2007年5月19日土曜日

藤井青銅『ラジオな日々-80's RADIO DAYS』

たぶん今まででいちばんラジオを聴いていた時期は中学生の頃で、ニッポン放送の『大入りダイヤルまだ宵の口』を欠かすことはまずなかった。メインパーソナリティは秀武改め高嶋ヒゲ武で、その後くり万太郎に交代するころから、徐々に聴取時間は深夜になっていく。
住んでいた場所のせいでニッポン放送はよく入った。TBSはちょっとノイズが多かったが、まあなんとか快適に聴こえた。土曜日の『ヤングタウン東京』を毎週楽しみにしていた。文化放送になるとかなり聴き取りにくく、夜間だとむしろ名古屋のCBCやモスクワ放送の方が感度は良好だった。谷村新司の『セイヤング』を聴くのは必死の作業だった。
正確には思い出せないけれど、ちょうどその頃が70年代なかば。著者藤井青銅がラジオドラマをきっかけに放送作家になるのが79年だから(つくり手と聴き手の関係で言うのも恐縮だが)、ぼくが卒業した頃、著者はラジオの世界に入学してきた言わば「入れ違い」ということかもしれない。70年代の終わりに大学生になって、部屋でずっとラジオを聴くことも少なくなった。
この本の舞台は80年代前半。こうして読んでみるといろんなことがあったんだなと思う。ぼくはただひたすらぼんやり過ごしていた。


2007年5月13日日曜日

浅田次郎『月島慕情』

銀座2丁目でサラリーマンをしていた時期があり、昼時の蕎麦といえば、昭和通りを渡って、長寿庵の鴨せいろ、晴海通りを越えて、よし田のおかわりつき天せいろがメインだった。仕事場からいちばん近いのは利久庵で店内は蕎麦屋というより、往年のモダンな食堂といった味わいがあって、それはそれでよかったんだが、なにぶんここは出前をしてくれるので、時間がないとき、手が離せないときはもりとおにぎりを持ってきてもらう。そういうわけでわざわざ蕎麦屋に行くなら、少し遠くでも長寿庵、よし田となってしまうわけだ。
今年のはじめ、夕方小腹が空いたので、たまたま通りがかった利久庵でもりそばを食べた。どちらかというと好きではない更科系の白い蕎麦なのだが、やはり長年培われたうまさがある。汁も濃く、強い。
これが利久庵最後の蕎麦だったと知ったのはその後。3月で店を閉めたのだそうだ。

利久庵の程近く、かつて尾張町と呼ばれた交差点から晴海通りをまっすぐ東に向かい勝鬨橋を渡るとそこが月島だ。

浅田次郎の『月島慕情』にこんなくだりがある。

「深川から相生橋が一本じゃ、不便には不便だがね。築地へは渡しのポンポン蒸気しかないけど、近いうちに銀座の尾張町からまっつぐ延びる道に橋を架けて、ぐるりと市電も通すそうだよ。そしたらあんた、銀座も浅草もちょいの間で、東京で一等便利なとこになる」

今でこそ月島は銀座にいちばん近い下町だが、かつては東京湾の埋め立て地の中でもいちばん不便な場所だったわけだ。
まあそれはともかく、浅田次郎を読むのは『鉄道員』以来。
佐藤乙松の

「--あんたより二つも三つもちっちえ子供らが、泣きながら村を出てくのさ。そったらとき、まさか俺が泣くわけいかんべや。気張ってけや、って子供らの肩たたいて笑わんならんのが辛くってなあ。ほいでホームの端っこに立って、汽車が見えなくなってもずっと汽笛の消えるまで敬礼しとったっけ」

という台詞には泣かされたなあ。
でもこの短篇集も相当いい。どれをとっても素晴らしい大人のおとぎ話だ。

2007年5月9日水曜日

山田真哉『食い逃げされてもバイトは雇うな』

大型連休最後の日曜日が雨で東京六大学野球の試合が順延になった。ひょっとすると早稲田の斎藤祐樹の先発もあるかと思い、打合せ前の空き時間に神宮に出向いた。慶應のバッティング練習のような第一試合が終わり、さて第二試合は立教対早稲田。ブルペンでは左腕の大前が投げていて、斎藤と福井がノックの手伝いをしていた。というわけで先発は大前。昨年春の早慶戦以来の登板(私の記憶が定かであれば…)。
今春はやたらと学生野球が取り沙汰されているが、斎藤だけでなくどこも新入生のレベルはまずまず高い。とりわけ早稲田は昨年2枚看板宮本、大谷が卒業したこともあって、若い投手陣が切磋琢磨している印象が強い。
で、本日読み終えたのは山田真哉の『食い逃げされてもバイトは雇うな』。『さおだけ屋』に続く会計の本である。前作同様世の中の不思議を会計という視点で読み解く本で、今回はさらに「数字にうまくなる」というキーワードで最終的には決算書の見方まで導いてくれる。
神宮には2時過ぎくらいまでしかいられなかったのだが、大前は3ランを打たれ、2番手の松下が勝ち投手。斎藤は8,9回をリリーフしたらしい。細山田のスクイズが決勝点だったそうだ。