2010年10月30日土曜日

落合信彦『無知との遭遇』

ドラフト会議って、アマチュア野球の日程終了後に開催されるものとばかり思っていたけど、いつしかシーズン中に行われるようになっていた。
今年は斎藤、大石、福井の早稲田の3投手に、中央の沢村あたりが注目されていたようだが、斎藤は日本ハム、大石が西武、福井が広島、そして沢村は読売にそれぞれ1位指名された。早稲田の3投手、というけれど、横浜に指名されたJEF東日本の須田幸太も早稲田だから、今年は4投手をプロに送り込んだってわけだ。
ぼくは学生野球が好きでときどき神宮球場などに出向いているせいもあって、斎藤ってどうなの、とか大石って速いの、とかよく人に訊かれるのだけれど、斎藤は先輩で同じ日ハムの宮本賢やロッテに行った大谷智久よりクラスは上じゃないだろうか。順調に行けば、藤井秀吾や和田毅くらいは活躍するんじゃないかと思っている。野手に転向するはずだった大石は身体能力が高い上に野球センスもありそうだ。今度転向するなら先発投手だろう。
野球の話をし出すときりがない。
書店でぱっと見たその一瞬、落合信彦ってどんな人だっけと“思い出し回路”がめまぐるしく動き出し、オヨヨの人?いいやそれは小林信彦、じゃあ、オレ流の人、違う違うそれは落合博満、と脳細胞のあいだをある種の化学物質が逡巡した結果、ようやく、ああ、“ASAHI Super DRY!”の人だとようやくたどり着いた。
著者は国際ジャーナリストとして現在もご活躍のようだが、グローバルな行動半径のなかから培ったユーモアと日本の現状への憂いをシャープな口調で切った一冊。笑えるけれど笑えない本である。


2010年10月28日木曜日

アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』

月に一冊はフランス文学に親しみたいと思っている。
とはいえ、月に一冊司馬遼太郎を読もうとか、村上春樹を読もうとか、IT関連の本とかビジネス書とか、あまり“しばり”をきつくしていくと読書本来の楽しみが失われるのであまり堅苦しいことはやめようとは思っている。
『マノン・レスコー』は正式な題名を『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』といい、著者のアベ・プレヴォも本名はアントワーヌ・フランソワ・プレヴォ・デグジルという。聖職者だったので、みんなから僧プレヴォ(日本的にいうならプレヴォ坊さんみたいなことか)と呼ばれていて、その名前が定着したのだそうだ。なんでそんなことを知っているかというと9月頃NHKラジオフランス語講座でこの『マノン・レスコー』の一部を読む回があり、その際講師の澤田直さんがそう紹介していたからだ。要は受け売りということだ。
ぼくはこの本をたしか20代の、学生時代にいちど読んでいる。いかにも青年たちに受け容れられそうな恋愛小説であるが、その倍ほど年齢を重ねてあらためて読んでみるといまひとつ感動的でない。昔はシュヴァリエ・デ・グリューに感情移入して読んでいたのに対し、今ではむしろその父親の立場で読んでいるからかもしれない。
マノンに溺れるどうしようもない息子に対し、今となっては怒りをおぼえざるを得ないのである。
まあ、ただ歳はとってみるもので、当時はアメリカのヌーヴェルオルレアンという地名が何のことだかさっぱりわからなかったが、今読み返してみるとニューオーリンズだなということが苦もなくわかる。微妙にではあるが、ぼくも成長しているのである。

2010年10月23日土曜日

鈴木健一『風流 江戸の蕎麦』

ソフトバンクホークスがパ・リーグ3位のロッテに敗れ、日本シリーズ進出ならず。最終戦はじっとしていられず、羽田から福岡に急遽飛んだというファンも多かったと聞く。セ・リーグは3位のジャイアンツが中日ドラゴンズに挑んだが、果たして結果は如何に。
強さと勝敗は必ずしも一致しないと思っているが、中日に強さは感じないものの(強いとか弱いとかって結局感じるものであって、ある一定の尺度を持った事実ではないということだろう)、勝負ということに関しては彼らはプロの集団である。それだけはいえると思う。
昼にそばを食することが多い。おそらくそば好きという点に関していえば、ぼくは日本人の平均値を上回っていると思う。時間のあるときはゆっくりつまみをとって、忙しいときは立ち食いでさっとすます。
立ち食いというとなんとなく粗末なイメージがないこともないが、それなりにうまい店は多い。もともとそばが江戸時代のファーストフード的な位置づけだったことや屋台で商売されていたことを考えれば、今ある立ち食いそば屋もトラディショナルなそば屋のあり方ではある。とはいうものの、あまり威勢のいい立ち食いそば屋はいかがなものか。妙に愛想よく「まいどどうも!」とか、親しみをこめて「いつもありがとうございます!」などと声をかけられるとちょっと恥ずかしい気がしないでもない。
蕎麦本は多々あるが、さすがは中公新書だとうならせる一冊だ。著者の専門は江戸時代の詩歌を中心としたものだそうだが、江戸時代にうどんを凌駕して、食文化の華になる蕎麦を巧みに発掘している。一味深い蕎麦の薀蓄といったところか。
野球の季節もそろそろ終わる。日本シリーズ、そして明治神宮野球大会。寒空の下で野球を観るのも案外悪くない。


