昭和四十七年初場所中日八日目。結びは横綱北の富士と関脇貴ノ花の対戦だった。
立ち合い左四つに組み止めると北の富士は前に出ながら左外がけ。足腰のしぶとい貴ノ花に食い下がられたくない北の富士ははやい決着を望んだのだろう。これを残した貴ノ花に横綱は土俵中央で再度外がけ。今度は右だ。さらに体を預けて貴ノ花をのけぞらせる。勝負あったかと思ったのもつかの間、貴ノ花はのけぞりながら体を入れ替えようと右から投げを打つ。あるいは下手からひねったように見える。北の富士は思わず右手を付いてしまう。貴ノ花の背中はまだ土俵に付いていない。立行司木村庄之助の軍配は西貴ノ花に上がった。
物言いが付いた。蔵前国技館は騒然とした。長い協議だった。ここで議論されたのが「つき手」か「かばい手」かである。押し倒した相手の体が死んでいれば、つまりもう逆転の可能性がない状態であれば優勢な力士の付いた手は「かばい手」となって負けにはならない。相手が死に体でなかったとしたら、それは「つき手」となって負けである。かばい手は勝負が決まった後に相手に怪我をさせないための処置であるとも言える。木村庄之助は北の富士の手を「つき手」と判断したが、審判は「かばい手」であると結論し、行司差し違えで北の富士の勝ちになったのである。
貴ノ花は大鵬引退、玉の海急逝によって寂しくなった土俵を盛り上げた角界のプリンス。大変な人気力士でもちろん僕もファンだった。テレビを見ながら、憶えているのは軍配が貴ノ花に上がって狂喜乱舞したのもつかの間、物言いが付いて行司差し違えで貴ノ花が敗れ、なんだようと不平不満をぶちまけたことだ。今回取り組みを再現するためにユーチューブでこの対戦を見直したが、やはり貴ノ花の体は生きていると思う。
この本の著者内館牧子はこの日この取り組みを見れなかったと書いている。大の相撲通が見損なった一番をライブで見ていたなんて少し鼻が高い。
⊆∧ ∨∧?(livre)
読書は五十を過ぎてから。
2025年7月2日水曜日
2025年6月27日金曜日
内館牧子『大相撲の不思議2』
大相撲をテレビで見るようになって最初に惹きつけられたのは横綱の土俵入りだ。なにせ、大鵬、北の富士、玉の海と3人も横綱がいたんだから。現役として最晩年を迎えつつあった大鵬はゆっくりと、そしてその取り口のようにしなやかだったし、北の富士はイケメンで体躯もあってスケールの大きい土俵入りを披露していた。僕が好きだったのは玉の海。丁寧で大きな所作。小柄な力士であったが、指先がしっかり伸びている、掌をきちんと返す。風格が感じられた。
最近だと白鵬の土俵入りが気に入らなかった。横綱土俵入りはまず両腕(かいな)を大きく振りかぶって柏手を打つ。さらに両腕を振りかぶって塵手水の所作を行う。白鵬の場合、この一連がこじんまりし過ぎている。余計なパフォーマンス好きの白鵬が小さな不知火型を貫いたのは何かわけでもあったのだろうか。しなくてもいい所作があるのに基本動作はなっていない。
新横綱大の里の土俵入りはいい。大きな身体をさらに大きく見せる豪快さがある。大鵬や貴乃花、稀勢の里ら二所ノ関一門らしい土俵入りだ。強いて言えば柏手を打つ前に左右に広げた両腕は少し曲げてもいいし、少し静止してもいいかなと思っている。今のままでももちろんいい。やがてこれが大の里の土俵入りだと広く認知されるだろうから。
白鵬(元宮城野親方)の退職は残念だが、致し方ないところか。相撲協会が冷遇し過ぎるとの声もあったが、朝青龍にしても白鵬にしても相撲に対する理解に乏しいわけではない(特に白鵬は勉強熱心だった)。人を敬う気持ちと謙虚さに欠けていただけだ。勝ち星を多く重ねることが相撲ではなく、人としての完成度を高めるために不断の努力を積み重ねることが相撲道なのだ。鳴戸親方(隆の里)は稀勢の里を育てた。伊勢ヶ濱親方(旭富士)は照ノ富士を再起させた。大相撲の伝統を後世に伝えていくのに大切なのは人間性であり、優勝回数ではない。
白鵬は大切なものを見誤った。
最近だと白鵬の土俵入りが気に入らなかった。横綱土俵入りはまず両腕(かいな)を大きく振りかぶって柏手を打つ。さらに両腕を振りかぶって塵手水の所作を行う。白鵬の場合、この一連がこじんまりし過ぎている。余計なパフォーマンス好きの白鵬が小さな不知火型を貫いたのは何かわけでもあったのだろうか。しなくてもいい所作があるのに基本動作はなっていない。
新横綱大の里の土俵入りはいい。大きな身体をさらに大きく見せる豪快さがある。大鵬や貴乃花、稀勢の里ら二所ノ関一門らしい土俵入りだ。強いて言えば柏手を打つ前に左右に広げた両腕は少し曲げてもいいし、少し静止してもいいかなと思っている。今のままでももちろんいい。やがてこれが大の里の土俵入りだと広く認知されるだろうから。
白鵬(元宮城野親方)の退職は残念だが、致し方ないところか。相撲協会が冷遇し過ぎるとの声もあったが、朝青龍にしても白鵬にしても相撲に対する理解に乏しいわけではない(特に白鵬は勉強熱心だった)。人を敬う気持ちと謙虚さに欠けていただけだ。勝ち星を多く重ねることが相撲ではなく、人としての完成度を高めるために不断の努力を積み重ねることが相撲道なのだ。鳴戸親方(隆の里)は稀勢の里を育てた。伊勢ヶ濱親方(旭富士)は照ノ富士を再起させた。大相撲の伝統を後世に伝えていくのに大切なのは人間性であり、優勝回数ではない。
白鵬は大切なものを見誤った。
2025年6月21日土曜日
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』
この本は第1部、第2部が1994年に、第3部が翌年に出版されている。最初に呼んだのは95年だったと思う。一気に読んだ記憶があり、第1部に挟まれていた一枚の紙にその頃の仕事のメモが一枚残されていたからだ。
当時、僕はある鉄道会社のテレビコマーシャルの企画をしていた。その紙切れには割引切符のネーミングやらキャッチフレーズのプロトタイプなど記されていた。それが証拠にはならないだろうけれど、発行の翌年8月に3冊まとめて買って読んだのだろう。
面白かった。村上春樹の小説がついに村上春樹の小説になったと思った。それから数年後にもう一度読んだ記憶がある。というわけで今回読むのは3回目。二十年ほどのブランクがある。例によって内容的にはさして憶えていない。もちろん間宮中尉の話など忘れられない部分はあるとしてもだ。きっかけとなったのは、昨年読んだ短編集『パン屋再襲撃』に収められている「ねじまき鳥と火曜日の女たち」である。
いわゆる村上ワールドは、ある日突然異界に移る。奇妙な人物があらわれ、不思議な事件に巻き込まれる。生活に支障を来たす。この糸のもつれたような複雑多岐がすべてがクライマックスにつながっている。こうした不可思議な連鎖を辿っていくなかで解決の糸口となるようなヒントを探りあてる。そこからたたみかけるように想像力の世界のなかで物語は駆け抜けていく。こうしたパターンが確立されたのがこの作品なのだ。以後、『海辺のカフカ』も『1Q 84』も『騎士団長頃し』もその手には乗らないぞと思いつつ、引き込まれてしまうのが村上ワールドなのだ。
すっかり忘れていたが、この本に牛河が登場する。『1Q 84』で青豆や天吾の周辺を嗅ぎ回る福助頭だ。先日読みかえしたときには牛河が『ねじまき鳥』に登場していることなんかすっかり忘れていた。
再読の楽しみは忘れてしまったことを記憶の層から掘り起こすことなのかもしれない。
当時、僕はある鉄道会社のテレビコマーシャルの企画をしていた。その紙切れには割引切符のネーミングやらキャッチフレーズのプロトタイプなど記されていた。それが証拠にはならないだろうけれど、発行の翌年8月に3冊まとめて買って読んだのだろう。
面白かった。村上春樹の小説がついに村上春樹の小説になったと思った。それから数年後にもう一度読んだ記憶がある。というわけで今回読むのは3回目。二十年ほどのブランクがある。例によって内容的にはさして憶えていない。もちろん間宮中尉の話など忘れられない部分はあるとしてもだ。きっかけとなったのは、昨年読んだ短編集『パン屋再襲撃』に収められている「ねじまき鳥と火曜日の女たち」である。
いわゆる村上ワールドは、ある日突然異界に移る。奇妙な人物があらわれ、不思議な事件に巻き込まれる。生活に支障を来たす。この糸のもつれたような複雑多岐がすべてがクライマックスにつながっている。こうした不可思議な連鎖を辿っていくなかで解決の糸口となるようなヒントを探りあてる。そこからたたみかけるように想像力の世界のなかで物語は駆け抜けていく。こうしたパターンが確立されたのがこの作品なのだ。以後、『海辺のカフカ』も『1Q 84』も『騎士団長頃し』もその手には乗らないぞと思いつつ、引き込まれてしまうのが村上ワールドなのだ。
すっかり忘れていたが、この本に牛河が登場する。『1Q 84』で青豆や天吾の周辺を嗅ぎ回る福助頭だ。先日読みかえしたときには牛河が『ねじまき鳥』に登場していることなんかすっかり忘れていた。
再読の楽しみは忘れてしまったことを記憶の層から掘り起こすことなのかもしれない。
2025年6月17日火曜日
内館牧子『大相撲の不思議』
子どもの頃から見ていたスポーツは野球と大相撲だ。無人島にひとつだけスポーツを持っていっていいとしたら、このいずれかで相当悩むと思う。
大相撲をテレビで見はじめたのは北の富士と玉乃島が横綱に同時昇進した直後ではないか。大鵬、北の富士、玉乃島改め玉の海、三横綱の時代がはじまったところだ。大関は琴櫻、清國、前乃山、大麒麟、豪華な顔ぶれだ。大鵬が貴ノ花に敗れ、引退を決意し、玉の海が二十七歳で急逝する。それからしばらく北の富士がひとり横綱になった。若手の貴ノ花、大受、学生横綱の輪島らが台頭する。昭和四十六~七年のことだ。
内館牧子は脚本家になる以前、幼少の頃から大相撲を見てきたそうだ。ファンであるのみならず、後に東北大学大学院にすすんで、「土俵という聖域――大相撲における宗教学的考察」という修士論文を書いている。筋金入りの大相撲ファンから相撲研究者にまで登りつめた。
長年大相撲中継を見ていると相撲に関する知識がそれなりに身に付いてくる。歴史や作法とその言われなどなど。それでも土俵はどうつくられるのか、懸賞金とは?屋形とは?などと訊ねられたらきちんと答えられるだろうか。もちろん答えられたところで何かの役に立つということもないのだが。
しばらく野球の本ばかり読んでいた。そのうち大相撲五月場所がはじまり、大の里という新しい横綱が誕生した。いい機会だから相撲の本を読んでみようと思った。
村松友視が著書『私、プロレスの味方です』のなかで「ちゃんと見るものは、ちゃんと闘う者と完全に互角である」と書いている。この本のなかで著者が紹介している。先日読んだお股ニキもそうだが、ひとつの競技をとことん見ることは大切なことだ。野球も大相撲も大好きだったが、今頃になって僕はたいして熱心なファンではなかったことに気付く。別段、スポーツに限る話ではない。何事においてももっと勉強しておけばよかったと思う今日この頃である。
大相撲をテレビで見はじめたのは北の富士と玉乃島が横綱に同時昇進した直後ではないか。大鵬、北の富士、玉乃島改め玉の海、三横綱の時代がはじまったところだ。大関は琴櫻、清國、前乃山、大麒麟、豪華な顔ぶれだ。大鵬が貴ノ花に敗れ、引退を決意し、玉の海が二十七歳で急逝する。それからしばらく北の富士がひとり横綱になった。若手の貴ノ花、大受、学生横綱の輪島らが台頭する。昭和四十六~七年のことだ。
内館牧子は脚本家になる以前、幼少の頃から大相撲を見てきたそうだ。ファンであるのみならず、後に東北大学大学院にすすんで、「土俵という聖域――大相撲における宗教学的考察」という修士論文を書いている。筋金入りの大相撲ファンから相撲研究者にまで登りつめた。
長年大相撲中継を見ていると相撲に関する知識がそれなりに身に付いてくる。歴史や作法とその言われなどなど。それでも土俵はどうつくられるのか、懸賞金とは?屋形とは?などと訊ねられたらきちんと答えられるだろうか。もちろん答えられたところで何かの役に立つということもないのだが。
しばらく野球の本ばかり読んでいた。そのうち大相撲五月場所がはじまり、大の里という新しい横綱が誕生した。いい機会だから相撲の本を読んでみようと思った。
村松友視が著書『私、プロレスの味方です』のなかで「ちゃんと見るものは、ちゃんと闘う者と完全に互角である」と書いている。この本のなかで著者が紹介している。先日読んだお股ニキもそうだが、ひとつの競技をとことん見ることは大切なことだ。野球も大相撲も大好きだったが、今頃になって僕はたいして熱心なファンではなかったことに気付く。別段、スポーツに限る話ではない。何事においてももっと勉強しておけばよかったと思う今日この頃である。
2025年6月8日日曜日
お股ニキ『セイバーメトリクスの落とし穴 マネー・ボールを超える野球論』
はじめてプロ野球を観たのは小学校2年生のとき。明治神宮球場ライトスタンドの芝生の上で100メートル先のバッターボックスに立つ長嶋茂雄を見たのもこの時だ。
僕が野球を観るようになってから長嶋の成績は期待していた以上ではなかった。少なくとも昭和30年代程の大活躍は影を潜めていた。それでも勝負強いバッティングでホームランなら王、打点なら長嶋だった。物足りないと思ったのは打率があまり上がらなかったことによる。ずっとホームラン王であり続けた王にくらべてのことである。
6年生になって、長嶋は首位打者に返り咲く。王はホームランと打点の二冠に輝くが、首位打者長嶋を見ることができたこのシーズンは忘れられない。その後長嶋は3割を打つことなく「わが巨人軍は永久に不滅です」というメッセージを残してバットを置いた。
現役引退後長嶋は監督となり、文化人となる。監督としての長嶋茂雄は必ずしも順風満帆ではなかった。野球の神様がさらなる高みに導くべく課した試練だったかもしれない。
あるインタビューで長嶋は天才ではないと答えている。言われてみれば長嶋はどう考えても努力の人である。野球を愛するがゆえに猛練習に耐え、ライバルたちとの対戦を通じて得た経験を技術として身に付けていった。おそらく長嶋という野球人のなかには野球に関する膨大なデータが蓄積されているに違いない。
今、野球はあらゆる面でデータ化されている。投手の投げるボールの速さのみならず、球種、回転軸、回転数、さらには打球の速さ、飛距離などが瞬時に得られる。この本の著者お股ニキはSNSなどで活躍する野球評論家である。野球経験はほぼない。さまざまなデータ分析と膨大な観戦体験によって熟達した野球の見方を身に付けた。その見識の深さには目を見張る。素人と侮るなかれ、である。こうした見方が多くの野球ファンの野球リテラシーを高めていくのだろう。
長嶋さんのご冥福をお祈り致します。
僕が野球を観るようになってから長嶋の成績は期待していた以上ではなかった。少なくとも昭和30年代程の大活躍は影を潜めていた。それでも勝負強いバッティングでホームランなら王、打点なら長嶋だった。物足りないと思ったのは打率があまり上がらなかったことによる。ずっとホームラン王であり続けた王にくらべてのことである。
6年生になって、長嶋は首位打者に返り咲く。王はホームランと打点の二冠に輝くが、首位打者長嶋を見ることができたこのシーズンは忘れられない。その後長嶋は3割を打つことなく「わが巨人軍は永久に不滅です」というメッセージを残してバットを置いた。
現役引退後長嶋は監督となり、文化人となる。監督としての長嶋茂雄は必ずしも順風満帆ではなかった。野球の神様がさらなる高みに導くべく課した試練だったかもしれない。
あるインタビューで長嶋は天才ではないと答えている。言われてみれば長嶋はどう考えても努力の人である。野球を愛するがゆえに猛練習に耐え、ライバルたちとの対戦を通じて得た経験を技術として身に付けていった。おそらく長嶋という野球人のなかには野球に関する膨大なデータが蓄積されているに違いない。
今、野球はあらゆる面でデータ化されている。投手の投げるボールの速さのみならず、球種、回転軸、回転数、さらには打球の速さ、飛距離などが瞬時に得られる。この本の著者お股ニキはSNSなどで活躍する野球評論家である。野球経験はほぼない。さまざまなデータ分析と膨大な観戦体験によって熟達した野球の見方を身に付けた。その見識の深さには目を見張る。素人と侮るなかれ、である。こうした見方が多くの野球ファンの野球リテラシーを高めていくのだろう。
長嶋さんのご冥福をお祈り致します。
2025年6月2日月曜日
鳥越規央『統計学が見つけた野球の真理 最先端のセイバーメトリクスが明らかにしたもの』
俊足のスイッチヒッター柴田が出塁する。続くはいぶし銀の二番打者土井。巧みに送りバントを決めると王、長嶋へと打順がまわる。期待が高まる。小学生の頃からこんなシーンを何度も見てきた。これが野球の定石だった。
