2016年12月24日土曜日

小板橋二郎『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』

「貧民窟」なんて言葉は現代の日本では死語なのではないだろうか。
海外に出向いたとき、大都会の片隅にスラムと呼ばれる地域が存在することがある。あの辺はスラム街だから観光で訪れた人は近寄らないほうがいい、などと言われる地域がある。今の大都会はおそらくそのような地域はないと思う。
古くは東京にも貧民窟があった。
JR浜松町駅に近い金杉橋のあたりにあった芝新網町。同じく上野駅に近い下谷万年町。そして四谷の鮫河橋。
これらは明治の頃に生まれ、東京三大スラムと呼ばれていた。芝、下谷のような下町のみならず、赤坂御所のお膝もとに規模の大きな貧民窟があったことに驚かされる。
鮫河橋は永井荷風の散歩道としても知られている。
四谷は新宿通りの南北が谷になっていて、北は荒木町から住吉町の方へ続いている。南は須賀町、若葉、南元町へ谷が続く。『日和下駄』の頃の荷風はおそらく余丁町あたりから歩きはじめて、須賀町の闇坂を下って鮫河橋(鮫ヶ橋)の火避地を訪れていたのだろう。今のみなみもとまち公園のあるあたりだ。もちろん貧民窟の名残はない。それは芝にしても、下谷にしても同じだ。
山本周五郎の『季節のない街』を思い出す。具体的なイメージとしては黒澤明監督の「どですでかん」だ。貧民窟とはあのような地域だったのではないかと。漫画でいえばちばてつやの『ハリスの旋風』だ。石田国松の親父は屋台を引いていた。トタン屋根の上には石が置かれていた。
作者小板橋二郎は板橋の貧民窟の生まれだという。
調べてみると板橋にも貧民窟があった。今でいう都営地下鉄板橋本町あたり。埼京線の十条からも遠くない。以前歩いたことがあるかも知れない。
いずれにしてもかつて貧民窟と呼ばれた地域にそのおもかげは残されていない。時間というきめ細かい土砂が堆積し、今や歴史の地層の奥深くに隠されてしまった。
教科書に載るような事件があったところなら、石碑でも建つのだろうけれど。

0 件のコメント:

コメントを投稿