2020年9月7日月曜日

大久保真紀『児童養護施設の子どもたち』

先月のことだが、鵠沼海岸まで出かける用事があった。
新宿経由で藤沢というと湘南新宿ラインか、東京駅まで出て東海道線(今は上野東京ラインというらしい)と思っていたら、時間帯によっては小田急線の方がはやく着くという。なかには片瀬江ノ島行という便もあって、乗り換えなしで目的地に着く。小田急線は箱根に行くときなど乗ったことはあったが、日常的に利用する機会はほとんどない。少し緊張しながら乗車する。
高校時代、合宿所がJR南武線の沿線にあった。当時は屋外のコートでバレーボールの練習をしていた。春休み中に合宿があった。連日天候に恵まれず、宿舎のなかで基礎体力づくりなどばかり行っていた。新学期を迎えると公式戦も近い。できることなら組織的な練習をしたい時期である。
横浜の大学に通う先輩が体育館を貸してくれる(厳密にいえば大学の先輩らと合同練習ということになる)ことになった。登戸で小田急線に乗り換えて、相模大野、大和。そこから相鉄線(=相模鉄道、おそらくこのときはじめて乗ったと思う)で和田町という駅で下り、あとはひたすら坂道を上った。
新宿発藤沢行の電車が相模大野駅駅に停車した。ふと、40年以上昔の記憶がよみがえった。一時間半ほどの行程だったが、ひどく長い道のりだった。横浜を経由した方がはやかったと思うのだが、路線検索などない時代にどうして小田急大和経由をとったのか、今となっては謎である。さらに不思議なことに行きは思い出せるのだが、どうやって合宿所に戻りついたか、まったく思い出せない。
何をもって当たり前と考えるか。裕福とは言えないが、ごく当たり前に生まれ育った自分の生い立ちからくらべてみれば、当たり前の環境に恵まれない子どもたちが多くいる。保護者がいて、人並みに甘えたり、叱られたりして育った子どもたちだけで社会は構成されていないということに気がつく。
世の中は映画やテレビドラマより深いと感じる。

0 件のコメント:

コメントを投稿