2019年12月29日日曜日

古今亭志ん生『なめくじ艦隊』

NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」が低視聴率だったと報道されていた。
いつものような時代劇じゃなかったから面食らった視聴者も多かったのかも知れないし、主役が前半(金栗四三)と後半(田畑政次)でわかれるのがわかりにくかったのかも知れない。いずれにしても視聴率なんてものはテレビを視ていた人の視聴態度を示す数値ではなく、その時間にテレビの電源が入っていて、そのチャンネルのコンテンツが画面に映し出されていたというだけのことだから、関係者もさほど落胆するには及ばない、と思っている。僕個人としては、このドラマは嘉納治五郎の物語でもなければ、金栗、田畑の物語でもなく、古今亭志ん生のドラマだと勝手に思っている。出演者に不祥事があって、代役を立てて、撮り直ししたなんていうのも志ん生の生涯みたいでおもしろかった。
以前読んだ野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』を思い出す。アスリートや大会の運営にかかわるスタッフたちではなく、ホテルの料理長、航空自衛隊、建築家、映画監督、グラフィックデザイナーらにスポットを当てた名著である。「いだてん」にはこうした人たちも(すべてではないけれど)登場する。村上信夫、松下英治、丹下健三、市川崑、亀倉雄策らである。1964年のオリンピックが実に丁寧に描かれている。強いてあげるならば、国際ストーク・マンデビル競技大会にももう少しふれたかったところだろう。
この本は古今亭志ん生の語りを速記したものだ。志ん生らしさが文章からにじみ出ている。志ん生の一生がおもしろいのは、才能もあり、努力も怠らなかったにもかかわらず、自ら破天荒な道を選んで、自爆するように挫折を重ねていったことだ。
普通にちゃんと噺に取り組んでいればもっとはやく芽が出ただろうにと思う。だけどそうじゃなかったところに古今亭志ん生の芸の奥深さがある。美空ひばりじゃないけれど人生って不思議なものですね。

2019年12月23日月曜日

太宰治『津軽』(再読)

先月、中学時代の同期会があった。
幹事の石羽紫史(もちろん仮名)から案内をもらって、出席するつもりでいたが、返信欄に書くかっこいい文章が思い浮かばず、ほったらかしにしていた。しばらくして彼女から催促のメッセージが届いていた。
数年前にもいちど同期会があり、たまたまその日石羽と会って半ば強引に連れていかれた。それ以来である。中学も小学校も入った年にいつも石羽紫史は隣の席だった。しっかり者の女子は苦手だが、好きだ、当時から。石羽に声をかけられると断りきれない。
高校は別々だったが、3年生になって(もう部活も引退し、人並みに受験勉強に明け暮れていた頃)、何度か大井町の駅の近くやその近くの図書館で石羽と出くわすことがあった。ちょっとときめいたりした。こんど会ったら初恋の人になってくれないかって告白してみようかなと思う。
大井町の居酒屋には20人くらいが集まった。見覚えのある人もいるし、名前を聞いて思い出す人、名前を聞いてもまったく思い出せない人もいる。小学校がいっしょだったりするとすぐに思い出せるが、中学の3年間でクラスも違って、部活でも接点がなかったりすると思い出しようもない。
どうしても思い出せない女子がいた。あの人だれ?とこっそり聞いてみる。佐伯先生よ、という。同級生ではなく、全共闘で安田講堂の屋上から火炎瓶を投げていた保健体育の佐伯英子先生だった。
太宰治でも読んでみようかと思ったとき、たまには別の本をと思いながら、いつも手にしてしまうのが『津軽』である。読むたびに最後、泣く。
石羽に誘われて二次会はカラオケ(やはり断りきれず)。深夜に終わって、終電もない。実家に泊まることにした。俺もそっちの方だから途中までいっしょに行こうぜと同期生のひとりに声をかけられる。小雨の降るなか歩き出す。たまにこうして集まるのもいいもんだな、なんてしゃべりながら。
が、やつの名前がいまだに思い出せないでいる。

