2018年5月29日火曜日

吉村昭『落日の宴』

立ち食いそばではあるのだが(差別する意識はまったく持っていない)、スマートフォンで写真を撮ってソーシャルメディアにアップなどすることがある。
するてえと、やはり立ち食いそば好きな何人かが「いいね」してくれる。では彼らはどんなそばを食べているのだろうとタイムラインを見にいく。そこで今まで知らなかったお店の情報を得ることができる。「#立ち食いそば」とか「#路麺」などというハッシュタグが付けられている。それらを手がかりにまた新しい店を見つける。世の中はすこぶる便利になっている。
昔ながらの立ち食いそばが好きなせいか、茹で麺で汁の濃いそばを食べることが多くなった。真っ黒い汁を路麺ファンは「暗黒汁」などと呼んでいる。末広町や神田須田町などに店を構える六文そば、秋葉原から少し歩いた台東区台東にある野むら、神田岩本町の味じまんなどが茹で麺+暗黒汁の店として知られている。そして彼らが愛好する種物はゲソ天だったりする。今までは立ち食いそばならかき揚げを注文しておけばいいだろうと安易に考えていたが、それは京都に行って寺社仏閣めぐりをしただけで鉄道博物館を訪ねなかったに等しい。
年明けだったか、大衆そばの本を読み、参考にしながら食べ歩いている。まだまだ行ってみたい店も多い上にSNSからおいしい情報が飛び込んでくる。しばらくは立ちそば放浪の旅を楽しもう。
川路聖謨を主人公にしたこの本は3年ほど前に読んだ。プチャーチンが長崎にやってきたとき交渉にあたった人物である。ロシア側の受けもよかったようであるが、さすがに3年も前に読んだ本だとつぶさに思い出すことができない。
吉村昭の著作は一時乱読したことがあり、これまでにも読みっ放しのものが何冊かある。思い出してはここに記しておこうと思うのだけれど、困ったことになかなか思い出せないでいる。
そういえば出久根達郎も川路聖謨の本を書いていた。これも題名を失念している。

2018年5月25日金曜日

安野光雅、藤原正彦『世にも美しい日本語入門』

ハコネノ ヤマハ テンカノケン
カンコクカンモ モノナラズ
小学5年生のときだったか、夏休みの林間学校で訪れた箱根。観光バスに同乗していたタノヨシマサ校長(字は思い出せないが、頭の禿げ上がった筋肉質の先生だったとうっすら記憶している)が「箱根八里」を歌いはじめた。
校長はこの古めかしい歌を歌ったあと、函谷関とは、萬丈の山、千仞の谷とは、羊腸の小径とは、と解説を加えていった。当時わからないこともあっただろうけれど見事に記憶に残っている。
そして皆で歌った。見たことはないけれど往時の武士(もののふ)が脳裏をかすめた。
日本人の教育ってこういうことなんだとこの本を読んで思う。
以前観た篠田正浩監督の「少年時代」では少年たちがガキ大将を先頭に軍歌を歌いながら登校する。歌(歌詞は、あるいは言葉はと言い換えてもいいかもしれない)は日本人に身近だったことがわかる。そして日本語も日本人としての考え方も矜持も植え付けられていく(もちろん軍歌がいいと言っているわけではない)。
『国家の品格』でおなじみの藤原正彦は作家新田次郎のご子息であり、母親は『流れる星は生きている』の藤原ていである。さらには小学校時代の図画工作の先生が安野光雅であったと知って驚いた。
近年、学校でも国語の授業がどんどん減らされているという。美しい日本語との接点が失われていく。戦後、「赤とんぼ」の三番の歌詞が歌われなくなった。民法上婚姻は16歳以上であること、ねえやが職業蔑視という理由からだという。「春の小川」も「さらさらながる」という歌詞が「さらさらいくよ」に「書き換え」が行われている。美しい文語文は路面電車のように忌み嫌われていたのだろうか。
それはともかく、この本で美しい日本語に触れるたびに、日本人に生まれてよかったと思う。どうせならもっとちゃんと勉強しておけばよかった。
あの頃の校長先生のように語り継ぐべき素晴らしい日本語を僕は身につけているだろうか。

