2008年4月29日火曜日

シドニー・ガブリエル・コレット『青い麦』

NHKラジオの語学講座がこの春から大幅にリニューアルされた。
ひとつは曜日。従来月~木が入門編、金土が応用編だったのが、月~水入門、木土応用とゆとり教育に様変わりした。ゆとり教育いかがなものよと騒がれている昨今にあって、さらにゆとりをかましているのがその時間だ。これまでの20分から15分になった。
2年前からフランス語の入門編を中心に聴いているのだが、この5分は案外大きい。しかも1日少ない。ちゃんと勉強した気になれないのだ(それに今年の番組はちょいと冗長ですべり気味)。先週あたりから入門編は止して、応用編を聴いている。応用編の15分は逆にコンパクトでわかりやすいのだ。トークマスターというタイマー録音できるラジオで繰り返し聴くこともあるのだが、15分というのはちょっとした空き時間とか通勤途中の徒歩の間に聴くのにちょうどいい。
これまでラジオ講座は入門編の場合、前期4~9月新番組、後期10~3月再放送となっていたが、番組枠が大幅に変わったので過去のすぐれた講座を聴くことができなくなってしまった。と、思ってたら、アンコール版も放送されているらしい。フランス語の場合月~土の昼前の20分間オンエアしているそうだ。月~木は入門編、金土は応用編。昔ながらのきちんとした講座をお望みの方はこちらの方がおすすめだ。先日、本屋でアンコール版のテキストをぱらぱらとめくってみた。NHKのたくましい商魂がしっかり読みとれるテキストだった。
さて、コレットの『青い麦』だが、たまたま家にあったので読んでみた。思春期の少年少女を描いたもので『青い~』などというタイトルのつくものはたいがい高が知れている。堀口大學という詩人の訳なのだが、ところどころ散文的な流れるような訳もあるが、やたら読点でつないでまだるっこしいところもある。それにしても、おそらく《tu》だとは思うのだが(原書を見てないのでなんともいえないが)、《あんた》はないだろう《あんた》はって思った。


2008年4月27日日曜日

アルフォンス・ドーデ『風車小屋だより』

手もとにある岩波文庫。
1982年1月25日第55刷発行とある。で、その下に読了の日が840215とある。はじめて読んだのが今から14年前。読んでいたことすら忘れていた一冊が書棚から見つかった。
昨年南仏を訪れた際、アルルから足をのばしてドーデの住んでいた風車小屋を見に行った。プロヴァンスの風光明媚な丘の上にぽつんとたたずむ赤い屋根。もともとは粉ひきのための風車だったそうだが、それは丘の上から見渡す穀倉地帯を思えば、うなずける話だ。蒸気機関の発達で風車による粉ひき商売は衰退し、風車の数は減っていったらしい(「コルニーユ親方の秘密」)。
風車のあるフォンヴィエイユという街はアルルからバスで2~30分ほど。まさに何もないフランスの田舎町だ。が、こうしてドーデの見聞きし、紡いだ話を読むとそれなりの歴史や生活が感じられて、目の当たりにした風景がまた魅力的に思い出されてくるのだ。


2008年4月22日火曜日

浅井建爾『知らなかった!驚いた!日本全国「県境」の謎』

上野の国立科学博物館でダーウィン展を見る。
ビーグル号に乗って世界を旅した見聞が彼の進化論に活かされているのだが、5年の及ぶ船旅はなんとも苦労の絶えなかったことだろう。アンリ・ベルクソンが進化についてなにか書いていたと思うが、もう思い出せない。ただ進化論の考え方に微妙な違いがあって、進化論も進化しているのだと思ったことだけ憶えている。
でもって、この本なんだが、題名がちょっとちょっとって感じだったがつい読んでしまった。まあ『知らなかった!驚いた!』はないだろう。それと『「県境」の謎』もどうだかなあ。もっとミステリーハンターな本かと思った。
著者は市井の地理学者のようであり、歴史的行政的な観点から県境について記述しているのだが、いまひとつその不思議な県境に立っている感触に欠けるんだな。
東京葛飾区の水元公園の周辺を歩いていると、橋を渡ると千葉県松戸市、戻って土手沿いに行くと埼玉県三郷市。公園の北側は三郷市で、その東側は埼玉県八潮市と歩いているだけでめまぐるしく地名が変わる。まあ欲を言えばの話だが、こうしたタモリ倶楽部的なネタを集めた本を期待してたんだけどね。
でも廃藩置県以降の史実に忠実でちゃんとした読み物にはなっているとは思います。