2019年12月19日木曜日

池波正太郎『原っぱ』

ICカード乗車券をチャージする。スイカとかパスモといった類のカードに、である。
最近はカードを置いてチャージできる機械も見かける。どうやってお金が転送されるのかじっと見つめているのだけれど、未だそのしくみが解明できない。不思議でしょうがない。「カードを動かさないでください」と女性の声がする。損したら困るから絶対動かそうなんて思わない。
置き型ではないチャージ機では「カードをお入れください」「紙幣をお入れください」と女性の声にしたがって操作するとチャージができる。ICカードを入れて、紙幣を入れる。たとえば1,000円チャージするのに一万円札しかなかったりする。カードと紙幣が機械にするすると吸い込まれ、(機械によってはひったくるように紙幣を吸いとる育ちのよくないやつもいる)おつりとカードが吐き出されるまで空白の時間が生まれる。この瞬間、所持金はゼロだ。不安に襲われる。ICカードとなけなしの一万円札を取り上げられた状態で、そんなことは今までいちどもないのだけれど、突如大停電が起こったらどうすればいいのかと。一文無しの状態でブラックアウトした大都会へほおり出されてしまうのだろうか。チャージするたびに怯える瞬間的な恐怖。
永遠とも思われるような長い長い沈黙の後、「カードをお取りください」「おつりをお取りください」という女性の声が聞こえる。杞憂に終わる。
この本は池波正太郎作品のなかで数少ない現代もの。自伝的小説であるといわれている。そうは言われても時代小説はあまり読まないし、池波正太郎というとグルメエッセイばかり読んでいたから、実をいうとピンとこない。もともと芝居好きでそのキャリアの最初は劇作家だったという。演劇にかかわる登場人物に納得がいく。
池波正太郎が好きだった神田まつやのカレー南蛮そばが食べたくなる。ちょいと地下鉄に乗って行ってみようか。おっとその前にチャージしなくちゃ。

2019年12月16日月曜日

中野翠『今夜も落語で眠りたい』

寝る前にYoutTubeで落語を聴いていると以前書いたところ、何人かの友人からこの本をすすめられた。著者は30年ほど前から落語の魅力に取りつかれ、カセットやCDで夜な夜な古典の名作を聴いていたという。聴いていたというより落語に恋をしたといってもいい。作者の落語愛を感じる。
寝る前に落語なんて、同じようなことをする人っているものだ。で、古今亭志ん生の噺を聴いていると眠くなってしまうというのも同様。著者は桂文楽や志ん生推しではあるが、当時まだ現役バリバリだった古今亭志ん朝をいちばんのおすすめとしている。かつて僕がテレビコマーシャルの撮影で出会った頃の志ん朝師匠だ。
長年出版社に勤務している高校時代の友人川口洋次郎(もちろん仮名である)は、この本は名著だと言っていた。川口は今僕が読んでいるような本、たとえば吉村昭だとか獅子文六、司馬遼太郎なんかを中学生高校生時代にほぼ読み終えていた文学少年だった。これも後で知ったことだが、落語にも造詣が深い。今でもときどき寄席に足を運んでいるらしい。どうりで現代国語や日本史が得意だったわけだ。剣道も嗜んでいたが、これは当時から知っている。人は見かけによらない。
川口は同じ著者の、やはり落語にまつわる別のタイトルを編集者として担当していたのに自社の著作ではなく、文藝春秋のこちらを「名著」としてすすめてくれた。深川をルーツに持つ江戸っ子気質の川口洋次郎のことだから、照れ隠しに自分の携わった本をすすめなかったのかもしれない。
新書に滑稽新書と人情新書があるとすれば、この本は人情ものにちがいない。著者の噺家への愛情に満ち満ちている。ただの古典落語の紹介本ではない。とりわけ古今亭志ん朝師匠に関するくだりは読む者の涙を誘う。
遅ればせながら川口の言う「名著」の意味がわかってきた。ときどき出かける図書館でいつも「貸出中」になっていることも頷ける。紛うことなき名著である。