MLBでは二番打者が送りバントをすることは滅多にない。得点期待値というデータがある。特定のアウトカウントと走者の状況でその回にどれだけの得点が見込まれるかを統計的に数値化したものだ。過去のNPBのデータによれば無死一塁と一死二塁では無死一塁の方が得点期待値が大きい。送りバントは有効なプレーではないのである。
かつて二番打者は先頭打者として出塁した走者をスコアリングポジションに送る使命があった。送りバントをしたり、走者の背後にゴロを打って進塁させるのが仕事だった。あらゆる局面で数値化された今の野球で二番打者は走者がいればチャンスを広げ、あるいは得点に結びつけ、走者がいなければ自らが(できれば)長打でチャンスメイクしなければならない。各チームの最強打者を二番に据えるのが今や定石となっている。
打者の評価基準は古くから打率、本塁打数、打点だったが、近年では出塁率+長打率の合計であるOPSが注目されている。出塁率が高いということはアウトにならないということだし、長打率が高いということはチャンスをつくったり、広げることに貢献する。投手も5~6回を100球くらいで投げ切るスタイルに変わってきている。勝利数よりもクォリティスタート(QS)といって、6回を3失点で抑えることが投手の評価基準になっている。
そろそろ高校野球の季節である。犠牲バントをしないチームや複数の投手で継投するチームも以前より増えたものの、負ければ終わりのトーナメント戦で無死一塁を一死二塁にする作戦や頼れるエースに試合を託すスタイルは今もなお甲子園ではよく見かける風景だ。
セイバーメトリクスは高校野球にも浸透していくのだろうか。
MLBでは二番打者が送りバントをすることは滅多にない。得点期待値というデータがある。特定のアウトカウントと走者の状況でその回にどれだけの得点が見込まれるかを統計的に数値化したものだ。過去のNPBのデータによれば無死一塁と一死二塁では無死一塁の方が得点期待値が大きい。送りバントは有効なプレーではないのである。
かつて二番打者は先頭打者として出塁した走者をスコアリングポジションに送る使命があった。送りバントをしたり、走者の背後にゴロを打って進塁させるのが仕事だった。あらゆる局面で数値化された今の野球で二番打者は走者がいればチャンスを広げ、あるいは得点に結びつけ、走者がいなければ自らが(できれば)長打でチャンスメイクしなければならない。各チームの最強打者を二番に据えるのが今や定石となっている。
打者の評価基準は古くから打率、本塁打数、打点だったが、近年では出塁率+長打率の合計であるOPSが注目されている。出塁率が高いということはアウトにならないということだし、長打率が高いということはチャンスをつくったり、広げることに貢献する。投手も5~6回を100球くらいで投げ切るスタイルに変わってきている。勝利数よりもクォリティスタート(QS)といって、6回を3失点で抑えることが投手の評価基準になっている。
そろそろ高校野球の季節である。犠牲バントをしないチームや複数の投手で継投するチームも以前より増えたものの、負ければ終わりのトーナメント戦で無死一塁を一死二塁にする作戦や頼れるエースに試合を託すスタイルは今もなお甲子園ではよく見かける風景だ。
セイバーメトリクスは高校野球にも浸透していくのだろうか。
2025年5月31日土曜日
平田俊子『スバらしきバス』
実家から最寄り駅までは歩くと15分かかった。高校時代はバスで駅まで行った。バスはあまり好きな乗り物ではなかったが、当時はそうする他なかった。大学生になってからは余程のこと(早朝の授業など)がない限り、歩くようにした。母からもらった定期代は煙草代にした。
その後、徒歩3分程の所にJRの駅ができた(奇跡的だ)。かつての最寄り駅までバスに乗ることもなくなった。
大人になってときどきバスに乗りたくなるのは子ども時代のバス乗車体験のせいかもしれない。何度か職場を変え、麹町平河町を仕事場にした。築地や銀座で打合せを終え、時間があると都バスに乗る。銀座通りから日比谷、お堀端を通って会社の近くに停留所があった。気持ちのいい小旅行を味わえた。
会社はその後、築地に移転した。地下鉄で東銀座か築地が最寄りなのだが、時間のあるときは(休日出勤など)東京駅からバスに乗った。これがなかなかいい。丸の内側から出たバスは東京国際フォーラムから有楽町を経て、銀座に出る。晴海通りをすすんで築地の交差点に向かう。車窓から風景を見ると観光客になった気分だ。いっそこのまま勝鬨橋を渡ってみようと何度思ったことか。
この本はたまたまちくま文庫新刊の広告で見つけた。どんな本かもわからなかった。内田百閒の『阿呆列車』みたいな本なんじゃないかと思って読みはじめた。果たして『阿呆バス』だった。
立ち寄った町で、あるいはいつもの駅前で知らない場所に連れてってくれるバスが停まっている。そんなとき筆者は何かもかなぐり捨ててバスという異次元の世界に身を任せる。僕だって駅前に立教女学院とか北野とか行き先表示されているバスが停まっていれば吸い寄せられるように乗ってしまいたいと思うことがある。でもこれに乗ったらテレビで大相撲が見れなくなっちゃうとかつまらない言い訳を思い浮かべて結局乗らない。バスは好きだけど筆者ほどの愛はないんだな、多分。
その後、徒歩3分程の所にJRの駅ができた(奇跡的だ)。かつての最寄り駅までバスに乗ることもなくなった。
大人になってときどきバスに乗りたくなるのは子ども時代のバス乗車体験のせいかもしれない。何度か職場を変え、麹町平河町を仕事場にした。築地や銀座で打合せを終え、時間があると都バスに乗る。銀座通りから日比谷、お堀端を通って会社の近くに停留所があった。気持ちのいい小旅行を味わえた。
会社はその後、築地に移転した。地下鉄で東銀座か築地が最寄りなのだが、時間のあるときは(休日出勤など)東京駅からバスに乗った。これがなかなかいい。丸の内側から出たバスは東京国際フォーラムから有楽町を経て、銀座に出る。晴海通りをすすんで築地の交差点に向かう。車窓から風景を見ると観光客になった気分だ。いっそこのまま勝鬨橋を渡ってみようと何度思ったことか。
この本はたまたまちくま文庫新刊の広告で見つけた。どんな本かもわからなかった。内田百閒の『阿呆列車』みたいな本なんじゃないかと思って読みはじめた。果たして『阿呆バス』だった。
立ち寄った町で、あるいはいつもの駅前で知らない場所に連れてってくれるバスが停まっている。そんなとき筆者は何かもかなぐり捨ててバスという異次元の世界に身を任せる。僕だって駅前に立教女学院とか北野とか行き先表示されているバスが停まっていれば吸い寄せられるように乗ってしまいたいと思うことがある。でもこれに乗ったらテレビで大相撲が見れなくなっちゃうとかつまらない言い訳を思い浮かべて結局乗らない。バスは好きだけど筆者ほどの愛はないんだな、多分。
2025年5月26日月曜日
北村明広『俺たちの昭和後期』
自分が生きてきた時代に対して不平や不満を持つことはなかったように思う。
都立高校を受験するとき、当時は学校群制度というものがあって、特定の高校を志望するのではなく似たようなレベルの学校が2校~3校ずつグループ分けされていて、そのグループを受験するしくみだった。僕が受けた群には3つの学校があって、そのうちのひとつに割りふられた。自宅からはいちばん遠い学校だったが、取り立てて不服はなかった。
大学受験のときは翌年から共通一次が導入される年だった。浪人すると国公立は一校しか受験できなくなる。できれば浪人はしたくなかったのでどこでもいいから(と言っては失礼だが)合格したかった。ちょっとしたプレッシャーはあったが、どうにかこうにか受かった。
仕事をするようになってバブルになった。深夜、タクシーがつかまらず、やれやれな日々を送った。昭和55(1980)年から平成にかけては思い出しただけでもぞっとするような忙しさだった。
著者は昭和の世代定義を以下のようにしている。昭和19年生まれまでの「戦争体験世代」、20〜27年生まれの「発展請負世代」、28〜34年生まれの「センス確立世代」、それ以降に生まれた昭和後期世代。昭和後期世代が圧倒的に長期に渡っている。著者自身は昭和40年生まれ。
さらに昭和を終戦までの初期、復興がすすんだ昭和30年までの第二期、「もはや戦後ではない」から五輪、万博を開催した昭和45年までの第三期(ここまでが昭和中期)。そして46〜54年、発展と混乱、そして公害の時代である第四期、55〜64年の第五期は技術大国ジャパンとバブルの時代と位置付けられている。
これらの定義が妥当かどうかはわからない。当然偏りがあると思うが、われわれ「センス確立世代」は昭和後期の第四期に中学生〜大学生までを経験し、社会に出てから何年か第五期を生きた。いずれにしても懐かしく愛おしく、恥ずかしい時代である。
都立高校を受験するとき、当時は学校群制度というものがあって、特定の高校を志望するのではなく似たようなレベルの学校が2校~3校ずつグループ分けされていて、そのグループを受験するしくみだった。僕が受けた群には3つの学校があって、そのうちのひとつに割りふられた。自宅からはいちばん遠い学校だったが、取り立てて不服はなかった。
大学受験のときは翌年から共通一次が導入される年だった。浪人すると国公立は一校しか受験できなくなる。できれば浪人はしたくなかったのでどこでもいいから(と言っては失礼だが)合格したかった。ちょっとしたプレッシャーはあったが、どうにかこうにか受かった。
仕事をするようになってバブルになった。深夜、タクシーがつかまらず、やれやれな日々を送った。昭和55(1980)年から平成にかけては思い出しただけでもぞっとするような忙しさだった。
著者は昭和の世代定義を以下のようにしている。昭和19年生まれまでの「戦争体験世代」、20〜27年生まれの「発展請負世代」、28〜34年生まれの「センス確立世代」、それ以降に生まれた昭和後期世代。昭和後期世代が圧倒的に長期に渡っている。著者自身は昭和40年生まれ。
さらに昭和を終戦までの初期、復興がすすんだ昭和30年までの第二期、「もはや戦後ではない」から五輪、万博を開催した昭和45年までの第三期(ここまでが昭和中期)。そして46〜54年、発展と混乱、そして公害の時代である第四期、55〜64年の第五期は技術大国ジャパンとバブルの時代と位置付けられている。
これらの定義が妥当かどうかはわからない。当然偏りがあると思うが、われわれ「センス確立世代」は昭和後期の第四期に中学生〜大学生までを経験し、社会に出てから何年か第五期を生きた。いずれにしても懐かしく愛おしく、恥ずかしい時代である。
2025年5月21日水曜日
ロバート・ホワイティング『なぜ大谷翔平はメジャーを沸かせるのか』
東京六大学野球は春秋のリーグ戦終了後、トーナメントによる新人戦が行われる。
2011年春の新人戦準決勝立教明治戦を神宮球場で観戦していた。2対2で迎えた8回裏、明治は逆転に成功する。なおも満塁でバッターはこの回から救援でマウンドに上がった岡大海。倉敷商のエースとして二度甲子園に出場している。ここは代打だろうと思って見ていたが、そのまま打席に立ち、なんと満塁ホームランを打ってしまったのだ。
岡は2年の秋からリーグ戦で登板するようになった。対慶應二回戦で救援し初勝利を上げている。3年の春には代打で登場し、そのままマウンドに上がったこともあった。四回戦までもつれ込んだ対早稲田戦では四試合に野手で先発し、全試合に救援投手として登板している。打者としては3ランホームランを含む8安打7打点と活躍する(最後は救援で失敗し早稲田に勝ち点を与えてしまうのだが)。
岡が投打で活躍した12年の秋、花巻東の大谷翔平がドラフト会議で日本ハムから一位指名を受ける。栗山英樹に説得され、入団を決意する。この騒ぎの中で「二刀流」という新たな野球用語が定着していく。過去、MLBにもNPBにも投手として打者として活躍した選手はいたが、どちらも主力として持続的にプレーするスタイルはなかったはずだ。
岡は4年生になってからは打者に専念する(一度だけ大差の試合で登板しているが)。日米大学野球にも出場している。13年のドラフト会議で奇しくも日本ハムから三位指名を受ける。二刀流としてではなく、野手として。その後ロッテに移籍し、俊足と勝負強いバッティングは健在だ。
時折ブルペンで投げる大谷を見るとファーストミットをグラブに変えてマウンドに向かう岡を思い出す。
ロバート・ホワイティングが大谷について書いているが、この本は時期尚早な感がある。メジャーで7年を過ごした大谷を彼は今ならどう評価し、どう書くだろうか。新作を楽しみにしている。
2011年春の新人戦準決勝立教明治戦を神宮球場で観戦していた。2対2で迎えた8回裏、明治は逆転に成功する。なおも満塁でバッターはこの回から救援でマウンドに上がった岡大海。倉敷商のエースとして二度甲子園に出場している。ここは代打だろうと思って見ていたが、そのまま打席に立ち、なんと満塁ホームランを打ってしまったのだ。
岡は2年の秋からリーグ戦で登板するようになった。対慶應二回戦で救援し初勝利を上げている。3年の春には代打で登場し、そのままマウンドに上がったこともあった。四回戦までもつれ込んだ対早稲田戦では四試合に野手で先発し、全試合に救援投手として登板している。打者としては3ランホームランを含む8安打7打点と活躍する(最後は救援で失敗し早稲田に勝ち点を与えてしまうのだが)。
岡が投打で活躍した12年の秋、花巻東の大谷翔平がドラフト会議で日本ハムから一位指名を受ける。栗山英樹に説得され、入団を決意する。この騒ぎの中で「二刀流」という新たな野球用語が定着していく。過去、MLBにもNPBにも投手として打者として活躍した選手はいたが、どちらも主力として持続的にプレーするスタイルはなかったはずだ。
岡は4年生になってからは打者に専念する(一度だけ大差の試合で登板しているが)。日米大学野球にも出場している。13年のドラフト会議で奇しくも日本ハムから三位指名を受ける。二刀流としてではなく、野手として。その後ロッテに移籍し、俊足と勝負強いバッティングは健在だ。
時折ブルペンで投げる大谷を見るとファーストミットをグラブに変えてマウンドに向かう岡を思い出す。
ロバート・ホワイティングが大谷について書いているが、この本は時期尚早な感がある。メジャーで7年を過ごした大谷を彼は今ならどう評価し、どう書くだろうか。新作を楽しみにしている。
2025年5月17日土曜日
ロバート・ホワイティング『野茂英雄ーー日本野球をどう変えたか』
ロバート・ホワイティングの本を読んでいるのには理由があって(以前にも書いたと思うが)、3月に行われたとあるパーティーで本人をお見かけしたのである。氏を知っているわけではなく、その友人である故松井清人氏を知っていた。ご近所さんであった。清人氏とは歳も離れていたのでほぼ面識はないのだが、清人氏の母上とはときどき会話を交わしたし、僕の母とも親しかった。そんなこんなでホワイティング氏に声をかけ、翻訳家の松井みどりさんのご主人の実家の近所に住んでいた者です、などとややこしい挨拶でもしたかったのである。
とはいえ、氏の著作を読んだ記憶がない。この本を以前楽しく読ませていただきました、つきましては...と声をかけるのがいいに決まっている。読んでもいないのにいきなり、翻訳家の方と、これこれこういう繋がりがありまして、ではちょっとかっこ悪い。でもまあ、そのうちまたお目にかかれる機会もあるかもしれない。そのときに著書を何冊か拝読しましたとスムースに挨拶できるように読んでおこうと思ったのだ。
ホワイティング氏はMLBの生き字引みたいな人で一人ひとりのプレーヤーをきちんと見ている。多くの日本人メジャーリーガーに厳しい目を向けながらも、野茂、イチロー、松井秀喜、井口資仁を評価している(もちろん厳しく見るところもある)。とりわけ開拓者である野茂には好意的で同じ考えを持っている僕は大いに共感できるのだ。野茂が日本プロ野球にノーを突きつけ海を渡らなければ、後に続く日本人メジャーリーガーは生まれなかった。著者は野茂の野球殿堂入りの議論さえ掲載している。反論も多いが、これは過度の期待を持たせないためという意図が感じられる。おそらく彼に投票権があれば間違いなくイエスと答えるかのようだ。
さて、読み終わって、いつも通り読書メーターに登録しようとした。そこでようやく気付く。2019年に僕はこの本を読んでいたのである。
とはいえ、氏の著作を読んだ記憶がない。この本を以前楽しく読ませていただきました、つきましては...と声をかけるのがいいに決まっている。読んでもいないのにいきなり、翻訳家の方と、これこれこういう繋がりがありまして、ではちょっとかっこ悪い。でもまあ、そのうちまたお目にかかれる機会もあるかもしれない。そのときに著書を何冊か拝読しましたとスムースに挨拶できるように読んでおこうと思ったのだ。