2010年10月20日水曜日

村上春樹『やがて哀しき外国語』

読んだ本の中で、あ、これおもしろいなっと思ったところをなるべく抜書きしておこうとしている。昔、論文を書く学生がB6サイズくらいの紙に抜書きしていたように(今ではワープロで打つだろうから作業的にも楽だし、検索など簡単にできるし、さぞ重宝していることだろう)。
そんな学生みたいなことをはじめて20年近くたった。たいして勤勉でもなく、そうした抜書きを何かに役立てようという具体的な目的もないので、長いこと続けているわりにはテキストファイルで200キロバイト程度のものである。ときどき思い出したように読んでみてもあっという間に読み終えることができる。まあ言ってみれば、切手やフィギュアの人形をコレクションしてときどき眺めてみる、みたいな趣味の域を出ないものには違いない。
それでも読んだものを読みっぱなしにしないで、なんらかの形で自分自身につなぎとめておくには「書く」(あるいは打つとでもいえばいいか)という行為は無駄ではないような気がしている。
たとえば今回はこんなところを抜いてみた。

>僕自身だって、二十歳の頃はやはり不安だった。いや、不安なんて
>いうようなものじゃなかった。今ここに神様が出てきて、もう一度お前
>を二十歳に戻してあげようと言ったら、たぶん僕は「ありがとうござい
>ます。でも、べつに今のままでいいです」と言って断ると思う。こう言っ
>ちゃなんだけど、あんなもの一度で沢山だ。

こういう、なにかおもしろい言い回しとか、ものの見方をさがして本を読むのも案外悪くない。それにしても村上春樹からの抜書きが圧倒的に多い。

2010年10月16日土曜日

岸博幸『ネット帝国主義と日本の敗北』

先日、とある消費者金融の会社が更正法を申請したというニュースに出くわし、昔お世話になった広告会社のKさん(苗字だとSさんだが、ぼくたちは名前の方でKさんと呼んでいた)を思い出した。
Kさんはぼくが学生の頃通っていたコピー講座の先生で、主にラジオCMの手ほどきを受けた。独特の説教口調で今どきなら“うざい”おじさんなのだろうが、その後ぼくが就職した制作会社で家庭用品や台所製品のテレビコマーシャルの企画をお手伝いさせていただいたこともあり、またKさんがぼくの叔父と大学、就職先(大手広告会社)の同期であったということもあって、たいへんあたたかく、そしてきびしく接してくれた。
そのKさんももう70近くになるだろうか。定年でご退職されて以来お会いしていない。先ほどもいったように、いっしょにした仕事の大半は洗剤とか、芳香剤とか、冷蔵庫用のバッグなどで、主婦層を的確につかむコピーワークが要求される作業だったのだが、いちどだけ、消費者金融のCMを手伝った。Kさんとごいっしょした仕事の中でそれはとても異色なものだっただけに妙に記憶に残ってる。
無料コンテンツがネット上では幅を利かせている。タダならなんでもいいかというとけっしてそうではないだろうけれど、いちどタダを味わってしまうと、それはそれでかなり居心地がよくなってしまうのも否めない。そもそも無料コンテンツのビジネスモデルの元祖は民間放送だったのではないか。それが今ではネット広告は収入面でラジオを凌駕し、テレビにも迫る勢いであるという。
筆者によれば、無料のままだとジャーナリズムと文化の衰退をもたらす。旧来の、コンテンツ制作から流通までまるめ込んだ垂直型ビジネスモデルを無料ビジネスモデルが崩壊したのだ。
では、ジャーナリズムと文化の衰退をどう食い止めるか。まあ、その辺に関してはいまひとつって印象かな。

