島まで行ったことがあるが、岡山で下車するのははじめて。おそらくこの辺が新幹線で行くか、飛行機で行くか悩む距離ではないだろうか。
まさにとんぼがえりだったけれど、せっかくだから駅できびだんごを買った。絵本作家の五味太郎のイラストレーションのパッケージだった。ちょっと土着感がないかなって感じ。
以前、ジョルジュ・サンドの『フランス田園伝説集』というのを民間伝承を収集した本を読んだが、この手のものはおそらく世界中どこにでもあり、才能に恵まれたなら、研究などしてみるとさぞや楽しかろうと思っている。当然、日本にもあって、これが柳田國男のライフワークとなっているわけであるが、新潮文庫でもさほど売れている本でもないようで、先日歯科治療に行った草加の本屋でやっと見つけた。
自分の幼少の頃を思い返しても、これほど多くの昔話を聞いたことはなく、日本全国から採集する作業も楽しかろうとも思うが、苦労も多かったろうとも思う。
ペローのサンドリヨンの話とよく似た「米嚢粟嚢」などは人間の普遍性の証なのか、それともどこかで西洋文明との交渉があったのだろうかと考えてしまう。そもそも奥州は欧州から来ているのではないか、と下衆な勘ぐりさえ起こしてしまう。「鶯姫」や「奥州の灰まき爺」など、かぐや姫や花咲じじいとそっくりな話もあって、そのオリジナルはいったいどこにあったのだろうか。また「鳩の立ち聴き」や「盗み心」など日本人は昔からユーモアあふれる国民性を持っていたのだなあと感心させられる。
まあ、おもしろい話というのは昔からあったのだろう。

2010年6月25日金曜日

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

高校時代は皇居のまわりを毎日のように走っていた。
厳密にいえば、走らされていた、だろうし、先輩がいる席では、妙な日本語ではあるが、走らさせていただいた、となる。
学校が皇居の北側に位置していたので、一般には桜田門あたりがスタート地点となって、ラストは風光明媚な半蔵門の坂を下ってゴールするといったコースどりであるが、ぼくたちの場合、北の丸公園を基点に、英国大使館前から半蔵門、三宅坂、桜田門と過ぎて、いちばん距離的にきついところで竹橋の上りが待つというけっこうタフなコースだった(しかも北の丸公園には歩道橋をわたらなければならない)。
今、仕事場は半蔵門に比較的近いところにあるが、昨今のランニングブームたるやすさまじく、ご近所の銭湯のロッカーを借りて走るランナーが急増したせいか、その手のショップが次々にオープンしている。たまには走ってみようかなとも思わないでもないが、どうやらあのスパッツというのかタイツというのか、ランニング専用のパンツは思いのほか高価と聞き、なにもそんなに出費してまで走ることはなかろうと思い、自重している。

村上春樹を文庫本で読むことはきわめて稀なことである。
たいていは出始めの、書店で平積みされている新刊を手に取ることが多いのだが、ことエッセーに関してはあまり熱心な読者ではなかった、と思う。
このあいだ日垣隆『知的ストレッチ入門』という本を読んでいて、そのなかで紹介されていたので近々読んでみようと思っていたのが、この本である。その読んでみようと思った翌朝の新聞で文藝春秋社の広告が掲載されており、なんとぼくが読みたいと思っていた『走ることについて語るときに僕の語ること』が文庫化されたというではないか。まあ、これまでのぼくと村上春樹のつきあいからして(どんなつきあいだ?)、文庫になろうがやはり単行本で読むのが正しい読み方であろうとは重々承知してはいるのだが、まあせっかく文庫化されたわけだし、ご祝儀としては微々たるものだが、一冊くらい購入しても悪くはなかろうという思いで、新刊文庫コーナーにあるその初々しい一冊を手にしたわけだ。
小説ばかり読んでいるとついつい忘れがちな村上春樹というの人の人となりをエッセーは如実に描き出してくれるので、たまには読んでみるべきだ。しかもこの本は著者のマラソンやトライアスロンにかける献身的な姿勢が恐ろしいほどで、共感というより、ある種のリスペクトを生む。ちょっと適切な対比ではないかもしれないけれども、武道やレンジャー訓練やボディビルに熱を上げた三島由紀夫のような迫真の姿勢を感じる。
表面上はずいぶんリラックスした雰囲気のエッセーではあるが、その精神性はまさに崇高である。

2010年6月22日火曜日

阿刀田高『新約聖書を知っていますか』

サッカーワールドカップ2010。
引き分けなしの決勝トーナメントも壮絶でおもしろいが、まずは予選グループ戦の大詰めがなんといっても目が離せない。
今日からいよいよグループ戦3まわり目。フランスはもう奇跡を待つしかなく、イングランド、ドイツ、スペイン、ポルトガル、イタリアとヨーロッパの強国の苦戦が続く。安定しているのは南米のチーム。やはり南半球の大会のせいだろうか。
ふだんあまりサッカーを観戦することはないが、力の差が歴然とあらわれる試合もあれば、格下と思われるチームが戦術的に上位チームを苦しめ、さらには勝利までするという番狂わせもあって、たまに観るとおもしろいものだ。
特にヨーロッパのチームは守りがしっかりしている。たぶんふだんからディフェンスの練習にじゅうぶんな時間を費やしているのだろう。ディフェンス練習にはオフェンス側が必要だから、当然半分は攻撃練習にもなるし、守りを通じて攻めを知る、要は野球のキャッチャーが配給を読む、みたいなこともあるだろう。守備に時間を割くことで攻撃の練習はおのずと少なくなる。それも攻撃時の集中力向上に役立っているのではなかろうか。

この本は先に読んだ『旧約聖書を知っていますか』と同様、かゆいところに手が届く一冊である。

>このエッセイは、〈旧約聖書を知っていますか〉の姉妹篇とも言うべき試みである。
>欧米の文化に触れるとき、聖書の知識は欠かせない。美術館一つをめぐるときで
>さえ、--この絵は聖書のことらしいけど、どういう背景なのかな--
>と、素朴な疑問を抱いてしまう。
>そんな不自由さを少しでも軽減してくれる読み物はないものだろうか……私が
>二つのエッセイを書いた動機はこれに尽きている。

とあるように、おそらくこの手の知識を最低限身につけていれば、ヨーロッパの絵画の鑑賞や古い教会めぐりが楽しくなること、請け合いである。ただ、せっかく有意義な読書体験も先立つものがなければ、実地に活かす場を与えられない。残念至極である。


2010年6月19日土曜日

小山鉄郎『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』

フランスのセーヌ、ローヌ、ロワールに相当する河川が品川でいえば目黒川と立会川だろう。とりわけ後者は京浜急行の駅名にもなっており、知名度は相当高い(はず)。
立会川はもうかなり昔に暗渠となり、その上は普通の道路となっているが、ぼくの子どもの頃は今のJR横須賀線の西大井駅のあたりにあった、たしか三菱重工だったと思うが、その工場の敷地内が暗渠化されているくらいで、あとは都内でよく見かけたどぶ川みたいなむき出しの小河川だった。三菱重工の隣は日本光学、今のNIKONで大井町界隈は品川の産業の中枢であったことがうかがえる。
その産業地帯に小さな公園がいくつかあり、そろそろ遊び場探しに苦心していた少年たちは猫の額ほどの公園でよく手打ち野球というゲームに興じた。軟式テニスに使うようなゴムボールをバットのかわりに自らの握りこぶしで打つ野球だ。ノーバウンドで公園の外に出ればホームラン。だいたいひと試合でホームランが十数本飛び出す空中戦野球でもあった。ただしさらなるローカルルールがあって、公園外にボールが飛んでも、当時むき出しの立会川にボールが落ちると一発チェンジ。ちょっとしたレッドカードだった。
で、ボールが川に落ちるとどうするかというと、急いで走り、走りながら靴とくつしたを脱ぐ。公園より下流に川に降りられる梯子段があって、そこから川に入ってボールをひろう。ルール上はこの時点でスリーアウトとなる。もちろん得点にはならない。
川の流れは美空ひばりの歌のようにゆるやかだったから、たいていボールは無事確保できたのだが、ごくたまに雨上がりの翌日など水かさが増して流れが急なときなどボールに追いつけず取り逃がすことがあった。そういうときはもちろんゲームセットだ。
漢字は象形文字だと子どもの頃から教わっていたが、こうして古代文字と今の漢字(旧字)と見比べると概念としての“象形文字”がより具体的な形で理解できる。それとこの手の話は本で読むより、話を聞いたほうがてっとりばやい。本になってしまったのは仕方ないが、白川先生のお話を伺っているというスタンスで書かれているこの文章は親切で、臨場感がある。


2010年6月16日水曜日

レイモン・ラディゲ『肉体の悪魔』

先週、プライバシーマークの更新審査があった。
個人情報に限らず、情報セキュリティ全般に関して言えば、安全管理措置というのものを講じなければならず、また安全管理措置も組織的安全管理措置とか物理的安全管理措置とか技術的安全管理措置とか人的安全管理措置とか区分けされているが、実は結局ひとつのことだったりする。
一般的には“ついうっかり”といったヒューマンエラーというのが多いらしいが、その“ついうっかり”をルールでフォローできていれば、事故は未然に防げたりもする。つまり組織的安全管理措置で人的エラーを最小限に食いとめることは不可能ではないということだ。また、いくらしっかり施錠してもサーバのセキュリティが甘かったら、簡単に漏えいしてしまう。物理的に安全ならすべて安全というわけでもない。かといって技術的な対策もある種のいたちごっこの感は否めない。
たとえば携帯電話。会社で社員に支給している携帯電話の管理責任は当然会社にあるわけだから、紛失防止のためのルールをつくらなければならない。もちろん、完璧な手順などはありえないから、紛失した場合の漏えい防止策もルール化しなければならない。現時点では各利用者の手中にある携帯電話を前提に話ができるが、コンピュータネットワークのように、携帯電話も回線からのデータ流出、改ざん、漏えい、紛失がありえるとしたら…。
これは地下鉄をどこから地中に入れたか、なんてことよりももっと切実な、眠れない問題である。
このあいだ昔読んだ本のリストを見てたら、86年にこの本を読んでいる。
ほとんど記憶にない。その前後に三島由紀夫を多く読んでいたから、おそらくはその影響だろう。もちろん当時のことだから新庄嘉章訳の新潮文庫だったはず。
まあ、西欧の恋愛小説はなんともおどろおどろしいものである。