2019年12月13日金曜日

安西カオリ『さざ波の記憶』

9月、東京湾を北上し千葉市付近に上陸した台風15号。
その記録的な暴風が大規模停電や断水など甚大な被害をもたらしたことは記憶に新しい。吹き飛んだ屋根瓦や倒壊した家屋の多くは未だ修復される見込みもなく、ブルーシートを被せられたままだという。とりわけ被害の大きかった鋸南町のようすはときどきSNSで知ることができる。道のりの遠さを感じる。
南房総市白浜町にある父の実家も何枚か瓦が落ちたり、ずれたりし、窓ガラスが4枚割れた。瓦はたまたま通りかかった職人がなおしてくれた。窓ガラスは10月の台風19号に備え、板を打ち付けてもらったが、まだ修繕できていない。
千葉県安房郡千倉町白間津で生まれた母も先月、85歳になった。10月には伯母が、11月には叔母が相次いで亡くなった。母のすぐ上の姉とふたつ下の妹だ。7人いた母のきょうだいもあっという間に母ひとりだけになってしまった。5年前に8歳下の叔父がなくなったときもそうだったが、自分の妹や弟に先立たれてしまったショックは隠しようもない。
イラストレーター安西水丸は、イラストレーションだけでなくエッセイや小説など文章も多く遺している。彼の生い立ちを知るうえで興味深い資料だ。とはいえ本人が書き記したことだけでその生涯を再構築するのは難しく、誰かの証言などあると安西水丸像がより鮮明に浮かび上がる気がする。
安西カオリは、安西水丸の長女である。子どもの目線で見た安西水丸。ふだんあまり父親らしいイメージを周囲に与えてこなかっただけに、これはなかなか新鮮だ。父安西水丸の思い出や千倉町に住んでいた祖母の思い出が語られる。千倉の磯に打ちつける波の音がする。海のにおいが行間から漂ってくる。
安西水丸には兄がひとりと5人の姉がいた。兄はずいぶん以前に他界したそうだが、聞くところによると姉もすでに4人が亡くなっているという。肉親の声は貴重だ。
なんだか湿っぽい話になってしまった。

2019年12月11日水曜日

ナカムラクニオ『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』

還暦を迎える年のせいか、高校の同期と会うことが多い。
会うとたまにBARBEE BOYS(バービーボーイズ)の話題になる。どうしてバービーボーイズなのかを説明するのは面倒なのでここではしない。「いまみちってすげえよな」「いまみちはChar(チャー=竹中尚人)よりギターうまいよな」とかそんなたわいもない話だ。
たしかに80~90年代にかけて、バービーボーイズは一世を風靡した。この手の音楽に関しては詳しくないが、ギターとベースそしてドラムとボーカルのKONTA(近藤敦)が奏でるサックスとシンプルな楽器構成なのに音に厚みと深みがある。
それと同時にどことなく昭和のにおいを感じる。なんといっても杏子とKONTAのツインヴォーカルがいい。ハスキーな杏子と伸びのある高音を持ち味とするKONTA。歌詞は現代風だけれど(当時としては)、どことなく昭和歌謡を思わせる。木の実ナナと小林旭のデュエットをロックに乗せたら、きっとこんな感じなんだろうな。新しさのなかになつかしさがあった。
間奏のあいだにKONTAがサックスを鳴らす。杏子は激しく踊る。学生時代に出会ったテツandトモはそのライブを見て、なんでだろう~を発案したという。もちろんこれは嘘である。
村上春樹の文章を丹念に読んでいるんだなというのがこの本の感想。でも村上春樹のような文章を書いたところで村上春樹が書いた文章じゃないからね。ためになるようなならないような、そんな本だ。
いまみちともたかはCharよりギターがうまいという発言に関しては、個人的に納得していない。僕が通った中学校の向かいにある都立高校に伝説のギタリストがいた。校門にはいつも女性ファンが待ちかまえていた。背中にCharと刺繍されたジャンパーを着ていた竹中尚人は地元品川の英雄だ。Charを超えるギタリストなんて、そんなものがいたらお目にかかりたいね。品川区民はみんなそう思っていたはずだ。