ホワイティング氏はMLBの生き字引みたいな人で一人ひとりのプレーヤーをきちんと見ている。多くの日本人メジャーリーガーに厳しい目を向けながらも、野茂、イチロー、松井秀喜、井口資仁を評価している(もちろん厳しく見るところもある)。とりわけ開拓者である野茂には好意的で同じ考えを持っている僕は大いに共感できるのだ。野茂が日本プロ野球にノーを突きつけ海を渡らなければ、後に続く日本人メジャーリーガーは生まれなかった。著者は野茂の野球殿堂入りの議論さえ掲載している。反論も多いが、これは過度の期待を持たせないためという意図が感じられる。おそらく彼に投票権があれば間違いなくイエスと答えるかのようだ。
さて、読み終わって、いつも通り読書メーターに登録しようとした。そこでようやく気付く。2019年に僕はこの本を読んでいたのである。
2025年5月9日金曜日
司馬遼太郎『胡蝶の夢』
江戸幕末期の奥医師松本良順に関しては吉村昭の『暁の旅人』で読んでいる。嘉永、安政から維新にかけては様々な人物があらわれ、それも幕府側でない人物のその足跡を辿るのが面白い。川路聖謨や彰義隊の話が今ひとつ盛り上がりにかけると思うのは性格的なものだろうか。最後まで徳川に付いた松本良順にさほど強い印象を残さなかったのもやはり性格か。
司馬遼太郎が良順を追いかけると何故か面白い。司馬は講談師や噺家のように当時の社会を解説してくれる。サービス精神が旺盛なのだ。この話、文庫上下2冊でいいんじゃないか、ってな物語を4冊にする。司馬が高野長英の逃亡劇を書いたらおそらく『ジャン・クリストフ』くらいの大長編になるだろう。
実父は佐倉順天堂の佐藤泰然であり、幕臣の養子になった良順は血統的には申し分ない。徳川慶喜、勝海舟、新撰組らとの接点はあるものの基本、順風満帆なストーリーとなっておかしくない。が、そこに島倉伊之助という異物が混入される。
伊之助は後に司馬凌海という名で歴史に残る人物である。祖父伊右衛門に学才を見出され、子どもらしい時代を過ごすことなく、読書に没頭する。抜群の記憶力を誇り、江戸に出て良順の弟子になる。その後順天堂に学び、一旦佐渡に戻るが、長崎に留学した良順に呼ばれ、オランダの医師ポンペに師事する。長崎ではオランダ語の他、中国語、ドイツ語などをその突出した記憶力でマスターする。社会性という点では致命的に欠落しているにもかかわらず、記憶力に関してはある種の奇形ともいえる。
司馬遼太郎は徳川の身分制度に着目する。士農工商といった固定化された身分があらゆる制度を維持し、長きにわたって政権を支える。諸外国からもたらされた文化によって身分制度が疑問視され、やがて徳川幕府は崩壊する。
良順は平民ですらない者たち、後に言う被差別部落民らとも接触を持ち、その不平等是正に乗り出す。象徴的なエピソードだと思った。
司馬遼太郎が良順を追いかけると何故か面白い。司馬は講談師や噺家のように当時の社会を解説してくれる。サービス精神が旺盛なのだ。この話、文庫上下2冊でいいんじゃないか、ってな物語を4冊にする。司馬が高野長英の逃亡劇を書いたらおそらく『ジャン・クリストフ』くらいの大長編になるだろう。
実父は佐倉順天堂の佐藤泰然であり、幕臣の養子になった良順は血統的には申し分ない。徳川慶喜、勝海舟、新撰組らとの接点はあるものの基本、順風満帆なストーリーとなっておかしくない。が、そこに島倉伊之助という異物が混入される。
伊之助は後に司馬凌海という名で歴史に残る人物である。祖父伊右衛門に学才を見出され、子どもらしい時代を過ごすことなく、読書に没頭する。抜群の記憶力を誇り、江戸に出て良順の弟子になる。その後順天堂に学び、一旦佐渡に戻るが、長崎に留学した良順に呼ばれ、オランダの医師ポンペに師事する。長崎ではオランダ語の他、中国語、ドイツ語などをその突出した記憶力でマスターする。社会性という点では致命的に欠落しているにもかかわらず、記憶力に関してはある種の奇形ともいえる。
司馬遼太郎は徳川の身分制度に着目する。士農工商といった固定化された身分があらゆる制度を維持し、長きにわたって政権を支える。諸外国からもたらされた文化によって身分制度が疑問視され、やがて徳川幕府は崩壊する。
良順は平民ですらない者たち、後に言う被差別部落民らとも接触を持ち、その不平等是正に乗り出す。象徴的なエピソードだと思った。
2025年5月3日土曜日
ロバート・ホワイティング『野球はベースボールを超えたのか』
子どもの頃、プロ野球は巨人を応援していた。いつの頃からかそんなにファンではなくなっていた。FAで移籍して来る大物選手たちに辟易したのかもしれない。
今は特定の球団を応援するというより、かつて注目していた選手を追いかけるといった見方をしている。アマチュア時代に神宮で見た阪神の坂本誠志郎、糸原、大竹耕太郎、熊谷、ロッテの岡大海、中村奨吾、小島、楽天の早川、ソフトバンクの有原、日ハムの郡司、山﨑福也、清宮、広島の森下、ヤクルトの茂木、矢崎などなど。奥川も高校時代神宮で見ている。神宮では見なかったが、保土ヶ谷球場で阪神の森下も見た。これらの選手が出場する試合をテレビ観戦することもある。特定の球団のファンではないから、たまたま中継している試合を見るのである。毎朝新聞をひろげて、気になる選手の成績を見る。昨日の郡司君は2安打かあ、などとにんまりしたりする。要するに今ではその程度のプロ野球ファンなのである。
この本は2006年、今から20年近く前に出版されている。その頃から著者ホワイティングは日本のプロ野球を憂いていたのだなあ。NPBの球団は企業として自立していない。大企業の名をチーム名に付けている。野球をしながら広告もしている。野球のための経営と広告のための経営がごっちゃになっている。このことがMLBでは考えられない日本プロ野球の特徴である。ヤクルトが東京ヤクルト、日本ハムが北海道日本ハムになるなど本拠地を併記したチーム名に変えた球団もあるが、まだまだスポンサー名にしがみついているのが現状だ。マイナーチームも複数持つ球団もあるが、ほとんどがひとつ。
概して言えば、日本のプロ野球は成熟することなく大人になってしまった子どものように思えてならない。
ここ20年でよかったと思うのはエスコンフィールドHOKKAIDOができたことか。クラシックパークもいいけれど、一度ここで観戦したい。
今は特定の球団を応援するというより、かつて注目していた選手を追いかけるといった見方をしている。アマチュア時代に神宮で見た阪神の坂本誠志郎、糸原、大竹耕太郎、熊谷、ロッテの岡大海、中村奨吾、小島、楽天の早川、ソフトバンクの有原、日ハムの郡司、山﨑福也、清宮、広島の森下、ヤクルトの茂木、矢崎などなど。奥川も高校時代神宮で見ている。神宮では見なかったが、保土ヶ谷球場で阪神の森下も見た。これらの選手が出場する試合をテレビ観戦することもある。特定の球団のファンではないから、たまたま中継している試合を見るのである。毎朝新聞をひろげて、気になる選手の成績を見る。昨日の郡司君は2安打かあ、などとにんまりしたりする。要するに今ではその程度のプロ野球ファンなのである。
この本は2006年、今から20年近く前に出版されている。その頃から著者ホワイティングは日本のプロ野球を憂いていたのだなあ。NPBの球団は企業として自立していない。大企業の名をチーム名に付けている。野球をしながら広告もしている。野球のための経営と広告のための経営がごっちゃになっている。このことがMLBでは考えられない日本プロ野球の特徴である。ヤクルトが東京ヤクルト、日本ハムが北海道日本ハムになるなど本拠地を併記したチーム名に変えた球団もあるが、まだまだスポンサー名にしがみついているのが現状だ。マイナーチームも複数持つ球団もあるが、ほとんどがひとつ。
概して言えば、日本のプロ野球は成熟することなく大人になってしまった子どものように思えてならない。
ここ20年でよかったと思うのはエスコンフィールドHOKKAIDOができたことか。クラシックパークもいいけれど、一度ここで観戦したい。
2025年4月29日火曜日
嵐山光三郎『新廃線紀行』
廃線と聞いて、そこはかとないイメージを浮かべる人とそうでない人がいる。夏と聞いて胸ときめかす人とそうでない人がいるように。
正直に言うと僕はそこはかとないイメージを浮かべてしまう。さらに廃線にそそられる人のなかでいてもたってもいられない人もいればそれほどでもない人がいる。前者の代表的存在は宮脇俊三だろう。僕はなくなった鉄路を見い出しに旅に出ようとまでは思わない。
高校生の頃、学校の最寄り駅である今のJR飯田橋駅に隣接するような形で飯田町という貨物駅があった。ずいぶん前に貨物駅はなくなり、再開発されて、ショッピングモールになっている。その飯田橋アイガーデンテラスに向かう途中に貨物駅時代の線路が遺されている。
その昔、武蔵野グリーンパーク球場というスタジアムがあった。かつて中島飛行機の工場の引き込み線を利用して三鷹駅と武蔵野競技場前駅を結ぶ中央線の支線が開通した。野球場はあまり利用されないまま取り壊され、中央線の支線は廃線になった。
JR三鷹駅の北口を出て、太宰治でお馴染みの架線橋の辺りから弧を描きながら北に向かう遊歩道がある。武蔵野競技場戦の廃線跡である。この先で線路は玉川上水を渡るが、その橋にレールが埋め込まれている。かろうじて廃線の痕跡であることがうかがえる。
この本にも取り上げられているが、軽井沢から草津に向かう鉄道があった。JR軽井沢駅の駅前に当時の車両が遺されている。日本初のカラー映画木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」では高峰秀子がこの草軽電気鉄道に乗って故郷の北軽井沢駅に帰るシーンが映し出される。線路跡は山の中に隠されてしまったが、北軽井沢駅だけは遺されている。
以上が僕の廃線紀行である。
川本三郎や関川夏央の著書で文人が愛した鉄道旅が紹介されている。編集者として多くの作家と接点があったでろう嵐山光三郎も鉄道旅好きな文人だった。
それにしても廃線めぐりは過酷極まりない旅である。
正直に言うと僕はそこはかとないイメージを浮かべてしまう。さらに廃線にそそられる人のなかでいてもたってもいられない人もいればそれほどでもない人がいる。前者の代表的存在は宮脇俊三だろう。僕はなくなった鉄路を見い出しに旅に出ようとまでは思わない。
高校生の頃、学校の最寄り駅である今のJR飯田橋駅に隣接するような形で飯田町という貨物駅があった。ずいぶん前に貨物駅はなくなり、再開発されて、ショッピングモールになっている。その飯田橋アイガーデンテラスに向かう途中に貨物駅時代の線路が遺されている。
その昔、武蔵野グリーンパーク球場というスタジアムがあった。かつて中島飛行機の工場の引き込み線を利用して三鷹駅と武蔵野競技場前駅を結ぶ中央線の支線が開通した。野球場はあまり利用されないまま取り壊され、中央線の支線は廃線になった。
JR三鷹駅の北口を出て、太宰治でお馴染みの架線橋の辺りから弧を描きながら北に向かう遊歩道がある。武蔵野競技場戦の廃線跡である。この先で線路は玉川上水を渡るが、その橋にレールが埋め込まれている。かろうじて廃線の痕跡であることがうかがえる。
この本にも取り上げられているが、軽井沢から草津に向かう鉄道があった。JR軽井沢駅の駅前に当時の車両が遺されている。日本初のカラー映画木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」では高峰秀子がこの草軽電気鉄道に乗って故郷の北軽井沢駅に帰るシーンが映し出される。線路跡は山の中に隠されてしまったが、北軽井沢駅だけは遺されている。
以上が僕の廃線紀行である。
川本三郎や関川夏央の著書で文人が愛した鉄道旅が紹介されている。編集者として多くの作家と接点があったでろう嵐山光三郎も鉄道旅好きな文人だった。
それにしても廃線めぐりは過酷極まりない旅である。
2025年4月20日日曜日
ロバート・ホワイティング『メジャーリーグとても信じられない話』
先月、とある方の出版記念トークショーがあり、動画とか写真の撮影を頼まれた。前半はディナーで後半がトークショー。はやめに食事を済ませ、カメラのセッティングをしていた。何人かスピーチしていた。アメリカ人がマイクの前で何か喋っていた。あまりよく聞いてはいなかったが、その人の名がロバート・ホワイティングというのだけが気になっていた。どこかで聞いたか見たかした名前だなと。1時間半ほど写真を撮り、トークショーも終わりかけていた頃になってようやく思い出した。野球の本を多く書いてる人だと。
ロバート・ホワイティングの名前を知ったのは少し複雑である。
僕の実家の目の前に大きな家具店があり、勉学優秀な長男がいた。大学卒業後Bという出版社で活躍する。家具点を継いだのは次男だった。その長男の話をCという出版社に勤務する友人川口洋次郎に話したところ(同じ業界だからもちろん知っていた)「その人の連れ合いは翻訳家で俺が担当していた」という。その名は松井みどり。
みどりさんは「川口さん、横浜までわざわざ原稿を取りに来なくても書き終えたら夫に渡しますから、Bで受け取ってください」と言ったという。それから川口は原稿ができると電話をもらって、麹町のBに取りに行ったという。そんなこんなで僕は松井みどりという翻訳家を知り、どんな訳書があるのだろうと調べて、ロバート・ホワイティングにたどり着いたのである。
それからしばらく、ロバート・ホワイティングは僕のなかでほったらかしにされていた。それが先月のとある出版記念パーティーでふと思い出されたのである。
野茂英雄以降、多くの日本人プロ野球選手が海を渡った。普通の野球ファンとしてテレビ中継はよく見ているが、MLBの歴史は深い。下手をすればアメリカ合衆国より歴史と伝統がある。もっとはやく読んでおけばよかった。
この本は翻訳者の夫、家具店の長男にすすめられて書いたということらしい。
ロバート・ホワイティングの名前を知ったのは少し複雑である。
僕の実家の目の前に大きな家具店があり、勉学優秀な長男がいた。大学卒業後Bという出版社で活躍する。家具点を継いだのは次男だった。その長男の話をCという出版社に勤務する友人川口洋次郎に話したところ(同じ業界だからもちろん知っていた)「その人の連れ合いは翻訳家で俺が担当していた」という。その名は松井みどり。
みどりさんは「川口さん、横浜までわざわざ原稿を取りに来なくても書き終えたら夫に渡しますから、Bで受け取ってください」と言ったという。それから川口は原稿ができると電話をもらって、麹町のBに取りに行ったという。そんなこんなで僕は松井みどりという翻訳家を知り、どんな訳書があるのだろうと調べて、ロバート・ホワイティングにたどり着いたのである。
それからしばらく、ロバート・ホワイティングは僕のなかでほったらかしにされていた。それが先月のとある出版記念パーティーでふと思い出されたのである。
野茂英雄以降、多くの日本人プロ野球選手が海を渡った。普通の野球ファンとしてテレビ中継はよく見ているが、MLBの歴史は深い。下手をすればアメリカ合衆国より歴史と伝統がある。もっとはやく読んでおけばよかった。
この本は翻訳者の夫、家具店の長男にすすめられて書いたということらしい。
2025年4月17日木曜日
嵐山光三郎『爺の流儀』
嵐山光三郎さんと二度お目にかかっている。厳密に言えば、二度本人をお見かけしたということだ。
最初は1985(昭和60)年、信濃町の千日谷会堂で。建築の仕事をしていた伯父が亡くなり、葬儀が行われた。嵐山さんはその会葬者のひとりで、白の着物に白の袴という出で立ちで颯爽と献花し、合掌して去っていった。嵐山さんは伯父の弟(僕の叔父)の元同僚で親友でもあったらしい。それで葬儀に駆けつけてくれたのだろう。
二度目はそれからしばらく経って、銀座で嵐山光三郎・安西水丸二人展があり、僕はたまたまオープニングパーティーの場にいた。どこのギャラリーだったかは憶えていない。嵐山さんは文筆家であったが、原稿用紙に自身の顔を描くなどよくしていた。そんな原稿用紙に描いた絵と安西水丸のイラストレーションが何点かずつ掲示されていた。パーティーはマスコミ関係者をはじめ大勢のお客さんがいた。嵐山さんは毎週日曜日の「笑っていいとも増刊号」というテレビ番組に編集者という立場で出演していた。ちょっとしたタレントだった。
パーティー会場に大きな寿司桶が運ばれる。十か二十か、それよりもっと多かったかもしれない。寿司を運び込んだ出前の人といっしょにやってきたスーツ姿の男に声をかけられた。「おまえ、レイコの息子だろう。俺はおまえのおふくろのいとこなんだ」と。レイコというのは母の名でたしかに銀座や築地、月島で寿司屋をやっているいとこがいると聞いたことがあった。「こんなところで食う出前の寿司なんかうまくない。俺の店に来い」と母のいとこTさんに告げられ、ふたりで銀座の店の入り、カウンターに座った。銀座の寿司屋の暖簾を潜るのははじめてのことだった。
嵐山さんの本は久しぶりである。両親の死を経験し、自らも80歳を超え、死についてきちんと向き合えるようになったのだろう。死は恐怖であるとともに最後の愉しみでもあるという。妙に説得力があった。
