2018年9月26日水曜日

西村まさゆき『ふしぎな県境』

横須賀線の西大井駅とその周辺はもともとあった三菱重工の工場跡地を再開発した地域である。その東側にやはり三菱系の日本光学(現ニコン)の工場があり、今では暗渠となっている立会川に沿って大きな工場が並んでいた。
立会川の北側は住所でいうと品川区二葉二丁目、南側は同じく西大井一丁目である(町名が改正される以前の昭和31年の地図によると二葉四丁目、大井森下町となっている)。この境界は古く東京35区時代の品川区と荏原区の区境だった。警察や消防の管轄も北は荏原、南は大井である。
ところが地図をよく見てみると、西大井駅付近のかつて立会川が流れていた流路を越えて、その北側に西大井一丁目が張り出しているところがある。マンションと小さな工場が並んでいるのだが、右と左で町名が変わるのである。
長いこと不思議に思っていた。三菱重工が境界もろとも川を越境して工場の施設をつくったためではないかと想像していたが、そもそもこの工場ができたのが昭和初期。地名はそれよりももっと前からあったはずである。そう考えると立会川の流路が以前は蛇行していたと考える方が妥当か。
こうしたどうでもいいことが気になるようになって、東京23区の区境に興味を持つようになった。それもできれば住居表示板があってひと目でわかる区境に。
もちろん都県境や県境にも興味はある。
この本を読む限り、県境や都県境をめぐるにはそれなりの体力が必要だと思う(青島幸雄的に言うと手間もかかるし元手もいる)。それでいて一枚の写真で境界がわかりにくい。ここから何県、ここから何県という明確でドラマティックな記号がほとんどない。著者は心の眼で見よというが、それは旅する個人で楽しむ分には大いに結構なのだが、ソーシャルネットワークの時代にあってひと目で共有できる楽しみがないというのはいかがなものかと考える。
そういうわけで僕は細々と東京23区区境の旅に勤しんでいるのである。

2018年9月25日火曜日

吉村昭『鯨の絵巻』

南房総に乙浜という集落がある。房総半島最南端の漁港があることで知られている。父が生まれたのは、その乙浜である。
吉村昭の長編小説『ふぉん・しいほるとの娘』に乙浜村が登場する。幕末に近い天保の時代、各地で漂流民となり外国船に助けられた船乗りたちが守谷(今の勝浦市)や乙浜に上陸したという記述が残っているそうだ。
1935(昭和10)年10月30日。乙浜港の氷貯蔵庫で火災が発生する。隣接する七浦村(後の千倉町)の消防団も駆けつけ、出火から一時間半後の21時半ころ下火になる。が、そのとき焼け落ちた倉庫が大爆発を起こす。逃れるすべもなく消防団員他15名が落命する。
七浦村の消防団団長を務めていたのが僕の祖父渡辺福次郎であった。
爆発事故を聞き、必死の思いで走ってきた祖母センは土砂の中から突き出た脚を見つけ、助けを求める。掘り出され、館山の病院に搬送された祖父は一命をとりとめた。
倉庫の中には圧縮酸素とダイナマイトが格納されていた。1907(明治40)年3月。房総沖で座礁した米大型商船ダコタ号の引き上げと解体に使用される資材だったという。
祖父と祖母の五番めの子として母が生まれたのが昭和9年11月。もしこの事故で祖父が殉職していたら、母に続く叔母、叔父はいなかった。
乙浜といえば捕鯨でも知られていた。今でも千倉町の隣、和田町に捕鯨基地があるが、1972(昭和47)年まで乙浜にも捕鯨基地があった。今では跡地にリゾートマンションが建ち、隣接する公園には明治初期に建てられたという鯨塚が遺されている。
南房総はカジキの突棒(つきんぼ)漁がさかんだった。鯨もカジキ漁の延長線上にあったのかもしれない。
第一次産業をあつかった吉村昭の小説は思わず息を呑んでしまう。どんな仕事もいのち懸けにはちがいなだろうが、各編に生命と生命の壮絶な戦いがある。人間だろうと動物だろうと軽んじていい生命はない。

2018年9月8日土曜日

林真理子『西郷どん!』

NHKの大河ドラマはたまにしか視ない。というかほとんど視ていない。
最初に全部視たのは「新・平家物語」だったと思う。次いで「新選組!」、そして「花燃ゆ」と通しで視たのは自慢じゃないがこの三本。
C書房に高校時代の友人がいる。文学少年、文学青年を経て出版社に勤務しているだけあって、「樅の木は残った」も「花神」も視ていたという。1970年といったら「巨人の星」と「あしたのジョー」くらいしか僕はテレビを視ていなかった(少なくとも記憶にあるのはその程度である)というのに恐ろしい友である。
大河ドラマというのは大河ドラマというだけあって、キャストもたいへんである。今回の「西郷どん!」は大河ドラマ初登場の鈴木亮平が西郷吉之助役だが、大久保一蔵役の瑛太は「篤姫」では小松帯刀だった。そのときの西郷は小澤征悦。「花燃ゆ」では宅間孝行。そんなことを言ったら今回の坂本龍馬は小栗旬だが、「龍馬伝」では福山雅治、「篤姫」では玉木宏、古く「竜馬がゆく」では北大路欣也だった。
きりがないのでこの辺でやめる。
小説の世界も似たようなものかもしれない。西郷吉之助を主人公にした作品はこれまでいくつもあった。歴史小説を書き続けてきたわけでもない作者が幕末維新の英雄伝を書くにはそれなりの覚悟もあっただろう。
先述のとおり大河ドラマはほとんど視ていないが、林真理子の本も一冊も読んだことがない。読んでみたいと思う作品は何冊かあったにはあったけれど手にとって目を通すまで至らなかった。今回はじめて読む作家である。
読みにくくないというのが第一印象である。読みやすい作家もいれば読みにくい作家もいる。読みやすい人だとするする読めて、後味がわからないこともある。むしろ読みにくい方がちゃんと読むから少しは何かが残るのだが、やはり読みにくいものは読みにくい。
その点読みにくくない本はありがたい。
ドラマではずいぶん脚色されているが、原作はすっきりしている。それもよかった。