2010年6月11日金曜日

阿刀田高『旧約聖書を知っていますか』

昭和46年の50円玉がレアだとずっと思っていた。
たしかに滅多とお目にかかれないので手に入れると別にしておいているのだが、最近他にレアな年はないかと調べてみたら、どうも昭和46年はさほどレアでもないらしい。たしかに前後の年に比べると発行枚数は少ないようだが、むしろ昭和60~62年、平成12~14年のほうが超レアであるらしい。昭和46年がレアだという風説を聞いたのはぼくが高校生か大学生の頃、昭和にして50年代前半。超レア硬貨でおなじみの昭和32年の5円の次にやってくるのは昭和46年の50円玉だと気がはやったのだろうか。
昭和32年の5円玉というのはぼくの知る限りもっともレアな現行硬貨といってよく、半生記以上生きてきて、流通している現物を目にしたことがない。コイン商のガラスケースの中でしか見たことがない。
中学生の頃、同級生のKが放課後、千円ほどの小遣いを手に銀行に行って全額5円玉に両替し、レアな年(当時は昭和32年と42年)があれば抜いて、なければ別の銀行でまた紙幣に戻し、さらに別の銀行で5円玉に両替と、暇な中学生ならでは5円玉探訪の旅をしていたが、そのKでさえ昭和32年には出会えなかった(その後大人になってからも両替の旅を続けていたのかはわからないが)。
以前、『図説地図とあらすじでわかる!聖書』という新書を読んだことがある。それなりに聖書の世界が網羅されていて記憶にはそうとどまらなかったものの、なんとなく聖書ってそういうことなんだ、くらいには思った。もっとお手軽に聖書の世界を紐解きたいと思っていて、その本はそれなりに応えてくれたが、できればもう少し噛み砕いて、子どもにもわかるような“読み物”としてあればいいのだが…などとうすらぼんやり考えていた。もちろんネットで検索するとか、それほどポジティブにではない。
実をいうと柳田國男の『日本の伝説』、『日本の昔話』を読みたいと思って、仕事の帰りに立ち寄った本屋でこの本を見つけた。
なあんだ、あるじゃないか。
阿刀田高の小説は一冊も読んでおらず、まったくの初対面であったが、こうした古典を普及させる意思に富んだ人であることがわかった。たいへんうれしい一冊である。
それにしても昭和46年の50円玉はちょっとがっかりだな。ずいぶん集めたのに。

2010年6月9日水曜日

日垣隆『知的ストレッチ入門』

先週末あたりから左の奥歯が痛み出した。なんとなく腫れているような気もする。感触としては過去に治療したところの根っこのあたりが化膿しているみたい。
で、昨日K先輩の歯科医院まで飛んでいく。場所は埼玉の草加。半蔵門線に乗って、押上を過ぎると東武線に乗り入れる。最初の駅は曳船。このあたりで見る東京スカイツリーはとてつもなく大きい。ちょっと途中下車して近隣を散歩してみたい衝動に、ふだんであれば駆られるのであるが、こうも奥歯が痛いとそんな気も起きない。
K先輩に奥歯を深く削って、とりあえず中にたまっているガスを出せばいくらか楽になると言われ、激痛をこらえた。
こんなとき先輩後輩の間柄は都合がいい。先輩にしてみれば、多少の痛みくらいで後輩が騒ぎ出すとは思わないし、後輩もよくできたもので先輩には絶対逆らわない。
治療が終わって、先輩の部屋でお茶をご馳走になりながら、「かなり痛かっただろ」と訊かれたが、「いいえ、合宿の筋肉痛にくらべれば…」などとわけのわからない会話が絶妙な呼吸でやりとりされる。
今日はいくぶん、痛みは引いたが、まだ腫れはある。

カテゴリーの分類がもともと大雑把なので“エッセー・紀行”にしてみた。たいていこの手の本は新書が多いのだが、最近は文庫にもこのような啓発的なテーマの本が増えている。
日垣隆という著者のことをほとんど知らずに読んだのが、ノンフィクションライターであるらしい。広告の仕事をしているととかく当たり障りのなく、誰も傷つけない表現を選ぶ。そしてそういう習慣が身についてしまうのだが、ジャーナリズムの一線で、しかもフリーランサーである筆者の文章はシャープで明快、読んでいるこちらがはらはらしてしまう。自分の書いた文章に対する幾多の攻撃と闘ってきた人なのだろう。
かつて『知的~』と題される書物は多かったが、この本の成功は自らの主張を貫く強い表現(冗談でさえ素直に笑えないほどの)と“ストレッチ”と名づけたそのタイトルにあるといえる。これから社会の荒波に飛び込んでいく若者はもちろん、仕事的には枯れてきた世代にも刺激になる一冊である。


2010年6月4日金曜日

桐野夏生『東京島』

卓球に限らずスポーツ全般にいえることだが、ユニフォームというものがいつしか派手な柄になっている。
とりわけ卓球はその昔、地味な濃い色のポロシャツみたいなユニフォームが義務づけられていたと記憶しているので体育館やショップで目にする、水彩絵の具をぶちまけたような彩りのシャツや黄や赤や緑の不規則なラインに縁どられたデザインを見ると隔世の感がある。
たしかに昔の卓球といえば黒板のような深緑色の卓球台にエンジや濃紺など淡色のウェアだった。ボールが白なので白のユニフォームは禁止されていたが、いつのころからオレンジボールという新色が登場し、台もきれいなブルーになっている。ときどき駒沢体育館などで行われている学生の試合などで深緑の台を見ると妙に懐かしく思うものだ。
そうした色味やデザインの地味な時代の卓球を知るものとしては、実のところ、昨今のカラーリングは醜悪としか思えない。試合用に購入してもいいかなとも思うのだが、これを着るのかと思うとつい尻込みするものが圧倒的に多い。できれば単色であまりデザインの主張のないものをと思うのだが、お店にはもちろん、メーカーのカタログにもそれほど多くない。
大学生の試合を観にいくと明治や早稲田などいわゆる伝統校のユニフォームは昔ながらの(それでも時代とともに洗練されているのだろうと思うが)、それぞれの学校のカラーを活かしたシンプルなデザインである。早稲田のエンジ、明治の茄子紺、専修の緑などなど。
最近はほとんど観にいかないが学生バレーボールもおそらくは昔と(ぼくが高校生の頃、駒沢までよく観にいっていたころの30数年前)大きな違いはないだろうと思う。中央は紺、筑波は緑、東海は十字のデザインなど。東京六大学野球の各チームが東大をのぞいて昔からデザインを変えていないのと同じように。
まあ、何が言いたいかというと卓球の最近のユニフォームはおじさんにはちょっと恥ずかしいなということだ。
無人島というとものすごく想像力をかきたてられる。文明を前提に日々生きていると息苦しくなる思いだ。そんな局面に堂々と挑んだいい作品ではないか。あ、この本のことね。


2010年5月30日日曜日

酒井順子『都と京』

性懲りもなく東京六大学野球の話。
東大はこの春のリーグも10連敗。3季連続の10連敗で現在31連敗中という。今季は慶応竹内にノーヒットノーランを達成されるなど86失点。なんともコメントのしようがない。
もちろん甲子園には程遠い進学校から入学入部したメンバーたちだから、高校時代全国レベルで活躍した選手を相手に勝ちまくれというのは無理な相談だ。とはいえ、すべての試合が恥ずかしいかといえば、けっしてそうでもない。対早稲田一回戦では2-4で逆転負け。対立教二回戦は6回まで6-5とリードしていたのだ。あとひとりでもふたりでもかわせる投手がいれば勝っていた試合だと思える。
最近では東都の中央に元ジャイアンツ他の投手だった高橋善正が監督として就任し、まずまずの結果を残している。慶応も同じく元ジャイアンツ他の江藤省三が監督になって注目を集めている。それぞれOB監督ではあるが、東大に今必要なのは勝てるチームづくりのできる監督・指導者なのではないか。この際、OBという枠組みにとらわれない野球人を抜擢してみてはどうだろう。学問のトップとして君臨する日本の頭脳がなぜ相も変わらず勝つことを知らない指導者の下で野球をやっているのか不思議でならない。いっそ野村克也でも監督に招いたら、東京六大学随一の頭脳が活き、観客動員もアップするに違いない。
さて。途中で読むのをやめたのは久々である。
東京がNGで京都がGOODという前提の本であるのはそういう主旨で書かれたのだから仕方ないとして、その論拠や表現が稚拙で付き合いきれなかった。まあ子どもの作文並みの筆致で描かれた性質の悪い京都観光案内といったところか。最後まで読んでいないからわからないけど。


2010年5月28日金曜日

外山滋比古『日本語の作法』

東京六大学野球春のリーグ戦は早慶対決となった。
斎藤、大石、福井とドラフト級をかかえる早稲田が有利に見えるが、附属から甲子園組がこぞって集まった慶應もあなどれない。今季の戦いぶりを見ていると慶応は長打をからめた集中打で競り勝つ試合が多く、早稲田は相変わらず貧打で得た得点を守り抜く試合が多いように思う。単純に図式化すれば打って慶応、守って早稲田といったところか。
とかく今年は早稲田投手陣にマスコミの関心は集まっているが、東都にも東洋の鹿沼、乾、中央の澤村ら好投手がそろっていてドラフトではどうなるか楽しみである。
来年のことをいうと鬼がどうのこうのというが、今の3年生にも好投手が多い。甲子園夏の大会で惜しくも決勝で敗れた広稜のエース野村祐輔。1年時から明治のマウンドをまかされ、この春(正直いって2勝どまりは期待はずれだったが)で通算勝ち星を14までのばした。3年春終了時点で斎藤祐樹は22勝だったが、今後の活躍しだいでは30勝も不可能ではあるまい。明治には大垣日大出身の森田や春日部共栄の難波ら次代エースの層が厚い。
で、この本は日本語のベテランがつづる言葉の作法。
手書き文字に対する入れ込みは時代錯誤かとも思われるが、日本語をこよなく愛する先達であり、その文章は脱帽せざるを得ない明快さを持っている。
こんないい加減な日本語で書いているのがちょっと恥ずかしい。