2025年4月6日日曜日
吉村昭『長英逃亡』(再読)
吉村昭の小説でもう一度読みたい作品は多い。先日はテレビドラマ「坂の上の雲」が再放送されていたこともあって『海の刺激』を再読した。その後奥田英朗の『オリンピックの身代金』を読み、警察に追われる主人公島崎国男の逃走から小伝馬町の牢を抜け、逃亡を続けた高野長英を思い出す。
日本は治安のいい国であるといわれるが、すでに江戸時代から犯罪人の取締りに関しては一等国だったと言っていい。長英は張り巡らされた捜査の網をかいくぐり、6年にわたり、逃亡生活を送る。
人生には運不運は付きものだが、破獄後の長英の逃亡は幸運に恵まれた。ひとつは門人内田弥太郎の庇護である。常に冷静に逃亡先を考え、長英の妻子を支援する。内田なくして長英の逃亡はなかったろう。入牢中に出会った米吉も長英の逃亡を支えた。米吉は仙台の侠客鈴木忠吉の子分だった。長英は裏社会とのつながりを持つことで直江津から奥州へ送り届けられ、母親と再会する。米沢から江戸へ戻るのも米吉の力なくしては叶えることはできなかった。江戸に戻り、宇和島藩、薩摩藩に接近することができたのも幸運だった。長英は招かれて宇和島に旅立つが、宇和島藩の藩医富沢礼中とともに箱根と今切の関所を越える。逃亡劇の中でももっとも危険な賭けだった。
一方、長英にとって最大の不運は破獄後2カ月で長英に永牢(終身刑)を言い渡した南町奉行鳥居耀蔵が失脚したことだ。結果論ではあるが、破獄など試みず、後少し牢の生活を堪えていればおそらくは釈放されたであろう。何しろ高野長英は日本屈指の蘭学者だったのだから。
直江津や米沢でゆったり過ごすこともできたとはいえ、長英の旅は至って過酷だった。精神的な消耗も激しかったに違いない。それでもかつての門人やその伝手で出会った人びとが身の危険もかえりみずに匿ってくれた。長英が牢を破って逃亡したことで得たものは人の心のあたたかさを知ったことだったのではあるまいか。
日本は治安のいい国であるといわれるが、すでに江戸時代から犯罪人の取締りに関しては一等国だったと言っていい。長英は張り巡らされた捜査の網をかいくぐり、6年にわたり、逃亡生活を送る。
人生には運不運は付きものだが、破獄後の長英の逃亡は幸運に恵まれた。ひとつは門人内田弥太郎の庇護である。常に冷静に逃亡先を考え、長英の妻子を支援する。内田なくして長英の逃亡はなかったろう。入牢中に出会った米吉も長英の逃亡を支えた。米吉は仙台の侠客鈴木忠吉の子分だった。長英は裏社会とのつながりを持つことで直江津から奥州へ送り届けられ、母親と再会する。米沢から江戸へ戻るのも米吉の力なくしては叶えることはできなかった。江戸に戻り、宇和島藩、薩摩藩に接近することができたのも幸運だった。長英は招かれて宇和島に旅立つが、宇和島藩の藩医富沢礼中とともに箱根と今切の関所を越える。逃亡劇の中でももっとも危険な賭けだった。
一方、長英にとって最大の不運は破獄後2カ月で長英に永牢(終身刑)を言い渡した南町奉行鳥居耀蔵が失脚したことだ。結果論ではあるが、破獄など試みず、後少し牢の生活を堪えていればおそらくは釈放されたであろう。何しろ高野長英は日本屈指の蘭学者だったのだから。
直江津や米沢でゆったり過ごすこともできたとはいえ、長英の旅は至って過酷だった。精神的な消耗も激しかったに違いない。それでもかつての門人やその伝手で出会った人びとが身の危険もかえりみずに匿ってくれた。長英が牢を破って逃亡したことで得たものは人の心のあたたかさを知ったことだったのではあるまいか。
2025年3月31日月曜日
奥田英朗『オリンピックの身代金』(再読)
吉見俊也の『東京裏返し』を読み、ついでに歴史のおさらいをしようと半藤一利の『昭和史』を読んだ。昭和の東京の風景を見たくなり、14、5年くらい前に読んだこの本をもう一度読んでみる。
1964(昭和39)年のオリンピック開催に向けてぎりぎりまで準備がすすめられる。著者は僕と同世代。知る由もない当時の都内各地がよく再現されている。本郷、西片町、千駄ケ谷、代々木ワシントンハイツ跡、糀谷、羽田、御徒町などまるでタイムスリップして見てきたようである(もちろん僕にはそうした風景の記憶はないのだが)。オリンピックを人質にしたテロを目論む東大大学院生島崎国男は、さらに三河島、江戸川橋、赤羽、大久保、晴海に潜伏する。以前読んだときはこれらの土地を散策した。京急六道土手駅まで行って、島崎がダイナマイトを入手した北野火薬を探したこともあった。
この小説はふたつの層から成る。地形的には台地(高台)と低地(下町)。繁栄に向かう東京と貧困に喘ぐ地方の農村。特権的な公安と刑事部。捜査一課の刑事落合昌夫らも旅の途中で知り合ったスリの常習犯村田留吉も下層の存在である。出稼ぎ労働者らも。一方で島崎の同級生須賀忠(彼の父須賀修二郎は警視庁の上層部で東京五輪警備のトップであるのだが)は秘匿される事件に関心を持ち独自に詮索をはじめる。動くたびに公安に尾行され、結果的に捜査に協力してしまう。学生運動に傾倒する文学部のユミもしかり。江戸川橋の、当時最新の高層アパートに住み、東大文学部に通う。明らかに上流家庭の子女である。彼女も泳がされた挙句、逃走する島崎を追い詰めてしまう。これもまた貧困層を追い込む富裕層といった対立図式になっている。復興と繁栄の象徴であるオリンピックは多くの下層民が人柱となって支えた。その疑念が島崎の犯行を後押しする。
印象に残ったのは、そのオリンピックと島崎国男を救ったのが共犯者村田留吉であったことだ。
2025年3月25日火曜日
半藤一利『昭和史 1945~1989』
昭和の半ばに生を享け、30年近くを昭和という時代に過ごした。
昭和というと戦争の色合いが強いが、その後に生まれた僕らにとって昭和とはいかなる時代だったのか。ちょっと学んでみようと思い、先に読んだ前編に続いて後編を読んでみる。
僕にとっての昭和は時代遅れで不衛生な時代に映る。幼少期は特にそうだった。川や溝は臭く、町は埃っぽく空気は汚れていた。こうした汚染を犠牲に人びとは利便性や快適な生活を獲得した。昭和の最後半、それは僕にとっては青年期にあたる。高度経済成長のツケがまわってくる。さまざまな不適切が蔓延しはじめる。
もちろんそれは今という時代から見た昭和であり、当時その渦中にあった僕はさほど不便も不衛生も不適切も感じなかった。人はなかなか「今」を適切に判断したり、評価したりすることはできないのだ。そのために歴史はある。
前作同様、興味深く昭和を学ぶことができた、というのが率直な感想である。講義の重点は戦後新しい国づくりの模索であり、その骨格をつくったのがダグラス・マッカーサーと昭和天皇であることがよくわかる。GHQの施策は時とともに変化はしていくものの民主国家日本はやがて独立国家となる。
さらに興味深かったのは、戦後の総理大臣が取り組むべき課題をしっかり把握していたことだ。これは今の政治家には感じられない。吉田茂は講和条約を締結し、日本を独立させた。芦田均は日ソの国交を回復した。岸信介は日米安全保障条約を改定し、池田勇人は吉田茂の路線を引き継ぎ、経済大国の礎をつくる。佐藤栄作は沖縄返還を、田中角栄は日中国交回復を実現する。
その後、首相として大きな仕事をした人がいるだろうか。国鉄民営化、郵政民営化はそれなりに評価すべき仕事だとは思うが、先人ら取り組みにくらべるとスケールが小さい。昨今の政治家を見ていると高速道路や下水管にもたらされる老朽化がこの国にももたされているかのようである。
昭和というと戦争の色合いが強いが、その後に生まれた僕らにとって昭和とはいかなる時代だったのか。ちょっと学んでみようと思い、先に読んだ前編に続いて後編を読んでみる。
僕にとっての昭和は時代遅れで不衛生な時代に映る。幼少期は特にそうだった。川や溝は臭く、町は埃っぽく空気は汚れていた。こうした汚染を犠牲に人びとは利便性や快適な生活を獲得した。昭和の最後半、それは僕にとっては青年期にあたる。高度経済成長のツケがまわってくる。さまざまな不適切が蔓延しはじめる。
もちろんそれは今という時代から見た昭和であり、当時その渦中にあった僕はさほど不便も不衛生も不適切も感じなかった。人はなかなか「今」を適切に判断したり、評価したりすることはできないのだ。そのために歴史はある。
前作同様、興味深く昭和を学ぶことができた、というのが率直な感想である。講義の重点は戦後新しい国づくりの模索であり、その骨格をつくったのがダグラス・マッカーサーと昭和天皇であることがよくわかる。GHQの施策は時とともに変化はしていくものの民主国家日本はやがて独立国家となる。
さらに興味深かったのは、戦後の総理大臣が取り組むべき課題をしっかり把握していたことだ。これは今の政治家には感じられない。吉田茂は講和条約を締結し、日本を独立させた。芦田均は日ソの国交を回復した。岸信介は日米安全保障条約を改定し、池田勇人は吉田茂の路線を引き継ぎ、経済大国の礎をつくる。佐藤栄作は沖縄返還を、田中角栄は日中国交回復を実現する。
その後、首相として大きな仕事をした人がいるだろうか。国鉄民営化、郵政民営化はそれなりに評価すべき仕事だとは思うが、先人ら取り組みにくらべるとスケールが小さい。昨今の政治家を見ていると高速道路や下水管にもたらされる老朽化がこの国にももたされているかのようである。
2025年3月17日月曜日
村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』
松任谷由実のアルバム「PEARL PIERCE」がリリースされたのが1982年。同梱されている歌詞カードは安西水丸のイラストレーションで飾られていた。当時僕は安西水丸を注視していた。「ガロ」、「ビックリハウス」といった雑誌に四コマ漫画をよく連載していたせいか、この人は漫画家を目指しているのだろうと思っていたがユーミンのアルバムに鮮烈なイラストレーションを描いたことでやはりこの人はイラストレーターなのだ、それもただ者ではないと実感した。
雑誌の表紙を描くことも増えてきて、書店をひと巡りすると安西のイラストレーションをいくつか見かけるようになっていた。ちょうどそんな頃、文芸コーナーで平積みされていたこの本に出会った。すごいじゃん、安西水丸。村上春樹の本の表紙を描いてるじゃん。といささか興奮気味に購入したのを今でも憶えている。村上最初の短編集である。以後コンビを組んで出版された本は多い。
そんなこんなで村上春樹初の短編集は僕にとっても思い出深い一冊で時折書棚から取り出しては1、2編目を通してみたりする。だいたいは「中国行きのスロウ・ボート」だったり「午後の最後の芝生」だったり。全編通して読むのは大変久しぶりのことである。あまり目を通すことがなかった「カンガルー通信」や「シドニーのグリーン・ストリート」などはすっかり記憶から飛んでいる。まるではじめて読むように読んだ。
「中国行きのスロウ・ボート」はその後、『村上春樹全作品1979~1989』に収められるにあたって大幅に加筆修正されている(はず)。以前、単行本と全作品と二冊並べて開いて比較しながら読んだ記憶がある。もちろん読んだことを憶えているだけでどこがどう加筆修正されたのかなんて全く記憶にない。
それにしてももう3月だ。安西水丸が世を去ってはや11年。生きていれば今年で83歳になる。命日にはカレーライスを食べようと思っている。
2025年3月11日火曜日
吉見俊也『東京裏返し 都心・再開発編』
川本三郎の町歩き本を手本にしてずいぶん東京を歩いた(さらにその師は永井荷風であるが)。その後、暗渠に着目する若き探検家の本を読んだりして、それなりに東京を掘り起こしてきた。
著者のいう通り、かつての大名屋敷が大学になったり、植物園になったりした江戸城(皇居)の北側にくらべて、明治の頃から南西側は練兵場など後に陸軍の施設が増えていく。明治政府は、この方面に脅威を感じたのかもしれない。青山、代々木の練兵場をはじめとして、駒場から駒沢にかけて、国道246号(旧大山街道)に沿って陸軍の施設が集中していた。赤坂、渋谷が歓楽街になったのは主に陸軍の力によると言われている。これらの施設は戦後、占領軍に接収される。赤坂、六本木は進駐軍によってモダンな歓楽街となる。
その後一部を除いて、接収が解除される。いちばん大きなものは代々木一帯、かつてワシントンハイツと呼ばれた広大な米軍住宅だろう。1964年の東京五輪開催にあたって返還され、選手村になった。今は代々木公園やNHK、渋谷公会堂などになっている。ワシントンハイツ時代の代々木は安岡章太郎や山本一力の小説に描かれている。
これらの軍用地を国や民間が引き取ることで街の景色が変わっていく。古くから栄えた日本橋、銀座、浅草に加えて南西側は新たな都心となり、開発に開発を重ねていったのだ。そういった意味からすれば、著者のいうような時間の層が埋もれてしまった一角であることは否めない。それでも歴史を掘り起こす街歩きを標榜する著者にとって手強いながらも魅力的な地域であろう。
前作『東京裏返し 社会学的街歩き』に続いて楽しく読了。実際に歩いた穏田川~渋谷川~古川流域や四谷若葉町~鮫河橋、荒木町~曙橋を経て、余丁町、市ヶ谷監獄のあった辺りを思い出す。余丁町から西向天神まで歩いたことも何度かある。四谷は機会があればまた訪ねてみたい。その谷底には魅力が埋まっている。
著者のいう通り、かつての大名屋敷が大学になったり、植物園になったりした江戸城(皇居)の北側にくらべて、明治の頃から南西側は練兵場など後に陸軍の施設が増えていく。明治政府は、この方面に脅威を感じたのかもしれない。青山、代々木の練兵場をはじめとして、駒場から駒沢にかけて、国道246号(旧大山街道)に沿って陸軍の施設が集中していた。赤坂、渋谷が歓楽街になったのは主に陸軍の力によると言われている。これらの施設は戦後、占領軍に接収される。赤坂、六本木は進駐軍によってモダンな歓楽街となる。
その後一部を除いて、接収が解除される。いちばん大きなものは代々木一帯、かつてワシントンハイツと呼ばれた広大な米軍住宅だろう。1964年の東京五輪開催にあたって返還され、選手村になった。今は代々木公園やNHK、渋谷公会堂などになっている。ワシントンハイツ時代の代々木は安岡章太郎や山本一力の小説に描かれている。
これらの軍用地を国や民間が引き取ることで街の景色が変わっていく。古くから栄えた日本橋、銀座、浅草に加えて南西側は新たな都心となり、開発に開発を重ねていったのだ。そういった意味からすれば、著者のいうような時間の層が埋もれてしまった一角であることは否めない。それでも歴史を掘り起こす街歩きを標榜する著者にとって手強いながらも魅力的な地域であろう。
前作『東京裏返し 社会学的街歩き』に続いて楽しく読了。実際に歩いた穏田川~渋谷川~古川流域や四谷若葉町~鮫河橋、荒木町~曙橋を経て、余丁町、市ヶ谷監獄のあった辺りを思い出す。余丁町から西向天神まで歩いたことも何度かある。四谷は機会があればまた訪ねてみたい。その谷底には魅力が埋まっている。
2025年2月28日金曜日
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』
昨年定年退職したのだが、まだもう少し仕事もできそうなので、業務委託契約を交わすことにした。フリーランスとしてギャランティを貰うこともできるが、請求書を送るのも面倒だし、担当者に処理させるのも大変だろうから、仕事があってもなくても月々いくらと決めた(それもかなりささやかな額で)。言ってみれば業務のサブスクリプションである。
先月~今月は二本こなした。一本は去年の春から続いている案件でもう一本は新規の競合案件。後者は久しぶりに対面で打合せをした。コロナ禍以降、オンラインの打合せが増えた。それでも仕事のやり方は変わっていない。AIを使って、画像や音声、音楽を生成することに若いスタッフは取り組んでいる。そうした変化もあるにはあるが、お題を渡され、訴求点を整理して、次の打合せまでに表現にして持ち寄るという流れに変化はない。いつまで続けられるかはわからないが、まあ、やれるところまでやってみようと思っている。
講談社から「IN★POCKET」という文庫本サイズの雑誌が出ていた。文芸PR誌とでもいうのか、文庫の新刊情報や作家インタビュー、短編小説などで頁は埋められていた(と記憶している)表紙は安西水丸など当時売り出し中の若手アーティストが担当していた。大手出版社は「波」とか「図書」といったPR誌を発行している。それらにくらべると講談社のそれはカジュアルで若者向けのように見えた。
『回転木馬のデッド・ヒート』に収められている短編の多くは「IN★POCKET」に掲載されたものだ。どの作品にも共通しているのは、人から聞いた話である。聞き手は村上春樹本人だから、いずれも自分が主人公ということだ。ちょっとミステリアスで興味深い話を聞いている。本当に聞いた話なのか、村上自身が創作したのか、実際のところはわからない。
