2016年10月19日水曜日

村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』

村上春樹の紀行文をたまに読む。
たいていの場合、彼は僕が行きたいと思う場所には行かない。
『遠い太鼓』のイタリアにはあまり興味がなかったし、『雨天炎天』のギリシャやトルコの辺境も行きたいと思ったことがない。ギリシャの修道院を巡る巡礼の旅はミュリエル・ロバン監督「サン・ジャックへの道」を彷彿とさせる苦難とユーモアに満ちた作品でそれなりに楽しめたけれど。
ウィスキーをテーマにアイラ島やアイルランドを旅する『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』もおもしろかった。ただシングルモルトのふるさとを見に行くためだけでスコットランドやアイルランドに行きたいかと言われたら、もっと他に行ってみたい場所はある。
じゃあ君はいったいどこに行きたいのかと面と向かって訊かれたら、それはそれで答えに窮してしまう。列車とバスでは到底たどり着けないフランスの美しい村とか答えるかもしれない。たとえばセギュレとか。あるいは非常に現実的な答だったら道後温泉かもしれない。
他人がどこに行こうが、自分がどこを旅したいかなんて結局本人の自由だ。もちろん村上春樹が僕の行ってみたかった村を訪れ、なんらかの文章を残してくれたら、それに勝るよろこびはない。だけど彼が旅する土地のほとんどに興味を持てない。だのになぜ僕は村上春樹(彼だけに限らないけど)の紀行文を読んでしまうのか。それが不思議だ。もしかするとまったく関心のない町や村が創作的な世界を感じさせてくれるからかも知れない。
テレビではじめて知る原住民の生活をつい見入ってしまう。そこに彼らに対する興味関心は皆無だ。でも今まで知らなかった世界に惹き込まれてしまう。それだけでじゅうぶん楽しめたりもする。つまりはそういうことなのかなと。
さて、この本はボストン、ポートランド、ニューヨークと僕の行きたい町が紹介されている。あと、熊本もいい。村上春樹の旅行記のなかでは屈指の一冊といっていい。

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