2010年5月27日木曜日

池波正太郎『江戸の味を食べたくなって』

子どもが大きくなって、小さかった頃のことが鮮明に思い出せない。
このあいだも次女が学校に提出する宿題に自分が小さかった頃の話を親から聞いて書く、みたいな課題があって訊ねられたのだが、いくつか思い出せる話はあるにはあるが、それが長女のことか次女のことかはっきり区別がつかない。それに子どもというのはたいていどこのうちの子でも同じようなことをして育つんではないだろうかとも思う。
たとえばうちの子はトランプにしても、ジグソーパズルにしてもすごろくのコマにしてもクレヨンにしてもなんでも小分けにしてあっちこっちにしまいこんでいた。だからパズルをやるにしてもまずあっちこっちをさがしまわってピースを全部集めなくてはならない。どこかへ出かけると持っていったポーチの中から用もないピースが見つかることもある。
ひとつにまとめておかなければいけないものをばらばらに分けるのにカラー粘土のようにまぜてしまってはいけないものは容赦なくまぜる。たいてい買ったその日のうちには色とりどりのカラー粘土は真っ黒いかたまりと化す。
当時、まぜないでちゃんと色分けしてしまうんだよとなんども言っていた親がそれをしたのが長女か次女かわからなくなっている。
まあこんなことはどこのうちで同じだろうと思う。
池波正太郎は“食”関連の本しか読んでいないが、そんなにパリや南仏に出向いた方だとはつゆほども知らなかった。

2010年5月26日水曜日

高村薫『レディー・ジョーカー』

テツさんはある広告会社のアートディレクターだった。
もうしばらく会っていないが、おそらくは引退されて悠々自適な日々を送っているのではないだろうか。
テツさんの若かりし頃の上司がその後ずいぶんたって子会社に出向し、ぼくの上司になった。そんな関係でテツさんはぼくの兄弟子的なポジションにいる人だった。
テツさんは角刈り頭の強面で、こう言ってはたいへん失礼ではあるけれど、アートディレクターっぽくない。どちらかといえばテレビドラマに出てくる刑事、それも主役の刑事ではなく、炎天下の山間の村々を汗だくになって聞き込みにまわる脇の刑事というイメージの人だった。
それでいて面倒見がいいというのか、その後ぼくが会社を辞めるにあたり、「やっていけるのか」とか「どこそこの代理店でクリエーティブを募集しているぞ」とか会うたびに声をかけてくれた。当時のぼくがよほど頼りなさげに見えたのだろう。
また定年間近な頃だったと思うが、ぷらっと遊びに行くとたいていデスクの前の小さなソファで夕刊をひろげていた。ぼくを見つけるとこっちへ来いと声をかけ、「いやあね、倅が新聞社に入りましてね、カメラマンなんですけど。最近写真が、ほら、たまに載るようになってね」と目を細めて、社会面の写真を指差す。たしかにそこにはテツさんのご子息の名前が印刷されている。【撮影・●●●●】と。
風貌といい、心根といい、あらゆる所作において人間味丸出しのいい先輩だった。
そのテツさんと最後に仕事をしたのが1998年。打合せの後、立ち寄った居酒屋で「最近本を読むのが楽しくなりましてね。『レディー・ジョーカー』読みましたか?最近読んだ本のなかではいちばんおもしろかったですよ。よく調べられていて…」とまるでご子息が本を書いたかのように微笑ましく話されていた。
それから10年以上たって、ぼくはようやく『レディー・ジョーカー』にたどりついた。
まるでノンフィクションを読んでいるような、ドキュメンタリーフィルムを見ているような精緻で客観的な描写についつい引き込まれてしまった。
テツさんが刑事になって出てくるかと思ったが、残念ながら会うことはできなかった。


2010年5月19日水曜日

ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』

このあいだ少年誌の付録のことを思い出して書いてみたが、そういえば長女だか次女だか小さい頃、付録付きの雑誌を欲しがった。で、まあつくるのはぼくの役目なのだが、昔も今もこうした付録はついているのだなあと思うと同時に、近頃の付録は子どもがつくるものなのではなく、大人につくらせるようにできているのだなと思った。もちろんその雑誌自体が就学前の幼児を相手にしていたものだから、当然といえば当然なのだが。
それにしてもボール紙を切り分けて、組み立てて…というそんな付録を誰が考えつくのだろう。やはり専門の付録デザイナーとかプランナーとか一級付録設計士みたいな職種が世の中にはあるのだろうか。田宮模型の戦車のプラモデルのパッケージイラストレーションを小松崎茂という人がずっと描いていたみたいに。
"もの"があるということは、"ものをつくる人"がいるんだとついつい考えてしまう。それは街で見かける看板や毎朝新聞に折り込まれてくるチラシもそうだ。どんな人がこれをつくったのだろうと。
ヒマをもてあまさない性格なのだろう。

訳者もあとがきで書いていたが、コクトーは変幻自在なフランス語をあやつり、さらに論理の連鎖に空白があって日本語にするのはたいへんやっかいなんだそうだ。そこらへんは読んでいてわかるような気がした。


2010年5月15日土曜日

安岡章太郎『質屋の女房』

小学校一年か二年か、そのくらいの頃。
近所の商店街の縁日や祭りの夜店でぼくがよく買ったものといえば、金魚すくいの金魚でもなく、お好み焼きやラムネでもなく、まあまったくその手のものを買わなかったわけではないが、やはりメインの商品は当時月刊少年誌にたいてい付いていた付録だった。
ボール紙でできたパーツを切り取り、山折り、谷折りし、アルミニウムのようなやわらかい金属でできているピンやハトメで、あるいはのりやセロハンテープ、輪ゴムなどで固定し、連載漫画の主人公の持つ銃器やキャラクターたちの秘密基地みたいなものをつくりあげるのだ。
当時は毎月少年誌を一冊母から買ってもらっていたので月々の楽しみとしてそういうことはしていたのだが、別雑誌の付録やバックナンバーの付録は目新しくてついつい買ってしまうのだった。
そしてその翌日は近所の古書店をまわる。なぜなら付録は付録だけで売られていて、つくり方が載っている雑誌本体は別にさがさなければならないからだ。つくり方を読まずに組み立てられるほど昔の付録はヤワじゃなかった。
それと月刊少年誌の付録としては本体に連載されている漫画の続きが別冊として付録になっていた。これもまたついつい買い求めてしまうのだが、あくまで本体、付録で完結しているから、本体だけでは次号へのつながりがわからないし、別冊だけでは前月号本体からのつながりがわからない。当時の大人はよくもまあこんなビジネスを思いついたものだと感心する。
そんなわけで別冊を買うとその号の本体を古書店に買いにいく。場合によっては(こっちのほうが圧倒的に多いのだが)立ち読みですませる。今にして思えば、なんと時間的にぜいたくな遊びだったろう。
で、『質屋の女房』なのだが、安岡章太郎の青春小説ってところか。もちろんあくまで安岡章太郎の、だ。老成した青春小説だ。暗い時代を生きたからではないもって生まれた劣等感に貫かれた安岡ワールドだ。

2010年5月14日金曜日

村上春樹『1Q84 Book3』

両親の出身が千葉県の千倉なので、子どもの頃は毎夏祖父に連れられ、2週間近くを過ごした。今でも墓参りや法事などで足を運ぶことが多い。
内房線は君津あたりまでが複線化されているが、そこから先は単線区となり、俄然ローカル色が強くなる。そしてほとんどの特急が館山どまりであるように館山を過ぎるともうどこをどうみてもローカル色一色になり、ローカル色の人が歩いていてもまったく見分けが付かなくなる。
とはいえ父母の実家は千倉駅から安房白浜行きバスに長いこと揺られてようやくたどり着くようなところなので千倉の駅の周辺や駅の北側(安房鴨川方面)の印象はほとんどない。いわゆる千倉海岸と呼ばれている海水浴場はおそらく駅の北東側なのではあるまいか。
天吾の父親が亡くなった千倉の療養所がどの辺にあったのか(それはもちろんモデルが仮にあったとしての話だが)、そんなわけでまったくわからない。著者の想像の産物ではあるまいかという気もしている。なんでそんなことを考えるかというと天吾の父親が火葬される、そのシーンを読んでいるとぼくの曾祖母や祖父母が焼かれた火葬場とはあきらかに違うことがわかるのだ。たしかにぼくが子どもの頃の行った火葬場(地元では“やきば”という)はそう古くない昔に改築され、新しくなったが、それでもこの小説に出てくるほど都会的な雰囲気はない。
まあ、読んだ小説のなかに自分の知っている場所がでてきたからといって、そんなことで目くじら立てるほどのことでもあるまい。