この本は今の仕事をはじめた頃に読んでいる。懐かしい再読であるが、内容はまったく憶えていなかった。
先月~今月は二本こなした。一本は去年の春から続いている案件でもう一本は新規の競合案件。後者は久しぶりに対面で打合せをした。コロナ禍以降、オンラインの打合せが増えた。それでも仕事のやり方は変わっていない。AIを使って、画像や音声、音楽を生成することに若いスタッフは取り組んでいる。そうした変化もあるにはあるが、お題を渡され、訴求点を整理して、次の打合せまでに表現にして持ち寄るという流れに変化はない。いつまで続けられるかはわからないが、まあ、やれるところまでやってみようと思っている。
講談社から「IN★POCKET」という文庫本サイズの雑誌が出ていた。文芸PR誌とでもいうのか、文庫の新刊情報や作家インタビュー、短編小説などで頁は埋められていた(と記憶している)表紙は安西水丸など当時売り出し中の若手アーティストが担当していた。大手出版社は「波」とか「図書」といったPR誌を発行している。それらにくらべると講談社のそれはカジュアルで若者向けのように見えた。
『回転木馬のデッド・ヒート』に収められている短編の多くは「IN★POCKET」に掲載されたものだ。どの作品にも共通しているのは、人から聞いた話である。聞き手は村上春樹本人だから、いずれも自分が主人公ということだ。ちょっとミステリアスで興味深い話を聞いている。本当に聞いた話なのか、村上自身が創作したのか、実際のところはわからない。
この本は今の仕事をはじめた頃に読んでいる。懐かしい再読であるが、内容はまったく憶えていなかった。
2025年2月21日金曜日
吉村昭『海の史劇』(再読)
去年の3月、三鷹市吉村昭書斎が公開された。自宅の離れにつくった書斎を再現したもので、お隣には吉村と表札が掲げられている。京王井の頭線井の頭公園駅から歩いてすぐのところにある。オープンした頃、是非訪ねてみたいと思いながらなかなか機会に恵まれず、ようやく先月訪れた。
入ってすぐに受付がある。その部屋はオープンスペースで吉村昭の作品が壁一面に揃っている。手にとって読むこともできる。その先に扉があり、いったん外に出るが、通路を辿ると書斎のある建物につながる。書斎を見るには入館料として百円を受付で支払う。
書斎のある建物はいたってシンプルでまず資料館的なスペース。直筆原稿や年譜などが展示されている。廊下を通ると右に書斎、左に茶室であろうか畳の部屋がある。どちらの部屋にも立ち入ることはできない。
書斎は壁という壁が書棚になっており、書籍や資料が収められている。大きな窓に面して横幅のある机がある。記録文学の人として膨大な資料にあたる人だ。このデスクでも小さいんじゃないかとも思う。
帰り途、しばらく吉村作品を読んでいないなと思いながら、SNSに書くと同じく吉村ファンの友人から『海の史劇』はどうですかとすすめられる。どんな話か調べてみると日露戦争日本海海戦の話ではないか。毎週テレビでドラマ「坂の上の雲」を見ている。海戦も間近だ。さっそく読みはじめる。ロジェストヴェンスキーがたった2日で対馬海峡にやってくるという恐ろしいペースで読んでしまった。
一冊本を読み終えると読書メーターというサイトに「読んだ本」として登録している。そのときようやく知る、2017年、すでに読んでいたことを。8年前に読んだ本をすっかり忘れてまるではじめて読むかのように読んだのだ。
ちなみにその次は最近映画化された『雪の花』を読もうと思っていたが、これもすでに読んでいた。意識した再読もあれば、無意識の再読もある。
やれやれである。
入ってすぐに受付がある。その部屋はオープンスペースで吉村昭の作品が壁一面に揃っている。手にとって読むこともできる。その先に扉があり、いったん外に出るが、通路を辿ると書斎のある建物につながる。書斎を見るには入館料として百円を受付で支払う。
書斎のある建物はいたってシンプルでまず資料館的なスペース。直筆原稿や年譜などが展示されている。廊下を通ると右に書斎、左に茶室であろうか畳の部屋がある。どちらの部屋にも立ち入ることはできない。
書斎は壁という壁が書棚になっており、書籍や資料が収められている。大きな窓に面して横幅のある机がある。記録文学の人として膨大な資料にあたる人だ。このデスクでも小さいんじゃないかとも思う。
帰り途、しばらく吉村作品を読んでいないなと思いながら、SNSに書くと同じく吉村ファンの友人から『海の史劇』はどうですかとすすめられる。どんな話か調べてみると日露戦争日本海海戦の話ではないか。毎週テレビでドラマ「坂の上の雲」を見ている。海戦も間近だ。さっそく読みはじめる。ロジェストヴェンスキーがたった2日で対馬海峡にやってくるという恐ろしいペースで読んでしまった。
一冊本を読み終えると読書メーターというサイトに「読んだ本」として登録している。そのときようやく知る、2017年、すでに読んでいたことを。8年前に読んだ本をすっかり忘れてまるではじめて読むかのように読んだのだ。
ちなみにその次は最近映画化された『雪の花』を読もうと思っていたが、これもすでに読んでいた。意識した再読もあれば、無意識の再読もある。
やれやれである。
2025年2月13日木曜日
吉見俊哉『東京裏返し 社会学的街歩き』
町と街。この使い分けは難しい。以前、よく読んだ川本三郎は町歩きと表記する。街にすることはない。個人的な感覚であるが、町が現代化したものが街ではないかと思っている。懐かしい佇まいを残した店は町中華であり、街中華は似合わない。マンション、戸建ての広告には街が似合う。まあどちらでもいいことなのだが。
時間が空くと知らない町をよく歩いた。この本で紹介されている辺りだ。東京の南西側も、例えば渋谷川に合流する宇田川沿いとか生まれ育った品川区も歩いているが、圧倒的に皇居の北側、東側が多い。そういう点からするとこの本で辿る町、地域には新鮮味はなかったが、無性に懐かしさをおぼえた。
第一日目に訪れる石神井川。板橋駅から加賀公園、そしてその周辺を流れる音無川の谷(石神井川はこの辺りではそう呼ばれる)を辿っていくと飛鳥山に出る。護岸工事はなされているものの川が台地を削ったことがよくわかる、素敵な散歩道だ。桜の季節はいいだろう。ここは是非おすすめしたい。王子駅に向かっての音無親水公園は味気ないが、飛鳥山公園に立ち寄って、上野台地の端っこから眺める下町もいい。その前に赤レンガの図書館に立ち寄るのもいい。駒込に出る商店街を歩くのもいい。王子や赤羽の居酒屋に立ち寄るのもいいし、十条に戻って齋藤酒場に寄るのもいい。
散策を終えて居酒屋に寄るのは川本三郎的であるが、この著者の優れたところは街歩きの指南に終わらないところだ。街を歩き、眺め、歴史の地層を掘り返すことで東京をこれからどうすべきかという未来が見えてくる。要らない首都高速道路はなくす、路面電車を増やすなどすることによって東京の未来の風景が見えてくる。こうした将来像に向かって努力することが東京に課された使命なのだ。
この本はラジオ文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」に著者がゲスト出演したことで知った。うちに引きこもっているとラジオから得る情報はありがたい。
時間が空くと知らない町をよく歩いた。この本で紹介されている辺りだ。東京の南西側も、例えば渋谷川に合流する宇田川沿いとか生まれ育った品川区も歩いているが、圧倒的に皇居の北側、東側が多い。そういう点からするとこの本で辿る町、地域には新鮮味はなかったが、無性に懐かしさをおぼえた。
第一日目に訪れる石神井川。板橋駅から加賀公園、そしてその周辺を流れる音無川の谷(石神井川はこの辺りではそう呼ばれる)を辿っていくと飛鳥山に出る。護岸工事はなされているものの川が台地を削ったことがよくわかる、素敵な散歩道だ。桜の季節はいいだろう。ここは是非おすすめしたい。王子駅に向かっての音無親水公園は味気ないが、飛鳥山公園に立ち寄って、上野台地の端っこから眺める下町もいい。その前に赤レンガの図書館に立ち寄るのもいい。駒込に出る商店街を歩くのもいい。王子や赤羽の居酒屋に立ち寄るのもいいし、十条に戻って齋藤酒場に寄るのもいい。
散策を終えて居酒屋に寄るのは川本三郎的であるが、この著者の優れたところは街歩きの指南に終わらないところだ。街を歩き、眺め、歴史の地層を掘り返すことで東京をこれからどうすべきかという未来が見えてくる。要らない首都高速道路はなくす、路面電車を増やすなどすることによって東京の未来の風景が見えてくる。こうした将来像に向かって努力することが東京に課された使命なのだ。
この本はラジオ文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」に著者がゲスト出演したことで知った。うちに引きこもっているとラジオから得る情報はありがたい。
2025年2月6日木曜日
島崎藤村『千曲川のスケッチ』
30年以上前、僕は小さな広告会社でテレビコマーシャルなどをつくっていた。
ある日、ベテランの営業担当から声を掛けられた。ペットボトルを製造する機械をつくっている会社がある、企業紹介の動画を制作してくれないかと。数日後、上野発金沢行の特急に乗って、小諸に向かった。長野行の特急も日中何本かあったが、早朝立つには混み合う金沢行しかなかった。新幹線のない時代、高崎、横川、軽井沢を通って小諸駅で下りる。本社と工場は駅の北西方向にあり、タクシーで10分ほどの距離だった。工場を見学させてもらい、動画の主役となる最新の機械について説明を受け、伝えたいことなどを打合せする。構成案を再来週にお持ちします、みたいなことを確認してその日は切り上げた。駅前の蕎麦屋で昼食を摂り、帰京した。
あれは何月だったのだろう。暑くもなく寒くもない普通の一日。天気はよかった。
翌々週、再び小諸。動画の構成案を持参し、多少の手直しがあったが、これで制作してもらいたい、となった。前回同様、営業と蕎麦を食べて帰る。3回目の訪問は制作会社のスタッフらとのロケハンだった。このときの記憶はほとんどない。その後の撮影は営業と制作会社に任せたので小諸に出向くこともなかった。編集、録音、試写も都内のスタジオだった。
小諸の町を散策したことはない。会社員時代はこうした行って帰るだけの出張が多かった。札幌も仙台も岡山も那覇も、夜に飲食した店くらいしか旅の思い出はない。
3年前、軽井沢に行くのに小海線で小諸に出た(遠回りではあった)。駅前を少し歩いて、昔行った蕎麦屋をさがした。見つからなかった。この頃は以前と違って小諸駅のそばに小諸城址懐古園があることも地図で知っていた。ただ訪ねる時間がなかった。
小諸は歩いてみる価値がある。千曲川も近い。島崎藤村が教えてくれた。今度軽井沢を訪ねたら小諸に立ち寄り、千曲の流れをゆっくり眺めてみたいと思った。
ある日、ベテランの営業担当から声を掛けられた。ペットボトルを製造する機械をつくっている会社がある、企業紹介の動画を制作してくれないかと。数日後、上野発金沢行の特急に乗って、小諸に向かった。長野行の特急も日中何本かあったが、早朝立つには混み合う金沢行しかなかった。新幹線のない時代、高崎、横川、軽井沢を通って小諸駅で下りる。本社と工場は駅の北西方向にあり、タクシーで10分ほどの距離だった。工場を見学させてもらい、動画の主役となる最新の機械について説明を受け、伝えたいことなどを打合せする。構成案を再来週にお持ちします、みたいなことを確認してその日は切り上げた。駅前の蕎麦屋で昼食を摂り、帰京した。
あれは何月だったのだろう。暑くもなく寒くもない普通の一日。天気はよかった。
翌々週、再び小諸。動画の構成案を持参し、多少の手直しがあったが、これで制作してもらいたい、となった。前回同様、営業と蕎麦を食べて帰る。3回目の訪問は制作会社のスタッフらとのロケハンだった。このときの記憶はほとんどない。その後の撮影は営業と制作会社に任せたので小諸に出向くこともなかった。編集、録音、試写も都内のスタジオだった。
小諸の町を散策したことはない。会社員時代はこうした行って帰るだけの出張が多かった。札幌も仙台も岡山も那覇も、夜に飲食した店くらいしか旅の思い出はない。
3年前、軽井沢に行くのに小海線で小諸に出た(遠回りではあった)。駅前を少し歩いて、昔行った蕎麦屋をさがした。見つからなかった。この頃は以前と違って小諸駅のそばに小諸城址懐古園があることも地図で知っていた。ただ訪ねる時間がなかった。
小諸は歩いてみる価値がある。千曲川も近い。島崎藤村が教えてくれた。今度軽井沢を訪ねたら小諸に立ち寄り、千曲の流れをゆっくり眺めてみたいと思った。
2025年1月30日木曜日
半藤一利『昭和史 1926-1945』
NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」を再放送している。以前、まとめて三日くらいで見てしまったが、毎週見ていると次回が楽しみでしようがない。ゆっくり見ることで気づくことも多い。
旅順港の閉塞作戦が失敗し、広瀬武夫が戦死する。陸軍が旅順に総攻撃を仕掛ける。が、堅固な要塞はなかなか陥落しない。愚直に総攻撃を繰り返し、屍の山を築く乃木希典を司馬遼太郎はあまり評価していないようだが、それでも攻撃目標を203高地に切換え、激戦の末、旅順を落とす。次回予告を見るかぎり、来週はそんな話であろう。バルチック艦隊も出撃している。日本海海戦ももうすぐだ。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』は近代日本の青春ドラマだ。背景にあるのは近代国家を一途にめざす無垢な心。国民は軍備拡大のための増税に堪えるように働き、前を向いた。一人ひとりが近代国家日本の主役となった。
戦後の講和については小村寿太郎が全権大使として交渉にあたった。吉村昭の『ポーツマスの旗』を読んでその艱難辛苦を知った。それでも日本は朝鮮半島と南満州鉄道の権益を得た。小村外交に批判も強かったが、ロシアという大国に勝利したこと自体が国民を力付けた。
近代国家としてしばらく日本は平和であった。時代は昭和になり、青春時代は終わりを告げる。以後、日本は軍部が台頭し、劣化を続ける。昭和のはじめの二十年は劣悪の時代だ。半藤一利によれば軍国日本を支えた主役は陸軍と新聞である。日露戦争の勝利によって多くの国民が日本は列強のひとつと勘違いしはじめた。煽った新聞もよくなかった。そして浅田次郎の小説によってファンになった張作霖(チャンヅオリン)が爆殺される事件が起きるのである。以後、盧溝橋事件、満州事変と暗雲が立ち込める。
続きは是非この本を読んでみてほしい。とにかくわかりやすく昭和が描かれている。戦前戦中戦後を生きた昭和の論客が後世に遺した揺るぎない名著である。
旅順港の閉塞作戦が失敗し、広瀬武夫が戦死する。陸軍が旅順に総攻撃を仕掛ける。が、堅固な要塞はなかなか陥落しない。愚直に総攻撃を繰り返し、屍の山を築く乃木希典を司馬遼太郎はあまり評価していないようだが、それでも攻撃目標を203高地に切換え、激戦の末、旅順を落とす。次回予告を見るかぎり、来週はそんな話であろう。バルチック艦隊も出撃している。日本海海戦ももうすぐだ。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』は近代日本の青春ドラマだ。背景にあるのは近代国家を一途にめざす無垢な心。国民は軍備拡大のための増税に堪えるように働き、前を向いた。一人ひとりが近代国家日本の主役となった。
戦後の講和については小村寿太郎が全権大使として交渉にあたった。吉村昭の『ポーツマスの旗』を読んでその艱難辛苦を知った。それでも日本は朝鮮半島と南満州鉄道の権益を得た。小村外交に批判も強かったが、ロシアという大国に勝利したこと自体が国民を力付けた。
近代国家としてしばらく日本は平和であった。時代は昭和になり、青春時代は終わりを告げる。以後、日本は軍部が台頭し、劣化を続ける。昭和のはじめの二十年は劣悪の時代だ。半藤一利によれば軍国日本を支えた主役は陸軍と新聞である。日露戦争の勝利によって多くの国民が日本は列強のひとつと勘違いしはじめた。煽った新聞もよくなかった。そして浅田次郎の小説によってファンになった張作霖(チャンヅオリン)が爆殺される事件が起きるのである。以後、盧溝橋事件、満州事変と暗雲が立ち込める。
続きは是非この本を読んでみてほしい。とにかくわかりやすく昭和が描かれている。戦前戦中戦後を生きた昭和の論客が後世に遺した揺るぎない名著である。
2025年1月25日土曜日
島崎藤村『新生』
2種類の本を読んでいる。今まで読んだことがなかった本と読んだことのある本と。読んでなかった本の方が圧倒的に多い。当然の話だ。最近は昔読んだ本を読みかえすことも増えている。読みかえすと言ってもすっかり忘れてしまっている本の方が多いので再読とは言い難い。新しい本はラジオ番組にゲスト出演した著者の声を聴いて、読んでみようと思うことが多い。