2008年4月18日金曜日

安岡章太郎「サアカスの馬」

先日、去年大学を卒業したばかりの新入社員と荻窪界隈の話をしていて、その際、井伏鱒二の家って荻窪にあるんだよと言ったら、どうもそいつ、井伏鱒二を知らないらしい。太宰治も三鷹に引越す前は荻窪に住んでいたそうだというとさすが太宰治は知っているという(そりゃそうだろう)。
それで思ったんだが、ぼくらは中学の国語の教科書に「山椒魚」が載っていたから井伏鱒二を知っているんであって、もしそうでなかったら、やはりその若者同様、え?誰それ?となったかもしれない。
中学の頃、教科書に載っていて印象深い小説として安岡章太郎の「サアカスの馬」があげられる。こんな書き出しだ。

   ぼくの行っていた中学校は九段の靖国神社のとなりにある。
   鉄筋コンクリート三階建の校舎は、その頃モダンで明るく健康的と
  いわれていたが、僕にとってはそれは、いつも暗く、重苦しく、陰気な
  感じのする建物であった。

ここ第一東京市立中学校で劣等生だった安岡章太郎が靖国神社のお祭りで思いのほか脚光を浴びる老いさらばえたサーカスの馬に感情移入するという短編である。
たまたま今日午前中時間ができたので、授業をさぼった学生よろしく、日比谷図書館に立ち寄って久しぶりに読みかえしてみた。第一東京市立中学は後に東京都立九段高校となり、現在では千代田区立九段中等教育学校という6年間一貫校となっている。ぼくも九段高校の出身で、まさに安岡章太郎が通っていたモダンで明るく健康的な鉄筋コンクリート三階建ての校舎で3年間を過ごした。この校舎は後に改築され、すっかり様変わりした。キャベツを食い散らかした地下の食堂や安岡少年が立たされた廊下など、この校舎の面影はわずかにこの短編に記されているだけだ。

2008年4月16日水曜日

清水義範『早わかり世界の文学』

選抜高校野球が始まって、終わったと思ったら、プロ野球が始まって、学生野球も始まった。4連覇のかかる東京六大学の早稲田は東大相手とはいえ、好発進。注目は新主将になった上本、松本、細山田の4年生だ。東京都の高校野球も始まっている。秋優勝の関東一が初戦敗退。関東大会へ行けないどころか、夏の予選はノーシードだ。
プロ野球はどうかといえば、じゅうぶんに補強したジャイアンツがスタートダッシュするかと思ってたら、そうでもなく、もののみごとにマスコミの餌食となっている。ジャイアンツといえば、以前から大型補強をするたびに各方面から批判を浴びていたが、ぼくは案外そうとは思わないのだ。子どもの頃、よく新聞(もちろん読売新聞だ)の集金に来る販売店の人が外野席の招待券をくれたのだが、ただで観戦できる外野席のチケットに期待するものとしたらやはりホームランだろう。ジャイアンツはこうした小さな野球ファンの卵たちのために各球団から4番打者を集めなければならない宿命なのだ。そりゃあもちろん自前でホームランバッターを育てるのが理想には違いなのだが、手っ取り早く東京ドームの外野席にホームランボールを大量に打ち込むために5年も6年も若手を育成している場合ではないのだ。よく野球は役割分担だとか、大砲役とつなぎ役がいて…みたいなことをしたり顔でいう素人評論家がいるが、まずは野球ってスケールの大きなスポーツだろってことを直感的に知らしめないと、ますます衰退していくような気がする。野球がチームプレーで、作戦があって、緻密な競技であるなんてことは高校生になって学べばいいことだ、なんて思うんだけどね(とはいえジャイアンツにはもう少し勝つ野球をしてほしいなあとも思うけど)。
ちょっと野球の話が長くなってしまった。
清水義範の『早わかり世界の文学』は著者の作家としての立ち位置を改めて明確にしながら、読書体験を語っている平易な本である。清水義範はパスティーシュ作家だといわれており、ぼくもパスティーシュという言葉を清水作品を通じて知ったのであるが、正直いって、本人がパスティーシュ作家ですとあからさまに自負しているとどうも鼻につくというか、いやな感じがする。私は反体制ですと胸をはっていわれたみたいな。そういうことって作品を通じて訴えてくれればいいと思うのだが。それとなんでもかんでもパスティーシュとくくるのもどうかなと。文体を模倣するのと小説の主題を模倣するのとでは違うような気もするのだ。だから文学はパロディでつながっているといわれてもちょっと無理があるような気がするのである。