2010年5月6日木曜日

スタンダール『赤と黒』

あっという間に大型連休は終わった。
こまごまとした仕事が多く、卓球にも読書にも身が入らない1週間だった。昨日はかつて卓球のやりすぎで腱鞘炎を起こし、さらには痔の手術でしばらく静養していた音楽プロデューサーのM君から近所の体育館で卓球をしませんかとお誘いを受けたのだが、残念ながら打ち合わせに出てしまうのでお断りせざるを得なかった。
年に一度、あるいは二度ほど、バカみたいに長い小説を読みたくなる。連休どきは長モノを読むにはちょうどいい。
『赤と黒』は読んだような気がする。
たぶん、30年ほど前に。ジュリヤン・ソレルという主人公の名は憶えている。が、これは読んでいようがいまいが『赤と黒』の主人公がジュリヤン・ソレルであることくらいはある程度の知識のある人なら知っている。だからその名前を憶えていることが読んだという証左にはならない。だが窓に梯子をかけて昇っていくシーンはなんとなく憶えている。結末はどうだったか、なんてぜんぜん憶えていない。
ならば読もうとぼくの中では評価の高い光文社の古典新訳シリーズを手に取った。はたして梯子を上るくだりはあった。読みすすめながら、以前読んだことをまったく思い出すこともなく読み終えた。ほんとうに昔読んだのだろうか。謎は深まるばかりである。
それはともかくとして終盤になってジュリヤンはそのキャラクターを変えるように思える。ずっとひ弱で陰湿な性格の彼が事件以降カラマーゾフの長男のような豪快な人柄になる。それがちょっと不思議だった。

2010年4月30日金曜日

ジュール・シュペルヴィエル『海に住む少女』

大型連休がはじまった。
今年も例年通り、特段することもなく、どこかの体育館が開いていれば卓球をやるし、することもなければ本を読んだりして過ごすつもりだ。連休明けにアイデアくださいと頼まれている仕事が何本かあり、おいおいそれも考えなくちゃとは思っている。
高校野球の春季大会は選抜大会に出場した帝京が初戦で、日大三が2戦目の三回戦で敗れる波乱(選抜出場校が早々と敗退するのはよくあることではある)があり、優勝は日大鶴ヶ丘、準優勝が修徳。これに推薦枠の日大三が関東大会に出場する。
この大会のベスト16が夏の大会のシードになるはずだから、東東京は修徳、関東一、成立、日大豊山、都総合工科、都城東の6校、西は日大鶴ヶ丘、早実、国学院久我山、日大三、日大二、八王子、都日野、東亜学園、桜美林、創価の10校がそれにあたる。なかでも昨秋の新人戦で本大会に出場できなかった修徳、桜美林、東亜は大健闘といえるだろう。

特に意識してフランス文学を読んでいるわけではないのだが、一冊読むとその近辺の作家を拾い読みしたりしてしまうものだ。
シュペルヴィエルは1884年生まれ。時代的にはコレットに近いのかもしれない。その前の世代がゾラたちだ。ただシュペルヴィエルはウルグアイ生まれのフランス人ということで(あるいはそんな半端な予備知識を持って読んでいるせいか)、一種独特な世界観を持った作家という印象を受けた。
なんとも不思議な短編集である。

2010年4月26日月曜日

宮本輝『蛍川・泥の河』

次女が学校でつくったというラジオをもらった。
そういえば長女も技術家庭科の時間にラジオをつくっていたっけ。ダイナモつきの電源なしで聴けるラジオ。
ぼく自身の経験を振り返ると中学生の頃はトランジスタ化(ぼくらはトランジスタを石と呼び、石化といっていた)がかなりすすんでいた。もう少し上の世代ではおそらく並三か並四と呼ばれた再生検波式の真空管(こちらはタマと呼んでいた)ラジオをつくっていたのであるまいか。
とはいうもののぼくたちが中学校でつくったのはインターホンのキットでラジオではなかった。
東京の都市部だったら高一(高周波一段増幅)ラジオとかレフレックスラジオ(検波された低周波出力をもういちど高周波入力に戻してゲインをかせぐ、いってみれば再生検波ラジオと基本は同じ)でじゅうぶん実用に耐えたけれど教材として全国一律に普及させるにはスーパーヘテロダインという、アンテナがキャッチした高周波を検波して低周波を取り出す前に中間周波にいちど変換して、感度や選択度を安定させる回路が必要なはず。今ならICだのLSIだのがあれば簡単にできるこの回路も当時は半田付けに緊張を要するトランジスタを6つ以上使うラジオは中学生はハードルが高かったと思う。それにできあがってもその性能を引き出すためには微妙な調整が必要だ。そんなこんなで高周波を取り扱わないインターホンを教材として選んだのだろう。
ぼくは多少半田付けの心得があったのであっという間にインターホンを組み上げてしまい、手持ち無沙汰にしていたら、8石スーパーラジオのキットが技術科準備室にひとつあって、技術科のM先生からじゃあこれでもつくっておけといわれた憶えがある。そのラジオも難なくできあがったのだが、IFTと呼ばれる中間周波トランスを調整する工具がなくて、結局つくりっぱなしでノイズの向こうにかすかにFENが聴こえたなとしか記憶がない。

宮本輝はぼくが受験勉強のさなかにデビューしたせいか、ある種の盲点になっていて読みそびれてしまった作家のひとりだ。『優駿』が話題になったときもぼくは競馬への関心が薄れていた頃だったし。
やっと一冊読み終えた。昭和を現代に残してくれる貴重な作家だ。

娘のラジオの箱の中につくり方の説明書が入っていた。が残念ながら回路図は載っていなかった。もちろん今さら見てもわからないけれど。

2010年4月24日土曜日

鹿島茂『パリの秘密』

ラジオフランス語講座をしばらくぶりに聴いてみた。
木曜なのに初級編を放送していた。あれっと思って調べてみたら、月~木が初級編、金が応用編と改編されていた。ついこのあいだまで初級は月~水、応用が木・金でさすがに週3日だと初級の人は物足りないだろうなとは思っていたのだが。
応用編は文学作品の断片を読んでいる。ヴォルテールの『カンディード』とかカミュの『異邦人』とか。朗読を聴いていてもよくわからないがちょっとした文学ガイドと思えばけっこう有意義だ。
この本はフランス文学研究者によるパリ探検記。
もともと新聞に連載されていた読み物ということでひとテーマごと短い文章にまとめられていて、物足りないといえば物足りない。しかもパリの街を歩いたこともないので実感もわかず。
とはいえ最近はグーグルで街歩きができるのでPCを前に散策しながら読んで見るとああ、なるほどと思える箇所が随所にあっておもしろい。それとパリを旅した人がよく写真入でブログにしてくれているが、そうしたものも案外役に立つ。
まあ、行って見てみるのがいちばんなんだけど。


2010年4月21日水曜日

アントワーヌ・ドゥ・サン=テグジュペリ『夜間飛行』

区の体育館の卓球でときどきお目にかかるNさんがラケットを新しくした。
それもペンホルダーからシェークハンドに大胆なチェンジだ。そういえばペンホルダーではバックハンドがぜんぜんできないと言っていた。新しいラケットを見せてもらったら、堅くて、重くて、弾むラケットでラバーも最近流行のハイテンション。バック側はそれでも柔らかいラバーだったけれど、正直初心者の域を出ることのないNさんに比較的高価なその組み合わせはいかがなものかと思った。自分で選択したのであれば、その大胆な発想に吃驚するし、お店の人の勧めであったとすれば、その店員の良識を疑う。少なくとも今までペンホルダーを振っていた人がはじめて手にするシェークのラケットではないだろう。

松岡正剛は氏のホームページ[千夜千冊]のなかでこの本について「こういうものを訳したら天下一品だった堀口大學の訳文も堪能できる」と述べているが、ぼくにはどうにも堀口訳は重たく感じるのだ。
みすず書房から出ている山崎庸一郎訳を手にしたことがないので比較をすることはできないのだが、格調が高く、長い文章をそのままに、倒置や挿入などもおそらくは原文に忠実に訳出しているあたりはたしかに素晴らしいとは思うのだ。しかしながら飛行する操縦士たちのスリルとかスピード感が感じられるかというとそれはどうなのだろう。
とはいえいっしょにおさめられている「南方郵便機」も含め、賞賛されるべき小説だと思う。

2010年4月16日金曜日

安岡章太郎『僕の昭和史』

学校を出てから、1年、高校の先輩が経営するとんかつ屋や家庭教師のアルバイトをして、就職しないでいた。
今で言うフリーターといったところか。
邦楽のたしなみのあった姉の先輩(兄弟子ならぬ姉弟子)のご主人がCM制作会社の社長だということで働かせてもらうことになった。新宿御苑のほど近いマンションにその事務所はあった。今でもその界隈を歩くとなんとも言い尽くせぬ懐かしさに襲われる。
深夜買出しに出かけたスーパー丸正、当時から客の途絶えることのなかったラーメンのホープ軒。毎日のように昼食を食べた蕎麦屋の朝日屋。そして文象堂書店、文具の江本と今も変わらぬ店がまだいくらか残っている。
まあそのことはいずれあらためて。
ここのところ、ではないが、以前からずっとぼくの中でのブームは“昭和”である。
そんなわけで安岡章太郎のこの本はぜひとも読んでみたかった。
安岡章太郎は国語の教科書でおなじみの「サアカスの馬」の作者であり、実はぼくはこれ以外の作品を読んだことがない。ただこの優れた短編ひとつで著者が昭和を代表する劣等生であることはじゅうぶんうかがえる。
本書の中でもその劣等生ぶりはいかんなく発揮されている。とかく昭和は軍事エリートや経済エリートによる激変の時代と見られがちだが、実はその荒れ狂う嵐の時代のただ中で生きながらえつつ、冷静に時代を見つめていた落第生の視点があったのだ。

