2025年4月17日木曜日

嵐山光三郎『爺の流儀』

 嵐山光三郎さんと二度お目にかかっている。厳密に言えば、二度本人をお見かけしたということだ。

最初は1985(昭和60)年、信濃町の千日谷会堂で。建築の仕事をしていた伯父が亡くなり、葬儀が行われた。嵐山さんはその会葬者のひとりで、白の着物に白の袴という出で立ちで颯爽と献花し、合掌して去っていった。嵐山さんは伯父の弟(僕の叔父)の元同僚で親友でもあったらしい。それで葬儀に駆けつけてくれたのだろう。
二度目はそれからしばらく経って、銀座で嵐山光三郎・安西水丸二人展があり、僕はたまたまオープニングパーティーの場にいた。どこのギャラリーだったかは憶えていない。嵐山さんは文筆家であったが、原稿用紙に自身の顔を描くなどよくしていた。そんな原稿用紙に描いた絵と安西水丸のイラストレーションが何点かずつ掲示されていた。パーティーはマスコミ関係者をはじめ大勢のお客さんがいた。嵐山さんは毎週日曜日の「笑っていいとも増刊号」というテレビ番組に編集者という立場で出演していた。ちょっとしたタレントだった。
パーティー会場に大きな寿司桶が運ばれる。十か二十か、それよりもっと多かったかもしれない。寿司を運び込んだ出前の人といっしょにやってきたスーツ姿の男に声をかけられた。「おまえ、レイコの息子だろう。俺はおまえのおふくろのいとこなんだ」と。レイコというのは母の名でたしかに銀座や築地、月島で寿司屋をやっているいとこがいると聞いたことがあった。「こんなところで食う出前の寿司なんかうまくない。俺の店に来い」と母のいとこTさんに告げられ、ふたりで銀座の店の入り、カウンターに座った。銀座の寿司屋の暖簾を潜るのははじめてのことだった。
嵐山さんの本は久しぶりである。両親の死を経験し、自らも80歳を超え、死についてきちんと向き合えるようになったのだろう。死は恐怖であるとともに最後の愉しみでもあるという。妙に説得力があった。

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