2010年10月11日月曜日

吉良俊彦『1日2400時間吉良式発想法』

比較的読まないジャンルの本が時代小説、ビジネス書、自己啓発書である。
最近はなるべく幅広く読んでそういったアレルギーを克服しようとしている。それでも自己啓発系は正直、気乗りしない分野ではある。
著者の吉良俊彦はさほど歳の離れていない、高校の先輩であり、大手広告会社でコピーライターの経験もあって、それだけでなんとなくリスペクトしてしまう人だ。もちろん面識はない。
以前、『情報ゼロ円。』という本を出したときも飛びつくように読んだ。今回の著作もこの本と同様、氏の大学等での講義をベースにまとめられたものである。
僕のようなすでに齢50を過ぎた者が今さら発想法もあったもんじゃないが、将来のある若者たちと同じ教室、同じ席に腰掛けて、学生のような気持ちでその講義を拝聴するというのも悪くない。とりわけ、吉良俊彦のようにクールで柔軟な発想術を熱く語っていただける先生であればなおさらである(全体に著者の強いパッションを感じる本でありながら、装丁の帯やいきなり村上龍の出版に寄せる文章が載せられているのはいささか熱すぎではないかと思いつつも)。
前半に基本的な発想法としてチャネル変換型発想という、◆◆といえば○○、と視点を変えて想起されるものを列挙するメソッドが紹介される。後半、再度チャネル変換型発想法が登場する。その手法がアイデアを生み出すのに有効であるとともに、分析(マーケティング)にも役立つということを紹介している。
そこで「自動車産業といったら○○」という課題が出されているのだが、その一覧(解答例)のなかに“免許”とあった。
実に絶妙なタイミングだった。来月更新であることを思い出させてくれたのである。

2010年10月6日水曜日

司馬遼太郎『殉死』

ツイッターで何百人もフォローしている人がいるけれど、その都度目を通していく、さらには返信したり、リツィートしたりするっていうのはなかなかたいへんだ。
でも人はそれぞれにいろんなことを考え、いろんな行動を起こし、いろんな感想を抱いているものだなあと思う。自分の嗜好にあった人ばかりでなく、さまざまなジャンルの人、キャラクターの人などなどをフォローすることである種、脳内に混沌をかたちづくり、さまざまな色の絵の具をぶちまけたみたいな状況から、新鮮なものの見方、考え方に出会う瞬間はふだん漫然と生きているだけではなかなか得がたく、心地いい経験になる。
なかにはしばらく疎遠にしていた方々を見つけてはフォローしてみると、相変わらずで何よりとも思うし、ずいぶん成長したんだなこいつとか思ったり、それはそれでまた楽しい。果たしてぼくはどう見られているんだろう(まあ今のところフォローしてくれているのがごく少数なのであまり気にもとめていないけどね)。
月に一冊は司馬遼太郎を読もうプロジェクト第二弾。
乃木希典は、ふうん、そういう人だったのか。ずっと思い描いていた人とは違うものなんだなあ。
平和な高度経済成長期に育ったぼくたちにとって乃木大将というのは、母親からの口伝えに聞く伝説的なエピソードであったり、彼を讃えた歌でイメージしていた。そういうわけでどうも軍事的才覚に長けた武勲華やかなる人物を思い描いていたのでことのほかその違和感は大きく、これがあの乃木希典のリアルなかのかと咀嚼するまで時間がかかった。ただ軍人的である以上に、古典的忠臣的な人であり、美的感覚に長じた明治時代の異物だったのだろう。もちろんいい意味で、である。


2010年10月1日金曜日

根岸智幸『Twitter使いこなし術』

はやいものでもう10月だ。
東京都の高校野球新人戦(正しくは秋季東京都高等学校野球大会というらしい)は2日からブロック予選を勝ち抜いた48校で争われる。
組合せを見るとうまい具合に強豪校が振り分けられている印象だ。Aブロックでは(まあ仮に横書きのやぐらの左上、左下、右上、右下の順にA~Dを割り振るとして)日大二、八王子、二松学舎、創価、法政大とやや小粒ではあるが有力校がひしめいた。Bブロックは下半分に東海大菅生、修徳、国学院久我山、安田、桜美林とそうそうたる顔ぶれ。迎え撃つのは早大学院か。Cブロックは比較的都立高が多いなか、なんといっても注目は初戦に激突する国士舘と帝京だろう。Dブロックは日大三が強そうだが、関東一、世田谷、日大豊山、東亜と侮れない強豪が名を連ねた。
ともかく3年生が引退し、1・2年生による新チーム。何が起こるかわからないというのが正直言ったところだろう。24日に予定されている決勝戦がまことにもって楽しみである。
ツイッターが世の中をどう変えていくのか、みたいな話には興味がなくはないのだが、如何せん、ツイッターのことを知らなさ過ぎるので、まずは入門してみることにする。新書であることがまずはうれしい一冊だ。大判の、CDやDVDが付録についていたり、けばけばしいデザインで太いゴシックで“できる”なんて表紙に書かれていたら、そうやすやすと電車の中では読めないもの。