ある程度歳を重ねて、新たに読みたい本もそう多くはない。諦めている本もある。ただ、このくらい読んでおかなくちゃと思う本は少なからずある。去年読んだ大岡昇平『レイテ戦記』もそのうちの一冊だ。振りかえると読んでおけばよかったかなと思う作家も多い。谷崎潤一郎とか瀬戸内寂聴とか、たぶん読むことはないだろうが、マルセル・プルーストとか。他にもいっぱいいるはずだが、思い出せもしない。ほとんど読まなかった川端康成もここ何年かで少し読むようになった。三島由紀夫も学生時代には読んだが、今はさっぱり読まなくなった。
島崎藤村も読まない作家のひとりだったが、やっぱり日本に生まれたからには読んでおくべきかなと思い立ち、何年か前に『破戒』と『夜明け前』を読んだ。前者は被差別部落出身者が追い詰められていく苦悩の物語であり、後者は時代の移り変わりについていけなくなって精神を蝕まれる男の話。いずれもスケールが大きく、インパクトのある作品だ。ちょっとした狂気を感じとることができる。
主要2作品を読んだので島崎藤村はもういいかなと思っていたが、もう一冊読んでみることにした。この本も常軌を逸している。姪と関係を持ち、妊娠させてしまうのである。そして現実から逃避するように渡仏。兄に手紙でその事実を明かしたのは航海の途中の船の上からだった。もう狂気の沙汰としか思えない。しかも主人公は藤村自身であり、ほぼ事実であるというからさらに驚愕するではないか。
島崎藤村、恐るべき小説家だ。
ある程度歳を重ねて、新たに読みたい本もそう多くはない。諦めている本もある。ただ、このくらい読んでおかなくちゃと思う本は少なからずある。去年読んだ大岡昇平『レイテ戦記』もそのうちの一冊だ。振りかえると読んでおけばよかったかなと思う作家も多い。谷崎潤一郎とか瀬戸内寂聴とか、たぶん読むことはないだろうが、マルセル・プルーストとか。他にもいっぱいいるはずだが、思い出せもしない。ほとんど読まなかった川端康成もここ何年かで少し読むようになった。三島由紀夫も学生時代には読んだが、今はさっぱり読まなくなった。
島崎藤村も読まない作家のひとりだったが、やっぱり日本に生まれたからには読んでおくべきかなと思い立ち、何年か前に『破戒』と『夜明け前』を読んだ。前者は被差別部落出身者が追い詰められていく苦悩の物語であり、後者は時代の移り変わりについていけなくなって精神を蝕まれる男の話。いずれもスケールが大きく、インパクトのある作品だ。ちょっとした狂気を感じとることができる。
主要2作品を読んだので島崎藤村はもういいかなと思っていたが、もう一冊読んでみることにした。この本も常軌を逸している。姪と関係を持ち、妊娠させてしまうのである。そして現実から逃避するように渡仏。兄に手紙でその事実を明かしたのは航海の途中の船の上からだった。もう狂気の沙汰としか思えない。しかも主人公は藤村自身であり、ほぼ事実であるというからさらに驚愕するではないか。
島崎藤村、恐るべき小説家だ。
2025年1月19日日曜日
新美南吉『ごんぎつね でんでんむしのかなしみ―新美南吉傑作選―』
昨年、65歳になり、定年退職を迎えた。
振りかえってみると僕たちが生まれ育った時代はプラスチックと半導体の時代だったのではないかと思えてくる。弁当箱もバケツもプラスチックになった。ペットボトルやレジ袋が普及した。今でこそ環境へ配慮しているが、使い捨てることに罪悪感をあまり感じない時代もあった。プラスチックは自然界で完全に分解されるまで長い年月を要する。適切に回収、廃棄されなかったプラスチックは海ごみと化す。
僕が気がついたとき、トランジスタラジオが普及していた。もう少し上の世代の人たちは真空管でラジオを組み立てていた。1970年代になるとトランジスタやダイオード、さらには回路を集積したICが電子回路の主役になった。真空管でラジオやアンプをつくるにはコイルやトランスなど流通量の少ない部品を探さなくてはならくなっていた。
半導体はさらに集積を重ね、コンピュータの心臓部になり、今や人工知能(AI)技術にも欠かせない。クルマも電気や水素で走る時代になったが、制御系統は半導体化されている。自動運転を支えているのはセンサーと半導体だ。たしかに便利な世の中が技術によってもたらされている。だが、果たしてそれでいいのか、人々は何か大切なものを失っているんじゃないだろうか。便利さという快楽に知らず知らず飲み込まれて気が付いていないだけじゃないだろうか。
以前読んだ『ルポ 誰が国語力を殺すのか』に「ごんぎつね」で葬式用の料理をつくる描写を「遺体を煮て殺菌消毒する」と読む小学生が多いことが指摘されていた。そんな話をラジオで聴いて、もういちど読んでみようと気持ちになった。
新美南吉は30年に満たない短い生涯のなかで心あたたまる物語を数多く遺してくれた。「花のき村と盗人たち」「おじいさんのランプ」「和太郎さんと牛」「最後の胡弓弾き」などなど。いずれもプラスチックや半導体がなかった時代のお話である。
振りかえってみると僕たちが生まれ育った時代はプラスチックと半導体の時代だったのではないかと思えてくる。弁当箱もバケツもプラスチックになった。ペットボトルやレジ袋が普及した。今でこそ環境へ配慮しているが、使い捨てることに罪悪感をあまり感じない時代もあった。プラスチックは自然界で完全に分解されるまで長い年月を要する。適切に回収、廃棄されなかったプラスチックは海ごみと化す。
僕が気がついたとき、トランジスタラジオが普及していた。もう少し上の世代の人たちは真空管でラジオを組み立てていた。1970年代になるとトランジスタやダイオード、さらには回路を集積したICが電子回路の主役になった。真空管でラジオやアンプをつくるにはコイルやトランスなど流通量の少ない部品を探さなくてはならくなっていた。
半導体はさらに集積を重ね、コンピュータの心臓部になり、今や人工知能(AI)技術にも欠かせない。クルマも電気や水素で走る時代になったが、制御系統は半導体化されている。自動運転を支えているのはセンサーと半導体だ。たしかに便利な世の中が技術によってもたらされている。だが、果たしてそれでいいのか、人々は何か大切なものを失っているんじゃないだろうか。便利さという快楽に知らず知らず飲み込まれて気が付いていないだけじゃないだろうか。
以前読んだ『ルポ 誰が国語力を殺すのか』に「ごんぎつね」で葬式用の料理をつくる描写を「遺体を煮て殺菌消毒する」と読む小学生が多いことが指摘されていた。そんな話をラジオで聴いて、もういちど読んでみようと気持ちになった。
新美南吉は30年に満たない短い生涯のなかで心あたたまる物語を数多く遺してくれた。「花のき村と盗人たち」「おじいさんのランプ」「和太郎さんと牛」「最後の胡弓弾き」などなど。いずれもプラスチックや半導体がなかった時代のお話である。
2025年1月8日水曜日
村上春樹『パン屋再襲撃』
2025年を迎えた。ぼんやりしているうちにもう1週間が過ぎている。
今年は昭和100年にあたるという。とはいえ、昭和のはじまりは12月25日だったから、昭和元年は短く、すぐに昭和2年になった。昭和64年も短かった。
小学校3年の年、1968年は明治100年だった。記念切手も発行されたはず。おそらくそのせいで憶えているのかもしれない。その年、記念式典をはじめとして明治を振りかえる行事が多く行われたように今年は昭和を振りかえる1年になりそうだ。世の中はずいぶん前から昭和レトロブームになっている。昭和の娯楽、映画やテレビ、歌謡曲に注目が集まり、昭和の建築や風俗などにも関心が高まっているようだ。昭和のほぼ真ん中に生まれた僕は半分くらい昭和を堪能したことになる。
1986年に読んだ短編集を再読する。昭和61年だ。村上春樹の長編小説は何度か読み返してみることが多いけれど、短編集の再読はあまりしない。
内容もほぼ憶えていないから新鮮な気持ちで読むことができた。象の飼育係、妹の婚約者らが「渡辺昇」で家出した猫まで「ワタナベ・ノボル」だ(これは主人公の妻の兄の名前からとったという)。村上春樹はどんだけ渡辺昇が好きなんだろう。四十年近く前に読んだときはさほど気にならなかったのに。
渡辺昇という同姓同名の叔父がいた。母は7人きょうだいで姉が3人、兄がひとり、そして妹と弟がいた。その弟が渡辺昇なのである。2014年に他界している。7人もいたきょうだいも今や母ひとりになってしまった。
最後に収められている「ねじまき鳥と火曜日のおんなたち」は後の長編のためのスケッチなのだろう。村上春樹の場合、長編につながる短編小説が少なからずある。「蛍」と『ノルウェイの森』みたいな。
読み終えて、『ねじまき鳥クロニクル』をもう一度読んでみようかと思った。でもやめておく。寒さが続くなか、あの怖い長編を読むのはちょっとねと思うから。
今年は昭和100年にあたるという。とはいえ、昭和のはじまりは12月25日だったから、昭和元年は短く、すぐに昭和2年になった。昭和64年も短かった。
小学校3年の年、1968年は明治100年だった。記念切手も発行されたはず。おそらくそのせいで憶えているのかもしれない。その年、記念式典をはじめとして明治を振りかえる行事が多く行われたように今年は昭和を振りかえる1年になりそうだ。世の中はずいぶん前から昭和レトロブームになっている。昭和の娯楽、映画やテレビ、歌謡曲に注目が集まり、昭和の建築や風俗などにも関心が高まっているようだ。昭和のほぼ真ん中に生まれた僕は半分くらい昭和を堪能したことになる。
1986年に読んだ短編集を再読する。昭和61年だ。村上春樹の長編小説は何度か読み返してみることが多いけれど、短編集の再読はあまりしない。
内容もほぼ憶えていないから新鮮な気持ちで読むことができた。象の飼育係、妹の婚約者らが「渡辺昇」で家出した猫まで「ワタナベ・ノボル」だ(これは主人公の妻の兄の名前からとったという)。村上春樹はどんだけ渡辺昇が好きなんだろう。四十年近く前に読んだときはさほど気にならなかったのに。
渡辺昇という同姓同名の叔父がいた。母は7人きょうだいで姉が3人、兄がひとり、そして妹と弟がいた。その弟が渡辺昇なのである。2014年に他界している。7人もいたきょうだいも今や母ひとりになってしまった。
最後に収められている「ねじまき鳥と火曜日のおんなたち」は後の長編のためのスケッチなのだろう。村上春樹の場合、長編につながる短編小説が少なからずある。「蛍」と『ノルウェイの森』みたいな。
読み終えて、『ねじまき鳥クロニクル』をもう一度読んでみようかと思った。でもやめておく。寒さが続くなか、あの怖い長編を読むのはちょっとねと思うから。
2024年12月31日火曜日
北村匡平『遊びと利他』
小学生の頃、螺旋形の滑り台があった。公園の遊具としては大きなものでどこの公園にもあるというわけではなかった。学区域内の公園にはなかったと思う。
中央の支柱があり、螺旋状に金具が固定されている。その金具が滑り台本体を支えている。高さは3~4メートル。後ろに付いている梯子段で頂上に上り、ぐるぐる回りながら滑り降りる。
高学年になり、この滑り台で鬼ごっこをするのが流行った。4~5人で学区外の公園まで遠征する。ルールはない。滑り台を下から上に上ったり、梯子段を降りたり、梯子段から滑り台に移ることができる場所もあった。滑り台を支える金具を伝って移動することもできた。地上に降りることもできたが、その遊具を離れて遠くに逃げるのは反則だった。誰が考えたか知らないが、スリリングな遊びだった。
今、公園に危険な遊具はなくなっている。回転塔とか箱型ブランコなど。自治体の管理が優先されているからだ。それらに代わって複合遊具が主流になっている。
ロープを使って斜面を登り、櫓の上に行きなさい、できない子は横にある梯子段で登りましょう、上に着いたらすべり台で降りるか、吊り橋を渡って反対側の櫓に行きましょう、といった具合に子どもたちの遊びがマニュアル化されている。ルールが画一化されていて動きが少ない。ちょっと遊んだらすぐに飽きる。著者北村匡平はこれを「余白」の縮減した遊具と規定する。
たとえば斜面だけの遊具が紹介されている。斜面を上って滑り台にする。子どもは滑り台を逆から上るのが好きなのだ。滑り方も頭から滑り降りたり、転がりながらと多種多様な遊び方を子どもたちは発見し、挑戦する。その斜面には柵がない。多少の危険は伴うがそうしたことを通じて子どもたちは自らの限界を知り、危険を体得するという。
この本のテーマとなっている「利他」という概念はわかりにくい。わかりにくいが、読んでいると何となくわかってくる。不思議な一冊だ。
中央の支柱があり、螺旋状に金具が固定されている。その金具が滑り台本体を支えている。高さは3~4メートル。後ろに付いている梯子段で頂上に上り、ぐるぐる回りながら滑り降りる。
高学年になり、この滑り台で鬼ごっこをするのが流行った。4~5人で学区外の公園まで遠征する。ルールはない。滑り台を下から上に上ったり、梯子段を降りたり、梯子段から滑り台に移ることができる場所もあった。滑り台を支える金具を伝って移動することもできた。地上に降りることもできたが、その遊具を離れて遠くに逃げるのは反則だった。誰が考えたか知らないが、スリリングな遊びだった。
今、公園に危険な遊具はなくなっている。回転塔とか箱型ブランコなど。自治体の管理が優先されているからだ。それらに代わって複合遊具が主流になっている。
ロープを使って斜面を登り、櫓の上に行きなさい、できない子は横にある梯子段で登りましょう、上に着いたらすべり台で降りるか、吊り橋を渡って反対側の櫓に行きましょう、といった具合に子どもたちの遊びがマニュアル化されている。ルールが画一化されていて動きが少ない。ちょっと遊んだらすぐに飽きる。著者北村匡平はこれを「余白」の縮減した遊具と規定する。
たとえば斜面だけの遊具が紹介されている。斜面を上って滑り台にする。子どもは滑り台を逆から上るのが好きなのだ。滑り方も頭から滑り降りたり、転がりながらと多種多様な遊び方を子どもたちは発見し、挑戦する。その斜面には柵がない。多少の危険は伴うがそうしたことを通じて子どもたちは自らの限界を知り、危険を体得するという。
この本のテーマとなっている「利他」という概念はわかりにくい。わかりにくいが、読んでいると何となくわかってくる。不思議な一冊だ。
2024年12月25日水曜日
奥窪優木『転売ヤー 闇の経済学』
近衛文麿邸であった荻外荘が復元され、今月から一般公開されている。善福寺川の河岸段丘に建つ木造の邸宅。以前軽井沢で見た別荘はモダンな洋風建築だったが、荻外荘は日本家屋。大きなお屋敷といった感じだ。1940年7月に松岡洋右、吉田圭吾、東条英機と戦争路線の方針を決めたという荻窪会談が行われた部屋も復元されている。
格差社会と言われている。富裕層と貧困層が両極に分かれて、それぞれ前に進んでいる。
かつて寝台特急列車があった(今でもあるが)。時間を惜しむビジネスマンにとって飛行機より朝はやく目的地に到着できる交通手段として一世を風靡した。今となっては金銭的時間的な贅沢品と化している。三泊四日の寝台列車の旅は百万円を超える。それでも需要があるのだから吃驚する。
国産の高級ウイスキーもものすごく高額だ。お金を持っている人が少なからずいて、庶民には考えられないような消費を行う。信じ難い。富裕層に限らず、つましい生活を送りながらもここぞというところには惜しみなくお金を使う人がいると聞く。
転売ヤーという人たちがいることは何となく知っていた。この本を読むことで少し具体的にイメージすることができた。商売の基本は安く仕入れて高く売る。つまり利ざやをどう確保するかの世界だ。彼らの多くは定価で買う。バザーなどで仕入れる例もあるが、ゲーム機のPS5やTDRの限定グッズなどは需要と供給の関係で利ざやが生まれる。百貨店の外商から高級ウイスキーを仕入れて転売する。そんなことで生計を立てる輩もいる。
何だかなと思う。真面目に働いて、生活費を稼いで、みたいな図式はもはやなくなったのだろうか。転売は合法なのだろうか。転売で得た収入が課税されるとは思えない。
今、これからの日本を支える新たな産業の創出が議論されているというのに、日本は(中国も)転売立国になってしまっていいのか。転売そのものより、劣化した社会の方が心配だ。
格差社会と言われている。富裕層と貧困層が両極に分かれて、それぞれ前に進んでいる。
かつて寝台特急列車があった(今でもあるが)。時間を惜しむビジネスマンにとって飛行機より朝はやく目的地に到着できる交通手段として一世を風靡した。今となっては金銭的時間的な贅沢品と化している。三泊四日の寝台列車の旅は百万円を超える。それでも需要があるのだから吃驚する。
国産の高級ウイスキーもものすごく高額だ。お金を持っている人が少なからずいて、庶民には考えられないような消費を行う。信じ難い。富裕層に限らず、つましい生活を送りながらもここぞというところには惜しみなくお金を使う人がいると聞く。