2008年4月15日火曜日

チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』

もう何年前になるだろうか。四谷四丁目にある小さなCM制作会社で働くようになった頃だから、かれこれ20年以上だ。どういう訳か、その仕事場の近くの本屋で新潮文庫の『デイヴィッド・コパフィールド』を4冊まとめて買ったのだ。今ぼんやりと当時のことを思い出そうとしているのだが、たしか村上春樹の小説の中で『デイヴィッド・コパフィールド』という書名を目に留め、それで読んでみようと思ったのかもしれない。はたまた古い映画で『大いなる遺産』だか『二都物語』だかを観て、それで咄嗟に読みたくなったかもしれない。それで、だ。ちょうどその当時、これもとても曖昧な記憶にすがっているのだけれど、『デイヴィッド・コパフィールド』は絶版になっていたようにも思えるのだ。文庫本で絶版になると神保町あたりでは途端に値がつりあがる。もし街の本屋で在庫があれば、そいつに飛びつかないことにはとんだ散財になる。とかなんとか思って買ったのかもしれない。
それにしてもぼくと『デイヴィッド・コパフィールド』の結びつきというのがなんともはっきりしない。先述したような接点があったのかもしれないし、なかったかもしれない。どのみちディケンズといえば『クリスマス・キャロル』くらいしか読んだことはなかったし、そもそもあまりイギリス文学にも親しんでいたわけではなかった。せいぜい子どもの頃、『ロビンソン・クルーソー』とか『ガリバー旅行記』を読んだくらい。後はモームとかジョイスくらいかな。
いずれにしても昔から本棚には『デイヴィッド・コパフィールド』が4冊、ずっと長いこと置かれていて、いつか読むのだろうとその背中だけをながめていた。
ここ何ヶ月か、仕事がスムースにいかなくて、たまの休みの日もくよくよ思い悩むような日が続いていた。なにかで気分転換しなくちゃと思っていた矢先、またしても古い文庫本の背が目に飛び込んできた。そんなわけで何の予備知識もないままこの本を読み始めたわけだ。
少し読みすすめて、どうやら『デイヴィッド・コパフィールド』っていうのは主人公の名前でそのデイヴィッドが成長していく物語だということがわかってきた。言ってみれば『ジャン・クリストフ』と同じだ。『魔の山』とか『罪と罰』みたいなテーマ的な題名ではない。だから主人公が渡辺一男だったら『渡辺一男』という題名になる小説ってことだ。
まあ、それはともかく、幼少期の不遇な家庭環境から脱却し、幾多の出会いと努力を積み重ね、作家として、人間として成長していく自伝的な小説だ。やたらと長い物語ではあるが、主人公と彼をとりまく人物が再三あらわれ進展していく展開は読んでいて飽きさせない。
学生の頃は『ジャン・クリストフ』とか『新エロイーズ』とか『エデンの東』とか長い小説をよく読んでいたが、この歳になって読む大河小説も悪くはないなと思った。