2015年7月23日木曜日

吉村昭『天狗争乱』

山本周五郎の『新潮記』を読んで、俄然興味をおぼえたのが藤田東湖とその四男小四郎だ。
「提灯の光りにうつしだされた弟のほうは(藤田小四郎、つまり後に天狗党を興して筑波の義挙を決行した)眼の大きな、ひきむすんだ口許のいかにも意志の強そうな、きかぬ気の顔つきだった」
と書かれている。この一文が妙に気になったのだ。
吉村昭の小説は旅の小説である。
『長英逃亡』、『ふおん・しいほるとの娘』、『桜田門外ノ変』など読み終わると脚に筋肉痛が残るような作品が多い。『アメリカ彦蔵』をはじめとした漂流ものも壮大な旅の記録であるし、『蜜蜂乱舞』も現代に舞台が置かれているが、これもまた気の遠くなるような旅の物語である。
『天狗争乱』は水戸藩尊王攘夷派らが挙兵した天狗勢と呼ばれる武装集団が幕府軍の追討を受けながらも京都にいる一橋慶喜のもとをめざす。またしても艱難辛苦の旅である。山道を越え、吹雪を乗り越える。谷底に駄馬が落ちていく。
学生時代、歴史の勉強不足がたたって幕末のことはあまりよくわからない。尊王攘夷といっても当時流行りの考え方くらいの認識しかない(まったく情けない)。しかしながら吉村昭を通じて尊攘派のピュアな側面がよく見えてくる。これは『桜田門外ノ変』の関鉄之介にもいえることだが、水戸藩の尊攘派は純粋で一途なところがある。武田耕雲斎らに導かれた天狗勢はストイックなまでに統率がとれ、規律に忠実に行軍していく。身の引き締まる思いが伝わってくる。読者ばかりでなく、道々の小藩の者たちや行く先々で出会う平民たち、そして最後に対峙する加賀藩士までもがその筋の通った姿勢に共感する。できることなら彼らの望みを叶えさせてやりたいと誰しも思う。
逃亡でもなく、何か物質的な豊かさを求める旅でもなく、ひたすら志を遂げるためのみに前進していく旅。そういう旅って、ちょっとかっこいい。

2015年7月21日火曜日

山本周五郎『新潮記』

今月は父の三回忌、高校の同期会、バレーボール部のOB会と日曜ごとにイベントが組まれ、のんびりする間もなくはや下旬にさしかかっている。
父の実家は千葉県の南房総市にある。ついこのあいだまで安房郡といった。
非常に不便な場所である。一方的に不便と言い切ってしまうのもよくないと思うのだが、徒歩圏にコンビニエンスストアはない。かろうじて酒屋、魚屋、八百屋、雑貨店はあるものの、まとまって買い出しをするとなると1時間に1本なるかないかの路線バスに乗って、少し繁華な(その昔町役場があった)ところまで出かけなければならない。そこまで行けばスーパーがある。歩けば4~50分はかかるだろう。
こういう場所に住んでいる人は不便だと思わないのかといえば、たいていの家庭に軽自動車くらいはあるし、別段なんとも思わないのかもしれない。人は住む環境によって暮し方は変わるし、むしろいちいち歩いてコンビニに行くなんて方が不便だという考え方も成り立つ。
昨年までは近所に酒屋が一軒あって、そこでたいていのものは手に入った。店番をしていたおばあちゃんが父と同級生だったこともあり、よくおまけもしてくれた。この店ももう閉まっている(おばあちゃんは元気だと聞いているのであんしんしているが)。今年も8月のお盆には墓参りに行って、4~5日滞在する。今年はどんな不便に出会えるか、今から楽しみである。
山本周五郎『新潮記』、その舞台は幕末、尊王攘夷派が暗躍する時代。高松藩と水戸藩の親密な関係、高松藩尊攘派藩士の庶子が主人公というちょっと複雑なもつれ方。全体として緊張感の走る内容でありながら、物語がどことなくのどかに流れていく印象が強い。これも山本周五郎の持ち味と見るべきか。
その昔、南房総の防波堤に寝そべってフォークナーの『八月の光』を読んでいた。殺人事件の話だったとうっすら記憶していてるが、内容はまったくおぼえていない。ただ読んでいてのどかさを感じたという点で、この本は『八月の光』に似ている(かなり無理はあるが、勝手にそう思っている)。