2018年5月16日水曜日

新村出『広辞苑先生、語源をさぐる』

自分で書き間違えをするのに自分では気が付かない。だから誤記が多いわけだが、そのくせ人の間違いにはよく気が付く。狭量な人間なんだと思う。
広告の仕事をしている。広告主名や商品・サービス名は絶対に間違ってはいけない。本業である表現のことより、誰かが書いた誤記が気になることもある。キヤノンを平気でキャノンと書く人がいる。キューピーマヨネーズなどと書く人もいる。富士フイルムであり、フィルムではない。ナカグロが入るのか入らないのか気になる社名もある。そんなことは世の中的にはどうでもいいようなことなのだが、広告をつくる人としては気遣いが必要だろうと常日頃思っている。
キヤノンがキャノンにしなかったのはロゴをつくる際、「ャ」が小さいとバランスが悪かったからだ聞いたことがあるが、本当のところは知らない。
ロゴマークと英文表記をごっちゃにしている人も時折見かける。ソニーはSONYと表記してはいけない。Sonyである。ホンダもHondaだ。もちろんこれもまたどうでもいいことかもしれないが、少なくとも広告の仕事をしている人としてはできれば間違えたくないところだ。
かく言う自分ももう30年近く前、広告主であるとあるシャッターメーカーを〇〇シャッターとやってしまったことがある。正しくはシヤッターである。この「ヤ」もキヤノンと同様デザイン的な見地から決められたのだろうか。
新村出といえばおそらく日本人では知らない人はいないであろう広辞苑の著者である。
辞書をつくるというのはどういう仕事なのか。以前読んだ三浦しおんの『舟を編む』以上の想像ができない。
小学校の頃だったか、語源辞典なるものがあってたいそうおもしろいと聞いたことがある。そもそも、「そもそも」はおもしろいと思う。長年言葉の専門家であり続けた新村先生は小難しいことを避ける。さらりと語源に触れ、それにまつわる話を聞かせてくれる。
巨人とはこういう人のことを言うに違いない。

2018年5月13日日曜日

今尾恵介『路面電車』

大都市から路面電車が姿を消した最大の原因はモータリゼーションの進展にあるといわれている。
路面電車という時代遅れの交通システムが都市部の混雑、渋滞を惹き起こしていたというのだ。当時の日本人の考え方からすれば、経済効率と利便性が最優先。本格的に普及していったクルマは最も愛されるべき乗り物だった。
東京をはじめとする大都市では路面電車はこぞって廃止され、バスに代わり、さらに高速交通網として地下鉄道が建設される。クルマが最優先されたのはそこらで見かける歩道橋を見てもわかる。自動車の走行の邪魔にならないよう歩行者を安全に迂回させるルートだ。日本人は誰もが成長していたから、足の不自由な人や小さな子どもを連れたファミリーやお年寄りのことなど考えることもなかったのだろう。「時代の考え」はそうだった。
明治の頃、さかんに鉄道が敷設されていったが、鉄道が通ると農作物が育たないという「時代の考え」があった。鉄道駅から離れたところに市街地をもつ地方都市にはそんな考えが蔓延していたのではないか。
なんでもかんでも新しくすることが日本的なものの考え方ではある。路面電車は古いから新しくする、地下鉄にする。これは日本という国の伝統的美点なのかもしれないが、そうのうちなんとかなるだろうからつくってしまえという発想は戦費もないのにロシアと戦争をはじめた時代から連綿と続いている。
ヨーロッパを旅すると古い建物を多く見る。石造りであったり、レンガ造りであったりする。古い町の景観と同じように路面電車も大切に有効に乗り継がれている。都心部へのクルマを制限して、郊外電車とつなぐという発想が素晴らしい。穴を掘るでもなく、高架線をつくるわけでもないからたいしてお金もかからない。
夢や未来を語るのは自由だけれど、人々にとって必要な交通手段を人間的な視点からきちんと考えて結果を出している。それがLRTという昔からあって新しい乗り物だと思う。

2018年5月7日月曜日

今尾恵介『地図で読む昭和の日本』

実家に古い地図がある。
古いといっても江戸切絵図とか明治時代の古地図ではない。おそらく昭和50年頃の東京23区の区分地図である。昭和時代の地図も1964年のオリンピック大会以前の地図であれば、町名が昔のままだったり、都電が走っていたり、川が流れていたりして、現在と地図と見比べると一目瞭然のおもしろさがある。1970年以降、都電が廃止され、首都高速など現代のベースができあがってからさほど大きな差は見られなくなった。それでも目を凝らしてみると都内各地で再開発が進み、昔あったものがなくなっている。いや、今なくなってしまったものが地図に残っている。
手はじめに新橋あたりを見てみよう。ゆりかもめはまだ走っていない。汐留貨物駅があり、そこから築地市場へ引き込み線が伸びている。新大橋通りに踏切があったのをおぼえている。貨物駅はこのほか、飯田橋貨物駅や小名木貨物駅、隅田川駅があった。今では隅田川駅が半分だけ遺されている。それぞれオフィスビルや商業施設、高層住宅に姿を変えている。
新宿駅西口には京王プラザホテルを筆頭に高層ビルが建ち並ぼうとしている。品川駅の港南口(東口)は今よりずっと東側にあった。大崎駅の周辺は明電舎や日本精工の工場があった。
昔から変わらない町並みや景観もあるだろうが、40年もあればたいがいの町は変り果てる。歳を重ねるとついこないだのように思えるけれど、客観的に見れば町は変貌を遂げて当然なのかもしれない。
この本は地図という尺度をもとに定点観測した町の変わりようを追いかけている。
今あるものが昔からあったわけではなく、今あるからといって未来永劫あるわけでもない。40年前のジャイアンツファンがタイムスリップして今の世の中にやってきたとしても彼は後楽園スタジアムにたどり着けないのである。
おもしろい本だった。町の風景はまるで人生のように無常だ。
おもしろいと同時に、さびしさもおぼえた。