2010年4月10日土曜日

谷川俊太郎『ひとり暮らし』

その昔「クイズドレミファドン」という音楽クイズ番組があって、見所は最終ゲームであるイントロ当てクイズだった。
当時ぼくは中学生くらいだっただろうか。テレビを視ていて、イントロが流れるとすぱっと曲名が口から出てきた。
イントロ当てクイズは番組の進行とともにスーパーイントロ当て、スーパーウルトライントロ当てと流れるイントロの秒数がどんどん短くなっていく。それでもけっこうぼくは曲名を当てることができた。
隣で見ていた姉は(例のわたがし名人の姉だ)こんどいっしょに出ようという。私がボタンを押すからお前が答えろと。要はいつもどんくさい弟に代わって早押しをしてやるから、曲名はお前が当てろというわけだ。
そうだ、イントロ当ての話を書くつもりじゃなかった。
最近テレビで流行の曲がかかってもまったくわからなくなってきているのだが、それだけではない。おそらく20~30代に聴いたり、あるいはカラオケで歌ったこともあるかもしれないような曲の曲名がどうにも思い出せないことがある。人間の記憶装置というものは実にもろくはかないものだ。
ところが子どもの頃に聴いた曲は不思議とタイトルが出てくる。震源地の近くが震度が小さいのにちょっと遠いところだと大きい、あの感覚…。いかん。たとえが適切でない。
ここ2~3日、そんな不思議を考えていた。
結論的にいえば(といってもあくまでぼく個人の私見に過ぎないが)、記憶は耳によるところが大きい。
ぼくらは(ここで急に自信をなくして1人称複数にする)主としてラジオで音楽を聴いた。ラジオの音楽は必ずディスクジョッキーやアナウンサーが曲名、歌手名を紹介していた。その名前が曲に結びついた。だから音を聴いて曲名が浮かんでくる。
これがテレビだけで音楽を知る世代では曲名、歌手名は音もあるけれど視覚的にも伝えられる。目で見ることで耳は傾聴を断念する。結果記憶にとどまらない。
ぼくがものごころつく以前に、姉はヴィックスドロップやマーブルチョコレートやありとあらゆるCMソングを歌っていたという。そしておそらくその多くは記憶にとどまっているはずだ。CMの場合、映像より音楽やナレーションが心に残ることのほうが多い。
というのがぼくの考えた理論(というほどのものではないが)。

谷川俊太郎は詩人である。
これまでのぼくの半世紀にわたる人生の中で詩人の知り合いはいなかった。そういうこともあって、詩人・谷川俊太郎の日常を綴ったエッセーに少なからぬ興味を抱いた。でもさすがに詩人だけあって著者の文章のリズムに日ごろ馴染んでいないせいか、するするっと読みすすめることができない。正直言って緊張感をともなわずには読みすすめることが難しい。そんな印象。

そういえばカラオケで歌ったことのある曲は比較的記憶に残っている。それはたぶん身体的な活動つまり発声することと文字が結びついているからだろうと思う。



2010年4月7日水曜日

鶴野充茂『はずむ会話の7秒ルール』

生命保険におつきあいで入る時代ではとっくにない。
ぼくの場合、高校の先輩、同期がいる関係でひとつ(仮にMY生命とする)。それともうひとつ銀座でサラリーマンをしていた頃に入ったもの(こちらはN生命)とふたつ加入していた。
これはまあ今の時代、はなはだ無駄なことであって、保障を見直しした上でどちらかを解約しようと思った。当然、先輩後輩の間柄で解約するのはセルゲイ・ブブカが棒を使わないで6メートルのバーを越えるくらいに常識的に不可能なことなので、まあ当然の成り行きとしてN生命がターゲットとなる。しかもつい昨年、MY生命は新商品ということでまずまず納得できるプランを持ってきていて、更新したばかり。後追いで、しかも余分な保障に大金を支払うのはちょっと勘弁してほしいと思って、電話で解約しますから手続きをお願いしますと伝えた。それが先月中旬。
客商売というのはわかりやすいものだ。それはN生命などという日本で知らない人はまずいない大手においても同じこと。入るといえば、ものの5分で飛んでくるが、やめるとなると対応はすこぶる悪い。やれ書類の作成が遅れているだの、なんだので、気がつけばもう4月。
これは放置されているか、故意に無視されているかに違いないと思って、電話をかけると先月解約すると伝えた担当者は辞めたという。引き継いだ別の担当者に話をしてようやく解約請求書というペラ紙をポスト投函していった。
こんな紙切れ一枚に3週間もかかるのか?

7秒程度のシンプルな会話が話を前進させる秘訣なんだという。タイトルがまずまずの“つかみ”になっている本である。
話し方や情報の整理の仕方はひとそれぞれだが、基本はなにかと考えてみると誰もが同じことを言うと思う。そういった意味では、これといって印象に残ることもなかった。


2010年4月2日金曜日

まつしま明伸+幸樹『[超入門]5次元宇宙の探検ガイド&ナビゲーション』

選抜高校野球。
ぼくが以前けちをつけた日大三が決勝進出を決めた。
初戦の試合ぶりを見て、このチームにはツキがあると思った。こういってはなんだが比較的くみしやすい21世紀枠が初戦の相手で大勝。しかも2回戦の相手も21世紀枠、秋季中国大会を勝っておきながら甲子園で末代までの恥をさらした開星に勝った向陽。敦賀気比とは接線だったが、いずれの試合ものびのびプレーしている。ひろいものの甲子園のせいだろうか、とりわけ打線がリラックスしていて、振りがいい。
都の春季大会で東海大菅生と当たるであろう準決勝が今から楽しみである。
知人から、去年弟が出版した本なんですけど、と紹介された一冊。
こんな摩訶不思議な世界を追いかけている人たちがいるんだなあと不思議な印象を持った。今はコンピュータグラフィックスで自由自在にキャラクターがつくることができ、想像力に長けた若者たちは未知の領域へどんどん守備範囲を拡げているんだね。古くはポケモンなどがそうであったように技術の力が想像力を後押しすることで、アニメーションやSFを超えた新たなメディアがかたちづくられていく、そんなエネルギーを感じた。

2010年3月29日月曜日

シドニー・ガブリエル・コレット『シェリ』

昨日、法事があって、特急新宿さざなみ号に乗って房総半島の千倉まで出かけた。
祖父の27回忌、祖母の13回忌を子どもたちが元気なうちにということで父の兄弟がほぼ勢ぞろいした。1928年生まれの父を筆頭に7人兄弟が全員元気でいるなんてなんとも長寿な家系だ。
祖母は家事全般が苦手な人であったそうだが、学校の勉強はよくできて、とりわけ作文が、当時は綴り方といったのだろうが、得意だったという。子どもたち(つまりは叔父叔母たち)の作文も幾度となく代筆していたという。ぼくは母方に建築設計師や元広告会社のアートディレクターがいて、その人たちの影響を大きく受けてきたと思っていたが、小学校時代よく先生に作文をほめられたりしたのは実はこの祖母の血なのかもしれない。
コレットは以前、『青い麦』というのを読んだ。
そのときは、これっといった感想は持たなかった。つまらない駄洒落を書いてしまった。
カポーティの『叶えられた祈り』にコレットがたしか登場していた。もうかなりの歳だったと思うが。それで読んでみたのかもしれない。
ゾラの『ナナ』もそうだが、どうも高級娼婦というのが当時どんな存在だったのだか、今ひとつぴんとこないのである。『罪と罰』のソーニャくらいだといそうな気がするのだが。まあ、この時代の本をあまり読んでないせいかもしれない。


2010年3月24日水曜日

池波正太郎『むかしの味』

母方の伯父が建築設計師だった。
家は赤坂の丹後町にあり、主に飲食店の設計をしていた。昭和初期に生まれた人の気質なのか、ふだん温和な人なのだが、短気をおこすともう取りつく島のない人だった。
子どもの頃、いとこたちと六本木の交差点に程近い、伯父の設計した中華料理店に行った。お店の人からすれば伯父は“先生”であり、ぼくたちも丁重にもてなされたのだが、その日はおそらく混んでいたのだろう、いつにもまして料理の出るのが遅かった。子どもたちはさぞお腹を空かしているのだろうと思っていた伯父は突然、「まだなのか!」と今の言葉でいう“キレた”状態になって、しまいには店を出るという。お店の人がなんども詫びを入れたが、そんなものには見向きもせず、ぼくたちはその店を出た。
ここまではよく思い出すのだが、実はそれから後のことをまったく憶えていない。別の店に行ったのか、あるいはやはり店を出るのをやめて(伯母さんかぼくの母が思いとどまらせて)、そこで鶏煮込みそばを食べたのか。伯父の剣幕におされて、記憶喪失になったかのようである。
池波正太郎の食べ物エッセー。
この手の本を読むとすぐに煉瓦亭とか新富鮨とかいっちゃう人がいるんだよね。そういう目的意識をもって「わざわざ食べに行く」という行為はあまり好きではない。なにかのついでにとか、近くまで来たのでたまたま思い出して立ち寄るというのがよい。この本は著者の思い出を食べ物に絡めているからおもしろいのであって、そこで紹介されているものを食べればよいというものでもあるまい。
自分にとっての名店にいかに自らの思い出をつなぎとめるかがだいじなわけでこの本はそういった指南書ではないかと思っている。
ぼくにとっての鶏煮込みそばは忘れらない“むかしの味”である。

2010年3月20日土曜日

筒井康隆『アホの壁』

スーパージェッターの時計以降はプレゼントというプレゼントははずれまくった。
当時いちばん欲しかったのはグリコアーモンドチョコレートで当たるおしゃべり九官鳥だろう。そもそもグリコアーモンドチョコレートでさえ高価なお菓子で滅多矢鱈と買ってはもらえない身分の子どもにそんなものが当たろうはずがない。明治チョコレートでもらえるゴリラも魅力的な景品だった。それと毎週少年誌で大々的にページを割かれる懸賞の数々。わが少年時代は懸賞的には不遇の時代だった。
大人になって少しは状況が変わる。
缶ビールに貼ってあるシールをはがして送る。案外当たるものなのだ、Tシャツとか。これまでの戦利品としては
サッカーのTシャツ4枚、同じくサッカーのビステ(プラクティスシャツっていうのかな)1着、JAPANのオリンピックウェア(ウォームアップシャツ)1着。あとはミネラルウォーターのキャンペーンでオリジナルの(adidas社製だが)トートバッグ。最近ではスポーツドリンクのポイントでゲットした北島康介と石川遼のイラストレーションがプリントされているスポーツタオル。
たいしたものが当たったわけではないけれど、子どもの頃よりかはましだ。
そうそう、スーパージェッターといえば筒井康隆も眉村卓、半村良、豊田有恒らと並んで脚本執筆陣に名を連ねている。今では“アホの壁”で話題の人であるが。
本書は筒井康隆流の人間論と銘打たれているが、抱腹絶倒というよりかはけっこうまともな内容だと思った。