転売ヤーという人たちがいることは何となく知っていた。この本を読むことで少し具体的にイメージすることができた。商売の基本は安く仕入れて高く売る。つまり利ざやをどう確保するかの世界だ。彼らの多くは定価で買う。バザーなどで仕入れる例もあるが、ゲーム機のPS5やTDRの限定グッズなどは需要と供給の関係で利ざやが生まれる。百貨店の外商から高級ウイスキーを仕入れて転売する。そんなことで生計を立てる輩もいる。
何だかなと思う。真面目に働いて、生活費を稼いで、みたいな図式はもはやなくなったのだろうか。転売は合法なのだろうか。転売で得た収入が課税されるとは思えない。
今、これからの日本を支える新たな産業の創出が議論されているというのに、日本は(中国も)転売立国になってしまっていいのか。転売そのものより、劣化した社会の方が心配だ。
2024年12月13日金曜日
鷹匠裕『聖火の熱源』
8月頃、フェイスブックで著者自ら、新しい本が出るのでよろしくみたいなポストがあり、さっそく購入した。すぐに読みはじめたかったのだが『レイテ戦記』を読むのに手間取っていたこともあり、なかなか頁を開くことができないでいた。
鷹匠裕の作品は『帝王の誤算』『ハヤブサの血統』に次いで3作目になる。
著者は大手広告会社の制作局に在籍していた。その頃何度か仕事をしている。彼はディレクター的な立ち位置で僕らは具体的なCMの企画を描いて持ち寄った。鷹匠は(すでにそんな年齢でもなかったのだろう)絵コンテを描いたり、コピーを書いたりすることはなかった。彼の表現に接することがなかったので後に小説を書いたと聞いて、どんな文章を書く人なのだろうと興味を覚えた。
清水義範の長編に『イマジン』という小説がある。パスティーシュの名手として知られた清水のSF作品なのだが、奇想天外な結末に驚いた記憶がある。鷹匠裕の新作はそれに匹敵するくらい奇想天外だ。誰がこんなことを考えるんだと思っているうちにストーリーはどんどん展開していく。気がつくと読み終わっている。
この作品は前々回の2020東京五輪に対する痛烈な批判になっている。広告会社が主導する商業的なイベントからアスリートのための本来の姿のオリンピックを取り戻す戦いの物語である。理想の五輪をめざす主人公らの組織はややもすれば青臭いところがある。さまざまな抵抗を受けながらも理想を形にしていく上でITやソーシャルネットワークをフル活用する。ちょっとした近未来小説でもある。その辺りは奇想天外では決してなく、おそらくは2028ロス五輪では現実のものとなるのではないかと期待できる技術だと思う。
巨大で複雑なオリンピックのしくみや裏側はもちろんのこと、最新のテクノロジーに至るまで鷹匠は丁寧に取材を重ねたに違いない。結果として地に足の着いた夢物語を結実させた。渾身の一冊であるといえよう。
鷹匠裕の作品は『帝王の誤算』『ハヤブサの血統』に次いで3作目になる。
著者は大手広告会社の制作局に在籍していた。その頃何度か仕事をしている。彼はディレクター的な立ち位置で僕らは具体的なCMの企画を描いて持ち寄った。鷹匠は(すでにそんな年齢でもなかったのだろう)絵コンテを描いたり、コピーを書いたりすることはなかった。彼の表現に接することがなかったので後に小説を書いたと聞いて、どんな文章を書く人なのだろうと興味を覚えた。
清水義範の長編に『イマジン』という小説がある。パスティーシュの名手として知られた清水のSF作品なのだが、奇想天外な結末に驚いた記憶がある。鷹匠裕の新作はそれに匹敵するくらい奇想天外だ。誰がこんなことを考えるんだと思っているうちにストーリーはどんどん展開していく。気がつくと読み終わっている。
この作品は前々回の2020東京五輪に対する痛烈な批判になっている。広告会社が主導する商業的なイベントからアスリートのための本来の姿のオリンピックを取り戻す戦いの物語である。理想の五輪をめざす主人公らの組織はややもすれば青臭いところがある。さまざまな抵抗を受けながらも理想を形にしていく上でITやソーシャルネットワークをフル活用する。ちょっとした近未来小説でもある。その辺りは奇想天外では決してなく、おそらくは2028ロス五輪では現実のものとなるのではないかと期待できる技術だと思う。
巨大で複雑なオリンピックのしくみや裏側はもちろんのこと、最新のテクノロジーに至るまで鷹匠は丁寧に取材を重ねたに違いない。結果として地に足の着いた夢物語を結実させた。渾身の一冊であるといえよう。
2024年12月4日水曜日
将基面貴巳『従順さのどこがいけないのか』
大田黒公園は音楽評論家大田黒元雄の住まいを整備して公園にしたものだ。近くには角川庭園(角川書店を創立した角川源義の自邸)やまもなく公開される荻外荘(近衛文麿邸)もある。杉並の、ちょっとした文教地区である。とりわけ大田黒公園はこの時期、紅葉をライトアップする。寒くなるなか、来訪者も多い。園内にある池に映る紅葉が素晴らしい。
杉並区今川の観泉寺にも行ってみた。観泉寺は曹洞宗の寺である。区の広報誌に紹介されていたこともあり、訪れている人も少なくない。銀杏の黄色が鮮やかだった。
それでも東京の紅葉は力強さに欠けるように思う。ひ弱な感じがしてならない。そもそも紅葉は12月じゃないだろうし。これも地球温暖化のひとつかもしれない。東京という地理的条件もあるだろう。どうも目に鮮やかな紅葉とは必ずしも言いがたいところがある。贅沢といえば贅沢なのかもしれないが。
将基面貴巳(しょうぎめんたかしと読むらしい)の『従順さのどこがいけないのか』を読む。ちくまプリマー新書には中高生向けに編まれた教養体系という色合いを感じる。とはいえ、若年層向けだからといって軽く見てはいけない。以前読んだ菅野仁著『友だち幻想』などはこの新書のなかでも屈指の名著であると記憶している。本書もそれとに勝るとも劣らない一冊である。
何も考えを持たずに従順であること、服従することに対して著者は警鐘を鳴らす。歴史から、哲学から具体的な引用をする。文学や映画作品もそこに含まれる。読書経験も映画経験も乏しい僕ではあるが、読んだこともない見たこともない事例の数々に興味がそそられる。著者のこだわりなのか、編集者のリードがそうさせるのかはわからないけれど、巧みに青少年を世の中に導いていく。
少子化だとか人口減少が取り沙汰される今の社会であるが、こういった本が上梓されることに少しだけほっとしている。
2024年11月30日土曜日
大岡昇平『レイテ戦記』
毎年8月になると戦争に関する本を読もうと思う。必ずしも毎年読んでいるわけではないけれど。今年は思い立って『レイテ戦記』を読むことにした。
大叔父はルソン島で戦死している。そういうこともあって、フィリピンの戦闘に関しては興味があった。大岡の作品では『俘虜記』『野火』を読んでいたこともあって、いつかは読んでみたい作品だった。ところがなかなか読みすすめることができない。小説というより、文字通り戦記なのである。
大岡は膨大な資料を読み解き、時間軸に沿って、また場所ごとに日本軍と米軍の動きを整理した。自身もフィリピンに赴いていた。ミンドロ島で生死の境をさまよい、俘虜となった経験もある。その戦いを明らかにしたい気持ちも強かったに違いない。そこに著者の感情や情緒的な描写はほとんどない。あたかも従軍記者のような淡々とした記述に終止している。
そのことが読みすすめ難かった理由のすべてではない。地図と照合しながら米軍、友軍の動きを追わなければならない。地名もはじめのうちはなかなか覚えられなかった。そもそもが二〜三週間で読み終えられる作品ではなかったということだ。難儀したけれど、むしろこういう本を遺してくれたことを著者に感謝したいくらいだ。
レイテ島では1944年12月に主だった戦闘はなくなり、以後はセブ島への転進作戦に移行する。脱出できたのはごくわずかだった。
アメリカ軍はその後ルソン島に上陸、45年3月にはマニラを奪還。日本軍は山岳地帯のバギオに転進し、反撃を試みる。そしてバレテ峠などで武器弾薬はもちろん食糧の乏しいなか抵抗するが、6月にはほぼ鎮圧される。大叔父の戸籍には「昭和二十年六月三十日ルソン島アリタオ東方十粁ビノンにて戦死」とのみ記されている。斬り込みで殺されたのか、自決したのか、ゲリラに襲われたのか、あるいは病に倒れたのか、餓死したのか。本当のことは何もわからないままである。
大岡は膨大な資料を読み解き、時間軸に沿って、また場所ごとに日本軍と米軍の動きを整理した。自身もフィリピンに赴いていた。ミンドロ島で生死の境をさまよい、俘虜となった経験もある。その戦いを明らかにしたい気持ちも強かったに違いない。そこに著者の感情や情緒的な描写はほとんどない。あたかも従軍記者のような淡々とした記述に終止している。
そのことが読みすすめ難かった理由のすべてではない。地図と照合しながら米軍、友軍の動きを追わなければならない。地名もはじめのうちはなかなか覚えられなかった。そもそもが二〜三週間で読み終えられる作品ではなかったということだ。難儀したけれど、むしろこういう本を遺してくれたことを著者に感謝したいくらいだ。
レイテ島では1944年12月に主だった戦闘はなくなり、以後はセブ島への転進作戦に移行する。脱出できたのはごくわずかだった。
アメリカ軍はその後ルソン島に上陸、45年3月にはマニラを奪還。日本軍は山岳地帯のバギオに転進し、反撃を試みる。そしてバレテ峠などで武器弾薬はもちろん食糧の乏しいなか抵抗するが、6月にはほぼ鎮圧される。大叔父の戸籍には「昭和二十年六月三十日ルソン島アリタオ東方十粁ビノンにて戦死」とのみ記されている。斬り込みで殺されたのか、自決したのか、ゲリラに襲われたのか、あるいは病に倒れたのか、餓死したのか。本当のことは何もわからないままである。
2024年11月26日火曜日
スティーヴン・キング、ピーター・ストラウブ『タリスマン』
今月、定年退職を迎えた。退職に伴う諸々の手続きを済ませ、会社に残してきた荷物を整理した。映像制作を生業としてきた関係でキャビネットのなかは絵コンテなど紙資料とビデオテープがほとんどである。かつてフィルムの時代もあった。作品集と称する十六ミリのリールも持っていた時代もある。どの制作会社にも映写機があった。
映像制作の現場にPCが導入され、普及していったのは1980年代の終わり頃だったと思う。15秒の映像をデータにして電話回線で送るなんて(理論的には可能だったろうが)現実的ではなかった。それだけの容量を格納できる記憶媒体もしかり。
今、プレビューのためのメディアはビデオテープではなくなった。ハードディスクなどの記憶媒体が使われる。データはネットワークで流通する。紙資料にしても同様。デジタルの時代、すべてはデータ化され、カタチもなければ重さもない。
会社に置いてあったテープ類、紙類は処分してもらうことにした。テープの中身はすべてではないが、以前データ化してもらっている。紙資料もあらかたPDF化している。持ち帰るものは何もない。もちろん持ち帰ったところで再生する術もない(そしてもう一度見でみようとはおそらく思うまい)。
ふりかえって見ると僕は人生の大半をカタチも重さも手ざわりも、当然のことながらにおいもないものをつくるために費やされてきたのだ、結果的に。そう思うと少し寂しい。
スティーブン・キングをよく読んだ時期があった。『スタンド・バイ・ミー』『キャリー』『シャイニング』『クリスティーン』など。1990年代半ばくらいだったろうか。そのなかでもお気に入りがこの本だった。
リアルな世界とダークな世界を行き来しながら旅をする少年の物語である。この本はピーター・ストラウブとの共著(マッキントッシュのデータをやりとりしていたと聞いている)であるが、キングの作品をもう一度読むなら断然この作品だ。
映像制作の現場にPCが導入され、普及していったのは1980年代の終わり頃だったと思う。15秒の映像をデータにして電話回線で送るなんて(理論的には可能だったろうが)現実的ではなかった。それだけの容量を格納できる記憶媒体もしかり。
今、プレビューのためのメディアはビデオテープではなくなった。ハードディスクなどの記憶媒体が使われる。データはネットワークで流通する。紙資料にしても同様。デジタルの時代、すべてはデータ化され、カタチもなければ重さもない。
会社に置いてあったテープ類、紙類は処分してもらうことにした。テープの中身はすべてではないが、以前データ化してもらっている。紙資料もあらかたPDF化している。持ち帰るものは何もない。もちろん持ち帰ったところで再生する術もない(そしてもう一度見でみようとはおそらく思うまい)。
ふりかえって見ると僕は人生の大半をカタチも重さも手ざわりも、当然のことながらにおいもないものをつくるために費やされてきたのだ、結果的に。そう思うと少し寂しい。
スティーブン・キングをよく読んだ時期があった。『スタンド・バイ・ミー』『キャリー』『シャイニング』『クリスティーン』など。1990年代半ばくらいだったろうか。そのなかでもお気に入りがこの本だった。
リアルな世界とダークな世界を行き来しながら旅をする少年の物語である。この本はピーター・ストラウブとの共著(マッキントッシュのデータをやりとりしていたと聞いている)であるが、キングの作品をもう一度読むなら断然この作品だ。
2024年11月19日火曜日
森村誠一『人間の証明』
子どもの頃はよく映画を観た。月島のおばちゃん(母の叔母)に連れていってもらった築地の松竹でガメラを観たし、大井町にも映画館がいくつかあった。映画は僕らの世代でも身近な娯楽だった。
中学生、高校生になって映画は観なくなった。この時期は本も読まなくなったし、当時何をしていたか思い出せないけれど、娯楽のない毎日を過ごしていた。
高校時代、唯一観てみたいなと思った映画がある。「人間の証明」である。テレビコマーシャルで大々的に宣伝され、話題作となった。テーマ曲もヒットした。いわゆる角川映画の嚆矢ともいえる作品である。そんな宣伝文句に惹かれて久しぶりに映画を観に行こうと思ったのだ。監督は佐藤純彌、脚本は松山善三。もちろん彼らがすごいスタッフだと知ったのはずっと後のことだけれど、これまでにないスケールの大きな映画という印象を受けた。
映画が公開されたのがたしか1977年。大学受験を控えた高校3年生だった。原作はそれより前に出たのではないか。僕は角川文庫で読んだ。まず本で読むというのは昔からの悪い癖で野球の本や剣道の本、卓球の本など新しいスポーツに興味を持つとまず指南書のような書物に頼ってしまうのである。こういう頭でっかちはたいてい上達なんぞしない。
そういえば作者の森村誠一は昨年亡くなった。没後一年ということで縁のある町田市の市民文学館で森村誠一展が開催されているというニュースが流れていた。行ってみたい気もするが、『人間の証明』しか読んだことのない薄い読者としては敷居が高い。むしろ三鷹市に今年できた吉村昭書斎に行ってみたい。こっちはそれほど敷居が高くない。
『人間の証明』を読んだ記憶はあるが、中身はさほど憶えていない。映画も結局ロードショーで観ることはなく、ずっと後になってテレビで観た。そこでああ、こんなお話だったんだっけと思い出したのである。
母さん、僕のあの記憶どうしたでせうね?
中学生、高校生になって映画は観なくなった。この時期は本も読まなくなったし、当時何をしていたか思い出せないけれど、娯楽のない毎日を過ごしていた。
高校時代、唯一観てみたいなと思った映画がある。「人間の証明」である。テレビコマーシャルで大々的に宣伝され、話題作となった。テーマ曲もヒットした。いわゆる角川映画の嚆矢ともいえる作品である。そんな宣伝文句に惹かれて久しぶりに映画を観に行こうと思ったのだ。監督は佐藤純彌、脚本は松山善三。もちろん彼らがすごいスタッフだと知ったのはずっと後のことだけれど、これまでにないスケールの大きな映画という印象を受けた。
映画が公開されたのがたしか1977年。大学受験を控えた高校3年生だった。原作はそれより前に出たのではないか。僕は角川文庫で読んだ。まず本で読むというのは昔からの悪い癖で野球の本や剣道の本、卓球の本など新しいスポーツに興味を持つとまず指南書のような書物に頼ってしまうのである。こういう頭でっかちはたいてい上達なんぞしない。
そういえば作者の森村誠一は昨年亡くなった。没後一年ということで縁のある町田市の市民文学館で森村誠一展が開催されているというニュースが流れていた。行ってみたい気もするが、『人間の証明』しか読んだことのない薄い読者としては敷居が高い。むしろ三鷹市に今年できた吉村昭書斎に行ってみたい。こっちはそれほど敷居が高くない。
『人間の証明』を読んだ記憶はあるが、中身はさほど憶えていない。映画も結局ロードショーで観ることはなく、ずっと後になってテレビで観た。そこでああ、こんなお話だったんだっけと思い出したのである。
母さん、僕のあの記憶どうしたでせうね?
