2016年11月16日水曜日

松岡正剛『危ない言葉』

もし理想的な国語の教師がいたとしたら(これは高校現代国語の授業を想定しています)。
その人は僕たちに好き勝手に本を選んで読めと、その授業の冒頭で言うだろう。そしてわれわれは、ある者は鞄の中から読みかけの文庫本を取り出し、ある者は駅前の書店に出向き、またある者は学校の図書室で読みたい本を物色する。もちろんここぞとばかりに靖国神社で缶ビールを開けたり、神楽坂のパチンコ屋でひと勝負する者もいただろう(学校がその辺にあったので地域が限定されますが、あくまでたとえということで)。
小学校以来ほとんど本を読まなくなった僕はやることがない。頭のいい輩なら予備校や塾の宿題をここでこなすんだろうけど。
勝手に本を読めと言ったその教師は自ら持参した本を読みはじめている。することもないので彼を観察する。
ときどき微笑んだり、涙ぐんだりしている。真剣な表情も見せる。自分の親と同世代か、少し歳上かもしれない。そんな大人がページをめくりながら嗚咽なんぞしている。気持ちがわるい(僕が高校生当時、そんなボキャブラリーはなかったけど、今でいう「キモイ」感じ)。とはいうもののだんだん気になってくる。彼は何を読んでいるのかと。
他人に、この本だけは絶対読め、いい本だから。そうすすめるのは簡単なことだ。だけど自分の、あるいは不特定多数の読書体験を盾に課題化される、強制されることが何よりもいやだった。中学生になってから本を読まなくなったのは(もちろんそれは自分のせいにちがいないけれど、あえて人のせいにするなら)夏休みなどに課される読書感想文の宿題のせいだ。
国語教師が読んでいる本を覗きに行った。
その本の題名はさして重要ではない。ここでは割愛する。
もちろんこれは僕がつくった架空の話でそんな理想の教師に出会う機会はなかった。
読書は強制されるものではない。覗き見ることだ。松岡正剛はそんなことを教えてくれた。僕にとって理想の教師かもしれない。

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