2010年3月16日火曜日

江國香織『がらくた』

卓球の東京選手権が行われた。
ご近所の卓球ショップのコーチたちもこぞって参加し、そこそこに勝ち進んで応援に来た教え子の(といってもたぶんそれなりのお歳の方々ではあろうが…)大声援と喝采を浴びたという。
男子シングルスで前年優勝の丹羽孝希がベスト8目前で韓陽に破れ、8強は野邑、上田、坪口、徳増、塩野、町、張。中学生から社会人までバラエティに富んだメンバーだが、大学生はおそらく学生最後の試合であろう徳増のみ。早稲田の笠原はどうやら棄権したようだ。結果は張一博。これは順当といっていいだろう。
女子も平野が全日本のリベンジ。安定した強さで優勝した。
江國香織を読むのは久しぶり(たぶん)。微妙な色合いの折り紙をちぎってばらまいたような文章は相変わらずきれいだ。ストーリーとしては、まあ、もういいかなって感じかな。でも新刊の出るたび(文庫だけど)手にとらせる不思議な力を持った作家だ。

2010年3月11日木曜日

関川夏央『新潮文庫 20世紀の100冊』

子どもの頃、丸美屋のふりかけの袋のマークを切り取ってプレゼントに応募したところ、当時人気のテレビアニメーション「スーパージェッター」の時計が当たった。時計といってももちろんおもちゃで劇中主人公が流星号と呼ばれる専用の乗り物を呼んだり、コントロールするための腕時計型の通信端末のレプリカのようなものだ。この時計にはもうひとつ優れた機能があって(もちろんアニメーションの話だが)、主人公がピンチに陥ったとき、わずかな時間ではあるが時の進行を止めることができる。後に矢沢永吉でさえ渇望した時間を止めるという荒業をやってのけ、その間に自らは俊敏に動いて、窮地に陥った人を救ったり、爆破寸前の爆弾を無効にしたりと大活躍するのである。
が、当たったのはあくまでおもちゃである。もしそれが本物だったら、今頃ぼくはどんな大人になっていただろう。
ふりかけの袋を集めるように、ぼくは新潮文庫のカバーのはしっこを切って、台紙に貼り、最近パンダの人形やらブックカバーをもらった。それはくれるからもらうだけであって、必ずしも景品つきで本を買わせようという新潮社のやり方に賛同しているわけではない。
毎年各社で文庫100選的な打ち出し方をして青少年を中心に読書普及をはかるキャンペーンを展開しているが、新潮社のやり口は大人気ないとひそかに思っている。この本にしてもそうだ。
関川夏央が20世紀の100冊に対してコメントしているのだからおもしろくないわけがない。まさに最強のブックガイドといえる。そしてこれを販促の冊子ではなく新書として売るところに新潮社の最強の大人気なさが見てとれる。


2010年3月7日日曜日

江夏豊『左腕の誇り』

40年前に巨人ファンだった少年にとって、阪神戦ほどやきもきしたことはなかったはずだ。なにせ、村山、バッキー、江夏を打ち崩さなければ勝てないわけだから。
なかでも江夏は当時V9時代の初期の巨人にとって大きな障壁だった。まだ若手でありながら、ふてぶてしいマウンドさばき、度胸のよさ、うなる剛球。まさにセントラル・リーグ屈指の好投手だった。
当時の阪神はその後のバース、掛布、岡田といった重量級の猛虎打線とはほど遠く、遠井、カークランドら、たいして当てにならない中軸と藤田平、吉田義男ら小粒な野手が勝利に最低限必要な得点をあげて勝つストイックなチームだったという印象がある。まだまだ野球が数値化される以前の時代だ。
江夏豊の立ち位置は野球の歴史という年表的世界にはないように思う。その数奇な生い立ち、つくられたサウスポー(もともと右利きだった)、勝ち運にめぐまれなかった高校時代、そしてまさかのトレード劇など単なる一野球選手の生きざまをはるかに凌駕したドラマの数々がその野球人生にある。そしてぼくは江夏の数々のプレーを同時代に見てきた。今思うにこんなに幸せな野球ファン人生はない。
野球史に残る名投手をはるかに超えた“伝説の左腕”。それがぼくにとっての江夏豊なのである。


2010年3月5日金曜日

富澤一誠『あの素晴らしい曲をもう一度』

商いを営んでいた父親の影響のせいか、子どもの頃から“商業”的なものがあまり好きじゃなかった。
母方の、南房総は千倉町で生まれ育って死んでいった明治生まれの祖母も「商人(あきんど)は人をだまして金儲けをする」からきらいだとよく言っていた。世の中でいちばんいい職業は発明する人だというのが持論の人だった。
そんなわけで高校時代進路を決めるにあたっても商業的なものを極力排除してきたような気がする。経済とか政治とか法律だとかまったく興味がなかった。文学部か教育学部か選択肢はそれくらい。結果的には教育学部にすすんで西洋教育思想のようなものを専攻した。
著者の富澤一誠はJポップの歴史をふりかえるはじめての試みと謳っているが、古くは坂崎幸之助の『J-POPハイスクール』なる本も出ているのでまあこの手のフォーク史、ミュージック史はいろんな形で著されているのだろう。
とにかく音楽評論というのは難しいと思う。感じ方とか残り方が人それぞれだから。結局史実を忠実に語っていくしかないのだろう。坂崎のJ-POP史と本書の相違はアーティストと評論家との温度差なのかもしれない。
巻末の名曲ガイド50は“視聴率アップねらい”の巧妙な仕掛けだと思うが、ややもすると蛇足の感がある。
今は広告をつくることを生業としている。いつ頃から商業的なものに首をつっこむようになったのかまったくもって不思議である。


2010年3月1日月曜日

国広哲弥『新編日本語誤用・慣用小辞典』

区内の体育館での卓球。
おなじみ、スポーツアドバイザーのTさんも全日本出場経験のある凄腕なのだが、そのお孫さんのCちゃんもこれまたすごい。まだ小学6年生なのだが、都内の強豪校に進学することになったという。とにかく区内の大会で中学生相手で敵なし、一般の部でもベスト8という腕前。先日も体育館に行ったものの相手がいなくて素振りをしていたら、Tさんが今孫を呼んだから、相手してやってよという。とにかくスピードが段違い。丹羽孝希とフォア打ちをしているみたいだ(とかいって丹羽孝希と打ち合ったことはないのだが)。どこかのおじさんが「○○区の福原愛ちゃん」と呼んでいたが、サウスポーのCちゃんをつかまえて、愛ちゃんは失礼だろう。石川佳純のほうがたとえて適切であろう。
卓球も難しいが、日本語も難しい。この手の誤用をあつかった書籍のなんと多いことか。
それに最近では誤変換なるものもいい味をだしている。仕事場のMは“第1稿”とするところを“弟1稿”などと誤変換にしては手の込んだまねをする。
なにしろ抜き打ちの尿検査をしたら通常の10倍近い誤字脱字が見つかったくらいだ。本人は「この仕事好きだから…」などとわけのわからぬ言い訳をしていたが。このほかにも“ストップ”を“スットプ”、“しっかり”を“しっかり”、“オピニオン”を“オピニン”と想像を絶する才能の持ち主である。
さてCちゃん相手にしばしスマッシュ練習。もっと右脚にかけた体重を左脚に移動させてとか、もっと前に重心を移動させてとか、6年生から指導されるおれ。
ひと息ついて休むことになった。「だんだんうまくなってきた、はじめのころにくらべて打球が強くなった」だって。もうありがたいやら、情けないやら。
そのあとは、じいじとCちゃんに呼ばれているTさんと特訓。いつものスマッシュ練習に加えて、オール(なんでもありなりの試合形式の練習)までやってもうへとへとだ。
まあとにかくラケットを無心に振っている限り、浮世のごたごたは忘れられるし、下手は下手なりに楽しめる。さらにはこの次はこうしたい、という欲が出てくる。段階の世代からひと回りして、高度成長期に育ったぼくらにはこうした向上心という内発的な刺激が心地いい。


2010年2月27日土曜日

阿久悠『歌謡曲の時代』

冬季オリンピック。
あとわずかで閉幕であるが、回を重ねるごとに新奇な競技が増えていくようだ。複数で競争するアルペンスキーはスピードスケートのショートトラックよりも見ていて危険な感じがする。またいつのまにやら複合とか団体とかスプリントだとか種目内の細分化が進んでいるように思う。その昔ジャンプの団体戦が行われると聞いたとき、いっぺんに全員で飛ぶのか、そのときは横並びなのか縦並びなのかと疑問に思ったことがある。
これだけ競技が増えるのなら、いっそのこと野球とソフトボールも次期冬季大会で採用されればいいのにと思う。
さて。
“阿久悠”は一発で変換できなかった。
なかにし礼を読んだときも思ったのだが、阿久悠もぼくの今思っていることに近い存在だ。それはベクトルの方向が昭和を向いていること。
昭和から平成になって、“歌謡曲”がなくなった。時代を映す歌がなくなった。流行の歌は個人の主張でしかなくなったという。それはもう20年以上も前、“中心から周縁”、“ヨーロッパから非ヨーロッパ”、“大衆から分衆”へなどというキーワードで語られていた。もちろん難しい話をする気はない。ただ個人の嗜好としてぼくは昭和が好きなのだ。そういった意味では阿久悠の詩にぼくは幼少の頃からずっと寄り添ってきた。いわばぼくにとって昭和のわらべ歌のようなものだ。
阿久悠となかにし礼を比較するのは愚の骨頂だろう。シャンソンの訳詩から出発した都会派の詩人なかにしと広告ビジネスに身を投じ、人に届く言葉(コピー)を怜悧な刃物で切り分けてきた阿久悠とはそのよって立つ土壌が異なる。おそらく、あくまで私見でしかないが、なかにし礼に「ピンポンパン体操」はかけなかったと思うし、ピンクレディをはじめとするアイドルたちをプロデュースする視点で作詞はできなかったように思う。
広告クリエーティブの世界になぞらえるならば、なかにしはあくまで個的経験を中心に悠久の世界観を紡ぎだす秋山晶であり、阿久悠はどこまでもストイックに言葉を捜し続ける仲畑貴志ではあるまいか。
まあ、そんなことはどうでもいい。ぼくは“昭和”と“昭和を愛する人”が好きなのだ。