2024年10月30日水曜日
家永三郎『太平洋戦争』
暑い10月だった。
それももう終わろうとする頃になって、ようやく気温が下がってきた。それでも南の海上では台風が発生し、少しずつ日本列島に向かっている。
先日総選挙が行われた。大方の予想通り、与党の大敗。過半数を割った。裏金問題を収支報告書不記載問題と言い換えたりしてるんだから勝てるはずもない。自民党ではペナルティとして非公認や比例代表との重複を認めないなどしていた。裏金をつくった議員が多く落選していた。非公認ながら当選した人もいる。どうなんだろう。起訴されなかったとはいえ、政治生命は終わっているはず。おそらく今後政治家を続けたとしても大きな汚点を残した議員たちは要職には付けないだろう。大方の民意が拒否したのに当選させた地元っていうのもなんだか恥ずかしい気がする。
家永三郎の名は高校生のときから知っていた。当時教科書裁判所という訴訟が争われていたからだ。しかも氏は高校の大先輩にあたる人でだった。
教科書裁判について詳しいことは知らないが、1962年の教科書検定で家永らが執筆した日本史の教科書が不合格となったことが発端であるらしい。たしか戦争の記述に関することだったと聞いたことがある。
大学2年の夏休みだったか、書店でこの本を見つけた。日本史は好きな科目ではあったが、近現代史は不勉強なこともあり、手に取ってみたのである。へえ、そういうことだったのかとただただ感心しながら読んだ記憶がある。この本が上梓されたのは1968年。戦争が終わって23年後にはこのような考察がなされていたのである。その後史料も増え、より精度の高い著作も生まれたかもしれないが、僕にはじゅうぶん過ぎる内容だった。
大学生になって少しは専門的な本を読むようになった。おそらくこの本が最初だったと思う。読み終わったとき、俺は家永三郎の『太平洋戦争』を読んだぞ、という自信が沸いたことを今でもしっかり憶えている。本の中身はさておいて。
それももう終わろうとする頃になって、ようやく気温が下がってきた。それでも南の海上では台風が発生し、少しずつ日本列島に向かっている。
先日総選挙が行われた。大方の予想通り、与党の大敗。過半数を割った。裏金問題を収支報告書不記載問題と言い換えたりしてるんだから勝てるはずもない。自民党ではペナルティとして非公認や比例代表との重複を認めないなどしていた。裏金をつくった議員が多く落選していた。非公認ながら当選した人もいる。どうなんだろう。起訴されなかったとはいえ、政治生命は終わっているはず。おそらく今後政治家を続けたとしても大きな汚点を残した議員たちは要職には付けないだろう。大方の民意が拒否したのに当選させた地元っていうのもなんだか恥ずかしい気がする。
家永三郎の名は高校生のときから知っていた。当時教科書裁判所という訴訟が争われていたからだ。しかも氏は高校の大先輩にあたる人でだった。
教科書裁判について詳しいことは知らないが、1962年の教科書検定で家永らが執筆した日本史の教科書が不合格となったことが発端であるらしい。たしか戦争の記述に関することだったと聞いたことがある。
大学2年の夏休みだったか、書店でこの本を見つけた。日本史は好きな科目ではあったが、近現代史は不勉強なこともあり、手に取ってみたのである。へえ、そういうことだったのかとただただ感心しながら読んだ記憶がある。この本が上梓されたのは1968年。戦争が終わって23年後にはこのような考察がなされていたのである。その後史料も増え、より精度の高い著作も生まれたかもしれないが、僕にはじゅうぶん過ぎる内容だった。
大学生になって少しは専門的な本を読むようになった。おそらくこの本が最初だったと思う。読み終わったとき、俺は家永三郎の『太平洋戦争』を読んだぞ、という自信が沸いたことを今でもしっかり憶えている。本の中身はさておいて。
2024年10月27日日曜日
梶井基次郎『檸檬』
昔(少なくとも僕の10代から20代前半の頃)と比べると都内にも新しい駅がつくられ、新しい駅名が付けられている。浮間舟渡のようなふたつの地名が合成された駅名もあれば、天王洲アイルという意味不明な駅名もある。天王州でよかったんじゃないか?アイルを付けることで企業誘致にひと役買ったのだろうか。
東京メトロ東西線の九段下駅は東西線が高田馬場から延伸した1964(昭和39)年に開業している。これだって九段でよかったんじゃないかと思う。どうしてわざわざ「下」を付けたのだろう。
九段下駅は靖国通りを横切って南北に走る目白通りに沿ってある。日本橋川とほぼ平行している。昔は日本橋川を東に渡れば、神田区だった。九段下は麹町区にありながら、その縁に沿っており、だから九段ではなく九段下が相応しいと考えられたのかもしれない。だったら神楽坂駅は神楽坂上じゃないのか?
九段下駅を降りて、靖国通りを西進すると右に靖国神社、左に北の丸公園がある。通勤通学で利用する人以外はおそらくこのどちらかに向かう可能性が高い。公園内にある日本武道館でコンサートなどイベントがあると田安門の辺りにまるで桜が満開を迎えたみたいに大勢の人でごった返す。このようなたまにしかこの駅を訪れることがない人に駅を降りたら坂道がありますよ、平坦な道ではないですよと乗客にわかりやすく暗示するための「下」なのかもしれない。
坂の上には僕が通った高校がある。大して思い出はないのだが、夏休みか何かの課題で梶井基次郎の『檸檬』を読んで感想を書けという。あまり読書する習慣のなかった僕には辛い課題だった。多分、表題作の「檸檬」と他のいくつかの短編を読んでお茶を濁したような気がする。梶井基次郎のファンだという同級生がいて、どんな話なのかと訊いてみたが、そいつの話もよくわからなかった。
ときどき九段下駅で降りて、あの坂道を登ると昔のことを思い出す。
東京メトロ東西線の九段下駅は東西線が高田馬場から延伸した1964(昭和39)年に開業している。これだって九段でよかったんじゃないかと思う。どうしてわざわざ「下」を付けたのだろう。
九段下駅は靖国通りを横切って南北に走る目白通りに沿ってある。日本橋川とほぼ平行している。昔は日本橋川を東に渡れば、神田区だった。九段下は麹町区にありながら、その縁に沿っており、だから九段ではなく九段下が相応しいと考えられたのかもしれない。だったら神楽坂駅は神楽坂上じゃないのか?
九段下駅を降りて、靖国通りを西進すると右に靖国神社、左に北の丸公園がある。通勤通学で利用する人以外はおそらくこのどちらかに向かう可能性が高い。公園内にある日本武道館でコンサートなどイベントがあると田安門の辺りにまるで桜が満開を迎えたみたいに大勢の人でごった返す。このようなたまにしかこの駅を訪れることがない人に駅を降りたら坂道がありますよ、平坦な道ではないですよと乗客にわかりやすく暗示するための「下」なのかもしれない。
坂の上には僕が通った高校がある。大して思い出はないのだが、夏休みか何かの課題で梶井基次郎の『檸檬』を読んで感想を書けという。あまり読書する習慣のなかった僕には辛い課題だった。多分、表題作の「檸檬」と他のいくつかの短編を読んでお茶を濁したような気がする。梶井基次郎のファンだという同級生がいて、どんな話なのかと訊いてみたが、そいつの話もよくわからなかった。
ときどき九段下駅で降りて、あの坂道を登ると昔のことを思い出す。
2024年10月20日日曜日
井上靖『楊貴妃伝』
日曜日が祝日だと月曜が振替休日になる。よって、土日月と三連休になることが多い。9月に二度あり、10月に一度あった。11月にもある。
今月の三連休は用事があって軽井沢に出かけた。連休ということで人が多く、店も道路も混んでいた。
用事を済ませ、新幹線の自由席に乗ったが、空席がない。嫌になっちゃったので高崎で降りることにした。降りたところで行く当てもない。とりあえず改札を抜けると上信電鉄乗り場という案内が出ている。高崎から下仁田までの単線の私鉄である。途中上州富岡駅から徒歩で富岡製糸場に行けると案内に書かれている。単線のローカル鉄道はのどかでいい。コインロッカーに荷物を預け、一日乗り放題切符を買って、次に発車する電車を待つ。
調べてみると木造駅舎の駅があるようだ。上州一ノ宮駅と上州福島駅。このふた駅で下車し、写真を撮るなどして過ごす。というかそれ以外にすることもない。
上信電鉄の「信」は信州のことだが、この路線は長野県に通じていない。終点の下仁田から峠を越えて、今のJR小海線の駅につなぐ計画があり、社名を上野(こうずけ)鉄道から上信電気鉄道に変更したそうだ。
中学高校時代はほとんど本を読まなかった。夏休みの宿題で読まされることはあったが。ただ記憶しているのは井上靖の本を何冊か読んだことだ。おそらく中学のと『しろばんば』『夏草冬濤』を読んでいて著者に親しみを持っていたのだろう。中国の歴史にも多少興味があった。この本を読む前後に『天平の甍』『蒼き狼』あたりを読んでいたのかもしれない。いずれまた読みかえしてみたい。
高校時代は現代国語も古文もさっぱりだったが、漢文だけは好きだった。『楊貴妃伝』のおかげかもしれない。
新幹線がまだなかった頃、高崎から軽井沢へは横川経由だった。今では新幹線であっという間だ。下仁田から峠を越えて佐久、小諸に向かうルートで軽井沢に行けたらさぞ楽しい旅になったろうと思う。
今月の三連休は用事があって軽井沢に出かけた。連休ということで人が多く、店も道路も混んでいた。
用事を済ませ、新幹線の自由席に乗ったが、空席がない。嫌になっちゃったので高崎で降りることにした。降りたところで行く当てもない。とりあえず改札を抜けると上信電鉄乗り場という案内が出ている。高崎から下仁田までの単線の私鉄である。途中上州富岡駅から徒歩で富岡製糸場に行けると案内に書かれている。単線のローカル鉄道はのどかでいい。コインロッカーに荷物を預け、一日乗り放題切符を買って、次に発車する電車を待つ。
調べてみると木造駅舎の駅があるようだ。上州一ノ宮駅と上州福島駅。このふた駅で下車し、写真を撮るなどして過ごす。というかそれ以外にすることもない。
上信電鉄の「信」は信州のことだが、この路線は長野県に通じていない。終点の下仁田から峠を越えて、今のJR小海線の駅につなぐ計画があり、社名を上野(こうずけ)鉄道から上信電気鉄道に変更したそうだ。
中学高校時代はほとんど本を読まなかった。夏休みの宿題で読まされることはあったが。ただ記憶しているのは井上靖の本を何冊か読んだことだ。おそらく中学のと『しろばんば』『夏草冬濤』を読んでいて著者に親しみを持っていたのだろう。中国の歴史にも多少興味があった。この本を読む前後に『天平の甍』『蒼き狼』あたりを読んでいたのかもしれない。いずれまた読みかえしてみたい。
高校時代は現代国語も古文もさっぱりだったが、漢文だけは好きだった。『楊貴妃伝』のおかげかもしれない。
新幹線がまだなかった頃、高崎から軽井沢へは横川経由だった。今では新幹線であっという間だ。下仁田から峠を越えて佐久、小諸に向かうルートで軽井沢に行けたらさぞ楽しい旅になったろうと思う。
2024年9月20日金曜日
クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
9月も半ばを過ぎたというのに猛暑が続いている。さすがに朝晩は凌ぎやすくなったというものの湿度は高く、涼しさも生温い。暑さ寒さも彼岸までと昔の人は言ったものだが、もう少し夏が続きそうである。
近年の傾向として、春から急激に真夏になり、夏から短い秋を経て冬が訪れる。陽気のいい春と秋が極端に短く感じられる。日本という国家の将来も心配だが、日本の気候も同様に悩みの種である。
1980年頃から構造主義という学術思想のジャンルを耳にするようになる。僕がわからないなりに構造主義に関心を持ったのは82年に『野生の思考』を読んでからだ。どうしてその本を手にとったのか、当時のことはまったく憶えていない。テレビかラジオでその存在を知ったのだろうか。
それまで学んだことは西洋の思想であり、文学であり、科学であった。あくまで西洋文明が前提となっていた。非西洋であるアジア、アフリカ、南アメリカ、オセアニアに文明があるとは信じられていなかった。そうではない、非西洋にも西洋と同じものの考え方や風習、制度があるということを示してくれたのが構造主義だった(と、おそらくその程度の理解しか持っていなのだが)。
今の世の中は弱者に手厚い。女性や子ども、障がい者たち、近年では性的少数者にも光を当てている。こうした一面的なものの見方を克服してきた背景には構造主義的な考えがあるのではないだろうかとひとり勝手に思っている。
『野生の思考』以後、構造主義入門であるとか構造主義とは何かといったタイトルの本を何冊か読んでみた。深い理解は得られなかった。そんな流れでクロード・レヴィ=ストロースのもうひとつの大作『悲しき熱帯』に出会った。
これは文化人類学や構造主義の専門的な本ではなく、著者がブラジルを旅した紀行文である。気楽に読めて、未開文明に対する興味が自然に湧いてくる。レヴィ=ストロースの懐の深さが感じられる一冊である。
近年の傾向として、春から急激に真夏になり、夏から短い秋を経て冬が訪れる。陽気のいい春と秋が極端に短く感じられる。日本という国家の将来も心配だが、日本の気候も同様に悩みの種である。
1980年頃から構造主義という学術思想のジャンルを耳にするようになる。僕がわからないなりに構造主義に関心を持ったのは82年に『野生の思考』を読んでからだ。どうしてその本を手にとったのか、当時のことはまったく憶えていない。テレビかラジオでその存在を知ったのだろうか。
それまで学んだことは西洋の思想であり、文学であり、科学であった。あくまで西洋文明が前提となっていた。非西洋であるアジア、アフリカ、南アメリカ、オセアニアに文明があるとは信じられていなかった。そうではない、非西洋にも西洋と同じものの考え方や風習、制度があるということを示してくれたのが構造主義だった(と、おそらくその程度の理解しか持っていなのだが)。
今の世の中は弱者に手厚い。女性や子ども、障がい者たち、近年では性的少数者にも光を当てている。こうした一面的なものの見方を克服してきた背景には構造主義的な考えがあるのではないだろうかとひとり勝手に思っている。
『野生の思考』以後、構造主義入門であるとか構造主義とは何かといったタイトルの本を何冊か読んでみた。深い理解は得られなかった。そんな流れでクロード・レヴィ=ストロースのもうひとつの大作『悲しき熱帯』に出会った。
これは文化人類学や構造主義の専門的な本ではなく、著者がブラジルを旅した紀行文である。気楽に読めて、未開文明に対する興味が自然に湧いてくる。レヴィ=ストロースの懐の深さが感じられる一冊である。
2024年9月10日火曜日
江國香織『読んでばっか』
たしか6月だったと思う。昼間聴いていたラジオ番組のゲストが江國香織で新作の自著を紹介していた。読書論あるいは読書日記的な本なのだろうと思い、興味を持った。区の図書館で予約する。
江國香織は30年ほど前によく読んだ作家のひとりだ。当時は川上弘美や角田光代の作品も好んで読んでいた。江國の綴る文章の美しさにはとりわけ魅せられたものだ。
8月の半ばを過ぎて、ようやく貸出の用意ができましたとメールをもらう。2ヶ月待った。やはり話題の本なのだ。
ところがどうだろう。目次を追っても、所々目を通してもあまり楽しくない。僕が読んだ本が少ないのである。読んだことのない本の感想などあまり読みたくはない。もちろん読みたく思わないのはこちらの都合で著者の圧倒的な読書の量と質についていけないのである。そうこうするうちに返却期日が近づいてきた。佐野洋子のところだけ読んで、返しにいった。
手にした本を必ず読んでいるわけではない。買ってはみたものの読まなかった(読めなかった?)本はいくらでもある。代表的なのはマーシャル・マクルーハンの『メディア論』だ。たぶん公私ともに忙しかった30代の頃だろう。広告に携わる者としてマクルーハンくらい読まなくちゃみたいな風潮が当時あった。あったかどうかはわからないが、自分自身のなかにそんな風潮があった。あったというより勝手につくっていた。読みはじめて数十頁で読めなくなる。しばらくそのまま放置する。1~2年経ってもういちど最初から読んでみる。やはり数十頁で読めなくなる。放置する。こんなこと何回か繰り返していた(何回かも覚えていない)。この本はたぶん書棚のどこかに眠っているはずだ。そろそろ最後のトライをしてみてもいいかも。
そもそもこのブログは本を読んで感じたこと考えたことを今の生活や思い出などと照らし合わせて好き勝手に綴っている。読まなかった本について何かを書くのははじめてのことだ。
江國香織は30年ほど前によく読んだ作家のひとりだ。当時は川上弘美や角田光代の作品も好んで読んでいた。江國の綴る文章の美しさにはとりわけ魅せられたものだ。
8月の半ばを過ぎて、ようやく貸出の用意ができましたとメールをもらう。2ヶ月待った。やはり話題の本なのだ。
ところがどうだろう。目次を追っても、所々目を通してもあまり楽しくない。僕が読んだ本が少ないのである。読んだことのない本の感想などあまり読みたくはない。もちろん読みたく思わないのはこちらの都合で著者の圧倒的な読書の量と質についていけないのである。そうこうするうちに返却期日が近づいてきた。佐野洋子のところだけ読んで、返しにいった。
手にした本を必ず読んでいるわけではない。買ってはみたものの読まなかった(読めなかった?)本はいくらでもある。代表的なのはマーシャル・マクルーハンの『メディア論』だ。たぶん公私ともに忙しかった30代の頃だろう。広告に携わる者としてマクルーハンくらい読まなくちゃみたいな風潮が当時あった。あったかどうかはわからないが、自分自身のなかにそんな風潮があった。あったというより勝手につくっていた。読みはじめて数十頁で読めなくなる。しばらくそのまま放置する。1~2年経ってもういちど最初から読んでみる。やはり数十頁で読めなくなる。放置する。こんなこと何回か繰り返していた(何回かも覚えていない)。この本はたぶん書棚のどこかに眠っているはずだ。そろそろ最後のトライをしてみてもいいかも。
そもそもこのブログは本を読んで感じたこと考えたことを今の生活や思い出などと照らし合わせて好き勝手に綴っている。読まなかった本について何かを書くのははじめてのことだ。
登録:
投稿 (Atom)