2017年5月9日火曜日

城山三郎『落日燃ゆ』

五月の連休は南房総を訪れる。
墓参りというか草刈り、草むしりのためだ。海水温がまだ高くなく、風が乾いているせいか、この時期空も海も青い。ここは南房総市白浜町の東端の集落乙浜。西に隣接するのが千倉町白間津。白間津には母の実家の墓がある。
この時期なにかとニュースになるのが憲法改正論議。社会科学全般(というより学問全般)が苦手だ。日本国憲法をどうしたらいいかなんて訊かれてもまともな返答ができない。たしかに防災や国防の対応面で現在の憲法では足りないところがあるという見解を否定はしない。将来起こり得る事柄に対して準備できている方がいいに決まっている。現状欠落しているところがあれば修正するべきだろう。
戦前の憲法では統帥権を天皇大権と定めたことが後々の歴史に大きく影響を与えた。拡大解釈された統帥権が軍部の暴走を生んだ。それを止める手立てもなかった。
そんななか、武力衝突より外交でと戦争を避けるべく戦った宰相がいた。広田弘毅である。聡明な外交官であった広田は帝国憲法の弱点をおそれていた。粘り強い交渉を重ねることで諸外国との摩擦を避け、軍国主義に傾斜する流れを食い止めようとした。
結果は見るまでもなく歴史が明らかにするところである。
極東軍事裁判で広田は文官としてただひとり、絞首刑の判決を受ける。
あれほど平和外交を貫いた人物が何故に、と思うのが正直言った気持である。広田はこの(不当とも思える)裁判で沈黙を守り続けた。何かを証言することで自分以外の何者かに害が及ぶのを避けたという。
それは広田の生き方だったから、ここでどうこう言ってみても仕方のないことだが、彼が裁判の場でなにがしかの証言をしていたならば日本は今ここにある国とはちがっていたような気がする。日本人はただただ侵略に明け暮れていたのではなく、国益と平和のための外交手腕を持った民族であるという証を歴史に残せたのではないか。
今さら言っても仕方ないけど、そんな気がする。

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