この本の中で取り上げられた阿久悠の作品はごく限られたものであるが、備忘録としてぼくの阿久悠ベスト10を記しておこう。

1.「時代おくれ」/作曲 森田公一/編曲 チト河内、福井峻
2.「乙女のワルツ」/作曲・編曲 三木たかし
3.「熱き心に」/作曲 大瀧泳一/編曲 大瀧泳一、前田憲男
4.「あの鐘を鳴らすのはあなた」/作曲・編曲 森田公一
5.「青春時代」/作曲・編曲 森田公一
6.「白いサンゴ礁」/作曲・編曲 村井邦彦
7.「ブルースカイブルー」/作曲・編曲 馬飼野康二
8.「さよならをいう気もない」/作曲 大野克夫/編曲 船山基紀
9.「素敵にシンデレラ・コンプレックス」/作曲 鈴木康博
10.「契り(ちぎり)」/作曲 五木ひろし/編曲 京建輔

昔はきっと、こんなじゃなかったけど歳をとってかえっていい曲を好きになれたと思う。


2010年2月21日日曜日

エミール・ゾラ『ナナ』

わたがしをつくるあの機械を“わたがし機”というそうだ。
だからなんなんだという感じだが、子どもの頃家の近くの文房具屋の前に10円か20円でわたがしがつくれる、まあいわゆるわたがし機があった。割り箸がおいてあって、お金を入れて各自ご自由におつくりくださいってわけだ。
ぼくは昔から不器用さにかけては群を抜いていたのでせいぜい片手でつかめるくらいの大きさにしかできない。それに比べると3歳上の姉は手先が器用というか、それ以前につまらないことに注ぎ込む集中力がすばらしく発達していて、縁日の夜店で売っているようなプロ顔負けのわたがしをつくってくるのだ。そのうちぼくがなけなしのこづかいをもってわたがしをつくりにいくと姉がついてきて手取り足取り指南するようになり、そうこうするうち手も足もとらずに割り箸をひったくってあの夜店で売っているまるまると肥えたわたがしをこしらえるのであった。
このあいだJR恵比寿駅から天現寺まで歩く途中でわたがし機を見つけて、そんなことを思い出した。
このブログの向かって右側に最近の10の書き込みがリストされている。
そこを眺めていたら最近海外の小説を全然読んでいないことに気づき、よりによってゾラの長編小説を読みはじめてしまった。
『ナナ』は平たくいうと『居酒屋』の続編といっていい作品。主人公ナナがジェルヴェーズの娘にあたるということでは続編であるが、ひたむきに生きながらも貧困と堕落に喘ぐ母親に対して、ナナは高級娼婦として奔放の限りを尽くす。この母娘の生きた時代背景を加味しながら、読み比べてみるのもおもしろそうだ。

2010年2月17日水曜日

森絵都『風に舞いあがるビニールシート』

以前ときどき顔を出していた南青山のバーが一昨年閉店し、それ以来外で飲む機会も減ってきたように思う。
先日そのバーのバーテンダーだったKさんから手紙をもらって、西麻布で新たにバーをはじめることになったと知らされた。開店に先立って、今まで懇意にしてきた人を招いてプレオープンをするという。
新しい店はもともとバーだったようで以前の南青山の店のように木のカウンターではなくてちょっと風情にかけるが、椅子席もあって、3,4人で来てもゆっくりできそうである。

仕事場で隣の席のI君のデスクに置かれていた一冊。
森絵都。
はじめて読んでみたが、仏像のことにしても若者の会話にしても、さらには難民問題にしてもよく調べている。好感の持てる作家のひとりだと思う。


2010年2月13日土曜日

内田百閒『第三阿房列車』

阿房列車の旅もいよいよ三冊目にたどり着いた。
今のところ続きがないので、読み進めるのが惜しい。

ここでぼくの阿房列車履歴をふりかえってみよう。
・1988年 北斗星に乗りたいと思っただけの北海道阿房列車
(上野~札幌~釧路~根室~帯広~札幌~上野)
・1989年 西高東低冬型の気圧配置の日に寝台列車で行く兼六園阿房列車
(上野~金沢~上野)
・1989年 こげ茶色の省線電車で行く鶴見線前線走破阿房列車
(鶴見~鶴見線各駅)
・年代不明 気動車に乗りたい!だけの八高線阿房列車
(高崎~八王子)
上記以外は青梅線、五日市線、御殿場線くらいで考えてみると純粋に列車に乗りに行くという経験がいかに少ないかがよくわかる。阿房列車は偉大だ。
で、このさき暇があったら走らせたいぼくの阿房列車は、房総半島縦断阿房列車(五井~大原)、身延線全線走破阿房列車(富士~甲府)。あと日帰りは困難だろうが飯田線で豊橋から辰野まで遡上してみたいとか、上野から仙台まで東北本線、水戸線、水郡線、磐越東線、常磐線で仙台まで行くとか、小山まで高崎から両毛線で行ってもいいし、さらに高崎までは八王子から八高線でというのもおもしろそうだ。
とにかくこうしてはいられない。時刻表を開こう。


2010年2月9日火曜日

池波正太郎『食卓の情景』

最寄り駅の近くに卓球ショップができて(もともと同じ区内にあったものが引っ越してきたのだが)、月木土の午前中に初級者向けに教室を開いている。店内には5台の卓球台があり、ラケットやラバーも売っている。こんな近所にこれだけの施設があるのに、行かないなんてもったいない。てなことでこないだの土曜日、はじめて参加してみた。2時間半で2000円。
30名ほどの参加者を5つのグループに分けて、5人のコーチがそれぞれテーマを設定して、指導してくれる。フォアのドライブ、バックのドライブ、ストップから攻撃、フォア・バックの切換し、ダブルスのサービス。ぼくが参加したその日はそんなメニューだった。基本は多球練習(次から次へと球出しをされ、それを打ち返す)で子どもの頃少しは卓球に親しんだとはいえ、こんな本格的な練習スタイルは初体験だったのでずいぶん緊張してしまった。足は動かないし、ミスは連発するし。ぼくの経験からすると卓球の練習というよりバレーボールのそれに近い。
それでもここのコーチの方々は皆一様に親切で短い時間内に適切なアドバイスをくれる。まずは金額に見合ったレッスンだったのではなかろうか。

美食家では決してないのだが、まあ生きてるうちはうまいものを食べたい。
最近ではインターネットでグルメ情報なるものがいやというほどあるけれど、うまいものの話は年寄りに訊くに限る。
池波正太郎の作品はひとつも読んだことはないのだが、なにかの本で神田まつやのカレー蕎麦を好んで食したという話を読んで悪い印象はない。
食べ物とはかくもたいせつなものなのである。

2010年2月6日土曜日

長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』

日経新聞連載の「私の履歴書」はなかなか重厚でおもしろい企画だと思う。もちろん各新聞社でこうした連載は多いのだが、日経の場合、読み手をビジネスマンに絞っているせいか、他一般紙にない明快なおもしろさを感じる。
ぼくたちの世代、つまりものごころついたときから、ジャイアンツが常勝球団だった子どもたちにとってONは特別な存在だった。野球のプレイヤーを超越したスターだった。とりわけ地道な努力人である王貞治よりもエンターテインメントがあって、華がある長嶋茂雄は美空ひばり、石原裕次郎とともにぼくのなかでは三大昭和スターである。
20年ほど前に長嶋茂雄を起用するある不動産会社の広告コピーをまかされた。業界でもビッグで歴史もあるその企業の商品にぼくは「鍛え抜かれた先進の土地活用システム」というショルダーコピーを書いた。長嶋茂雄は天才肌では決してなく、努力の人だという意識があったのだろう。「鍛える」より「鍛え抜く」という言葉がすんなり出てきた。
思い返せば、昭和40年代に小学生としてプロ野球に熱中したぼくたちにとって、王貞治と長嶋茂雄は人気を二分する存在だった(それほどまでに王人気が高まりつつあった)。勝負強さで長嶋、数字的には王。
新聞販売店でもらった後楽園の外野席招待券でまず席が埋まるのはホームランを叩き込むであろう右翼スタンドだった。それだけ王の力は認められていた。40年代の長嶋はどちらかといえば選手として晩年を迎えつつあり、三割を打てない年もあった。それでも長嶋はぼくたち少年ファンに6度目の首位打者の姿を見せてくれた。苦しみながらもそんな素振を一切見せずにスターの座に君臨している長嶋は間違いなくスターだった。
本書で長嶋は自らの野球人生を振り返っている。猛練習の日々が多少誇張されているのではないかと思ったりもする。しかしながら昭和に生きたものなら誰もが夢中で何かに取り組むという所作を信じることができるのだ。
だからぼくにとって長嶋茂雄は自らを鍛え抜いた天才なのである。


