2023年3月27日月曜日

宮本常一『忘れられた日本人』

ものごころついた頃から、夏は南房総で過ごしたと何度となく書いている。
だいたい7月の終わりから8月の中頃まで、祖父母と姉と暮らす日々が続いた。お盆になると両親がやってくる。毎日のように浜へ行って泳ぐのであるが、お盆になると地元の子どもたちは海に入らなくなる。この頃、台風が発生しやすくなり、波が高くなる。年寄りたちはしょうろさま(おしょろさま)に連れて行かれるから浜へ行ってはいけないという。しょうろさまとはお盆で帰ってくる霊の乗りものである。海水浴を楽しむのはよそから来たものたちだけになる。
こうした言い伝えを聞いて育った子どもたちも高齢者の仲間入りをしていることだろう。口承は今でも続いているのだろうか。
記録を遺すということはたいせつなことである。記録を遺さなければならないから、改ざんが行われ、ねつ造がなされるのである。
歴史は、記述された資料に則り、時間軸を再構成した過去である。合理的に考えれば歴史のベースは文字ということである。もちろん文字が失われたから歴史が遺されないということでもない。文字とことばを奪われた南米の帝国や文化は構造物や生活習慣のかたちで今に遺っている。
口承は文字化されているわけではない。語り継がれて生き残った風習である。これらが成立するためには村などの地域が共同体として機能していることが大前提になる。宮本常一が各地で聞き取りを行い、記録に遺したのは昭和の時代。地域も家族もまだ空洞化していなかった。
果たして宮本が行ったようなフィールドワークは今でも可能なのだろうか。都市部では共助という発想が希薄になり、農村部は過疎化がすすんでいる。民間伝承の採集といった仕事はかなりやりにくくなっているのではないだろうか。
かつて日本画家東山魁夷は「古い建物のない町は思い出のない人間と一緒だ」と語ったという。思い出のない町から成る日本は思い出のない国になってしまうんじゃなかろうか。

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