2010年2月2日火曜日

川辺秀美『22歳からの国語力』

春の選抜高校野球の出場校が決まった。
たいてい秋の地区大会(新人戦)の優勝校ないしは上位校から選出されるのだが、各地区のレベルの見極めが難しいため、地区優勝校の10チーム以外の選抜は毎年たいへんだと思う。昨年の明治神宮大会では東海地区の大垣日大が優勝、関東地区の東海大相模が準優勝だった。目安として考えれば、この2地区はレベルが高いといえるだろう。当然ぼくは神奈川から2校、ないしは関東地区から5校が選ばれると思っていた。
ところが蓋を開けたら東京から2校、関東から4校。なんと都大会ベスト4どまりの日大三が選ばれていた。これは勝手な憶測だが、すでに東京は2枠ということで帝京、東海大菅生で決まっていたところ、諸事情で東海大菅生を出場させるわけにはいかなくなり、さりとて今から関東枠を増やすわけにも行かなくなり…。なんて台所事情があったのやも知れぬ。ぼくはだったら神奈川の桐蔭を出すべきじゃないかって思うけどね。
さて、本書。
まあ、これといって目新しいこともなく読み終わった一冊。実用書のレベルで教養書ではないかな。いまどきの22歳にはいいのかもしれないけど。

2010年1月28日木曜日

なかにし礼『兄弟』

なかにし礼は以前は好きじゃなかったが、教育テレビのある番組以降好きになった。
この本は彼が作家デビューを果たした自伝的長編である。戦争体験を捨て切れずいつまでも世の中に浮遊しているだけの実兄と筆者の葛藤、義絶がリアルに描かれている。実際にテレビドラマ化されたせいもあって、ややもすればドラマのシナリオ的なストーリー展開ではあるけれども、作詩家として、ヒットメーカーとして名をなした作者の若さが垣間見える名作だと思う。
それにしてもあれだけの借金を返済したなかにし礼はやはりすごい才能の持主である。それだけ借金を重ねた兄の才覚、人格もそれに劣らずものすごい。この作品に描かれているのはどうしようもない兄を拒絶した弟の強さ、偉大さより、そんな兄を心の奥で許し続けてきた弟の愛なのではないか。そんな気がした。
かつて作者の住んでいた大井町や品川区豊町のあたりも最近ではすっかり様変わりした。大井町駅から西側に連なる商店街から東急大井町線の下神明駅に続くガード下の細い道も広い車道になって、以前多く見られた一杯飲み屋のような店も減った。ところどころに昭和の匂いのする木造住宅がなかにし礼の落し物のように点在するのみである。


2010年1月24日日曜日

内田樹『日本辺境論』

毎月第4土曜日は午前午後で区内の体育館をはしごする。たかが卓球と侮るなかれ。さすがに疲れる。
そういえば先週は日本選手権を観にいった。男子シングルスのベスト16までを生で観戦した。お目当ての選手は吉田海偉、韓陽などペンホルダーの選手たち。結果的には水谷圧勝の4連覇だったが、その水谷を破って少年時代、カデットという中学2年以下の大会でチャンピオンになった早稲田の笠原に今年は密かに期待していた。残念ながら5回戦で韓陽に破れ、ベスト32。スピードとテクニックでは学生ではトップレベルだと思うのだが。
さて、日本を論じた本は数多あるが、“辺境”とネーミングしたところにこの本の勝利がある。よく日本論としてキーワードとなる“島国”とも違うし、ヨーロッパ・非ヨーロッパを峻別する“中心と周縁”とも異なる。なんとも目新しい切り口である。著者も言っているように内容的に新しいことを述べているわけではないにもかかわらず。
うう、腰が痛い…。



2010年1月18日月曜日

大江健三郎『水死』

ときどき夢を見る。
昔から夢を見ることはあったが、たいていの夢は目が醒めるとすぐに忘れてしまうか、内容を表現できないことがほとんどだった。最近、夢が記憶に残っているのは同じような夢を何度も見ているせいでその蓄積を記憶しているのかもしれない。
旅に出る夢が多い。突然、出張を命じられてとか、思い立ってアメリカに行くことになり、スーツケースを下げて空港に行く。空港近くに遊園地があって、大きな観覧車がまわっている。空港に着くとスーツケースもろともダストシュートのようなトンネル内の斜面を滑らされ、気がつくと機内の人になっている。あるいはブルートレインでどこかに出かける用事ができる。どんな用事かはわからないけれど用事があるのだから“阿房”な旅ではない。乗るのはほとんどいつも3段式のB寝台の最上段で天井が迫っているぶんものすごく圧迫感がある。で、どこに着いたもわからぬうちに眠ってしまうか目が醒める。不思議なものだ。

大江健三郎は洪水の月夜にひとりボートを漕ぎ出して水死する父親の夢をよく見ていたそうだ。
『水死』は『万延元年のフットボール』や『洪水はわが魂に及び』などにつながる四国の谷が舞台。これまでの翻訳調の文体ではなく、短く平明な文章で語られているのが新鮮だった。
ぼくの母も大江健三郎とほぼ同じ世代で、ふたつの昭和を生きてきた。戦争の時代と復興・平和・繁栄の昭和と。かつて当たり前のようにいて、昭和という激動の時代を支えていた人たちも今となっては高齢化社会の主役として少数派になりつつあるのだなと思った。

2010年1月13日水曜日

内田百閒『第二阿房列車』

先月、ラバーを換えた。
卓球のラケットに貼るラバーのことである。
自覚はしているのだが、フォアハンドがぼくの場合、弱い(じゃあ、バックハンドは強いのかといえばそうではなく、ただ卓球の基本技術としてのフォア打ちがまだまだしっかりできていないということなのだが)。そのことを近所の酒屋のご主人にして全日本選手権にも出場したことのあるTさんに相談したら、できるだけ弾まないラケットとラバーでしっかり振り切る練習をすればいいと言われた。そこで先月から弾まないラバーを使っている。
弾まないラバーは卓球用品の分類でいうと“コントロール系ラバー”と呼ばれ、今世界のトップ選手が使っている“ハイテンションラバー”とかかつて一世風靡した“高弾性高摩擦ラバー”とは区別される地味な商品群である。たいていお店ですすめられるのは上級者ならハイテンション、初心者でも高弾性高摩擦で、店員のフレーズとしては「こっちの方が“のび”が違います」だの「ドライブがよくかかります」だのだったりする。
まあ、それでも弾まないラバーで練習した方がいいと言われたのだから、そんなよさげなラバーには見向きもせず、やや旧式とも思えるコントロール系にしたのである。
で、肝心のフォア打ちはどうなったかというと、ラバーが弾まなくなったのは打っていてわかるが、うまくなったかどうかまではわからない。たぶん、たいしてうまくなってはいないのだろう。

『第一阿房列車』がおもしろかったものだから、ついつい『第二阿房列車』にも乗ってしまった。
こんどはいずれもけっこうな長旅である。用事が無いわりにはたくさん飲んで、たまに温泉に浸かって、記録的な豪雨とニアミスするなど相変わらずのくそおやじぶりを発揮している。

>早からず遅からず、丁度いい工合に出て来ると云うのは中中六ずかしいが、
>遅過ぎて乗り遅れたら萬事休する。早過ぎて、居所がない方が安全である。
>しかしこう云う来方を、利口な人は余りしないと云う事を知っている。汽車に
>乗り遅れる方の側に、利口な人が多い。

と、まあなかなか真理をついていて、楽しい旅である。
ここまでいっしょに旅をするともう一冊付き合いたくなる。同乗者はヒマラヤ山系氏だけではない。


2010年1月8日金曜日

寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』

冬のスポーツといえば、サッカー、ラグビー、駅伝、もちろんスキー、スケートなどウィンタースポーツもそうだ。
以前、某名門大学ラグビー部のグランド近くに住んでいて、練習試合をよく観にいった。コートサイドで観るラグビーはどこまでも広く、逆サイドで行われているプレーがよくわからない。レフェリーのアクションだけが頼りである。もちろん目の前でのスクラムやタックル、ラックなどは迫力はじゅうぶんなのだが、トータルでいえば、ラグビーはテレビで観戦するのが“ちょうどいい”。

寺山修司はぼくたちの世代にはちょっと古い。
というか、ぼくたちが1960年代の青く熱い日本を知らないということだけなのだが。
著者は日本の日陰部分を掘り起こす天才である、というのが読後の第一印象。高度成長期とは裏を返せば、未成熟な社会ということ。そんな若き日の日本が生んだ強いコントラストの、その影の部分を思い切りのいい言葉で紡いでいる本だと思った。

それにしても東福岡は強かった。桐蔭も高校ラグビーとしてはかなり水準の高いチームと思うが、決定力の差はいかんともしがたかったようだ。


2010年1月4日月曜日

大江健三郎「空の怪物アグイー」

謹賀新年。

今日3日は区の体育館が無料開放されるということで午前中ラケットを振ってきた。年が変われば多少はましになるかとも思ったが、相変わらずのものは相変わらずだ。年が明けだけで上達するのなら、ご高齢の方々はもっと上手くなっているはずだ。
体育館全面に卓球台を配置して、クロスで4人で打ち合ったり、ダブルスのゲーム練習をしたりしていてもなお人が余るという盛況ぶりで、この体育館を見る限り、わが国はまだまだ卓球王国なのだと思う。
今年最初に読んだのは大江健三郎の比較的初期の短編。
先日買った『水死』という小説を読むにあたり、なにせ久しぶりの大江健三郎なので少し肩慣らしのつもりでなにか読もうと思っていたところ、娘が学校で使用している現代文のテキストに全文が取り上げられているということでわざわざ書棚の奥から新潮社版の全作品を引っ張り出すことなく(といってもたいした手間ではないのであるが)読むことができた。
へえ、こんな話だったっけ。30年以上前に読んだ本がいかに記憶にとどまっていないかがよくわかった。ところどころ村上春樹的な比喩を用いる人だったのだ、この作家は、とも思った。逆だ。村上春樹が大江健三郎的なのだ、順番としては。
最後の交通事故の場所は晴海通りと新大橋通りの交差点だろうか。場内の幸軒でラーメンが食べたくなった。茶碗カレーかシューマイ2個を添えて。

今年もよろしくお願いいたします。